ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『ブッダの瞑想修行』(石川勇一著)

2023年サンガ新社

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 「ミャンマーとタイでブッダ直系の出家修行をした心理学者の心の軌跡」という副題そのままの本である。
 あえて補足するなら、ミャンマーとタイは、中国を通じて日本に伝わった北伝仏教(いわゆる大乗仏教)ではなく、スリランカを通じて東南アジアに伝わった南伝仏教(かつて小乗仏教と卑称された)の国であり、そこでは約2500年前に説かれたブッダの教えが、サンガ――律(規則)を持った出家者の集団――というシステムによって現代まで脈々と伝えられてきた。
 「ブッダ直系の出家修行」とはそのサンガの一員になるということである。

 著者の石川勇一は1971年生まれ。
 修験道やアマゾンでのシャーマニズムの行者体験を持ち、臨床心理を実践するカウンセラーであり、心理学を教える大学教授であり、山中湖の近くに法喜楽堂という修行道場を主宰するスピリチュアルティーチャー(導師)である。
 肩書は賑やかなれど、石川にとって最も重要なアイデンティティを一言でくくれば、原始仏教徒ということになるだろう。
 本書は、原始仏教徒である在家の男が、テーラワーダ仏教の本場の国に渡航しておこなった短期間の出家体験を記したものである。
 2014年1~3月ミャンマーの「パオ森林僧院モービ支部シュエティッサ僧院」、および2020年1~3月タイの「プラプットバートタモ寺院」がその舞台である。

 昨今、日本でもテーラワーダ仏教を学ぶ人が増えているので、タイやミャンマーやスリランカといったテーラワーダ仏教国における日本人の出家体験記も珍しくなくなった。
 たとえば、ミャンマーで出家し17年間の比丘生活を送った西澤卓美(出家名ウ・コーサッラ)による『仏教先進国 ミャンマーのマインドフルネス』(2014年、サンガ)など、読みやすく面白かった。
 が、前世紀までこの手の本は稀少だった。
 もはや古典的地位を占めているものとして、人類学を学ぶ大学院生だった青木保が約6ヶ月の出家体験を綴った『タイの僧院にて』(1979年)がある。
 ソルティは、テーラワーダ仏教に出会う前の2000年頃にこれを読んだ。
 そこには、日本の仏教とも、お寺とも、坊さんとも全然違う、タイの仏教があり、寺院があり、出家者の姿があった。
 加えて、初詣かお葬式か法事の時しかお寺に行かず、普段はお坊さんと密なかかわりを持たなくなった多くの日本人とはまったく違う、タイの在家信者の姿があった。 
 同じ仏教国でも日本とタイではずいぶん違うんだなあと興味深く読んだ。

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読み直したい一冊

 一方、当時はオウム真理教地下鉄サリン事件(1995年)の影響甚大で、社会全般に宗教に対する忌避感がとても強かった。
 ソルティも、宗教とは「迷信深く、何かに依存しないと自らを保てない人の阿片」という、いささか“偏った”イメージを抱いていて、無神論者・無宗教者を軽い優越感をもって自認していた。
 なので、『タイの僧院にて』を読んでも、文化人類学的あるいは比較文化論的あるいは旅行ガイドブック的な興味以上のものは持てなかった。
 そもそも著者の青木もまた、「テーラワーダ仏教に感銘を受けそれを深く学ぶため」に、あるいは「瞑想修行して煩悩を減らすため」にタイ行きを決心したわけではなく、文化人類学者(の卵)としての異文化への興味、及び、モラトリアムにぐずっていた自身を「冒険によって再生」させることを期しての出家修行だったので、そこに仏教の真髄に触れるような記述は少なかったように記憶する。
 結果的には、タイでの出家修行は青木青年に通過儀礼とおぼしき深甚な変容をもたらすことになり、そこに読者は爽やかな感動を覚える。
 つまり、『タイの僧院にて』の面白さは、文化人類学レポート+ビルディングスロマン(教養青春小説)ってところにあった。(青木保氏がその後仏教徒になったかどうかは不明)

 それに対して、石川勇一の出家の目的はまさに、「仏教を深く学び瞑想修行によって煩悩を減らす」ことにあり、本書の記述内容はその一点に向かって絞られ、構成されている。
 石川自身のスピリチュアル修行遍歴、テーラワーダ仏教との出会い、ミャンマーやタイで出家修行しようと思った動機といったセルフヒストリーはもちろんのこと、渡航までの具体的な手続きや準備、各僧院での出家儀式やサンガの日常風景、修行仲間の僧たちの横顔、そして何より、各種の瞑想方法に関する知見や洞察、自身の修行の進展や成果が、非常に細やかにわかりやすく、「ブッダに握拳なし」の言葉通りに率直に書かれている。
 さらに、臨床心理学やトランスパーソナル心理学の専門家ならではの夢分析や自己分析も本書の魅力の一つとなっている。
 巻末に付けられている「ブッダの教えを理解するための基本用語解説」も、きわめて適確な内容で、読者が仏教をより深く理解するのに役立つとともに、瞑想修行で石川が確かめた智慧や至った境地がいかなるものであったかを反映するものとなっている。
 テーラワーダ国での出家を考えている読者にとっても、普段“ブッダの瞑想”を実践する者にとっても、恰好のガイダンスとなるのは間違いない。

 それにしても、『タイの僧院にて』は79年に出版された本だが、どうやら半世紀近く経っても、タイのお寺の様子、サンガの日常、出家者に対する在家者の敬愛の念はほとんど変わっていないようだ。
 この伝統の堅持ゆえに、約2500年前のダンマ(ブッダの教え)が継承されてきたのである。
 すべてが無常の世にあって、珍しく、かつ、貴いことである。

 以下、引用。

 修行者は、欲望を満たすことによる喜びとは異なる、欲望から自由になったことによる清らかな喜びを知るがゆえに、修行を続けることができるのです。ただ苦しいだけならば、ほとんどだれも修行を続けることはできないでしょう。修行には確かに忍耐は必要ですが、優れた清らかな喜びがあることを知れば、さらにやる気が出てくるものです。

 人間として体験できることの中で、出家修行は最上だろうと思います。それは解脱につながる出世間の正しい修行だからです。世間のいかなる体験も、出世間の体験には及びません。

 人生は無意味なことでとても忙しいので、修行をしない理由を見つけることは簡単です。しかし、言い訳ばかりをして生きるほど虚しいことはありません。本当に意味あることを見つけたら、あとはやろうと心に決断すれば、きっと機会は得られるでしょう。

 サードゥ、サードゥ、サードゥ。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 映画:『記憶にございません!』(三谷幸喜監督)

2019年
127分

記憶にございません
 
 三谷幸喜が天才であることは、最初期の仕事である『やっぱり猫が好き』(フジテレビ、1988-1990)をリアルタイムで観ていて察知した。
 「ああ、日本にこれまでにないタイプのコメディ作家が出てきた」と思った。
 落語風でもドリフ風でも吉本新喜劇風でもない、どちらかと言えば『奥さまは魔女』に近い欧米風にソフィストケートされたお笑いである。

