ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 一粒で二度おいしい 本:『ケアマネジャーはらはら日記』(岸山真理子著)

2021年フォレスト出版

 『交通誘導員ヨレヨレ日記』、『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』に続く「3K仕事、内幕暴露日記シリーズ」の3作目。
 今回の3Kは「きつい、気骨が折れる、空回り」か。

IMG_20210821_121422


 一読、非常に面白かった。
 むろん、ケアマネジャー(介護支援相談員)は介護畑で働くソルティにとって関係の深い職種だからではあるが、それを抜きにしても、読み始めたら止められないスリル満点の展開が待っていた。
 まさにタイトル通り“はらはら”した。
 著者の岸山はケアマネ歴20年のベテランとあるが、物書きとしての才もなかなかのものではなかろうか。

 ケアマネは介護保険のキーパーソンと言える存在である。
 介護保険サービスを使っている人のすべてに、必ず一人の担当ケアマネがついている。
 ケアマネは、利用者の心身の状態や生活環境、経済状態などを見て、介護の必要度を判断し、利用者や家族の希望をもとにケアプランを立てる。
 そのケアプランにしたがって、訪問ヘルパーやデイサービス、歩行器・車椅子などの福祉用具、介護施設の利用といったサービスが提供される。
 良いプランであれば、利用者の健康に資するものとなり、介護サービスを使いながらその人らしい自立した生活を送ることができる。
 悪いプランであれば、利用者の心身の状態は悪化し、ますます介護度が重くなって、死期を早めてしまいかねない。
 「老いと死の最前線」にいるケアマネは、利用者の命や健康の手綱を握っている。

 本書の前半では、岸山がケアマネになるまでの半生と、これまでに担当者として関わった高齢者たちのエピソードが語られる。
 20~30代は非正規の単純労働の職を転々としていて、40過ぎてから正規雇用の介護職に就き、47歳からケアマネとなった岸山のふらふら半生が面白い。(ソルティとよく似ていて共感大)
 ケアマネは彼女にとって天職だったのだろう。
 以後はケアマネ一筋で、たくさんの利用者と出会い、ひとりひとりの生活を支えてきた。
 68歳になる今も現役である。

 いっさいの介護サービスを拒む人、ケアマネにこれまでの人生で積りに積もった怒りをぶつける人、老々介護の危うさ、認知症の親に振り回され消耗する子供たち、ゴミ屋敷の住人、80代の親が認知症で50代の子供が精神障害の8050家族、介護給付費を抑えたい行政との不毛なやりとり、一人暮らしの親の介護に関わることを拒絶し「死ぬまでは一切連絡するな」という子供たち・・・・。
 いまの日本社会の縮図がここにある。
 超高齢化と少子化、家族の崩壊、地縁の消滅、個人主義、親世代から子世代・孫世代への貧困の連鎖、不安定な雇用、精神障害者の増加、定年後の生きがいの喪失・・・・。

 ケアマネは、利用者の墜落を恐れる。墜落しないようにあらゆる施策をとり、どこかに不時着させなければならない。
 しかし、墜落しないまでも、いつ墜落するかわからない低空飛行がどこまでもどこまでも続く場合が多い。ケアマネの迷いながら、戸惑いながらの日々も、利用者の飛行とともにどこまでも続いていく。

イカルスの失墜
マルク・シャガール「イカルスの失墜」


 岸山が出会った様々な利用者のエピソードはたしかに興味深く、考えさせられること多く、家族ドラマ・人間ドラマとしても、日本社会を映すドキュメントとしても、とても読み出がある。
 また、ひとりひとりの利用者に親身に寄り添い、彼らに代わって行政や大家と喧嘩し、休日返上で駆けずり回る岸山の熱心な仕事ぶりにも感心する。
 しかし、まあこれは想定内である。
 本書の何よりの面白さは、後半以降の岸山自身に起こった“すったもんだ”の一部始終にある。
 
 岸山は地域包括支援センターという、各地域にある高齢者の総合相談窓口の代表者として長年働いてきたが、定年になって延長希望叶わず、追い出されてしまう。
 その後、別の地域の同じ包括支援センターに採用されるも、職場内のコミュニケーションがうまく行かず、思うように経験や実力を発揮できず、つまらないミスを重ね、しまいには村八分のような目にあって辞職を余儀なくされる。
 本書前半における岸山のイメージ――利用者思いで、相談能力に長け、フットワーク軽く、さまざまな社会資源を熟知した海千山千のベテランケアマネ――が、ここに来てガタガタと崩れていく。
 この落差がすごいのだ。

 その秘密はおそらく、岸山が注意欠陥・多動症(ADHD)と軽度の学習障害を持っていることにあるらしい。(本人も自覚している)
 グザヴィエ・ドラン監督の映画『Mommy/マミー』(2014)はADHDの少年の話であるが、この障害は次のような症状が特徴と言われる。
  • 簡単に気をそらされる、細部をミスする、物事を忘れる
  • ひとつの作業に集中し続けるのが難しい
  • その作業が楽しくないと、数分後にはすぐに退屈になる
  • じっと座っていることができない
  • 絶え間なく喋り続ける
  • 黙ってじっとし続けられない
  • 結論なしに喋りつづける
  • 他の人を遮って喋る
  • 自分の話す順番を待つことが出来ない
 (以上、ウィキペディア『注意欠陥・多動性障害』より抜粋)
 
 思うに、おそらく岸山自身がまったく気がつかないところで、周囲の同僚たちや仕事関係者、もしかしたら利用者たちも、岸山の言動を奇異に感じたり、困惑したり、ストレスを感じたりということがあったのかもしれない。
 本書の記述だけ読むと、岸山が周囲の冷たい人間たちからいじめを受けた被害者のように見えるけれど、周囲にはそれなりの言い分があるのだろう。

 と言って、もちろん、ADHDの人はケアマネになるべきでない、管理職に就くべきではない、なんてことではまったくない。
 ADHDや学習障害はその人の個性であり、当人が困ってない限りは無理に治す必要もなく、病気に関する周囲の理解と寛容な心があれば、生き生きと仕事をすることは可能であろう。
 つまり、岸山の場合、どうもその環境に恵まれなかったのではないかと思うのだ。
 今働いている居宅介護事業所「雀」において、ようやく安住の地を見つけたらしいことが最後に語られている。(居宅介護事業所とはケアマネの巣である)

 10年間働いた地域包括支援センターで定年延長してもらえなかったのも、次に就職したセンターを追い出されたのも、私の弱点によりパフォーマンスが悪いせいだった。
 しかし、「雀」では同僚たちに導かれ、助けられながらも仕事は滞らず、なんとか回っている。
 あらためて注意欠陥・多動症への対策は環境が決め手であることを痛感した。
 「雀」では誰も私を責めない。叱らない。蔑まない。

 本書は、ケアマネジャーという3K仕事の内幕や我が国の介護現場の現実について読者に伝えてくれるとともに、ADHDという障害を抱えて生きる人の苦労やものの見方・感じ方を教えてくれる。
 一粒で二度おいしいような本である。


道頓堀



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 夏の快適アイテム3 ココナッツウォーター

 まだまだ暑い日が続く。
 熱中症防止に水分補給が欠かせない。
 
 ソルティが子供の頃、夏の飲み物の定番と言えば、カルピスとコーラと麦茶だった。
 遊びから帰って来て冷蔵庫を開けて、透明のボトルに入った原液を薄めたカルピスがあったりすると、夏の喜びをひとしお感じたものである。
 たいていは麦茶だっただけに・・・・。

 大人になってからは、やっぱりアイスコーヒーと烏龍茶。
 微糖のアイスコーヒーに牛乳を加え、氷をたくさん入れてアイスカフェオレにして飲む。
 ここ数日は製氷皿の氷では足りなくて、コンビニで氷を買っている。
 氷塊と言いたいほど大きくて水晶のように透き通っているのが、涼しさを演出する。
 烏龍茶は2Lのペットボトルを買う。
 飲みすぎて、夜間トイレに立つことになるのが玉にキズだけど、脱水症状や便秘の苦しさを思えば多少取り過ぎのほうが良かろう。
 老人介護施設で働いていた時は、利用者に「少なくとも一日1500ml以上は飲ませてください」と看護師からきつく言われていた。
 液体だけでは進まない人には、フルーツ味の付いたゼリーを提供した。

 春頃、職場からの帰り道に小さなベトナム食材店がオープンした。
 覗いてみたら、ベトナムのいろいろな調味料やお菓子や食材が並んでいる。
 「ケオ・サップ・コム」という名のゴマやナッツを固めたキャラメルウエハース(サクサクして風味豊かで美味しい)と1Lパック入りのココナッツウォーターを試しに買ってみたら、見事はまってしまった。

IMG_20210821_182625


 ココナッツウォーターの一口目は、「なんだかスイカの汁みたいなボケた味だな」という物足りなさを覚えるが、二口三口と飲み続けると、ほんのりした甘さとココナッツの自然で優しい風味がクセになる。
 なにより、体に吸収される感がすごくある。
 ポ×リスエットやアク×リアス以上の抵抗の無さである。
 アイスコーヒーや烏龍茶のような苦みがなく、スポーツドリンクのような人工的な甘ったるさも希薄である。

 ソルティはベトナムには行ったことがないが、20代の頃にフィリピンやモルジブにスキューバダイビングしに行った。
 椰子の生い茂る砂浜のレストランで、てっぺんを切り落としたココナッツの実にストローをさしたものを差し出され、はじめて口にしたときの感激を思い出した。
 一緒に行ったOTOKOは今いずこ?

