ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● なんなら、奈良19(奈良大学通信教育日乗) ソウテイ外の問題

 答えがないという快感シリーズに、その後も日本美術史における神護寺三像論争が加わり、一筋縄ではいかない生きた学問の面白さを感じているところである。
 しかしここに、書誌学における「ソウテイ問題」が眼前に広がるにあたって、

 いくらなんでもこれはどうよ


 ソウテイ外の事態にいささかげんなりしている。

書誌学

 ソウテイ問題は二つある。(もっとあるかもしれない)
 一つは、書誌学が主として対象とする日本の古典籍(江戸時代以前の本)のソウテイを論じるにあたって、「ソウテイ」をどう漢字表記するかという問題である。

 現在、国語辞書で「ソウテイ」を引くと、「装丁」が標準的な表記として最初に出てくる。多くの辞書は、「装幀」「装釘」は誤用であると併記している。「正しくは〈装訂〉」と追記しているものもある。
 つまり、「ソウテイ」の「テイ」に、「丁」、「幀」、「釘」、「訂」の4種類の漢字がこれまでに用いられてきた歴史があり、現在も混在しているのである。(一部には、「綴」を当てる研究者もいる)
 ちなみに、手元のWord 2016で「ソウテイ」と打つと、「装丁」か「装幀」が出てくる。「装釘」と「装訂」を一発で出すためには、日本語辞書への単語登録が必要である。

 現在の書誌学界の動向をうかがうに、「装訂」という表記を正しいとする意見が多いようだ。が、「装幀」や「装釘」を用いている研究者もいる。
 さらに、プロの“ソウテイ”家いわゆるブックデザイナーをはじめとする編集・出版界隈では、「装幀」という表記が用いられることが多い。次点が「装丁」だ。(ソルティが新卒で出版社に入った時、「装丁」と教わった。「そうちょう」と呼んで、先輩方に笑われたものだ)
 『暮しの手帖』創刊者として知られる名編集者兼グラフィック・デザイナーの花森安治(1911-1978)などは、「文章はことばの建築だ。だから本は釘でしっかりとめなくてはならない」と言い、あえて「装釘」を用いたという。
 2010年改定の常用漢字表に載っているのは、「丁」と「訂」の2つのみである。
 まったく悩ましい。

テイに悩む男

 いま一つのソウテイ問題は、古典籍における“装訂”(とりあえずこの表記を用います)の歴史的な変遷を論じる際に直面することである。
 むしろ、こちらの問題のほうが深刻度は高い。

 日本の書物は、巻物から始まった。
 横に長く貼り継いだ紙を、末端に付けた軸に巻いたもので、正式には巻子本と言う。
 奈良時代までは巻子本一択であった。
 その後も、時代劇などに見るように、家系図とか一子家伝の秘伝書など、大切なものは巻子本が用いられた。

虎の巻
巻子本

 巻子本は、読みたい部分を探すのがたいへんである。
 文字通り“巻末”のほうにそれがある場合、巻物をいちいち広げなければならない。
 そこで、折本が生まれたと考えられている。
 横に長く貼り継いだ紙を等間隔に山折り谷折り(ジャバラ折り)し、最初と最後に表紙をつけたものである。
 今でもお経の折本はよく見かける。
 表紙と裏表紙を一つにつないで、ジャバラが横に長く伸びないようにしたタイプもある。

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折本

 平安後期頃から冊子本が登場する。
 まとめた紙を一カ所で綴じて、パラパラとめくって読める形。現在のほとんどの本や雑誌はこれである。
 古典籍の冊子本でもっとも多い装訂は、袋綴じである。
 二つ折りした紙を重ね、折り目の反対側を綴じる。
 袋状態になった外側の両面に文字や絵が描かれ、内側は当然何も書かれない。
 NHK大河ドラマ『べらぼう』に出てくる江戸時代の刊本は、ほとんどがこの袋綴じである。 

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冊子本・袋綴じ

 袋綴じと聞くと、昭和のオッサンはどうもにんまりしてしまう。
 成人男性向け雑誌に、袋綴じページがよく仕込まれていたのを思い出すからだ。
 そこだけ紙の質が上等で、カラーであった。
 街の書店などで、袋綴じの上側開口部から中味を覗こうとする立ち読み客をよく見かけたものである。
 つまり、昭和の袋綴じは、折り目部分をハサミやカッターで切ってはじめて現れる、内側のグラビア写真こそ値打ちだった。

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 閑話休題。

 上記のように、巻子本⇒折本⇒冊子本といった大まかな装訂の変遷は跡づけられる。
 しかし、より詳しく見れば、紙の使い方・綴じ方の違いによって、さまざまな種類の装訂方法が存在し、その分類は煩雑を極める。
 旋風葉、粘葉装、胡蝶装、綴葉装、綴帖装、双葉綴葉装、折帖仕立、大和綴、画帖仕立・・・・e.t.c.
 困るのは、研究者によって、同じ装訂の本が異なる名称で呼ばれたり、異なる装訂の本が同じ名称で呼ばれたり、紙の使い方と綴じ方が同列に扱われたり、さらには、研究者が独自の名付けを行っていたり・・・もう何が何だか分からない。
 今回、書誌学の答案を作るにあたって、この道の権威と言われる往年の研究者から、中堅・若手の最近の研究者まで、何冊もの著書に目を通したが、読めば読むほど混乱し、袋小路に、いや泥沼に陥っていく。
 とてもまとめきれない。
 いったい、これは何事なのか?

