ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● オペラライブDVD :リヒャルト・シュトラウス作『サロメ』

収録年 1997年
会場  コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウス(ロンドン)
管弦楽 同劇場管弦楽団
指揮  クリストフ・フォン・ドホナーニ
演出  リュック・ボンディ
キャスト
 サロメ :キャサリン・マルフィターノ
 ヨカナーン :ブリン・ターフェル
 ヘロデ :ケネス・リーゲル
 ヘロディアス :アニア・シリア

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 オスカー・ワイルド原作の同戯曲のオペラ化である。
 ストーリーも台詞もほぼ原作に添っているので、劇としての完成度の高さは折り紙付き。
 あとは音楽であるが・・・・・・

 ソルティは不協和音や無調(多調)をモットーとする現代音楽が苦手なので、正直、聴いていて苛立たしいばかり。
 歌唱も最初から最後までフォルテの連続でメリハリがないので、登場人物たちが大声で好き勝手なことをがなり立てる狂人の宴のようにさえ思える。
 「この素晴らしい戯曲が台無し・・・」という残念感を抱かざるを得ない。
 ヴェルディやプッチーニとは言わずとも、せめてワーグナーあたりがオペラ化していてくれたら良かったのに・・・・・と思ってしまうが、戯曲『サロメ』は1891年発表だからワーグナーの死後だったのだ。
 いや別に今からでもいいから、どなたかベルカント的手法あるいはロマン派的手法でオペラ化し直してもらえないものか。 
 サロメがヨカナーンの首を抱いて溢れる思いを語り続けるクライマックスなぞ、まさに『ルチア』や『清教徒』などのベルカントオペラにみる「狂乱の場」そのものではないか。

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ヨカナーンの首に接吻するサロメ(同ライブの一シーン)

 とは言うものの、シュトラウスの『サロメ』を否定するものではない。
 前半部分こそ「狂人の宴」的騒音にうんざりさせられるが、ヘロデ王がサロメに踊りを所望するあたりから面白くなってくる。
 現代音楽通にしてみれば、有名な「七つのヴェールの踊り」につけられた音楽は、古臭くて大衆迎合的で色物チックに聞こえるのかもしれないが、ソルティはやっとここでこの作品を好きになれた。
 このハリウッド映画チックな見せ場と音楽的弛緩があってこそ、そのあとに来るヨカナーン首切りと狂気のラブシーンとが引き立つ。
 緊張と緩和は作劇には欠かせない。
 人間の生理にも。 

 主演のキャサリン・マルフィターノが素晴らしい。
 歌唱も立派だが、演技が抜群。
 エロチックであることが必須とされる七つのヴェールの踊りを、プロダンサーの代役も立てずに自らこなしている。
 どれだけ訓練したことか。
 
 ヘロデ王役のケネス・リーゲルが素晴らしい。
 シェークスピア劇を思わせる彼の古典的演技のリアリティが、狂人のたわ言のようなこの前衛的音楽を、強烈な欲望や恐怖や怒りや怯えの間を揺れ動くヘロデ王の心理表現たらしめるのに、預かって力ある。
 逆説的なようだが、前衛音楽オペラの真価を生みだすのは古典的演劇の風格と確たる演技術なのだ。 
 このライブの成功を根本で支えているのは、ケネス・リーゲルだろう。
 
 現代音楽同様、現代的演出というのもソルティは好きでない。
 が、ここではさほど奇抜な演出がなされてはいない。(たとえば、舞台を現代に置き換えサロメを保守政党の領袖の娘、ヨカナーンを左翼活動家にするといったような・・・)
 全般に簡素で暗いトーンに統一された舞台で、原作のイメージを損なってはいない。
 
 オペラでない『サロメ』の舞台を一度観てみたいのだが、日本ではあまりかからない。
 ウィキによれば、過去には松井須磨子、岸田今日子、森秋子、多部未華子らがサロメを演じている。若き岸田は適役だったろう。
 その美貌といい、スタイルの良さといい、すぐれた演技力といい、官能性といい、スキャンダラスな匂いといい、内に秘めた純粋さといい、個人的には宮沢りえか沢尻エリカがハマると思うのだが、どちらも年齢的にもう遅いかな・・・・。
 

 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● 60年前のパラダイム 本:『日本の黒い霧』(松本清張著)

初出1960年『文藝春秋』
2004年文春文庫

 60年以上前のノンフィクションだが、今読んでもとても面白い。
 スリリングで、好奇心をそそられ、ゾッとする。
 松本清張の作家としての力量――探究心、知識、世間知、批判精神、取材力、分析力、洞察力、想像力、推理力、構成力、なによりも旺盛にして読者をとらえて離さない筆力――がいかんなく発揮された傑作にして代表作である。
 上下巻770ページ以上を難なく読み終えた。

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 太平洋戦争に敗北し米国GHQ占領下にあった日本で起きた数々の不可解な事件が取り上げられる。
 これを性質の似通ったものごとに大雑把に分けると次のようになろう。

1群 日本共産党の関係者が冤罪を被った事件 
  • 追放とレッド・パージ(1945~1950年)
  • 下山国鉄総裁謀殺論(1949年)
  • 推理・松川事件(1949年)
  • 白鳥事件(1952年)
2群 GHQ内部の腐敗や権力闘争が絡む事件 
  • 征服者とダイヤモンド(1945年)
  • 二大疑獄事件(1948年)
  • 「もく星」号遭難事件(1952年)
3群 スパイ疑惑が絡む事件  
  • 革命を売る男・伊藤律(1933~1953年)
  • ラストヴォロフ事件(1944年)
  • 鹿地亘事件(1951年)
4群 その他 
  • 帝銀事件の謎(1948年)
  • 謀略朝鮮戦争(1950年)

 もちろん、上記の分類は表面的・便宜的なものであって、すべての事件の背景に見え隠れするのは、GHQの占領政策であり、GHQ内部における民政局(GS)と参謀第二部(G2)との権力争いであり、米ソの冷戦であり、日本の共産主義化をなんとしても抑えたい米国の強い意志である。
 すなわち、まず戦勝国の中で共産主義勢力(ソ連、中国)と資本主義勢力(米国、英国、仏国)の対立があり、米国の中で民主党と共和党の政権闘争があり、GHQの中で日本の民主化を進めたいGSと日本を極東の橋頭堡としたいG2の覇権争いがあり、焼け野原の広がる日本にあっては共産主義革命を求める声がそれなりに高かった、という構図があった。
 この何重にも絡まって錯綜した政治と権力と野望の密林の中で、無条件降伏し武器を奪われた日本の民に――しかも国際的に見れば“12歳以下”の政治しかできない日本人に、いったい何ができたであろう?
 GHQのご機嫌を損なわないように振舞うほかなかったというのが正味のところだろう。

 読んで面白い(と言うと不謹慎なようだが)のは、上記1群の共産党が絡む事件である。
 下山事件、松川事件、白鳥事件はいずれも殺人の謎をめぐる論考であり、殺人現場の図面が掲載されていたり、目撃者の証言や凶器や遺留品に関する検討がなされていたり、当時上がった様々な仮説が検証されたり、清張自身の真犯人推量が開陳されたりと、まさに推理小説そのもの。4群の帝銀事件も同様である。ナンバーワン推理作家としての清張の独壇場である。
 一方、3群のスパイが絡む事件は、スパイ小説でも読んでいるかのような臨場感と空恐ろしさがある。
 「現実世界でもスパイ小説みたいなことがあるもんだなあ」と呑気に思ってしまうが、これはまったく逆で、我々の日常生活は想像以上に内偵や諜報や謀略がはびこっている気持ち悪いものなのかもしれない。現在の中国がまさにその例証である。
 なお、伊藤律のスパイ疑惑については、複数の研究者による調査の結果、現在では否定されており、2013年以降の文春文庫では巻末に注釈が入れられている。清張の推理も完全無欠というわけにはいかない。
 G2とGSの覇権争いを背景に起こった、官僚や政治家の汚職を暴いた2群の疑獄事件は、今も変わらぬ政・官・財の癒着構造を浮かび上がらせて余すところない。
 次の一文など、まさに時代を超えている。

 疑獄はいつの場合でも下級官吏からの摘発が常識であって、殊に課長補佐あたりが常にその犠牲になる。疑獄が起ると、通例と云っていいほどこのクラスが自殺するのは、捜査陣もここを突破口として取調べを集中するし、下級官吏としては義理に迫られて、止むなくみずからの命を絶つのである。誰が有罪の宣告を受け入獄したとしても、自殺した下級官吏こそ疑獄の最大の犠牲者であろう。

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 本書は発売と同時にベストセラーとなり、「黒い霧」という言葉は流行語になった。
 ソルティが初めて手にしたのは発行25年後の80年代中頃で、当時大学生だった。
 実を言えば全部は読み通せなかった。
 松川事件、下山事件、帝銀事件あたりは、現実の迷宮入り事件を小説家が推理するポーの『マリー・ロジェの謎』のような“推理小説のバリエイション”として興味深く読んだ記憶がある。その他のものは、戦後の国際政治や左翼運動について無知も同然だったので、難しくて読めなかった。 
 今回難なく読めたのは、池上彰&佐藤優の『真説 日本左翼史』のおかげで、戦後の大まかな日本左翼史がつかめていたからである。
 とは言え、上記の3つの事件を読んだだけでも、GHQの底知れぬ恐ろしさに震え、反米感情が募ったことは覚えている。
 「よし、マルクスを勉強しよう」とは思わなかったけれど、冤罪を被った松川・下山両事件の共産党関係者たちや、帝銀事件の犯人として捕えられた画家の平沢貞道被告に同情し、権力の不正や横暴に腹が立った。

 本作が発表された1960年は日米安保条約の最初の改定にあたり、左翼運動が盛んな時だった。
 当時本書を読んだ人々が、GHQの実態を知り反米感情を高めたであろうことは想像に難くない。
 内情がよく知られていなかったソ連や中国や北朝鮮など共産主義国家に対する憧憬や親愛の情が高まったとしても無理はない。
 清張が本書で反米を煽っているのは明らかである。

 刊行から60年余。
 その間にソ連はスターリン独裁を経て崩壊し、北朝鮮は独裁国家の生き地獄と化し、中国はジョージ・オーウェルの描いた『1984』さながらの全体主義管理国家の恐怖に覆われている。
 パラダイムは変わった。 
 共産主義は机上の思想として玩ぶならともかく、現実社会に適用させてはいけないってことは中川八洋先生の指摘を俟つまでもなく、最早火を見るより明らかであろう。
 歴史に「もし」は禁句だけれど、つい想像してみたくなる。

 もし敗戦後の日本が米国(GHQ)でなくソ連の統治下に置かれたとしたら・・・。
 もし戦後の日本で北朝鮮や中国のように社会主義革命が実現していたら・・・。
 もしソ連とアメリカが朝鮮半島ではなく日本を戦場として一戦交えていたら・・・。
 さらには、もし軍部に牛耳られていた大日本帝国が神風のおかげで米国に勝利していたら・・・。

 松本清張がその類まれなる才能を存分に発揮して作家活動に専念できたのも、本書のようなGHQや米国に批判的な作品を自由に世に送り出せたのも、ソルティがこうやって好き勝手に駄文を書き飛ばしてネットにUPできるのも、表現の自由が保障される民主主義国家に生を享けたおかげである。
 本書を令和4年の今読むことの意味は、そのあたりの事情を鑑みるところにもあろう。