 その後約20年、ソルティは“テレビ&映画離れ”してしまったので、三谷の名を一躍高めた田村正和主演『古畑任三郎』シリーズも、NHK大河ドラマ『新選組!』や『真田丸』も、大ヒットした映画『THE 有頂天ホテル』(2006)や『ザ・マジックアワー』(2008)も観なかった。
 このブログを書くようになってやっと、フジテレビ制作のドラマ『オリエント急行殺人事件』や映画『12人の優しい日本人』(中原俊監督)をDVDレンタルし、また、2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をリアルタイムで観て、三谷の昔と変わらぬコメディセンスの冴えと役者使いの上手さを確認した。
 これからおいおい過去作をさらっていきたい。

 本作もまた役者使いの上手さが際立つ。
 主演の総理大臣役の中井貴一を取り囲む、秘書役のディーン・フジオカと小池栄子、妻役の石田ゆり子、官邸料理人の斉藤由貴、刑事転じてSP役の田中圭、黒幕官房長官役の草刈正雄、すさんだフリーライター役の佐藤浩市、けばいニュースキャスター役の有働由美子など、それぞれのタレントの新たな魅力を引き出し、見せ所をきちんと作ってあげるあたりが、役者たちが発奮し、三谷の次作にも出たいと思う理由であろう。
 自然と常連化し、チームワークも良くなる。
 撮影現場の雰囲気の良さは画面やスクリーンを通して視聴者に伝わるので、とくにコメディドラマではチームワークは重要である。
 小池栄子と斉藤由貴と有働由美子のコメディエンヌの才には瞠目させられた。

 野党からの追及に対し「記憶にございません!」を連発する悪徳総理大臣が、演説中に頭に石をぶつけられて記憶喪失になるというアイデア、それがきっかけとなって誠実な男に生まれ変わるというプロットも面白い。
 ほどほどに日本の政治や政治家に対する風刺も効いているし、なにより漫画的なご都合主義がかえって楽しい。
 政治ドラマをリアリティもって扱うと、どうしても話が暗く毒々しくなるので、このくらいの「ありえねえ~」塩梅がコメディにはちょうどいい。
 ポテチでもつまみながら気楽な気持ちで観て笑える作品である。 

 しかるに、「ありえねえ~」のおふざけ演出が、公開数年後、シリアスになってしまった。
 2022年7月12日の安倍元首相暗殺事件、2023年4月15日岸田首相襲撃事件である。
 両事件の犯人がこの映画を見て犯行を思いついたとはよもや思わないが、2022年7月以降の公開だったら、この映画はお蔵入りになっていたかもしれない。

 この映画のように、あのとき安倍さんに当たったのが小石で、それをきっかけに安部さんが誠実な政治家に生まれ変わっていたのであれば良かったのに・・・。

 

 
おすすめ度 :★★

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● 本:『聖なる女 斎宮・女神・中将姫』(田中貴子著)

1996年人文書院

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 著者の田中は1960年京都生まれの国文学者。
 中世の説話と女性の問題などを研究している。

 本書は一種の「聖女論」である。
 日本史や古典物語に登場する日本の聖女たち――中将姫、伊勢神宮の斎宮、京都賀茂神社の斎院、天皇の娘である内親王――の半生やその語られ方の変容を通して、日本における「聖女」の意味を問うたものである。
 田中はまた『〈悪女〉論』も書いているようだ。

 中将姫についてはよく知らん。
 ――と思っていたら、実は子供のころからよく見かけていた。
 バスクリンで有名な津村順天堂のロゴマークが中将姫だったのだ。

津村のロゴマーク

 明治26年(1893)、弱冠23歳の津村重舎は婦人薬「中将湯」の製造販売で、津村順天堂を創業しました。中将湯は、藤原豊成(藤原鎌足の孫)の子「中将姫」が、仏の道に仕えた奈良の当麻寺で学んだ薬草の知識を基に、庶民に施したことが由来とされ、創業当時から巻物を持つ「中将姫」が商標登録されています。大正時代後半からは、挿絵界を席巻した人気画家高畠華宵を中将湯の広告に起用しました。華宵の描いた「中将姫」は時代の移り変わりとともに姿を変えましたが、それぞれの時代の理想の美人像として長年にわたり親しまれてきました。昭和63年(1988)社名を株式会社ツムラに変更し、ロゴマークも変更しましたが、「中将姫」は今も中将湯のパッケージから人々の健康を見守っています。
(『日本家庭薬協会のホームページより』)

 歴史物語上の中将姫は、しかし、薬草学とは別の意味で有名だった。
 「継子いじめ」である。

 幼少より信心深かった中将姫は、父である藤原豊成が新たに迎えた北の方(継母)にいじめられ、山中に捨てられる。が、臣下に助けられて生き延びる。長じてその美しさが知れ渡り、后として入内するよう求められるも、信仰の心やみがたく、16歳にして奈良の當麻寺(たいまでら)にて出家する。

 昔から「継子いじめ」と言えば中将姫で、説話や歌舞伎にもなっているらしいが、ソルティはとんと知らなかった。
 ソルティにとって「継子いじめ」と言えば、シンデレラや白雪姫や『ヘンゼルとグレーテル』などの西洋童話である。
 日本なら、高校の古文で習った『落窪物語』と三浦綾子の『氷点』くらいであろうか。
 當麻寺には、中将姫が一夜で織ったという4メートル四方の曼荼羅がある。
 極楽浄土の教えが壮麗に描かれているという。(基本非公開)
 中将姫は、后の位を断り仏門に入ることで、“聖なる女”をまっとうしたのである。

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 伊勢の斎宮や賀茂の斎院は、代々、未婚の天皇の娘すなわち処女の内親王が選ばれることになっていた。
 斎宮の逸話で有名なのは、『源氏物語』の六条御息所の娘(のちの秋好中宮)、そして鎌倉時代初期に描かれた王朝ポルノ絵巻『小柴垣草紙』であろう。
 もっとも、前者は物語中の架空の斎宮であるし、後者は斎宮になる前に行う野々宮(京都嵯峨野)での潔斎中に、武士の平致光と密通してしまい任を解かれるので、伊勢には下らなかった。
 『小柴垣草紙』のヒロインは醍醐天皇の孫にあたる済子(なりこ)内親王であったと言われるが、ほかにも、伊勢の斎宮になったあとでも男との密通がばれて解任されるケースはあったらしい。
 聖なる女として人々から崇められた女性が、一転、男に穢され、性愛の淵を惑い、俗に転落したときの世間の好奇と非難の目はどれだけ厳しかったことか。(しかし、男とまぐわうこと=「穢れ」なら、男自体が「穢れのもと」ってことにならないか?)