ココナッツ

 
 表示によると、ココナッツウォーターのカロリーは100mlあたり 16kcal。
 カフェオレ 38kcal、スポーツドリンク 21kcal、コーラ 46kcal、濃縮還元リンゴジュース 43kcal(以上「日本食品標準成分表」より)、カルピス5倍希釈時 46kcalに比べれば低いけれど、烏龍茶 0kcalにはさすがに敵わない。

IMG_20210821_182533






● 幼少期のトラウマ 映画:『地獄』(中川信夫監督)

1960年新東宝
101分、カラー

 子供の頃にテレビで観た映画のうち最も怖かったのがこの『地獄』であった。
 むろん、監督や出演俳優の名前はわからなかったので、後年になってからてっきり神代辰巳監督の『地獄』(1979年東映)がそれかと思ったのだが、観てみたらどうも違う。
 だいたい79年の映画ならソルティはすでに思春期、「子どもの頃」のはずがなく、もう少し記憶もはっきりしているはず。
 それに映画の中で最も怖かったのは、闇の底から無数の人の手がイソギンチャクのように揺らめきながら伸びてくるシーンであったのだが、79年の『地獄』にはそれがなかった。
 今回、そのシーンを目にして、「ああ、これこれ!」と懐かしさと不気味さが入り混じった奇怪な感覚を味わった。

IMG_20210819_114622


 三途の川、閻魔大王の審判、針の山、血の池など地獄のさまを描いた内容そのものも確かに恐ろしいには違いないが、ソルティの脳内に悪夢のごとく残り続けた恐怖の一番の源は、上記のシーンに代表されるシュールな映像の魔力であった。
 『怪談』の小林正樹監督や『ツゴイネルワイゼン』、『東京流れ者』の鈴木清順監督に比されるべき映像美術がここにはある。
 実際、今見ても60年制作とは思えぬほどの新しさを感じる。


IMG_20210819_113743
吊り橋の上でのラブシーン(逆さ撮り)


IMG_20210819_113641
唐傘の配置が見事


IMG_20210819_113513
灼熱地獄で水を求める亡者


IMG_20210819_115514
血の川を流れる赤ん坊
このシーンもわけなく怖かった


 今見ると、本当に怖いのは地獄の刑罰ではなく、現世における人間のさまざまな欲望や迷妄だと知られる。
 つまり心の中の地獄。
 人間世界のドロドロを容赦なく描く前半がおっかない。
 「怪談映画の巨匠」と呼ばれた中川監督の本領は、むしろそちらにあるのではないかと思う。
 他の作品を観ていきたい。

 天知茂、三ツ矢歌子、沼田曜一といった新東宝の俳優たちも、下手に役者役者していないフレッシュな佇まいがかえって印象的である。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『ヤクザの文化人類学 ウラから見た日本』(ヤコブ・ラズ著)

1996年岩波書店

IMG_20210817_165425


 ソルティの中のヤクザのイメージと言えば、まず60年代東映の任侠シリーズ。
 鶴田浩二、高倉健、菅原文太、藤純子といった錚々たるスターが銀幕に焼き付けた“義理と人情”の裏街道。
 着流し、入れ墨、日本刀、親分子分の盃、日本家屋、番傘、博打、啖呵、出入り、一宿一飯の恩、カタギには迷惑かけん・・・・・。
 あくまで忍耐強く、あくまでストイック。
 画面を彩る敗者の美学。 
 緋牡丹のお竜こと藤純子の花そのものの美しさといったら!

牡丹


 その後、東映は73年公開の『仁義なき戦い』(深作欣二監督)の大ヒットを皮切りに実録路線に変更していったが、ソルティはこちらには興味が湧かなかった。
 ダブルのスーツ、白いエナメルの先のとがった靴、外車、サングラス、角刈り、チャカ(拳銃)、シャブ(覚醒剤)、シマの取り合い、壮絶な銃撃戦、簀巻きにして大阪湾、イロ(女)を風俗で働かせてのヒモ生活・・・・。
 刑事ドラマや東映Vシネに描かれるようなその後のヤクザ像は、この実録路線の延長上にあるのだろう。
 それはもはや、任侠道とか敗者の美学というものとは程遠く、まさに暴力団とか“反社”という呼称こそふさわしい。(岩下志麻主演の『極妻』については未見なのでよくわからない)
 
 いずれにせよ、ソルティのヤクザイメージはマスメディアによって作られたもので、現実にヤクザの知り合いもいなければ、パチンコや賭け事もやらず、近所に組の事務所があるわけでもないので、まず彼らとは接点のない半生を送ってきた。
 たまに繁華街のサウナに行ったときに、それらしき入れ墨の主を見るくらいである。
 その点では、本書で著者が述べている通りである。
 
 一般社会にとって意味があるのは、ヤクザは犯罪者で暴力的で社会に寄生しているという事実だけである。それ以上の情報は必要としない。なるほどその情報は事実であるかもしれないが、そのような態度からは個人としてのヤクザを完全に非人間化するというプロセスしか生じない。 

 だから、東海テレビが制作したドキュメンタリー『ヤクザと憲法』(2015)は大変面白く、刺激的であった。
 カメラが大阪にある某ヤクザ事務所に入っていって、親分はじめ組員一人一人にインタビューして、その人柄や来歴を見せてくれたのである。
 そこに映し出されたヤクザの素顔は、おおむね不器用かつ直情径行で、世渡り上手とはおせじにも言えず、人間っぽさ濃厚であった。
 
 本書はそれに先立つこと20年前、1986年から1990年にヤクザの世界に単身乗り込んだ一研究者が、丹念なリサーチの結果をまとめあげた稀有なる記録である。
 それを実現したのが、本邦の研究者ではなく、イスラエルの文化人類学者であるところが衝撃的である。
 本書が発刊された時の反響を自分は覚えていないが、日本の文化人類学界や社会学界のみならず、マスコミ関係者や警察関係者においても、いや一般読者においても相当な衝撃をもって迎えられたのではなかろうか?
 日本人の研究者でもよくし得ないことが、イスラエル人にしてやられるとは・・・・!
 
 だが、もちろん外国人の研究者だからこそ、このような恐れ知らずの、偏見知らずの、しがらみ知らずのフィールドワークができたのは間違いあるまい。
 取材される相手(=ヤクザたち)も、表社会にいてヤクザを偏見の目で見ることに慣れたカタギの日本人ではなく、日本文化の外にいる外国人という部外者だからこそ、すんなりと受け入れ、胸襟を開き、本音を晒したのであろう。
 それは『さいごの色街 飛田』で飛田遊郭を取材した井上理津子に言えることと同じである。
 
 本書は、ヤクザという存在について、文化人類学、社会学、心理学、ジャーナリズムの扱いなど様々な視点からの洞察がなされ、興味深い。
 縁日には欠かせないテキヤの仕組みや日常の記述などは、著者も彼らと一緒に旅して露店で売り子もしたというだけあって、非常に具体的で面白い。 
 また数年に及ぶフィールドワークの結果として生じた著者とインフォーマント(情報提供者)たるヤクザたちとの友情や親睦の様子も描かれ、「ヤクザ」「外国人」「学者」といったレッテルをはがした人と人との真摯な関係の可能性について教えてくれる。

 一連の研究の果てに著者が実感したのは次のようなことであった。
 
 ヤクザは日本人の中心的自我の一つの変形であり、逆もまた真なりと言える。この主張に対してはたいていの日本人が異議を唱えるだろう。たいていの日本人はヤクザの中に自分自身を認めることなどできないだろうし、また認めようともしないであろう。しかし私の考えでは、ヤクザは伝統的社会からは排除され拒絶されてはいるが、多くの点で日本人の文化的な自己の一部であって、しかも周縁とは言い切れない一部である。二つの社会が似ているからこそ排除や拒絶が起こるのである。
 
 裏社会という言葉は言い得て妙で、表社会の正確な倒立像が裏社会たるヤクザの世界であろう。
 性風俗や賭博やドラッグなど、表社会の健全な人々がもつ後ろ暗い欲望を密かに叶えてくれるのが、裏社会の役割であった。
 ジギルとハイドの正体は、同じ一人の人間である。
 両者は分けられない。

 著者があとがきで記しているように、フィールドワークが行われたのは92年の暴力団対策法施行の以前であり、その後、日本社会(表社会)も裏社会も大きく変わってしまった。
 暴力団への締め付けが厳しくなり、組からの離脱者が増えている。
 既存の組織もまた存続の危機にあるが、それは「暴力団壊滅、バンザイ!」と市民社会が一概に喜んでばかりいられるものでなく、掟も縛りもない半グレや国際ギャングのようなアウトローの増加を生んでいる。
 著者が言うように、「昔風のヤクザは、もうこの世界の規範ではなく、骨董品めいたものになった」のである。

三峰神社20150423 033

 
 60年代の東映任侠映画に入れ込んでいた20代の頃、ソルティは「人はなぜヤクザの道を選ぶのか」、ほとんど考えることがなかった。
 ただ美しくスタイリッシュな映像と、カッコいい科白と、見事な太刀さばきに見とれているばかりであった。
 関西の人間なら暗黙の了解として知っているであろうことを、関東生まれで世間知らずの自分は知らなかった。
 無知っていうのは罪だなあと思う。
 と同時に、タブーを作って顕在化させないでいるのは、やはり日本人にとって教育上よろしくないと思う。
 被差別部落や在日朝鮮人などマイノリティの視点から、再度、東映ヤクザ映画を見直してみたい。
 
ヤクザ世界に庇護を求める者たちのもっとも根本的な動機は、通常社会に順応できないことにある。周縁的であるからこそヤクザは、自分がそこに所属し、そこで成功した気持ちがもてるのだ。反転世界での逆転した成功は、差別されうまく適応できなかった人々の周縁的なアウトローの世界にいるという思いに基づいている。



 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 
  

● 本:『さよなら、シリアルキラー』(バリー・ライガー著)

2015年創元推理文庫

 アメリカ発ヤングアダルトミステリー。
 17歳のイケメン高校生ジャスパー・デント(ジャズ)が、親友で血友病患者のハウイーや黒人の恋人コニーに助けられながら、地元の街で起こった連続殺人事件の犯人を捜す。
 原題は I HUNT KILLERS「人殺しを捕まえる」
 邦題の由来こそ、この小説のミソである。

