ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● これぞプリマドンナオペラ ライブDVD : チェドリンスの『ノルマ』

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収録日時 2003年7月、8月
劇場   新国立劇場(東京)
キャスト
 ノルマ: フィオレンツァ・チェドリンス(ソプラノ)
 ポリオーネ: ヴィンチェンツォ・ラ・スコーラ(テノール)
 アダルジーザ: ニディア・パラシオス(メゾソプラノ)
 オロヴェーゾ: ジョルオ・スーリアン(バス)
指揮: ブルーノ・カンパネッラ
演奏: 東京フィルハーモニー交響楽団
合唱: 藤原歌劇団合唱部
演出: ウーゴ・デ・アナ
作曲: ヴィンチェンツォ・ベッリーニ

 エディタ・グルベローヴァの『ノルマ』を視聴して以来、ノルマにはまっている。
 youtube で過去・現在の偉大なソプラノたちの『ノルマ』の部分映像を視聴し、マリア・カラスの2つのスタジオ録音(1954年と1961年)とミラノ・スカラ座ライヴ(1955年)のCDを聴き返し、ブックオフで見つけたこのDVDを購入した。
 世界中の歌劇場を席巻したプリマドンナたちの歌や演技や風格の素晴らしさもさることながら、つくづく感じ入ったのは、作曲家ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801-1835)の天才である。
 34歳で亡くなったこのイタリアのオペラ作曲家の生み出した数々のメロディの美しさ、劇的効果抜群の作曲技法、聴く者の心をつかんで離さないあまりに人間的な感情表現の深み。
 齢34歳にして、生きることのすべてを、人間の抱く感情のすべてを知ったかのよう。
 モーツァルトやシューベルトにも言えることだが、年齢を重ね経験と努力を積み上げることの虚しさを、凡人の胸に叩きつけてやまない。
 
 主役のフィオレンツァ・チェドリンスはイタリア生まれの世界的ソプラノ。
 1989年デビューというから、現在60歳近いはずだ。
 2003年東京で収録されたこのライブは、2004年イタリアのアレーナ・ディ・ヴェローナで収録されたゼッフィレッリ演出の『蝶々夫人』と並んで、彼女の最盛期の声の記録と言うことができる。
 実際、ノルマが舞台に登場して放つ第一声 “Sedizio voci(扇動する声)”から始まって、ソプラノアリア随一の名曲『カスタ・ディーヴァ(清き女神)』が終わるまでのシーン、劇場全体が金縛りにあったように息を詰めているのがモニターを通して伝わってくる。
 その声は、ノルマの女王然とした威厳と感情の激しさを表現するに十分な力強さに満ち、月の女神の宣託を受ける巫女の侵しがたい気品と神秘を表現するにふさわしい豊麗な響きを湛え、失った愛や嫉妬に揺れ動く女性の内面を表現するに効果的なアジリタ(コロラトゥーラ)の技法も兼ね備えている。
 値千金の声。
 そのうえに、主役をやる以外は考えられない華やかな美貌と、観客を圧倒する眼力、舞台映えする堂々とした体格。
 演技もまた申し分ない。
 最初から最後まで持続するパワーと集中力は、パスタと牛肉とワインの力であろうか。
 これほどノルマを歌う条件を兼ね備えた、ミューズ(芸術の女神)に愛された歌手も珍しい。

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フィオレンツァ・チェドリンス

 声の質とルックスと体力だけから言えば、ノルマを歌うのに適しているのは、グルベローヴァよりチェドリンスであるのは間違いない。
 グルベローヴァの凄さは、もともと自分に適した役ではないノルマに果敢にチャレンジし、余人の追随を許さない圧倒的な歌唱テクニックと、極めて知的な楽譜の読みと、人生経験を投入した深い滋味ある演技によって、唯一無二のノルマ像を創造したところにある。
 芸術性という観点で、ソルティはグルベローヴァを推す。

 チェドリンスのディクション(発音法)の見事さも言い落してはならない。
 母国語だから上手なのは当然と言えば当然なのだが、イタリアオペラがイタリア語で歌われることの重要性を実に鮮やかに教えてくれる。
 ひとつひとつの単語が明瞭に聴きとれるのはもちろん、巻き舌「r」や破裂音の強調、あるいは適切なトロンカメント(語尾の省略)を行うことによって、場面場面にふさわしい感情を巧みに表現し、ドラマを盛り立てていく。
 その効果には燦然たるものがある。
 こればかりは、イタリア語を母国語としない歌手ではどう頑張っても太刀打ちできまい。
 とりわけ、巻き舌「r」の震動が、喜怒哀楽、不安、恐れ、戸惑いなど様々な感情を表現するやり方には、驚くほかない。
 巻き舌「r」を持たない日本人は、西洋の声楽において最初から不利が生じていると、つくづく思った。
 
 とにかく、チェドリンスの圧倒的存在感と実力にひれ伏すライブである。
 ほかの歌手陣も指揮も、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏も、藤原歌劇団の合唱も文句のつけようない出来栄えだが、すべてチェドリンスの陰に隠れてしまっている。
 まさに『ノルマ』がプリマドンナオペラの典型であることを証明してあまりない。
 日本でこれだけの舞台が実現したことを誇らしく思う。
 
 あえて難を言えば、ノルマやアダルジーザが属するガリア人(古代ケルト人)の兵士たちのいでたちがまるで中世ヨーロッパの騎士のようで、一瞬、ポリオーネが属するローマ人部隊なのかと思った。
 実際のガリア人がどんな格好をしていたのか知らないが、敵方のローマ人との差別化をはかったほうが良かった。 











