ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

● ラピュタ阿佐ヶ谷に行く 映画:『雪国』(豊田四郎監督)

1957年東宝
133分、白黒

 ちょっと前に「豊田四郎監督の映画が観たいなあ」と呟いたら、なんとラピュタ阿佐ヶ谷で特集(3/14~5/1)が組まれた。
 ソルティが観た『夫婦善哉』や、川端康成原作の『雪国』はじめ、29本一挙上映である。
 ラピュタにも一度行ってみたかった。
 不要不急の外出自粛ではあるが、交通経路を工夫し、平日の昼間ならば人混みを避けられよう。
 実に2年ぶりの映画館、スクリーン体験となった。

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JR中央線・阿佐ヶ谷駅北口

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 JR中央線の阿佐ヶ谷駅北口から歩いて3分のところにラピュタはある。
 狭い路地の入りくむ昔ながらの商店街を抜けた閑静な住宅街の一角にあって、中世の城郭のようなシックで落ち着いた佇まいを見せていた。
 思ったよりお洒落である。
 階下には待合室を兼ねたリラックススペースがあって、昔の映画のポスターや図書やDVD、スターのプロマイド写真などが売られていた。
 上階にはフランチレストランもある。
 昔の邦画好きにとってオアシスそのもの。 
 定員は48名、ソルティの観た回は20名ほどであった。

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1階の待合スペース
木の風合いが良い

 本日は『雪国』。
 お目当ては岸恵子の駒子である。
 ソルティは思春期の頃、山口百恵主演のTVドラマ『赤い疑惑』の“パリの叔母さま”役で見知った時から、この女優のファンになった。
 市川崑監督の『おとうと』における姉げん役はもちろん、金田一耕助シリーズ『悪魔の手毬唄』の真犯人役や『女王蜂』の秀麗なる家庭教師役も忘れ難い。
 さすがに『君の名は』(真知子巻き)は観ていない。

 大庭秀雄監督『雪国』(松竹)における岩下志麻の駒子も美しくて良かったが、鮮烈さにおいては岸に軍配が上がろうか。
 可愛くて、いじらしくて(ブリっこで)、美しくて、激しくて、凛として、芯が強くて、哀しくて・・・・。
 ブリっこと哀しさをのぞけば、女優岸恵子そのものなのではなかろうか。
 岸のトレードマークである切れ長の目が、駒子の情のこわさと意志の強さを示していて、島村でなくとも一度彼女に捉えられたら離れがたくなってしまうだろうと思わせる。

 その島村役は池部良。
 白い雪に映える二枚目ぶりで、演技もうまい。
 が、岩下と組んだ木村功のほうが、原作のイメージ=虚無的な男には近い気がする。
 いや、映画全体、大庭作品のほうが、原作のもつ刹那的で幻影的な雰囲気をとらえていたように思う。
 豊田作品は駒子という女、駒子の恋を描くことがメインになりすぎて、島村の冷めた心情が後方に退き、ただの優柔不断のやさ男に見えてしまう。
 島村が芸者の駒子を(一時の遊び相手として)振り回しているのではなく、逆に駒子が島村を(自らの恋の犠牲者として)振り回しているようにすら見える。
 まあ、それだけ岸恵子の駒子が魅力的ということだ。
 
 ほかに旅館の女将役のおちょやんこと浪花千栄子、気性の激しい葉子を演じる八千草薫(岸とは一つ違い)、体も売っちゃう芸者役で笑いを提供する市原悦子、按摩役の千石規子が好演である。 
 
 個人的には、岩下の駒子も岸の駒子もなんだか気が強すぎて、もそっとたおやかな駒子が望ましい。
 葉子もまた気が強い女なので、二人いっぺんにかかって来られると疲れてしまう。
 ソルティは、TVドラマで観た松坂慶子の駒子(1980)が良かった(共演は片岡秀夫)。
 吉永小百合の駒子、夏目雅子の駒子あたりも観たかったな。
 
 特集中にもう数回、ラピュタに足を運びたい。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 黒い団扇の秘密 映画:『残菊物語』(溝口健二監督)

1939年松竹
146分
原作 村松梢風
脚本 依田義賢

 これも蓮實重彦が『見るレッスン 映画史特別講座』の中で絶賛していた。
 新派の名優・花柳章太郎(1894-1965)が、実在した歌舞伎役者・二代目尾上菊之助を演じている。
 芸道物語であり、悲恋物語であり、溝口お得意の転落物語でもある。

 五代目尾上菊五郎(=河原崎権十郎)の養子として周囲からチヤホヤされてきた菊之助は、芸に身が入らず、大根役者と陰口をたたかれていた。
 それを直言し精進を願う女中のお徳(=森赫子、もりかくこ)と恋仲になるも、身分違いの恋は許されず、二人は別れさせられる。
 菊之助は体面や家柄ばかり気に掛ける周囲に嫌気がさし、七光りでなく自らの実力によって頭角を現すことを決意し、東京を飛び出す。
 心配して追ってきたお徳と大阪で再会、一緒に暮らすようになるも、実力にも運にも恵まれない菊之助は転落の一途をたどり、旅回りの一座でその日暮らしの惨めな生活を送るようになり、荒んでいく。
 それでも菊之助の返り咲きを願うお徳は、一身に仕え、励まし、復帰のために奔走する。
 その甲斐あって、幼馴染の歌舞伎役者・中村福助(=高田浩吉)の助けを得た菊之助は役をもらい、久しぶりの大舞台で見事に実力を発揮、万雷の拍手で迎えられる。
 一方、きびしい生活で無理がたたったお徳は、最期の時を迎えていた。

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芝居小屋を追われ、土砂降りに濡れる旅回りの一座


 お涙頂戴の新派悲劇、メロドラマである。
 オペラで言えば『椿姫』とか『蝶々夫人』のような。
 音楽や歌唱という媒介があるオペラならともかく、セリフと芝居にたよる映画やテレビで今時これをやられた日にはゲンナリしてしまいそうなものだが、溝口の魔術によって格調高い、深みある映像芸術に仕上がっている。
 しかも、娯楽作品としても成功している。
 蓮實の威を借るみたいで嫌なのだが、間違いなく、傑作!
 やはり蓮實の推奨によって30年以上前に観たダグラス・カーク監督のメロドラマ『世界の涯てに』(1936)を思い出した。

 主役の二人を演じる花柳章太郎と森赫子がいい。
 花柳の繊細な表情、森の艶やかにして美しい口舌、二人の呼吸もぴったり。
 森は1956年失明して引退。自伝『女優』や『盲目』という本を書いている。新藤兼人のドキュメンタリー『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975)にも出演していたらしいが、覚えていないのが残念。

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森赫子と花柳章太郎


 クライマックスは、まさに『椿姫』よろしく、死の床にあるお徳のもとに、歌舞伎役者晴れの舞台である“船乗り込み”を抜けて駆けつける菊之助、今生の別れである。
 お徳を一心に見守る菊之助、そして家主の夫婦。
 が、虫の息のお徳は菊之助をいさめる。
 「御贔屓が待っているじゃないの。あなた、いや若旦那、船に戻ってちょうだい」
 まさに新派の真骨頂、紅涙をしぼる名場面。

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 しかしながら、この画面で観る者が何よりも心を掴まれ、目が離せなくなるのは、今はの際にあって気丈なお徳でもなく、涙をこらえ肩を震わす菊之助でもなく、二人の脇にいる家主の男が高熱のお徳に風を送る、その手に握られた黒い団扇なのである。
 ウナギのかば焼きをあおぐようなその手の律動的な動き。左右に翻り、一時停止し、また翻る団扇の運動。
 それぞれの感情がこれ以上にないほど高まった非日常の瞬間にあって、唯一の日常的運動が当人も意識しないところで行われている。
 そのとき観る者は、その団扇の何気ない運動の中に、世界のすべてが凝縮されているのを知る。
 いわば世界が反転するのだ。 

 なぜそんなことが可能なのか、映画開眼して30年以上になる今も分からない。
 


おすすめ度 :★★★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『セインツ 約束の果て』(デヴィッド・ロウリー監督)

2013年アメリカ
98分

 『見るレッスン 映画史特別講義』の中で蓮實重彦がベタ褒めしていた監督&作品である。

 70年代のテキサスを舞台に、銀行強盗を働いた若いカップルの愛と死別を描く。
 というと、アーサー・ペン監督『俺たちに明日はない』(1967)のボニー&クライドを想起する向きも多いと思うが、ソルティはむしろ、ヴィム・ヴェンダースの『パリ・テキサス』を想起しながら観た。
 荒野の広がる殺風景な景色のみならず、いわくつきの男が別れた女と娘に会いに行くという筋立てのみならず、劇中効果的に使われているバンジョーの音色が『パリ・テキサス』におけるボトルネック・ギターの響きを思い出させるからだ。
 『パリ・テキサス』+クリント・イーストウッドの犯罪映画といった感じか。

バンジョー
バンジョーを爪弾くカウボーイ

 
 脱獄犯を演じるケイシー・アフレック(ベン・アフレックの弟である)、その恋人役のルーニー・マーラ、二人の後見人で組織のボスを演じるキース・キャラダイン、保安官役のベン・フォスター。
 主要な4人の役者が、そろって味のある佇まい。

 DVD鑑賞だったが、やっぱり映画はスクリーンで観なくちゃな、と久しぶりに思わせてくれた。


  
おすすめ度 :★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『正統の哲学 異端の思想 「人権」「平等」「民主」の禍毒』(中川八洋著)

1996年徳間書店

 ネットのツイッターやコメントなんかを読んでいると、「人権」「平等」「民主主義」といった言葉が大嫌いな人たちが結構いることに気づく。大概がネトウヨと呼ばれる保守的・愛国的な思想の持ち主のよう。
 人権も平等も民主主義も、ソルティもその一人である、権力とは無縁な庶民を守るものという思いがあるので、「一体彼らはなぜそれらを目の敵にするのだろう? 人権も平等も民主主義もない国に住みたいのだろうか?」という不思議があった。
 彼らの思想のバックボーンはどのへんにあるのか調べてみよう、と図書館の蔵書検索してみたら、出てきたのがこの本であった。
 