 装訂方法の分類と名称という、いわば書誌学のとば口で、富士の樹海のような迷宮が待ち構えている。
 はっきり言って、学問以前の問題である。
 よくこれで、研究者同士、お互いに誤解することなく、議論したり、論文を評価したり、合同研究したり、つまりは意思疎通できるものだ。
 げんなりを通り越して、あきれてしまった。

 さすがにこれを「答えのない快感」シリーズに入れることはできない。








● 本:『ササッサ谷の怪』(コナン・ドイル著)

1879~1930年初出
2024年中公文庫

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カバーイラストはナミサトリ

 シャーロック・ホームズ物でないコナン・ドイル作の14の短編を収録。
 20才のみぎりで発表したデビュー作『ササッサ谷の怪』から、没年に書かれた最後の小説『最後の手段』まで、時系列で読めるのがうれしい。
 得意の犯罪小説以外にも、怪奇、ユーモア、恋愛、家庭悲話、海洋小説、戦争物などバラエティに富んでいる。
 14編の中では、スピリチュアリズムに関心の高かったドイルらしい『幽霊選び』、アルコール依存症の夫に苦労する母を見て育ったドイルの子供時代を思わせる『やりきれない話』、ボーア戦争や第1次世界大戦に率先して戦争協力したドイルの軍人精神(マチョイズム)を示す『死の航海』が面白かった。
 ただし、やっぱり、面白さではシャーロック・ホームズ物には全然かなわない。
 ホームズ物がなかったら、ドイルの名はおそらく、何度か映画化された『ロスト・ワールド』をもってしても、イギリス文学史に残らなかったであろうし、この短編集も世に出なかったであろう。
 ホームズ&ワトスンというキャラクターの創造こそが、コナン・ドイルの最大の成功のもとであったと、あらためて思った。




おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損













● 落ち着け、白石 漫画:『ゴールデンカムイ』(野田サトル作画)

2022年集英社
2014年8月~2022年4月『週刊ヤングジャンプ』連載
全31巻

白石よしたけ
落ち着け、シライシ

 近所の図書館に全巻揃っているのは知っていたが、予約の順番待ちリストが長いので、落ち着くまで待っていた。
 連載終了3年経って、やっとスムーズに借りられた。

 思ったより”少年マンガ!”――だった。
 もうちょっと、大人向けの内容、大人向けの絵柄を想像していた。
 たぶん、タイトルの共通から、白土三平の『カムイ伝』を連想したからだろう。
 しかし、連載されていた雑誌は、『ガロ』でも『ビッグコミックオリジナル』でも『モーニング』でも『週刊スピリッツ』でもなく、『ヤングジャンプ』である。
 少年マンガで当然なのだ。
 『少年ジャンプ』の連載作品にくらべれば、より暴力的、よりエロチック、より蘊蓄多く、心理描写はより複雑ではあるが、基本、『リングにかけろ』や『キン肉マン』や『北斗の拳』爾来の敵味方入り乱れての男たちの肉弾戦、戦闘マンガには変わりない。
 『カムイ伝』に熱狂した60年代若者の大人だったこと!
 日本人はたしかに幼稚化した(ソルティ含めて)。

 もっとも、少年マンガだから減点というわけではなく、面白さは評判通りだった。
 多くの登場人物を擁しているにもかかわらず、ひとりひとりのキャラを立たせ、描き分けている。
 金塊探しとそれにまつわる戦闘という主筋にからめて、アイヌ文化、北海道の自然、明治史、ミステリー、サイコサスペンス、家族トラウマ、恋愛、変態性欲、コメディ、スプラッタ、マッドサイエンティスト、ロシア革命など、いろいろなジャンルの物語を包含し、読者を飽きさせないストリーテリングは見事。
 取材の労力は相当なものだったはず。
 画力も高い。

 ソルティがもっとも驚いたのは、BL色の濃さ!
 入浴シーンが多く、男たちはやたら逞しい裸体を晒す。
 その裸体がまた、熊系の男の絵を得意とするゲイの漫画家・田亀源五郎――NHKでドラマ化された『弟の夫』で一般にも知られるようになった――を連想させる筋肉リアリズムである。
 ノンケの男たちが、媚薬効果のあるラッコ鍋をそれと知らずに食べたばかりに、食後に入ったサウナの中で互いの肉体を強烈に意識し合う、まるでゲイサウナにおける視線の飛ばし合いのようなエピソードもあり、「きょう日の(ヘテロ向け)青少年誌はここまでやるのか!」と衝撃を受けた。
 さらには、美しくもカッコよくもない中年男カップルの命をかけた恋バナもある。
 昨今漫画で扱うにはなかなか難しい題材であるにもかかわらず、差別的なふうでもなく、嘲笑っているふうでもなく、絶妙なバランスで乗り切っている。
 編集サイドの賢さを感じる。
 本作を読んで、自らのゲイ性に目覚めてしまう読者もいるやもしれない。

 一番の魅力キャラは、やっぱり、愛され脱獄王・白石由竹。
 作中のコミックリリーフ的存在であるが、いつの間にやら、主役の2人・杉元佐一とアシリパを喰ってしまっている。
 連載が進むにつれ、読者人気が高まり、白石の存在感と出番が増していったのではないか?
 結果、ドジばかり踏んでいつも周囲を呆れさせるこの男が、ラストには美味しいところ総取りの成功者となる。
 インパクトつよキャラとして日本漫画史に残りそうなシライシヨシタケの創造こそ、野田サトル&『ゴールデンカムイ』最大の成果と言えるのではないか。
 次点で、熊の恐ろしさを普及したこと。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 昭和BL枯れすすき 本:『男色』(水上勉著)

1969年中央公論社
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 水上勉が「こういう小説」を書いているとは知らなんだ。
 映画化されたものなら、『雁の寺』(1962)、『越前竹人形』(1963)、『飢餓海峡』(1965)、『はなれ瞽女おりん』(1977)、『白蛇抄』(1983)を観ている。が、小説は読んだことなかった。
 「こういう小説」というのは、自らの少年期の男色体験を赤裸々に明かしつつ、昭和40年代の地方のゲイの世界を舞台に、水上とゲイバーで働く美青年との交情を描いたBL小説という意味である。

