ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 虐待の連鎖 講演会:『関東大震災から100年の今を問う』(四谷区民ホール)


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日時 2023年7月31日(月)18:30~
会場 四谷区民ホール(新宿区)
プログラム
  1. 新井勝紘氏(高麗博物館前館長):「関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く」
  2. 徐京植氏(高麗博物館理事、東京経済大学名誉教授):「韓国現代アーティストの映像作品に見る 『ルワンダ虐殺の記憶』」
主催 高麗博物館

 高麗博物館で開催中の『関東大震災100年 隠蔽された朝鮮人虐殺』に行って、この講演会あるを知った。
 四谷区民ホールは新宿御苑のそばなので、早めに行って御苑の木陰で昼寝でもしようと思ったら、月曜定休であった。仕事を早退までして来たのに残念。
 開場時間まで、区民ホール9階のラウンジでクリームパン食べながら読書した。

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四谷区民ホール

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9階ラウンジからの景色
新宿御苑、明治神宮をはさんで渋谷のビル街が見える

 プログラム1では、2021年に新井氏がヤフオクで見つけて9万6千円で競り落とした湛谷(きこく)作『関東大震災絵巻』を中心に、朝鮮人虐殺を目撃した人が描いたいろいろな絵画作品をパワーポイントを使って紹介、解説された。
 視覚芸術は、文章以上に直截的でインパクトがある。
 刀や鳶口で襲われた朝鮮人の流した血の色が毒々しい。
 中には小学生が描いた絵もあった。
 震災被害だけでも相当なショックだろうに、日本の大人たちが寄ってたかって朝鮮人を虐殺している現場を目撃させられた子供は、どれだけのトラウマを背負ったことだろう? その後の人生にどう影響したことだろう?
 新井氏は繰り返し言った。
 「こんなものを子供たちに見せちゃいけない」
 まったくその通りだ。
 と言って、隠してもいけない。
 
 プログラム2では、このような悲惨な虐殺事件を後世の人々にどう伝え、どう自分事として受け止めてもらい、「省慮(かえりみてよく考えること)」を呼び起こすか、というテーマであった。
 リアルタイムで現場を見ている証言者が少なくなったとき、事件は風化され、忘却される可能性がある。つまり、繰り返される危険がある。
 もちろん、「被害者〇名、いつ誰がどこで」といったデータは残るかもしれない。
 証言集や小説や映画といった形で、2次的に事件に触れることもできるかもしれない。
 しかし、事件を直接知らない後世の人や他国の人は、そうした事実に触れる機会を持っても、「ふ~ん、そんなことがあったんだ」で終わってしまう可能性がある。
 朝鮮人虐殺についても、「100年も昔の話だろう。民主主義の進んだ現在とは関係ない」とか、「こういったパニックは災害時にはよくあること。日本人だけが特別じゃない」とか、「きっと朝鮮人のほうにも何らかの落ち度があったんだろう」とか、ひどいのになると、「朝鮮人虐殺は反日左翼が作ったデマ。デマを教科書に載せて子供たちに教える必要はない」などと言う始末。
 徐京植氏は、「重要なのは想像力。当事者の立場に身を置いて、状況や気持ちを想像できること」と語り、それを考える鍵として、1994年の『ルワンダ虐殺』をテーマにしたジョン・ヨンドゥ氏の映像作品を紹介した。

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 ソルティはエイズNPOで働いていた時、学校に講演に行くことが多かった。
 HIV/AIDSという病気の基礎知識や予防方法を伝えるだけでなく、感染者に対する差別の事例を話し、人権や共生について考えてもらう。
 そのときにいつも使っていたのが、メモリアルキルトという畳一帖ほどの布であった。
 AIDSで亡くなった人の家族や友人らが、故人の思い出を語りながら、その人らしいデザインを考え、遺品を縫い付けたり、イニシアルを縫い込んだりする。
 行政が発表するAIDS死者〇名という統計数字ではなく、そこに「愛する人や物に囲まれ、喜怒哀楽をもって暮らしていた人間がいた」ことの証明である。
 メモリアルキルトの説明を通じて、生徒たちにHIVと共に生きた人の生を想像してもらい、数字や“怖い”イメージばかりが先行していたAIDS患者もまた、自分たちと同じ一人の生活者であることや、実名でなくイニシアルであることの意味を考えてもらった。
 うまく伝わったのかどうか、生徒たちの想像力を喚起できたのかどうか・・・・。
 ただ、伝えるという経験を通して思ったのは、「自らが一人の人間として大切に扱われてはじめて、他の人も大切に扱えるようになる。他の人の苦しみや悲しみを想像し、共感できるようになる」ということであった。
 自分に与えられていないものを他人に施せというのは、どだい無理な話である。
 ソルティが話した生徒たちの中には、普段親から虐待を受けている子供も少なくなかっただろう。
 彼らの心にどう響いたかは、いまでも気になるところである。

 その意味で、ソルティは朝鮮人虐待の加害者となった者たち――警察、軍人、自警団の男たち――のパーソナリティがどのように作られたかが気になるのである。
 子供の頃に親や教師や周囲の大人たちから、どのような扱いを受けたかが気になるのである。
 ナチス時代のドイツ国民が、幼少の頃、体罰当然の厳格で暴力的な教育を受けていたこと。それが成人してのち、ある種の“意趣返し”として、ユダヤ人らに向けられたこと。すなはち、“虐待の連鎖”がそこにあることを指摘したのは、『魂の殺人』で有名なアリス・ミラーである。
 戦前の軍国主義教育は、子供たちに「これこれの行為は良い」「これこれの行為は悪い」と一方的に教え込む(洗脳する)ものであって、「自らの頭で是非を考える」「他人の置かれた立場を想像する」ようなものではなかった。体罰も当たり前にあった。
 令和現在の教育現場で起きている戦前回帰的兆候を思うとき、朝鮮人虐殺を昔の話にはできないと強く思う。

 約400席の会場は満席だったけれど、高齢者が圧倒的であった。
 平日ではあるが、18:30からの開始なので仕事帰りの人だって来られるはずである。
 学生だって夏休み中だろう。
 正直、団塊の世代亡き後の日本が心配だ。






● 策士、策におぼれる 本:『点と線』(松本清張著)

