ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『棺一基 大道寺将司全句集』

2012年太田出版

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春光や 房壁にある 罅(ひび)二本
差し入れの 甘夏薫る 人屋かな
凍蝶(いてちょう)や 監獄の壁 越えられず

 上の俳句からどんな詠み手を想像するだろうか?
 「房」は独居房、「人屋」は牢獄のこと。
 すなわち、詠み手は囚人である。
 これは、刑務所に収監されている男の詠んだ句集なのである。
 
 そう分かって詠んでいくと、次の句などまことに味わい深いものがある。
 たとえ、自ら牢に入れられた経験がなくとも・・・・。

黒南風(くろはえ)や 髪切りし身の おぼつかな
動き出す 朝の気配や 初氷
余寒なほ 房舎に響く 施錠音

 男の名前は大道寺将司(まさし)。
 1948年北海道釧路生まれ。
 昭和時代の政治活動家で、「東アジア反日武装戦線“狼”」という極左テロ組織のリーダーであった。
 同組織は、1974年8月に、昭和天皇が乗るお召列車を橋ごと爆破する「虹作戦」(未遂に終わった)や、死者8名・負傷者380名を出した三菱重工爆破事件を起こした。
 大道寺ら主要メンバー7名は1975年5月に一斉逮捕され、一部は超法規的措置により釈放・国外脱出した。
 釈放を拒否した大道寺は、1987年3月24日に死刑が確定し、葛飾区小菅にある東京拘置所に収監された。
 そう、囚人は囚人でも、死刑囚による俳句なのである。 
 本書の題名にとられた「棺一基」とは、絞首刑にされた囚人の遺体をおさめた棺のこと。
 大道寺は、いつ自分の番が来るかと思いながら、次々と処刑されていく牢友たちを見送っていた。

己が身を 虫干しに出す 死囚かな
縊られて 世はこともなし 実南天
棺一基 四顧茫々と 霞みけり

 俳句をつくるようになったきっかけは本書に書かれていないので分からないが、もともとアルチュール・ランボーや中原中也の詩を好んで読んでいたという。
 文学青年だったのだろう。
 故郷でアイヌへの差別を目の当たりにしたことがきっかけで日本帝国主義に反感を抱くようになり、その後反日思想を深めていったという経緯からも、虐げられているマイノリティの境遇を想像し共感できる感性と、マジョリティである自らの加害者性を自覚できる知性を備えた、ナイーブな青年像が思い浮かぶ。
 政治活動でなく宗教活動に向かっていれば、親鸞のような宗教家になったかもしれない。
 次のような句をみると、獄中にいて他者の身の上を思いやる大道寺の“やさしさ”が知られる。 

秋海棠 苦海に生きし 女たち
みなしごの また生まれけり 星月夜
帰りゆく あぶれ土工や 冬の雨
福島の 無人の町に 散る桜

 いったい、どんな男が苦海に生きる女(=春を売らざるをえない女)の苦しみを想像し得るだろう? 
 自らは、長く独房にいて、性欲を満たす機会がない一種の飢餓状態にあるというのに。
 どんな男が、日雇い仕事にあぶれた土工の境遇に心を寄せるだろう?
 自らは、処刑されるのを待つことだけが仕事だというのに。
 なんだか鎌倉幕府の将軍にして歌人源実朝の和歌に通じるものを感じた。
 次のような身の回りの風物を詠んだスケッチもまた実朝風である。

天宆の 剥落のごと 春の雪
訪ひくれし 蜘蛛の走りの 速きこと
雨ざんざ 角凛凛と 蝸牛
翅一枚 遺して蝉の 食はれけり

 27歳で逮捕されてから獄中の30年余が過ぎ、大道寺はがん(多発性骨髄腫)を患う。
 最後は壮絶ながんの痛みと闘いながらの句づくりであった。

骨疼き 雨だと知れり 初桜
飛花落花 褥瘡(じょくそう)の夜の 明けにけり
重力を 総身にて受く 梅雨の星

 大道寺将司は、2017年5月24日に処刑を待たずに病死した。
 68歳だった。

死者たちに 如何にして詫ぶ 赤とんぼ
人として あること哀し 梅一枝

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Annette MeyerによるPixabayからの画像





おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損















● なんなら、奈良31(奈良大学通信教育日乗) 祝!卒論提出資格

 3月中旬に受けた「文化財修復学」のスクーリングと「考古学概論」の試験結果が届いた。
 どちらも無事合格、ホッとした。
 とくに、「考古学概論」はなかなか苦労したので、これで手を離れると思うと、胸の土層から遺物が取り除かれる思い(笑)
 なにより重要なのは、これで卒業論文を書く資格が得られたことである。