IMG_20210817_085330

 
 ジャスパー・デント少年は、124人を惨殺した稀代のシリアルキラーにしてソシオパスであるウィリアム・デント(ビリー) の実の息子であり、幼い頃から父親の手による英才教育(=洗脳)を受けた生粋の“シリアルキラー候補”なのである。
 ジャズは自らの呪われた血としつけが顕在するのと必死に闘いながら、かつ全米にあまねく知られた凶悪犯の息子という境遇と向き合いながら、かつ認知症を発症し奇矯な振る舞いが目につく祖母(ビリーを生み育てたモンスターマザーである)の面倒を一人で見ながら、シリアルキラーの心理を隅々まで知る利点を逆手にとって真犯人を追う。
 
 考えられる限り最悪の育ちと環境にある主人公。
 残酷な手段で若い女性を殺めていくシリアルキラーの出没。

 普通なら重苦しい話になりそうだが、そこはヤングアダルト小説。
 友情や恋愛をからませながらユーモアある筆致で主人公=ヒーローの苦悩と活躍を描いていく。
 捜査を指揮する保安官が十代のビリーに協力を依頼するとか、124人殺しの凶悪犯が死刑にならないでいるとか、しかも簡単に脱獄してしまう施設に収容されているとか、ご都合主義はそこかしこに目立つが、そこはヤングアダルト小説。
 目くじらを立てることもあるまい。
 
 肩の凝らない気楽なミステリーを読みたい向きにはおススメである。
 

 
おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 加藤嘉の名演 映画:『ふるさと』(神山征二郎監督)

1983年
106分

 日本が誇る名優中の名優、加藤嘉主演の一本。
 モスクワ国際映画祭の最優秀主演男優賞を受賞している。
 監督は『郡上一揆』、『草の乱』、『ハチ公物語』の神山征二郎。
 丁寧で誠実な作り、鮮やかな野外ロケは上記の作品群と変わらない。

 本作の一つのテーマは老いである。
 加藤嘉演じる伝三が呆けていって、妻の死も理解できず、息子や嫁も認識できなくなって“壊れていく”姿がリアリティもって描かれる。
 加藤嘉の演技は、認知症高齢者の介護を7年間やっていたソルティから見ても非の打ちどころがない。
 モスクワ映画祭の審査員たちは、実際の認知症老人をキャスティングしたと勘違いしたそうな・・・。
 『砂の器』と共に伝えられるべき加藤嘉の名演であろう。

 呆け老人を抱えた家族が抱える苦労を、息子役の長門裕之と嫁役の樫山文枝が息の合った演技で見せている。
 樹木希林、前田吟、石立鉄男などが脇を固めて抜かりない。

 今一つのテーマは失われていくふるさと、日本人の原風景である。
 伝三一家の住む岐阜県揖斐郡徳山村は、まもなくダム建設のため湖底に沈む運命にある。
 600戸の住人たちは生まれ育った村を離れて、下流にある町に移住しなければならない。
 村人たちが故郷で過ごす最後の夏が描かれている。
 この物語は、実際に徳山村で小学校教師をしていた平方浩介の『じいと山のコボたち』を映画化したもので、現地ロケなのである。
 その意味で、かつての村人たちにとっては“ふるさと”の貴重な記録映像と言える。
(2008年に徳山ダムは完成した)

 一時代前の日本を知る男の老いと死、そして美しく豊かな郷土の消滅。
 二つの喪失の物語が重奏する。
 時はバブル直前であった。

 認知症患者が増えたのは、もちろん日本人が長生きするようになったからではある。
 男の平均寿命は、1950年には約60歳だったものが、70年に約70歳、90年に約76歳、2010年に約80歳となった。
 しかし、高齢化だけでなくて、生活環境の変化も大きな原因の一つであろう。

 日本の風景は、戦後、特に70年代以降、劇的に変貌した。
 兎追いしかの山も、小鮒釣りしかの川もあらかた姿を消した。
 また、何千年と変わらなかった日本人の生活様式も、昭和の終わりあたりから加速度的に変化していった。
 50年前までなら同じ一家の祖父母と孫とは多くの文化を共有できたが、令和の現在では完全に別の文化を生きている。
 世代から世代への文化継承も、いまや役に立たないものになりつつある。
 老人たちは、環境のあまりに速い変化に脳や気持ちがついていけず、現実を否認してしまうのである。
 
 本作では、伝三と小学生の孫の千太郎とは、揖斐川の秘境でのアマゴ釣りという遊びを共有し、釣りの名人と謳われた伝三から千太郎に釣りのコツが伝授される。
 それによって伝三の呆けは和らいでいく。 
 いまではどうだろう?
 孫がなにより教えてほしいのはコンピュータゲームの攻略の仕方か、より有益なスマホの使い方なのではないか。

 そう言えば以前、富士山に最も近い山である三ツ峠(1785m)に登った時、山頂の雄大壮麗たる富士山を前に、父親と一緒に来た小学生くらいの男児がゲームウォッチに熱中してまったく風景に無関心なのを見て、驚いたことがある。
「おい、富士山だぞ、見ろよ!」
 という父親の促しもものかは、まるで自分の部屋にいるかのような男児の姿に、さすがの富士山も蒼ざめていた。

 
IMG_20210815_114130
主演の加藤嘉と孫役の浅井晋 


おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 映画:『ビバリウム』(ロルカン・フィネガン監督)

2020年アイルランド、デンマーク、ベルギー
98分

 なんとも不気味な感触のファミリーホラーSF。

 新居を探す今どきの新婚カップルが不動産屋に連れていかれたのは、同じ格好のこぎれいな緑色の家が立ち並ぶ広大な建売住宅地。
 NO.9と扉に書かれた家を案内された二人がふと気づくと、不動産屋は姿をくらましていた。
 二人は帰ろうとして車を走らせるが、いくら走っても住宅地から抜けられない。
 精魂尽き果てた二人の前に、段ボールの箱が現れ、中には可愛い赤ん坊が入っていた。 

IMG_20210814_100354


 これまでホラー映画やSF映画を数多く観てきたソルティにさえ先の読めない展開で、好奇心とサスペンスとで最後まで持っていかれた。
 幾何学的な住宅地や同じ形をした雲が浮かぶシュールな光景には、観る者の無意識を掻き乱すような悪夢に似た美しさがある。
 フィネガン監督のセンスの良さが光っている。

 アイデアの独創性は間違いないところであるが、『不思議の国のアリス』、『砂の女』、『未来世紀ブラジル』、『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』、なにより『竹取物語』を想起した。
 かぐや姫は、竹取の翁と姶にカッコウの雛のごと托卵されたのであるから。

 「ビバリウム」とは、動物を観察または研究するため、またはペットとして飼うため、準自然環境下を保つように作られた囲い、容器、または構造物のことである。



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 秩父の子 本:『あの夏、兵士だった私』(金子兜太著)

2016年清流出版

 副題は「96歳、戦争体験者からの警鐘」。

IMG_20210810_221418


 金子兜太(1919-2018)は埼玉県秩父出身の俳人。
 日本銀行入行の25歳の時に自ら海軍に志願し、太平洋上のトラック島(現:ミクロネシア連邦チューク諸島)に主計中尉として赴任した。(上記の表紙画像参照)
 
私は二十五歳、当時の多くの青年たちと同様に、どこかに捨て鉢な「華々しく散っていく」美学を胸に秘めていました。しかもそこに「民族のために」「美しい故郷を守るために」「父や母、家族のために」という美しいスローガンがつけば、意識はますます高揚します。祖国のために殉ずるということがもたらす、身体が震えるような満足感、陶酔感・・・・。

 ところが、到着した翌朝、周囲を見たら島は真っ黒こげ、そこかしこに航空機の残骸、港には腹を向けて沈んでいる艦船。
 すでに勝敗は決し、戦闘どころか食糧さえ手に入らないありさまだったのである。
 米軍による爆撃や手榴弾による事故死よりも確実に多かったのは、餓死。
 いったい何のために派兵されたのか。

 敗戦と同時に金子は米軍の捕虜になり、収容所に連れていかれる。
 豊かな食糧、陽気で健康的な米軍兵士たち、好きな煙草は吸い放題。

 アメリカは、ともかく犠牲を出さないことを第一に考える。死ぬのを怖がる。それは人間として当然のことで、むしろ日本人のように、「死ぬなんて怖くない」なんて強がるほうが異常。その考えが極端になったのが特攻や、人間魚雷としてあらわれました。
 ここにも「戦争に対する備え」の違いがある。これを知ったとき、彼我の国力差もさることながら、「やっぱり、負けるべくして負けたな」とつくづく感じたものです。 

 水木しげるの『ラバウル戦記』や中国大陸における死の行軍の記録をあげるまでもなく、太平洋戦争における最も理不尽にして愚か極まる日本軍の所業は、大量の無駄死に国民を追いやったことであろう。
 少なくとも真珠湾攻撃の一年後には負けは見えていた。
 その後の学徒出陣は要らなかった。(学徒が徴兵される段階でもう末期的とわかる)
 状況を冷静に分析し、的確な判断をし、勇を鼓して、もっと早く降伏を受け入れていれば、何百万という命が無駄になることはなかった。
 そこにあったのは、意地なのか、プライドなのか、破滅願望なのか。
 はたまた、正常性バイアスなのか、コンコルド効果なのか。

「埋没費用効果 (sunk cost effect)」の別名であり、ある対象への金銭的・精神的・時間的投資をしつづけることが損失につながるとわかっているにもかかわらず、それまでの投資を惜しみ、投資がやめられない状態を指す。超音速旅客機コンコルドの商業的失敗を由来とする。
(ウィキペディア「コンコルド効果」より抜粋)

 今回のコロナ禍における東京2020オリンピック開催までの経緯を振り返るに、つくづく歴史は繰り返されるものだと思う。
 オリンピックを開催して良かったかどうかという結果論は別として、世論をまったく無視して合理的な説明もなしに進められていく「開催ありき」の国の強引な姿勢に、「ああ、80年前もこうやって戦争に突入していったのだなあ。マスコミ総動員で一億玉砕への道を突き進んでいったんだなあ」と絶望に近い恐ろしさを感じた。