1958年光文社
1961年新潮文庫

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 高峰三枝子出演の映画を観たら、原作を読みたくなった。
 約45年ぶりに読み返して、清張の文章の上手さに感心した。
 癖のない、平明で読みやすい文章で、読者の生理をつかんだ物語運びが見事。
 読み始めたらぐんぐん引きずり込まれ、ページが進んでいく。
 社会派ノンフィクションである『日本の黒い霧』とは文体が異なっている。
 清張ミステリーの人気の秘密は、ミステリーの女王クリスティ同様、この読みやすさにあるのだなと実感した。
 
 本作は、真犯人は誰かを読者に問う、いわゆるフーダニットではなくて、犯人がどうやって犯行をおこなったかを問うハウダニットである。
 捜査陣は犯人の目星を早々につけ、あとは鉄壁のアリバイを崩そうと知力・体力をふりしぼる。
 列車と飛行機の時刻表を駆使し第三者の目撃証言を作り上げてアリバイを成立させ、完全犯罪を狙った犯人が、刑事の執念によってじょじょに追いつめられていく。
 トリック破りの面白さが、一番の読みどころである。
 
 初読の中学生の時は面白さに圧倒され、読んでいる最中も読後も何の疑問も抱かなかったが、いま読むといろいろな疑問点が浮かぶ。
 中でも、この犯人安田辰郎が、トリックに手をかけ過ぎたことによって、かえってボロを出してしまったという逆説が、プロット上の一番の難点と思われる。
 
 安田は犯行をおこなう前に念入りにアリバイ工作を行う。複数の人間に前もって協力を依頼し、然るべき指示を出す。
 そして、恋人同士ではない知り合いの男女一対を博多の海岸におびき出して毒殺し、心中に見せかける。殺したい本命は男のほうである。
 さらに、その男女が東京駅で一緒に列車に乗り込むところをプラットフォーム「4分間の空白」を利用して第三者に目撃させ、2人が恋愛関係にあることをほのめかす念の入りよう。
 
 やり過ぎである。
 結果として、偶然とは思えない「4分間の空白」がきっかけとなって刑事に疑われる羽目に陥り、殺された男女につき合っていた形跡がまったく見当たらなかったことから心中を装った他殺ではないのかと怪しまれ、複数の人間にアリバイ工作の協力を頼んだことで逆に確たる証拠をあちこちに残してしまったのである。
 これなら最初から何の作為もせずに、どこかの崖っぷちで男を撲殺し、その後靴を脱がして死体を崖から突き落として自殺に見せかけたほうが、バレる可能性は低かったであろう。
 そもそも、殺された男と安田を結びつける接点は少ないのだから、捜査陣はまず容疑者を絞るのに苦労したはずだ。
 「4分間の空白」というトリックの関係者の一人として登場し、その存在をわざわざ捜査陣に知らせてしまったのは致命的エラーと言える。
 
 まあ、そんなこと言ったら、アリバイ崩しの面白さもへったくれもないわけで、この物語は成り立たなくなる。
 現実社会では、トリックを考え抜いてから人を殺す殺人者は滅多いないだろう。
 推理小説にあっては、犯人にトリックを作ってもらわないことには話にならない。探偵の出番もない。

 自信家である安田は自分(と妻の)考え出したトリックが破れるかどうか、警察に挑戦したかった。
 とりわけ、東京駅「4分間の空白」という発見を誰かに知らせたくて仕方なかった。
 そこで、自分も目撃者の一人となって容疑者の名乗りを上げた。
 策士、策に溺れる。
 そう解釈しておこう。
 
大垣行き列車
なつかしの東京駅発大垣行き最終列車



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 
 
 
 

● ちゃぶ台返し 本:『私が原発を止めた理由』(樋口英明著)

2021年旬報社

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 ソルティが原発に反対する理由は至極単純で、「赤ん坊に出刃包丁を持たせてはいけない」からだ。
 人類は、原発という危険極まりないものを扱うには、あまりに幼すぎる。
 技術的にも、メンタルにおいても。
 ロシア・ウクライナ戦争におけるサボリージャ原発の危険性を見れば、戦争をやめられない人類が原発を持ってはいけないのは、文字通り“火を見る”より明らかだ。
 とりわけ、世界の地震の10%が集中する日本の場合、列島に原発を並べることは、体じゅうにダイナマイトをぶら下げた兵隊が敵陣に乗り込んでいくようなものであろう。
 常識的に言っても、論理的に考えても、なによりかにより、2011年3月の福島第一原発臨界事故という建国史上最大の国家的危機を鑑みても、日本は原発をすぐさま止めるべきである。
 いまソルティが、「コロナガー、酷暑ガー、自民党ガー」と愚痴をこぼしながらこうやって首都圏で無事に生活できているのも、あの日奇跡がいくつも重なり合って、福島第一原発が大爆発に至らなかったおかげである。
 東日本壊滅の瀬戸際であったことは記録に残されている。

 ソルティからして見ると、いまだに原発推進を口にする人たちは、日本人を始めとする人類が原発を(核廃棄物の管理含め)完全にコントロールできると思っている極楽とんぼで、かつ、原発の危険性を理解できない無知蒙昧の徒としか思えない。
「いや、我々は赤ん坊ではない、立派な大人だ。原発は出刃包丁でない、せいぜいペーパーナイフだ」とでも言うのだろうか。
 あるいは、人間の不完全性も原発の危険性も知りながら、それでもなお原発を押し進めたいと言うのなら、それは敗けると分かっていた戦争に飛び込んで日本という国が滅亡する危機を招いた大日本帝国の指導者らとなんら変わりない。
 広島と長崎の惨劇、第五福竜丸の悲劇、そして福島原発事故・・・・これでもまだ足りないと言うのか。
 汚染され住めなくなった日本に、被爆により損なわれた肉体に、お金や地位や権力が何の役に立つ?