 水上はゲイではなかったが、10歳の時に京都の禅寺に入れられ、先輩の修行僧に無理やり夜の相手をさせられた経験があった。
 それはつらい出来事であると同時に、親と離れて厳しい修行生活を送る子供の身にとっては、人肌に触れて寂しさを癒す稀少なひとときでもあった。
 また、乞食谷と呼ばれる辺鄙な土地の薪小屋に生まれ、貧しい子供時代を送り、作家として食えるようになるまで何十もの仕事を渡り歩いた苦労人の水上は、社会の底辺にいる者や差別されている者に対する共感があった。
 犯罪者や遊女や盲目の三味線弾きの哀しい人生を描いた上記の映画は、まさに水上文学のなんたるかを物語っている。
 それゆえ、水上はゲイの世界にも怯えることも抵抗することもなく、人気作家になってからも各地のゲイバーに頻繁に飲みに行っていた。
 本小説の主人公である雅美との出会いは、その中で起きた出来事なのである。

 書かれていることのどこまでが事実でどこからが創作なのか、虚実皮膜の面白さがある。
 たぶん、少年時代の寺での男色体験や、雅美のモデルとなった青年との出会い、そして水上勉の名を騙って各地でロマンス詐欺を働くゲイの男の逸話は、事実に基づいているのだろう。(ニセ水上勉事件はどこかで聞いたことがある)
 ゲイという存在に対する語り手(水上)が記す印象や感情も、率直な実感であろう。 
 ゲイの――というより今ならトランスジェンダーに該当するであろう――雅美との関係の詳細は、小説家の巧み(嘘)が混じっていると思われる。
 昭和40年代の地方のゲイ社会の様相も興味深い。 
 「やっぱり、上手いなあ。読ませるなあ」と感心した。

 単行本の装幀は栗津潔。
 洒落てはいるけれど、出版当時の「男色」に対する世間のイメージを彷彿とし、そのイメージをさらに固定化するようなたぐいの装幀である。
 つまり、暗さ、禁忌、罪、危険、おぞましさ、禍々しさ・・・。
 昭和時代のゲイは、重い十字架を背負った背徳者、日陰に生きる隠花植物、のような存在だった。
 この半世紀でLGBTを取り巻く状況がどれだけ変わったかを検証する、その基準点がここにある。

レインボーフラッグ

 一方、本書を読んで思ったのは、この小説の底に流れている「暗さ」や「哀しみ」や「つましさ」は、昭和のゲイの世界にのみ特有なものではなく、昭和という時代に蔓延し、社会全体を覆っていた空気ではなかったかということである。
 少なくとも、ソルティが身をもって知る昭和40~50年代に限ってもいい。

 その何よりのしるしは、演歌の流行と衰退である。
 「もはや戦後ではない」と言い、所得倍増で豊かになっていく明るさの裏で、日本人は演歌的世界を共有していた。
 子供がアニメソングやポップスを、若者がフォークソングやロックやニューミュージックを追いかける傍らで、昭和の大人たちは演歌を好んで聴いていた。
 若者もまた、中年の声を聞くようになると、演歌の魅力にはまっていった。
 そこには日本的情念と日本的叙景によって縁どられた昭和の大人社会の映し絵があった。(その最高傑作のひとつが石川さゆりの歌った『津軽海峡冬景色』である)
 演歌の女王と言われた美空ひばりの死が、昭和の終わり(1989年)と同時であったのは、実に象徴的なことであった。
 平成・令和と時代が進んで、日本的情念と日本的叙景は急速に失われていったからだ。
 そう。本書の主人公である雅美は、昭和演歌に出てくる薄幸の女そのものなのである。
 本書を読んで、ゲイという特殊性より、昭和という時代の特殊性のほうを思ってしまうのは、マイノリティだろうがマジョリティだろうが、個人の意識と社会の意識は切り離せないからであり、かつ、それらは変わりうるということの証である。

 雅美は最後に水上との連絡を絶ち、行方知れずになってしまう。
 北の海に向かったのだろうか。
 令和の今なら、一所懸命お金をためて、タイに行って性別適合手術を受けて凱旋、水上のコネを使って芸能界デビュー、という選択もありだろう。(カルーセル麻紀はそのトップランナーだった)

 

 
おすすめ度 :★★★★

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● 映画:『モガディシュ 脱出までの14日間』(リュ・スンワン監督)

2021年韓国
121分
 冷戦の終結とともに始まったソマリア内戦。
 独裁的なバーレ政権の打倒を目指す反政府軍は各地を制圧していく。
 1991年1月、ついに反政府軍はソマリアの首都モガディシュに攻め入る。
 反政府軍と政府軍は激しい銃撃戦を街中で展開し、首都は混乱を極める。
 攻撃の先は各国大使館にも向かい、関係者には一刻も早い国外退去が迫られる。
 暴徒に大使館を打ち壊され、行き場を失った北朝鮮の大使館員とその家族たちが、最後の砦として助けを求めたのは、韓国大使館であった。

 当時ソマリアの韓国大使館に勤務していたカン・シンソン大使が引退後に書いた小説『脱出』の映画化、つまり実話がもとだと言うから驚く。
 北朝鮮と韓国。
 簡単には解きほぐせない複雑な因縁ある両国が、ソマリアから脱出するために協力し合ったというのだから。
 事実は小説より奇なり。
 ――というか、現実世界のどうしようもない悲惨さと不条理、人類が抜け出せない無明の底知れなさを痛感する。

 もっとも、映画のスタイル自体は、事実を淡々と描くドキュメンタリータッチとはほど遠く、バイオレンス&アクション&パニック・サスペンス&人間ドラマとして楽しめる娯楽作品仕立てになっている。
 相当な脚色がほどこされていると思われる。
 ラストシーン近くの街中でのカーチェースやイタリア大使館前でのすさまじい銃撃戦など、漫画チックあるいはテレビゲームチックですらある。
 そのぶん、手に汗握る興奮度。
 韓国映画界のパワーを感じざるを得ない。