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 著者の中川八洋(なかがわやつひろ)は1945年福岡県生まれの政治学者。国際政治学、英米系政治哲学および憲法思想、“皇位継承学”などを専門とし、筑波大学名誉教授の職にあるらしい。(ウィキペディア「中川八洋」参照)
 日本最大の保守主義ナショナリスト団体と言われ、安倍政権を陰で支えていた(あるいは牛耳っていた)日本会議にも過去に関わっていたようである。
 日本の保守陣営の代表的論客の一人と言ってもあながち間違いなかろう。
 必ずしも中川の思想や主張が、ネトウヨをはじめとする他の保守派の人々の思想や主張を代表するものでも、代弁するものでも、合致するものでもないとは思うが、最も強靭な保守思想の論陣を張るものとして参考にしても良かろう。
 
 まず、タイトルの意味。
 中川が言う「正統の哲学」とはずばり、真正自由主義(conservation)である。

 (真正)自由主義は、英国の政治史において明らかなように封建体制が漸進して発展したものであり、国家という歴史的な生成物を大切に保守するが、同時に国家の権力を制限することによる個人の自由を最尊重しこの自由を価値とする。つまり、自由を抑圧する全体主義を断固として排除する思想(主義)である。

 中川はその代表例として、英国の保守党(とくにサッチャー政権)、米国の共和党(とくにレーガン政権)を上げている。日本の自民党は中曽根政権を例外として、この枠組みには入らないそうだ。
 一方、「異端の思想」とはずばり、社会主義と共産主義である。この異端思想の持主(社会主義者、共産主義者)が標榜するキーワードが、「人権、平等、民主、進歩、変革」であって、これらの“危険な”概念の普及と妄信こそが国家を共産主義の最終的ゴールである全体主義(ファシズム)に導き、個人の自由は悉く剥奪される。

 全体主義体制とは、民衆(人民)が、支配する独裁者(党)を「教祖」と崇拝し、それが放つ誇大妄想の巨大な嘘を「共有して」信仰する「信徒」となる国家体制である。そして、教祖(独裁者)を崇拝しない、その嘘を「共有」しない、その誇大妄想を狂信しない、すなわち「信徒」になることを拒否する国民については、テロルにより殺戮か強制重労働の刑罰の対象とする。このような宗教団体の修道院的な国家体制、それが全体主義の体制である。

 中川は代表例として、フランス革命後のロベスピエールらによる恐怖政治、ロシア革命後のレーニン、スターリンによる共産ロシア、金日成以後の北朝鮮、ポル・ポト政権下のカンボジア、毛沢東以後の中国を上げている。
 社会主義と共産主義、そこから移行する全体主義こそ、自由社会が闘うべき最大の敵であり、どうあっても叩き潰さなければならない悪であることが、縷々として説かれているのが本書なのである。


ロシアのポスター
旧ソ連のポスター


 サッチャーやレーガンや中曽根を「正統」とみなすかどうかはともかく、ソルティも社会主義や共産主義は好まない。ジョージ・オーウエルの小説『1984』やテリー・ギリアムの映画『未来世紀ブラジル』に端的に描かれているように、全体主義は地獄の別名にほかならないと思う。
 が、正直、中川の論には驚いた。
 戦後の日本人が学校時代に歴史や倫理社会などで習い、一般常識として流布している知識やイメージを引っくり返すような内容なのである。
 
 近代は人類の文明的発展を育んだ温室でもあったが、“野蛮の母胎”でもあった。なぜなら、近代はこの地上に地獄を創造する奇形の哲学をも出産した「母」でもあったからだ。

 上記の地獄とは社会主義・共産主義・全体主義のことであり、奇形の哲学とはロックやルソーやモンテスキューやカントに代表される近代啓蒙思想のことである。中川は、全体主義に不可避的につながる社会主義や共産主義を生むのは、理性を重視する近代啓蒙思想であるとし、それを真っ向から否定する。そればかりか、理性主義の始祖ともいえる「われ思う、ゆえにわれあり」のデカルトさえも「無益にして有害」と弾劾する。
 いわば、近代の否定である。

 デカルトを称賛したり肯定的に捉えるのはその思想に不健全性と狂気の芽が潜んでいることであり、逆にこれを否定するものは思想の健康と人格の健全性が保たれていることを示す。

 ルソーは全体主義者であって自分が専制者・独裁者になりたいのである。そのために、そして一般通念上の(あるいは18世紀フランスの)法や美徳を根こそぎ破壊し消し去りたいのである。ルソーはそのような本心をひた隠して、この本心の最終目標に至る中間目標としての君主政体打倒のために、「嘘、嘘、嘘、・・・・・」を羅列して君主政体に悪罵をあらん限り投げつける。

 中川が近代啓蒙思想のキーワードである「人権、平等、民主、進歩、変革」を毛嫌いするのも当然であろう。
 日本や欧米をはじめ現代の先進諸国のほとんどは、こうした近代啓蒙思想を基盤として国家づくりをしており、国民も多かれ少なかれ、これらの概念なり思想なりを正当なものと思い、それに則って生活を送っている。
 なので、近代を憎む中川は同時に現代をも憎んでいるわけである。デカルト登場以降の世界史にNOを突き付け、丸々3世紀を茶番とみなしているようなもので、筋金入りの反動には慄きすら覚える。

 中川はなぜ理性主義を厭うのか。

 文明社会とは、「人知(人間の理性)を超えたもの」に大きく依存しつつ発展しているものである。人間の知力(理性)の部分は、無(ゼロ)ではないがささやかであり限定されたものである。むしろ、人間とは、その本質において、高度に合理的であろうはずもなく、さほど賢明でもなく、むしろ極めて非合理的で誤りに陥りやすいものである。よって、文明の人間社会とは“斬新的な発展(改良、進化)”が期待されるのであって、「革命的な進歩」は万が一にもありえない。

 国家の歴史と伝統と慣習とが大切に共有され、これに発する権威が敬されているとき、政治社会は全体主義に堕するのを防がれるが故に、伝統や慣習こそは自由を育み国民の自由を守る砦なのである。過去の祖先が築きあげた伝統と慣習とを相続し守成し、「平等」と「変革」のデモクラシーに抗するその叡智における「保守する精神」が、美と崇高な倫理に裏付けられた自由の原理の淵源である。

 ここに中川の保守思想の根本がある。
 過去の歴史と伝統と慣習とを一挙に破壊する行為であるフランス革命やロシア革命の意義を全否定する中川が「良し」とするのが、前近代の君主政体であり、封建制であり、貴族や宗教家が幅を利かせる階級社会、もしくはその遺風を残した現代英国のような階級社会に基づく立憲君主制となるのも当然の帰結である。

 自由は、みずからの精神の高貴性を価値とする倫理でもある。“良心の自由”と言うのはその俗的な表現の一つである。だから、真正の自由あるいは徳ある自由は、“開かれた不平等”の封建体制もしくはその遺制が育まれているところのみに存在できる。

 そもそも身分秩序という階級制度を、平等が「進歩」だとするドグマは、否定し排斥するが、伝統と権威が自由の砦であると再認識するならば、自由を価値とする思想においてこの伝統と権威が最も尊重されてそれらが活性的に機能する身分秩序のある政治体制も再評価されるべきであろう。

 中川がその実現を願う正統なる政治体制とは、つまり、歴史と伝統に支えられた権威ある君主(国王、天皇)を頂点に戴き、世襲財産に裏付けられた伝統的な家系を持つ一部のエリート(貴族)らによって低劣愚昧なる大衆が訓導される、「民主・人権・平等・進歩・改革」を排する階級社会なのである。
 そして、「民主・人権・平等・進歩・改革」といった概念が否定されなくてはならないのは、それが愚昧なる大衆に非現実的なユートピア幻想を抱かせ、“正統なる”国家の伝統や慣習を破壊させ、家族や自治組織や宗教団体や企業といったいわゆる中間組織を消失させ、個人をアトム(原子)化し、結果として国家権力を増大させ、全体主義に堕するから――となる。


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 中川の文章は明晰かつ修辞が巧みで、読み手を非常に惹きつける。論旨も一応通っていて、説得力がある。有名な哲学者や思想家の著作からの引用が多く、持論をアカデミックに理論づける手腕も見事。しかも、学術論文には珍しい主観的・情熱的な筆致で、読む者を扇動する力が備わっている。
 大学時代に中川の授業を取っていたら、ソルティも強く影響され、「自分はこれまで間違った歴史認識を押し付けられていた!」と覚醒し、学校教育に憤りを感じ、右翼に走っていたかもしれない。
 実際、本書には中川オリジナルの思想ではないとしても、「なるほどなあ」と思うような穿った言葉も数々あった。

 人間も社会も、過去をひきずり過去を背負って存在しうる。また、いずれも根源的には過去の産物であり過去から生成されたものであるから、それらを過去と切断し分離することは決してできない。歴史において生成されたものは、歴史なしにはその生命を息づくことはできない。

 科学技術あるいは物質的な文明と異なって、そもそも人間に「進化」などありえない。・・・・(中略)・・・・。況んや、個人であるときの人間より知能も思考も大幅低下する「群衆」が「進化」することなどありえるはずがない。ダーウィン主義の思想的弊害は大きい。
(※ソルティ注:中川はダーウィンの進化論も「思想(ドグマ)であって、まだ科学とはなってない」とする)

 ユートピアは、その文学を見ても哲学から生じた共産体制の現実を見ても、人間の人格を破棄(破壊)することによって生じる未来社会であり、そこでは人間のもつべき温かい血は人間から抜きとられている。人間の倫理が消えて道徳のない未来であり、人間自身が物になってしまう未来である。そもそも未来を夢想して現在を最善に生きようとしない人間など倫理喪失の無頼の徒であって、かくも即物的な人生しかできないものが建設する未来社会が即物的以外でありえるはずがない。