● 映画:『MONDAYS このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』(竹林亮監督)

2022年日本
82分
脚本 夏生さえり、竹林亮

 日常タイムループSFコメディ――なんて、ジャンルあるのか?
 小さな広告代理店オフィスをほぼ唯一の舞台とする低予算まるわかりの映画だが、面白さはウン十億円かけた超大作におさおさ負けていない。
 どころか、「面白い映画ない?」と人に聞かれたときに、お薦めしてまず間違いなし、感謝必至の快作である。
 脚本、演出がいい。
 何十回と繰り返す同じ一週間のループから、どうにか抜け出そうともがく社員たちの奮闘をコミカルかつハートフルに描いている。
 この趣向は、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、『恋はデジャブ』、『ハッピー・デス・デイ』などでもお馴染みだが、やっぱり金字塔は原田知世主演『時をかける少女』(1983)だろう。(本作中、最初の2作について言及がある)

 本作のアイデアのきっかけはきっと、多くの人が月曜の朝につぶやく、「ああ、また同じ一週間の始まりか・・・」という呪いの言葉にあるのだろう。
 50歳になることを恐れる上司を演じるマキタスポーツがいい味出している。

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Fran SotoによるPixabayからの画像


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 本:『職業としてのAV女優』(中村淳彦著)

2012年幻冬舎新書

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 ゲイである自分にとってAV女優は意識の蚊帳の外の存在。
 その名を聞いたことがあるのは、小向美奈子と蒼井そらとANRI(坂口杏里)と小松千春くらい。
 島田陽子や飯島愛や元WINKの鈴木早智子をAV女優と言っていいのかどうか・・・・。
 むろん、ヘテロ男子向けのアダルトビデオを買ったこともなければ、AV業界のこともてんで知らない。

 自分のまったく知らない業界の裏事情を知るのは、社会勉強になるという点は別として、面白いものである。
 とりわけ、「3K」と言われる労働環境の厳しい仕事や、性風俗のような世間一般的にアンダーグラウンドとみなされている仕事に、ソルティの興味は向く。
 業界独特の慣習やシステム、専門用語に出会うと、人間のユニークな創造力に感心する。
 たとえば、ソルティが介護業界で働き始めて出会った言葉に、「アケ」「送り」「不穏」「脱健着患」「傾眠」「離被架」「DM」なんてものがあったが、職場の先輩同士が話しているのを横で聞いていてもまるで外国語みたいで、なんのことやらわからなかった。
 そのうち仕事を覚えて、こうした用語を自在に使えるようになって、一人前の介護士に、つまりは業界の人間になっていくのである。 

 当事者が語る業界内幕エッセイとしては、三五館シンシャ発行&フォレスト出版発売の『××日記シリーズ』が昨今売れていて、ソルティも愛読者の一人。
 だが、さすがにAV業界は扱わないのではないかと思う。
 それとも、『AV男優、本日もバコバコ日記』とか出すのだろうか?

 本書は、AV女優という仕事やAV業界について、多岐にわたって述べられている。
 AV女優の発掘方法、AV女優になった経緯や志望理由、労働条件、「単体」「企画単体」「企画」という3段階の格付けによる収入や扱いの違い、撮影現場の様子、プロダクションとクライエントとの関係、労使トラブルの実際、商品セールスや流通の背景、仕事上のさまざまなリスク、女優引退後の生活など。
 著者は1972年生まれのフリーライター。
 AV女優たちの衝撃的な生と性を記録した「名前のない女たち」シリーズが評判となった。
 具体的で説得力ある語りは、長期にわたって現場をよく見てきた人間だからこそ書ける特権。
 とりわけ興味深かったのは、性風俗の仕事に対する世間の意識の変化や、インターネットの普及、長引く不況による女性の貧困化がもたらした、AV女優という仕事の社会的価値の転換である。

 1990年代までAV女優という職業は、社会の底辺の一つとして認知されていた。女性の最後の手段を売るセーフティネットであった。人並みレベルのルックスとスタイルを持って覚悟を決めれば、どこかにある程度のお金になる仕事は転がっていて、さまざまな事情によってAV女優になる覚悟をした女性たちは、親や友人たちにバレることを恐れながら、カメラの前で脱ぎ、セックスをして収入を得ていた。

 これが90年代後半あたりから大きく変わったという。
 かつては街頭でのスカウト中心であったものがネットによる応募中心となり、業界不況と供給過多のため「人並みレベルのルックスやスタイル」ではもはや採用困難となり、一部の売れっ子を除けば得られる収入もどんどん減っていき、プロダクション登録していても仕事がもらえない女性が相当数いるという。
 また、親や恋人の了解のもと「あっけらかん」とAVの仕事をしている女性も増え、バレることを恐れるよりも、仕事が続けられなくなることを恐れている。
 さらには、かつては多重債務者や精神疾患のある女性、風俗を転々としている女性、繁華街で遊んでいる派手な女性などで占められていた業界が、有名大卒、一流企業OLはじめ高学歴化が進み、応募の動機も経済的なものだけでなく、「セックスが好きだから」「人生はじめてのアウトサイダー経験を楽しむため」など主体的なものが増えている。
 反社組織とつながりを持つ労働基準法無視の危険な業界というイメージが強いのだが、それは一昔前の話で、法令や警察の目が厳しくなった昨今では、労働環境も現場の安全度も格段に良くなったという。
 いまだに昭和の性風俗業界のイメージが刻印されているソルティの脳内データを、上書き・更新する必要を感じた。