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 本書の著者・樋口英明は、元福井地裁の裁判長。
 2014年5月21日に福井地方裁判所において大飯原発運転差止めの判決を下し、翌2015年4月14日に高浜原発の運転差止めの仮処分決定を出した人である。
 事実と論理と憲法が重視される裁判において、「原発NO」という答えが出るのは当たり前なことなのだが、それが当たり前でないところに日本の悲劇はある。
 大飯原発運転差止めの判決は、2018年7月4日に名古屋高裁で取り消された。
 樋口は2017年8月の定年後、講演や執筆などで原発の危険性を訴える活動をしている。

 裁判官が退官後とはいえ、自分が関わった事件について、論評することはほとんどと言ってよいほどありません。論評することが法に触れるわけではありませんが、論評しないことは裁判所の伝統であることは間違いないのです。なぜ、私がその伝統を破ってまで、原発の話をしなければならないと思ったのか。それは、専門家でない私の目から見ても、原発の危険性があまりにも明らかだったからです。そして、原発の危険性が専門知識のない素人目にも明らかだということくらい恐ろしいことはないのです。
 原発や地震学についての詳しい知識は要りません。思い込みを持たずにものごとを素直に捉える目を持った高校生以上の方が、この本を読んでいただければ原発の危険性がどれくらい大きなものかお分かりになると思います。(本書「はじめに」より抜粋)

 本書第一章では、原発の危険性について科学的事実あるいは福島原発事故という歴史的事実をもとに具体的にわかりやすく説明している。
 既存の原発の耐震性(600~1200ガル)が、三井ホームや住友林業など一般住宅のそれ(3000~5000ガル)をはるかに下回るという事実には驚愕のほかない。
 第二章では、原発推進派が繰り出す5つの弁明――たとえば、「原発がないと電力が不足する。お前は夏でも冷房を使わないのか!」、「原発にはCO2(二酸化炭素)削減の効果がある。地球温暖化を防ぐ役に立つ」といったような――に対して、やはり事実をもとに検討し、理路整然と反駁している。
 原発推進派の弁明がいずれも、まったく理屈に合わない、子供だましのものであることが赤裸々にされている。
 脱原発を唱える同志は、本書を読んで論理という武器を手にすることができよう。
 第三章では、3.11という未曽有の悲劇を経験した我々が、後世の人々に対して果たすべき責任について書かれている。

 我が国では、所得格差や教育格差、雇用問題、年金問題、コロナの問題等、いろいろ議論されていますが、原発の過酷事故が一度起きると、これらの社会問題を議論したテーブルはテーブルごとひっくり返ります。ですから原発の問題はもっとも重要な問題なのです。この原発の問題を正しく理解して、論理にしたがって行動してください。そして、ときには健全な怒りを示して下さい。

 そう、ちゃぶ台返しの威力を持つのは、星一徹を別にすれば、原発と戦争である。
 樋口英明氏とともに、声を上げなければいかん。

ちゃぶ台返し

おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 

● 淳子、サイコー! 映画:『病院坂の首縊りの家』(市川崑監督)

1979年東宝
139分

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 横溝正史原作、石坂浩二主演の金田一耕助シリーズ第5弾。
 おどろおどろしい口調の「これが最後だ」というキャッチコピーが予告CMに使われていたが、実際には2006年のリメイク版『犬神家の一族』が最後となった。
 
 高校時代にリアルタイムで観たとき、かなり落胆したのを憶えている。
 とにかく話がわかりづらい。
 『犬神家』に輪をかけて家系図が複雑で、登場人物のセリフからだけでは到底理解できなかった。
 悲劇の背景を成す人間関係がよくつかめない。
 なので、悲惨な事件の因となった肝心かなめの犯人の秘密(=忌まわしい過去)もいま一つピンと来なかった。
 一つ一つの殺人シーンもリアリティを欠いている。
 たとえば、ギターで頭を殴られただけで絶命するピーター(現:池畑慎之介)の昆虫的脆弱性とか、ガラスの破片で自らの首を切りつけながら長々と恨みを口にするあおい輝彦のゾンビ的生命力とか、その首を凄まじい血しぶきを浴びながら斧で切断する佐久間良子の鬼子母神的怪力とか、ほとんどギャグ漫画の世界である。
 例によって、事件が起こるのを未然に防ぐことができない金田一耕助であるが、ここではなんと、「初めから犯人を知っていました」などとほざくのである。なんだそれ。
 いや、少年ソルティも映画を観る前から、佐久間良子(演じる法眼弥生)が犯人だろうと当たりをつけていましたけどね・・・・。

 風鈴のごと天井から吊るされた生首やら、死体のように生気のない婚礼衣装の花嫁(桜田淳子)やら、後頭部を殴られた上に水槽に顔を沈められて溺死する写真屋(小沢栄太郎)やら、ストーリーは二の次、ショッキングなシーンの連続で観客を引っ張っていくスプラッタ映画そのもの。
 もちろん、スケキヨ逆さ漬けの第1弾『犬神家』のときからその傾向は強かったけれど、まだ『犬神家』には味わうべき人間ドラマがあった。
 シリーズが進むごとに、人間ドラマとしての深みも、推理ドラマとしての愉しみも失われて、いかにして残虐な絵を作って観客を驚かせるかに焦点が移っていったのである。
 観終わって映画館をあとにしながら、「第4弾『女王蜂』で打ち止めにしておけば良かったのに・・・」と、高校生には痛い出費を惜しんだ。
 
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 今回、改めて本作を観ようと思ったのは、桜田淳子の演技がふと気になったからである。
 40数年前は、桜田淳子のヒロイン起用は、淳子ファンをはじめとする若い観客を呼び寄せるための“人寄せパンダ”と思っていた。
 せいぜいアイドル歌手の余技といった目で見ていた。(ソルティはどちらかと言えば百恵派=『時代』派であった)
 また、役者の演技の質を楽しむという見方もその頃のソルティにはできなかった。
 桜田淳子はその後、歌より芝居に力を入れるようになり、ミュージカル『アニーよ、銃をとれ』で役者として評価を高めた。
 これからますます女優として実力を身に着け花開くという時に、そしてソルティが女優としての桜田淳子の実力を確かめる機会をもつ前に、残念ながら彼女は旧統一教会にのめり込んでしまい、芸能活動を辞めてしまった。