 「社会」で処理されるべきものまですべて国家の強制でその解決や要求の充足を求めようとすることは、いやが応でも国家権力の拡張と肥大化をもたらし、かくして国家は両刃の剣となって国民を襲うものとなる。

 最後の引用などは、介護の現場で働くソルティも日々、懸念するところである。
 介護保険の導入は増加する一方の要介護高齢者を支えるために必須なものであったのは指摘するまでもないことだが、それはまた、家族や自治組織や宗教団体や企業といったいわゆる中間組織の衰退を促進するリスク、すなわち地域で高齢者を支える力を弱めてしまうリスクと裏腹にあることは否めない。
 要介護高齢者は介護保険によって国家に直に管理されることになり、国の政策ひとつによって受けられる介護や生活の質が決まってくる、すなわち国に命綱が握られて個人の自由が制限されてしまう。国が描く「理想的な要介護高齢者像=一所懸命リハビリし社会参加し自立した生活を送る」を目指して頑張らないと、税金泥棒と目されてしまう。(もちろん、介護保険を使わないという選択肢はある。が、金持ちにしかできない選択だろう)


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 閑話休題。
 ソルティは歴史にも哲学にも政治学にも詳しくなく、本書で中川が引用している思想家の著書もほとんど読んでいないので、中川がその思想家の主張を正しく解釈し適切に引用しているのかどうかがわからない。中川の解釈や引用が適切であるとしても、思想家の主張自体が正しいかどうかの判断がつかない。なので、中川の主張の是非なり正否なりを判定することはできかねる。
 できるのは、中川八洋という人物の思想の核(アイデンティティ)をなしているものの推察くらいである。
 次の四点を読み取ることができる。
  1.  社会主義、共産主義、全体主義、そして民主主義への憎悪
  2.  大衆への侮蔑と嫌悪、あるいはエリート主義(=部分除外的性悪説)
  3.  変化への嫌悪
  4.  今の日本への嫌悪、あるいは日本国憲法への嫌悪
 とりわけ目立つのは、2番の大衆への侮蔑と嫌悪である。

 「大衆」は政治に関する真偽を識別する能力をもっていない。みずから熟考することもないし推論や批判の精神ももっていない。真理や真実への関心がなく、嘘でも幻想でも「誤謬でも魅力があるのならば、神のように崇めようとする」。

 実際に、いかなる国家であれ、その国民は、①(法秩序と道徳に従いうる)文明的人間、②(それが未熟な)反文明的人間、③(それがまったく欠けている)野蛮的(野獣的)人間、そして④(野獣以下の)犯罪者など、の四階級で構成されている。

 むろん、このように大衆を侮蔑・愚弄する中川自身は、①の文明的人間であり、生まれついてのエリートであり、いわゆる“上級国民”なのであろう。少なくとも、そう自覚しているに違いない。
 なんとなく、かつてクラスで集団いじめを受けていた優等生のトラウマ&報復のような匂いがしないでもない・・・・。
 
 中川の主張に反論こそできないが、「じゃあ、これはどうなの?」と不審に思った点を三つほど挙げる。
 まず、社会主義や共産主義が全体主義(ファシズム)に結びつく可能性が高いことは理論的にも納得するし、現実世界においても北朝鮮や中国のケ-スで証明されている。
 だが、「逆もまた真なり」と言えるだろうか?
 全体主義を招くのは社会主義や共産主義だけであろうか?
 ファシズムの代名詞と言っても良い戦前のナチスドイツ、そして軍国主義の大日本帝国。どちらも共産主義とは関係ない。むしろ、共産主義者を徹底的に弾圧したのではなかったか。
 ソルティは全体主義とは特定の主義ではなく形態のことだと思う。一人のカリスマ性ある独裁者と、一見輝かしく見えるが実現性に欠ける高邁なる目標と、それに洗脳されて(あるいは恐怖から)盲従する大衆と、暴力的な排除と選別による統制と、共通の外敵と・・・。それらが揃ったところに全体主義は誕生する。つまり、右も左も関係ない。
 中川もこの矛盾をどこかで感じていたらしい。こんな理屈をこねている。
 
 S・ノイマンの指摘どおり、大正時代の「大衆デモクラシー」が、1929年のウォール街の株の暴落に始まる大恐慌以来大きく流入し始めた社会主義・共産主義思想と合体したとき、それは1940年の「新体制」という名の日本型全体主義へとヒドラのごとく成長していったのである。 

 これはもう牽強付会というよりはトンデモ領域であろう。
 中川はほかの著書(PHP研究所発行『近衛文麿の戦争責任』2010年)で、もっとはっきりと、「近衛文麿がコミュニストだった」とか「ソ連のスパイに、日本の中枢がハイジャックされてた」とか「陸軍の中枢は共産主義者が大半を占めていた」とか述べているらしい。
 どうあっても、共産主義=全体主義を貫きたいのである。
 
 二つ目に、中川が近代啓蒙思想の誤謬と害毒を縷々として説き、それに煽られて勃発したフランス革命やロシア革命をこきおろすとき、その根拠にあるのはデカルト以来の理性主義、すなわちノーベル経済学賞をとったフリードリッヒ・ハイオク(1899-1992)言うところの「設計主義的合理主義」に対する批判である。
 
 ハイエクの言う「設計主義的合理主義」とは、たとえれば、荒野にまったく新しい巨大都市を設計し建設するように、政治社会や経済社会をある人間の「理性」(知力)によって合目的的につくっていけばこれらの社会はより確実に「進歩」し、より「完全」なものになるとする思想(主義、教義)のことである。この「理性主義」の信奉者が権力を掌握するや、その結果は「進歩」でもなく「完全」でもなく、フランス革命やロシア革命が証明(実験)したように、ただ野蛮で暗黒の社会に反転する。 

 単純化すると、これまでの成り行きを尊重して流れのままに社会を漸次的に改良するのが正しいのであって、これまでの流れを断ち切って一から設計図を引くような急激な改革はもってのほか、ということである。
 しかしながら、ここでソルティは引っかかるのである。
 近代啓蒙主義は突如としてこの世に現れたのだろうか?
 旧約聖書のモーゼが天から十戒を授けられたように、デカルトやロックやルソーはどっかから啓示を受けて、何もないところから各々の思想を造り上げたのだろうか?
 そして、近代啓蒙思想がフランス革命やロシア革命を引き起こす重要な因となったのは事実であるとしても、その思想の力だけであたかもマッチで油紙に火をつけるように人為的に民衆を焚き付け、王政打倒に向けて動かすなど果たして可能だったであろうか?
 つまり、歴史は人為か、必然か?


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 ソルティは、歴史は小さいところでは人為も働くであろうが、全般に必然だと思うのである。近代啓蒙思想が起こったのも、ルイ王朝の王侯貴族や宗教者の腐敗と凄絶なる貧困に堪えかねた民衆が暴動を起こしたのも、それが革命に結び付いたのも、必然と思うのである。絶対王政と封建制度のもとで虐げられてきた民衆の怒りが革命のエネルギーになったのであって、それなくしては、いくらブルジョアジーの指導者が口を酸っぱくして啓蒙思想を説いたところで、クーデターは成功すまい。そして、王権神授説により神聖化されてきた国王に歯向かうという、“神をも恐れぬ大それた行為”をなさんとするときに民衆が必要とした護符(言い訳)、それが近代啓蒙思想だったのではなかろうか。
 仏教の因縁や縁起を持ち出すまでもなく、原因と理由と条件があるから結果が生じる。なにもないところから現象が生じることはない。
 歴史もまた然り。
 進化論における突然変異よろしく、これまでの漸次的流れを断ち切ってまったく新しい思想が突如として出現しそれに無知な民衆が乗せられた――なんていうのは、映画『2001年宇宙の旅』でモノリスに触れた猿が一気にヒトに進化したというのと同じくらい、荒唐無稽な寓話としか思えない。
 中川自身がいみじくも述べている通り、「人間も社会も根源的には過去の産物であり過去から生成されたもの」なのであるから、ロックやルソーやカントやマルクスの思想さえ、それが如何に目新しく過激に見えようとも、過去の歴史の中からそれなりの必然性をもって生まれたものである。
 すべては起こるべくして起こる。
 
 三つ目に、中川が封建体制や身分秩序ある階級社会を是とすることができるのは、先に書いたように、自身がエリート階級に属すると信じて疑わないからであろう。
 たとえば中川が、女性であったり、被差別部落に生まれたり、ゲイであったり、障害者であったり、貧困家庭に生まれ育ったり、黒人奴隷であったり、在日朝鮮人であったり、アイヌであったり、すなわちマイノリティであっても、同じことが言えるのだろうか?
 自らの既得権に立脚してエリート意識を振りかざすのは一種の「選民思想」であって、まさにそれこそはナチスやオウム真理教の例を見るまでもなく、ファシズムの胚芽なのではあるまいか。 

 
P.S. 中川八洋氏の最近の発言および動向は、「中川八洋ゼミ講義」というサイトで確認することができます。
 


 
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● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 7

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 たいていの人はさみしさを感じていますが、独りで生きているわけではありません。
 彼らはただすごくさみしく感じているだけで、独りで生きているわけではないのです。
 独りで生きていてもさみしくならないということが、あなたにはできる。
 これこそ瞑想者の学ぶべきことであり、またそれができるように学ぶことは、たいへん有益なことでもあります。
 「独りでいても、さみしくないこと」
(標題書 P.505より抜粋)


 18歳の秋に人生初めての一人旅をした。
 行先は京都であった。

 当時、東京駅23:30発の大垣行き普通夜行列車というのがあった。
 大垣駅に朝の7時頃に到着、乗り換えて京都には9時くらいに着いただろうか(朝の京都タワーがまぶしかった)。
 まだ青春18切符も、JR東海「そうだ京都、行こう。」キャンペーンもない時代で、紅葉時期にも関わらず京都は空いていたし、夜行列車も空いていた。
 青い布張りの向かい合わせのボックスシートを一人占めにし、缶コーヒー片手に東京駅のホームが後方に去っていくのを眺めた。
 初めての一人旅にワクワク、というより心細かった。
 さびしかった。