 大学から送られてきた「ハンドブック」によれば、卒論を提出するためには、最低限、次の単位を修得する必要がある。
  1.  これまでに76単位以上を修得している。(3年次編入生は入学後12単位以上)
  2.  文化財学(or 史学)講読Ⅰを修得している。
  3.  文化財学(or 史学)演習ⅠあるいはⅡを修得している。
  4.  概論5科目のうち、2科目以上を修得している。
 2024年10月1日入学のソルティの場合、3年次が修了した時点(2025年9月30日)で上記それぞれについて、
  1.  80単位修得
    入学時に修得 64単位
    3年次に修得 16単位(7科目)
             計 80単位
  2.  3年次に文化財学購読Ⅰを修得(テキスト科目)
  3.  3年次に文化財学演習Ⅰを修得(スクーリング科目)
  4.  3年次に美術史概論を修得(テキスト科目)
 1~3は3年次終了時点ですでにクリアしたので、今回の「考古学概論」修得により4の条件も満たし、次の履修登録(本年9月)で卒業論文を登録し、合わせて卒業論文計画を提出することに相成ったわけである。
 ソルティは最初から3年計画で卒論を仕上げる心づもりでいたが、3年次編入生で最短2年で卒業したい人は、6400字のレポートが課せられる概論を3年次に2つ以上修得しなければならないのだから、大変である。
 ネットの体験談ブログを読んでいると、仕事をしながら2年間で卒業したという人もいるようで、ほんとに優秀だと思う。

 4年次に入ってからは、ここまでに2つのテキスト科目(「書誌学」、「考古学概論」)と3つのスクーリング科目(「考古学特殊講義」、「文化財学演習Ⅱ」、「文化財修復学」)を修得している。
 つまり、入学してからここまで(4/10現在)で、計28単位(+64単位)を修得。
 卒業に必要な単位は60単位(+64単位)なので、約半分達成ということになる。

 ソルティは、卒論合格後もしばらくは奈良大学に籍を置き、いろいろ学びたいと思っている(万年学生プラン適用)ので、ここからちょっと学科のほうはペースダウンするつもり。
 夏の終わりまでには卒業論文のテーマを決めなければならないし、来年はそれこそ卒論に全力投入することになるだろう。 
 この夏は、いろいろな所に行って、いろいろなイベントに参加して、いろいろな本を読んで、「これだ!」と思うテーマが下りてくるのを待つ。

 道半ばなれど、とりあえずワインでKP!
 
 

● ポーランド暗黒SF 映画:『ゴーレム』(ピョトル・シュルキン監督)

1979年ポーランド
93分、白黒

 イメージフォーラム上映中のポーランド暗黒SF《文明の終焉4部作》。
 『宇宙戦争 次の世紀』(1981)が衝撃的だったので、ふたたび足を運んだ。
 日曜日だったが、数えられるくらいの入りだった。
 ゴーレムとは、ユダヤ教の伝説に登場する動く泥人形のことで、ヘブライ語で「胎児」を意味する。作った主人の命令だけを忠実に実行する怪物である。
 本作では、世界核戦争後の人口減の対策として、政府によって秘密裏に造られたクローン人間をゴーレムに見立てている。
 ある日誕生したゴーレムの男は、彫金の仕事をしていたこと以外、自分がどこの誰だかわからず、記憶もなく、周囲の状況もつかめない。
 いわば、記憶喪失になってアイデンティティが失われた状態。
 もちろん、自分がクローン人間だとは思いもしない。
 殺人容疑で警察の尋問を受けるが、何一つ答えようがない。
 隣人たちの奇態なふるまいに困惑し、理解不能の世界になんとか意味を見つけようと行動するが、謎は深まるばかり。
 そんな彼の動向を監視している者たちがいた。

 あたかもカフカの小説のような不条理の世界である。
 現在では、『トータル・リコール』、『アジャストメント』などフィリップ・K・ディック原作の映画群をはじめ、「アイデンティティ喪失」というテーマは珍しくないが、1979年では画期的だったのではなかろうか。
 そうしたテーマが思いつくような社会(全体主義管理社会)にピョトル・シュルキン監督が生きていたことの証なのかもしれない。

 映画自体は、ストーリーが単調なうえ、説明不足が目立ち、面白味を欠く。
 もうひとひねりほしい。
 途中眠気と戦った。
 




おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● ハイFの衝撃 : METライブビューイング V.ベッリーニ作曲オペラ『清教徒』

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メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)

上演日 2026年1月10日
会場  メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
キャスト
  • エルヴィーラ: リセット・オロペーサ(ソプラノ)
  • アルトゥーロ: ローレンス・ブラウンリー(テノール)
  • リッカルド : リカルド・ホセ・リベラ(バスバリトン)
  • ジョルジョ : クリスチャン・ヴァン・ホーン(バスバリトン)
指揮 マルコ・アルミリアート
演出 チャールズ・エドワーズ
上映時間 3時間41分
言語 イタリア語