伊勢神宮内宮
伊勢神宮内宮

 秋篠宮家の真子様の例を持ち出すまでもないが、昔から皇族の娘の身の振り方には難しいものがあった。
 身分の釣り合う男は同じ皇族しかいないのだから、適当な相手がいなければ、臣下に嫁ぐか、生涯未婚のままでいるほかなかった。
 斎宮や斎院として選ばれたところで、御代が変われば任は解かれる。
 “聖なる女”としての箔がついただけに、その後の身の振り方は難しいものとなる。
 本書には、平安末期から鎌倉時代に書かれた『鎌倉物語』に登場する内親王たちが、男女関係の中で翻弄される姿が紹介されている。
 「聖」をずっと保ち続けるには、中将姫のように出家するほかなかったのである。

 それにしても、洋の東西問わず、聖人にしても聖女にしても、異性との交わりのないことが求められる。
 「聖」の意味を探ることは、「性」の意味を探ることと等しいのだと思う。





おすすめ度 :★★★

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● クイーン的問題? 本:『ダブル・ダブル』(エラリー・クイーン著)

1950年原著刊行
2022年ハヤカワ・ミステリー文庫(訳・越前敏弥)

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 クイーン後期のライツヴィル物。
 童謡『マザーグース』の次の歌詞になぞらえて人が死んでいく、いわゆる見立て殺人物である。

Richman, poor man,
金持ち、貧乏、
Beggarman, thief,
乞食、泥棒、
Doctor, lawyer,
医者、弁護士、
Merchant, chief.
商人、首長。

 趣向は面白い。
 が、犯人がそもそも見立て殺人を行った動機があまりにナンセンス。
 歌詞の途中に出てくるある職業の男を怖がらせて遺言書を書かせるためというのだから。
 しかも、蓋を開けてみれば、殺された男が残した遺言書には犯人の名が挙げられていなかったのだから、とんだ無駄骨。
 というか、こんな不確実な動機で世話になった恩人を殺す犯人像のリアリティの欠如が受け入れ難い。
 結末の意外性もなく、奇抜なトリックや殺人方法があるわけでもなく、探偵(エラリー)の推理が目覚ましいこともない。
 エラリー・クイーン作でなければ生き残ることのない駄作である。

 せめてもの美点は、ヒロインであるリーマおよびレコード新聞社の女社長マルヴィナ・プレンティスの人物造型。
 狼少女のごと現代社会から隔絶した環境で育てられたリーマの無垢と野生的魅力が、奇抜なファッションに身を包み蓮舫か田中真紀子のごとく傲岸に振る舞うマルヴィナの強烈な個性と競い合って、作品の魅力をなしている。

 それにしても、なぜ独身のエラリーはリーマに魅かれているのに口説かないのだろう?
 親子ほどの年齢の差があるとはいえ、リーマは成人しているのだから問題あるまいに。
 やっぱり、エラリーはクイーン(米俗語で「同性愛者」)だったのかな?




 
おすすめ度 :

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● スペクタクル、神護寺展!!(東京国立博物館)

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 今年3月中旬、京都栂尾にある神護寺に行った。
 唐で密教の奥義を究めた空海が、京に戻って最初に滞在したのがこの寺であり、最澄を筆頭とする当時の日本の高僧たちに密教を伝えんと活動を始めたのもここである。
 いわば、真言密教誕生の地。
 そうした歴史・宗教的価値のみならず、栂尾は京都でも屈指の紅葉の名所であり、仏教美術の宝庫でもある。
 神護寺には、日本彫刻史上の最高傑作と評される薬師如来立像や日本最古の五大虚空蔵菩薩坐像、空海が筆を入れたと伝えられる我が国最初の巨大な両界曼荼羅、歴史の教科書でお馴染みの源頼朝の等身大肖像画などがある。
 むろん、すべて国宝。

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神護寺境内

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毘沙門堂と五大堂

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大師堂

 ソルティが訪れたときは、本堂にある薬師如来像は拝むことができたが、五大虚空蔵菩薩像には会えなかった。
 ご開帳の期間が限られている準秘仏なのだ。
 ご開帳に合わせて京都に来るのはなかなか難しいなあと思っていたら、本堂に貼ってあったポスターで、7月から東京国立博物館(以下トーハク)にて神護寺展が開催されるのを知った。
 薬師如来像が上野に来るのは間違いないが、五大虚空蔵菩薩像については情報がなかった。
 その後、時々トーハクのホームページを開いて最新情報を追っていたら・・・
 やったー‼
 五大虚空菩薩像も上野に来る!
 念じれば通ず。 

 トーハクの優秀なキュレーターの素晴らしい演出と照明設計のもと、薬師如来をもっと近くからもっとじっくり鑑賞したい、五大虚空蔵菩薩を穴の開くまで見つめたい。
 音声ガイダンス付きのチケットを買って、この日が来るのを楽しみにしていた。

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東京国立博物館・平成館
平日の午後、人は多かったが、ゆっくり鑑賞できた

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入口には神護寺貫主の谷内弘照氏による題字

 板に彫られた弘法大師像に迎えられて展示はスタート。
 金色に輝く五鈷鈴や五鈷杵などの密教法具、空海直筆のお経やライバル最澄の名が書かれた勧請歴名、神護寺とゆかりの深い文覚上人、源頼朝、後白河法皇の肖像画や書状など、神護寺の由緒正しさと歴史の深さを感じさせるものがずらり。

 文覚と言えば市川猿之助である。
 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、調子がよくて胡散臭い文覚を見事に演じ、芸達者なところを見せていたが、その後の親子心中事件は周知のとおり。
 おかげで文覚のイメージがずいぶん悪くなった。
 しかし、文覚は鎌倉時代初期に荒れ果てていた神護寺の惨状を見て一念発起し、後白河法皇や源頼朝に援助を求め、散逸していた寺宝を取り戻すなど、神護寺復興のために奔走したのであった。
 本展のおかげで、文覚のイメージが向上した。

 ソルティ的には、本展の目玉は二つ。
 一つ目が両界曼荼羅。
 密教の世界観を図像化したもので、悟りへの道を表す金剛界曼荼羅と仏の慈悲を表す胎蔵界曼荼羅の二面から成る。
 これを最初に日本に紹介し、日本で制作したのが空海であり、神護寺なのである。

 舞台の緞帳のごとく垂れ下がった4メートル四方の巨大な布に、金銀で緻密に象られた大小無数の仏たちが、万華鏡の幾何学性をもって居並ぶさまは壮観である。
 前期展示では、空海が実際に関わったと伝えられる平安初期の曼荼羅のうち、胎蔵界が展示されていた。
 最近修復作業を終えたばかりと聞くが、残念ながら全面ほぼ煤けたように真っ黒で、よく目を凝らさないと仏たちの姿が見えてこない。(映像コーナーで細部を観ることができる)
 むしろ、讃嘆すべきは同じ展示室に飾られていた江戸時代の原寸大の摸本。
 光格天皇(1771-1840)の発願によって製作されたもので、金剛界と胎蔵界の両面が並んでいた。
 見た瞬間言葉を失うほどの燦燦たるオーラを放っていて、多くの観客の足を引き止めていた。
 さらに別の部屋には、やはり江戸時代の高橋逸斎という画家によって描かれた両界曼荼羅がある。
 これは京都知恩院所蔵とあった。
 細密画の極北と言っていい神業に驚嘆した。
 双眼鏡、必携!