 いま、冷静に本作の桜田淳子を観るに、芝居の巧さはアイドル歌手離れしている。
 堀ちえみや小泉今日子や松田聖子はおろか、当時ライバルと目され沢山の映画やTVドラマの主役を張っていた山口百恵をも凌駕している。
 テクニックの巧さというのではなく、役に没入できる能力が高い。(その憑依体質がカルト入信の因となったのだろうか)
 わがままで高飛車なお嬢様・法眼由香利と、やさしくてどこか淋しげなジャズシンガー・山内小雪との一人二役という難役をものともせず、両者をしっかりと演じ分け、しかも妖艶なまでに美しくて迫力がある。
 ジャズを英語で歌うシーンでは、本来の歌手としての高い才能が存分発揮されている。
 「淳子は歌が上手かったんだなあ」と再発見する思い。
 芸能界は実に貴重な歌手兼女優を失ったんだなあ~。

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 作品としては失敗作であるが、出演する役者たちが豪華で実力派ばかり。
 各人の芸や個性的魅力を楽しむだけでも観る価値がある。
 まず、犯人役の佐久間良子。華があり貫禄があり色気がある。昭和の銀幕女優のオーラがいかなるものか確認できる。
 『犬神家』で謎の復員兵を演じたあおい輝彦。生首出演には驚かされる。髭で覆われた容貌は、『どうする家康』に服部半蔵役で出演中の山田孝之そっくり。
 草刈正雄がコミカルな風来坊に扮している。これが実に自然に息づいていて、おどろおどろしく緊張を強いられる作品の“箸休め”となっている。ちょうど『犬神家』の坂口良子の位置だ。天下の二枚目で芝居の下手な草刈(あくまで当時)を道化役として起用した市川監督の慧眼が素晴らしい。
 『渡る世間は鬼ばかり』で女房の尻に敷かれる気弱な男を演じ、地味で冴えないイメージがある岡本信人。本シリーズのレギュラー等々力警部(加藤武)とのコンビで、杓子定規な部下を演じていて愉快。市川のような力ある演出家がいれば、この役者はもっと個性的魅力を打ち出せるはず。実力はあるのだから。
 白石加代子の語りの怖さ、大滝秀治の年季の入った渋さ、三木のり平の飄々とした滑稽味、常田富士男のとぼけた風情、いずれも一級の役者だけが持つ存在感と魅力。市川が役者たちを信頼し、役者たちもまた市川を尊敬していればこそ、こうした味のある芝居が生まれるのだろう。
 なにより嬉しい驚きは、伝説の大女優にして原節子と並び称される美貌の主だった入江たか子。出番こそ少ないけれど、登場するだけで悲劇の空気が立ち込めるのは、溝口健二監督に「化け猫女優」と揶揄された切ない過去を知ればこそ。
 原作者横溝正史夫妻の特別出演はご愛嬌である。
 
 昭和の役者たちの実力と個性的魅力、それを引き出す演出家の力量に唸らされた。





おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ルッキズム・ホラー 映画:『東海道四谷怪談』(中川信夫監督)

1959年新東宝
76分

 ソルティは子供の頃から恐い映画が好きだったが、「怖い」と感じるのはいつも西洋のオカルト映画やホラー映画であった。『ローズマリーの赤ちゃん』、『エクソシスト』、『オーメン』、『サスペリア』、『悪魔の棲む家』、『ハロウィン』・・・e.t.c.
 日本の昔ながらのお化け映画、いわゆる怪談はどうしても滑稽感が先立ってしまい、本気で怖がることができなかった。
 よもや「オバケのQちゃん」のせいとも思えないが・・・・。
 
 理由の一つは、おそらく、子供の頃のソルティの生活がすでに西洋風になっていたからであろう。
 夜も灯りが煌々と灯る首都圏のベッドタウンには、お岩さんやお菊さんの居場所はなかった。
 柳や竹藪や古池や墓地や畑中の暗い道、障子や縁側や母屋から離れた便所や井戸のある日本家屋――そういったものが彼女たちが登場するにふさわしい舞台なのであり、それらが急速に失われていったのがソルティの子供時代であった。

 けれども、子供の頃にテレビで観てほんとうに怖いと感じた日本のホラー映画が二つあった。
 その一つが『地獄』であり、中川信夫監督によるものと最近判明した。
 もう一つは、鶴屋南北原作『四谷怪談』の数ある映画化(木下惠介作品を含む)のうちのどれかだった。
 今回その正体が判明した。
 やはり中川信夫監督によるものだったのである!
 子供のソルティは中川信夫にしてやられたのであった。

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 毒を飲まされて醜くなったお岩さん(若杉嘉津子)が櫛で髪を梳かすと、髪の毛がごっそり抜けるシーン。
 戸板に張り付けられたお岩さんの遺体を引っくり返すと、やはり一緒に殺された按摩(大友純)のどす黒くなった遺体が現れるシーン。
 蚊帳の上に、布団の上に、たらいの中に、蛇がうごめくシーン。
 中川信夫監督の演出と研ぎ澄まされた映像美が、強烈なインパクトをもたらした。
 今見てもやっぱり怖い。
 『地獄』ともども言えることだが、映画における怖さの本質とは、物語や脚本や役者の演技そのものにあるわけではなくて、観る者の無意識に刺さるような演出と絵づくりにあるのだ。
 中田秀夫監督の『リング』(1998年)が日本のホラー映画に新時代をもたらしたのはまさにそれゆえであった。

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 伊右衛門を演じる天知茂は美形が光っている。木下作品の上原謙といい勝負である。
 お岩役の若杉嘉津子の役者根性は讃嘆に値する。木下作品でお岩を演じた田中絹代を凌駕する熱演・怪演・凄演。よくもまあ、ここまで・・・・。
 伊右衛門を悪の道に引きずり込む直助役は、江見俊太郎という名の男優。
 TV時代劇の悪役をよくやっていたようだが、ここでは生まれついてのサイコパスたる直助を軽妙に若々しく演じている。あたかも、直助は伊右衛門の心の中にある悪のささやきのよう。
 木下作品では名優・滝沢修がシェークスピア『オセロ』に出てくるイアーゴばりのキャラクターを作り上げ、主役の上原や田中を喰っていた。
 中川作品は、人間ドラマであることより怪談であることを優先しているので、江見の芝居はちょうどいい按配と言えよう。役者間のバランスもいい。
 