五輪


 金子兜太が本書を記したのは、安倍政権下、キナ臭さを増してくる日本の現状に危機感を抱いたからであった。
 一年前にあれほど恐怖し警戒したコロナにいつの間にか慣れてしまって、もはや緊急事態宣言が意味をなさなくなっているのと同じように、80年前の日本人も海の向こうでやっている戦争に慣れて、戦時下の耐久生活に慣れて、国家の命令に従うことに慣らされていったのだろう。
 B29が国土を灰にし、広島と長崎が煉獄と化すまでは・・・・・。

 ソルティは、今回のコロナ禍のメリットをあえて上げるなら、安倍政権が倒れて憲法改正(9条改悪)がひとまず延期されたことだと思っている。
 そして、国民の多くが国の指導者層の無能と傲慢を知り、大企業やマスコミの節操のない右顧左眄ぶりを目にしたことだろう。
 こんな指導者の手によって憲法が改正されたら、どんな理不尽が待っていることやら。
 
 そもそも、人間の「知性」とは、あらゆるものに差別感を持たないということです。それを私は「自由人」と呼ぶんですが、世界にはいろいろな人間がいて、そのいろいろな人間が、お互いを認め合うからいいんです。だから世界発展していくし、人類は豊かになっていくはず。
 それなのにどうも、社会全体が同じ方向を向かないと気がすまないという人が増えてきて、そんな人が率先して自粛し、お互いを縛っていく。そしてみんなで監視し合う。このムードは戦前そのものです。

 金子兜太は平成と共に世を去った。
 秩父観音巡礼第34番札所には、彼の句碑が建っている。

 
秩父の子
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『かぞくのくに』(ヤン・ヨンヒ監督)

2012年スターサンズ(日本)
100分

 ヤン・ヨンヒの小説『朝鮮大学校物語』が面白かったので、借りてみた。
 本作は同年のキネ旬1位、ブルーリボン作品賞を獲っている。
 日本アカデミー賞にはノミネートすらされなかったのはなぜ?
 
 朝鮮総聯幹部の父の勧めで16歳で家族と離れて北朝鮮に渡ったソンホ(=井浦新)。
 結婚し、いまでは一児の父である。 
 彼の地ではできない脳腫瘍の手術を受けるため、25年ぶりに日本に戻って来られることになった。
 慈父のような金主席の配慮で3ヶ月という特別滞在許可が下りたのだ。
 人が変わったように無口で笑わなくなったソンホを温かく迎える母(=宮崎美子)と妹リエ(=安藤サクラ)、そして旧友たち。
 しかし、ソンホの帰国生活は同志ヤンによる監視付きで、そのうえリエを北朝鮮のスパイとしてスカウトするよう命じられていた。兄の言葉に傷つき、激しく拒絶するリエ。
 数日後、手術の見込みも立たないまま、突然なんの理由もなく帰国命令が出て、家族はまた離れ離れになる。 

 主演の安藤サクラは本作で主演女優賞を総ナメにしたが、それも納得の好演技。
 樹木希林の衣鉢を継ぐのはやっぱこの人だ。
 井浦新はこれまで注目したことがなかった。雰囲気のいい役者である。
 宮崎美子演じる母親(おそらく在日2世)も、安藤や井浦演じる子供たち(おそらく3世)も、言葉や仕草の点で在日コリアンの演技としてはどうなのかな?――と一瞬思ったが、ソルティがステレオタイプの在日コリアン像(それと分かる1世の人の言動より抽出された)を知らず身に着けているだけと気づいた。お恥ずかしい・・・。
 
チマチョゴリ


 1910年の日韓併合によって、労働力として日本に強制連行されたのが在日朝鮮人の始まりと言われる。
 その当事者や家族、子孫ら約10万人は、1950年代から1984年にかけての壮大な帰還事業で北朝鮮に永住帰国した。
 当時、北朝鮮は「地上の楽園」と言われていたのである。(吉永小百合の代表作『キューポラのある街』にこのへんのことが描かれている)
 蓋を開けてみたら、その実態は楽園とは正反対の金一族の独裁体制による生き地獄。
 もはや自由は微塵もなかった。
 結果的に、「在日」として不当な差別や抑圧を受けながらも、日本に残ることを選択した者たちのほうが賢かったのである。
 こんな皮肉な話もあるまい。
 
 同じ朝鮮民族が、朝鮮戦争による分断の結果、あるいは北朝鮮に生き、あるいは韓国に生き、あるいは在日の子孫として韓国語を忘れて日本に生き、あるいは朝鮮人の誇りを胸に帰国して北朝鮮に生きている。
 いったいどの朝鮮人が一番幸せなのか?
 まるでユダヤ民族のそれのような朝鮮民族の受難に思いを馳せざるを得ない。
  
 日本人がこうした歴史を教えない、教わらないのは罪としか言いようがない。

  
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 

● 本:『テレーズ・デスケルウ』(フランソワ・モーリアック著)

1927年原著刊行
1997年講談社文芸文庫(訳・遠藤周作)

 自由を手に入れるために夫を毒殺しようとした若妻テレーズ。
 一命をとりとめた夫は家名を守るため偽証し、テレーズは逮捕や裁判を免れる。
 しかし、その後は田舎の屋敷に幽閉され、孤独と絶望のうちに過ごすことになる。

IMG_20210809_094250


 ドキュメンタリー映画『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』(2020)の中で、全共闘の学生の一人から「自己と他者」について質問された三島は、モーリアックのこの小説に言及し、「テレーズが夫を殺そうと思った真の理由は、夫の目の中に不安を見たかったから」というくだりを紹介している。
 原著ではこうある。

おそらくあなたの目の中に不安と好奇心の色をみたかったのかもしれないわ、・・・・・つまりあなたの心の動揺よ。

 このセリフがなぜ自己と他者に関係するかと言えば、伝統的な制度と習慣の中で自己充足し「生」に疑問を持たない夫ベルナールは、自身のアイデンティティに不安や欠落感を持たないがゆえに、他者のもつ不安や好奇心が理解できない。
 すなわち「他者」が存在しない。
 彼にとっては、女性というもの・妻というもの・母というものは「かくあるべきように」あってくれればよいのであって、男と議論したり、夫の要求を拒んだり、赤ん坊の傍らでタバコを吸うような生き物では断じてない。
 「普通」に気立てのいい家庭的な女であってくれればいい。
 
 しかるにテレーズは、「普通」の女ではなかった。
 型にはまらない我の強い女であった。
 今風に言うならば、テレーズはフェミニストであろうか。
 あるいは、ベルナールよりその妹アンヌに愛着を抱くところ、夫との営みにおいて冷感症のように振舞うところからして、レズビアンなのではなかろうか。
 ベルナールには到底テレーズが理解できないし、そもそも他者を理解しようという心もなかった。

あの帰り道のあいだ、テレーズは知らぬ間に自分を理解してくれるベルナール、理解しようと務めてくれるベルナールを勝手につくりあげていたのだ。しかし今、夫をちらっと見ただけでありのままのこの男の姿が浮かび上がった。生涯に一度でも、他人の立場に立ってものを考えることのできない男――自分自身から抜けでて、相手が見ているものを見ようとする努力をしない人間。

 まったくタイプの異なる二人が結婚したのがそもそもの間違い。
 夫の毒殺を思い立つ前に、テレーズが『人形の家』のノラのように家から飛び出さなかったのが間違い。
 他者と向き合えるだけの素地のない者に、それを期待することが悲劇の始まりである。
 ベルナールには咎はない。

人形の家


 三島はおそらく、「学生はかくあるべし」の旧態依然たる大学当局と、新しい時代の自由を求める学生たちの対立に、ベルナールとテレーズの姿をたぶらせたのであろう。

わたしはただ人形のように生きたくなかったんです。身ぶりをしたり、きまりきった文句をいったり、いつもいつも一人のテレーズという女を殺してしまうようなことをしたくなかったんです。ねえ、ベルナール、わかるでしょう。わたしは本物でありたいと願ったんです。

 最後、ベルナールは地元から遠く離れたパリの街にテレーズを解放する。
 テレーズが「満ち足りた女のように一人で笑い」、自分の足で歩き始めるところで物語は終わる。
 世が世なら、テレーズは魔女として火炙りになっていただろう。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 本:『沙林 偽りの王国』(帚木蓬生著)

2021年新潮社

 『閉鎖病棟』、『聖灰の暗号』の帚木蓬生がオウム真理教の犯行の全貌を描いた半ノンフィクション小説。
 生物兵器・化学兵器に詳しい九州大学医学部の沢井教授を語り手に置き、毒物の専門家の視点から一連の事件を総括している。(実際にオウム真理教事件の際に活躍した井上尚英教授がモデル)

IMG_20210808_182631


 綿密な取材と該博な知識をもとに書かれた力作であるが、ソルティのような医学素人の一般読者には難しすぎる。
 松本サリン事件を描いた前半はそれほどでもないが、地下鉄サリン事件を描いた後半からは、サリンを始めとする毒物の特性についてのくだくだしい説明や、あたかもカルテのような被害者の症状の記述が延々と続き、専門的になりすぎて読み進めるのが困難であった。

 オウム真理教の実態というよりも毒ガス被害の臨床報告みたいになってしまって、期待した内容とは程遠い。
 帚木自身が医師である上に同じ医師を語り手としたこと、すなわち医師の二乗が、この残念な結果につながっているようだ。
 もっと社会学的あるいは心理学的見地からのオウム真理教という団体や信者の解析、あるいは麻原彰晃や実行犯となった幹部らの心理分析、患者としてでなく生活者としての被害者を襲った悲劇のありよう、そして90年代という時代を背景とした一連の事件の意味付けが読みたかった。
 精神科医である帚木にそれを期待したのは見当違いではあるまい。 

 はたして新潮の編集者は原稿に目を通した段階で、このままでいいと思ったのだろうか?
 このような記録文学を目していたのだろうか? 
 