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銀座東劇METライブビューイングにて鑑賞

 『清教徒』はベルカントオペラの極である。
 全編、美しいメロディ、美しくアクロバティックな歌声が、これでもかとばかり溢れ来る。
 オーケストレイションもシンプルで耳障りな不協和音がない。
 作業BGMにぴったりの耳に心地好いオペラである。(そのぶん、生の舞台でないと、アリアと重唱以外のパートで退屈して眠くなってしまうリスクがある)

 美しく感動的で万人に愛されるメロディを作る才において、ベッリーニに並ぶ作曲家はいない。
 現在のTVドラマや映画において重要な場面で効果的に使われるBGMの原点をたどれば、ベッリーニに突き当たるんじゃないかとソルティは思う。
 ベッリーニの音楽を使って現代ドラマを作っても、まったく違和感はなかろう。
 とくに悲しいシーンで流される悲哀のメロディにおいて、ベッリーニを超える作曲家はいまだに現れていない。
 荒唐無稽の紋切り型ストーリーと分かってはいても、ベッリーニの音楽がかぶさると、自然涙腺が緩んでくる。
 物語に依らずとも音楽単体で、人の琴線を鳴らし感情を揺り動かす力を担えることを、確認させられる。
 33歳で亡くなったベッリーニの遺作にして、もっともベルカント的すなわち歌の美しさとテクニックを追求したオペラが、この『清教徒』である。
 
 上演に際しての難しさは歌のテクニカルな部分にある。
 主役の2人、エルヴィーラを歌うソプラノとアルトゥーロを歌うテノールには、途方もなく難しい歌唱と強靭な声帯が要求される。
 例としてよく上げられるのが、第2幕のエルヴィーラの30分にわたる一人舞台〈狂乱の場〉。ここで主役ソプラノは、声域とテクニックの限りを尽くして狂気を演じなければならない。
 また、第3幕フィナーレの四重唱では、アルトゥーロに裏声でない地声による「ハイF」が要求され、テノール歌手泣かせになっている。
 世界三大テノールの一人ルチアーノ・パヴァロッティは、「キング・オブ・ハイC」の異名で知られたが、「ハイF」は音階でいえばその3つ上、高い「ファ」である。(ちなみに、1980年に大ヒットしたクリスタルキング『大都会』の冒頭の最高音が「ハイC」つまり高い「ド」である)
 エルヴィーラとアルトゥーロ、完璧に歌いこなせる2人の歌手がなかなか揃わないので、なかなか上演される機会がめぐって来ないのである。

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清教徒革命の立役者、オリバー・クロムウェル
Ron Porter
によるPixabayからの画像

 さすが世界のメトロポリタンオペラ。
 エルヴィーラ役のリセット・オロペーサも、アルトゥーロ役のローレンス・ブラウンリーも、見事に歌っている。
 ベッリーニの抒情たっぷりの美しいメロディラインを尊重しながら、申し分のないテクニックを披露している。
 とくに、今回初めて存在を知ったローレンス・ブラウンリーの「ハイF」の衝撃たるや!
 「大都会」が壊滅するかと思った。
 この一音を聴けただけでも、はるばる銀座まで出てきた甲斐があった。

 ローレンス・ブラウンリーは、現在ベルカントオペラの諸役で世界中の歌劇場から引っ張りダコという。
 それも当然と思ったが、一方、時代の変化をしみじみと実感するところもあった。
 というのも、ブラウンリーは黒人なのである。
 マリアン・アンダーソン、レオンタイン・プライス、シャーリー・ヴァレット、キャスリーン・バトル、ジェシー・ノーマン・・・・黒人女性歌手のオペラ界での奮闘と活躍は知っていたが、黒人男性歌手については知らなかった。
 脇役や準主役でのキャスティングはこれまでにもあったと思うが、黒人のテノール歌手が主役で歌っているのを観たのはこれが初めて。

 最初のうちは、黒人男性が中世イングランドの王党派の騎士に扮して、清教徒の白人の娘と恋に陥る設定に違和感を覚えた。とくにブラウンリーが、可愛らしい子熊体型をしていて、演技も決して上手とは言えないだけに。
 それが一声歌い始めるや、違和感が消えて不自然を感じなくなってしまう。
 これぞ歌の力。
 いまだにアメリカには黒人差別の色が根強く残っている。
 METでのブラウンリーの活躍を苦々しく思っている輩も少なくなかろう。
 奇跡の「ハイF」で吹き飛ばしてほしい。

 惜しむらくは、花粉症で頭がぼーっとしていたせいなのか、東劇の古い音響システムのせいなのか、歌声がスクリーン内に籠って鮮明さを欠いている印象を受けた。
 次回からはMOVIXで視聴しよう。

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トゥリオ・セラフィン指揮、マリア・カラス主役『清教徒』(東芝EMI)
これを超えるものはいまだにない








● きれいはきたない、きたないはきれい 映画:『サブスタンス』(コラリー・ファルジャ監督)