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OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像

 本作で描かれる韓国人と北朝鮮人の関係を見ていると、自然と、1994年のルワンダ虐殺を描いた『ホテル・ルワンダ』(テリー・ジョージ監督)を想起する。
 ルワンダ虐殺は、フツ族過激派によって引き起こされた120万人以上のツチ族虐殺。世界史上もっとも残酷な民族紛争であった。
 が、民族紛争という名が正しいのかどうかは疑問である。
 フツとツチは同じ人種に属し、同じ宗教、同じ言語を共有し、文化的にも似通っている。2つの集団の違いは民族性の違いというより、政治的・人工的につくられたものなのである。
 朝鮮戦争の結果、38度線を境に北と南に分けられた北朝鮮と韓国の状況もそれによく似ている。

 映画の中で、韓国大使館に逃げ込んだ北朝鮮大使館一行と、ためらいつつも彼らを保護した韓国大使館一行とが、ひとつの食卓を囲むシーンがある。
 同じ顔立ち、同じ背格好、同じ言語、同じ食文化、同じルーツをもつ人々が、敵と味方に別れて反目し争わなければならない不条理。
 実際、主要キャラ以外は、どっちがどっちの大使館関係者なのか最後まで区別がつかない。
 世界中の誰よりも近いところにいて、誰よりも理解し合えるはずの二つの民が分断されている現実。
 その原因の一端が日本にあることを知らずに、この映画を見ることは許されまい。

 子供が銃を持つのが日常風景の国がある一方で、里に下りた熊を駆除するかどうかの議論で炎上している日本の平和に乾杯。

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dorisによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★★

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● YAMのリアリティ 本:『自由研究には向かない殺人』(ホリー・ジャクソン著)

2019年原著刊行
2021年創元推理文庫

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 英国初のYAM(ヤングアダルトミステリー)。

 女子高生のピップは、自らの町で5年前に起きた女子高生アンディ・ベル殺人事件の真相を探ることを、学校の自由研究課題に選んだ。
 犯人とされたサリルはアンディのボーイフレンドだったが、自白メッセージを残して自殺。アンディの遺体は見つからなかった。
 サリルに憧れていたピップは、真犯人は別にいると思い、サリルの弟ラヴィの協力を得て、ITを駆使して独自の調査を開始する。

 寝る前にちょこっとサワリだけ読むつもりが、あれよあれよと引き込まれてしまい、気がつけば午前4時。寝不足のまま出勤。
 それが二晩続いてしまった。
 日中しんどかった。

 魅力のいちばんは、ピップという少女のキャラにある。
 好奇心旺盛、行動力バツグン(いささか軽率)、家族思い・友達思い、同級生男子を手のひらで転がし大人と対等に話せる押しの強さ、ITを使いこなす頭の良さ。
 ヤングアダルトな読者にしてみれば、自分もこんなふうにありたいなあと思うような痛快キャラである。
 ヤングアダルトでない読者にしてみれば、いくら高校生の自由研究とはいえ、町を揺るがした殺人事件の調査に、記憶いまだ生々しい事件の関係者たち(加害者と被害者の家族含む)がこんな簡単に調査協力するわけないだろと、ご都合主義に鼻白みながらも、ピップの勢いに巻き込まれて調査の行方が気になってしまう。
 それはつまり、著者のストリーテリングの冴えを表している。

 冷静に考えると、この小説には現代社会の若者たちをめぐる毒々しいテーマがてんこもりである。
 いじめ、ドラッグ、レイプ、ドメスティック・バイオレンス、ネット犯罪、機能不全家庭 e.t.c.
 ピップとラヴィは真犯人を見つけ出し、サリルの無罪を証明することに成功するが、その真相は決してハッピーエンドと言えるものじゃない。
 とても自由研究優秀賞としてみんなの前で発表できるたぐいのものではない。
 なのに、なぜか物語には陰惨なところがなく、明るいタッチに終始している。
 読み終えた後は、不思議とさわやかな印象が残る。
 まったく同じ題材を社会派ミステリー仕立てにしたら、かなり陰惨かつ深刻な話となり、読後感は相当に重苦しかったろう。

 ヤングアダルトミステリーならではのリアリティ、すなわち世界観ってのがある。
 それに乗れた人には、寝不足必至の面白さ。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『ケアと編集』(白石正明著)

2025年岩波新書

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 著者の白石は、医学書院「ケアをひらく」シリーズを担当していた編集者。
 このシリーズは、これまでにないようなユニークかつ斬新な切り口で医療介護分野のケアを語り、話題を集めた。
 2019年にはシリーズ全体に毎日出版文化賞が贈られている。
 2024年に白石が定年退職するまで、43点のシリーズを刊行したという。
 名編集者である。

 ソルティは、『驚きの介護民俗学』(六車由美著)でこのシリーズの面白さを知って、それ以降、次の6点を読んでいる。
 「ケアをひらく」シリーズではないが、『俺に似たひと』(平川克美著)も面白かった。医療従事者向けのおカタい(おタカい)本ばかり出している出版社、という医学書院のイメージを刷新してあまりなかった。

 白石正明ってどういう人なんだろう?
 どういったポリシーなりスタンスで編集の仕事をしているんだろう?
 ――と、気になっていたので、白石自身がみずからの編集の仕事について披瀝している本書の刊行はうれしかった。

 開口一番、「ぼくの編集の先生は向谷地生良さん」と書いてあるのを見て、納豆食って血液サラサラ。腑に落ちた。
 向谷地生良(むかいやち いくよし)は、北海道浦河町にある精神障害者の生活拠点「べてるの家」のソーシャルワーカーである。
 べてるの家についてはこれまでにたくさん書かれているので説明しないが、一言でいうならば、「近代的価値観を無効にするプリズム」である。
 プリズムの中心にいるのがべてるの家の住人ならば、それを光線の中に置いたのが向谷地である。