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大垣行き夜行列車
静岡駅で長い停車があり、駅弁や網入りミカンを買うことができた


 実家暮らしだったので、一人でいることに慣れていなかった。
 どこかに遊びに行くときは家族や友人と一緒だったので、一人で行動することにも慣れていなかった。
 京都の観光名所を巡っている時も、一人ぼっちの自分を意識してしまって、妙に落ち着かなかった。
 一人で食堂に入った時も、周囲の目が気になり、ゆっくり過ごすことができなかった。
 ふと見ると、隣のテーブルで中年の会社員らしき男がワイシャツの袖をまくり、煙草をくゆらしながら、新聞を読んでいた。 
 その泰然自若たる落ち着きぶりに憧れた。
 「自分もあんなふうに“一人でいても間が持てる男”になりたい」と思った。
 カッコよく言えば、孤独が似合う男になりたかった。
 いや、一人でいても孤独を感じない男になりたかった。
 英語で言うなら、Lonely でなく Alone だ。 

孤独な男


 あれから幾星霜。
 すっかり一人が板についたソルティ。
 一人旅を重ねること数十回、山登りの単独行数百回、一人映画、一人コンサート、一人落語、一人呑み、そして一人暮らし数十年(いまは実家住まい)。
 今もっともくつろぐ瞬間は、一人でお気に入りのレストランやカフェで本を読んでいるとき、そして瞑想中である。
 さびしいとか侘しいとか心細いといった思いはみじんもなく、周囲の目もまったく気にならない。
 おおむね安穏としている。 
 完璧に Lonely から Alone になった。
 18歳の秋に憧れていた男になった。

 しかるにまずったことに、逆に今は「誰かと一緒にいること」が不得手になってしまったようなのである。
 その誰かが、レストランの隣席にいるようなまったくの他人だったら問題はないのだが、ちょっとでも言葉を交わし見知っている人となると、どうにも 相手に気を遣ってしまって、自分の世界に閉じこもれなくなり、くつろげなくなる。
 一人上手を極めた結果なのかとも思うが、考えてみると一人でいる(=自分と過ごす)方が、誰かといる(=他人と過ごす)よりも気楽なのはあたりまえなのだ。
 ソルティはたぶん、ずっと前から、最近はやりのHSP(繊細さん)だったのであろう。

 人と会うことも、人と話すことも、人と遊ぶことも、決して嫌いではないのだが――であればこそ接客や対人支援の仕事ばかり就いてきたわけだ――それでもなお、一人でいることの魅力には及ばない。
 

キヨブタ











  



 

● 映画:『ジュディ 虹の彼方に』(ルパート・グールド監督)

2019年イギリス、アメリカ
118分

 ルキノ・ヴィスコンティ『ベニスに死す』(1971)で絶世の美少年タドズオを演じたビョルン・アンドレセンが、65歳の最近になって、少年の彼を性的搾取したとしてヴィスコンティや祖母や周囲の大人たちを告発したことが話題となっている。
 撮影当時15歳だった彼。
 「あれほどの美貌に大人が群がらないわけはあるまい。とりわけ今のようにセクハラやパワハラに対する世間の厳しい目や #MeToo 運動がない時代に・・・」と思ってはいたが、やはりいろいろ苦労したようである。

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ビョルン・アンドレセン(15歳)


 彼ほどの美貌ではないにしても、子供時代に一躍スターになった者がその後の人生を苦難続きにしてしまうのはよく聞く話である。
 マイケル・ジャクソン然り、ホイットニー・ヒューストン然り、マコーレー・カルキン然り、ケンちゃんこと宮脇健(旧芸名は康之)然り。
 この映画の主役ジュディ・ガーランドもまさにその一人だった。

 『オズの魔法使い』、『若草の頃』、『イースター・パレード』、『スター誕生』で見せた抜群の演技力と歌唱力、ゴールデン・グローブ賞やグラミー賞はじめ数々の栄誉、フレッド・アステアやミッキー・ルーニーやフランク・シナトラとの共演、生涯5度の結婚。
 華やかなスポットライト人生の陰に、少女時代に受けた虐待に等しい大人たちによる搾取があり、それがトラウマとなって彼女を生涯苦しめ続けた。
 本作でははっきり描かれていないが、プロデューサーへの枕営業も強いられたという噂もある。
 ドロシーを演じたときは、覚醒剤の常用で意識朦朧だったとか・・・。

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『オズの魔法使い』でドロシーを演じた


 本作はジュディが晩年に行ったイギリスライブの模様を軸に、人気低迷し、スキャンダルにまみれ、荒れた生活を送る四十半ばの彼女の姿が描かれる。
 ホテル代も支払えないほど窮乏し、愛する子供を手放さなければならず、薬やアルコールや男に頼らなければステージに立てない、身も心もぼろぼろのジュディが痛ましくも切ない。
 が、いったんマイクを握ってステージに立ち、スポットライトと観客の視線を浴びれば、歌わずにはいられない。
 ちあきなおみの名曲『喝采』に通じるような芸人としての性(さが)。

 ジュディを演じたレネー・ゼルウィガーはこれで主演女優賞を総なめにした。
 実際にすべての歌を吹き替えでなく自身で歌っているというから凄い。
 ラストを飾る『オーヴァー・ザ・レインボウ』など、涙なしで聞けない。

 ジュディ・ガーランドはゲイのアイコンとしても名高い。
 本作でもジュディの大ファンの中年ゲイカップルが登場し、ジュディと心温まる触れ合いを持つ。
 当時英国は(米国も)ソドミー法により同性愛行為は処罰の対象であった。
 彼らは「虹の彼方」にある自由な世界――好きな人と腕を組んで白昼堂々歩くことができるエメラルドシティ――にどれだけ思いを馳せたことか!
 アメリカの同性愛者による歴史的な暴動「ストーンウォールの反乱」は、ジュディの葬儀翌日(1969年6月28日)に起きた。
 ここに因果関係を見る人は多い。
 むろん、ソルティもその一人である。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 映画:『千年の愉楽』(若松孝二監督)

2013年
118分

 原作は中上健次の同名小説。
 中上言うところの“路地”、すなわち海辺の被差別部落を舞台とする、不吉な伝承に囚われたある一族の美しき男たちの生き様、死に様が描かれる。

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 夭折した芥川賞作家・中上健次と『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007年)の若松孝二に対する敬意から見続けはしたが、かなり退屈した。
 途中で止めなかったのは、主演のオリウを演じる寺島しのぶの演技ゆえである。
 同じ役名である“お竜”を演じた母親(富司純子)の映画はずいぶん観たけれど、娘の出演作は水野晴朗の撮った『シベリア超特急2』しか観ておらず、しかも出演シーンをまったく覚えていない。
 今回初めてしっかりと観た。
 美貌の点では母親にはかなわないが、演技力では上かもしれない。
 これからほかの出演作を当たっていきたい。

 若松の演出は、室内シーンはまだ良いが、室外が良くない。
 まるでテレビのような安易な演出、カメラ回しでげんなりした。
 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では室内シーンが多かったので、この欠点に気づかなかったのだろう。
 低予算のせいもあるかと思うが、肝心の路地という場所の空気が醸されていない。
 主要人物以外の住人の姿もなく、路地で遊ぶ子供の声すら聞こえない。
 男たちが山中で木を伐採するシーンでも、山の気というものがまるで映し撮られていない。
 中上健次が観たら、どう思っただろう?

 中本家の男たちはたんなる美形ではなく、女が放っておかないフェロモンの持ち主という設定だが、演じている役者たち(高良健吾、高岡蒼佑、染谷将太)はなるほど美形かもしれないが、性的魅力が今一つである。
 ただこれは、若松監督が男を色っぽく撮れないからなのかもしれない。
 迫力では高岡蒼佑が群を抜いている。

 ソルティは中上健次はほとんど読んでいないので、その世界観や思想を知らず、批評できる立場にはない。
 なので、この映画だけからの印象である。
 路地で生まれ育った男たちの暴力や犯罪癖、セックスや薬への依存、つまり狂った性格や破滅的な生涯を「身内に流れる高貴で忌まわしい血のせい」としてしまうのは、前近代的な言説であると同時に、一種の自己陶酔であろう。
 いわゆる貴種流離譚である。
 ソルティはむしろ、こんなに海の近くに生まれ育ちながら漁の仲間に入れないという差別的な境遇こそが、男たちを絶望させ自己破壊的な生に向かわせているように思う。
 その事実から目を背けるための救いとしての装置が「高貴な血の呪い」伝承であるならば、それはある意味、現実逃避にほかならない。
 高貴な血の呪い伝承とは、反転した天皇神話なのではあるまいか。

 ラストクレジットのBGMでは、明治維新で四民平等になったはずなのに“一般民”に嬲り殺された部落民のさまを描いた小唄が流される。
 少なくとも、若松監督にはその視点があった。 



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 



● 漫画化希望! 本:『橋のない川 第七部』(住井すゑ著)

1992年新潮社

 住井すゑが30年以上にわたり書き続けてきた大作を、一ヶ月半にわたって読んできて、ようやく完読した。
 住井は第七部を出したばかりの90歳時の講演で、「第八部を書きたい」と言っていたが、ままならず、95歳の生涯を終えた。

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 とは言え、本作は未完というわけでもない。
 部落差別やそれと闘う人々の姿を書き続けるなら、それこそ2021年の今日まで物語は続けることが可能であろうし、希望を描くということなら、水平社創立と解放運動の全国的な広がりを描いたあたりまでで、その目的は達している。
 個人的には、第五部ですんなり終わらせてもよかったのでは?という気がする。
 第六部からはかなり理念的・思想的・政治的に、つまり理屈っぽさを増して、小説としての味わいが若干薄れているように感じるからである。
 今井正監督の映画(1969年)のように、主人公の畑中孝二とその思い人である杉村まちえを再会させて、それぞれの心になんらかの決着をつけさせて「了」としてもよかったかもしれない。
 といっても、第六部も第七部も面白く読んだが。

 全巻をふりかえっての感想を四つばかり。

 第一に、これは部落差別の物語であるだけでなく、戦前の貧しい農家の暮らしを丹念に写し取った農民文学である。
 稲作や裏作の農業の大変さ、季節ごとの自然風景や畑の景観、昔の農機具、天候とのたたかい、土に生きる人々の喜びや苦しみや忍耐や祈り、貧しい中での衣食住、冠婚葬祭、近所づきあい・・・・。
 とくに畑中家の祖母ぬいと嫁ふでが用意する日々の食事の描写(主食は粥である)には、ソルティ自身の贅沢な食生活と腹回りの脂肪を恥じ入らせるに十分なものがあった。
 住井の生家は裕福だったらしいので、おそらく、農家の長男で農民文学者であった夫の犬田卯(しげる)から学ぶところ多かったのではないか。
 全編、稲作とともにある暮らしの尊さを描いてあまりあるけれど、一方、この稲作讃歌こそが日本文化を、ひいては天皇制を、ひいては部落差別を、根底から支えるものであったという事実も見逃すわけにはいくまい。
 その構造的矛盾にまでは住井は迫っていない。
 住井が網野史学を知ったら、どう思っただろう?
 