 今回久しぶりに四谷怪談を観てあらためて思ったが、この映画のもっとも怖いシーンはお岩さんが“化けて出る”ところではない。
 お岩さんが醜くなるところである。
 すなわち、美しい女の容貌が崩れていく怖さである。
 「若く美しい」に高い価値を置く社会だからこそ、「老いて醜い」が忌避され、恐れられる。
 この怪談は社会のルッキズム(外見重視主義)、とくに女性に対するそれを反映しているところに成り立っている。
 むろん、ソルティもまたそうした価値観を大なり小なり内面化しているからこそ、かつて怖いと感じたのだし、今も怖いと感じてしまうのだ。(たとえば、伊右衛門や直助が誤って毒を飲んで醜くなるケースを想定すれば、それは明瞭であろう)
 その意味で、令和の現在、『四谷怪談』をホラーとして映像化するのはなかなか難しいのではないかと思う。

 言い訳するわけではないが、ソルティはどんなに外見が美しかろうと、性格が悪い男優や女優(たとえば宝塚出身の●●やジャニーズの××)を好きになることはないし、実生活の恋愛においてもそれは同じである。(ほんとか?)
 
 ともあれこの猛暑、中川信夫の作品をもっと観たいものである。

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秩父札所25番久昌寺
ここは夜は怖いと思う



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『人生は花いろ女いろ わたしの銀幕女優50年』(高峰三枝子著)

1987年主婦と生活社

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 昭和の大スター高峰三枝子の自伝。
 
 往年の人気ワイドショー『3時のあなた』(フジテレビ系)の司会をやっていた頃(1968~1973)の高峰三枝子を、小学生だったソルティは覚えていない。
 母親がよく観ていた懐メロ番組で『湖畔の宿』を歌っている高峰の姿を見たのが、最初のおぼろなる記憶。
 ドレスの似合うふくよかなオバサンという印象だった。

 確実に記憶に刻まれたのは、中学1年の時に観た映画『犬神家の一族』の松子夫人。
 おっかない顔したオバサンと思った。
 そこから人気に火がついて、『女王蜂』の高慢セレブ、『火の鳥』の卑弥呼、TV『人間の証明』の殺人犯、TV『西遊記』のお釈迦様、そしてとどめは1982年~1987年に流れた国鉄フルムーン旅行のCM・・・と、すっかり顔なじみになった。
 「人気に火がついて」と書いたが、それは再ブレイクか再々ブレイクだったわけで、ソルティが戦前戦中の高峰の活躍と人気のほどを知らなかっただけのこと。
 プロマイド売上1位、芸能人所得番付1位、映画も歌も大ヒット多数の押しも押されもせぬ大スターだったのである。
 とくにその理知的で高貴な美貌たるや、昨今の女優たちに見いだせるべくもない。
 父親の高峰筑風が一世を風靡した琵琶奏者であったという家柄が物を言っているのだろうか。

Takamine-Mineko
東洋英和女学院時代の高峰三枝子(なんと16歳)

 上記の映画やTVドラマの中の女王様然とした存在感や、フルムーンCMをめぐって元女優の国会議員と交わされた乳房をめぐる下世話なバトルのため、また年齢を経るたび厳めしさを増す顔立ちのため、長いことソルティの中では高峰三枝子の印象はあまり良いものではなかった。
 わがままでお高くとまったツンと澄ました女というものである。
 しかし、この自伝を読んでずいぶん印象が変わった。
 社交的で行動的、ネアカでおっちょこちょい、笑い上戸で涙もろい、典型的B型気質の人なのであった。
 ダンプカーが運転できる大型第二種免許を持っていて共演男優に運転を教えていたとか、桜花賞を制した名馬を所有していたとか、野球が大好きで喉の病気で入院中も夜な夜な病院を抜け出して後楽園球場に通ったとか、ニューヨークではおかまバーやポルノ映画館を覗いたとか、意外なエピソードが多かった。
 小津安二郎や木下惠介といった映画監督、服部良一や万城目正といった作曲家、フルムーンコンビの上原謙はじめ佐野周作、佐分利信、長谷川一夫、細川俊之といった役者仲間、それに双葉山関や松下幸之助やローマ法王パウロ6世や昭和天皇まで、各界の有名人との豊富な交流の様子が描かれて、ミーハー的興味は尽きない。
 また、同じ姓を持つ高峰秀子同様、戦前のトーキー初期から活躍し、戦中は軍隊での慰問活動に従事し、戦後日本の大変化を目撃してきた一人としての、つまり時代の証言者としてのモノローグにも耳を澄ますべきものがある。

 どこへ慰問に行っても、内地からはるばる若い女優がきてくれたと、大変歓迎されました。
 私も一生懸命唄って、何よりもありがたい小麦粉やお砂糖をお礼にいただいて帰ってきます。
 ある航空基地へ慰問に行ったとき、私は歌いながらなんだか胸騒ぎがしました。
 前のほうに20人くらい日の丸の鉢巻きをした若い兵隊さんがいて、唄っている私の顔を見ようともせずに、じいっと目を閉じて聴いていました。なかには直立不動で、手を握りしめて聴いている方もおられました。ああこんなに真剣に聴いてくださってありがたいなあと思って、私も心をこめて唄いました。
 でも何か気になって、あとで係の将校さんに聞いてみました。
 「実は彼らは夜明けにとび、再び帰ってこない勇士たち・・・・」
 特攻隊として出撃される直前の方々だったのです。

 小さい頃ソルティが懐メロ番組で耳にしていた『湖畔の宿』という歌は、単なる失恋ソングではなかった。
 戦時下のつらい生活の記憶や戦争で亡くなった者たちへの哀悼の思いがまとわりついていたのである。
 
   ああ、あの山の姿も湖水の水も
   静かに静かに黄昏れて行く
   この静けさ、この寂しさを抱きしめて
   私は一人旅を行く
   誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて  
   (佐藤惣之助作詞『湖畔の宿』の語り部分より)


零戦

   


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 映画:『点と線』(小林恒夫監督)

1958年東映
85分

 原作は『ゼロの焦点』と並ぶ松本清張ミステリーの代表作。
 そして、西村京太郎を帝王とする鉄道ミステリーの始発駅と言える。
 たしか「点は駅、線は線路」だった。
  
 原作を読んだのは中学生の時なので、ストーリーをすっかり忘れていた。
 もちろん真犯人もトリックも。
 ビートたけし主演で2007年にテレビドラマ化されているが、こちらは観ていない。
 45年以上ぶりに再会して驚いた。
 「こんなずさんなトリックだったっけ?」