 が、そうは言っても依然としてリスキーな仕事には変わりない。
 本書には、ハードSMの撮影で全治一か月以上の大けがを負った女優のインタビューや、出演女優にクスリを飲ませた上で肛門に危惧を挿入し内臓を破損させたスタッフらが逮捕された“バッキー事件”のあらましが載っている。
 より刺激的なものを求める購入者の要望に突き動かされて、密室の撮影現場において、女優本人の意志を無視した暴力行為が起こる可能性は、今後も否定できない。
 さらには、HIVなどの感染症のリスク、身バレしたときの人間関係の破綻、デジタルタトゥーによる仕事を辞めたあとの人生への影響、一般社会との感覚のずれなども無視できない。
 ソルティ思うに、もっとも困難なのは、性を売ることによって満たすことを覚えてしまった当人の承認欲求――私を認めてほしい、受け入れてほしい――を、仕事をやめた後、どう処理していくかではなかろうか。

 AV女優はスタッフやカメラの前であらゆる性行為をする仕事である。撮影現場では裸だけでなく結合部や陰部の状態まで丸見えとなる。私はAVの撮影現場を何百と見てきて慣れてしまったが、隠すべきものをすべて晒すその光景はいつの時代でも異様といえる。現在AV女優のほとんどは仕事を「刺激があって楽しい」と言う。その言葉に嘘はないが、そんな異様な刺激がなくては生きていけないカラダになってしまったら、その先の人生を普通に生きていくことができないかもしれない。個人的に、生涯AVや風俗に関わることがない人生の方が幸せであると思う。

 コロナ禍により雇用環境が悪化した折、ナインティナインの岡村が自ら反面教師の役を買って出て、「貧困女性の受け皿としての性風俗」の存在価値を世間に周知してくれた。
 まったくそのとおりで、女性たちがAVや風俗に関わらなくても十分生活していけるだけの雇用環境や育児環境がないってのが、一番の問題である。
 
 著者の中村は、高齢者デイサービスセンターを運営しているという。
 老後に行き場を失った元AV女優や元風俗嬢たちの安住の場を提供してくれるのだろうか。

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おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 芸劇の死角? : オーケストラハモン 第48回定期演奏会

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日時  2024年4月7日(日)14:00~
会場  東京芸術劇場 コンサートホール
曲目  G.マーラー: 交響曲第2番「復活」
指揮  冨平恭平
ソプラノ  中川郁文
メゾソプラノ  花房英里子
合唱  Chorus HA'MON

 このオケ、1997年発足ということだが、はじめて聴いた。
 これまでの48回の演奏会のうち12回はマーラーの交響曲を取り上げている。
 記念すべき第50回(2025年6月1日予定)では第8番『千人の交響曲』をやることが決まっており、それをもって、生前マーラーが完成させた1番から9番までの交響曲を制覇することになる。
 マーラーに思い入れのあるオケなのだ。

 冨平恭平の指揮は、昨年6月にル・スコアール管弦楽団共演によるマーラー第9番を聴いた。
 音の波動がこちらのチャクラを刺激し、陽炎のようにオーラが湧き上がり、脳内ルックス(lux)が上がった。
 感動の演奏だった証である。
 もっとも、第9番の感動は、チャイコの『悲愴』を聴いたあととドッコイドッコイの暗鬱をともなうので、帰り道にとんこつラーメンでも食べて口直ししなければ、庶民的日常に生還できない類いの感動なのであるが・・・・・。

 今回は、聴いたあとの歓喜が約束されている“テッパン”の第2番なので、休憩なしの90分という長丁場にもかかわらず、とくだん事前に構えることなく、帰りに寄るラーメン屋の目星をつける必要もなく、東京芸術劇場の巨大なホールに足を踏み入れた。
 席は3階席一番前列の、舞台向かって中央やや左寄り。
 舞台後方の高い位置に据えられたパイプオルガンと相対し、オケ全体がよく見える位置であった。
 客席の入りは6~7割くらいか。

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巨大なパイプオルガンがこのホールの目玉

 オケはとても上手で、息が合っており、創立27年の歴史と経験を感じさせた。 
 ル・スコアールの時と同様、オケの配置が通常と異なっていた。
 まるで鏡像みたいに左右入れ替わって、コントラバスとチューバが舞台向かって左に位置し、金管とハープが右に寄せられていた。
 冨平の好みというか、なんらかの考えによるものなのだろうか。
 
 音楽素人のソルティが言うのは口はばったいのだが、この配置は、音の一体感を高めるより、むしろそれぞれのパート(楽器)の特性を引き立たせる効果があるような気がする。
 音楽が一つの大きなうねりとなるのではなく、分散するように響くのだ。
 その結果、いつもなら聴き逃してしまうような、地味目な楽器のちょっとしたパッセージが目立つ。
 曲を聴きなれた耳ならそこに新鮮さを感じ、異なる色彩の音を微細にわたって変幻自在に編み込んで交響曲という一大織物を仕立て上げるマーラーの天才を再認識することだろう。
 ソルティも、「あっ、ここでこんな楽器がこんな介入の仕方をしていたんだ!」と、しばしば驚き、感嘆した。
 一方、音が分散して聴こえるというのは、統一体としての曲の生命が犠牲になるということである。
 あたかもドイツ製の美しいビスクドールの体内をのぞいて機械仕掛けのからくりを見たかのような感に襲われた。