2024年フランス、アメリカ、イギリス制作
142分

サブスタンス

 凄まじくもおぞましい映画である。
 生理的な衝撃はちょっとたとえようがない。
 観終わってからウィキで調べ、女性監督の手によるものと知って、納得がいった。
 昨今、ジェンダーの違いをもって何かを語るのはリスキーだとは知っているが、やっぱり、女性でないと本作は撮れないよなあと思わざるを得ない。

 強いてジャンル分けするなら、SFホラーサスペンスにくくられると思うが、何より顕著なのはエログロである。
 大方のヘテロ男性視聴者を喜ばすであろうエロティシズム(たとえば、レオタードを身に着けた若い美女のピチピチした肢体)がふんだんにあり、男たちの身体の一部を変貌させるものと思われる。(ソルティはゲイかつシニアなのでそよとも動かなかった) 
 ルッキズムやエイジハラスメントに対する批判のかまびすしい昨今、これほど女性の“若さと美貌の特権”を前面に押し出した映画も珍しい。
 女性監督だからこそ批判を恐れずにできたのではないか、と思うのである。
 ファルジャ監督の声が聞こえるようだ。
 「わかってるわよ。あんたら男は、こういうのが好きなんでしょ?」

女性ヌード
こういうの

 また、グロテスクについて言えば、デミ・ムーア扮する往年の美人女優がどんどん醜くなっていく過程が描かれるのだが、そのグロテスク化の度合いが限界突破している。
 これもまた、ヘテロの男性監督だったら、ここまで女性を貶められないのではないか、ここまで生理的嫌悪を極められないのではないかと思われる。
 思い出したのが、吉田秋生の漫画『吉祥天女』である。
 美貌の女子高生ヒロイン叶小夜子が人の来ない化学実験室で不良男子生徒たちに襲われそうになる場面で、小夜子は手にしたナイフで一人の男子生徒の片耳をざっくりと切り落とす。
 床にぽたりと落ちた耳と血にまみれたナイフを見てひるむ不良達を見て、小夜子は言い放つ。
 「・・・血がこわいの? 女はね、血なんかこわくないのよ・・・。だって毎月血を流すんですもの」
 つまり、生理的なグロに対する耐性において、男性は女性に敵わないと思うのだ。

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吉田秋生『吉祥天女』(小学館)

 80年代初頭、『エレファント・マン』という、英国に実在した畸形の男の生涯を描いた映画があった。
 「人間は内面の美しさこそ大切」というヒューマニズムのオブラートに包まれていたが、映画が大ヒットした一番の理由は、珍しい見世物に人が集まるように、好奇心から多くの人が映画館に足を運んだからであった。
 次第に醜く人間離れしていくデミ・ムーアの最終形態は、エレファント・マンを軽く凌駕するグロテスクさと阿鼻叫喚の断末魔で、「ここまでやるかあ?」と息をのんだ。
 老いと美貌の衰えに苦しむ往年の美人女優という、まさに自身と重ね合わせられてしまうリスクをあえて引き受けて、見事に演じきったデミ・ムーアの役者根性にたまげた。
 吉永小百合には絶対にできない役である。

 エログロてんこもりな一方で、美術や映像はスタイリッシュで、演出も小気味いい。
 再生医療で若く美しく蘇ったデミ・ムーアの“分身体”を演じるマーガレット・クアリーが、ほんとに美しくてエロい。
 野心家で調子のいいTVプロディーサーを演じるデニス・クエイドも、竹中直人的怪演が光っている。
 
 エロくてグロくて、美しくて醜い。
 「きれいはきたない、きたないはきれい」
 シェークスピア『マクベス』に出てくる魔女たちのセリフのような作品。
 元ネタは、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』あたりか? 





おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』(宮崎賢太郎著)

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2014年吉川弘文館

 隠れキリシタンと聞いてソルティの脳裏に思い浮かぶイメージは、次の2つである。

 まず、遠藤周作著『沈黙』とマーティン・スコセッシ監督によるその映画化
 すなわち、徳川幕府の禁教政策下における迫害・殉教・潜伏のシリアスなイメージ。
 外国からの宣教師がいなくなったあとも、密かに暗がりに集まって十字架やマリア観音を拝みながら、キリストの教えと信仰を守り、子孫に伝え続ける敬虔な村人たちの姿。

 いま一つは、諸星大二郎のコミック『妖怪ハンター・生命の木』で描かれた、東北の山中の「かくれキリシタン」の末裔が暮らす部落の物語。
 こちらは、聖ジョン(ヨハネ)を「さんじゅわん(3人のじゅわん)」と解したり、ジーザス(イエス)を「善ず」となまったり、300年以上の潜伏で変容しきったキリスト教の奇怪な姿が描き出され、しまいには「おらといっしょに、ぱらいそさ、いくだ‼」の衝撃展開。
 コミカルなまでの邪教色と怪奇色。
 諸星の非凡な創造力に感嘆した。