 このミステリーの一番の目玉は、「東京駅ホーム空白の4分間」ってのにある。
 13番ホームで列車を待っている人物が、15番ホームを歩いている被害者二人を目撃したと証言する。
 発着列車が入り乱れる東京駅で果たしてそんなことが可能なのか?
 警察は、1日のうち17時57分から18時01分の4分間だけ、それが可能であることを突き止め、それをきっかけに容疑者を絞っていく。

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東京駅丸の内口

 このダイヤ上の「空白の4分間」を発見したことが、清張がこの小説を構想する発端になったのだと思う。
 たしかに奇抜で独創的な着眼点で、時刻表マニアや鉄道オタクでなくとも、現場に足を運んで確かめたくなるようなネタであった。
 中学生のソルティもそこに興奮したのだと思う。 
 しかるに、目撃場所をわざわざこの「稀なる4分間」に設定する物語上の必然性はない。
 東京駅であればどこだっていいのである。
 犯人は、こんな偶然とは思えないような目撃の仕方を設定したことで、かえって警察に怪しまれる羽目になるのだから、何をやっているのやら・・・?

 ほかにも、九州の福岡の海岸で殺人があった翌日に、容疑者は札幌で商談相手と会っており、とても列車では間に合わないというアリバイが築かれる。
 確かに原作が書かれ映画化された当時の(新幹線のない)列車事情では、福岡から札幌まで行くのに一日では無理である。
 警察は頭を悩ます。
 しかし当時も飛行機というものがあり、犯人は実際、飛行機を使って移動していたのだから、「なんて警察は馬鹿なんだ。飛行機を先に思いつけよ」と思わざるを得ない。

 そういうわけで、今となってはミステリーとして質的には疑問符が立ち並ぶ。
 推理小説を映画化することの難しさも含めて、映画としての出来もあまり良くない。
 本作をいま観ることの意義は別のところにある。

 ひとつは、昭和30年代の日本の風景、とくに鉄道駅や列車の姿が楽しめるところ。
 列車の発着時刻を示す駅頭の発車標が、今のような電光掲示板ではなく、反転フラップ式(いわゆるザ・ベストテン式)で、懐かしく思った。
 列車内の喫煙もあたりまえだった。

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 いまひとつは、役者を見る楽しみ。
 主演の刑事役の南広こそよく知らないが、高峰三枝子、山形勲、加藤嘉、志村喬といったベテラン勢がそれぞれにいい味を出している。
 志村喬は人間味あふれる警部を好演。
 加藤嘉は相変わらず貧乏くさい。
 犯人役の山形勲は岸田文雄首相そっくり。
 結核病みの病人に扮する高峰は、このときストレスからくる喉の病気で声を失っていた。
 弱々しい小声で話せばいい役柄だから引き受けたそうな。
 色白で細面のクールな美貌が、病床にいる人妻という役を得て、ますます冴えて見える。
 刑事役の南が、この高峰に片恋するという設定にすれば、ドラマ的に面白くなったのになあ~。

 原作を久しぶりに読みたくなった。





おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著)

2009年朝日出版社
2016年新潮文庫

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 本書は、明治維新以降に日本が戦った5つの戦争――日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変からの日中戦争、太平洋戦争――について、その発端から経緯、そして結果をたどった歴史書である。
 著者の加藤は東京大学文学部教授で、日本近現代史を専攻としている。
 本書により2010年小林秀雄賞をもらっている。

 ただの歴史書と違うのは、著者の加藤が神奈川県にある私立栄光学園という男子校を訪れ、歴史好きの中学高校生20名くらいを対象におこなった5日間の授業がもとになっているところ。
 語り口調なので、読みやすく、親しみやすい。
 適宜、生徒たちに問いを投げかけて答えを考えさせるスタイルは、読者もまた中高生と一緒に授業に参加している気分にさせてくれる。
 が、内容そのものはかなり高度。
 暗記科目とみなされやすい歴史を、必然と偶然が織りなす流れとしてとらえ、タイトル通り、当時の日本人(天皇、指導者、軍人、官僚、一般庶民)が5つの戦争を選んだ(選ばざるを得なかった)背景を考えさせるものとなっている。
 政治学、地理学、社会学、経済学、心理学、哲学を総動員するような頭の働きが求められる。
 この授業についていける栄光学園の生徒たちのレベルの高さにぶったまげた。
 (高校時代のソルティなら途中脱落すると思う)

 新たに発見された資料をもとにした研究成果が取り入れられているのも本書の読みどころの一つ。
 たとえば、ソ連崩壊後のロシアでは過去の帝国時代の資料が次々と公開されている。
 それにより、日露戦争の原因をどう解釈するか変化が起きたという。

 マルクス主義の唯物史観という学問が影響力を強く持っていた頃、1970年代までは、日本という国は、帝国主義国家として成長してきたのだから、中国東北部、つまり満州のことですが、そこに市場を求めて、ロシアに門戸開放を迫るために戦争に訴えたのだ、との解釈が有力でした。
 しかし、ロシア側の史料や日本側の史料、これが公開されて明らかになったところでは、どうも、やはり朝鮮半島、韓半島のことですが、その戦略的な安全保障の観点から、日本はロシアと戦ったという説明ができそうです。
(中略)
 戦争を避けようとしていたのはむしろ日本で、戦争を、より積極的に訴えたのはロシアだという結論になりそうです。