 図書館で予約を入れてから順番が来るまで数ヶ月、かなり期待して読み始めたのであったが、泣く泣く途中放棄した。

 


おすすめ度 :

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損







● 映画:『レディ・ジョーカー』(平山秀幸監督)

2004年日活、東映
121分

 原作は高村薫の同名小説。
 1984-85年に世間を騒がせたグリコ・森永事件を題材とした社会派ミステリー。

 犯人(キツネ目の男)が捕まらずに時効になってしまった同事件であるが、元グリコ関係者説、株価操作をねらった仕手グループ説、被差別部落民説、作家の宮崎学説、元暴力団組長グループ説、北朝鮮工作員グループ説など、さまざまな憶測が飛び交った。
 真犯人が捕まらなかったのは、一味に身内(現職警官)がいて捜査情報を流していたからではないかという説もある。

 本作では、レディ・ジョーカーを名乗る犯人グループのメンバーとして、部落差別当事者を身内にもつ男、在日朝鮮人、重度障害の娘をもつ男、ブラック企業で働く男、所轄の刑事の5人――演じるは順に、渡哲也・吹越満・大杉漣・加藤晴彦・吉川晃司――を組ませて、いわば日本社会の底辺で生きる者たちの復讐劇といった色合いを出している。
 彼らのターゲットとなるのは、グリコならぬ日本を代表する一流洋酒メーカーである日之出ビール。
 なので、観る者にとっての正義は、被害者である日之出ビールや犯人を追う警察側にあるのではなく、庶民の代表たるレディ・ジョーカー側にある。
 社会の負け組による報復――その意味では、タイトルの一部を同じくするアメリカ映画『ジョーカー』(2019)に先駆けていると言えよう。

 主演の渡哲也も渋くていいが、やさぐれた刑事を演じる吉川晃司が印象的。
 80年代アイドル(デビュー曲『モニカ』)が、こんなにいい役者になっていたとは知らなかった。
 誘拐される日之出ビール社長・城山恭介役の長塚京三、副社長役の岸部一徳も存在感あって素晴らしい。

IMG_20210807_233650
サイコパスチックな刑事を演じる吉川晃司 
 
 ストーリー的にはアラが目立つ。
 辰巳琢郎演じる社長の弟が、なぜ自殺を選んだのか説明が見当たらない。
 吉川晃司演じる刑事が、なぜ徳重聡演じる合田刑事に執着するのか分からない。
 企みが成功し20億という大金を手に入れたのに、重度障害の娘を捨て去る父親(大杉漣)の心理描写も粗雑である。
 レディ・ジョーカー5人それぞれが犯罪計画に乗ろうとする動機や背景がじっくり描き込まれていないため、「部落や在日や重度障害というレッテルさえ出せば犯行動機として十分だろう」といったステレオタイプ化された(=観る者の差別意識に阿った)安易さを感じる。
 原作ではおそらく細かい描写があるのだろうが・・・・。

 ジョーカー(=ヨアキン・フィニックス)をキレさせるに至ったえぐいほどの悲惨さ、あるいはハンセン病差別を背景とする『砂の器』の慟哭に達する哀しみと比較したときに、この腰が引けたような粗雑さは残念至極。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● 母を訪ねて 本:『出生地』(ドン・リー著)

2004年原著刊行
2006年早川書房(池田真紀子・訳)

 1980年の東京を舞台とするサスペンスミステリー。

 博士論文のリサーチのために日本を訪れたアメリカ人女性リサ・カントリーマンが、「香港に渡る」という言葉を最後に失踪した。
 故国に住む姉から捜索依頼を受けた米大使館職員トム・ハリーと、麻布警察署の“窓際族”である太田刑事は、それぞれの思惑からリサの行方を追う。

IMG_20210804_134347


 著者のドン・リーは在米コリアン3世で、父親が外交官であったため子供時代を東京とソウルで過ごしたという。
 幼い頃の記憶の中にある日本と、新たに取材調査した80年代の日本、その結合が本書を生んだのであろう。

 外国人が書いた日本という点で、まず興味深い。
 ステレオタイプの日本像になるのはやはり避けがたく、高校時代の英語の副読本を思い出した。
 つまり、秋休みを利用してアメリカからやって来たペンパルのBenに、日本の名所や文化や風習を案内するYoshioとSachiの兄妹、といった観光案内タッチである。
 浅草の神輿かつぎ、禅寺での坐禅、お花見、お盆のお供え、紅白歌合戦、除夜の鐘、初詣といった伝統的なものから、80年代当時の風俗――窓際族、クリスマスケーキ(25歳過ぎたら女は見向きもされない)、竹の子族、ディスコブーム、銀座での接待、街中に溢れるへんてこりんなJaplish(和製英語)・・・・。
 とりわけ、(これはさすがに高校の副読本には載せられないが)性風俗の描写は微に入り細をうがっている。
 ソープランド、ピンサロ、イメクラ、覗き部屋、ノーパン喫茶、ラブホテル・・・。それらに群がる日本の男たちの昼の真面目な会社員の顔とは異なる夜の生態もとらえている。
 「屁は日本の古い歴史を持つ伝統芸である」といったジョークだか勘違いだかわからないような、思わず脱力するくだりも散見されるが、全般、一種の日本文化論として楽しむことができよう。

 日本人はウェットな人種なのだ。水気を含んで粘る米のように、仲間同士くっついて生きるのを好む。温かく、優しくて、情に篤い。対照的に西洋人は、ばらばらした彼らの米のように、ドライで不人情で個人主義的だ。

 1980年という時代を映すのに、大平首相の急死とジミー・カーター大統領の葬儀参列、在イラン米大使館人質事件、ソ連によるアフガニスタン侵攻、モスクワ五輪ボイコット、市場開放をめぐるアメリカとの貿易戦争e.t.c.といった時事テーマを散らし、一方、日本独特の戸籍制度や入管制度や刑事手続きについても丹念に調べていることが伺える。
 ソルティは80年代の日本や東京を知る一人であるが、時代の雰囲気はなかなかよく出ているんじゃないかと思う。
 
 次に特筆すべきテーマは、人種問題・民族問題である。
 幼い頃に捨てられ日本の養護施設で育ったリサは、実の両親を知らない。
 自らを日本人と黒人のハーフと思うが、外見はどちらにも見えず、アイデンティティの揺らぎに悩む。
 
 彼女は黒人と呼べるほど黒人らしくなく、東洋人と呼べるほど東洋人らしくなく、さらには白人と呼べるほど白人らしくない。初めて会った瞬間に自分の人種的分類を説明しておかなければ、かならずだまされたような気持を相手に抱かれる。説明せずにおくのは、怠慢の罪ででもあるかのように。黒人のくせに白人として通そうとしているかのように。その一方で、いずれかの人種への連帯感を宣言したところで、誰も信じない。 

 また、大使館職員トムは、韓国人の母とアイルランド系アメリカ人の父をもつが、自らをハワイ人と称することで、他人からのそれ以上のよけいな詮索を回避している。
 日本人のほとんどは、こうした“人種的分類”に関する煩瑣な説明を免れている。
 流暢な日本語さえ話していれば、「あなた、ナニジン?」、「父親と母親の人種は?」などと詮索されることがない。
 それゆえ、人種問題・民族問題に鈍感である。
 もともと移民の国であり、高い流動性を持ち異人種間の結婚の盛んなアメリカ、しかもいまだにWASPを頂点とする格差社会であるアメリカにおける人種問題・民族問題、そこに由来する個人のアイデンティティ(帰属)の問題。
 本書は、その複雑さと深さを伝えてくれる。


jinnshunorutubo
アメリカは「人種のるつぼ」と言われる

 
 三つ目はネタバレになってしまうが、本書の核となるテーマは「母親探し」である。
 リサが日本に来た真の理由は、生みの母――50年代の終わりに日本駐留の黒人兵士との間にできた真由(=リサ)を養護施設に捨てた――に会うためだったのである。
 母親と会って、父親のことを聞いて、自分が何者であるかを確認したかったのだ。
 その意味で、本書は森村誠一の『人間の証明』のアレンジのようである。
 
 『人間の証明』では、日本人の母親と黒人の父親との間に生まれた色の黒い青年ジョニーが、母親に会うために勇んで日本にやって来るが、過去を隠したい母親の手によって命を奪われてしまう。
 本書では、黒人にも白人にも東洋人にも見えないリサが、母親の居所をついに探り当て、自らの正体を告げる。
 そして・・・・。

 本書は決して重苦しい小説ではない。
 太田刑事が登場するシーンなどは、刑事とは思えぬほど不器用で世間知らずでコミュ障な言動に、にやりとさせられる。
 やはり80年代に流行った「恋愛マニュアル」片手に、今夜のデートの予習をし、好きになった女性の落とし方を勉強しているところなど、日本のオタクっぽい青年そのもので、2004年にヒットした『電車男』を彷彿とさせる。

 ここまでずいぶんネタバレしてしまったように見えるが、実はもっとも大きなネタを明かしていない。
 本書はミステリーとしては、あるいはサスペンスとしては「凡庸」という評価を下されるかもしれない。
 が、その最大のネタ(どんでん返し)ゆえに、すべての日本人にとって痛みを伴って然るべきエモーショナルな内容であり、邦訳されて読まれる価値が十分にある。
 
 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● 三十年の馬鹿騒ぎ 映画:『仁義の墓場』(深作欣二監督)

1974年東映
94分

 東映ヤクザ映画の極北と言われる作品で、渡哲也の代表作の一つ。

 あまたのヤクザ映画と一味違うのは、これが実在したヤクザの半生を描いたノンフィクションであるところ。
 大正15年、茨城県水戸市の貧しい家に生まれ、「ヤクザになるため」に東京に出てきた石川力夫という男の、まさに破滅に向かって一直線の生きざま・死にざまが描かれる。

 石川を演じる渡は当時35歳。
 膠原病を発症し、最初の長い入院から復帰したばかりであった。
 体調は万全でなく、撮影中に点滴を打っていたという。
 渡の生に対する欲望、映画にかける執念が凄まじい気迫を生み、石川力夫が乗り移ったかのような迫真の演技となっている。
 かつて属した組の親分や舎弟らの面前で、自殺した妻の骨をぽりぽり齧るシーンの表情には鬼気迫るものがある。