 と言って、GHQや米国を持ち上げるつもりはないし、右翼や保守勢力に加担するわけでもないし、横暴な権力と闘う左翼の活動をくじくつもりもない。
 ただ歴史というものの不可解さに感じ入るばかり。
 そればかりは清張先生の推理も及ぶところではなかった。 

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おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● 鉄道ファン必見! 映画:『張込み』(野村芳太郎監督)

1958年松竹
116分、モノクロ

 松本清張原作×橋本忍脚本×野村芳太郎監督の『砂の器』トリオによる清張ミステリー映画第一弾である。
 このトリオでは、ほかに『ゼロの焦点』『影の車』がある。
 清張作品は山田洋次『霧の旗』や斎藤耕一『内海の輪』など、いろいろな監督が撮っているけれど、やはり野村芳太郎が一番しっくりくる。
 その理由は、野村監督自身が大のミステリー好きだったこともあろうが、本作冒頭の横浜駅から佐賀駅までの列車の旅の長大なシークエンスであからさまなように野村が鉄道マニアであること、そして『砂の器』で示されたように野外ロケとくに地方ロケが巧みなことが、大きい気がする。
 鉄道と旅は、清張ミステリーのトレードマークだからである。

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鉄道マニア垂涎の冒頭シーン(特急「かもめ」)

 36作もある清張ミステリー映画には当然ながら出来不出来があって、原作者自身が気に入ったものは少なかったと言われる。(その例外が『砂の器』であることは言を俟たない)
 ソルティはこれまでに8作しか観ていないので評価を下すは早計に過ぎるが、この『張込み』は『砂の器』や『天城越え』と共にベスト10に入れてもいいような気がする。
 モノクロ撮影が非常に美しく、脚本も役者の演技も素晴らしく、エンターテインメントとしても刑事サスペンスとしても人間ドラマとしても見ごたえがある。

 ベテラン刑事役の宮口清二は、家庭持ちの中年男の生活臭漂わすリアリティある演技。独身若手刑事を演じる大木実との相性も良い。役者としては地味な二人のたたずまいは、決して目立ってはいけない張込み役にリアリティをもたらす。
 犯人のかつての恋人役の高峰秀子は、一見、野村作品のカラーとは合わない感がある。が、なかなかどうして好演。作品の色に染まるカメレオン女優の面目躍如たる。  
 
 ソルティにとって、数十年前の清張ミステリー映画を観る楽しみの一つは、ドラマそのものよりもむしろ、「鮮やかに記録された昭和の日本」を懐古するところにある。
 映画の撮られたその時々の日本の風景――都会と地方、自然と繁華街、家屋や店舗や道、乗り物や駅頭や鉄道沿線、庶民の部屋のしつらいや日々の暮らし、その時代を生きる日本人の顔や仕草や体臭など――が、“社会派ミステリー”と称された原作の特質ゆえにリアリティ豊かに描き込まれているからだ。
 借りたDVDには特典映像として『シネマ紀行』という短い一篇がついていた。
 映画『張込み』の舞台となった佐賀県のあちこちを、女性ナレーターが追慕しながら旅し、作品の解説&観光案内する趣向である。
 その際、映画の中に出てきたいくつかの野外シーンが、現在の――と言っても『シネマ紀行』が制作されたおそらく2000年代の――風景に重ね合わせられる。
 その移り変わりように嘆息する。

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松竹映画『張込み』特典映像「シネマ紀行」より

 「昔は良かった」というのは年寄りの錯覚に過ぎない。
 それは分かっているけれど、横浜から佐賀まで延々20時間以上かけて移動した時代と、飛行機で2時間で移動できる時代とでは、日本人の時間感覚や地理感覚や旅行観に大きな違いがあるのは間違いない。
 80年代中頃、20代のソルティは「青春18きっぷ」を使って、東京から長崎まで鈍行列車の旅をした。
 途中下車してあちこち寄り道し、数日かけてやっと関門海峡を渡り、九州を横断してついに長崎駅に到着した。すでに終電近かった。
 改札口を出たとたん目に飛び込んだのは、夜の稲佐山の裾を取り巻く光の帯。
 あのとき感じたほどの旅情をふたたび経験するには、30年後の四国遍路を待たなくてはならなかった。


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おすすめ度 :★★★

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● ソヴィエトの真実 映画:『DAU. ナターシャ』(イリヤ・フルジャノフスキー監督)

2020年ドイツ、ウクライナ、イギリス、ロシア
139分、ロシア語

 第70回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞、世評かまびすしい問題作である。
 その理由はこの映画の制作手法そのものにある。 

 2009年9月、ウクライナ・ハリコフの廃墟となったプールの敷地内に「物理技術研究所」が建設された。実在したソヴィエトの研究機関にインスパイアされた、この広大な機能を備えた実験研究施設は、ヨーロッパに建設された最大の映画セットになった。アーティスト、ウェイター、秘密警察、普通の家族など、時間と空間から隔離された何百人もの厳選された意欲的な参加者たちが実際にセットの中で暮らし、科学者たちもそこに住みながら、自分の実験を続けることができた。
 
 過去(1938年~1968年)に戻された参加者は当時のソ連の人々と同じように生活し、働き、当時の服を着て、愛し、互いを非難し、憎しみ合った。この台本のない人生は、2009年10月から2011年11月まで続き、その全期間にわたって断続的に撮影された。彼らが着ていた服から使用した言語まで、彼らの存在は研究所に設定された時間=1952年、1953年、1956年のものに統一されていた。

 すなわち、1991年に消滅したソヴィエト連邦社会をできる限り正確に再現したコミュニティを実際に創り上げ、キャストとして選ばれそこで暮らすことになった人々のありのままの生活風景を素材に、撮影・脚本・演出・編集がなされたのである。
 いっとき日本でも人気を集めたリアリティ番組の究極版ってところか。
 撮影されたフィルムは700時間にも及ぶというから、この第1弾『DAU.ナターシャ』及びすでに昨年公開されている上映6時間9分の第2弾『DAU. 退行』を皮切りに、今後もDAUシリーズが世に出てくるものと思われる。
 壮大なプロジェクトに驚嘆するが、なんだかその手法自体が社会主義的な感もする。

 第1弾となる本作は、研究施設の食堂で働く中年女性ナターシャの身に起こる出来事を描いている。
 前半90分くらいは、ナターシャのありふれた日常生活が映し出されるばかりで、途中アダルトビデオばりの激しいベッドシーンは挟まれるものの、総じて退屈である。
 上記のプロジェクトについて事前に知らなければ、途中放棄してしまうところだろう。
 ソルティは事前に知っていたので、どこまでが芝居でどこからが現実なのか、どこまでが台本でどこからがアドリブあるいは出演者の肉声なのか、どこまでが演出でどこからがドキュメンタリー(記録)なのか、なんとか興味を保ちつつ観ることができた。

 残り50分からが本領発揮。
 ついにスターリン独裁下の全体主義管理社会の怖ろしい姿が顔をのぞかせる。
 ナターシャの受難から一時も目が離せなくなる。
 日本を含む西側諸国の市民が享受しているのとさして変わらないような、喜怒哀楽に満ちた平凡な市民的日常が、独裁者の統べる管理社会の上澄みを覆っているだけであり、器のほんの一揺れで(管理者の気まぐれ一つで)、みじんもなく剥奪・破壊されてしまう。
 前半90分でリアリティ豊かに描かれたナターシャ個人の「愛」だの「悩み」だの「価値観」だの「人生」だのといった近代個人主義的観念は、まったくの世迷言に過ぎないことが赤裸々にされる。
 個人の尊厳を奪い去ることで人としてのプライドや意志をくじき、組織に隷属させ、相互監視社会・密告社会をつくりあげる全体主義管理国家のやり口には恐懼するばかり。

 しかもこれはほんの序章に過ぎないという。
 第2弾のDVD化が待たれる。
 
 我々はきっとまだ本当のソヴィエトを知らない。本当のショスタコーヴィッチも・・・。

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ヨシフ・スターリン


おすすめ度 :★★★

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● マカロニ・ファンタジー 本:『ランベルト男爵は二度生きる』(ジャンニ・ロダーリ著)

1980年原著刊行
2012年一藝社発行(原田和夫/訳)

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 副題は「サン・ジュリオ島の奇想天外な物語」
 大人のための童話といった感じ。
 著者はイタリアの児童文学・ファンタジー文学作家で、本作上梓後59歳で亡くなった。

 湖の孤島に忠実な執事と暮らす世界的大富豪ランベルト男爵。
 90歳を超えたある日、エジプト旅行で出会った男から若返りの秘術を授かる。
 屋敷に戻って早速試してみると、あら不思議!
 男爵は日ごとに若返り、健康と青春を取り戻していく。
 ところが、好事魔多し。
 男爵の財産を狙った悪党一味がサン・ジュリオ島を占拠し、男爵を人質にとるのであった。
 
 ブラッド・ピット主演の『ベンジャミン・バトン』(2008)同様の趣向だが、恋愛色はなく、ユーモラスなドタバタ犯罪劇。
 ほんの1時間あれば読める、肩の凝らない楽しい一冊である。
 「解説」に訳者の原作愛を感じた。

 なぜにこの本を手に取った?
 老いの加速度を感じる今日この頃だから・・・。

 ソルティはかたソルティはかたソルティはかたソルティ・・・・ 




おすすめ度 :★★

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● 映画:『風花』(木下惠介監督)

1959年松竹
78分、カラー

 同じタイトルで相米慎二監督が2001年に発表した映画がある。
 30歳超えてアイドル臭がいまだ抜けないキョンキョンこと小泉今日子が、幼い娘を持つ風俗嬢を見事に演じ、完全にアイドル脱皮を果たした記念碑的作品。
 舞い散る風花の中で優雅に踊るキョンキョンの姿が印象的であった。
 
 こちらの『風花』はその40年以上前のクラシック。
 昭和30年代の地方の農村を舞台とする家族ドラマである。
 場所は信濃川の流れる長野盆地(善光寺平)。北信五岳(斑尾山、妙高山、黒姫山、飯縄山、戸隠山)を望む胸のすくような美しい光景が広がる。
 が、そこは哀しい田舎の性。
 身分違いの恋や年上女房を許さない男尊女卑の家制度が強く根づいていた。
 
 大地主の名倉家に嫁いできた祖母(東山千栄子)は夫より8つ年上のため後ろ指をさされ続けた。その次男英雄は小作人の娘・春子(岸恵子)と身分違いの恋をして心中を図る。英雄は死に、生き残った春子はお腹の子供と共に名倉家に使用人として引き取られる。捨雄と名付けられた子供(川津祐介)は成長して、いままた、同じ屋根の下で育った従妹・さくら(久我美子)への叶わぬ恋に苦しんでいた。
 
 東山千栄子さすがの名演。剣呑で頑固な姑ぶりは観ていて憎らしくなるほど。が、嫁いできた頃に周囲から受けた冷たい仕打ちが、彼女を頑なにしたのであった。
 岸恵子も存在感たっぷり。この女優はどんな作品にどんなチョイ役で出演しても存在感だけは一等である。一人息子を愛する着物姿のたおやかな母親ぶりに、後年の市川崑監督『悪魔の手毬唄』の犯人が重なる。
 木下監督の秘蔵っ子たる川津祐介。ここでは『惜春鳥』の不良青年、さらには『青春残酷物語』のニヒルな犯罪青年とはまったく違う、憂愁に沈む真面目な青年役を与えられている。監督の意のままにどんな役柄にも染まる川津のカメレオン性は特筆すべき。
 小津映画以上に木下映画の常連である笠智衆が、名倉家の使用人役で登場する。やはり、演技者としては決して巧みとは言えない。この人は役を演じるということが基本的にできないのだと思う。人間としての地の良さが、役柄に何とも言えない風情と好ましさを与えるのだ。むろんソルティは大好きだ。
 