 二つ目の目玉はもちろん仏像。
 展示されているのは最後の部屋で、ここまでで目も足もずいぶん疲れていた。
 が、五大虚空蔵菩薩が目に入った瞬間、疲れが吹っ飛んだ。

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 五大(五体)はそれぞれ、次の名称、方位、色を表す。左から、
  金剛虚空蔵(東、黄色)
  業用虚空蔵(北、黒紫色)
  法界虚空蔵(中央、白色)
  蓮華虚空蔵(西、赤色)
  宝光虚空蔵(南、青色)

 丈高90センチほどの五体のヒノキの仏像たちが、目線の高さで、それぞれの表す方位のとおりに円陣を組んでいる。
 鑑賞者はその周囲をぐるぐると巡りながら、たっぷりと鑑賞し拝むことができる。
 トーハクのキュレーターの手腕が光る。
 ひとつひとつ異なる仏たちのお顔立ちの言わんかたない素晴らしさ。
 慈悲と智慧と神秘との結合である。
 ソルティの心眼には、中央に座す“赤ちゃん”法界虚空蔵を、父親(業用)、母親(蓮華)、兄貴(金剛)、姉貴(宝光)が護っているという、うるわしき5人家族のイメージが浮かんだ。
 ソルティの“推し”は法界虚空蔵。

 お次は、神護寺の楼門に立つ二天王像(持国天・増長天)。
 ここだけ撮影自由で嬉しかった。

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左から増長天、持国天

 最後の大部屋に足を踏み入れるや、圧倒的迫力で空間を支配し、近寄りがたい眼光をもって鑑賞者の胸を射抜く者あり。
 神護寺本尊の薬師如来像。
 日光・月光菩薩を左右に従え、重々しく貫禄たっぷりのお姿はまさに本展の主役。
 像高170.6センチ、1200年の時で燻されたカヤの枯淡の風合いと、丸みを帯びた体や衣装のラインが美しい。
 金堂の厨子から解き放たれ、その大きさが実感される。

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 この仏像の特徴は何と言ってもその厳めしいお顔立ち。
 悟りを達成した如来らしからぬ、厳しさと苛立ちが窺われる。
 まるで実在した人物をモデルにしたかのような写実性、人間っぽさ。(横顔はとくに個性的)
 神護寺金堂のしんとした暗がりで見上げた時は、心の底を見透かされ、これまで犯した数々の過ちを諫められたような気がした。
 が、今回は違った。
 まったく怒っていない。
 むしろ、楽しんでいる。
 酷暑の中、おのれを観にトーハクにやって来た“物好き”な見物人たちを、半ば可笑しがって、半ば喜んでいるように見受けられた。
 なんという違いだろう!
 お寺の中での拝観と、博物館での鑑賞との差によるものなのか?
 光線や見る角度の違いか?
 仏像を観賞用に寺から運び出すときは魂抜きをすると聞いたことがあるが、そのせいなのか?
 それとも、ソルティがこの像に会うのが2度目だからなのか?
 理由は分からないが、間違いなくこれもまた、如来らしい表情だったのだと気づかされた。

 薬師如来三像の背後には、薬師如来を守護する十二神将がずらりと立ち並んでいた。
 甲冑を着けた武将姿の十二神は、それぞれ個性的な表情やポーズ、持物などで彫り分けられ、十二という数にちなんで、頭の上に十二支それぞれの動物を乗っけている。
 宮毘羅大将(くびらたいしょう)は子(ねずみ)、跋折羅大将(ばざらたいしょう)は丑(うし)というように。
 厳めしい武将と可愛い動物のミスマッチがなんとも楽しい。
 ここの演出も素晴らしく、強い光線を像の下から当て、像たちの巨大な、踊るような影が背後の壁に投射され、目覚ましい効果を生んでいた。
 キュレーター、GOOD JOB !

 音声ガイドには歌手のさだまさしが出演していた。
 奈良を舞台にした『まほろば』や万葉集を題材にした『防人の歌』など、ダスキンと古典文学に詳しい人とは知っていたが、神社仏閣や仏像にも造詣の深い人なのだった。

 この夏一番のスペクタクル。
 会期中にもう一度訪れたい。

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源頼朝の肖像

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神護寺のある高雄山中
ここから土で作ったかわらけを投げる風習がある














 

 
 

 

● ロック・ハドソン、「男」を演ず 映画:『風と共に散る』(ダグラス・サーク監督)

1956年アメリカ
100分

風と共に散る

 原題は Written on the Wind  
 50年代ハリウッドの香り漂う、上質のメロドラマである。

 とにかく主役のロック・ハドソンとローレン・バコールの美男美女ぶりにため息が漏れる。
 なんと似合いのカップルか! 
 この二人が芝居の上だけでなく実生活でも付き合って、結婚して、子供を作ったら、どんなに美しいスターチャイルドが生まれたことかと思うが、人の世は皮肉かつ喜劇である。
 ロック・ハドソンは1985年にエイズを発症した際、ゲイであることをカミングアウトし、全米に衝撃を与えた。
 彼こそは、アメリカンマッチョ社会の理想的ダチ、理想的カレシ、理想的父親を演じ続け、実像もそのようなものと世間に思われていたからだ。
 邦画界に置き換えて言えば、高倉健や渡哲也が「ゲイでオネエだった」というような感じだろうか。

 本作でのローレン・バコールやドロシー・マローンを始め、エリザベス・テーラー、ドリス・デイ、ジーナ・ロブリジーダ、クラウディア・カルディナーレなど世界に名だたる美人女優たちと共演を重ね、ラブシーンを演じたが、本人はまったく“その気”にならず、恋愛に発展する可能性もなかったのだから、世の(ヘテロの)男たちにしてみれば「もったいない」ことこの上ないし、世の(ヘテロの)女性たちにしてみれば「なんとなく騙された」気にもなろう。
 共演女優にしてみれば、これ以上ない安心できるパートナーだったわけだが。 

 ある意味、ロック・ハドソンは二重に演じていたのである。
 つまり、スクリーンで男らしく格好いいいキャラクターを演じると同時に、ファンを含む対マスコミ的にはノンケ(ヘテロ)の男を演じていた。(ただ、役者仲間の間では彼の同性愛は公然の秘密だったという) 

 そうした事実が明らかになった現在、ロック・ハドソンの芝居を見ると、いろいろなことが思い浮かぶ。
 昨今では日本でも、『おっさんずラブ』の林遣都や『エゴイスト』の鈴木亮平のように、ノンケの男優がゲイの役を演じることは珍しくなくなった。
 が、リアリティもって演じるのはなかなか難しいようである。
 吉田修一原作、李相日監督の『怒り』(2016年)では、ゲイのカップルを演じた妻夫木聡と綾野剛が、役作りのために撮影期間を通じて同棲したというエピソードもあるほどだ。
 男が男を愛する――自らの感性では容易には理解しがたい感情だろうし、ヘテロ社会にゲイというマイノリティとして生きる気持ちも想像しがたいだろうし、典型的なゲイ像というものがないので、どう演じたらいいのか悩むと思う。(「ゲイ=女装姿のオネエ」という典型的イメージは過去のものになりつつある)

 翻ってみれば、ロック・ハドソンにしろ、モンゴメリー・クリフトにしろ、アレック・ギネスにしろ、ジャン・マレーにしろ、ダーク・ボガードにしろ、ゲイでありながらノンケの男の役を当たり前に演じ、その演技を絶賛されてきた。
 それは、幸か不幸か、少年時代に自らが周囲の男子と違うことに気づき、それがばれないよう、周囲の男を観察し、模倣し、対人場面で「男」を演じ続けてきたことの長年の努力と経験の賜物だったろう。
 ノンケの俳優がたまたまゲイの役を与えられて、「それでは2丁目にでも行って勉強してみるか」と役作りに励むような“付け焼刃”ではないのである。
 言ってみれば、演じることが第二の天性になっているわけで、昔からゲイの役者に名優が多いのも当然と思う。