 第二に、水平社宣言について、日本人はちゃんと習うべきである。
 それも同和教育の一環としてではなく、日本の人権史上のもっとも重要な、もっとも画期的な、フランスやアメリカのそれらと並ぶ、我が国初の人権宣言として。
 いやその前に、学校教育の中に性教育(ジェンダー教育含む)や IT 教育とならんで、人権教育というコマが必要であろう。
 真の国際化を望むならば。

 第三に、本作でたびたび言及されている天皇制の問題
 戦後も GHQ の恩恵(思惑?)により生き延びたわけだが、どうなのだろう?
 今一番天皇制で苦しんでいるのがほかならぬ皇室の人々であることは、火を見るより明らかではなかろうか?
 好きなところに住めず、外出もままならず、職業選択の自由もなく、稼ぐこともできず、好きな人と結婚することもかなわず、四六時中居場所がつきとめられ動向が探られ、思ったことを発言することもかなわず、メディアやツイッターでやり返すすべさえないのに一方的に叩かれる。
 まるで国民の奴隷のようではないか。
 ソルティは、「日本人はそろそろ天皇制から卒業すべき」、「皇室の人々を茨のしとねから解放してあげるべき」と、数十年前から思っているのだが・・・・・。

 第四に、畑中家の重鎮である祖母ぬい。
 どうしても今井正版の北林谷栄しか思い浮かばない。
 ぬいの登場シーンでは、行間をモンペ姿の北林が揺曳し、セリフの響きは北林のそれである。
 ぬいは巻数が進むほどに存在感を増し、小森部落内で若者たちの尊敬を集めるようになり、ある意味“神格化”されていく。
 もしかしたら、最初の映画化(1969年)以降、住井の筆のほうが北林谷栄のぬいを追ってしまったのではなかろうか。知らずコロッケの真似をしてしまう美川憲一のように・・・・。
 一俳優が原作小説の登場人物のイメージをこれほどまでに確定してしまったケースは、ほかに『風と共に去りぬ』のヴィヴィアン・リー、金田一耕助シリーズの石坂浩二、『砂の女』の岸田今日子、『黒蜥蜴』の美輪明宏・・・・・それほど多くはないと思う。

 この小説の漫画化を希望する。


畑中ぬい
畑中ぬい役の北林谷栄



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 瞑想なる映画 本:『見るレッスン 映画史特別講義』(蓮實重彦著)

2020年
光文社新書

 映画を見る際に重要なのは、自分が異質なものにさらされたと感じることです。自分の想像力や理解を超えたものに出会った時に、何だろうという居心地の悪さや葛藤を覚える。そういう瞬間が必ず映画にはあるのです。今までの自分の価値観とは相容れないものに向かい合わざるをえない体験。それは残酷な体験でもあり得るのです。

 本書の「はじめに」で書かれているこの文章。
 まさにこれこそがソルティが映画を見続けている大きな理由である。
 そのような一本の映画に出会うために、何十本という凡作や駄作や娯楽作を観ている。
 最近では、『ボーダー 二つの世界』がその一本であった。


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 著者の蓮實重彦は東京大学の総長まで務めたフランス文学者であるが、世間的には映画評論家として名が知られていよう。
 いまの小津安二郎人気のかなりの部分は、70~80年代のこの人の“小津推し”によるところが大きい。
 ソルティもかなり影響を受けた。
 というより白状すれば、ソルティの映画開眼は20代前半に蓮實の映画批評や映画評論集を読んだのがきっかけであった。
 ひところは蓮實が編集長をつとめていた季刊誌『リュミエール』を購読し、彼の最新の映画評や淀川長治、山田宏一らとの対談が載っていた中央公論社の『マリ・クレール』を毎月のように買っていた。
 人生に映画鑑賞という歓びをもたらしてくれた恩人として、ひそかに感謝している。

 この人の文章は、一つのセンテンスが長く、回りくどく、加えて翻訳調なので、一見とっつきにくいのである。
 が、慣れてしまうと、お経のようなリズムに乗って、どこに連れていかれるかわからないスリリングな旅をしているかのような心地がして、そのうち快感となってくる。
 たとえば、こんなふうだ。
 
 あれはいったいどういうおまじないなのかしらと、あまりに仕掛けが単純なのでかえってどこにどんなタネが隠されているのかわからなくなってしまう手品を前にしたときのように、なかば途方に暮れ、なかばだまされることの快感に浸りながら妻が怪訝な面持ちで首をかしげたのは、彼女が外人教師として出講しているある国立の女子大学が、翌週から夏休みに入るという最後の授業があった日の夕食後のことだ。
(ちくま文庫、『反=日本語論』より抜粋)

 しかるに本書は、蓮實自身の執筆というより、編集者による複数回のインタビューをまとめたものらしく、センテンスは短く、文意は明確で、非常に読みやすいものとなっている。
 映画を愛する一人でも多くの読者の目に供され、この世に映画開眼者を増やすという点で、この試みは賞賛すべきである。
 内容も、日本と海外の最新の見るべき映画作家の列挙から始まって、映画の誕生、ドキュメンタリー論、ヌーベル・バーグ論、キャメラや美術監督など裏方の仕事など、幅広い話題が取り上げられている。
 蓮實自身が出会った有名・無名の監督やキャメラマンとのエピソードや、あいかわらず歯に衣着せない一刀両断の映画&監督批評が面白い。

 当ブログでも明白なように、ソルティは昔の映画をよく観ている。
 が、これは決して懐古趣味ではない。
 昔の映画を観ることを通して実際に起こっているのは、「過去」との出会いではなく、「現在」との出会いなのである。

 繰り返しますが、「昔の映画」がよかったということではなくて、それはまさに映画の「現在」として素晴らしいのです。カラーではないから現代的ではない、画面が小さくてモノクロームだから現代的ではない、などということではなく、映画において重要なのは、いまその作品が見られている「現在」という瞬間なのです。映画監督たちは、その題材をどの程度自分のものにして、画面を現在の体験へと引き継いでいるかということが重要であるような気がします。

 映画開眼したばかりの20代の頃は思い及びもしなかったが、今になって思うに、つまるところ映画を観る体験とは、こちらの目や耳がフィルムと戯れている「いま、ここ」の瞬間へと存在を立ち帰らせる一種の魔術であり、物語と非・物語の狭間に生じる圧倒的な美の衝撃によって、この世に氾濫し人を洗脳せんとする物語の支配から、自らを解放する実践なのである。
 見るレッスン、それはマインドフルネス瞑想に近い。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 世紀の不倫 映画:『美女ありき』(アレクサンダー・コルダ監督)

1941年アメリカ
128分、白黒

 原題は That Hamilton Woman
 イギリス史上最大の英雄といわれるホレイショ・ネルソン海軍提督と、イギリス外交官サー・ウィリアム・ハミルトンの奥方であったエマ・ハミルトンの運命的な出会いと別れを描く。
 史実にあった有名な不倫である。
 現エリザベス女王の叔父で愛人のために王位を捨てたエドワード8世、ダイアナ妃と結婚中もカミラ夫人とつきあい続けたチャールズ皇太子、そしてメーガンのためになりふり構わず王室もイギリスも捨てたヘンリー、冷静で自己制御の達者なイメージある英国男の意外な情熱家ぶりをここにも見る。
 いや、英国紳士は恋にも職務にも真面目なのだ。

 ネルソンを演じたローレンス・オリヴィエとエマを演じたヴィヴィアン・リーはしばらく前から不倫関係にあったが、本作撮影中にどちらも離婚が成立、撮影終了後に晴れて結婚したという。
 それを知って鑑賞すると、二人のぴったりの呼吸や視線の微妙なからみ合い、自然な抱擁とキスの仕草に、納得がいく。

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ヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエ


 あいかわらずヴィヴィアン・リーの美貌に目が覚めるが、演技も達者。
 ネルソンに死なれたエマは、盗みを働き、娼婦と一緒に牢屋に入れられるまでに落ちぶれる。
 リーは美貌何するものぞの意気込みで、尾羽打ち枯らした老け役にチャレンジしている。
 ただ、彼女の声は猫のように甲高く、舌足らずなふうで、ちょっと耳障りである。
 

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あの頃はあたしゃ、美しかったんだ


 『風と共に去りぬ』のあとに作られているので、当然カラー映画と思ったら白黒だった。
 考えてみたら、スカーレット・オハラ以外、カラー映画のヴィヴィアン・リーを観たことがない。
 もったいない話である。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● 泥土を衝け 映画:『吶喊』(岡本喜八監督)