 70年代に歴史を学んだソルティは、アップデイトが必要だ。

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 「敗けると分かっていて戦いの火蓋を切った。」
 「敗けたと分かってからも無駄に戦い続け、延々と犠牲者を増やした。」
 太平洋戦争時の日本の指導者たちの愚かさはよく言われるところであり、それは、「考えたくないことは考えない、考えなくてもみんなで頑張ればなんとかなる」というニッポン・イデオロギーに由来すると笠井潔は喝破した。
 2011年の福島第一原発事故に象徴される日本の原発政策や、国民の過半数の反対を押し切って挙行された2020東京オリンピックや昨年の安倍元首相の国葬モドキをみると、ニッポン・イデオロギーはなおも健在であると言わざるを得ない。
 状況の客観分析なし、論理なし、戦略なし、民意無視、責任者不在の行き当たりばったり戦法である。
 しかるに、本書を読んで思ったのは、日清・日露戦争から第一次世界大戦くらいまでは、かなり国際状況を客観的に分析し、戦略的に動いて、日本の地位向上・利益拡大に努めている。
 明治維新以降、日本の近代化を主導してきた大久保利通、木戸孝允、黒田清隆、伊藤博文、松方正義、井上馨、山県有朋、桂太郎、西園寺公望といったいわゆる元老たちは、やはり優秀だったのである。
 おかしくなったのは、満州事変のあたりから。
 これらの元老たち(=ご意見番)が次々と亡くなって政治家の力が後退し、軍部が台頭するようになってからニッポン・イデオロギーの支配が強まり、結果的に日本を地獄へと導いていったようだ。
 シビリアンコントロール(文民統制)の重要性を再認識した。
 元自衛隊にいた政治家や評論家が目立って発言力を振るうようになったとき、日本は危険な領域にいると思ってよかろう。
 
 以下、とくに興味を引いた部分を引用する。

 あるアメリカの団体が、捕虜となったアメリカ兵の名簿から、捕虜となり死亡したアメリカ兵の割合を地域別に算出しました、そのデータからは日本とドイツの差がわかります。ドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は1.2%にすぎません。日本軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は37.3%にのぼりました。これはやはり大きい。日本軍の捕虜の扱いのひどさはやはり突出していたのではないか。もちろん、捕虜になる文化がなかった日本兵自身の気持ちが、投降してくる敵国軍人を人間と認めない気持ちを生じさせた側面もあったでしょう。しかしそれだけではない。
 このようなことがなにから来るかというと、自国の軍人さえ大切にしない日本軍の性格が、どうしても、そのまま捕虜への虐待につながってくる。

 日本は経済が大事なのだろう、と。国家の重要物質の8割を外国に依存している国なのだから、生命は通商関係の維持にある。通商の維持などは、日本が非理不法を行わなければ守られるものである。現代の戦争は必ず持久戦、経済戦となるが、物質の貧弱、技術の低劣、主要輸出品目が生活必需品でない生糸である点で、日本は致命的な弱点を負っている。よって日本は武力戦には勝てても、持久戦、経済戦には絶対に勝てない。ということは、日本は戦争する資格がない。
 こういうことをいう軍人(ソルティ注:水野廣徳1875-1945)がいたのです。
 (中略)
 しかし、水野の議論は弾圧されます。また国民もこのような議論を真剣に受け止めない。すぐに別のところへ議論が飛んでしまうのです。

 ルソー(ソルティ注:ジャン・ジャック・ルソー1712-1778)は考えます。戦争というのは、ある国の常備兵が3割くらい殺傷された時点で都合よく終わってくれるものではない。また、相手国の王様が降参しましたといって手を挙げたときに終わるものでもない。戦争の最終目的というのは、相手国の土地を奪ったり(もちろんそれもありますが)、相手国側の兵隊を自らの軍隊に編入したり(もちろんそれもありますが)、そういう次元のレベルのものではないのではないか。ルソーは頭のなかでこうした一般化を進めます。相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序(これを広い意味で憲法と呼んでいるのです)、これに変容を迫るものこそが戦争だ、といったのです。
 
 繰り返し読みたい本である。
 



 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● サーカスの夜 :カラー・フィルハーモニック・オーケストラ第21回演奏会


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日時 2023年7月17日(月・祝)19:40~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目 マーラー:交響曲第5番
指揮 金山 隆夫

 土日の演奏会はふつう14時開演が多い。
 が、今の時期、昼日中の外出&移動はなるべく避けたい。
 なんたって最高気温38度、都会は天然サウナである。
 この遅い開演時間、非常に助かった。
 
 金山隆夫&カラーフィルは、2019年3月にたいへん感動的なマーラー『復活』を聴いて以来。
 今回も同じマーラー、しかも最も好きな第5番なので期待大であった。
 客席は半分くらいの入り。
 入場無料!なので、もっと埋まるかと思った。

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JR荻窪駅

 ソルティがクラシック演奏会に足繁く通うようになって20年くらいになるが、素晴らしい演奏と出会ったときの証を上げるなら、
  1.  演奏時間を短く感じる
  2.  知っている曲が、まるで初めて聴いた曲のように新鮮に感じられる
  3.  作曲家と出会ったような気分になる
  4.  体中のチャクラがうずき、気の流れが活性化する 
 4つすべてが揃う演奏会にはごくたまにしか巡り合えない。
 運よく当たった時はミューズ(音楽の神)に感謝のほかない。
 本日はまさにミューズさまさまであった。

 約70分の演奏時間が体感的には30分くらいに思えた。
 ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』でお馴染みの甘美なヴァイオリンの調べが流れたとき、「えっ、もう第4楽章!?」と驚いたのなんの。
 いつも、第1楽章から第3楽章までの約40分強の長丁場を、クライマックスたる第4楽章を最大の喜びをもって迎えるための試練のように思いながら聴いていることが多い。
 忍耐と言うほどではないが、より高く飛ぶための雌伏期間といった感じで。
 が、今回はあっという間だった。
 テンポそのものは1楽章と2楽章は通常よりゆっくりめだったのだから、不思議なことよ。
 雌伏期間どころか、それぞれの楽章が主役と言っていいくらい聞きどころ満載だった。

 これまでおそらく30回以上は聴いていて耳がマンネリ化している第5番が、初めて聴いた曲のように感じられた。
 すべての楽章が新鮮、というか斬新だった。
 といって、金山の指揮には聴衆を驚かすような奇を衒ったところもなければ、21世紀を生きる音楽家ならではの新解釈なんてものもない。
 非常に丁寧に、楽譜に忠実に、振っただけのように思えた。
 だのにこの新しさ。
 いままで聴いていた5番とは別の曲のような気さえした。
 もしかして別バージョンの楽譜が新たに見つかった?・・・・なんて思うほど。

 いつもは座席の背に体を預けて目を閉じて聴いているソルティだが、今回は途中から身を乗り出して舞台を注視しながら聴いていた。
 自然と集中力が高まった。
 体のあちこちのチャクラがうずき、滞っていた気のかたまりがほぐれて体内を駆け上がるごとに、感電したかのように身体が痙攣した。
 左右が空席で良かった(笑)

チャクラと仏
 
 以前、この第5番を自分なりに解析して、「男の性」を表現していると書いたことがある。
 音楽を無理やり物語に変換することで、曲を理解した気になっていた。
 まあ、そういった聴き方もまた、クラシック音楽を聴く楽しみ方の一つとして「あり」と思う。
 が、今回の演奏ときた日には、まったく物語化を許さなかった。
 ただ音楽のみ!

