2023年サンガ新社
「ミャンマーとタイでブッダ直系の出家修行をした心理学者の心の軌跡」という副題そのままの本である。
あえて補足するなら、ミャンマーとタイは、中国を通じて日本に伝わった北伝仏教(いわゆる大乗仏教)ではなく、スリランカを通じて東南アジアに伝わった南伝仏教(かつて小乗仏教と卑称された)の国であり、そこでは約2500年前に説かれたブッダの教えが、サンガ――律(規則)を持った出家者の集団――というシステムによって現代まで脈々と伝えられてきた。
「ブッダ直系の出家修行」とはそのサンガの一員になるということである。
著者の石川勇一は1971年生まれ。
修験道やアマゾンでのシャーマニズムの行者体験を持ち、臨床心理を実践するカウンセラーであり、心理学を教える大学教授であり、山中湖の近くに法喜楽堂という修行道場を主宰するスピリチュアルティーチャー(導師)である。
肩書は賑やかなれど、石川にとって最も重要なアイデンティティを一言でくくれば、原始仏教徒ということになるだろう。
本書は、原始仏教徒である在家の男が、テーラワーダ仏教の本場の国に渡航しておこなった短期間の出家体験を記したものである。
2014年1~3月ミャンマーの「パオ森林僧院モービ支部シュエティッサ僧院」、および2020年1~3月タイの「プラプットバートタモ寺院」がその舞台である。
昨今、日本でもテーラワーダ仏教を学ぶ人が増えているので、タイやミャンマーやスリランカといったテーラワーダ仏教国における日本人の出家体験記も珍しくなくなった。
たとえば、ミャンマーで出家し17年間の比丘生活を送った西澤卓美(出家名ウ・コーサッラ)による『仏教先進国 ミャンマーのマインドフルネス』(2014年、サンガ)など、読みやすく面白かった。
が、前世紀までこの手の本は稀少だった。
もはや古典的地位を占めているものとして、人類学を学ぶ大学院生だった青木保が約6ヶ月の出家体験を綴った『タイの僧院にて』(1979年)がある。
ソルティは、テーラワーダ仏教に出会う前の2000年頃にこれを読んだ。
そこには、日本の仏教とも、お寺とも、坊さんとも全然違う、タイの仏教があり、寺院があり、出家者の姿があった。
加えて、初詣かお葬式か法事の時しかお寺に行かず、普段はお坊さんと密なかかわりを持たなくなった多くの日本人とはまったく違う、タイの在家信者の姿があった。
同じ仏教国でも日本とタイではずいぶん違うんだなあと興味深く読んだ。
一方、当時はオウム真理教地下鉄サリン事件(1995年)の影響甚大で、社会全般に宗教に対する忌避感がとても強かった。
ソルティも、宗教とは「迷信深く、何かに依存しないと自らを保てない人の阿片」という、いささか“偏った”イメージを抱いていて、無神論者・無宗教者を軽い優越感をもって自認していた。
なので、『タイの僧院にて』を読んでも、文化人類学的あるいは比較文化論的あるいは旅行ガイドブック的な興味以上のものは持てなかった。
そもそも著者の青木もまた、「テーラワーダ仏教に感銘を受けそれを深く学ぶため」に、あるいは「瞑想修行して煩悩を減らすため」にタイ行きを決心したわけではなく、文化人類学者(の卵)としての異文化への興味、及び、モラトリアムにぐずっていた自身を「冒険によって再生」させることを期しての出家修行だったので、そこに仏教の真髄に触れるような記述は少なかったように記憶する。
結果的には、タイでの出家修行は青木青年に通過儀礼とおぼしき深甚な変容をもたらすことになり、そこに読者は爽やかな感動を覚える。
つまり、『タイの僧院にて』の面白さは、文化人類学レポート+ビルディングスロマン(教養青春小説)ってところにあった。(青木保氏がその後仏教徒になったかどうかは不明)
それに対して、石川勇一の出家の目的はまさに、「仏教を深く学び瞑想修行によって煩悩を減らす」ことにあり、本書の記述内容はその一点に向かって絞られ、構成されている。
石川自身のスピリチュアル修行遍歴、テーラワーダ仏教との出会い、ミャンマーやタイで出家修行しようと思った動機といったセルフヒストリーはもちろんのこと、渡航までの具体的な手続きや準備、各僧院での出家儀式やサンガの日常風景、修行仲間の僧たちの横顔、そして何より、各種の瞑想方法に関する知見や洞察、自身の修行の進展や成果が、非常に細やかにわかりやすく、「ブッダに握拳なし」の言葉通りに率直に書かれている。
さらに、臨床心理学やトランスパーソナル心理学の専門家ならではの夢分析や自己分析も本書の魅力の一つとなっている。
巻末に付けられている「ブッダの教えを理解するための基本用語解説」も、きわめて適確な内容で、読者が仏教をより深く理解するのに役立つとともに、瞑想修行で石川が確かめた智慧や至った境地がいかなるものであったかを反映するものとなっている。
テーラワーダ国での出家を考えている読者にとっても、普段“ブッダの瞑想”を実践する者にとっても、恰好のガイダンスとなるのは間違いない。
それにしても、『タイの僧院にて』は79年に出版された本だが、どうやら半世紀近く経っても、タイのお寺の様子、サンガの日常、出家者に対する在家者の敬愛の念はほとんど変わっていないようだ。
この伝統の堅持ゆえに、約2500年前のダンマ(ブッダの教え)が継承されてきたのである。
すべてが無常の世にあって、珍しく、かつ、貴いことである。
以下、引用。
修行者は、欲望を満たすことによる喜びとは異なる、欲望から自由になったことによる清らかな喜びを知るがゆえに、修行を続けることができるのです。ただ苦しいだけならば、ほとんどだれも修行を続けることはできないでしょう。修行には確かに忍耐は必要ですが、優れた清らかな喜びがあることを知れば、さらにやる気が出てくるものです。人間として体験できることの中で、出家修行は最上だろうと思います。それは解脱につながる出世間の正しい修行だからです。世間のいかなる体験も、出世間の体験には及びません。人生は無意味なことでとても忙しいので、修行をしない理由を見つけることは簡単です。しかし、言い訳ばかりをして生きるほど虚しいことはありません。本当に意味あることを見つけたら、あとはやろうと心に決断すれば、きっと機会は得られるでしょう。
サードゥ、サードゥ、サードゥ。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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