IMG_20210803_141614


 仏教で言う阿修羅道は「闘うことが生きがいとなっている亡者の集まるところ」であるが、ヤクザの世界はまさに阿修羅道そのものであろう。
 切った張ったの世界。
 ただ、その中でも一応ルールはあって、極道に生きる者としてやってはならないこと、やらなければならないことはあるらしい。
 そういうルールを象徴する言葉が「仁義」である。
 たとえば、親分や兄弟分を手にかけるのは決してやってはならないことの一つであり、仁義にもとる行いである。

 石川力夫が伝説となったのはまさにそのルールを踏みにじったからで、一宿一飯以上の恩義ある親分を日本刀で切りつけ、なにかと庇い続けてくれた兄弟分をピストルで射殺してしまう。
 仁義もルールもしがらみも一切関係なく、気の向くままに暴力沙汰を引き起こす。
 置屋で出会い死ぬ前には妻にした女・地恵子(=多岐川裕美)にも、「金が要るから体を売ってこい」となんの躊躇いもなく言ってのける。
 今風に言うなら、サイコパスに近い。
 
IMG_20210803_141517
多岐川裕美(当時23歳)
 
 “普通の”ヤクザ映画とは異なる点はほかにもあって、本作の導入部では石川力夫の生い立ちが、古い白黒写真と当時を知る人々の証言とで綴られる。
 証言の一つによると、「一回泣き出すと、2時間でも3時間でも泣き続けていた」というから、疳の強い子供だったのだろう。
 
 手元にある『スクリーンのなかの他者』(岩波書店刊行『日本映画は生きている』シリーズ第4巻)の中で、高澤秀次という文芸評論家がこの導入シーンに言及し、石川力夫と部落差別を結びつけるような論を展開している。
 曰く、「この男をつき動かしてきたものが、和解しがたい出自にまつわる恨みであった」。
 事実のほどは知らないけれど、たとえ石川力夫が部落出身者であったとしても、死に場所を探しているかのような無軌道な生き方は、それのみによって説明できるところではなかろう。
 なぜなら、ヤクザの世界に部落出身者や在日コリアンが多いことは昔からよく知られているからである。(昨今の様子は知るところではない)
 
IMG_20210803_173304


 石川力夫は府中刑務所に収容されていた30歳の時に、屋上から飛び降りて自殺した。
 彼の胸中に何があったのか、人生をどう総括していたのか、もはや想像の域を出ない。
 映画の最後では、独房の壁に殴り書きされた辞世の句が映される。
 
 大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ
 
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 日本版宮沢賢治? 本:『ひとさらい』(ジュール・シュペルヴィエル著)

1926年原著刊行
2013年光文社(永田千奈訳)

IMG_20210801_151305


 不思議な味わいのある作品。
 これまであまり読んだことがないようなタッチが新鮮である。
 コアなファンをもつというのも分かる気がする。

 ジュール・シュペルヴィエル(1884-1960)はウルグアイ生まれのフランス作家。両親はフランス人で両国籍を持っていたという。
 訳者によれば「フランス版宮澤賢治」として日本の読者に話題になったらしい。
 たしかに幻想的で童話タッチな詩のような語りは、『銀河鉄道の夜』や『ヨタカの星』などを思い出さないこともないが、テーマの質が宮澤とはまったく異なる。
 とくに『雨ニモ負ケズ』の宮澤とはかけ離れている。
 訳者が「あとがき」で触れているように、シュペルヴィエルの作品にはエロティシズムが漂っている。
 むしろ、『ロリータ』のナボコフや『少年愛の美学』の稲垣足穂を連想したほどだ。
 そう、ある種の倒錯愛の匂いである。
 
 本書の主人公ビグア大佐も、ウルグアイの大統領候補に挙げられるほどの大人物で歴戦の勇士のはずなのに、妙に神経症的で周りの目を気にしてばかりいて、そのギャップがおかしみを生む。
 周りの目の中には妻や子供や使用人すら入るのだ。
 そもそもギャップと言えば、大佐は虐待されている子や捨てられた子を見ると過剰なまでの憐れみを感じ、身柄を引きとって養父となって慈しむほどのやさしさを備えているのだが、法律的に正当な引きとり方をせずに無断でさらってしまうのである。
 立派な犯罪者である。
 そこには正義や慈悲とは別種の、嗜癖につながるようなフェティッシュな情動が潜んでいる。
 大佐が周囲の目を気にするのは、おそらく、自らもはっきり自覚していない複雑なるセクシュアリティを見抜かれまいとするためなのだろう。
 
 他の作品を読んでみたい。


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』(菅賀江留郎著)

2016年洋泉社発行

 戦後間もない静岡県で3つの冤罪事件が立て続けに起った――幸浦事件(S23)、二俣事件(S25)、小島事件(S25)。
 いずれも逮捕された容疑者に一審、二審とも死刑判決がなされ、最高裁で引っくり返って無罪が確定した。
 そのすべての事件の捜査に最初から関わって容疑者を自白させたのは、数えきれないほどの犯人検挙の実績をもち表彰されること五百回余という、県警きっての名刑事・紅林麻雄であった。
 その後も同じ静岡で起きた冤罪事件――島田事件(S29)、丸正事件(S30)、そして令和のいまも審理の続く袴田事件(S41)なども、元凶をつくったのは紅林刑事その人と云われている。
 紅林麻雄とはいったいどういう人物だったのか?
 なぜ同じ静岡県で冤罪事件が繰り返されたのか?
 それはどうすれば防げたのか?
 
 ――といったあたりが本書の主筋なのだが、副題が語っているように「道徳感情こそがその原因」というのが著者の主張である。
 道徳感情が冤罪の原因?
 普通、逆ではないのか? 道徳的でないから冤罪が起こるのでは?
 それとも、ここでいう道徳とは明治時代に世間に跋扈したという自己責任・自助努力を強調する通俗道徳のことなのか?
 

IMG_20210730_215343
ラファエロ作「堕天使を駆逐する聖ミカエル」をあしらった表紙


 掛け値なしの力作にして労作である。
 小口35ミリ、500ページを優に超える分量。
 巻末に上げられた参考文献たるや、300は数える。
 しかも、当事者のオリジナル証言が載っている一次資料が多く、先行する他の本からの引用や孫引きに頼らない正確さ重視の徹底した取材姿勢がうかがえる。
 “書庫派”を自認するだけあって、手間ひま惜しまず、根気よく丹念に調べ上げている。

 さらに、テーマの広がりと深さは特筆に価する。
 少なくとも5冊分のテーマと内容が凝縮されている感をもった。
 筆致もまたドラマチックなまでに熱く、「このことを世に知らしめたい」という著書の半端ない情熱が伝わってくる。 


「あとがき」にこうある。
〈二俣事件〉というあるひとつの冤罪事件について書くつもりが、冤罪すべての根本原因を解き明かし、さらには冤罪や殺人だけでなく、大恐慌や戦争、テロや革命に至る人間の歴史を動かす原理がじつは〈道徳感情〉であるなどという、その悲劇の克服法までをも含めた人間の本性についての壮大なる統一理論を展開する羽目になってしまいました。

 テーマの広がりと深さというのはまさに上の通りで、点が線となり、線が面となり、面が立体となり、立体が時空を超えるような、目くるめくスリリングな展開には興奮を覚える。
 一方、いろいろなテーマや人物エピソードを盛り込みすぎて全体に散漫な印象になっており、また、核となる冤罪事件の原因についての究明が後半になると具体性を失ってどんどん形而上学的になっていき、全般、焦点が曖昧になってしまった感がある。
 著者もその点は自覚しているようで、「この世のすべてを解き明す現代版〈造化の秘鍵〉を打ち立てるが如くになんでもかんでもぶち込んで大風呂敷を広げているよう」と自ら言っている。

 本書の後半で著者は、冤罪の原因を突き詰めていくとアダム・スミスの「道徳感情論」に行き当たると言う。
 そして、道徳感情は人類が進化の過程で身に着けた社会的性質(いわば認知バイアス)であり、それゆえ人間の本性である、冤罪は起こるべくして起こる――という結論につなげている。
 ソルティはアダム・スミスにも進化理論にも詳しくないので、この結論が当たっているかどうかは分からない。
 まことに興味深いテーマではあるが、ちょっと論理の飛躍が過ぎるんじゃないかという感を持った。

 なぜなら、実際には犯人を上げられずにお蔵入りする事件も数多くあり、そしてその際にたとえ怪しい容疑者がいたとしても多くの刑事たちは、紅林刑事のような拷問による自白強要や証拠のでっち上げなどしないのであるから、「冤罪=人間の本性」と結論付ける前にもっと個別の問題として精査すべき点はたくさんあろう。
 たとえば、紅林刑事のパーソナリティなり、静岡県警の体質なり、日本の捜査手法なり、裁判制度なり、組織間の縄張り争い(縦割り行政)なり、我が国の人権意識なり、マスコミの報道姿勢なり・・・・。
 いや、著者が決してそのあたりの追究や考察も疎かにはしていないことは前半で示されている。
 要は、前半と後半の作風のギャップのせいかもしれない。

 具体的な冤罪事件をめぐる検証ドキュメントという社会派スタンスと、冤罪という現象をめぐって見えてくる人間存在の解明という現象学的スタンス。
 両者の接合具合にすっきりしないものを感じた。 
 後半部におけるかなり強引にして粗雑な理論の展開が、前半部のせっかくの緻密なデータ調査による事件や世相の解析の価値を減じてしまった気がする。 
 はじめからどちらか一方にテーマを絞って、構成を組み立てて論じたのなら、もっとすっきりした読後感が得られたのではないか。
 そこを読者サービス満点と取るか、欲張りすぎ・気負いすぎと取るか、無理筋ととるか・・・・。
(ソルティは、5冊分の内容を1冊に詰め込んだのは「もったいない」という気がするが)