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川津祐介と岸恵子

 木下監督の作品には、こういった日本の田舎の因循姑息たる閉鎖性を批判する系列が存在する。
 北海道の開拓地を描いた『死闘の伝説』が最たるものだが、『永遠の人』『楢山節考』『遠い雲』『野菊の如き君なりき』、それに一般に明るい牧歌風コメディとされている『カルメン故郷に帰る』などはその系列に入るだろう。未見だが、『破戒』『生きてゐる孫六』もおそらくは・・・。
 ソルティはそこに、おそらくはゲイであった木下惠介監督のマイノリティとしての抵抗と自由への希求を読むのである。
 
 今から60年以上前の作品で、さすがに令和の日本の田舎はここまで旧弊じゃないよな、と思いたいのだが、今回のコロナ禍で地方ではかなり酷い感染者差別が起こっていると聞く。村八分文化がいまだ残存している現実がある。
 ソルティはたまに「晩年は田舎暮らししようかな~」とか思うのであるが、都会の孤独と無関心の方がやっぱり性に合っているかもしれない。
 

 
おすすめ度 :★★★

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● 本:『ブッダが説いた幸せな生き方』(今枝由郎著)

2021年岩波新書

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 著者は、現代における最良の仏教入門書の一つであるワールポラ・ラーフラ著『ブッダが説いたこと』(1959年刊行、2016年初邦訳)の翻訳者であり、自らも『ブータン仏教から見た日本仏教』など多数の著書をもつチベット研究者にして生粋の仏教者である。

 「あとがき」に本書を記した理由として、①ラーフラ師への敬意を示すため、②「インド的でいささか煩わしい」文体で書かれた『ブッダが説いたこと』を日本人にとってより受け入れやすいものにしたいと思った、③「仏教にもともとあった、よりよく生きるための教えという側面」に光を当てたかった、の3つが挙げられている。
 まさに、その3点がしっかりと実現されている、読みやすくてわかりやすい書である。
 本書を読んだ後に『ブッダが説いたこと』を読めば、仏教の何たるかが一層深く理解できることであろう。
 
 いつもながら、今枝の歯に衣着せぬ率直な物言いに感心する。
 もとからの性格もあろうが、やはりフランスやブータンなど海外生活が長かったことが影響しているような気がする。
 つまり、一つには欧米の個人主義の感覚が身についているから、一つには日本のピラミッド型縦割り組織に属していないがゆえに、どこにも遠慮や忖度する必要がないのだ。
 テーラワーダ仏教(いわゆる小乗仏教)の名著が邦訳されるのに、今枝の登場まで半世紀以上待たなくてはならなかったのは、そのあたりの日本的事情を思わせるものであり、実にもったいないことであった。
 
 

おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● バングルバングル 本:『クリムゾンの迷宮』(貴志祐介著)

1999年角川ホラー文庫

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 クリムゾン (crimson)とは濃く明るい赤色で、若干青みを含んで紫がかる。英国では伝統的に血の色と関連付けられ、暴力・勇気・苦痛を連想させるという(ウィキ『クリムソン』による)。

 本作は、勇気はともかく、暴力と苦痛だけはイヤって言うほど描かれるサバイバル・ホラー。
 『悪の教典』にしろ『新世界より』にしろ、ゲーム感覚な非ヒューマニズム生き残りストーリーを書かせたら、貴志祐介に勝る作家はおるまい。
 いや、極限状態におかれた人間の姿こそがもっとも人間の本質に近い――という意味では純ヒューマニズムなのか?

 藤木芳彦がふと目を覚ますと、雨天の下、クリムゾンの奇岩に囲まれた異様な世界に放置されていた。
 いったい、ここはどこだ? 俺に何があったんだ?
 傍らに置かれている携帯用ゲーム機を作動させると、メッセージが現れた。
「火星の迷宮へようこそ。ゲームは開始された」
 藤木は、自分と同じようにわけもわからず拉致された他の日本人8名と合流するのだが、それは血で血を洗う凄惨な殺戮ゲームの始まりに過ぎなかった。

 このおぞましいサバイバルゲームが展開される舞台となるのは、火星ならぬオーストラリアのパーヌルル国立公園。その広さ 239,723 ヘクタール。
 日本で一番小さい香川県が 187,700ヘクタール。大阪府に次いで3番目に小さい東京都は 219,100ヘクタール。
 東京都がすっぽり入る公園を埋め尽くす褐色の縞模様の奇岩群――それがバングルバングル
 もちろん世界自然遺産である。

バングルバングル
バングルバングル

 作品発表時(99年)には日本人にほとんど知られていなかったパーヌルル国立公園に関する貴志祐介の綿密な取材ぶりに感心する。

 世界は広い。
 自然はきびしい。 
 そして人間は恐い



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 東京大学音楽部管弦楽団 第107回定期演奏会

日時 2022年1月30日(日)14時~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
曲目
  • チャイコフスキー: 幻想序曲『ロメオとジュリエット』
  • グラズノフ: バレエ音楽『四季』Op.67より「秋」
  • ショスタコーヴィッチ: 交響曲第5番
指揮 三石精一

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 東京大学管弦楽団は、数ある大学オケの中でもトップクラスの実力という評判。
 今年に入ってからオミクロン急増でなかなか思うように練習できなかったのではないかと思う。
 出だしこそ危なっかしいところもあった。
 が、尻上がりに調子を上げ、メインのショスタコーヴィッチは圧巻の迫力と抜群のチームプレイを見せてくれた。
 評判に違わない上手さ。
 拍手も大きかった。

 実はソルティ、ショスタコーヴィッチを聴くのはこれが初めて。
 20世紀のロシアの作曲家ということくらいしか知らなかった。
 無調や不協和音だらけの現代音楽なのだろうと勝手に思い込んで、敬遠しているところもあった。
 が、今回交響曲第5番を聴いたら、マーラーみたいなロマン派っぽい雰囲気濃厚で、曲の構成もそれほど複雑でなく、美しいメロディもあり、楽しんで聴けた。

 事前になんの下調べもせず、入口で配布されたプログラムも読まずに、なるべく先入観持たずに聴いた。
 浮かんでくるのは、「不穏、不安定、不信、不透明」というネガティヴな言葉ばかり。
 決して前向きでも明るくもない。
 第4楽章で、ベートーヴェン『第9』さながら「暗から明へ」の転換が見られるのは確かだが、これをそのまま“ネガからポジへ”の飛躍と受け取っていいものかどうか。  
 はなはだ疑問に思った。
 むしろ、絶え間ない苦悩と息苦しい抑圧の先に訪れた唯一の救いにして解放――それは「狂気の世界」であった、という不条理の極みのような物語を思った。
 ここには、ベートーヴェンが最終的に身をまかせた偉大なる父(=神)の手はないし、マーラーが逃避先として求めたエロスと自然の悦びもない。
 指揮者のバトンがおりた後も、しばらく拍手に加われなかった。

 帰りの列車でプログラムを読んだら、ショスタコーヴィッチはロシア革命後のソ連に生きて、全体主義管理社会に陥った社会主義国家の桎梏をもろ被ったようだ。
 スターリン独裁下では権力の意に沿ったプロパガンダ風作品しか発表できなかったという。
 芸術家として翼をもがれたようなものだったろう。
 共産主義には当然、神も仏もいない。
 エロスさえも管理される。
 マーラー以上に逃げ場がなかったのではあるまいか?

 そう考えると今回のプログラムの妙に唸らされる。
 帝政ロシア末期に生きたチャイコフスキー、ロシア革命(1917)前後の理想国家建設の気運を肌で味わったグラズノフ、そしてスターリン独裁と革命の失敗という現実に直面し暗黒の時代を生きたショスタコーヴィッチ――激動のロシア史そのままのラインナップなのであった。
 チャイコフスキーの音楽に感じとれる近代に生きる個人としての悲愴や苦しみが、民族愛と自由の息吹の感じられるグラズノフを経て、「不穏、不安定、不信、不透明」な抑圧的管理社会における表現者ショスタコーヴィッチにつながっていく。
 近代的自我の苦悩が味わえる社会ってまだ幸せなのかもしれない。 
 歴史と音楽史との切り離せない関係を思った。


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東京芸術劇場













● 青春映画の傑作 映画:『マイ・バック・ページ』(山下敦弘監督)

2011年
141分

 原作は川本三郎の同名エッセイ
 20代前半の川本の身に起きた衝撃の出来事をつづったノンフィクションである。

 しかるに本映画に関しては、川本の原作とも、川本三郎本人とも、まったく関係ない次元で語りたい。
 というのも、映画単体としての出来が素晴らしいからである。

 監督の山下敦弘は『リンダ リンダ リンダ』(2005)、『天然コケッコー』(2007)、清野とおる原案のTVドラマ『山田孝之の東京都北区赤羽』(2015)などの演出で知られている。
 ソルティは本作で初めて接したが、「映画作家」という言葉で語ることのできる数少ない才能の持ち主。
 最初から最後まで、映画的時間と空間がスクリーン(モニター)に投影されていて、物語の切なさとは裏腹に、観ていて幸福な気持ちに包まれる。

 妻夫木聡演じる新聞記者・沢田雅巳(モデルは川本三郎)と、松山ケンイチ演じる赤邦軍リーダー・梅山とが初めて出会い、一緒にCCRの『雨を見たかい』を歌うシーンなど、あまりのフラジャイルな美しさに卒倒しそうであった。
 二人の配置、間に置かれたテーブルの緑色の天板と赤い座布団のコントラスト、テーブルの上のビール瓶とコップの微妙な距離(小津っぽい)、立ち昇る沢田の煙草のけむり、二人の沈黙にかぶさる列車の響き・・・・。
 すべてが計算されているはずだろうが、それが自然な域に達している。
 見事・・・・・!