 治療という名で「改変」するのが医学である。一方、モノ自体には手を付けずに周囲との関係を改変するのが、向谷地さんのやっているソーシャルワークだ。

 弱さや依存は「克服すべきもの」という問題設定のままであれば、弱さは強さに、依存は自立に変更されなければならない。・・・・「現在がよくないから、こうしなければならない」あるいは「現在はよくないが、こうすればもっとよくなる」という文脈は同じなのである。どちらも「現在のままではダメ」なのだ。

 出された問題に答えるのではなく、その問題自体を組み替えてしまうこと、あるいは、与えられた問題の外に出てしまうこと、ここで述べた例についていえば「弱さ」とか「依存」といった克服されるべき問題――なにより当人がもっとも「克服すべき」と思っている問題――に別の光を与えること。
 
 べてるの家のこのような思想というか文化に出会って感動した地点に、編集者白石正明が誕生したのであった。
 そこには、白石自身が子供の頃から吃音に悩んでいて、その「克服」のために試行錯誤してきたという事情があった。
 みずからの“問題”とリンクするところが大きかったゆえの出会いと感動、そして展開。
 運命という名の編集者にはだれも敵わないなあ。

 ケアと編集との共通点について、白石は、自ら担当した作品の例をあげて語っている。岡田美智男著『弱いロボット』、熊谷晋一郎著『リハビリの夜』、坂口恭平著『坂口恭平 躁鬱日記』など。
 読んでいて隔靴掻痒の感がするのは、単純に、ソルティがそれらの本を読んでいないからである。
 読んでいた『逝かない身体 ALS的日常を生きる』が例に上げられている部分はすんなり落ちた。
 本書をより深く理解したいのなら、上記の本を含め、「ケアをひらく」シリーズをもっと読まないとなあ~。
 ――と、思わされた時点で、やっぱり編集者・白石の術中にはまったのである。
 編集者にとって重要なのは、一冊でも多く本を売り、ひとりでも多くの人に読んでもらうことなのだから。

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 ソルティも高齢者のケアを担う一人である。
 高齢者支援に利用できる社会資源の中では、介護保険という行政の作った枠組みの占める部分が大きいので、知らぬ間に行政的視点でケアを考えていることが少なくない。
 対象者の問題を分析し、長期目標と短期目標を設定し、そこに至る途上にある障害(=課題)を見つけ出し、それを克服する手段を考え、支援の担い手を探す。財政逼迫の折、できる限り効率的な費用対効果の高いケアプランを立てなければならない。
 ともすれば、対象となる高齢者にとって「何が一番いいか」が二の次になって、「障害の克服と自立」を目指した“現在否定”のケアプランありきで支援を進めていることも、まったくないとは言えない。
 高齢者が80年なり90年なりの時間をかけて作ってきた“問題=アイデンティティ”が、そう簡単に変えられるわけがないと、内心思っているにもかかわらず。
 一度立ち止まって、自分のケアのあり方をみつめてミルキー。

 ケア提供者とは、未来に奉仕するような貧しい「現在」ではなく、今すでにここにある豊かな「現在」に働きかける人である。「もう本番は、はじまっているのだ」と宣言して、今ここにある快を十全に享受できるように状況を設定する人である。


 
 
おすすめ度 :★★★

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● 本:『絵は語る 源頼朝像 沈黙の肖像画』(米倉迪夫著)

1995年平凡社

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 これが問題の書 (*゚▽゚*) である。
 この本の刊行がきっかけとなって、美術史学会や日本史学会はもちろんのこと、マスコミや美術愛好家や歴史マニアを巻き込んだ「神護寺三像論争」が持ち上がったのである。
 ソルティは全然知らなかった。
 当時は仙台にいて、テレビも新聞もまったく見ない生活を送っていたし、そもそも美術や歴史にさほど関心がなかった。
 京都・神護寺にある源頼朝の肖像画――学生時代の歴史教科書に載っていて、クラス男子5人1人がいたずら書きしていたもの――が、実は足利直義(ただよし)らしいと知ったのは、つい最近である。
 関心がないと、たとえ目の前にあっても、情報は入って来ないものである。
 まあ、何百年も前の肖像画のモデルが、源頼朝だろうが、足利直義だろうが、北条実時だろうが、志村けんだろうが、社会生活を送るのになんら関係ないってのが、大方の社会人の意識であろう。
 研究者がつくる学界の社会隔絶性ってのは、社会学の研究テーマの一つになりそうだ。

 しかし、研究者でない一介のミステリーマニアにとっても、この謎は十分興味をそそる。
 著者の米倉が、通説に疑問をもち、いろいろな角度から調べ上げ、新たな文書の発見に光明を見出し、ついに満を持して新説を打ち出す過程が、あたかも、警察からも世間からも殺人犯と思われていた容疑者が、名探偵の丹念な調査と卓抜な推理、新事実の発見によって嫌疑不十分となり、ついには真犯人指名とトリックの解明によって無実が証明される――そんな本格推理小説のプロットのようで、面白く読んだ。
 問題の肖像画を含め、たくさんの図版が掲載されていて、読者が自分の目で証拠の品々を確かめられるのも親切である。

 神護寺三像というのは、源頼朝・平重盛・藤原光能(みつよし)と伝えられてきた、3点の大きな(約143cm×112cm)カラー肖像画のこと。
 絵自体には作者名もモデル名も描かれた日付も記されていないので、時代が下るにしたがい、絵のモデルが誰なのか不明になっていった。
 神護寺が上記3名をモデルと比定したわけは、南北朝時代(14世紀中頃)に書かれた『神護寺略記』に、神護寺の仙洞院(現存せず)に源頼朝・平重盛・藤原光能・平業房・後白河院の肖像画があり、それは藤原隆信が描いた、という記事が載っているからである。
 そこで神護寺は、前者3人の肖像画と比定し、平業房と後白河院のそれは無くなったと判断したのである。藤原隆信(1142-1205)が作者ならば、制作年代は鎌倉時代初期である。
 以後、これが学界においても通説となった。