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 本書を読む前に、いくつかの疑問があった。
  1.  なぜ戦国・江戸時代にこれほど多くの民がキリスト教に改宗したのか?(江戸初期において総人口の約3%=約30万人)
  2.  彼らはどこまでキリスト教を理解していたのか?
  3.  なぜ秀吉や家康はキリスト教を禁止したのか?
  4.  なぜ多くのキリシタンは迫害にかかわらず棄教しなかったのか?
  5.  隠れキリシタンはいつまで存在したのか?
 著者の宮崎賢太郎は、1950年長崎生まれ。
 学生時代に地元長崎の生月島のカクレキリシタンのフィールドワークを行ったことをきっかけに、30年以上にわたり長崎県下のカクレキリシタンの調査研究を行ってきた。
 本書には、長年の研究から見えたカクレキリシタンの実像が報告されている。
 それは冒頭に書いたソルティの2つの「隠れキリシタン」イメージとは相当に異なるものであった。

 ここで宮崎が「カクレキリシタン」というカタカナ表記を用いたのには理由がある。
 徳川幕府がキリスト教を禁止し外国人宣教師を追放・抹殺してから、キリシタンは地下に潜らなければならなくなった。実際に“隠れ”る必要があった。
 が、明治に入って1973年に禁教令が撤廃されたあと、江戸時代から先祖代々のキリシタン信仰を守り続けてきた人々は、キリシタンであることを秘して“隠れ”る必要はなくなった。
 この両者を同じ「隠れキリシタン」という言葉で表現するのは適当でないからである。
 そこで宮崎は、キリシタン禁教令が出されていた江戸時代の信徒を「潜伏キリシタン」、禁教令が撤廃された後も潜伏時代の信仰形態を続けている人々を「カクレキリシタン」と区別しているのである。

 なので本書は、主として、明治~昭和・平成までのカクレキリシタンの実態について書かれているわけであるが、かと言って、潜伏キリシタンとカクレキリシタンの信仰形態に大きな違いがあるわけではない。
 重要なのは、宣教師がいなくなって日本人キリシタンだけになってから、もともとのキリスト教の教義が失われ、儀礼の方法も自己流になっていき、代が変わるにつれ変容の度合いを深め、表面上はキリスト教っぽい形態を残しながらも中身はまったく異なるものに様変わりしたという点である。

 本書は、1549年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本にもたらされた経緯からはじまって、キリシタンが爆発的に増えた理由や日本人の理解レベル、秀吉や家康が禁教令を出した理由、転ばずに殉教を選んだ者の心理、潜伏時代のキリシタンの状況、そして明治以降のカクレキリシタンの信仰に関する実態――組織形態、信仰対象、祈り、行事、洗礼・葬送儀礼、本書執筆時における現状など――が、読みやすくまとめられている。
 小説や漫画やマスメディアを通して得られる紋切り型のイメージではなく、地道で粘り強い長年のフィールドワークを通して得られた研究結果であるだけに信頼が置けるし、そうした実証的な報告によらずにイメージだけで何かを判断することの軽率さとリスクを思わされた。

ザビエル銅像
鹿児島市内にあるフランシスコ・ザビエルの肖像
教科書の肖像画とまったく似てない
 
 宮崎は、江戸時代の潜伏キリシタン、および明治以降のカクレキリシタンの実像について、以下のように述べている。

 唯一絶対なる神の存在を説くキリスト教に改宗することは、仏壇や位牌も焼き捨て、その他あらゆる日本の諸神仏は偽りの神として否定するということにほかなりません。
 ご先祖様をこれほど大切にする日本人が、そんなに簡単に仏壇や位牌を焼き捨てることができたはずがありません。筆者は高山右近のような一部の例外的な人物を除けば、日本人の中で本当の(一神教としての)キリスト教信仰を理解し、実践することができた人はほとんどいなかったのではなかろうかと考えています。

 キリシタンは南蛮渡来の新たな仏教の一派として、在来の神仏よりも一層願いを叶えてくれる力ある神として仲間に加えられたのです。・・・・神も仏も、キリストもマリアも、彼らの願いを等しく叶えてくれるありがたい存在であり、在来の多神教的神仏信仰の上にさらにキリシタンという新たな神を一つ重ねたにすぎませんでした。

 カクレキリシタンは隠れているのでもなければ、キリスト教徒でもなく、キリスト教的雰囲気を醸し出す衣をまとった典型的な日本の民俗宗教の一つといっていいでしょう。

 カクレキリシタン信仰の本質を一言で言い表すとすれば「フェティシズム的タタリ信仰」といえるのではないでしょうか。

 潜伏時代より明治以降現代に至るまで、日本におけるキリシタン信仰の本質はキリスト教と見なすことができるようなものではなく、日本の民衆社会における呪術的信仰に根ざしたものであるということができるでしょう。