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妻夫木聡と松山ケンイチ

 撮影がまた素晴らしい。
 物語の背景は全共闘はなやかなりし1970年前後。
 ソルティは生まれてはいるものの、その時代の東京の街の空気感は知るところではない。
 本映画がそれを正確に再現しているかどうかは判定できない。
 が、少なくとも80年代以降の東京の空気とはまったく相容れない、まったくアナログな時代の質感が映し出されている。
 これはたとえば、太平洋戦争時の話を描いたNHK制作『スパイの妻』が、一応戦前らしいセットや小道具や衣装やセリフを整えながらも、空気感だけは令和になっているのと雲泥の差である。(フィルムをいじれないテレビの限界かもしれないが)
 撮影は近藤龍人。是枝裕和監督の『万引き家族』(2018)を撮っている。

 役者は、妻夫木も松山も好演。
 とくに松山がいい。この人は性格破綻な役をやると本当にはまる。
 沢田の先輩記者役の古舘寛治、味のある芝居で印象に残る。
 それとチョイ役に過ぎないが、新聞社上役の三浦友和の貫禄と迫力はさすが。
 
 居酒屋のラストシーン。
 沢田(妻夫木)が、久しぶりに会った昔馴染みの「生きてりゃいいのよ」という言葉にハッとして思わず泣き出すのは、おそらく「生きて」さえいられなくなった自衛官や雑誌のカバーガールだった少女のことに思い至ったからなのだろう。
 ソルティはそう受け取った。
 
 時代や社会風俗や思想性という部分を拭い去ってみると、これはやっぱり青春映画、それも『真夜中のカウボーイ』や『ベティ・ブルー』や『時をかける少女』のような、ほろ苦く切ない青春映画の傑作である。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● ツいている男 漫画:『東京怪奇酒』(清野とおる 作画)

2020年(株)KADOKAWA

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 作者によると、怪奇酒とは「この世のモノではない異形のモノが出没する可能性のある非日常的空間で、感情を揺さぶらせながら飲酒する行為」を言う。
 もちろん作者の造語である。

 霊能力皆無の清野が、友人知人から直接聞いた怪談の現場に足を運び、恐がりながら酒を飲むという一話完結エッセイ漫画。
 取り上げられる7つの怪談、7つの現場は場所が特定されないよう「東京都M区A町」といったふうに匿名化されているけれど、「近くに米軍基地がある」とか「都内有数の霊園がある」とか「昔罪人を八つ裂きにした刑場があった」といった周辺情報から、「おそらくここだな」と推測できる場所もある。

 初めて訪れた町の深夜の公園で大仏を目撃した話(実際には大仏は存在しない)とか、お笑い芸人チャンス大城が住んでいた霊穴(あの世とこの世をつなぐ穴)のあるアパートの話とか、巨大霊園そばの寂しい路地に男の生首を見て失禁した話とか、焼身自殺のあった部屋に住む夫婦の話(事故物件情報サイト「大島てる」ってのをはじめて知った。実を言えばこのサイトが一番怖かった)とか、いずれも面白かった。
 メリハリある線とベタ使い、読みやすいコマ割り、圧を感じさせるほどの臨場感、ギャクのタッチなど、清野の作風はかつての小林よしのりを思わせる。
 1980年生まれ。2008年に『ウヒョッ! 東京都北区赤羽』でブレイクした人らしいが、読むのははじめて。他の作品も読んでみたくなった。

 ウィキで知ったが、2019年に壇蜜と結婚した人だった。
 霊能はないと言うが、「ツいている男」にはちがいない。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 私を本当の名前で呼んでください


 禅僧で平和活動家のティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh)が、1月22日母国ベトナムで亡くなられた。享年95。

 30代はじめに師の著作に会っていなかったら、ソルティはおそらく仏教徒になっていなかっただろう。
 師が造られた“インタービーイング(interbeing、相互共存)”という言葉こそは、諸法無我にして空にして因縁の教えなのだと、今になって理解できる。
 行動する仏教(Engaged Buddhism)の提唱者にして実践者であると同時に、2000年以上前のブッダの教えを、分かりやすい美しい比喩で伝えることのできる稀有なる詩人であった。
 師が広めたマインドフルネスの教えは、今や世界中のたくさんの人の生きる指針となっている。

 師の偉大なる事績を讃え、ソルティがもっとも好きな詩を追悼掲載します。

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私を本当の名前で呼んでください


私が明日発つと言わないで
なぜって いま もうすでにここに着いているから

深く見つめてごらんなさい 私はいつもここにいる
春の小枝の芽になって
新しい巣で囀りはじめた
まだ翼の生え揃わない小鳥
花のなかをうごめく青虫
そして石のなかに隠れた宝石となって
 
私はいまでもここにいる
笑ったり泣いたり
恐れたり喜んだりするために
私の心臓の鼓動は
生きてあるすべてのものの
生と死を刻んでいる

私は川面で変身するかげろう
そして春になると
かげろうを食べにくる小鳥

私は透きとおった池で嬉しそうに泳ぐ蛙
そしてしずかに忍び寄り 蛙をひと飲みする草蛇

私はウガンダの骨と皮になった子ども
私の脚は細い竹のよう
そして私は武器商人 ウガンダに死の武器を売りに行く

私は12歳の少女
小さな舟の難民で
海賊に襲われて
海に身を投げた少女
そして私は海賊で
まだよく見ることも愛することも知らぬ者

私はこの両腕に大いなる力を持つ権力者
そして私は彼の「血の負債」を払うべく
強制収容所でしずかに死んでゆく者

私の喜びは春のよう
とても温かくて
生きとし生けるもののいのちを花ひらかせる
私の苦しみは涙の川のよう
溢れるように湧いては流れ
四つの海を満たしている

私を本当の名前で呼んでください
すべての叫びとすべての笑い声が
同時にこの耳にとどくように
喜びと悲しみが
ひとつのすがたでこの瞳に映るように

私を本当の名前で呼んでください
私が目ざめ
こころの扉のその奥の
慈悲の扉がひらかれるように


出典:『微笑みを生きる <気づき>の瞑想と実践』 
ティク・ナット・ハン 著
池田久代 訳
1995年春秋社刊



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● ブースター接種でラーメンを食べたくなったわけ

 3回目のコロナワクチン(ファイザー)を接種した。
 いわゆるブースター。
 ソルティは一応、“エッシェンシャル・ワーカー”の端くれなので、一般より早く打たせてもらった。

 先に打った同僚たちは、発熱や関節痛などの副反応を訴えていた。
 接種した日を含め3日間熱が下がらなくて寝込んだという人もいた。
 1,2回目接種後には何ともなかった人も、「全然大丈夫と思っていたら、夜中に熱発して翌日は寝ていた」と言う。
 ソルティの場合、1回目は強い倦怠感を当日と翌日に感じ、2回目はほぼ無症状だった。
 3回目はどうなるか予測がつかないので、三連休が取れた週末の初日に打った。

 職場では、ワクチンを接種するもしないも自由である。
 強制されることはない。
 自分がもし高齢者や病人と日常的に接するような仕事をしておらず、80を超える両親と同居していなかったら、ワクチンを打たなかったかもしれない。
 まさにそういう環境にいる40代の友人は、いまも一回も打っていない。(しかも彼の場合、テレワークができる職業に就いている)
 そう考えると、自分のためというよりは他人のために打っているのかもしれない。
 主体性がないように聞こえるが、たとえこの先どこかでコロナワクチン接種による有害な副作用すなわち薬害が生じることがあるとしても、「もう半世紀以上生きてきたし、子供を作ることもないからいいや」という、ある種の覚悟と諦観は持ちつつ、一応自己決定したのである。

 先日テレビを観ていたら、都内の街頭インタビューでマイクを向けられたマスク姿の若者たちが、「他人に迷惑をかけたくないから、気をつけて行動している」と判で押したように言っているのを聞いて、「日本人やな~」とつくづく思った。
 「他人に迷惑をかけたくない」という理由が、自身の行動を制御するもっとも大きなインセンティヴ(誘因)になるのは、昔も今も、老いも若きも、日本人は変わらない、変わっていないのだろう。
 メディアがそういう発言をしそうな感じの若者を選んで、インタビューした、あるいは編集したという可能性も否定できないが・・・。

 対照的に、海外とくに欧米では自粛やロックダウンやワクチン接種に反対する人々が多い。
 反対デモをする人々が、びっしり埋まった人波の中で、マスクもせず声を上げている映像が映し出されるのを見るたび、彼我の違いを思ってしまう。
 個人の自由という価値をなにより重んじる文化に生きているのだなあ、と実感する。
 「リベラル」という言葉は、いろいろな意味で使われていて、日本ではなんとなく左翼っぽい(革新的な)イメージを帯びがちだけれど、欧米では右も左も関係なく、「個人主義」と親和性を持つものなのだ。

 幸か不幸か、日本人は聖徳太子の「和をもって貴しとなす」の呪縛からずっと抜けられないでいるので「和=世間」の力が強い。
 和をみだすこと=世間に迷惑をかけること、が何より忌避されてきた。
 それは日本人の「右へならえ」の統率力の良さや世界に名だたる気配りの精神を生んできた一方で、同調圧力からくる息苦しさやいじめのような弊害をも生んでいる。
 今回のコロナ禍においては、そうした日本人の特性が、欧米諸国のような爆発的感染を抑止するメリットとして働いた反面、マスクをしていない人、ワクチンを打たない人、感染した人に対する差別的視線というデメリットとして表面化しているように思う。

 「他人に迷惑をかけたくない」からワクチン接種したソルティもまた、純日本人の一人であると認めるにやぶさかでないが、同調圧力に加担しないようには気をつけたい。

 結局、3回目のワクチン接種はまったく副反応なしで、拍子抜けした。


P.S. ブースターという言葉がどうにも可愛い感じがするのは、幼児の頃に大好きだったテレビ番組『怪獣ブースカ』を連想するからである。はあ~、ラーメン食いたい。


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● コロナ禍のドサクサ? 映画:『スパイの妻』(黒沢清監督)

2020年NHK
115分

 テレビドラマとして制作・放映されたのち、劇場版が公開された。
 ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(最優秀監督賞)受賞、キネ旬1位と評価の高い作品であるが、その理由は、ドラマとしてあるいは映画としての出来云々よりも、黒沢清監督のネームバリューおよびこの作品が扱っているテーマによるところが大きいのではないかと思う。
 つまり、第二次世界大戦時の日本軍731部隊の人体実験という史実を描くとともに、その悪行をなんとかして世界に知らしめようと苦闘する同時代の日本人を主役に置いたところに、しかもそれを日本の公共放送たるNHKが制作・放映したところに、世界は喝采したのではなかろうか。
 自らの犯した罪を罪として認めること、それを隠蔽することなく後世に伝えること、その際にヒューマニズムと正義の視点を忘れないこと。こういったあたりが、内外の映画人やマスメディアに評価されたのではないかと推測する。
 もちろん、主演の高橋一生と蒼井優の堂に入った演技は賛嘆に値する。
 東出昌大はここでは下手丸出し。時期的に、KEとの不倫報道で役作りに身が入らなかったか・・・?

 エンターテインメントとしてはまずまず面白いけれど、プロットがいささか不自然。
 蒼井優演じる福原聡子が平気で夫の甥っ子(坂東龍汰)を憲兵に売ったり、そのことを夫・福原優作(高橋一生)が簡単に許したり、憲兵が優作に嫌疑をかけながら留置も拷問もせずに釈放したり、ツッコミどころがいろいろある。
 
 NHKが安倍政権下に、ウヨッキーが憤りそうな反“愛国”的ドラマを企画・制作し、BSではあれ放映し得たことが、ちょっと驚き。
 コロナ禍のドサクサゆえだろうか・・・・? 