 もっともこれは、オケの配置のためではなくて、ソルティが陣取った場所のせいなのかもしれない。
 芸劇の3階席はオケを聴くには遠すぎる。
 音の洪水に溺れて、音波に揉みほぐされたい人間には物足りない席であった。

 結局、曲に入り込むことができたのは、第4楽章の合唱から。
 「コーラスハモン」はこの演奏会のために結成されたそうだが、実によくまとまって、素晴らしいハーモニーだった。
 とくに男性陣の張りと奥行きのある声が、曲をまとめあげて、迫力と感動の大団円に導いた。
 第50回の『千人の合唱曲』にも参加することが決まっているらしい。
 今から楽しみだ。

P.S. 年間100回以上クラシック演奏会に行くという人のブログに、東京芸術劇場の「3階の前席はお薦めできない」とあった。
 やはり、そうだったのか・・・。
 次から気をつけよう。

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池袋駅東口の線路沿いの公園でひとやすみ

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● 映画:『歌え若人達』(木下惠介監督)

1963年松竹
86分、カラー

 神保町シアター開催中の『映画で辿る――山田太一と木下惠介』特集で鑑賞。
 山田太一の脚本を師匠である木下が映画化した。

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 同じ寮に暮らす4人の男子学生の日常を切り取った青春ドラマ。
 川津祐介、松川勉、三上真一郎、山本圭が扮する。
 これが映画デビューとなった松川勉が、ひょんなことからテレビドラマの主役にスカウトされる貧乏学生を演じている。
 まさに現実そのままの役だったのだ。
 そんな友人の幸運をねたむ男を、すでに松竹の人気スターだった川津が演じているのが面白い。
 山本圭は剽軽でマザコンっぽいメガネ学生に扮して、味がある。
 あまり注目したことがなかったが上手い役者である。
 兄・山本學、弟・山本亘ともに、田村兄弟同様、役者3兄弟だったのだな。

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左から、三上真一郎、川津祐介、松川勉、山本圭

 複数の青年が主役という点では同じ木下の『惜春鳥』と一対であるが、『惜春鳥』がどちらかと言えばシリアスで、隠微なホモセクシュアリティを匂わす暗喩的作品であったのにくらべると、『歌え若人達』は明るく滑稽味あふれ、後味もいい。
 両作に共通している主役は川津のみ。『惜春鳥』で主役だった津川雅彦は本作では特別出演している。
 この作風の違いはやはり、本作の脚本が山田太一によることが大きいのではないかと思う。
 木下の描く男達のウエットな関係が、ここではカラッとしている。
 (お約束の男同士のダンスシーンはあるが・・・)
 
 とにかく観ていてびっくりは、出演陣の豪華さ。
 「松竹〇周年記念作なのか!?」と思うほどの人気役者の投入ぶりに、客席で思わず声をあげた。
 倍賞千恵子、冨士眞奈美、岩下志麻、東山千栄子、京塚昌子、三島雅夫、益田喜頓、柳家金語楼、渥美清(寅さん)、山本豊三、津川雅彦、佐田啓二、岡田茉莉子、田村高廣・・・・・。
 とくに岩下志麻が出ているとは思わなかった。
 木下惠介作品の出演は、岩下のデビュー作となった『笛吹川』と『死闘の伝説』くらいと思っていた。
 22歳の志麻サマ、清楚で美しい!

 小津安二郎『東京物語』のおっとりした祖母のイメージが強い東山千栄子と、TVドラマ『肝っ玉かあさん』の割烹着のおふくろイメージが強い京塚昌子。
 両ベテラン女優の醸し出す滑稽味がたまらない。
 
 公開の63年と言えば、60年日米安保闘争の余韻がまだ残り学生運動盛んだった頃と思うが、本作に出てくる学生たちは概してノンポリである。
 大島渚『日本の夜と霧』(1960)に出てくる学生たちとは甚だしいギャップがある。
 そのぶん、昭和バブル時代の学生にも、平成・令和時代の学生にも、理解し通じ得るような普遍性がある。
 いつの時代も、若者は悩み、葛藤し、遊び、恋する生き物なのだ。 

 木下惠介作品の中では、トップレベルの楽しさと豪華さ。
 弟・木下忠司の音楽も冴えている。






おすすめ度 :★★★★

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● 本:『カー短編全集2 妖魔の森の家』(ディクスン・カー著)

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1947年原著刊行
1970年創元推理文庫(宇野利泰・訳)

 表題作含む5編から成る。
 ポオの短編を読むのははじめて。

妖魔の森の家
 扉ページの短い解説文で、「全作品を通じての白眉」、「ポオ以降の短編推理小説史上ベストテンに入る」と持ち上げられている。
 「どんだけのもんよ」
 さほど期待せずに読んだら、まったく驚かされた。
 トリックの奇抜さと叙述の巧みさとプロットの面白さが、見事に調合されている。
 ブラウン神父シリーズのいくつかの傑作に匹敵する怪奇性と仰天トリック。
 クリスティの『アクロイド殺し』を思わせるような、憎らしいほど卓抜な叙述。(もちろんフェアプレイである)
 長すぎず、短すぎず。
 人間消失のオカルトミステリーのつもりで読んでいたら、とんだスプラッタホラーに早変わり。
 中島河太郎による巻末の解説では、この短編を褒めちぎったエラリー・クイーンによる作品分析が紹介されている。
 同じ推理作家――それも読者に対するフェアプレイをとことん重視する本格推理の巨匠――の手によって露わにされた本作品の巧緻な構造、とくに読者の目の前に堂々と差し出しながらミスリーディングさせる仕掛けの数々に、再度ビックリする。
 こんな短編を一つでも書けたら、推理作家として本望であろう。