 まったくのところ、日本における仏教受容の様相と変わるところがない。
 末木文美士著『日本仏教史』の記述を思い出した。

 こうした仏教の受容の仕方は、単にその時点だけの問題だけでなく、日本仏教全体の問題として後まで尾を引くことになる。すなわち、法(教理・思想)や僧(教団)よりも仏の崇拝が中心であること、難しい理論ではなく現世利益が重んじられること(のちにはこれに死者供養が加わる)、古来の神の崇拝と一体化することなど・・・

 つまるところ、日本の民衆がキリスト教を理解することはなく、日本にキリスト教が根付くことはなかったのである。

 本書により、冒頭の5つの疑問に対する答えが得られた。

1 なぜ戦国・江戸時代にこれほど多くの民がキリスト教に改宗したのか?
 イエズス会は上層から下層への改宗を企んだ。
 つまり、日本の厳しい身分制度を利用して、トップ(大名)をまず改宗させ、下の者がそれに倣うよう仕向けた。また、できるだけ早く信徒を増やすため、とりあえず洗礼を授けることを優先した。
 トップの者が改宗した一番の理由は、南蛮貿易の利得のためであった。

2 彼らはどこまでキリスト教を理解していたのか?
 上記引用どおり。
 カクレキリシタンに伝わる祈り(オラショという)では、キリスト教における重要な用語にいろいろな漢字が当てられた。たとえば、
   デウス(Deus=神)⇒出臼
   ヒィリョウ(Fillio=キリスト)⇒肥料
   サンタマリア(Sancta Maris=聖母マリア) ⇒三太丸屋
   クロス(Cruz=十字架) ⇒黒須
 こうした例を見ても、原義をほとんど理解しておらず、音(オン)だけを呪文のように大切に唱えていたことが知られる。(考えてみれば、お経の場合も同じではないか)
 諸星大二郎の『生命の木』の話もまったく奇想天外というわけではなく、実際にサン・ジョン(聖ヨハネ)を「三じわん様」と誤って理解していた例もあった。  

3 なぜ秀吉や家康はキリスト教を禁止したのか?
 かつて高校時代の日本史の授業で、「キリスト教の“神の前ではみな平等”という思想が、江戸時代の身分制度を崩壊させる危険があったため」というもっともらしい説明を聞き、そのまま覚えこんだものだが、考えてみるとこの理由はおかしい。
 ヨーロッパ封建時代にキリスト教が全盛を極めた事実と矛盾するからだ。
 現今の日本史教科書(山川出版)には次のように書かれている。

 家康に禁教を決意させたのは、あらたに来日したオランダ人やイギリス人が、スペインやポルトガルの植民地政策の危険を説いたからでもあった。

 一般にキリシタン一揆と言われる島原・天草の乱も、厳しい禁教政策と過酷な年貢の取り立ての結果として起こったのであって、そこに何か体制転覆的な(民権運動的な)性格を見るのは筋違いであろう。
 そういえば、ソルティの高校時代の日本史の先生は全共闘世代だった。

4 なぜ多くのキリシタンは迫害にかかわらず棄教しなかったのか?
 宮崎は次のように推測している。
 まず、大名や武士の場合。

 キリシタンを捨てなければ殺されるからといって、死を恐れて神を捨ててしまう行為は、武士にあるまじき卑怯な振る舞いであり、命より大切な武士としての名誉を失い、恥辱を受けることになってしまうからです。キリストのためではなく武士としての己の名誉を守るための道を選んだのです。

 農民や漁師など民衆の場合。

 日本人は目新しいキリシタン風の衣をまといはしましたが、その下にある現世利益を求める呪術信仰という性格にはほとんど変化はなかったといってよいでしょう。キリシタンに改宗した民衆も、このようなありがたいキリシタンの神をいただいたわけですから、それを捨てろと言われても簡単には捨てられなくなったわけです。

 ちょっと、この理由づけは説得力に欠く気がする。武士の場合の「名誉」のように、命に代えてでも守りたかった、あるいは失いたくなかった何かがあったと思うのだが・・・。
 むしろ、幕末に起きた浦上教徒殉教事件に関して、中村博武(プール学院大学短期大学部)が著書『宣教と変容 明治期キリスト教の基礎的研究』(思文閣)の中で述べている次の説のほうが納得いく。

 浦上の信徒が棄教しなかった外的要因は、村全体で隠し続けてきた共同体の強い精神的絆が断絶しないようにするためであり、内的要因としては、もし棄教すれば、先祖代々隠れて守り伝えてきた祖先や家族との信仰の結びつきが断ち切られることになり、信仰共同体から仲間外れにされることへの恐れであった。

 仲間外れにされることの恐れ・・・・。
 つまり、日本人お得意の「同調圧力」が作用したという見解である。

5 隠れキリシタンはいつまで存在したのか?
 潜伏キリシタンが存在したのは、禁教令が解かれる1873年までである。
 カクレキリシタンは、昭和20年代には九州地方を中心に3万人弱いたらしいが、高齢化と人口減などのため組織の解散が加速し、現在、数えられるくらいしかいない。