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おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『最澄と徳一 仏教史上最大の対決』(師 茂樹著)

2021年岩波新書

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 狂言に『宗論』という演目がある。
 旅先で知り合った法華宗の僧侶と浄土宗の僧侶が、どちらの教えが優れているか論争する話で、最後はそれぞれのお題目(南無妙法蓮華経)と念仏(南無阿弥陀仏)を相手に負けじと大声で唱えているうちに、知らず題目と念仏が入れ替わってしまい・・・・という滑稽な話。
 「坊主が2人いれば、宗派が3つできる」と知り合いの僧侶が言っていた。
 
 むろん仏教に限らず、宗教あるところ宗論はついて回る。
 キリスト教ならカトリックv.s.プロテスタントが「史上最大の対決」であろうし、同じカトリック内でもたとえばウンベルト・エコー著『薔薇の名前』にみるように、聖書の解釈をめぐってそれこそ命を懸けた議論の応酬がなされた歴史がある。
 イスラム教のシーア派v.s.スンニ派の対立は、国家同士の争いにまで発展している。
  
 「仏教史上最大の対決」は、おそらく紀元前後より始まった伝統仏教(小乗仏教)と新興仏教(大乗仏教)の対立であろう。
 伝統仏教の流れを組むテーラワーダ(上座部)仏教は、最初期の経典(ブッダの直説と言われる阿含経典)とともにタイ・スリランカ・ミャンマーなどに伝わり、今も国教のような存在となっている。
 一方、インドから各地に広がった大乗仏教の流れの一端は、中国や朝鮮半島を経て、大量の創作経典(ブッダの直説ではない)とともに6世紀初め日本に伝わったことは、よく知られるところである。いわゆる北伝仏教。
 なので、本書で書かれている最澄と徳一の対決は、北伝の大乗仏教の中の日本仏教における「最大の対決」である。
 そして、論争の当事者であった最澄も徳一も、こうした歴史的・文献学的背景について適確な情報や視座を得られる時代には生きておらず、どれがブッダの直説か――少なくともそれに一番近い教えと言えるのか――現代の我々のようには知り得なかった。
 この点をまず押さえておくことが肝要と思われる。 
 
 著者の師茂樹(もろしげき)は1972年生まれの仏教研究者。日本では非常にレアな因明(仏教論理学)の研究者でもある。
 なにせ平安時代初期の宗論に関する本であるから、古文や漢文の引用が主となるのはもちろんのこと、古いお経の引用も多い。
 当時の日本の仏教界の勢力図やそれぞれの派閥の宗旨、そこにつながる流れを作ってきたインド・中国をも含む古い時代からの師弟関係・・・・。
 こういった事柄が扱われるので、率直、ある程度仏教についての知識がないと読みこなすのは難しいかもしれない。
 だがそこさえクリアできれば、骨子はすっきりしており、因明研究者らしく(?)論旨も通っている。文章も分かりやすい。
 天台宗の開祖で歴史の教科書に肖像画付きで載っている超セレブ・最澄と、この最澄との宗論によってのみ名前を残すことになった僻地会津の僧侶・徳一の地獄落ちも覚悟の――というのも正法(ブッダの教え)を誹謗する者は地獄行きと言われているから――真剣な一戦。
 とても面白く読んだ。 
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 最澄と徳一はいったい、①何をテーマに、②どういう風に議論したか。そして、③どちらに軍配が上がったか。

 まず、①議論のテーマであるが、単純に言えば「仏性の有無について」である。
 仏性とは「ブッダに成れる資質」。
 最澄および彼が代表する一派(天台宗、鑑真上人系、大安寺系など)は、「すべての人には仏性があり、遅かれ早かれブッダに成れる」と説いた。
 仏教を信仰する者に用意されたゴールは一つなので、むろん乗り物も一つ。ゆえに一乗説と言う。
 この説の後ろ盾になっているのは、ブッダが最晩年に説いたとされる大乗経典の『法華経』と『大般涅槃経』である。

 一方、徳一が代表する法相宗は、乗り物は3つ(三乗説)と説く。
 仏道のゴールは、
  • 師から教えを聞き、修行によって阿羅漢となって解脱・涅槃する(声聞種姓)
  • 師から教えを聞くことなく独力で解脱・涅槃する(独覚種姓)
  • 菩薩となって大衆を助けたのちブッダとなる(菩薩種姓)
の3つである。
 より正確には、
  • どの乗り物に乗るか定まっていない(不定性)
  • どの乗り物にも乗れず永遠に輪廻転生する(無性)
の5つの分類があるので「五姓格別説」と呼ばれる。
 後ろ盾となる経典は、『西遊記』の三蔵法師として知られる玄奘が訳した大乗経典の『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』『解深密経(げじんみっきょう)』『成唯識論』である。
 最後の経の名前からわかるように、玄奘はインドの世親(ヴァスバンド)が大成した唯識論の中国への伝承者であり、法相宗の開祖となった。
 法相宗は、653年に遣唐使として中国に派遣され玄奘の愛弟子となった道昭が、帰国後に日本に広め、のちに南都六宗の一つに数えられるほどの勢力となった。
 法相宗の僧である徳一は、三乗説の唱道者であると同時に、世親→玄奘→道昭・・・の流れを汲む唯識論の信者でもあった。

 徳一(法相宗)と最澄(天台宗)との仏性の有無をめぐる「三一論争」が起こるよりもっと前から、法相宗は別のテーマをめぐって、同じ南都六宗の仲間である三論宗と宗論を繰り返してきた。
 「空有の論争」と呼ばれている。
 「この世界のすべては空である(一切皆空、色即是空)」というインドの龍樹(ナーガルジュナ)が確立した「空の思想」に対して、「いや、すべては空ではない。すべては識である。ただ識のみが有る」という世親の唯識論を対置させたものである。
 三論宗は前者、法相宗は後者の立場をとった。
 古代インドにおいて始まった空有の論争が、中国に輸入されて彼の地でも繰り返され、日本に輸入されてまたしても繰り返されたわけである。
 すべては空か、それともすべては識(有)か?
 
 ここで面白いなあと思うのは、現在スピリチュアル業界で流行っている非二元(ノンデュアリティ)は「私=識=世界(あるいは梵我一如)」という唯識論のニュアンスを多分に含んでいる点である。
 一方、日本人が一番好きでおそらく一番頻繁に唱えられているお経である『般若心経』は、「色即是空、空即是色」という有名な文句にみる通り、空の思想に基づいたものである。
 これをテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老は、『般若心経は間違い?』(宝島社新書)という著書の中でタイトルそのままに一刀両断にしている。
 いわく、「色即是空はいいが、空即是色はおかしい」「“無い無いづくし”の『般若心経』は虚無主義に転落する」・・・・等々。
 伝統仏教(初期仏教、テーラワーダ仏教)の立場からすれば、「諸法無我」の教えと反する唯識論は間違いであり、「空」を「無」とすり替えてしまっている『般若心経』もまた間違いということになる。(空有の論争そのものについて言えば、伝統仏教は「空」の立場だろう)

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2007年宝島新書発行

 同じように、最澄と徳一の三一論争もまた、伝統仏教の立場から見るとナンセンス。
 というのも、『阿含経典』においてお釈迦様は「仏道修行する者のゴールは阿羅漢になって解脱・涅槃すること」と明確に語っており、断じて「ブッダに成ること」ではない。
 仏性についてはなにも語っていない。
 「これこそブッダの真意だ!」と、正統性をめぐって激しくやりあった三論宗と法相宗の「空有の論争」も、徳一と最澄の「三一論争」も、お釈迦様の手のひらの上にも乗っていなかったという不都合な真実・・・。
 
 大乗とは「偉大な道」といった意味であるが、先にも述べたように、これは伝統的な教団(部派)に伝承されている教えは完全な教え(了義)ではない、つまり小乗=劣った道であり、不完全な教え(未了義)である、という言明とセットになっている。このような他の権威の否定と自身の正統性の主張は、「小乗」に対してだけでなく、先行する大乗仏教にも向けられる。
 
 大乗仏教は、言わば「何がブッダの教えなのか」を争う運動であり、「問いの絶えざる提出とそれへの新たな回答」による「正統性の絶えざる更新」によって、「真のブッダの教え」がどんどん遠ざかっていくような構造になっている(下田2020)。

(本書より引用、以下同) 


 次に、②どういう風に二人は議論したか。
 過去の仏典に根拠をもとめて、それぞれの論の正統性・正当性を主張したのは上に書いた通り。
 京都と会津では実際に会って口角泡飛ばすというわけにはいかないので、ZOOM討論ならぬ手紙のやり取りとなるのも必定である。
 本書の大きな特徴は、二人がどういったスタイルで、つまりどういった論法を用いて議論したか、を具体例を挙げて著述しているところにあり、そこが著者の面目躍如たるところ。
 すなわち、因明である。

 因明とは、「ヘートゥ・ヴィドヤーというサンスクリット語の訳語である。ヘートゥは「原因」といった意味であるが、ここでは「知識を生み出す原因」、すなわち理由や論拠などを意味する。ヴィドヤーは「学問」といった意味である。つまり因明は、「論拠(因)についての学問(明)」という意味になる。もともとはインドの討論術を起源とするが、仏教内でも研究され、唯識学派の陳那(ディグナーガ、420-500頃)が論理学・認識論の体系として大成した(桂1998)。その著作が玄奘によって漢訳、紹介され、東アジアで広まった。

 ここでもまた玄奘サマサマなのである。
 『西遊記』って馬鹿にならない。
 仏教における論理学、討論術である因明は、もちろん日本にももたらされ、宗派を超えて学ばれた。
 因明の形式で書かれているお経は多いので、それを習得するのは僧侶にとって必須であったであろうし、ましてや他の宗派の僧と何らかのテーマをめぐって討論しようと思うのなら、因明に長けていることは当たり前田のクラッカーである。
 著者によれば、学僧だけでなく、貴族など一般の知識人の間でも一種の教養となっていたらしい。

 現代日本人が、上手く使いこなせるかどうかは別として、慣れ親しんでいる西洋論理学や弁術のスタイルとはかなり異なる。
 詳しくは本書を読んでほしいところであるが、一例を上げると、
 
  主張 あの山には火がある。
  理由 煙があるから。
  例喩 かまどのように。

 因明では、立論者が論証したいと思っている主張・結論(宗)を最初に述べる。次に、論証するための根拠となる理由、論拠(因)を述べる。「因明」の「因」はこの理由のことである。そして最後に、理由を裏づける前例(喩)を述べる。因明における正しい論証は、必ずこの宗・因・喩の三つで構成されることから、三支作法とよばれる。 

 西洋論理学の三段論法とはずいぶん違っている。
 なんかツッコミどころ満載のようにも思える(笑)が、他方、「自分がよりどころとする教説と矛盾する主張をすること」(自教相違)や、「あらゆる言明はすべて虚妄である」というような論理のパラドクスに陥る主張をすること(自語相違)は過失(=論理破綻)であるといった、現代の我々でも十分理解し納得しうるルールもある。
 以下の文章もまた納得できよう。
 
 究極の真理は言葉で表現することはできないという考え方は、大乗仏教全般で共通するものであり、法相宗でもそれは共有されている。因明はあくまで言葉を使って何かを考えたり、コミュニケーションやプレゼンテーションをしたりするための(仏教的に言えば世俗諦の)技法であって、どんなに言葉を積み重ねても、それだけでブッダの悟った究極の真理に到達することはできない。 

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 最後に、③最澄と徳一のどちらが勝利したのか。
 これは論争の途中で最澄が亡くなってしまったので、「勝敗なし」とするのが公正なところだろう。
 三一論争自体は、その後も(鎌倉時代くらいまで)継承されたらしい。
 ただ、現代日本の代表的な大乗仏教の宗派(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗)の祖師たちが、最澄の開いた比叡山で学び修業したことはよく知られるところで、大雑把に言えば最澄の弟子たちである。
 「すべての人に仏性がある」という一乗説は、「あるがままのこの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する」天台本覚思想と結びついて、鎌倉仏教の各宗派の基底音とも通低音ともなっている。
 「悪人なおもて往生をとぐ(親鸞)」とか「修証一如(道元)」とか「念仏や題目を唱えさえすれば救われる(法然、日蓮)」といった教えは、一乗説あってゆえだろう。
 そればかりか、古来からアミニズムになじんでいた日本人にとって、仏性の領域をさらに広げて「山川草木悉有仏性」という美しい思想を手に入れるのに苦労はなかった。
 そう考えると、日本人の宗教観や日本文化への影響に関して言えば、時は最澄に味方したと言っていいだろう。(ただし、仏教離れの現代においては両者共倒れの感が否めない)