 菅賀江留郎(かんがえるろう)はもちろん筆名。
 詳しいプロフィールは不明。
 「少年犯罪データベースを主宰。書庫に籠もって、ただひたすら古い文献を読み続ける日々を送っている」とある。
 力量ある、個性的な作家であることは間違いない。
 今後の仕事に期待大である。 
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 夏の快適アイテム2 空調服


 連日気温35度超えが常態となりつつある日本の夏をどう乗りきるかについて、完全テレワークの人以外の誰もが、しっかり考えなければならない命題であろう。
 ただでさえ熱中症や夏バテになる危険があるのに、この夏は常時マスクをつけていなければならないのだから。
 また、戸外からクーラーの効いた屋内に入っても、吹き出す汗と暑苦しさのため、しばらく仕事に身が入らないというのも考えものである。
 ソルティはとくに、背中や胸や脇の下に下着やシャツが張り付く感触が嫌いで、なんとかならないものかと常々思っていた。
 
 ゴールデンウィークが明けて気温がグッと上がった頃に、この夏の対策を決めた。

 空調服――

 両脇腹に小型のファンがついているポリエステル製のジャケットだ。
 炎天下の建築現場や工事現場で働く人、エアコンのない工場で働く人、さらには交通誘導員や警備員の作業服というイメージがあるけれど、最近はキャンプや川釣りなど夏のアウトドアで使用する人が増えている。
 ワークマンに行けば、女性向けや子供向けを含め、色・デザインとりどりのファッショナブルなものが並んでいる。
 梅雨入り前に最寄りのワークマンに行って、ジャケットとファンとバッテリーの3点セットを購入した。

IMG_20210801_175348
3点セット(計1万5千円くらい)


 梅雨明けした7月中旬から30度超えの酷暑が始まった。
 仕事の行き帰りや休日の朝夕の散歩時に、空調服の着用を始めた。

 使って気づいたことだが、外を歩いている時は気にならないが、屋内では結構ファンの音がうるさい。
 また、炎天下を歩いているときに途中でバッテリーが切れないよう、あらかじめしっかり充電しておく必要がある。
 一番の注意事項は、ファンが作りだした風がジャケットの中をスムーズに流れるように、一回り大きめのサイズを買うことである。
 ソルティはあらかじめネットでつかんでいたこのアドバイスを軽く見て、体裁を優先し、ぴったりサイズを選んでしまった。
 いまいち効果が感じられないなあと思ったら、案の定ポッコリお腹がジャケットに張り付いて、空気の流れを遮断していたのである。
 一回り大きいサイズのジャケットに買い代えたら、上半身の前と後ろに気流が行きわたってジャケットが風船のように膨らんだ。
 
IMG_20210801_210155
空気による膨らみです。メタボではありません(かろうじて)


 さて、はたして効果のほどやいかに?

 外出する時にはスイッチを入れっぱなしにしているので、いま一つよくわからない。
 たしかにジャケットの中に手を入れてみるとひんやり涼しいし、わきの下や首回りの開口部からは静かな風が吹き出してスースーして気持ちいい。
 だが、顔に当たる強烈な陽射しをさえぎってくれるわけではないので、いつもの夏にくらべて違いがあるのかないのか、どうもピンとこない。
 これはもう、スイッチを入れてファンを回した場合とスイッチを入れてない場合とで比較実験してみるよりない。

【実験方法】
① 空調服を着て30度を超える炎天下を歩く。(足元はいぐさ草履
② 最初はスイッチを入れないで25分間、次はスイッチを入れて25分間。
③ 汗のかき具合、息苦しさ、体温、疲れ度合などについて、両者を比べてみる。

IMG_20210801_175234
風があるためいつもよりしのぎやすい炎天下の午後
(30度超えになれてしまっているのが怖い)


実施日  8月1日(日)晴れ、やや風あり 外気温34.8度
開始時刻 15:30

① スイッチを入れないで、なるべく日向を選んで歩く。 

 開始時 体温35.8度(クーラーの効いた部屋に数時間いたため平熱より低め)
  • 10分後 背中に汗が出る
  • 12分後 胸に汗が出る
  • 15分後 シャツが背中と胸に張り付く、脇の下とマスク内にも汗が出る
  • 20分後 額に汗が出る、マスク外したい!
  • 25分後(終了) 息苦しい。クーラーの効いた室内に入るも、10分間は汗がだらだらと流れ続け息苦しさが続く。シャツとパンツがぐっしょり。立っていられないほど疲れた~。
 終了時 体温36.4度

IMG_20210801_175014
歩く前より0.6度上がっている

 30分間、クーラーの効いた場所にて休憩。水分を補給する。


② スイッチを入れて、なるべく日向を選んで歩く。

 開始前 体温36.4度(体温下がらないまま)
  • 10分後~ 明らかに違う。胸にも背中にも脇の下にも汗をかかない。ジャケット内に手を入れると、肌がひんやり湿っている。汗で濡れていたシャツの脇の下と胸の部分にファンの風が当たって、生地がどんどん乾いていく。マスクの中はあいかわらず苦しい。
  • 25分後(終了) 歩き終えた後がさっきと全然違う。汗が噴き出すようなことはなく、息苦しさもない。しんどさも少なく立ったままでいられる。のどもさほど乾いていない。
 終了時 体温35.6度0.8度低下) 

IMG_20210801_180949
一瞬目を疑った。歩く前より体温が下がっている!!

 ちなみに、スイッチを入れファンを回した状態で体温を測ってみたら・・・・

IMG_20210801_175955
脇の下から抜け出る風によるものだろう

【結果】
 空調服は体温を下げ、汗をかくことによる脱水を防ぎ、体力消耗を防ぐ効果がある。 
 
【備考】
 空調服の仕組みは、気化熱の利用にある。
 服に取りつけられているファンが汗を蒸発させる際の気化熱によって、体温を下げる仕組み。
 なので、汗をかかない状態だと効果は薄い。(クーラーのように冷たい風が送られて涼しくなるのではない)
 ポッコリお腹同様、背中のデイバッグやリュックサックもまた、せっかくの気流を遮ってしまう。
 空調服は山登りには向かないのであった(もちろん、手ぶらならOK)。 
 
【結論】
 10分間くらいの歩行では著しい効果は感じられない。
 ただ、歩き終わった後もしばらくファンを回しておくことで、体温の上昇を抑え、汗のかきすぎを抑えることが期待できる。
 長く歩くほどに、空調服を着ていない時との違いは大きくなる。 


 今回の実験で、空調服の効果のほどを実感した。
 熱中症や夏バテ対策にはとても良いアイテムだと思う。
 実際ネットでも、「一度着始めたらもう手放せなくなる」という声を多く見かけた。

 一方、汗をかくことには、新陳代謝を上げる、肌を健やかに保つ、ストレスを解消する、よく眠れるなどの効果がある。
 オフの時には運動をして、たっぷり汗をかくことも忘れないようにしよう。


IMG_20210801_175503
インナーに体にぴったりの放熱冷感シャツを着るとより効果的








● 本:『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(宮崎伸治著)

2020年三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売

IMG_20210730_215154


 別記事で紹介した『交通誘導員ヨレヨレ日記』(柏耕一著)と同じ「3K仕事、内幕暴露日記シリーズ」(ソルティ命名)の一冊。

 副題に『こうして私は職業的な「死」を迎えた』とある通り、イギリスへの留学経験含め英語力を身に着けるための熱心な武者修行の果てに憧れの出版翻訳家になった著者が、一時は訳者として関わった本(スティーブン・R・コヴィー著『7つの習慣』)がベストセラーになり多額の印税と“引く手あまた”の栄光を手に入れるも、出版業界の独特にして理不尽きわまる慣行に振り回されて怒りとストレスをためてバーンアウト、ついには翻訳業から手を引く決心をするまでの波乱含みの経緯を記している。
 この場合の「3K」とは、「きつい、契約がずさん、金にならない」だろうか。

 10代の頃から創元推理文庫や早川書房の本格ミステリーが好きで、大学では英文科に籍を置いたソルティも、「翻訳家になろうかな」と一時思った(魔が差した)ことがある。
 自らが発見した欧米の傑作ミステリーを、自らの手で訳して紹介し、それが書店に並んでベストセラーとなって、優雅な印税生活ができたら素晴らしいじゃないか、と夢想したのである。
 出版社に言われた締切りさえあるものの、好きな時に好きな場所でマイペースで仕事できて、会社勤めのような人間関係に悩まされないところもポイント高かった。
 しかし、どうやったら翻訳家になれるんだろう? 
 どうやって仕事を手に入れるんだろう?
 食っていけるだけの収入はあるのだろうか?
 そんな疑問が胸をよぎった。

 本書の魅力の一つは、そういった疑問に十分こたえてくれているところである。
 出版翻訳家という職業の実態と過酷な労働事情と出版業界の闇(病み)――とりわけインターネットが登場して「出版不況」が叫ばれるようになってからのジリ貧――を教えてくれる。
 なるほど、翻訳家にならなくて良かった・・・。

 私は本書で、ただ単に自分の不遇を嘆きたかったのではない。私には何がなんでも伝えたかった重要なメッセージがあった。
 ひと昔前までの私は金銭欲も名誉欲も旺盛な俗物であった。だからこそ欲望に惑わされて関わってはならない人や出版社と関わり、さまざまな「地獄」に陥った。そしてその「地獄」の底で私は金銭も名誉も幸せを保証するものではないことを悟った。

 著者は現在、警備の仕事をしているという。
 もとい警備の仕事を馬鹿にするわけではないが、著者が時間と金と気力をかけて長年磨き上げた英語力が活用されないのは、とてももったいない気がする。(ハッ!自分もそうか
 本書の発行を機に、新たな仕事とこれまでとは景色の異なる人生が展開することを祈念するものである。
 著者自身がかつて霊感と驚異的な集中力でもって訳した成功哲学の聖典『7つの習慣』の真価を、いまこそ見せてほしい。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● ヴィーガン映画? :『心と体と』(イルディコー・エニェディ監督)