 本作の冒頭、ロック・ハドソン演じるミッチが、ローレン・バコール演じるルーシーに、仕事現場ではじめて出会うシーンがある。
 ミッチがドアを開けて部屋にはいると、ポスターを貼った衝立が視界を遮るように並んでいて、ルーシーの姿はすぐには見えない。
 見えるのは衝立の下の空きスペースからのぞくルーシーの両足である。
 カメラはローレン・バコールの素晴らしく美しい足をここぞとばかり映し出す。
 演出の狙いは明らかで、ミッチがルーシーの足に強烈なセックスアピールを感じ、恋愛の始まりを予感するところにある。
 映画を観る者もまた、監督の狙いどおりに二人の恋愛の始まりを予感する。 
 しかるに、実際には、ゲイのロック・ハドソンはバコールの足を見てもなんら性欲をそそられることなく、普通に「足」としか思わなかったろう。せいぜいが、「素敵なハイヒールだなあ」くらいにしか思わなかったろう。
 もちろん、ロック・ハドソンは演出をちゃんと理解し、「おっ、なんていい足なんだ。そそられるぜ!」という表情をしてみせる。
 そうした演出と実際のギャップを思うと、興味深い。

 共演のロバート・スタックのコンプレックスに苛まれた若社長の演技、ドロシー・マローンの我がままで放埓な社長令嬢の演技も見物である。
 ダグラス・サークの演出は粋で、テンポがよく、小気味いい。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● 映画:『ナイル殺人事件』(ケネス・ブラナー監督)

2022年アメリカ、イギリス
127分

 ケネス・ブラナー監督&主演による『オリエント急行殺人事件』(2017)は良かった。
 同じアガサ・クリスティ原作で、エジプトが舞台で映像ばえする『ナイル殺人事件』に期待が高まるのも当然である。
 多くの鑑賞者同様、ソルティもまた、筋書きも犯人もトリックも知っているので、見どころは疑似エジプト旅行を味あわせてくれる豪華な映像と、スター俳優たちの競演という点にある。

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Peace,love,happinessによるPixabayからの画像

 映像はまったく素晴らしい。
 ナイル川の広々とした悠久の風景、ピラミッドやアブシンベル神殿など神秘的な古代エジプト遺跡、金持ち御用達の豪華客船、美しい衣装やアクセサリー、スタイル抜群の美男美女。
 一気に物語の世界に運んでくれる。

 役者もそれぞれ好演なのだが、残念なことに出演俳優の中でソルティが見知っているのは、ケネス・ブラナーただ一人だった。
 これは、ソルティが最近の映画を観ていないのと、記憶力が減退しているので役者の顔を一度で覚えられないのが大きな理由だろう。
 調べてみたら、サイモン・ドイル役のアーミー・ハマーはルカ・グァダニーノ監督のBL映画『君の名前で僕を呼んで』の恋人役を演じているし、ポワロの親友ブーク役のトム・ベイトマンは『オリエント急行』に続く出演だし、ブークの母親役のアネット・ベニングはサム・メンデス監督『アメリカン・ビューティ』で英国アカデミー主演女優賞を受賞している名優であった。
 観る人が観れば、今を時めく豪華スター総出演なのかもしれない。
 それでもやはり、1978年版『ナイル殺人事件』の出演陣――ピーター・ユスティノフ、ジェーン・バーキン、ベティ・デイヴィス、ミア・ファロー、ジョン・フィンチ、オリヴィア・ハッセー、ジョージ・ケネディ、アンジェラ・ランズベリー、マギー・スミスほか――に比べると、小物感が漂い、見劣りする感がある。
 そんな中でも、サロメ・オッタボーンを演じるソフィー・オコネドーという黒人女優が、素晴らしい歌声と酸いも甘いも知る成熟した女性の魅力を醸していて、印象に残る。
 原作ではサロメ・オッタボーンは、ハーレクイン小説まがいの性愛小説を書き散らすアルコール中毒の作家だった(アンジェラ・ランズベリー演ず)が、ここではポワロが好意を抱く人気ブルース歌手に変えられている。

 前作『オリエント急行』でもそうであったが、本作においてもエルキュール・ポワロという人物像の掘り下げが見られる。
 ベルギー人ポワロは、どんな過去を持ち、どんな恋愛をしてきたのか?
 なぜ生涯結婚しなかったのか?
 なぜ髭を生やすことにしたのか?
 クリスティが書かなかった人物背景が創作されている。
 現代という時代は、「名探偵」という肩書一つでドラマが作れる、視聴者が満足する時代ではなくなったのである。
 
 さらに現代性という点で言えば、1978年版の主要登場人物が全員白人だったのにくらべ、2022年版の人種の多様性は驚くべきものである。
 ハリウッド映画界のダイバーシティ(多様性)尊重のあらわれだろう。
 それに反対するつもりは毛頭ないが、有産階級のリネット・リッジウェイの幼馴染や従兄弟が黒人であったり、白人男性が黒人女性を結婚相手に選ぶなど、物語の時代背景(1930年代)を無視した設定にはさすがに不自然を感じる。
 史実は史実である。
 史実を曲げる形での原作変更は好ましいとは思えない。
 そんなことしたら、「きびしい差別があった」という事実さえ、観る者は学べなくなってしまう。




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『唐牛伝 敗者の戦後漂流』(佐野眞一著)

2016年小学館より刊行
2018年文庫化

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 唐牛とは中国産の闘牛のことである。
 愛媛宇和島名物の闘牛大会では、世界中からやって来る並みいる猛牛どもを一突きのもとに打ち倒し、最多優勝回数を誇っている。
 ――というのは冗談で、60年安保闘争の立役者として名を広めた唐牛健太郎(かろうじけんたろう)のことである。
 
 恥ずかしながら、ソルティはこの男を知らなかった。
 安保闘争と聞いて名前の上がる学生闘士と言えば、60年安保ならデモ中に亡くなった樺美智子、70年安保なら全共闘議長でその後予備校の講師となった山本義隆がせいぜい。
 とくに、東大安田講堂陥落や連合赤軍あさま山荘事件といった、メディアにたびたび取り上げられヴィジュアル的に映える大事件を有する70年安保に比べれば、60年安保は地味な印象があった。

 60年安保の主役が唐牛であり、ブント全学連だったのに対し、70年安保の主役は北小路であり、中核派や革マル派に指導された全共闘だった。こうした変化に伴い、理論的支柱も変わった。
 60年安保のオピニオンリーダーは清水幾太郎であり、丸山眞男だった。これに対して70年安保の理論的支柱は、俗受けする『都市の論理』などのベストセラー本を書いた羽仁五郎に変わった。

 去る6月3日に放映されたNHKドキュメンタリー『映像の世紀 バタフライエフェクト』で60年安保闘争が取り上げられているのを見て、はじめて唐牛健太郎という人物を知った。
 唐牛は当時北海道大学の学生で、安保反対に立ち上がった全国の学生を束ねる全学連(全日本学生自治会総連合)の委員長だった。
 石原裕次郎ばりの長身のイケメンで、国会前のデモでは警察の装甲車に飛び乗って演説をぶちかまし、その後警官隊にダイブするなど行動力抜群の頼れるリーダーであった。
 たしかにカッコいい。
 がしかし、ソルティがこの男に興味を抱いたのは、安保闘争当時の唐牛の勇姿を映した白黒のニュース映像を見たからではなく、その10年後にNHKが北海道紋別のトド撃ち名人のドキュメンタリーを制作したときに、たまたま乗組員の一人として登場することになった漁師姿の30代の唐牛のカラー映像を見たからである。