神護寺金堂
神護寺金堂

 昭和になって、この通説に疑問を投じる研究者が現れた。
 美術史的観点から、また服飾史的観点から、さらには肖像が描かれている絹のサイズに着目し、肖像が描かれた時代はもっと下るのではないか、鎌倉末期以降なのではないか、という見解が出された。
 しかし、通説をひっくり返すほどの確証もなく、学会と鎌倉殿の権威はビクともしなかった。

 米倉迪夫が新説を堂々と打ち出したきっかけは、新たな歴史文書の発見にある。
 それが、安永4年(1345)4月23日に書かれた『足利直義願文』で、米倉は東京大学史料編纂所と東山御文庫(京都御所にある皇室の文庫)にその写しを見つけたのである。
 そこには、足利尊氏の弟である直義が、阿含経とともに兄・尊氏と自分の肖像画を縁ある神護寺に奉納する旨、書かれていた。画家の名はなかった。
 これにより、米倉は肖像画のモデルを次のように比定し直した。

 源頼朝     ⇒ 足利 直義
 平重盛     ⇒ 足利 尊氏
 藤原光能 ⇒ 足利 義詮(よしあきら)

 もちろん、制作年代は14世紀半ば。通説より100年以上もあとになる。

 そうして、神護寺三像をめぐる論争が巻き起こった。
 その後の経過に興味ある方は、ウィキペディア神護寺三像をお読みいただければと思うが、令和の日本史教科書から神護寺の源頼朝画像が撤退している現状からして、米倉説が定着しつつあるようだ。
 一方、肝心の神護寺は、公式ホームページの記載からすると、源頼朝像であるという姿勢を崩していない。

 ひとつの謎の解明は、新たな謎を生む。
 本書を読んでソルティが疑問を抱かざるを得なかったのは、以下の点である。
  1. 足利直義願文の原本はどこにあるのか?
    ⇒順当に考えれば神護寺だが、神護寺のホームページの寺宝紹介にはその記載がない。神護寺は文書を紛失してしまったのか? この足利願文が存在することをまったく知らなかったのか?
  2. 神護寺の思惑はいかに?
    ⇒本書のあとがきには、「神護寺御住職谷内乾岳師にはひとかたならぬお世話になった」という米倉による謝辞が載っている。肖像画の図版掲載など、神護寺の協力なしにはできないことである。谷内乾岳師(1939-2004)は、米倉説の中味を知った上で研究協力されたのだろうか? 現在の神護寺(住職は乾岳師の息子の弘照師)のスタンスから察するに、「米倉に裏切られた!」と思っても無理ない状況に思えるが・・・。
  3. 藤原隆信が描いた本当の源頼朝像および他の4名の肖像画はどこにあるのか?
    ⇒ソルティが東京国立博物館『神護寺展』で観た後白河法皇の肖像は、手元にある作品リストによれば、京都・妙法院所蔵の鎌倉時代(13世紀)のものであった。これと、神護寺に納められた後白河法皇の肖像は関係あるのか?
 ソルティの頭の中にある源頼朝は、神護寺のそれではなく、『草、燃える』の石坂浩二であり、『鎌倉殿の13人』の大泉洋である。NHK大河ドラマの影響のほうが強い。
 歴史教科書の画像は、いたずら書きしてしまったせいか、あまり印象に残ってなかった。(ソルティのことだから、おそらく女装化させたのだろう)

お女装大師
秩父の某寺にあるお女装大師



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



 
 




 
 

  
 

● なんなら、奈良18(奈良大学通信教育日乗) 真夏のスクーリング 

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 3回目のスクーリングは「美術史特殊講義」。
 講師は日本中世絵画史専門の原口志津子先生であった。

 とにもかくにも、アウトドアの学外実習は灼熱地獄と思い、インドアのみの講義を選んだのだが、同じことを考える人は多いようで受講者は100人を超えていた。
 むしろここは、あえてアウトドア講義を選んで、少人数の中身の濃い授業を受ける特典を狙うというのもありか・・・?
 空調服があれば何とかなるかもしれない。
 来夏は検討に入れよう。

1日目
 午前、午後とも学内講義
2日目
 午前: 奈良国立博物館「世界探検の旅―美と驚異の遺産―」展見学
 午後: 学内講義
3日目
 午前: 学内講義
 午後: レポート作成

 「美術は楽しんでなんぼのもの」
 ――というのが原口先生のポリシーであり、今回の講義も、「いかにして美術から楽しみを見つけるか」というところに焦点が置かれていた。
 まったく同感である。
 芸術というのは食うためには役に立たない代物なので、その存在価値は常に議論の的にされる。
 コロナ禍の時など、どれだけの役者や音楽家や咄家が職にあぶれ、みずからの非力を嘆いたことか。
 平和があって、健康があって、衣食住が保障され、はじめて人は娯楽や芸術活動に目を向けられる。
 人類にとって、芸術は娯楽と同じレベルなのだ。
 であれば、楽しんでこそ、楽しませてこそ、その存在は正当化される。
 (むろん、「楽しい」にもいろんな質がある)