1975年
93分

 「とつかん」と読む。
 小学館『大辞林』によれば、「ときの声を上げて、敵陣へ突き進むこと」。

 戊辰戦争を舞台とする青春痛快時代劇である。
 薩摩・長州・土佐藩らを中核とし錦の御旗を掲げる新政府軍と、旧幕府軍および奥羽越列藩同盟との熾烈な戦いが繰り広げられる中、貧農出の千太(=伊藤敏孝)と万次郎(=岡田裕介)とが持て余す若いエネルギーを爆発させ、戦いに喧嘩に女にと縦横無尽に暴れ回る。
 混乱の世ゆえの自由闊達な生と性とが描かれる。

 無名の二人の主演俳優がいい。
 伊藤敏孝は子役出身で、刑事ドラマや時代劇などによく出ていたようである。
 1949年生まれなので本作公開時26歳。やんちゃで無鉄砲で単細胞な男を溌剌と演じて小気味よい。
 一方の岡田祐介は、東映社長だった岡田茂を父に持つ、いわば御曹司。
 自身も俳優を引退した後、プロデューサー業に転じ、父親の跡を継いで東映会長に就任している。
 こちらも公開当時26歳。伊藤とは正反対の洗練された物腰で、機を見て敏に動く飄々とした青年を演じている。
 二人の相性もいい。

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伊藤敏孝と岡田祐介


 脇を固めるは、高橋悦史、伊佐山ひろ子、天本英世、小野寺昭、岸田森、田中邦衛、仲代達矢、そして語りの老婆役に坂本九といった個性派の面々。
 演出も手堅く、見ごたえある一篇に仕上がっている。

 NHKの描く渋沢栄一とは程遠い、名字も持たない男たちの泥臭い青春である。

 

おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● 母性的小説? 本:『橋のない川 第六部』(住井すゑ著)

1973年新潮社

 第六部前半は、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災後の混乱、とくに流言に踊らされた自警団による朝鮮人虐殺の模様が描かれる。
 この頃、著者の住井すゑは東京で暮らし、結婚&作家生活をスタートしていたので、実際にその身で震災を体験し、あちこちの暴動の様を見聞きしていたのだろう。
 また、混乱に乗じた社会主義者や無政府主義者の殺害もあり、本書ではのちに満州国警察庁長官となる甘粕正彦が、大杉栄と妻子を惨殺した事件が語られている。
 甘粕正彦はベルトルッチの映画『ラスト・エンペラー』(1987)で、坂本龍一が演じた軍人である。

 後半は、年頃となった畑中孝二のいとこたちの恋愛や結婚の模様が描かれる。
 部落外の女性と恋仲になった和一、部落外の男性から求婚された七重、そして小学校の同級生だった孝二と杉本まちえ、いずれも叶わぬ恋とあきらめて、あるは独身を貫き、あるは部落者同士の結婚を選び取る。
 100年後の今でさえ残る結婚差別
 当時、部落と“一般”との通婚など、まさに橋のない激流を泳いで渡らんとする如きであったろう。
 その背景に、大正13年1月26日の皇太子裕仁(昭和天皇)と良子(香淳皇后)の結婚と奈良にある畝傍御陵参りが重ねられ、この慶事への妨害を懸念した当局によって当地の水平社の青年たちが拘束されるという不条理が起こる。
 やはり、天皇制と部落差別は切っても切れない関係にあるのだ。


皇居の桜

 
 小説を読んでいると、どうしても今井正監督の映画『橋のない川』と比べてしまう。
 リアリティにおいては映画のほうが上かなあと思うのは、小森部落の人々を美化していない点である。
 たとえば映画では、伊藤雄之助演じる荷車引きの永井藤作は、息子を虐待し娘を遊郭に売るような飲んだくれの乱暴者で、良くも悪くも八面六臂の活躍ぶりであったが、小説ではほとんど目立たない。
 映画では、若くして後家となった畑中ふで(=長山藍子)に懸想しちょっかいを出す“一般”の男が登場するが、小説ではそのようなシーンはない。
 小説では、草鞋づくりする部落の男たちの作業風景がしばしば描かれるが、そこでなされる会話は総じて上品である。セクハラ・パワハラ糾弾かまびすしい平成令和ならいざ知らず、大正時代の若い男衆ばかりの集りで“夜這い自慢”の一つもないってのはまず考えられまい。
 著者の住井が女性ってこともあろうが、「差別の理不尽を訴える」という目的のために部落の人々を美化して描いている――というより、弱者に対する母親的な愛を持って全体を包みこんでいる、という印象を受ける。

 と言ったら、ジェンダー差別になるだろうか?





● 孤高なる美 映画:『アンナ・クリスティ』(クラレンス・ブラウン監督)

1931年アメリカ
89分

 ミステリー作家の伝記?
 いやそれは、アガサ・クリスティ。

 アメリカの劇作家ユージン・オニール原作の若い女性を主人公とした人情ドラマである。
 このヒロイン、アンナを25歳のグレタ・ガルボが演じている。
 
 公開時のキャッチコピーが Garbo talks! ということから分かるように、ガルボ初のトーキー映画で、観客は絶世の美女ガルボが果たしてどんな声をしているのか興味津々だったという。
 ガルボのふくよかな響きあるハスキーボイスは、観客に受け入れられ、その人気をさらに高める結果となった。

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身を持ち崩した女性を演じるガルボ

 
 ストーリー自体は陳腐で女性蔑視丸出しで、現代の感覚からすると到底上映に値するものではない(反森喜朗派からの非難轟々必死)。

 生活に疲れ果てたアンナは、幼い時に別れ15年間会えずにいた父親のもとへ帰ってくる。
 船で働く父親との海上生活で、アンナは次第に癒され、船乗りの恋人とも出会う。
 娼婦をしていたことを父親にも恋人にも告白できず悶々と悩むアンナ。
 アンナの決死の思いの告白にショックを受ける父親。
 アンナを見下しプロポーズを撤回する恋人(=チャールズ・ビックフォード)。
 むろん、二人の船乗りは港々で女を買って遊んでいる“海の男”である。
 最後は父親と恋人はアンナを許し受け入れ、三人には明るい未来が待っている。  

 孤独好きでバイセクシュアルの噂があり生涯結婚しなかった素顔のガルボ(=グレータ・グスタフソン)なら絶対に受け入れなかったであろう男尊女卑の物語を、ガルボがけなげに演じているところに、何とも言えない落差がある。
 この落差が、北欧のスフィンクスと讃えられたガルボの類いまれなる美貌を伴って、一種の品格とも諦観ともなって、ガルボ映画独特の哀愁が生まれる。
 それは避けられない運命を毅然として受け入れる者に共通する孤高なる美なのだ。

 フェミニズムを通過した現代なら、ガルボは自らの本質にふさわしい役を自由に選び、思いっきり演じられたことであろう。たとえば、ニコール・キッドマンのように。
 であれば、36歳の若さで引退する必要もなかったであろう。

 女性グレータ・グスタフソンの悲劇は、半世紀早く生まれてしまったことだ。
 女優グレタ・ガルボの華々しい成功と魅力の秘密は、半世紀早く生まれたことだ。


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後年の『ニノチカ』のキャッチコピーは「ガルボが笑う!」だった。
が、すでに本作でガルボは破顔一笑している。


おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 本:『結婚差別の社会学』(齋藤直子著)

2017年勁草書房

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 著者は1973年生まれの部落問題、家族社会学を専門とする研究者。
 ここで言う「結婚差別」とは部落差別の一つで、部落出身者と部落外出身者とが結婚を望んだときに主として部落外出身者の親が反対することである。

 本書の目的は、結婚差別問題が生じたときに、カップルと反対する親との間で、どのような対立や交渉や和解、あるいは決裂が生じるのかを描くことである。とくに、恋人たちがいかにしてその問題を解決していくのか、そのプロセスを丹念に記述することが本書の中心的な課題である。

 水平社設立から一世紀近く、同和対策事業特別措置法の施行から半世紀以上(2002年終了)、部落差別は明らかに減った。
 同和地区指定を受けた部落の居住環境や教育水準は向上し、『部落地名総鑑』や興信所を利用した就職差別も表立って聞くことは少なくなった。
 部落出身者と部落外出身者との恋愛や結婚も増えている。
 差別落書きやインターネットにおける誹謗中傷など、劣等感の塊のような一部の人間が行う卑劣な行為は見られるものの、一般市民の差別意識が薄らいだのは間違いなかろう。
 そんななかで「最後の越えがたい壁」と言われているのが、結婚差別なのである。

 就職に関しては、企業や行政の取り組みや学校現場の同和教育を通じて、状況は大きく変化したが、結婚差別問題は、私的な領域の問題であり、直接的にアプローチすることが難しいこともあって、いまだ残された課題となっている。

 本書には、実際に結婚差別を受けた経験のある人々や、結婚差別を受けたカップルをサポートした人々に対しておこなった聞き取り調査の分析結果が述べられている。
 著者の齋藤が関西の人間であることもあって、取り上げられている多くが大阪の事例である。
 こうした系統だった研究は珍しいのだそうだ。

 読みながら、「いまだにこんな理不尽なことがあるのか!」という驚きが先立つ。
 分析のもとになっている調査はいずれも2000年以降のものであり、聞き取り調査の対象となっているのは20~30代の人が多い。
 つまり、平成時代に実際にあった結婚差別の事例が多く取り上げられている。
 結婚に反対した彼らの親たちはまず間違いなく戦後生まれである。
 なんつー、アタマの古さ・・・・。