 20代で革命の闘士として全国的に名を馳せた英雄が、闘争に敗れて漂流し、30代には最果ての北の海でトドやアザラシを撃っている。
 しかも、唐牛は一番下っ端の乗組員で、漁師たちの食事の賄いや甲板の掃除など雑用を引き受けている。
 と書くと、都落ちしたかつてのヒーローの零落とか失意の人生とか想像してしまうところだが、船上でインタビューされている唐牛は、姿かたちこそすっかり中年オヤジと化しているが――70年代の30歳は令和現在の50歳くらいの見当だろうか――その表情はあくまで人懐っこく純粋で、自己卑下したところも、世を恨んで拗ねたようなところも、見栄を張って強がっているところも、連合赤軍の残党のように一発逆転を狙って虎視眈々と闘志を燃やしているようなところも、おそらく久しぶりのマスコミの取材に緊張しているところもなく、およそ自然体で、笑顔が可愛い。
 「なんか面白いオヤジだなあ~」と思って、この男のことが知りたくなった。
 図書館で蔵書検索してみたら、この本がヒットした。

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60年安保当時の唐牛健太郎

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1971年紋別で漁師をやっている唐牛健太郎

 佐野眞一の本は、ソフトバンク創業者の孫正義の半生記『あんぽん』を読んだことがある。
 毀誉褒貶ある作家で、外連味(けれんみ)たっぷりの文章を書く。
 たとえば、妙に偶然や符牒を強調したり、あえてドラマチックな見方をしてみたり。
 「一昔前の(昭和時代の)立志伝だなあ~」と、いささか辟易するところもある。
 が、自在なフットワークと徹底した取材は大いに称讃すべきで、対象とする人物に対する愛情と尽きせぬ興味が、紙面から伝わってくる。
 『あんぽん』同様、面白く読んだ。(しかし、「あんぽん」の次は「あんぽ」って、偶然にしては面白い)

 それにしても、唐牛健太郎(1937‐1984)の47年の人生は波乱万丈、そのキャラはあまりにも濃くてユニーク、活力と人たらしの才能は無尽蔵、人脈の広さには端倪すべからざるものがあり、成るべくして全学連のリーダーに成ったのだなあと、納得至極であった。
 安保闘争に加わらなかったら、別の分野で大成していたであろうことは間違いない。
 運動から身を引いたあとの人生は、まさに「無頼」という言葉がぴったり。

 名利は求めず、あるときは居酒屋の親父、あるときは長靴姿の漁師、あるときは背広とネクタイに身を固めたコンピュータのセールスマン、そしてあるときは徳田虎雄の選挙参謀となって買収作戦を指揮・・・・

 北はオホーツク海、南は九州、与論島と流れのままに各地に移り住み、親友から奪った2番目の妻とともに四国遍路を巡り、どこに行っても自然と周りに人が集まり酒宴が始まる。
 その人脈は一般によく知られる名を上げるだけでも、評論家の吉本隆明、鶴見俊輔、西部邁、経済学者の青木昌彦、大物右翼の黒田清玄、山口組三代目組長の田岡一雄、日本人で初めてヨットでの太平洋横断に成功した堀江謙一、作家の長部日出雄、桐島洋子、ジャーナリストの岩見隆夫、歌手の加藤登紀子、そして医療法人徳州会を立ち上げた徳田虎雄・・・・・錚々たる異色の顔触れである。
 安保闘争の敗者という事実を、あるいは富や栄誉や名声や成果という尺度でみた人生の“勝ち負け”を超越したところで、とても面白い人生を、たくさんの友人や素晴らしい伴侶に恵まれて目一杯生き抜いた男であったのは間違いない。
 それに比べたら、国家の命令に唯々諾々と従って、唐牛の行く先々に現れて監視を続けていた公安職員の人生の、なんとみじめなことか!
 同時代の仲間たちは、挫折して孤独のうちに漂流する唐牛の姿に、映画の中の高倉健を重ねていたらしいが、ソルティはむしろ、寅さんこと渥美清演じる車寅次郎に近い印象を受けた。
 そこには、市井の庶民に対する、ブルーカーラーに対する強い共感や誇りがあり、自らは決して“上級国民”やホワイトカラーにはなるまいという強い自負と覚悟を感じた。

 「まえがき」ほかで佐野はこう記している。

 本書の目的は、60年安保時代に生きた日本人といまの時代に生きる日本人の「落差」を書くことにあったと言っても過言ではない。

 60年代の日本及び日本人と現在の日本及び日本人では時代を超えて明らかに世界観のスケールが、つまり人間の器の大きさが全く違ってしまった。

 左右のイデオロギーは問わない。60年安保の当時煮えたぎっていた日本民族のエネルギーはどこに消えてしまったのだろう。

 上記の「60年安保」を「70年安保」と変えてもよいと思うが、本書を読んで、あるいは前述のNHKドキュメンタリーを観てソルティが思ったのは、まさにこれにほかならない。
 日本人のエネルギー、特に若者ならではの既成権力に対する反抗心はどこに行ってしまったのか?

 ソルティはいわば「幻の80年安保」世代と言っていい生まれなのであるが、たしかに、権力と闘うという発想や気運は世代的に希薄であった。
 社会を見渡しても、社会党や共産党などの野党や新左翼の残党たちの、すでにマンネリ化し日常風景の一つとなった“反体制”仕草が視野の片隅に入るだけで、それはどちらかと言えば、時代遅れでダサいものと映った。
 89年のベルリンの壁崩壊や中国天安門事件、その後のソ連消滅につづく世界的な共産主義の衰退は、左翼運動の時代遅れ感を浮き彫りにした。
 すなわち、歴史の終わりが宣言された。
 
 70年安保以降の日本及び日本人の政治的傾向には、こうした全世界的な左翼思想の失墜、連合赤軍事件に終わった革命運動に対する反省や嫌悪、巨大な権力機構を打ち倒すことの困難なることを骨の髄まで悟ったこと、日本人のエネルギーが政治運動から経済による世界制覇に向けられたこと、そして、高度経済成長からバブルに至る「豊かさ」の中で一億総中流となった国民が、生活に満足し戦意を喪失したことが、影響しているのではないかと思う。
 戦争のない平和な社会で、衣食住足りて、面白い娯楽がたくさんあるのに、なぜ闘う必要がある?
 何十万というデモ隊が国会を取り囲んだ60年安保、70年安保でも、体制を引っくり返せなかったというのに・・・!

デモする人々

 ソルティが不思議に思うのは、全学連や全共闘の若者たちが将来を棒に振る危険を冒してまでどれほど必死に闘おうが、左翼陣営が連帯を組んで大衆に「反戦・反米・反安保」をどれほど声高く呼びかけようが、結局、日本国民は戦後約65年間、自民党を支持し続けたってことである。
 自民党が戦後はじめて野に下ったのは、安保の「あ」の字ももはや人々の口に登らなくなった2009年のことである。
 いかなるデモやテロリズムも、選挙による政権交代ほどの威力はない。
 60年安保も70年安保も、大多数の国民の意識を変えられなかった、自民党以外の政党に票を投じようという気持ちを抱かせられなかった、そこに一番大きな敗因があると思うのだが、違うのだろうか?