軽率だった夜盗
 夜中に屋敷に忍び込み、居間に飾られた名画を盗もうとした犯人の正体を暴いたら、それは屋敷の主人であった。
 いったい、なにがなにやら・・・?
 常識では説明のつかない不可解な現象を提示して、最後には納得のいく合理的説明をつけるところが、カーの独壇場である。

ある密室
 これも同様。密室で後頭部を鈍器で殴られた男は、一命を取り留めると、こう証言する。
「部屋には自分一人しかいなかったし、誰も入って来なかった」
 カーの編み出す不可能トリックの面白い点は、『軽率だった夜盗』のような不可解なシチュエイション、あるいは本作の密室のような不可能犯罪が成立する理由が、犯人のトリックがみごと成功したからではなくて、思わぬ障害が入ってトリックがうまくいかなかった結果として、犯人も予想しない形で生じてしまった――というところにある。
 考えてみれば、人を殺してわざわざ密室にする理由なぞ、自殺を偽装するくらいしかない。
 偶然、密室が生じてしまったことの理由付けこそが、肝なのだ。

赤いカツラの手がかり
 公園のベンチで発見された女性の死体は、裸のままきちんと座っていて、その横にはたたんだ衣服やカツラが置いてあった。
 これも不可解なシチュエイションの謎を解くのが主筋。
 英国人らしく寡黙で冷静なアダム・ベル警視と、はねっかえりのフランス人ジャーナリストのジャクリーヌの英仏コンビが楽しい。
 このコンビで(恋愛の進行を絡めて)連作してほしかった。

第三の銃弾
 これは中編。
 ペイジ刑事の目の前で、二つの銃声が響き、殺人が発生した。
 しかし、殺された元判事の体から発見された銃弾は、容疑者の撃った銃によるものでも、現場に落ちていたもう一つの銃によるものでもなかった。 
 現場となった部屋には、被害者と容疑者しかいなかった。
 いったい、これをどう解く?
 謎が錯綜し、手がかりが次々と現れ、もう一つ殺人が起こり、事件は混迷化する。
 ちょっと話を複雑にし過ぎて、読んでいてわけが分からなくなる。
 謎の解明もかなり強引。
 これは失敗作かな。

 カーは長編だけでなく、短編も魅力ある。
 しばらくはカーマニアになりそうだ。




おすすめ度 :★★★★

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● 仏教学の落とし穴 本:『ブッダという男――初期仏典を読みとく』(清水俊史著)

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2023年ちくま新書

 ブックカバーにこう紹介されている。

 これまでのブッダ理解を批判的に検証し、初期仏典を丹念に読みとくことでその先駆性を導き出す革新的ブッダ論。 

 まず、ここでいう「初期仏典」とはなにか?

 律蔵と、経蔵の『長部』『中部』『相応部』『増支部』の四つと、『小部』のうち成立が古いと目される韻文資料とを指し、さらにその「初期仏典」のなかでも部派を超えて確認できる記述 

 すなわち、日本で広く信仰されてきた大乗仏教の経典ではなく、タイやスリランカやミャンマーでいまも信仰されている上座部仏教(いわゆる小乗仏教)の『阿含経典』のうち、『小部』の散文史料をのぞいたもの、および出家集団(サンガ)の規則を記した律蔵ということになる。
 最近は、「『小部』は結集仏典にはなかった」という驚きの説も――たとえば、馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』――あるようだが、そのあたりは措いといて、ブッダ元来の教え、もとい仏教の原型を探ろうとするのなら、おおむね順当な資料選定と言えよう。
 (ときに、本書あとがきで、清水が馬場から受けた出版妨害のことが記されている。仏教的とは言い難い、学会的騒動があったようだ)
 
 次に、「これまでのブッダ理解を批判的に検証」とはどういう意味か?
 仏典の中には、様々な神話的記述がある。
 ブッダ(豚ではない)が空を飛んだとか、テレポーテーション(瞬間移動)したとか、神様に説法したとか、生まれてすぐ歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったとか・・・・すなわち、近代科学の実証主義的見地からは「あり得ない」エピソードである。
 こういった神話的装飾を取り除いて、歴史的事実としての「ブッダ」を探ろうというのが、近代に成立した学問としての仏教学である。
 「神話のブッダ」でなく「歴史のブッダ」を。
 ここまではいい。
 しかしながら、「そこにはいま一つの罠があった」というのが、清水の指摘であり、本書の一番のポイントである。

 ブッダの歴史性を明らかにしようとする際に、最大の障害となっているのは、仏典の神話的装飾でも後代の加筆でもなく、我々の内側にある「ブッダの教えは現代においても有意義であってほしい」という抗いがたい衝動である。結果として、これまでの専門書や一般書の多くが、歴史のブッダを探究しているはずが、彼が2500年前に生きたインド人であったという事実を疎かにして、現代を生きる理想的人格として復元してしまうという過ちを犯してしまっている。
 