マリア観音
秩父美術館のマリア観音

 宮崎は、日本の民衆の間に根付いている諸宗教の特徴として、4点を挙げている。
  1.  重層信仰・・・・・神道、仏教、儒教、修験道、民間信仰などのごった煮
  2.  祖先崇拝・・・・・「家」制度を根底に持つ先祖供養
  3.  現世利益志向・・・商売繁盛、無病息災、五穀豊穣、大漁満足、良縁祈願、厄除開運
  4.  儀礼主義・・・・・教義(ナカミ)の理解よりも儀礼(カタチ)の継続が大切 
 まったくその通りだと思う。
 唯一絶対神を崇拝し、来世志向で教義(教典)重視のキリスト教やイスラム教とはまったく異なる。
 布教や信教の自由が保障されている現在の日本でも、キリスト教の布教はうまくいっていない。
 お隣韓国では人口の30%がクリスチャンだというのに、日本ではカトリックとプロテスタント合わせても1%に満たない。
 いや、キリスト教だけではない。
 仏教もまた、本来の釈迦仏教(原始仏教)は長いこと日本に広まることはなく、上記4つの特徴を兼ね備えた大乗仏教がもてはやされてきた。
 ソルティは原始仏教に近いと言われるテーラワーダ仏教を学んでいるけれど、それが変容を遂げることなしに多くの日本人に取り込まれることはまずないだろう。
 遠藤周作はこのような日本人の根底にある宗教風土を「沼」と表現した。
 カクレキリシタンの実像は、まさに日本人の「沼」的宗教観の典型を示すものなのである。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 映画:『サッパルー!街を騒がす幽霊が元カノだった件』(ティティ・シーヌアン監督)

2023年タイ
125分

サッパルー

 サッパルー(สปั เหร่อ)とはタイ語で「葬儀屋」の意。
 貞子系ホラー+ゆるコメディ+VFX恋愛スピリチュアル+『おくりびと』系人生ドラマ=ウミウシ映画といった感じ。
 タイでは2023年の興行収入ランキング1位、日本円で30億円越えの大ヒットを記録し、数々の賞を受賞している。

 期待してレンタルしたのだが、ちょっと拍子抜け。
 つまらなくはないし、凡庸でもないし、演出や映像も悪くないし、役者も個性的で楽しい。
 が、ホラーとしては怖くないし、コメディとしては爆笑するようなところもないし、恋愛映画としては状況が説明不足だし、人生ドラマとしてはまさに『おくりびと』の二番煎じで目新しくはない。
 日本人からしてみれば、なにがそんなにタイ人にウケたのだろう?――と不思議に思うのだが、おそらく本作の地方色――東北方言が強いため標準タイ語の字幕がつけられたという――が、日本に置き換えて言えば、全編山形弁の秘境風土映画みたいな新奇さを与えたのではないかと推測する。

 ストーリーは、妊娠中の女性バイカーオが首つり自殺するというショッキングな映像から始まる。
 恨みをかかえ成仏できずにいるバイカーオの霊があちこち出没し、村中大パニックになる。
 ここまでは順当に正統派ゴーストホラーなのだが、そのあと、彼女の元カレのシアンが出てきて、「今でもバイカーオが好きだ。幽体離脱して再会したい」と言い出し、その秘訣を知る村でただ一人のサッパルー(葬儀屋)に弟子入りし教えを乞う。流れはコメディ&恋愛スピリチュアル路線に転じる。
 シアンは幽体離脱に成功し、幽現界(?)でバイカーオに再会し、思いを伝えることができた。
 なんだかよくわからない。

 バイカーオが成仏できない理由は、普通に考えれば、元カレのシアンではなく、彼女を妊娠させ自殺するまでに追い込んだ今カレとの関係が原因であろう。
 バイカーオが恨みを果たすべき相手は、今カレであるべきだ。
 が、なぜか本作には今カレは姿を現さず、バイカーオが自殺するに至った経緯も描かれない。
 バイカーオの霊が最終的に成仏できたのかどうかも判然としない。
 シアンの自己満足が描かれるだけ。
 なんという中途半端。
 
 一方、村でただ一人の葬儀屋ザックは病魔に侵されている。
 誰かに仕事を継いでほしいが、都会の弁護士を目指すインテリの息子ジャックをはじめ、成り手がいない。
 そのうちザックの病状が悪化し、ジャックとシアンは仕方なく代理で葬儀を執り行うことになる。
 数々の現場を回るうちに、ジャックはサッパルーの仕事の大切さを知るようになる。
 ここはまさに『おくりびと』的ドラマである。
 この部分では、タイの地方の風変わりな葬送儀礼が描かれていて興味深い。(どこまで事実なのかわからないが)

 葬送儀礼ってのは、その土地に住む人間の、あるいは特定の宗教を信仰する人間の死生観、来世観が象徴的に示されている。時代によっても違う。
 ちょっと調べてみると面白いかも。


 
 