 当事者が語る滑稽なまでに理不尽な体験談に驚きあきれかえるばかり。
 が、一方、ソルティはこの問題に関して何ごとかを言うべき資格を持たないように感じるのである。

 一つには、ソルティは関東生まれ関東育ちで、親戚づき合いのほとんどないサラリーマン家庭の一員で、周囲もほぼ同様であった。
 高校時代に一コマだけの同和教育でビデオを見た記憶はあるが、部落差別は遠い過去の話、遠い土地の話という認識しかなく、具体的な差別エピソードなり差別的言辞を身の回りで聞いたことがなかった。
 社会人になってから、どうやら部落は西のほうに多いらしいと知るのだが、出張や旅行以外で西に行くことはほとんどなく、住んだこともない。
 西の友人も少ないので、そういった話を聞く機会もなかった。
 西の人とくに関西圏の人たちが、どのような“部落観”を持っているのか、日常生活の中で部落差別とどのように出会い、どのように感じ、どのように配慮し、普段どのような問題意識や口に出せない思い(本音)を持って暮らしているのか、よくわからないのである。
 もちろん、関東にも部落は存在した(する)し、部落差別もあった(ある)のだが、ソルティの住んでいるあたりは人の出入りが激しく、街の区画も風景も年々様変わりしていくので、「家系・住所・職業」のいわゆる“三位一体”によって部落民を特定するなんてのは、まったくのナンセンスである。
 そういったわけで、部落差別のある風土を肌身で感じた経験がないため、あたかも“別世界の出来事”のような感じがするのである。
 
 今一つ、ゲイである自分にとって、結婚というのがやはり“別世界の出来事”である。
 結婚という人生の選択肢を自分に適用したことがないので、結婚をめぐる事象に関心もなければ詳しくもない。
 時代風潮として、この先日本でも同性婚がありうるかもしれないが、そうなってみると、果たしてそもそも自分が結婚したいのかどうか疑問である。
 つまり、自分は「ゲイだから結婚しない」のではなく、「ゲイでなくとも結婚しない」タイプの人間ではなかろうかと思うのである。
 結婚したい人の気持ち、結婚しなければと焦る人の気持ち、子供に結婚を望む親の気持ち、どれもよく分かるとは言い難い。
 
 本書で語られているような結婚差別がどうして起こるのかと言うと、部落外出身者の親が娘や息子が部落出身者と結婚することを反対し、それに対して娘や息子がなんとか親に許してもらおうと説得を試みるから、そこに対立が生まれ、問題となるのである。
 ソルティは、その過程を読んでいて歯がゆく思うのだ。
 「成人同士の結婚に親の許可なんか要らないじゃん。さっさと入籍するなり同居するなり子供を作るなりして、既成事実を作ってしまえばいいのに・・・・」と。
 しかるにそれでは納得できない当事者は多いらしく、どうしても親の理解と祝福がほしいようなのである。
 著者はそれを「育ててくれた親に対する愛情と恩ゆえ」のように書いているけれど、裏を返せばそれは、自分が“親不孝者、薄情な子供”となってしまうこと、そう周囲に思われてしまうことに対する抵抗感からくるのではないか。
 つまり、結婚差別問題の背景にあるのは、部落差別だけでなく、親子関係の有り様なのである。
 このあたりの親子間の心の機微というのが、どちらかと言えば感情的に淡白な家庭に育ったソルティにはまた伺い知れないところである。(偏見かもしれないが、東より西のほうが浪花節的人間関係が濃い気がする)
 
 親と関係悪化することで生じる具体的な損失――たとえば、遺産相続とか育児サポートとかまさかのときの避難所とかの喪失――について残念に思うのは当然であり、これは十分理解できる。
 しかし、好きな人との仲を引き裂かれて、その後ずっと親を怨み続けるくらいなら、多少の不便は覚悟のうえで親との関係を一時的に絶って、好きな人の胸に飛び込んだほうが後悔はないだろう。
 この長寿社会、ほうっておいても老いてくれば親のほうから折れてくる可能性は高い。
 そう思ってしまうソルティは、やはり打算的で身勝手で単純な個人主義者なのだろう。

 
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 ときに、ちょっと前ネットで、高視聴率のドラマをたくさん生み出してきた有名プロデューサーのインタビュー記事を読んでたら、「最近では枷がないから恋愛ドラマが成り立たない」と言っていた。
 恋愛ドラマというものは、恋する二人の間に乗り越えがたい障壁があってこそ面白くなるし、視聴者も食いつくということだ。『ロミオとジュリエット』や岸恵子主演『君の名は』や『おっさんずラブ』を例に出すまでもない。
 「そのとおりだな。もう視聴者の心を湧き立たせるような恋愛ドラマをつくるのは難しいだろうな」と思ったが、本書を読んで考えが変わった。

 「ここに恋愛ドラマの宝庫があるじゃん!」

 部落差別という“立派な”枷があり、愛しあう若い二人がいて、無理解な親や世間がいて、あたたかい支援者がいて、二人がめでたく結ばれるまでの或いは悲劇に終わるまでの紆余曲折があって、愛あり、悩みあり、告白あり、怒りあり、混乱あり、葛藤あり、逆境あり、諦めあり、闘いあり、慟哭あり、絶望あり、希望あり、それでも切れることない親子の絆あり、新しい命の誕生あり、成長あり・・・・。
 この一冊から、どれだけ豊かな、熱い人間ドラマが生み出されることか。

 最後に事例を一つ紹介する。
 大阪の部落出身の30代女性Uさんの体験である。
 
 Uさんは、短大時代にアルバイト先で、のちに夫となる人に出会った。彼は、八年にわたる交際期間のなかで、Uさんが部落出身であることに気づいていたようだが、お互いにそのことについて触れることはなかった。(中略)
 結婚式は、Uさんたちの住む大阪で行われた。夫の側からの親族の出席は、ほとんどなかった。夫の親戚には高齢者が多く、郷里から出てくるのは大変だからという理由であった。Uさんは、親戚が参列しないことを、特に不審に思わなかった。
 ところが、結婚後まもなく、夫の郷里の親戚に挨拶にいったとき、Uさんを驚かせる出来事が起こった。郷里の親戚が一同に料亭に待機しており、その場でいきなり披露宴が始まったのである。つまり、Uさんには何の相談もなく、夫の親族だけを集めた二度目の結婚式が準備されていたのである。

 さらに驚いたことには、その後Uさんの義妹(夫の妹)が大阪で結婚式を挙げることになったとき、夫の親戚はバスを借り切って田舎から大挙してやってきたという。「高齢で郷里から出てくるのが大変」というのは嘘だったのである。Uさんが問い詰めると、夫は最初の結婚式の時に自分の親戚に招待状を出さなかったことを白状した。

 酷い話である。
 これから一生を共にする相手に、よくもこんな非情な仕打ちができるものだ。
 こんな夫と離婚しないでいるUさんの度量というか忍耐力には驚かされる。
 ソルティがUさんの立場だったら、途端に愛が冷めて、縁を切る。
 やっぱり、結婚には向かないタチなのだろう。
 

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naobimによるPixabayからの画像



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● いい箱つくろう! 本:『日本の歴史をよみなおす』(網野善彦著)

1991、1996年筑摩書房
2005年ちくま学芸文庫

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 帯の文句が大袈裟?

 ――と思うが、一読、多くの人が持っている日本の歴史観を大きく揺さぶる一冊である。
 この学者の名前はずっと気になっていたが、なぜか読む機会がなかった。
 
 日本の中世史、海民史の専門家である網野善彦(1928-2004)は、最近になって発見された非・官整の資料を研究するうちに、学会で長らく常識とされ、我々が教科書や歴史小説や映画やテレビドラマを通して学んできた日本の歴史観に大きな間違いがあったのに気づく。
 それは簡単に言えば、「百姓」という言葉は「農民」だけを指すのではなく、海や川や山などで働く非農業民をも含むものであること。日本は元来、稲作中心の農本主義国家ではなく、海民や山民、廻船人や商人の活躍してきた流通盛んなネットワーク型の非農業国家でもあることを、明らかにしたのである。
 
 確かに、教科書では「国民の大半(75%以上)は百姓(=農民)」と表記されてあったし、子供のころに観ていたNHK『明るい農村』、漫画『サスケ』や時代劇に出てくる年貢に苦しむ貧しい農民のイメージ、そして天皇による毎年恒例のお稲刈りや新嘗祭の報道によって、「日本は稲作の国、農民中心の社会(だった)」と刷り込まれていた。
 とくにソルティは、関東平野のまんなかに生まれ育ったので、海や山で働く人を身近に見ることはなく、生家の周囲は畑や空き地ばかりだった。(それがどんどん宅地に変わっていった)
 自然、自分の前世は「江戸時代の水呑み百姓」などと思っていた。
 が、本書によると、百姓=農民ではなく、水呑む百姓=貧民でもなかったそうである。

 考えてみれば、日本は周囲を海に囲まれた島国で、河川も多く、国土の多くが森林だったのである。
 気候さえ違えど、ノルウェー・デンマーク・スウェーデンなどのスカンジナビア半島によく似ている。(大きさも同じくらい)
 これらの国家でバイキングが隆盛をふるったように、日本でも海の民が海岸線や河川に沿って縦横無尽に商いしていたとしてもおかしくはない。
 農業的見地では辺鄙で農地も少なく貧しいはずと思われる北陸の海辺の村が、中世を通じて実は運輸と貿易で栄える豊かな都市であったなんて、思いも及ばなかった。

 子供の頃に学校で習ったことや受験勉強で必死に覚えたことがどんどん変わってしまい、時代遅れな知識や認識を持っていることに気づかされる昨今である。
 歴史を勉強し直す必要を感じる。

 鎌倉幕府の成立は1185年って知ってましたか?

いい箱つくろう
吾輩は頼朝じゃ



おすすめ度 : ★★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● マリア・カラスと山田五十鈴 映画:『蜘蛛巣城』(黒澤明監督)

1957年東宝
110分、白黒

 シェークスピアの『マクベス』を日本の戦国時代に置き換えた黒澤映画の傑作。
 やはり、何と言っても城の奥方・浅茅ことマクベス夫人を演じる山田五十鈴が凄い!