2017年ハンガリー
116分

 雪におおわれた森の中、見事な角をもつ雄鹿と淋しげな目をした雌鹿とが静かに戯れている。

IMG_20210729_125710

 
 連夜のように同じ“鹿の夢”を見ている食肉工場で働く男と女。
 エンドレ(=ゲーザ・モルチャーニ)は妻と別れてから人を愛することをやめた中年男性、左腕が不自由である。
 マーリア(=アレクサンドラ・ボルベーイ)は発達障害気味の風変りな若い女性、異常なまでの記憶力をもち人と触れ合うのが苦手。
 ひょんなことから、夢を共有していることを知った二人は互いを意識し合う。 

 不器用な男女のスピリチュアル風恋愛ドラマなのであるが、この内気さと生真面目さは日本人には共感しやすいと思う。
 ハンガリーは自殺大国の汚名を得ていて、本作でもエンドレとの関係に絶望したマーリアが簡単に自殺を決行するシーンがある。
 どちらかと言えば悲観的に物事をとらえるところも、日本人と似ているのかもしれない。
 
 二人の恋の行方も気になるが、本作でより気になったのは二人の職場である食肉工場における牛の解体シーンである。
 むろん映しだされるのは、かつての日本の被差別部落であったと聞くような、丸ごと一頭の牛を下帯一つだけの男が熟練したナイフさばきで血だらけになって解体する、といった生々しく骨の折れる命との格闘風景ではない。
 製薬工場や製パン工場と変わりのない、完全にオートメーションされ分業化された、無機質と思えるほどの流れ作業である。
 牛たちは名前も個別性も持たず、AランクとかBランクとか肉質のみで識別される。

 工場の採用面接にやって来た若い男に、エンドレは尋ねる。
 「殺される牛を哀れだと思うか?」
 若い男は答える。
 「なんとも思いませんよ。血も平気です」
 エンドレは言う。
 「哀れむ気持ちがなければ勤まらない。神経をやられる」

闘牛

 現在、欧米を中心にヴィーガニズムが非常な勢いを見せている。
 ヴィーガニズムとは

衣食他全ての目的において――実践不可能ではない限り――いかなる方法による動物からの搾取、及び動物への残酷な行為の排斥に努める哲学と生き方を表す。
(ウィキペディア『ヴィーガニズム』より抜粋)

 卵や乳製品も口にしない、毛皮や革の使用にも反対する、ベジタリアンよりもっと徹底した脱搾取主義である。
 その是非をここで論じるつもりはないが、そうした風潮の中でわざわざ食肉工場を舞台に選び、牛が瞬殺され解体される一連の流れを描いた映画が制作され、それが国際的な評価(第67回ベルリン国際映画祭金熊賞、第90回アカデミー賞外国語映画賞候補)を得たという事実は、何を意味するのだろう?
 これは恋愛ドラマを隠れ蓑にしたヴィーガニズム推奨映画なのだろうか?
 
 よくわからないが、仮に二人が見た夢の主役が鹿ではなく牛だったら、ものすごいブラックジョークになっていたのは確かである。
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● ONとOFF 本:『ブッダの実践心理学第5巻 業と輪廻の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃共著)

2009年サンガ発行

 仏教の三蔵(三つの聖典・・・経蔵・律蔵・論蔵)のうち論蔵にあたるアビダンマを、テーラワーダ仏教の出家僧たるスマナサーラ長老が懇切丁寧に説いた、アビダンマ講義シリーズの一巻である。
 アビダンマはいわば、仏教哲学の集大成である。

IMG_20210725_171102


 本巻で取り上げられている「業(カルマ)と輪廻」こそは、仏教の言説の中でもっとも神秘的かつオカルチックで、非科学的・迷信的と断じられやすく、物議をかもす部分であろう。

 業と言えば「自業自得」という言葉がすぐに思い浮かぶが、どこか冷酷で断罪的なイメージが強い。
 元来は「自分で行った行為の結果が自分に返ってくる」というニュートラルな意味合いで、悪い行いだけでなく善い行いについても使われる言葉なのだが、残念ながら、「それみたことか!」、「自己責任!」、「言わんこっちゃない!」、「思い知れ!」といった否定的ニュアンスで使われることが多い。
 使い方を間違うといらぬ誤解を招き、人間関係にひびを入れたり、他人を傷つける結果になりやすい。
 とくに輪廻転生(生まれ変わり)と絡んで使われる場合、「前世で悪いことをしたから障害者として生まれた」とか、「いかなる理由があろうと、生んでくれた親を殺めたからには来世は地獄行き」といったように、本人に責任(の自覚)がないのに一方的に人を裁いて貶めたり、尊属殺人に対する重罰(つい最近まで日本では親を殺したら死刑が普通だった)を正当化する根拠のごとくみなされたりと、合理性と思いやりに満ちた概念とはとうてい言えまい。

 それに現実を見れば、「悪いことをしたら必ず悪い結果が跳ね返ってくる」なんて正義の鉄槌はむしろ少なくて、うまく立ち回る悪人こそが栄え、正直につましく生きている者が不当な仕打ちを受けるのが世の習いではないか。(だからこそ物語では正義の味方が渇望されるのだ)
 それに対する業論の理屈は、「いや、今生では結果が出なくとも来世か、その先のどこかの転生先で報いは必ずあるのだ」とか、「たしかにカルマは正しく働いているが、カルマがすぐに出るのを妨害するカルマというのもあるのだ」とか、結局どう結果が出ても巧みに言い逃れできる占い師のような都合のいい言説を振りかざす。
 ソルティは基本的に業論が嫌いであるし、業論を振り回す人も嫌いである。

 輪廻転生(生まれ変わり)もまた議論百出である。
 「自分の前世はなに?」、「今生での課題はなに?」、「私のソウルメイトは誰?」といったスピリチュアルでファンシーな世迷言を生み出し、それを利用した霊感商法まがいの詐欺も引き起こす。
 また、「生まれ変わりがあるとしたら、一体何が生まれ変わるのか? 永遠の魂か?」、「しかるに仏教では永続するものはないと言っている。無我と輪廻転生はどう両立できるのか?」といった数世紀にわたる難問も立ちはだかっている。
 だいたい今の日本では、社会生活の中で輪廻転生を口にする人間は、「あやしい人」、「オウム系? それともムー系?」と思われるのが関の山だろう。
 
ダライラマ
生まれ変わりと言えばこの人


 アビダンマでは、業と輪廻について緻密な論理でもって詳細に分析している。
 本書でのスマナサーラ長老の説明は非常にわかりやすいし、アビダンマの記述の矛盾や不明点を率直に指摘していて信頼が持てる。
 そして、講義が単なる知的な説明に終わらず、聴き手(読み手)に対する説法になっている。
 つまり、業システムや輪廻転生の“科学的”説明を礎に、そこに豊かにして有益なアドリブを付け加えて、聴き手(読み手)の心の成長に役立つ実践的なノウハウをも授けてくれる。
 そこが本書の最大の価値であり魅力であろう。

 そもそも、業や輪廻転生について思い悩むことはナンセンスである。
 科学的に立証され得ないし、「脅し」によって人心をコントロールし得る危険な(悪用されやすい)言説にもなり得る。
 前世の因業のせいにして今生をあきらめるのも、来世に望みを託して今生を投げやりに生きるのも、とうてい前向きな姿勢とは言えまい。 
 そもそも、来世で「どこに、何に」生まれ変わろうが、記憶がつながっていないかぎり、そこに生まれた「自分」は今生の「自分」とは関係ないのだから、考えても意味がない。
 与えられた生を一回こっきりのものとして、与えられた場で生きるほうが充実感は高かろう。(本書によると、餓鬼道すなわち霊界と地獄においては前世の記憶があるらしい)
 要は、今をしっかりと慈悲と智慧をもって生きることだ。
 業システムや生まれ変わりが本当にあるのならば、そのように生きることで来世の幸福は保証されるし、それらが実在しないとしても少なくとも今生において、「自分は何にも恥じない生き方をしている」と自信をもって明るく生きられる。
 生まれ変わりや業はあってもなくても関係ない。
 こういう考え方を仏教では「アパンナカ(無戯論)」と言っている。

 思うに、輪廻という概念において重要なのは、前世とか来世とか六道廻りとかソウルメイトといったことよりも、輪廻とは変化の謂いであり、諸行無常の様態を表しているという理解であろう。

 仏教が言う「生まれ変わり」とは、「この身体に生まれる最後の瞬間が終わったら、すぐ次に、なんの隙間もなく、同じ感覚で、次の心が生まれる。今も隙間なく心が生滅変化しているのだから、そのときも隙間なく、死んだ。そして次に、生まれた」ということです。

 本当は、死は、いつでもあるものです。いつでも、死ななければ新しいものは生まれないのです。我々が勉強したら、新しい知識が生まれるでしょう。それには、前の心が死ななければ、生まれるわけはないのです。身体が死ななければ、いくら運動しても健康にはならないのです。弱い身体の人が運動すると、その弱い身体がじわじわと死んでいって、強い身体が生まれてくるのです。だから、死ななければ、何も成り立ちません。「瞬間の死」ということが、一番大事なことなのです。
(本書より抜粋)

 瞬間瞬間、我々の心も、身体も、この世界も、生まれては死んでいる。死んでは生まれている。
 コンピュータのように、0(OFF)と1(ON)とを繰り返している。
 それがあまりにも速いので、そして我々は0(OFF)を認識することができないので、連続しているように(常にONばかり)見えるだけなのである。
 諸行無常とは、「桜の花はすぐに散って儚いねえ~」とか「驕る平家は久しからず」といった“もののあはれ”風な感慨とは別物である。

 いったいにONとOFFを繰り返す以外に、物が変化していく方法があるだろうか?
 たとえば、アジサイの花の色の変化をじっと観察する。
 人間の視覚の分解能は1秒の1000分の50~100程度と言われるので、この時間よりも短い変化を認識することはできない。
 思考実験してみる。
 もし視覚の分解能に限りがなくて、どこまでも微分して観察してゆくことができたなら、アジサイの色の変化の瞬間をとらえることができるだろうか?
 最終的にはOFFの瞬間がなければ変化は成り立たないと得心できるはずだ。

IMG_20210706_235810





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文