 これはまったく頷けるところ。
 仏教を信じブッダを敬愛する人ほど、ブッダを自らの理想像に仕立て上げてしまいがちである。
 いわゆる「推し」、アイドルファンの心理だ。
 そうなると、仏典の中にある「アイドルにそぐわない」言動の記述は自然と目に入らなくなり、「アイドルにふさわしい」言動の記述ばかりが目に映るようになる。
 それを集めて、誇張粉飾することで、自分の理想のブッダが生み出される。
 「推し活」真っただ中の当人はそのからくりに気づかないし、指摘されても聞く耳を持たない。どころか強く反駁する。
 なんてったってアイドルを否定されるくらい、腹が立つことはあるまい。 

 本書で清水が、誤った理想化の例として挙げているのは次の4つ。
  • ブッダは平和主義者だった
  • ブッダは業と輪廻(転生)を否定した
  • ブッダは階級差別を否定した
  • ブッダは男女平等を主張した
 いま、仏教研究にいそしむ研究者が同時に護憲論者だったならば、ブッダを平和主義者にしたいだろう。
 人種差別、民族差別、格差社会に反対する左派の研究者ならば、ブッダを差別反対の人権家にしたいだろう。
 ジェンダー平等を訴える学者ならば、ブッダをフェミニストにしたいだろう。
 スピリチュアル系のアヤシイ人物と思われたくないならば、ブッダを唯物論者にしたいだろう。
 こうして、“新たなブッダ、新たな神話”が誕生する。

 結局のところ、これら「歴史のブッダ」と称されるものは、研究者たちが、単に己が願望を、ブッダという権威に語らせてしまった結果に過ぎない。 

 バイアスは学者自身のパーソナリティやアイデンティティの中にあるってことだ。
 清水の見解に、ソルティもおおむね同意する。
 ブッダが目したのは、あくまで個人の内面の改革であって、社会改革ではなかった。

ブッダはアイドル

 では、近代以降に生まれた上記の“新たな神話”を排して、それでもなお、ブッダの先駆性、仏教の革新性はあるのか?
 もちろん、ある。
 清水はブッダの先駆性を3つ指摘している。
  1.  生まれ変わって天国に行くことや、神や宇宙意識と一つになること(梵我一如)を修行の最終目的とするのではなく、現象世界(宇宙)から完全に離脱することをゴールとした。(解脱=涅槃)
  2.  「自己は存在しない(無我)」ということを発見した。(諸法無我)
  3.  縁起の法則を発見し、無明をはじめとする煩悩の滅尽が輪廻の苦しみを終わらせると説いた。(縁起の逆観)
 すなわち、瞑想を通して個体存在や現象世界を観察し、一切皆苦(現象世界のすべては苦しみである)、諸行無常(現象世界を構成する諸要素は因果関係をもって変化し続ける)、諸法無我(一切の存在のうち恒常不変なる自己原理に相当するものはない)と認識することこそが悟りの知恵であり、これによって煩悩が断たれて輪廻が終極するのである。

 ただし、この先駆性の指摘自体は、別に先駆的ではない。
 まさに原始仏教のエッセンスであり、2000年以上にわたって上座部仏教(テーラワーダ仏教)で伝えられてきたところである。

 学者でない人間が仏教について基本的なことを学びたいなら、ワルポール・ラーフラ著『ブッダが説いたこと』(岩波文庫)、ポー・オー・パユットー著『仏法』(サンガ発行)を読めば必要にして十分であろう。
 あとすべきことは、修行の実践である。
 余計な知識はむしろ修行の邪魔になる。
 
 思うに、修行を伴わない仏教学は、料理したことのない人が書いた料理本、車の運転をしたことのない人が教える教習所、恋愛したことのない人が説いた恋愛論みたいなものだ。
 仏教学の最大の落とし穴はそこにある。
 知識をいくら蓄えても、議論をいくら積み上げても、智慧にはならない。
 ブッダという男を真に理解するには、ヴィパッサナ(観察する)に如くはなかろう。


銭壷山合宿 017
自戒、自戒・・・




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 松子夫人の知られざるキャリア 映画:『懐かしのブルース』(佐々木康監督)

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1948年松竹
75分、白黒

 古本屋で見つけたDVD(700円)。

 家計を助けるためキャバレー歌手となった元華族の娘・伸子(高峰三枝子)と、肺病で療養中の妻を持つ脇村(上原謙)の報われない愛を描く。
 画質も音声も良くないが、高峰三枝子が歌う部分だけは別録りしたのか、音が澄んでいる。
 藤浦洸作詞、万城目正作曲の主題歌「懐かしのブルース」をはじめ、美しくしっとりした歌声を披露している。
 高峰の歌声は、不思議と人を陶然とさせる心地良い響きがある。
 キャバレーで歌うシーンのエレガンスは言わんかたない。

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歌う高峰三枝子(公開時30歳)

 高峰の典雅なこと。
 所作や言葉づかいの美しさは、高峰自身がお嬢様育ちゆえ、身についたものだろう。
 どこか淋しげな大人っぽい美貌は、悲恋物語にピッタリである。
 80年代以降の日本なら、結婚前(25歳という設定)のSEXはもちろん、妻ある男との不倫など平気で乗り越えていく女性は少なくないと思うが、戦前・戦中の風土が色濃く残るこの時代、世間の目はきびしかった。たとえ男の妻が余命いくばく無くとも。
 ラストで男の妻は亡くなったようなので、それで晴れて二人が結ばれるかと思えば、それも許されない。
 このあたりの機微を理解するのは、なかなか難しいところである。