 思うに、“物語化を許す”とは音楽が物語に負けているのである。
 音楽の力が、表現の力が弱いから、退屈した脳は、「この曲のテーマはなんだろう?」などと勝手に考察し始めるのだ。
 今回は、音楽の力が圧倒的で、物語をつくる脳の部位が封殺されていたのである。
 退屈している暇がなかった。

 そうやって余計な物語を介在させずに音楽と向き合えた結果、作曲家マーラーと直接出会えた気がした。
 「マーラーよ。お前は“こんな”作曲家だったのか!」
 “こんな”とは“どんな?”。
 それは、「パッチワークの楽しさ」といったようなもの。
 いろいろな国や民族の音楽ありーの、クラシック古典調ありーの、童謡風ありーの、教会音楽ありーの、メロドラマ調ありーの、ヨーロッパ宮廷舞踏風ありーの、軍隊調ありーの、チンドン屋風ありーの、ジプシー風ありーの、なんでもござれの世界である。
 ただそれを最近はやりの“多様性”と言うにはちょっとハイブロウすぎる。
 むしろ、“ごった煮”とでも言いたい庶民臭さ、アクの強さ。
 目まぐるしく表情や言語を変えてゆく音楽は、一見統合失調症的で支離滅裂に思えるが、前後の脈絡を“物語的に”追わずにその場その場の流れに身を浸して、「去る者は追わず来る者は拒まず」で楽しんでしまえば、目くるめく体験が待っている。
 そこではたとえば、ホルンのちょっとした音はずしやテンポの乱れさえ、“ごった煮”の一部に包含され、世界をいっそう豊かに、面白くするのに役に立つ。

 この“なんでもござれ”のパッチワーク的楽しさ、サーカスを思わせた。
 スリル満点の綱渡り、離れ業炸裂の空中ブランコ、滑稽だがどこか哀しい道化師のパントマイム、小人たちのコミカルな軽業、調教された虎の火の輪くぐり、玉乗りする熊、胴体を切断される美女、景気づけの花火、アコーディオンや笛太鼓・・・・。
 そう。サーカステントの中で、目の前で次々と展開されるショーをあっけにとられて見ている小さな子供のような気分であった。
 他の作曲家とは一線を画すマーラーの音楽の特質がまざまざと知られた。

 金山団長に拍手!
 お代は見てのお帰りに。(出口で募金箱に投入しました)

猛獣使い



 

● 本:『マイ遍路 札所住職が歩いた四国八十八ヶ所』(白川密成著)

2023年新潮新書

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 四国八十八札所第57番・永福寺住職による「歩き遍路体験記」である。
 映画にもなった『ボクは坊さん。』の著者で、1977年生まれとある。
 2019年4月18日に第1番霊山寺をスタートし、8回の区切りうちで、2020年11月11日に第88番大窪寺を打って結願した。
 総日数は65日。
 平均40~50日と言われるから、かなりのゆっくりペースで回ったことが分かる。
 やはり札所の僧侶だけあって、一つ一つのお寺の滞在時間が長い。
 読経が丁寧だし、知り合いの住職との交流や情報交換もある。
 顔を見知っているお遍路さんに呼び止められて記念撮影なんてこともしばしば。
 ちなみにソルティの場合、別格札所20も含めて65日だった。(これでもゆっくり)

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第88番札所・大窪寺

 『ボクは坊さん。』を読んだ時も感じたが、この人のいいところは、自然体で等身大の自分を生きて表現しているところ。
 変に悟り澄ましたり、説教臭かったり、善人ぶったり、強がったりというところがない。
 空海の言葉を引用するなど真言宗僧侶らしい面はあるものの、全般に、はじめて四国遍路を体験する42歳(厄年だったのか!)の家族持ちの普通の男がここにいる。
 札所の住職だからと言って、特別な奇跡が起こったり、空海上人が出現したり、納経の順番を融通してもらったり、地元民からより多くの“お接待”を受けたり・・・ということもなかったようである。
 誰にでも平等――これが“お四国”のいいところであろう。

 読んでいて、再び旅をしている気分になった。
 同じルートをたどり、同じ景色を目にし、同じ宿に泊まり、同じ寺や神社にお参りし、同じような楽しさや辛さを体験するのであるから、遍路体験者は共感しやすいのである。
 「ああ、自分も同じようなことがあった」という共鳴と、「ああ、自分の時とはずいぶん違っているなあ」という比較とが、体験者にとってみれば非常に楽しい作業なのだ。
 白川の場合、まさに2020年初春からのコロナ禍に当たってしまったわけで、すべての納経所が3か月間閉鎖するわ、多くの宿が営業休止になるわ、外国人の姿が消えるわ、お接待にも神経を使うわ・・・・そもそもが“非日常”の遍路行がさらなる”非日常”に脅かされていく様子が伺えた。

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空海が改築工事を指揮した満濃池(香川県)

遍路では、長い距離を移動し、丁寧に死者を悼み、聖なるものに祈りを捧げる。それはかつて人々が繰り返し行ってきたことである。そのことを「思い出す」ように取り戻すことで、人間性のバランスを再調整できるような功徳を感じ続けた。(「おわりに」より)

 四国遍路していた時、愛媛県を打ち終える頃(60番前後)に淋しさがじわじわ押し寄せてきた。
 「ああ、もうすぐ終わってしまう・・・・」
 それと同じように、本書もページが残り少なくなるにつれ、読み終えるのが惜しい気分になった。
 やっぱり、また行くことになるんだろうなあ~。
 その時には57番で本書にサインをしてもらおうか。

永福寺

 


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