 と言って、ソルティは60年安保や70年安保が「壮大なゼロ」、すなわち無駄だったとは全然思わない。
 60年安保はA級戦犯上がりの岸信介首相(安倍元首相の祖父である)を退陣させ、それ以上のバックラッシュ(保守反動)を防いだし、70年安保は政治運動のあり方について国民に考えさせるきっかけを作った。
 抵抗勢力がなければ、権力は思うがまま振舞うことができる。
 大衆が何もしないでお上に任せていたら、中国やロシアや北朝鮮、ひいてはナチスドイツや大日本帝国のような管理主義ファシズム国家になってしまいかねない。
 勝算があろうなかろうが、体制批判の声を上げることは大切である。

 唐牛は面倒見のよさと人を思いやる人情味の篤さではピカ一だった。これは生前の唐牛を知る関係者が口を揃えて言う言葉である。

 唐牛はなぜこれほど多くの人間から慕われたのか。
 私が推察するところ、それは唐牛に嫉妬心というものがほとんどなかったからではないかと思っている。男の嫉妬心は女の嫉妬心より粘着質で厄介なものだが、唐牛には時に戦争を起こす男の嫉妬心とは無縁だった。
 とりわけ学生運動という男の集団では、嫉妬心が権力闘争の導火線となる、その嫉妬心がゼロに近く希薄だったことが、唐牛が周囲に爽やかな印象を刻む最大の要因ではなかったか。

 NHK『映像の世紀 バタフライエフェクト』で目撃した30代の唐牛健太郎の漁師姿になぜ自分が惹かれたのか。
 その答えはここらにあるようだ。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 彼は笑う TVドラマ:『ソドムとゴモラ』(ジョセフ・サージェント監督)

1993年アメリカ
112分

ソドムとゴモラ

 ソドムとゴモラと言ったら、神の怒りを買って一夜にして滅ぼされた悪徳の町である。
 とくにソドムの破滅は男色行為の蔓延が主たる原因とみなされ、肛門性交を表す「ソドミー」という言葉の語源となった。
 ソドムが滅ぼされたのが住民たちの男色行為によるものなのかどうかは、研究者によって意見が異なる。
 旅人のふりをして町を訪れた二人の神の使いを足蹴にしたことが原因とする説もある。(旅人を家に泊めてもてなしたロト一家だけが、崩壊する街から逃れることができた。ただし、ロトの妻は逃げる途中、神の使いの言いつけを破って後ろを振り返ったため、塩の柱にされてしまう)
 ともあれ、ソドムは、男色行為も含め人々のありとあらゆる欲望が充満し、節制や親切や勤勉といった美徳が欠落した町だったのである。
 出典はもちろん『旧約聖書』だ。

 本作は、アメリカ制作の「歴史スぺクタクル超大作」という売り文句で、DVDジャケットには火の海となったソドムの絵が使われている。
 酒池肉林のソドムの映像(BLエロシーンあり)や、ポール・アンダーソン監督『ポンペイ』のようなVFXを駆使した迫力たっぷりの派手な破壊シーンが観られるのかと思って、レンタルした。

 ところがどっこい、看板に偽りあり。
 思っていたのとは違っていた。
 それもそのはず、本作の原題は Abraham「アブラハム」。
 つまり、『旧約聖書』創世記に出てくる最初の預言者で、すべてのユダヤ人、すべてのアラブ人の祖と言われる聖人の伝記だったのである。
 しかも、20分に一度くらい映像が途切れて暗くなる瞬間がある。
 映画ではなくて、CMタイム折り込み済みのTVドラマであった。
 となると、「スぺクタクル超大作」という煽りも空しいばかり。
 ソドムの破壊シーンは、円谷プロ『ウルトラシリーズ』ほどの迫力もなかった。

 期待は見事に裏切られたものの、ドラマとしてはなかなか面白かった。
 ソルティは『旧約聖書』の内容をしっかり把握していないので、アブラハムの生涯とソドムの破壊がどう関わるか、知らなかった。
 アブラハムと言えば、たしか神に命じられて自分の息子を生贄に捧げようとした男だったな、くらいの印象であった。
 妻サラとの間に子供ができなかったため妻の召使と関係して最初の息子イシュマエルを作ったとか、齢100歳過ぎてから90歳のサラとの間に息子イサクが生まれたとか、ユダヤ人が割礼の習慣を持つそもそもの起源がアブラハムと神との交信にあったとか、はじめて知ることが多かった。
 それにしても、「男児が生まれたら、8日目に包皮を切りなさい」と命令する神様の意図ってなに?


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Engin AkyurtによるPixabayからの画像

 アブラハム役のリチャード・ハリスは、『ハリー・ポッター』シリーズ第1、2作でダンブルドア校長を演じた名バイプレイヤー。
 このTVドラマがそれなりに見ごたえあるのは、彼の演技の質の高さによるところが大きい。
 100歳にして授かった息子イサクを生贄に捧げるシーンの苦悩の表現(その裏返しとしての神への帰依の表現)は、役者経験と人生経験の蓄積あってこその深み。
 信者の帰依の度合いを確かめたがる神様のパワハラ気質への不快も、ハリスの名演によって緩和されよう。

 「ああ、そうなのか」と知ったことの一つ。
 アブラハムの息子イサクの英語読みはアイザック。
 つまり、物理学者アイザック・ニュートン、SF作家アイザック・アシモフ、ヴァイオリン奏者アイザック・スターン、物理学者ジェローム・アイザック・フリードマンと同じである。
 ユダヤ系男子に多い名で、上記のうちニュートン以外はユダヤ系である。
 その意味は「彼は笑う」なのだと。




おすすめ度 :★★

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● 本:『タブーの正体!』(川端幹人著)

2012年ちくま新書

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副題:マスコミが「あのこと」に触れない理由

 ここ数十年のマスメディアにおける三大タブーを暴いた森永卓郎著『書いてはいけない』が、2024年上半期ベストセラーの17位にランクインした。
 ビジネス本の中では第3位という快挙である。
 ――のわりには、TVや新聞など大手メディアが、この本を紹介したり、書評に取り上げたり、著者の森永を取材したりしていない様相が、まさに森永の指摘が正鵠を射ていることを証明しているようで興味深い。
 森永はテレビ出演多数の著名人であり、末期ガンと闘う男というニュースバリューもあり、暴いたテーマの一つが最近タブーが解けてマスメディアの猛省が求められたジャニーズ事件というホットな話題であるにも関わらず・・・。
 残り二つのタブーは、財務省の財政均衡主義による増税礼讃(ザイム真理教)と1985年8月12日に起きた日航123便墜落事故である。

 マスメディアが敢えて取り上げたがらないテーマは他にもたくさんある。
 すぐに思いつくだけでも、天皇制、被差別部落、創価学会、原発、自衛隊、憲法9条、靖国参拝、在日米軍基地。ちょっと前までは、安部晋三元首相批判や旧統一教会もそうであった。
 昭和の頃はそれでも、田原総一朗司会『朝まで生テレビ』(テレビ朝日系列)あるいは『噂の真相』のような、タブーとされるテーマを果敢に取り上げる番組や雑誌があって、多くの国民は「そこにタブーがあること」を知り、「それがタブーとなっている理由」について納得しないながらも了解することができた。
 それが昨今は事情が違ってきた、と川端は語る。