 著者は、三一論争を概観したあとに、「歴史を書くこと」という章を別に設けている。
 ここがまた本書のユニークなところで、著者の歴史研究に対するスタンスや研究者としての態度が伺える興味深い一節となっている。
 著者が言及しているイギリスの哲学者マイケル・オークショットの提唱した二種類の過去――「実用的な過去」と「歴史学的な過去」――という対概念が面白い。
 
 「実用的な過去」とは、個人や集団が抱える問題を解決したり、生存戦略・戦術として用いたりする「過去」であり、「歴史学的な過去」とは、歴史学者などによって行われる、没利害的で、過去を知ることそれ自体を目的として研究されるような過去のことである(ホワイト2017)。

 なので、「実用的な過去」は恣意的・主観的・便宜的なものであり、最近、洋の東西で炎上を生んでいる歴史修正主義につながりやすい。
 一方、「歴史学的な過去」は、科学的・客観的な事実を突きつけて人々の幻想(信仰、信念、夢など)を破壊する暴力に転じやすい。わかりやすい例を挙げると、皇統(天皇制)における欠史八代――。
 言うまでもないが、純粋に客観的な真実の歴史なんてものはない。
 いかに科学的な研究がベースになっていようが、歴史を語る際にはどうしたって語り手の知識量はもちろん、人となりやバックグラウンドや様々なレベルの損得勘定が入り込んでくる。
 すなわち、語り手自身がバイアスとなる。
 師茂樹はその点に非常に自覚的・意識的な研究者であり、書き手である自分を「  」に括ってメタ化(相対化)する習性をもっているらしいことが伺える。
 ソルティはそこに1972年生まれの師茂樹が持つある種の時代性、『大乗非仏説をこえて』の大竹晋(1974年生まれ)や『仏教思想のゼロポイント』の魚川祐司(1979年生まれ)と共通するような、日本では70年代から顕著になった「セルフツッコミ文化」の影響を嗅ぎ取ったものである。

日記

・・・と日記には書いておこう
(1973年浅田飴のCMより)


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







 





● 上書きされた街 映画:『ゼロの焦点』(野村芳太郎監督)

1961年松竹
95分、白黒
原作 松本清張
脚本 橋本忍・山田洋次
音楽 芥川也寸志

 松本清張の原作を読んだのは中学1年になって間もない頃だった。
 シャーロック・ホームズや江戸川乱歩の推理小説が好きだったソルティに、担任の社会科の先生がすすめてくれた。
 ホームズや乱歩は偕成社やポプラ社などの子供向けに書かれたものを読んでいたが、さすがに清張に子供向けはない。
 はじめて新潮文庫を買った。
 つまり、ソルティが初めて読んだ大人の本は松本清張だった。
 ちなみに外国文学については、やはり中1の秋に読んだマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』(新潮社刊・大久保康雄訳)がデビューだった。

 担任が勧めてくれたのは、時刻表を使ったトリックで有名な『点と線』と『ゼロの焦点』だった。
 『点と線』は非常に面白かった。
 これが現代日本の大人のミステリーか・・・・!
 新しい世界の扉が開き、ワクワクした。
 と、続いて手にした『ゼロの焦点』で、いきなり大人社会の闇に遭遇したのであった。

 そう、世に「売春」という職業があるのを知ったのは、『ゼロの焦点』によってである。
 セックスそのものについては小学生の頃からティーンの芸能雑誌である『明星』『平凡』を愛読していたので知識としてはもっていた。
 が、性を商品のように売り買いするオソロシイ世界があるとは知らなかった。
 「不潔ッ!」と思ったのかどうか覚えていないが、なにか退廃的で忌まわしい感がした。
 (『風と共に去りぬ』にもレッド・バトラーの愛人であるベル・ワトリングという娼婦が登場する。中学生のソルティはこの女が嫌いだった)
 しかも、『ゼロの焦点』で描かれているのはただの売春ではなかった。
 戦後間もない頃にGHQの米兵相手に売春していた女、いわゆる「パンパン」が殺人事件のカギを握っていたのである。

 戦後の混乱期、生活のために東京でパンパンをしていた女が、今では遠い北陸の地で名士の奥方として何不自由なく暮らしている。
 だが、ある日、彼女の過去を知る男が現れ、今の優雅な生活や名声がおびやかされる。
 「この男さえ消えてくれれば・・・・」
 日本海を見下ろす崖の上で、女は男の背中を一突きする。

 こんなに重くて哀しい殺人動機は乱歩にもホームズにもなかった。
 これが大人の小説か・・・・。
 暗澹たる思いと共に、一挙にポプラ社と偕成社を卒業した。
 (あとから知るのだが乱歩にも『妖虫』や『孤島の鬼』のような重くて哀しい殺人はあった。子供向けはオブラートに包まれていたのである)

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ラストシーンの舞台となった能登半島のヤセの崖

 
 最初の映画化である本作は、久我美子、高千穂ひづる、有馬稲子という当時の人気女優が妍を競っている。60年代初頭の北陸の海岸沿いや金沢の町の風景が、白黒フィルムのため、より寒々と寂しい風情をみせている。
 共演の南原宏治、西村晃、加藤嘉、高橋とよは、さすがの存在感。
 のちに2時間ドラマの定番となった崖上の対決は、この映画のラストシーンが端緒を開いたと言われる。
 広末涼子、中谷美紀、木村多江共演による2009年公開の二度めの映画化は観ていない。
 
 61年の時点で、この小説および映画は十分な説得力があった。
 つまり、「犯人が相手を殺す理由も分からないではないな」と観客は納得し共感できた。
 “パンパンをしていた過去の暴露”は、それだけ犯人にとって致命的であること、社会的な死にも等しいことを、観客もまた理解していた。
 ソルティがはじめて原作を読んだ70年代もまだそれが通じた。
 たとえば、女性タレントが過去の売れない時代に「アダルトビデオ――この言葉はなかった。ブルーフィルムと言った――に出ていた」「風俗で働いていた」といった噂が立てられるのは致命的スキャンダルだった。
 夜の世界で働いている女(玄人)と、そうでない女(素人)の間には、明確な境界線があった。
 前者には強いスティグマ(烙印)が付与された。
 であればこそ、森村誠一の『人間の証明』が共感を呼び、大ヒットしたのである。
 その後、80年代バブルを通過し、性風俗のカジュアル化はどんどん進んでいった。
 手っ取り早くお金を稼ぐ手段として、女子大生が性風俗に流れた。 
 玄人と素人の境が薄れていった。
 2009年の観客たち、とくに平成生まれの若者にとって、“パンパンをしていた過去”はどのくらいの重みと衝撃をもって受け止められるのだろうか?
 今でも人を殺す動機として成り立つのだろうか?

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 ところで、40数年ぶりに『ゼロの焦点』に触れて、「あっ、そうだったのか・・・」とハタと膝を打ったことがある。
 犯人が若い時にパンパンをしていた土地は、東京の立川だったのだ!
 もちろん、立川には米軍基地があった。(現在は昭和記念公園になっている)
 立川駅周辺には米兵相手の歓楽街があった。
 当然、赤線と呼ばれた合法の性風俗業も、青線と呼ばれた非合法のそれもあった。
 夜の街には原色のドレスを身にまとった日本の女たちが立ち並び、客を引いた。
 
 ソルティは数年前までJR中央線沿いの高齢者介護施設で働いていた。
 立川駅に近く、利用者には昔からの地域の住民が多かった。
 戦後のことをよく覚えていて話してくれる高齢者がたくさんいた。
 ある90歳の女性は当時立川駅の近くの薬局で働いていたという。
 「しょっちゅう、パンパンがアメ公と一緒に薬を買いに来た。ときどき警察の手入れがあると、彼女たちがウチのお店に逃げてくるから、店の奥にかくまってあげたのよ」
 ある80代の男は米軍の軍属(使い走りのようなものか?)をしていたという。
 「日本人がみな物がなくて苦しんでいた時代に、自分は米軍から粉や砂糖やタバコなんかをもらうことができて運が良かった。よくアメ公にパンパンを世話してやったよ」
 立川でずっと一人暮らしをしていた80代の女性は、重い認知症で、もはや自分の名前くらいしか言えなかった。会話が成り立たなかった。
 ときどき彼女は、菊池章子の『星の流れに』のメロディを口ずさんでいた。
 こんな女に誰がした、という歌詞でしめくくられる哀しい歌。 
 ひょっとすると彼女は・・・・・?
 
 現在のJR立川駅周辺はすっかり開発されて、道は広々と美しく、コンクリートとガラスの高層ビルが立ち並び、その間をモノレールが音もなく往来し、まるで未来都市のようである。
 昭和記念公園は、都内有数の桜の名所になっている。
 『ゼロの焦点』の本当の舞台はここだったのだ。

立川
立川駅周辺


おすすめ度 :★★★

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● アニメ映画:『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守監督)

1984年東宝
98分
脚本 押井守
原作 高橋留美子

 『うる星やつら』の映画版を観るのは初めて。
 高校時代に友人からコミックを借りて読み、大学時代にテレビアニメをたまに観ていたが、基本的にそれほど好きな漫画ではなかった。
 高橋留美子なら『めぞん一刻』のほうが好きだった。

 「なぜ急に本作を?」と言えば、カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている』を読んだあとネットで他の人の感想を拾っていたら、カルロの本が押井守脚本・監督の本作に似ている、というコメントがあったからである。
 押井守と言えば、SFサイバーアクション映画『アヴァロン』や『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』で、現実とサイバー上の虚構が反転するディック的世界を鮮やかに創り出した映像の魔術師である。
 カルロが描いた量子の世界の神秘に、今から40年近く前にすでに押井が迫っていたとしたら、凄いことではないか。

 ――と期待して観たのであるが、これはまったく量子力学とは関係なかった。
 カルロの唱えている「関係論的解釈」すなわちナーガルジュナの説いた「空」とも、般若心経の「色即是空」とも違う。
 ネタ晴らしになってしまうが、主人公・諸星わたる&ラムちゃんら登場人物たちが「現実」と思っていた日常(それが次第に非日常へと変貌してゆく)が、実はラムちゃんの“夢”の産物であったというオチである。
 視聴者をコケにするような安易な「夢落ち」と微妙に異なるのは、ラムちゃんが最後に「ハ~ア~」とあくびして目覚めることで“世界”が終わる、という単純なからくりではないところ。
 もう少し複雑なつくり。仏教とのからみで言えば「唯識論」に近いかもしれない。
 ラムちゃんの“識”(意識と無意識を含む)が世界を創っている――みたいな。