 もちろん、終始一貫して底知れぬ男性的磁力と迫力とを見せる三船敏郎のマクベス(=鷲津武時)も、幽玄なる不気味さを醸し出す“おちょやん”こと浪花千栄子の魔女も、主役を引き立てつつ独特な存在感を醸す千秋実のバンクォー(=三木義明)もそれぞれに素晴らしい。
 だが、観終わった後、悪夢のように脳裏に残り続けるのは、山田五十鈴の怪演とくに狂気のシーンである。
 映画史の中でこれに匹敵する女優の演技は、『サンセット大通り』のラストのグロリア・スワンソンだけであろう。
 国内外問わず、どれだけの名だたる女優がこの映画に出演できた山田を羨ましく、かつ妬ましく思ったことやら。
 
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この手の染みが落ちないんだよ~


 国内の女優で山田以外のだれがよくこの役をこなせるだろう?
 杉村春子?
  ――むろんできる。ただ、どうしたって美しさでは劣る。
 岩下志麻?
  ――適役である。ただ、演技過剰で黒澤映画の雰囲気を壊しかねない。
 若尾文子?
  ――観てみたい。ただ、若尾の狂気は内に籠らず、外に向かって行動として爆発するほうが合っている。
 高峰秀子?
  ――いいかもしれない。が、三船には喰われそう。
  ――これもはまり役。が、独特過ぎて一人だけ作品から浮いてしまうかも・・・。

 山田の浅茅ことマクベス夫人には、幼い頃から常磐津、長唄、清元、日本舞踊などの伝統芸能をしっかり身に着けてきたゆえの時代劇役者としての所作や声音や立ち居振舞いやリズム感が備わっているうえに、山田自身の波乱の人生や芸に対する異常なまでの執念と重なり合うことで、マクベス夫人が陥る“狂気”に必然性がもたらされる。
 山田五十鈴という怪物キャラが、マクベス夫人とオーヴァーラップするのだ。
 そこが強みである。

 というのも、原作でシェークスピアはマクベス夫人の陥る狂気にこれといった原因を設定していないからである。
 一幕から三幕までは田中真紀子か蓮舫か小池百合子ばりの気の強さを見せていたマクベス夫人が、出番のない四幕をはさんで、五幕のっけからいきなり狂った様子で登場する。
 その不条理な転身ぶりが面白いと思う一方、「幕間で彼女になにがあったのだろう?」と、この劇を読んだり観たり聴いたりするたびに不思議に思うのだ。
 狂気というものを天の仕業とみなしていた中世の観客なら別段そこになんの不思議も思わなかったのだろうが、精神医療の時代に住む現代人はやはり何らかの理由を求めてしまう。
 
 黒澤は、マクベス夫人が城の跡取りとなる子供を懐妊し、死産してしまうという理由を用意する。
 見事な解釈である。
 そこに山田五十鈴の怪物キャラが合わされば、狂気も自然となる。

 ソルティは、記録に残っているマクベス夫人の両横綱は山田五十鈴とマリア・カラスだと思うが、マリア・カラスの場合もまた、圧倒的な声と歌唱術のみならず、我儘プリマドンナの横綱でもあったその怪物キャラが、マクベス夫人を演じるにあたってものを言っていた。少なくとも現在、山田やカラスのマクベス夫人を観たり聴いたりするときに、演者自身の人生やキャラクターと重ね合わせずにはいられないのである。
 



おすすめ度 : ★★★★★

★★★★★
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● 映画:『ゼロの未来』(テリー・ギリアム監督)

2013年イギリス、ルーマニア
106分

 ディストピアSFの金字塔『未来世紀ブラジル』(1985)のテリー・ギリアムによる、やはり未来の管理社会を舞台としたSF&哲学ドラマ。

 哲学ドラマと言うのは、テーマが“生きる意味、存在の意味”といった壮大なところにあり、タイトルにある“ゼロ(0)”とは、宇宙のブラックホールであり、ビッグクランチ(=ビッグバンの逆)であり、仏教的な“空”や“無”を意味しているかのように見えるからだ。

 己れの存在する意味、生きる理由について懐疑にとらわれた主人公コーエン(=クリストフ・ヴァルツ)が、世界を管理支配するコンピュータを相手に孤軍奮闘するさまを、ギリアムならではのポップでサイケデリックな映像、コミカルかつ難解なプロットで描いている。

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 映像はさすがに凄い。
 『不思議な国のアリス』のような独特な世界が構築され、一見の価値がある。
 一方、テーマそのものは宙に浮いてしまって、存在を肯定しているのか否定しているのか、よくわからないままに終わっている。
 まあ、答えの出ない問題ではあるが・・・。
 「存在の意味を問うなど無意味。答えは愛」と安易に落とし込めないあたりが、ギリアム監督のプライドなのだろう。
 (ソルティ思うに、「答えは愛」が正解なのだろう。まあ、「愛」というより「生殖」だが・・・。すべての生命の使命がとりあえずそこにあるのは間違いあるまい)

 観ている間は全然気がつかなかったが、『サスペリア』や『少年は残酷な弓を射る』のティルダ・スウィントン、『クラウド・アトラス』や『英国スキャンダル~セックスと陰謀のソープ事件』のベン・ウィショー、それにマット・デイモンが出演していたらしい。
 これら主役級スターをチョイ役で使えてしまうあたり、さすが大監督である。



おすすめ度 : ★★

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● 水平社100周年 本:『橋のない川 第五部』(住井すゑ著)


1970年新潮社

 第五部は水平社が設立された直後の小森部落の様子や世間の反応が描かれる。
 歓喜の声を上げ闘志と希望に満ち溢れる部落と、世の秩序を転覆するものとして水平社を恐れ快く思わない世間と。
 その対立の中で、地域の小学校での差別事件に対する糾弾を行なった畑中孝二をはじめとする小森の青年ら7人は、それを騒擾罪とみなした当局に逮捕され、五条監獄に70日間収監されてしまう。
 しかし、それは小森のみならず全国の部落民の団結と闘志をいよいよ強める焚き付けとなり、各地に水平社の支部が作られ、機関紙『水平』が発行され、全国少年・少女水平社や全国婦人水平社も誕生していく。
 そんな折、関東大震災が起こる。

 長い間虐げられてきた部落の人々が声を上げて立ち上がっていく本巻は、読んでいて胸が熱くなるシーンが多い。
 とりわけ、普段は大人しくて優しい孝二が、騒動の調停役を買って出た国粋会の今川忠吉――地域の顔役で土建の親方、すなわち権力側の番犬である――に面と向かってこう告げるシーンは、胸がすく思いがした。

 これから二十年、或いは三十年先になるかもしれませんが、教育勅語は必ず消えて失うなる日がくるのです。けれども水平社宣言は、絶対に消えて失うなる日はありません。それは人の世を支配する権力は必ず滅ぶが、働く人間に滅びがないのが歴史の教訓で、水平社宣言はこの働く人間の血と涙の叫びだからです。

 関東大震災の記述にハッとしたが、水平社設立は震災の前年の大正11年3月3日、すなわち西暦2022年である。
 来年は、水平社創立100周年にあたるのだ。
 コロナが落ち着いたら、この物語のモデルとなった舞台を歩いてみたい。
 リニューアルオープンされる水平社博物館にも行ってみたい。


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● 漫画:『外天楼』(石黒正数・作画)

2011年講談社KCDXから発行
2015年講談社文庫

 散歩の途中に寄った、漫画とエロDVD専門の古本屋にて100円で購入。
 作者の名前も作風も知らず、江口寿史風のすっきりした絵に惹かれて買ったのだが、これがびっくりの傑作であった!

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 中学生男子の涙ぐましいエロ本購入作戦という、いまや古臭すぎるベタなネタから始まって、コミカルで捻りのきいたミステリー短編が並ぶ。
 一話一話は読みきりだが、舞台や登場人物が微妙に重なっているので、連作物と分かってくる。

 最初のうちは、星新一風の肩の凝らないSF&ミステリーショート漫画という感覚で楽しく読んでいたら、最後の最後に不意打ちを喰らわされた。
 そして、一話ごとにその都度、設定とストーリーが生み出されネームが練られているかと思っていた各編が、実は最初から、数十年にわたる大きな人間ドラマの一コマとして描かれていて、あちこちに用意周到に伏線が張られて、最後の“非”人間ドラマのカタストロフィーにつながっていたことが判明する。
 見事な構成力と画力は、大友克洋の傑作『童夢』を思わせる。

 こんな漫画家がいたんだ!



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
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★     読み損、観て損、聴き損

 

● 映画:『東京流れ者』(鈴木清順監督)


1966年日活
83分、カラー

 デビュー間もない渡哲也主演の任侠アクション映画。
 鈴木清順の独特の美学と、日本が世界に誇る木村威夫の美術により、非常にモダンで芸術的でスタイリッシュな映像に仕上がっている。
 木村威夫は同じ清順の『ツィゴイネルワイゼン』、林海象監督『夢見るように眠りたい』、三國連太郎監督『親鸞 白い道』などを担当している。
 
 二十代半ばの渡哲也のカッコよさが光る。
 暗闇から聞こえてくる口笛、咥えタバコ、得意の空手をいかした立ち回り、清潔な角刈り、低音のしびれる歌声、女に用はない。あくまで硬派で、あくまで義理堅く。
 デビュー時についたこのイメージのまま、歳を取って、最後まで行ったのだなあ。
 
 当時、吉永小百合・和泉雅子と並ぶ日活のトップ女優であった松原智恵子の彫像のような品ある美しさも光っている。
 クラブ歌手の役でソプラノを披露しているが、歌は別人だろう。
 
 出番は多くないものの“ダンプガイ”二谷英明もカッコいい。
 グリーンのジャンパーをこんなふうに粋に着こなせる日本の男はなかなかいないだろう。
 後年、朝日テレビのドラマ『特捜最前線』で見せた包容力がすでに備わっている。
 
 たまに60年代日活映画を観るのも悪くないな。
 それにしても、本作のシュールな絵を観てつくづく思うのは、鈴木清順にこそ『黒蜥蜴』を撮ってほしかった。
 

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 渡哲也と二谷英明
 

おすすめ度 : ★★★

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