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脇村に別れを告げる伸子
う・うつくしい・・・!
30年後に犬神松子となる

 伸子の不甲斐ない父親を小沢栄太郎が、伸子の家を買う戦後成金を東野英治郎(水戸黄門)が演じているのも見物。
 上原謙はハンサムだが、ちょっと胸騒ぎがするくらい暗い目をしている。
 そこがまた当時の女性ファンが熱狂する一因だったのかもしれない。
 陰キャはいまでこそ流行らないが、バブル以前は「陰のある寡黙な男」のほうが、能天気な陽キャよりモテたものである。

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脇村を演じる上原謙

 妻ある男とキャバレー歌手の悲恋。
 これを「ドラマ」として成り立たせるのが難しくなったところに、様々な枷(かせ)を失った令和ドラマの自由とつまらなさがあるのだ。





おすすめ度 :★★★★

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★★    いい退屈しのぎになった
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● 「このミス」1位は当てにならない 本:『飛蝗の農場』(ジェレミー・ドロンフィールド著)

1998年原著刊行
2002年東京創元社より邦訳(越前敏弥・訳)
2024年新装版

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 飛蝗(ばった)と読む。
 飛蝗を飼育している一人暮らしのキャロルの農場に、ある夜突然あらわれた身元不明の男、スティーヴン。
 過去の記憶を喪失しているらしい。
 キャロルは、自ら怪我をさせた彼に責任を感じ、家に泊めて介抱する。
 治るまでという約束で。 
 二人の関係は次第に近づいていく。
 だが、スティーヴンにもキャロルにも秘密があった。

 著者は1965年イギリス生まれ。本作がデビュー作である。
 処女作ならではの、持てる力をすべてつぎ込んだような力作で、500ページ近い。
 読み出があるのは間違いない。
 2003年「このミステリーがすごい!」の1位を獲得していて、今回の復刊は東京創元社創立70周年を記念してのことらしい。
 評価の高い作品なのだ。

 しかし、ソルティは読むのがしんどかった。
 途中で放棄しようと何度か思った。

 一番の理由は読んでいて募るイライラ感。
 まず、語り口が凝りすぎていて、うんざりする。
 冒頭から、「・・・・そこで目が覚めた」という、夢か現実かわからないシーンが繰り返されるので、物語に入り込みにくい。
 読者を振り回す「夢オチ」の多用は、感心しない。
 リアリティに満ちた細やかな描写は、純文学ならともかく、ミステリーとしては物語のスピードを止める効果しか生まないので、苛立たしく感じる。

 次に、構成が複雑で、筋がわかりにくい。
 農場におけるキャロルとスティーヴンの愛の物語を分断する形で、何者かから逃げる男の複数のエピソードが挿入される。
 これが、時系列がよく分からないし、そのたびに男の名前が違うので、集中力が途切れる。
 スティーヴンの過去を逆順に追っていることを、ちゃんと分かるように示してくれたら、これは回避できたはず。

 最後に、プロットに無理がある。
 元警察官だったスティーヴンは、自分を罠にはめ、連続猟奇殺人の犯人に仕立て上げた謎の人物からつけ狙われている、と思っている。
 それがスティーヴンの逃亡の理由で、彼がキャロルに語った記憶喪失は偽りだった。
 謎の人物は、スティーヴンの逃亡する先をなぜかつきとめ、奇妙な手紙やそれと分かる徴を正体が分からないよう送り届け、スティーヴンを脅かす。
 途中までソルティは、スティーヴンは多重人格者で、元警察官で真面目な男の一面と、連続猟奇殺人を起こすサイコパスな一面とがあり、前者は自分の中に潜む後者の存在に気づいていないのだろう――そう推測を立てた。
 ミッキー・ローク主演の『エンゼル・ハート』(1987年)のパタンである。
 おそらく、ほとんどの読者はそう読むだろう。
 多重人格のサイコストーリーは、もはや時代遅れと言えるほど陳腐になってしまったが、本作執筆は90年代なのでまだ通用した。
 あとは、スティーヴンがどうやって自身が連続猟奇殺人犯であることを悟るかがクライマックスになるのかなと思っていたら、真相は違った。
 なんとスティーヴンには双子の兄ケヴィンがいて、それがサイコパスの猟奇殺人犯だったというのだ。
 正直、がっくりを通り越して、げんなりした。
 いまさら双子トリック?
 双子の兄が、警察官である弟に殺人犯の濡れぎぬを着せて、なおも国を超えて追っかけていた?
 ちょっと設定に無理がある。
 たとえば、兄ケヴィンはどうやって警察署に入り込んで、証拠物件に弟の指紋をつけることができたのか?(双子でも指紋は異なるので、ケヴィンの指紋では代替できない) 
 どうやって弟の居所をつきとめたのか?
 どうやって生計を立てていたのか? 
 リアリティある細やかな描写は、謎の解明部分に関しては、残念ながら生かされていない。

 ジェレミー・ドロンフィールドがたいへん筆力ある作家であるのを認めるにやぶさかではないけれど、本作はミステリーとして、あるいはサイコサスペンスとして、成功しているとはとても思えない。

 「このミス1位は当てにならない」という確証をまた一つ手に入れてしまった。
 ひょっとして、日本レコード大賞あるいは日本アカデミー賞のようなものなのかな?