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 1984年の時点で、『マトリックス』(1999年)よりずっと前にこういった現実と虚構、意識と無意識とを越境するような作品を世に問うていたところは凄い。
 途中で、SF映画の古典『ダークシティ』(アレックス・プロヤス監督)で出てくるのとそっくりの仰天シーンが登場して、一瞬、「押井さん、パクったな」と思ったが、『ダークシティ』は98年公開なので本作の方が早い。
 しかも、浦島伝説をからませた本作のほうが文学性に富み、センスがいい。

 人の夢を実現させてしまう妖怪「夢邪鬼(むじゃき)」の声優が上手い。
 関西弁の厚かまし気なオッサン口調から鶴瓶かと思ったが、84年では鶴瓶はここまで上手くなかった。
 誰だろう?と調べたら、藤岡琢也だった。
 ウィキによれば、俳優として売れる前は声優をしていたらしい。
 さすが、「岡倉」の店主である。
 
 『うる星やつら』シリーズのなかの異端であるのは確かだろう。
 



おすすめ度 :★★★

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● 本:『タクシードライバーぐるぐる日記』(内田正治著)

2021年三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売

 シルバー・プロレタリア文学シリーズのラスト(今のところ)を飾るは、15年間の都内タクシー運転手生活を綴った一編。
 著者は1951年埼玉生まれ。
 家業である雑貨会社が倒産したのを機に、大手タクシー会社に雇われることになった。

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 タクシー運転手ほど、さまざまな人間の裏の顔をのぞく機会に恵まれた職業はないと思う。
 車内は一種のプライベート空間であり、乗客は運転手を空気のような存在とみなしがちだし、深夜や飲み会の後などの人間がもっとも素をさらしやすい現場に関わるからである。
 本書でも、人を人と思わないような態度をとる大手広告社社員やドラマ撮影中の女優、朝のワイドショーに出ている有名コメンテーターの話が登場する。
 また、吉原のソープランドで働く女性たち、助手席に乗り込み著者に熱い視線を送る上野界隈のオネエさん、「できれば乗せたくない」その筋の人たち、銀座のホステスと常連客との「タヌキとキツネの化かし合い」、乗車料ふんだくりの詐欺師、上野から富山まで8時間かけて送った客(料金20万円)の話など、興味深いエピソードてんこもりで楽しく読んだ。
 嫌な客、困った客は多いだろうし、朝から深夜まで一回18時間勤務はつらいと思うが、人間観察の場としては最適だろう。
 タクシー運転手を主人公とした探偵小説(ドラマ)があってもいいんじゃないか?

 タクシー運転手の就労形態も良く知らなかったので、興味深かった。
 たとえば、
  • 一台の車を二人で交互に使う。
  • 営収(メーター総計)の60%がその日の手取りとなる。
  • 基本18時間勤務で、一ヶ月12回の出番。
  • 休憩時間はちゃんと取らなければならない(レコーダーに記録される)。
  • 燃料(LPガス)は満タン返ししなければならない。
  • 無線連絡「大きな荷物の忘れ物があります」は都内での事件発生を知らせる隠語。
  • 黒タク運転手は優良乗務員のしるし。(著者は黒タクをまかされていた)
 地理オンチで、腰痛持ち痔持ちのソルティは、長時間の座位が課せられるタクシー運転手はできない。加えて、飛蚊症と羞明と夜盲症があるから、雨の日や夜間は危険である。
 そもそも何十年もペーパーなので、今さら運転を始めても人を乗せるなど怖くてできない。
 著者も一過性黒内障の疑いで視力に自信がなくなり、退職を決めたという。
 お疲れ様でした。

タクシー運転手

 これでシルバー・プロレタリア文学シリーズ既刊8冊をすべて読み終えた。
 つくづく思うに、「世の中に楽な仕事なんかないなあ~」

 会社勤めは人間関係やノルマ、顧客や取引先に悩まされるし、フリーの仕事は不安定な立場におびやかされるし、福祉など対人相手の仕事は身心のきつさを伴う。

 かと言って、まったく働かないでいる日々を長期間過ごすのも結構しんどいものである。
 ソルティは過去に数回失業して無職になった。
 最初のうちは勤めから解放された自由を満喫していたが、おおむね三ヶ月過ぎると、昼夜逆転して怠惰になってくる。退屈と同時に、社会に組み込まれていない不安や後ろめたさが忍び寄ってくる。(気の小さいヤツ)
 そういうときに心の安定を保つ助けになった一つは、このブログであった。
 毎日一記事書くことを日課としていた。
 失業保険が切れると、蓄えもないので重い腰を上げてハローワークに行き、次の仕事探しを始めるわけだが、もし働かなくてもいいくらいの財産や定期収入があったら、どうなるだろう?
 よほど固い意志がないと、退廃した日々を送ることになりそう。
 日々の仕事が、規則正しい生活や他人との交流機会や緊張感をつくり、心身を健康に保つ鍵となっているのは間違いない。

 本シリーズを読んだあとでは、街で見かける交通誘導員やタクシードライバー、住宅地で見かけるメーター検針員や介護職員やマンション管理員、旅先で見かける派遣添乗員などに、これまでよりずっとやさしい視線を送れそうな気がする。
 当ブログで洋書を紹介する時は、翻訳者の名前も列記するようにしよう。

 良いシリーズであった。 
 


おすすめ度 :★★★

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● 男たち、美しく 映画:『戦場のメリークリスマス』(大島渚監督)

1983年日本、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド
123分、日本語&英語

 本作は、リアルタイムで劇場で観た初めての大島渚作品だった。
 というより、初めて観た大島渚であった。

 当時人気絶頂のビートたけしと坂本龍一、演技素人の二人が主役級で出演。
 ロック界の大物スター、デヴィッド・ボウイと坂本との東西を代表する美形対決。
 坂本の作曲した印象に残るテーマ音楽が繰り返しCMで流された。
 話題に事欠かず、前評判から高かった。

 蓋を開けたら予想をはるかに上回る大ヒット。
 映画館には若者、とくに戦争映画には珍しく若い女性たちの列ができた。
 ある意味、1981年公開の深作欣二監督『魔界転生』と並んで、日本における“腐女子熱狂BL映画”の幕開けを宣言した記念碑的作品と言えよう。
 キャッチコピーの「男たち、美しく」は、まさに時代の需要を敏感に汲み取ったものである。

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左から坂本龍一、デヴィッド・ボウイ、ビートたけし、トム・コンティ

 ソルティもそのあたり期するものあって鑑賞したと思うのだが、一言で言えば「よくわからない」映画であった。
 腐女子的楽しみという点をのぞけば、なぜこの映画がそれほど高い評価を受け、世界的な人気を博しているのか、理解できなかった。
 最初から最後まで残酷な暴力シーンに満ちているし、それらは太平洋戦争時の日本軍の外国人捕虜に対する行為なので同じ日本人として罪悪感や恥ずかしさを持たざるを得なかったし、それを全世界に向けて何の言い訳もせずに手加減なく晒してしまう大島監督に対する怒りとは言えないまでも不愉快な思いがあった。
「なんで日本人の監督が、わざわざ日本人の恥部を今さら世界中に見せるんだ!」
 同じように太平洋戦争時の東南アジアにおける日本軍の日常を描いた、市川崑監督『ビルマの竪琴』と比べると、その差は歴然としている。

 さらに、テーマがわかりにくかった。
 日本軍の旧悪を暴き日本人という民族の奇態さを描きたいのか、戦争の狂気や愚かさを訴えたいのか、日本軍に代表される東洋と連合軍に代表される西洋との文化的・思想的・倫理的違いを浮き彫りにしたいのか、それとも敵同士の間にさえ生まれる男同士の友情に焦点を当てたいのか、ホモフォビア社会の中でいびつになった同性愛者を描きたいのか・・・・。
 いろいろな要素がごっちゃ混ぜになっている感を受けた。
 本作は、実際にインドネシアのジャワ島で日本軍の捕虜になった南アフリカの作家・ローレンス・ヴァン・デル・ポストの体験記を原作としているので、ある一つのテーマに基づいて作られた作品というより、現実のいろいろな見聞を盛り込んだ「ザ・捕虜生活」としてあるがままに受け取るのが適当なのかもしれない。
 実際、海外では『Furyo』(俘虜)というタイトルで上映された国も少なくない。

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 そういうわけで、公開時は「よくわからない」映画だったのであるが、約40年ぶりに見直してみたら、それもその間に、『青春残酷物語』『太陽の墓場』『日本の夜と霧』『日本春歌考』『マックス、モン・アムール』『御法度』といった大島渚監督の他の作品を何本か観た目で見直してみたら、新たに気づくところが多かった。

 まず、顕著なのが、坂本龍一演じるヨノイ大尉であるが、これは明らかに三島由紀夫、あるいは三島由紀夫に対する大島ならではのオマージュである。
 ヨノイ大尉は、2・26事件に参与できなかった悔恨を抱える国粋主義者で、剣道と文学をたしなむクローゼット(隠れホモ)という設定。原軍曹(ビートたけし)を典型とする野蛮で暴力的な日本兵の中で、ストイックなまでの神道精神を貫いている。晩年の三島を彷彿とさせる。
 そういう男があまつさえ敵方の外国男を好きになってしまうという矛盾と葛藤が面白い。

 次に、大島の遺作である松田龍平主演『御法度』(1999)において極められた「マチョイズム(ホモソーシャル社会)の中に投げ込まれた同性愛(ホモセクシュアル)」というテーマの先鞭をつけた映画である。
 生き死にがかかっている闘いの場においては、規律ある上下関係と集団の大望成就のために自己を放棄するマチョイズムこそ、重要であり役に立つ。
 上下関係を曖昧にし集団より自己の欲望や特定の仲間との関係を重視する同性愛は、集団の規律やモラルを乱しかねない。
 だから、デヴィッド・ボウイ扮するセリアズ少佐に惚れてしまったヨノイ大尉は、軍のリーダーとして役に立たなくなってしまった(更迭させられた)のであり、美貌の剣士である加納惣三郎(松田龍平)は、新選組を内側から崩壊させる危険因子として、最後には沖田総司(武田真治)に斬られてしまうのである。
 敵と戦い打ち倒すためには、「男(マッチョ)」でありつづけなければならない。 

 次に言及すべきは、ビートたけしの存在感。
 演技力がどうのこうのといったレベルを超えたところで、強く印象に刻まれる。
 当時お笑い一筋でテレビ芸人としてのイメージの強かったたけしを、この役に抜擢した大島の慧眼には驚くばかり。
 有名なラストシーンでの艶やかな顔色と澄み切った笑顔は、たけしが映画作りの面白さに目覚めた証のように思える。
 
 本作では原軍曹とロレンス中佐(トム・コンティ)の間で、何度か「恥」をめぐる会話が交わされる。
 敵の捕虜になること自体を「恥」と考える日本人と、捕虜になることは「恥」でも何でもなく、捕虜生活をできるだけ快適に楽しく過ごそうとする西洋人。
 捕虜になって辱めを受けるくらいなら切腹を選ぶ日本人と、それを野蛮な風習としか思わず、何があっても生き抜くことこそ重要とする西洋人。
 戦地における傷病者や捕虜に対する待遇を定めたジュネーブ条約(1864年締結、日本は1886年加入)の意味を理解できない日本人と、一定のルールの下に戦争することに慣れている西洋人。
 東洋と西洋、いや日本人と欧米人とのこうした違いは、『菊と刀』や『海と毒薬』はじめ、いろいろなところで語られてきた。
 映画公開後に「毎日新聞」(1983年6月1日夕刊)に掲載された大島渚自身による自作解題によると、外国のマスコミから受けた本作に対する様々な質問の中に、次のようなものがあったそうだ。

 オーシマは、この映画で日本の非合理主義が敗れ、ヨーロッパの合理主義が生き残ったとしている。後者が前者よりすぐれていると思っているのか。

 それに対して大島はこう答えたそうな。

 ニッポンは戦争で示した非合理主義を戦後の経済や生産の中に持ちこんで、それを飛躍的に発展させたかもしれない。しかしそのエネルギーは負けたことから来たのだ。そしてそれを支えた我々はもう疲れた。次の世代は合理主義を身につけて世界の中で生きるだろう。

 40年経って、日本人はどれくらい合理主義を身に着けたのだろう?