 今回の講義でとくに印象に残ったことをいくつか。
 (実際の講義内容そのままではありません、あしからず)
  • 「美術」という言葉や概念は日本にはなかった。明治の文明開化の折、それまで伝統的に技芸や工芸としてあったものを、西洋の枠組みに合わせて「美術」と「工芸」に分けた。絵画と彫刻(と美術工芸)のみが「美術」とされ、殖産興業に役立つものが「工芸」とされた。そのどちらにも入らない書道がいちばん割を食った。
    ⇒たしかに、西洋にはカリグラフィはあっても「書」という芸術はない。人間の精神や自然の表現である「書」は、東アジア漢字圏ならではのものだ。
  • 装潢師(そうこうし)・・・絵画、書跡、古文書など文化財の保存修理を専門に行う技術者。一般社団法人国宝修理装潢師連盟が資格制度を設けている。
    ⇒はじめて聞いた職名。『大辞泉』(小学館)によると、潢は「紙を染める」の意で、装潢とは本来、「書画を表装すること」を言う。国立博物館の学芸員と装潢師の青年を主人公にした『国宝のお医者さん』(芳井アキ作、KADOKAWA)というコミックがある。探してみよう。
  • 「百人一首」随一の歌聖・柿本人麿の “だらっとした” ポーズの秘密は、中国のある有名な詩人、および仏典に出てくるある有名な在家信者にルーツがあった!
    ⇒そんな関連があるとは思わなんだ。見えているものの背後に隠された意味がある。図像学の面白さよ。

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  • 歴史の教科書でお馴染みの源頼朝の肖像画(神護寺所蔵)が実は足利直義(ただよし)だった件
    ⇒30年前に新進の研究者であった米倉迪夫(よねくらみちお)がこの説を発表した際、喧々諤々の議論が起こった。その後、歴史研究家の黒田日出男や米横手雅敬(うわよこて・まさたか)らの傍証も加わって、今では頼朝説は旗色が悪い。教科書の掲載も見送られつつある。一方、所有主である神護寺は、そのホームページに見るように、頼朝像であることを疑っていない。なので、博物館や美術館がこの肖像を借りるときは「伝・源頼朝」と表記するほかない。頼朝だろうが直義だろうが、美術的価値は変わらないのだが・・・。さまざまな方面からの証拠が積み上げられていって、通説が変わっていくダイナミズムが面白い!
  • 鑑定書が付いている美術品は、時代の混乱期(江戸前期、明治維新、アジア・太平洋戦争後など)に動産移動したことを意味する。つまり、過分に箔付けされた可能性が高く、中身は当てにならないことが多い。
    ⇒今度「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京)を観るときに確認しよう!
  • ほかにも、『鳥獣戯画』や『伴大納言絵巻』や『釈迦涅槃図』など、興味深い話題がてんこもりで、日本絵画に対する関心が高まった。謎を発見することが出発点なんだと思った。
 原口志津子先生は定年間近という。
 この講義に間に合って良かった。

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昼休み中の学食
(社員食堂ではありません)

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学食の日替わり定食「ミックスフライ・ランチ」

 2日目の奈良国立博物館「世界探検の旅―美と驚異の遺産―」展は、今年3月のスクーリングで見学した天理参考館の所蔵品が主だった。
 なので、実質2度目の鑑賞。
 仏像と涅槃図に奈良博物館所蔵のものがあり、これが初見であった。

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奈良国立博物館

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展示内容のためか、外国人入場者が多かった

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釈迦涅槃図(中国・南宋時代、13世紀、絹本)
よく見ると、寝台の前で踊っている人がいる
涅槃は寿ぐべきことなのである

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釈迦如来立像(日本、13世紀、木造)
清凉寺式と言われる模刻像で、生前の釈迦の姿を写し取ったとされる。
仏像が造られ始めたのは仏滅後500年経ってからなので“方便”である。

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兜跋毘沙門天立像(日本、12世紀、木造)
これ、カッコいい!
タロットカードの絵柄のよう

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迦楼羅(かるら)像(日本、13世紀、木造)
千手観音を守る二十八部衆の一人
永久保貴一のコミック『カルラ舞う』で日本でも知られるようになった

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霊鳥ガルーダに乗るヴィシュヌ神(インドネシア、20世紀、木造)
この鳥が仏教に取り込まれて迦楼羅となった

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加彩鎮墓獣(中国、8世紀、陶製)
貴人の墓を守る獣

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魔女ランダの仮面
インドネシア・バリ島に伝わる魔女で人間に災いをもたらす
鬼子母神がバリ化したものという説がある

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霊魂舟ブラモン(インドネシア、20世紀後半、木製)
死と再生を象徴する祭具として成人式に使われる

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パプア・ニューギニアの精霊像(20世紀中頃)

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こういった未開地まで天理教を広めに行ったというのがすごいと思う。
パプア・ニューギニアといったら人喰いの噂で有名だった。

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サラスヴァティー女神像(インド、20世紀後半、金属製)
学問と技芸をつかさどる女神
仏教に取り入れられ、弁財天となった

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ガネーシャ神像(インド、18~20世紀、石像)
密教に取り入れられて聖天様となった

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魔人アスラの仮面(インド、20世紀後半)
いわゆる阿修羅
興福寺の美少年像とのギャップがはなはだしい

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蛇飾壺(エジプト・ローマ時代)

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赤像式アンフォラ(イタリア、紀元前4世紀頃)

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万年壺(中国、8世紀)

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約2時間の世界探検の旅だった
時代や国や民族は違っても、人間がつくる物語には共通項があるなあとつくづく思った。ユングの言う、いわゆる元型か。

 今回のスクーリングの評価は、3日目の講義終わりに提出するレポートも含まれていた。
 課題は初日に告げられていたが、400字詰め原稿用紙最低3枚、できれば5枚以上という指定があり、何をどう書いたらいいか迷った。
 おかげで、今回初めて大学図書館を利用した。
 2日目の講義終了後に図書館に足を運び、司書の方に本を探すのを手伝ってもらい、閉館時間近くまでレポートを書く準備作業に追われた。
 そう。せっかく現地まで来たのだから、大学施設を利用しない手はなかった。
 今後はもっと図書館はじめ学内施設を活用しよう。