 以前であれば、自主規制や圧力によって報道が封殺されると、メディアの内部でなぜ報道できないのかという経緯、つまりタブーの理由が問題となり、それが外部にも漏れ伝わってきた。ところが、数年前から、「タブーだから」「その話はヤバイから」という一言だけで簡単に報道がストップされるようになり、理由について説明したり、議論したりということがほとんどなくなってしまったのである。
 最近では、ある事実の報道を「タブーにふれるから」と封じ込めた当事者が、なぜそれがタブーになっているのかを知らないという事態まで起きている。(表題書より引用、以下同)

 あたかも、神の祟りを恐れて禁足地に足を踏み入れない古代人か未開人のようで、文化人類学や宗教学における本来の「タブー」に近いものとなっているというのだ。
 つまり、思考停止である。

 報道できない領域があったとしても、それが何によって引き起こされたのか、理由が明らかになっていれば、将来、その意図を除去して状況を変えることができるかもしれない。あるいは、状況を変えるのは無理でも、どの部分にどういうリスクがあるかが認識できれば、そこを避けながら限界ギリギリの表現まで踏み込むことは可能だ。だが、タブーを生み出した理由が隠されてしまうと、そういった条件闘争や駆け引きすらできなくなり、タブーをそのままオートマティックに受け入れざるをえなくなる。そして、「タブー」という言葉が、目の前で起きている事態と闘わないことのエクスキューズとして、これまで以上に頻繁に使われるようになる。

 思考や議論を許さないタブーは、そのまま権力にも暴力装置にもなり得る。
 ジャニーズ事件を見れば、そのカラクリは明らかであろう。

現在のメディアはタブーを克服するという以前に、その実態をまったく見ないまま「タブー」という言葉で一くくりにして、恐怖心だけを募らせている。だとしたら、まず、その恐怖の被膜を取り除いて、タブーの実態、つまりそれを生み出した要因や理由を正面から見つめなおすしかないのではないか。

 本書は、タブーに覆われつつある現在のメディア状況を憂えた著者が、「タブーの可視化」をはかったものと言うことができる。
 川端幹人は1959年生まれ。1982年から2004年までの約20年間、“タブーなき反権力ジャーナリズム”を標榜する『噂の真相』の編集部に在籍し、取材・執筆に当たってきた。2001年には、雅子皇后(当時は東宮妃)の記事を掲載するにあたって、敬称をつけず「雅子」と記したことで右翼団体の不興を買い、襲撃を受け負傷している。
 同誌休刊後はフリーのジャーナリスト兼編集者として活動している。

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 本書では、メディアにおけるタブーを、要因別に「暴力」「権力」「経済」の3類型に分けて、その生成過程を分析している。
 取り上げられているのは、次のようなテーマである。

1.「暴力」が怖いからタブーとなっている
 皇室(右翼)
 宗教組織(創価学会、旧統一教会、イスラム教、オウム真理教など)
 同和問題(解放同盟による糾弾、エセ同和団体による恐喝)

2.「権力」が怖いからタブーとなっている
 政治権力(小泉純一郎)・・・本書は第2次安倍晋三内閣前の刊行である
 検察や警察
 財務省(税務署)・・・まさにザイム真理教のことだ

3.「経済」的損失が怖いからタブーとなっている
 ジャニーズやバーニングなどの大手芸能プロダクション
 ユダヤ(イスラエル問題)・・・いまのアメリカの状況に顕著
 原発(大手電力企業)
 電通 

 詳細は本書を読んでもらいたいところであるが、ソルティは読んでいてずっしりと気持ちが落ち込んだ。
 タブーの壁があまりに高くて分厚くて、それをこれでもかとばかり突きつけられて、自分のような無力な小市民が束になったところで、到底太刀打ちできないことを痛感させられるからである。
 とりわけ、同調圧力が強く、事を荒立てない(陰で処理する)のが美徳とされる日本においては、表立って権力と闘う者は否が応でも孤立させられてしまう。
 本来なら社会の木鐸たるべきメディアからして、簡単に権力に屈してしまう現状がある。

 日本のメディアは孤立を異常に恐れる一方で、連帯して権力に対峙することをしない。欧米では、報道の自由を侵害されるような問題が起きると、メディアは立場のちがいを超え、連帯して抗議の声を上げ、徹底的に戦うが、日本のメディアはそれができない。むしろ、権力側から切り崩しにあうと、必ず黄犬契約を結ぶメディアが出てくる。

 黄犬契約( yellow-dog contract )とは、労働組合不加入または脱退を条件として雇用契約を結ぶことを言うが、ここでは権力に阿って仲間を裏切る行為を指す。
 ソルティは以前冗談で、2009年に自民党から民主党への政権交代が起きていなかったら、2011年3月の東日本大震災の際に起きた福島第一原発メルトダウン事故は“原子力村”の圧力によって隠蔽されていただろう――と書いたことがあるけれど、日本のマスメディアのていたらくを思えば、これは冗談でなかったかもしれない。
 正義は一体どこにある?

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 読後しばらく暗澹たる思いに沈んだ。
 が、冷静に考えてみると突破口がまったくないわけでもなかった。
 というのも、本書が刊行されたのは2012年であって、当時と2024年現在ではずいぶん状況が変わっていることに気づいたからである。
 すなわち、
  1. 無敵と思われたジャニーズタブーが破れた。他の大手芸能プロダクションも最早無茶はできないだろう。
  2. 無敵と思われた安倍派が崩れた。同時に旧統一教会タブーの呪縛が解けた。
  3. 森永卓郎や青山透子のようにタブーと闘い続ける個人がいて、それを支援する出版人がいる。
  4. ネットとくにSNSの威力が増大して、既存の権力機構でさえ、もはや無視できない存在になっている。匿名による内部告発が(良くも悪くも)増えている。
  5. 戦後長らく議論することさえ許されなかった憲法9条が、今では改憲手前まで来ている。つまり、櫻井よしこのような保守陣営の絶えまぬ努力が功を成している現実がある。(ソルティは個人的には「改憲、ちょっと待った!」の立場であるが、9条タブーを破り世論を変えていった保守陣営の戦略と熱意と粘りは認めざるを得ない。)
  6. 政権交代による刷新(選挙)、違法企業に対する不買運動など、市民にできることもある。
  7. 国際的にSDGsが常識となってきているので、日本だけがその潮流を無視することはできない。(ジャニーズ問題が外圧で敗れたことに象徴される)

 とにかくギリギリまでタブーに近づくこと、そしてタブーの正体を常にあらわにし続けること。最後にもう一度いうが、タブーの肥大化・増殖を食い止めるためには、まず、そこから始めるしかないのである。

 その意味では、巷にあふれる“陰謀論”も、「根も葉もない与太話」と切り捨てる前に、「そこに幾分かの真実が混じっているのかもしれない」と立ち止まって考えることが必要なのかもしれない。
 たとえば、2020年の段階で、「旧統一教会が与党自民党内に根を広げて政策に影響を与えている」と言ったら、「なにを陰謀論めいたことを!」と誰も相手にしてくれなかったろう。
 実際には、2022年7月の安倍元首相暗殺後に明らかになった通りであり、自民党の憲法改正案の中には、旧統一教会の教義が反映されているとしか思えない箇所すら指摘できる。

 思考停止ほど危険なものはない。





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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


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ソルティはかたへのメッセージ

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