 
おすすめ度 :★★

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● 倫子さま、下々を知る 映画:『せかいのおきく』(阪本順治監督)

2023年日本
89分、白黒(パートカラー)

 黒木華(くろきはる)という女優の芝居をちゃんと観たのは、今やっているNHK大河ドラマ『光る君へ』が初めて。
 これがなかなか良い。
 黒木が演じているのは、左大臣源雅信の娘・倫子(ともこ)で、藤原道長(柄本佑)の正妻である。
 名門のお嬢様育ちのおっとりした気品、将来最高権力者の妻となるに十分な才覚と気配りの細やかさ、自ら望むものは貪欲に手に入れる果敢な行動力。
 ドラマの上では、吉高由里子演じる主人公まひろ(のちの紫式部)とは身分違いの友人であり、道長をめぐる恋のライバルかつ勝者であるという、いわば、主人公の不幸な境遇を際立たせるコントラストな役割である。
 まひろとの恋に破れた道長は、なかば捨て鉢気分で、文をかわしたことも話したこともない倫子と結婚する。互いに基盤を固めることが目的の権勢家同士の政略結婚で、少なくとも道長側に愛はない。
 だが、道長はこの先、(沢山の子どもを作った史実が示すように)倫子を愛するようになるんだろうなあと、視聴者に思わせるに十分魅力的な倫子像を、黒木は作り上げている。
 女優としては「とっても美人」というわけではなく、登場人物の中でロバート秋山竜次と並んでもっとも平安っぽい顔立ち(おかめ顔)である。
 が、人好きのする、観る者をほっとさせる、どこか懐かしさを感じさせるたたずまいは、確かな演技力と相俟って、他に代えがたい存在感を放っている。
 この存在感、誰かに似ているなあと思って、ハタと気づいた。
 田中裕子である。

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ガールズドークに興じる女房たち(京都風俗博物館

 本作は、『どついたるねん』、『顔』、『闇の子供たち』の阪本順治監督の最新作ということで公開時から気になっていたのだが、ちょうど吉永小百合主演『北のカナリアたち』(2012年)という駄作を観てしまったあとだったので、敬遠してしまった。
 もう阪本監督はダメなのかも・・・・と思っちゃったのだ。
 だが、その後、本作が(日本アカデミー賞でなく)2023年キネ旬ベストワンに選ばれ、主演が黒木華であることを知って、思い切って借りてみたところ、とても良かった。
 阪本監督、やっぱり名匠である。

 江戸時代末期を舞台とする下町人情劇。
 主人公は、かつて武士であった男の一人娘・おきく(黒木)と、二人の汚わい屋の若者、ヤスケ(池松壮亮)とチュウジ(寛一郎)。
 汚わい屋とは、江戸の町から出る人びとの糞尿を桶に集めて郊外まで運び、肥料として百姓に売る仕事である。
 当然、人びとからは忌み嫌われ、身分社会の底辺に位置づけられる。
 おそらく、ヤスケとチュウジは非人であろう。
 人びとの生活に無くてはならない重要な仕事でありながら、遠ざけられ、下に見られ、馬鹿にされ、ゴミのように扱われる汚わい屋という職業をリアリティもって描きながら、3人の若者の心の綾と交流を心あたたまる、しかし“くさくない”タッチで――ここ笑うところ――映像化している。
 あえて白黒映画にしたのは、江戸時代の雰囲気をかもし出すためというより、やはり、糞尿てんこもりシーンが多いからであろう。
 カラーでやられたら、きつすぎる。

 自然と想起するのは、役所広司が公衆トイレの清掃員に扮したヴィム・ヴェンダース監督『パーフェクト・デイズ』。
 2023年はキネ旬の1位と2位を大便テーマが占めたという記念すべき年だったのである。
 両作に共通するのは、「仕事に貴賎はない。どんな仕事であれ、与えられた仕事は使命感を持って全うせよ」ということであろう。

 ヤスケ役の池松壮亮の演技が素晴らしい。
 加東大介や蟹江敬三や前田吟のような滑稽味あるバイプレイヤーに育っていきそう。
 チュウジ役の寛一郎は佐藤浩市の息子、すなわち、三國連太郎の孫。
 大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』の公暁役の好演が記憶に新しい。
 本作では、おきくの父親を演じる佐藤浩一との親子共演が果たされている。
 長屋の厠屋で大便を垂れる佐藤の傍らで、それを回収するのをじっと待つ寛。
 ふたりの“通じあった”やりとりが楽しい。(ここ笑うところ)。
 石橋蓮司、さすがの貫禄である。

 ソルティが子供の頃(昭和40年代)、糞尿は身近にあった。
 畑には肥溜めがあって、肥やしとして使われていた。
 たまに誤ってそこに落ちる子どもがいて、しばらくその子は「エンガチョ」扱いされた。
 家のトイレは汲み取り式、いわゆる「ボッッチャン便所」で、よく便つぼに物を落として困ったものである。
 家の中でも外でも、空気中に糞尿の匂いが入り混じっていた。
 今思えば、いろいろなウイルスや細菌が拡散され、人びとの体内に取り込まれ、日本人の抵抗力を養っていたのだろう。
 そうした記憶があったればこそ、40代後半になって高齢者介護施設で働き始めたときに、排泄介助への抵抗がほとんどなかったのかもしれない。
 “つまるところ”、人間の始めと終わりは、糞尿まみれなのだ。(ここ笑うところ)
 
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