P.S. 驚いた! 記事投稿後に知ったが、今日1月15日は大島渚監督の9回目の命日だった。あの世の監督に「書かされた」?

 



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● 本:『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』(川本三郎著)

1988年河出書房新社刊行
2010年平凡社より復刊

マイバックページ

 川本三郎の名前だけは知っていた。
 1944年生まれの文芸・映画評論家である。
 本書は自伝的エッセイであり、大学を出た川本が就職浪人していた1968年から、朝日新聞に入社して雑誌記者になったものの、ある事件に関与して解雇の憂き目を見た1972年までのことが書かれている。
 つまり、20代後半の川本の朝日新聞記者時代の話である。
 それはまた、学園紛争の嵐が日本中に吹き荒れていた時代であり、ベトナム戦争や日米安保延長をめぐって戦後の左翼運動が絶頂期かつ転換期を迎えていた時代である。
 本書を知ったのは池上彰×佐藤優の『激動 日本左翼史』に言及されていたからだが、ソルティは知らなかったが、2011年に妻夫木聡、松山ケンイチ共演で『マイ・バック・ページ』のタイトルで映画化されていた。(復刊はそれに乗じてのことであろう)

 本書の元となった原稿は雑誌『SWITCH』に86~87年に連載された。
 当時すでに川本は40歳を超えている。
 朝日新聞をクビになったあと、一人の物書きとして身を立てられるようになった川本が、10年以上前の自らの身に起こった出来事をようやく冷静に振り返る余裕が生まれたことで、本書が誕生したのであった。

 連載の途中までは、まさに60年代風俗回顧エッセイといった趣きである。
 当時流行った映画や音楽(ロックやフォーク)や演劇などのサブカルチャー、猥雑でエネルギーに満ちあふれていた新宿の様子、マンガ家・永島慎二や怪優・麿赤児など面白い人々との出会い、新米記者として取材した様々な対象や現場――東大安田講堂の陥落、ベトナム戦争従軍のアメリカ兵、学生運動の高校生リーダー、“和製ウッドストック”と言われた中津川フォーク・ジャンボリーの混乱、山谷のドヤ街をはじめとする「東京放浪記」――といった事柄が、青春真っただ中の川本がその場で感じ考えたことと共に鮮やかに描き出されている。
 時代の雰囲気や匂いが伝わってくる文章で、「これ、面白いじゃん!」と読み進めていたら、最後の3編で印象は大きく変わった。
 それが、川本が朝日新聞をクビになった原因となり、その後の人生を大きく変えることになった「朝霞自衛官殺害事件」の顛末である。

朝霞自衛官殺害事件とは、1971年(昭和46年)8月21日に、東京都練馬区・埼玉県朝霞市・和光市・新座市にまたがる陸上自衛隊朝霞駐屯地で、警衛勤務中の自衛官が新左翼によって殺害されたテロ事件である。犯人グループが「赤衛軍」を自称したことから「赤衛軍事件」ともいう。朝日ジャーナルの記者川本三郎と、週刊プレイボーイの記者がそれぞれ犯人を手助けしており、日本のマスメディアの信頼失墜にも繋がった。
(ウィキペディア『朝霞自衛官殺害事件』より抜粋)

 川本は「犯人を手助け」した疑いにより逮捕され、留置所に入れられ、数日間にわたる取り調べを受けた。
 最初のうちは「取材源の秘匿」というジャーナリストのモラルを守るため容疑を否認していたが、その後、捕まった実行犯・菊井良治ほか2名の学生が自白の際に川本との関係をペラペラ喋ったのを知るに及んで――
 
 逮捕されて十日目の夜、私は地検の取調室でN検事に容疑事実を認めた。私は敗北した。K(ソルティ注:菊井良治)から事件の証拠物件である腕章を預かったこと、それを同僚のU君に預けたこと、のちにそのU君にその焼却を頼んだこと。すべての容疑事実を認めた。(本書より)

 川本は証拠湮滅罪で起訴され、懲役十か月、執行猶予二年の判決を受けた。
 当然のごとく職を失った。

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 本書には、この一連の出来事に対する川本から見た“真実”がこと細かに述べられている。
 新左翼を名乗る菊井と関わるようになったきっかけ、菊井のアジトへの訪問取材、正体不明の菊井への懐疑、朝霞自衛官殺害を知ったときの驚き、菊井から被害者の腕章を受け取った経緯とそれを焼却処分した理由、新左翼に対する世間の目の変化とそれに影響された朝日新聞社内部の混乱、逮捕までの流れ・・・・・。
 もともと左寄りの朝日新聞社の中でも最も反体制で革新傾向の強い『朝日ジャーナル』に配属され“心情新左翼”であった川本が、新興新左翼の旗を掲げる菊井に思い入れするあまり、社会人としての的確な判断を誤った――というのが、現在本書を読む者の多くが思うところであろう。少なくともソルティはそう読んだ。
 なにしろ、川本は刑罰の対象となった「証拠湮滅」のみならず、
  • 菊井がテロを企てており武器まで用意しているのを事前に知りながら通報しなかった。
  • 犯行後の菊井と極秘裏に面会し、会社の車でその移動を手伝い、インタビューを行って取材費(つまりは逃走費)を渡した。
  • 自らが逮捕された後もすぐに警察に事実を話さず、結果として逃走中の菊井をかばい続けた。
 証拠湮滅罪だけで済んでむしろ幸いだったのではないか。
 下手すると、共犯とみなされてもおかしくなかったと思う。(仮に警察が菊井らを早々に逮捕できず、菊井らがさらに重大な一般市民を巻き込むようなテロ――あさま山荘事件のような――を起こしていたら、川本はその後文芸評論なんかやっていられただろうか?)
 いかなる事情であれ、川本が殺人事件の重要証拠物件を隠し焼却してしまったのは事実なので、これはいわゆる冤罪ではない。
 川本もそれは否定していない。
 控訴しなかったし、朝日新聞社に対し不当解雇も訴えなかった。
 犯人が逮捕されたので、この事件に関する限り、川本の社会的責任はこれで終わったと言える。

 60年代風俗回顧エッセイで始まった本書は、後半になって劇的なドラマに変貌する。
 誰もがその名を知る大企業に勤める若く野心的な一記者が、世間注視の殺人事件に関与し逮捕された、その一部始終を描いたドキュメントに様変わりするのだ。
 赤の他人である一読者からすれば面白くないわけがない。
 犯罪サスペンスドラマでも見るかのようなスリル、一社員の「不祥事」を知った大組織(朝日新聞社)の動揺と混乱、検察の取り調べの実際などが、否が応にも好奇心をそそる。
 そればかりでない。
 ソルティはこの告白エッセイを読んで、夏目漱石『坊ちゃん』のような青春挫折ストーリーを想起したのである。いわゆるイニシエイション(通過儀礼)型の苦い成長物語である。
 であればこそ、本作は映画化されたのではないかと想像する。(映画未見)
 
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 事件から半世紀が過ぎた現在、もはや真実は何かとか、川本青年のやったことが善であるか悪であるかとか、ましてや「こうすれば良かったのに・・・」とか、川本に対する朝日新聞社の処遇はいかがなものかとか、今さら言ってもせんないことである。
 当時の社会情勢、政治状況、世間の動向、時代の空気、先の見通しの有無・・・・そうしたことがリアルタイムでその時代を生きていない者にわかろうはずがない。
 川本が、もともとの性格や育ちや若さゆえの血気や無謀のままに、激動の政治的・社会的・文化的状況に投げ込まれ、若者の間で隆盛を極めていた左翼思想を身につけた一介のジャーナリストとして、その場その場の判断を、迷いながらも自らの良心にしたがって下していったのは間違いあるまい。
 なんら責められるものではない。
 「若気の至り」で済ましていいと思う。(何ら罪もないのに殺された自衛官とその家族に対する自責の念はあってほしいと思うが・・・)
 
 ただ、気になったのは「あとがき」である。
 本書には、最初の刊行時(1988年)の際に川本が書いたものと、復刊の際(2011年)に書いたもの、二つの「あとがき」が収録されている。
 最初の「あとがき」で44歳の川本はこう記している。
 
 私の事件は、ジャーナリズムの歴史のなかで見れば、60年代後半に大学を中心に生まれた新左翼運動が権力によって鎮静化されてゆく過程で起きた、権力によるジャーナリズムへの介入ととらえることができるだろう。
 
 一連の出来事のなかで私はなんとか取材源の秘匿というジャーナリストのモラルを守ろうとした。しかし事実の流れが錯綜してゆくうちにその基本的な問題から私はどんどんはがされてゆき、最後は「証拠湮滅」という犯罪に直面させられた。私は「記者」ではなく「犯罪者」になった。 

 「自分は間違ったことをしていない。周囲の状況が変わったために気づいたら悪者にさせられていた」という自己正当化の匂いをどうにも感じる。
 「問題は“権力によるジャーナリズムへの介入”であって、殺人事件の“証拠湮滅”なぞ二の次だ」とでも言っているように聞こえる。

 さらに、復刊の際の「あとがき」では66歳の川本はこう書いている。

 人が一人、死んでいる。しかも私はそれを阻止出来るかもしれない立場にあった。しかしそのためには、警察に通報しなければならない。無論、普通の事件ならためらうことなく通報する。ただ、「あの男(ソルティ注:菊井良治)」はいかがわしい人物ではあったが、それなりの「思想犯」だった。その場合、警察に通報したら私は「取材源の秘匿」というジャーナリズムの基本、生命を失うことになる。
 どうすればよかったのか。いまでもわからない。

 この文章はこう解せるだろう。
 「普通の事件」なら「取材源の秘匿」があろうと、ためらわずに通報する。でも、「思想犯」だったから「取材源の秘匿」にひっかかり、通報しなかった。
 ソルティはこれには異論がある。
 これではまるで「思想犯」であれば殺人事件を起こしても許されるし、それを見逃しても罪にはならないと言っているようなものではないか。
 人殺しが許されないのは、令和の今も50年前の日本も変わりないはずだ。「思想犯」なら大目に見るなんてことがあっては困る。(オウム真理教だって彼らなりの「思想」を持っていた)

 そして、上記の「思想」とは、川本が心情的に共感していた新左翼の思想(=共産主義建設のための武力闘争肯定)である。
 仮に、菊井良治の思想が左翼とは逆の右翼的立場のものであったら、そしてその思想の実現のために菊井がテロリズムを計画していて(たとえば全共闘の花形リーダーの暗殺とか)、それを川本が記者の特権として事前に知っていたとしたら、それでも川本は「取材源の秘匿」を守ったのだろうか?
 
 つまるところ、本書をイニシエイション・ストーリーととらえたのは勘違いなのか?




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