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 スクーリング終了後にテキスト科目の筆記試験が待っていた。
 平安文学論である。
 手書き原稿のみ持ち込み可なので、これまでの試験のように回答を事前に暗記する必要はなかった。持参した原稿をただ書き写せばよかった。
 そこは気楽なのだが、持ち込み可ということは、それだけ事前作成した回答の質が問われるということである。
 この科目は採点が厳しいという噂が立っており、ソルティもレポートは再提出となった。
 練りに練った答案を用意して臨んだのだが、結果はどう出るか?
 ほぼ制限時間いっぱい使って、解答用紙の裏面まで書いた。
 さすがに手が痛くなった。

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通信教育学部棟
学科試験の会場だった

 スクーリングも3回目ともなると、勝手がずいぶんわかってくる。
 自動販売機やトイレの場所とか、午前の講義の休憩時間に日替わりランチの食券を買っておくとよいとか(新千円札は使えないとか)、オペラグラスがあると講義中モニターを見るのに役立つとか、大学から高の原駅(近鉄京都線)までの近道とか・・・・。
 今回は、奈良大学から平城(へいじょう)駅まで歩いてみた。
 正門・裏門からの距離はほぼ同じ(1.7km)である。


google map

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奈良大学裏門(サブゲート)

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大阪との県境をなす生駒山が見える

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奈良大学付属高等学校
奈良大学の前身
1925年南都正強中学(夜間制)として薬師寺内に創立
祝!創立100年

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赤いドームは奈良競輪場

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神功皇后陵
第14代仲哀天皇の后
気の強い男まさりの女人として知られる

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八幡神社

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近鉄京都線・平城駅
徒歩20分ほどだった
住宅街や御陵脇を通るので気持ちいい散歩道であるが、平城駅には各駅停車しか止まらない。通過電車を3本見送った。つまり、急行の止まる高の原駅のほうが便利。

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乗り換えの大和西大寺駅構内には飲食店がいろいろある

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マーボー豆腐定食
学割がきく!
陳皮やぶどう山椒が入って深みのある辛さ

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猿沢池周囲は夜間、燈籠が灯される

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対岸から
奈良のいいところは暗さを大切にするところ
街灯がない
そのぶん、池ポチャする人がたまにいるのではないかと思う(笑)
猿も池に落ちる

 今年度のスクーリングはこれで終了の見込み。
 3日間×3回、都合9日間の通学だったが、内容的には平素の3ヶ月分くらい脳を使った気がする。













● VRゴーグル初体験 :東京国立博物館「江戸大奥」展に行く

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 盆明けの平日の午後なら空いているかと思ったのだが、結構混んでいた。
 女性客が多いのは想定内だが、外国人の多さは不思議。
 外国人がなぜ江戸時代の大奥に関心ある?
 よしながふみのコミック『大奥』(男女逆転!パラレル時代劇)が英訳されて、アザーワイズ賞(旧ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞)を獲ったことが影響しているのだろうか?

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 ドラマ『大奥』(NHK放映)で俳優たちがまとった衣装の展示から始まって、有名な御台所たちの肖像画、明治時代の浮世絵師揚州周延が描いた「千代田の大奥」シリーズ、大奥の成り立ちや構造、大奥の暮らし、女中たちの生涯、歴代ヒロインゆかりの品々、豪華絢爛な着物や調度の数々・・・。
 大奥ファンにはたまらない内容だろう。
 ソルティは大奥に詳しくないし、よしながふみの『大奥』を読んでいなければ、TVドラマや映画も観ていないので、2時間程度で大まかに鑑賞した。

 大奥ってのは、一度入ったら簡単には出られない広大な座敷牢みたいなもので、厳しい規則やしきたりがあった。
 斬首や島流しや江戸追放を含み関係者1400名が処罰された江島生島事件など、きっかけは大奥お年寄の江島が、墓参りの帰りにちょっと芝居小屋に寄って門限に遅れたことであった。
 恋もままならないし、側室間の派閥争いや権謀術数には巻き込まれるし、ふつうに町娘でいるほうがずっと幸福だと思うのだが・・・・。
 それでもセレブにあこがれる女子は多かったのだろうなあ。
 食うには困らないってのも大きかったのかもしれない。

 足が止まったのは、東京目黒区にある祐天寺の阿弥陀如来坐像の前。
 これは享保8年(1723)に5代将軍徳川綱吉の養女である竹姫(浄岸院)より寄進されたのだと言う。信仰篤き大奥人だったのだ。
 全般シンプルなつくりであるが、そのシンプルさが表面を蔽う金の輝きを品よく見せている。表情も穏やかで観る者に安心感を与える。
 大奥展で仏像を見るとは思わなかった。 
 人間よりも仏像に興味が向いてしまうソルティであった。

 実を言うと、いちばん面白かったのは入口の脇でやっていた大奥VR(Virtual Reality)体験。
 NHK番組『歴史探偵』がCG制作した大奥の内部映像を、VRゴーグルを頭に付けて体感するというもの。
 ソルティ、実はVR初体験。
 頭を左右に動かしても、上下に動かしても、後ろを振り向いても、ちゃんと奥行きある映像が不自然なく立ち現れて、まさに江戸の大奥の座敷に自分がいるような感覚が味わえる。
 隣には自分と同じようにゴーグルを付けている現代人がいるはずなのに、その存在がすっかり消えてしまう。
 不思議な感覚だった。
 これが進化したら、実際に足を運ばなくとも、観光旅行や時間旅行できるようになるのでは?

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dlohnerによるPixabayからの画像

 ソルティにとって今秋の最大のイベントは、9月9日から東博で始まる『運慶 祈りの空間ー興福寺北円堂』展である。
 なんと、奈良・興福寺北円堂の諸仏をすべて東京に運んできて、その空間を再現してしまおうというのだ。
 日本彫刻史上の最高傑作と言われる世親・無着菩薩立像、弥勒如来坐像、四天王立像の計7点の国宝がやってくる!
 はたして、リアルな運慶空間に、仮想現実は太刀打ちできるのか?

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