おすすめ度 :★★

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● ヤンチャな青春のつけ 本:『テロリストのパラソル』(藤原伊織著)

1995年講談社
1998年文庫化

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 第41回江戸川乱歩賞、第114回直木賞に輝いた快挙作。
 今のところ同じ一つの作品で両賞を獲った作家はいない。
 それだけの価値ある、書き手の実力のほどを感じさせる小説である。

 なにより面白い。
 冒頭の新宿中央公園での爆弾テロで読む者を物語世界に引き込むや、スピーディーかつ緩急自在にプロット展開し、多様な過去を背負った魅力的な人物を登場させ、一気に大団円まで持って行く。
 文章もとても上手く、リズムが良い。
 とても新人作家の手によるものとは思えないレベルと思ったら、プロフィールによると、藤原は1985年に第9回すばる文学賞を受賞している。
 少なくとも10年以上の小説修行を積んでいたのである。

 タイトルの「テロリスト」という言葉から、ソルティは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ以降の国際テロを想像し、秘密結社が暗躍する世界を股にかけた政治スパイ小説のようなものを想像していた。
 が、基本的にハードボイルドミステリーである。
 ミステリー好きなら同意してくれるかと思うが、レイモンド・チャンドラーのある小説に似ている。オマージュと言ってもいい。
 読みながらその印象が強くあったため、結末が予想できてしまい、真犯人の意外性が削がれたのはちょっと残念であった。 
 
 考えてみたら、令和現在の「テロリスト」という語感と、本作が刊行された1995年当時のそれとはずいぶん違っているかもしれない。
 95年3月にはオウム真理教地下鉄サリン事件があったから、ひょっとしたら、宗教テロの話を想像して読み始めた人も多かったのではなかろうか。
 60年代生まれのソルティは、「テロリズム」という言葉から、地下鉄サリン事件や9・11以降のイスラムテロを連想するけれど、そこに世代の、というか時代のギャップがあった。
 藤原伊織は1948年生まれ。全共闘世代なのである。

 全共闘世代の、あるいは彼らを含む左翼が日本社会を揺り動かした動乱の時代を知る者にとって、「テロリズム」はその時代を知らない者にはうかがい知れぬ、特別の響きと生々しさを伴った言葉なのかもしれない。
 なので、ソルティにとって本作の意外性は、真犯人の正体云々よりも、本作が全共闘の残党(?)を主人公とし、本作のプロットが「全共闘、その後の人生」を描いているところにあった。
 そういう話とはまったく想像していなかった。

 全共闘で気を吐いた若者たちは、その後、長い髪を切ってスーツを着て企業戦士となったり、結婚して主婦となってパートで働いたり、おおむね社会化・体制順応化していったわけだが、中にはそうすることができずに、「いつまでも見果てぬ夢を追い続ける」あるいは「青春のつけを残りの人生で払う」みたいな生き方になった人もいる。
 笠井潔はそういった群像をミステリーの中で書いているし、現実においても、(全共闘ではないが)60年安保闘争の立役者だった唐牛健太郎(かろうじけんたろう)などは、生涯公安に監視され続け、職を転々とした。

 本作の主人公は、青春の志を貫いて革命家(テロリスト)として生きることもできず、かと言って、体制に与して一億総中流の家庭人や企業戦士となることもできず、宙ぶらりんなままにアルコール中毒に陥っている。
 そのような“青春の蹉跌”を描いたところに、本作の一番の魅力と高い評価の理由があるのではなかろうか。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● なんなら、奈良30(奈良大学通信教育日乗) 大和古道の旅人

 2泊3日のスクーリングを終えたあと、天理にある奈良健康ランドに泊まった。
 入館料大人2200円のところ、60歳以上と学生は1320円である!(深夜料金は別途1650円)
 受付で嬉々として学生証を提示したけれど、あとから気づいたがシニアでよかった(笑)

 これまでこの施設に行くときは、JR郡山駅(豊臣秀長のお城がある町)か近鉄平端駅発着の無料送迎バスを利用していた。今回も平端駅からの送迎バスで入店した。
 が、調べてみたら近鉄二階堂駅から歩いて15分の距離にあった。
 バスの発車時刻に合わせて行動しなくてもよいのであった。
 露天風呂やヒノキ風呂や薬草風呂やサウナを満喫し、広い休憩スペースのリクライニングチェアですっかりくつろいだ翌朝、二階堂駅へ向けて出発した。

DSCN8172
奈良健康ランド

 二階堂駅まではほぼまっすぐの一本道。
 これがなんと由緒ある道、すなわち大和古道だったのである!

 大和古道とは、日本の古代道路のうち、大和国内に設置されたもの。
 奈良盆地の中央より東側を南北に平行して伸びる三本の縦貫道、つまり、平城京(現・奈良市)と藤原京(現・橿原市)をつなぐ幹線道路で、東側より順に、上ツ道(かみつみち)、中ツ道(なかつみち)、下ツ道(しもつみち)と呼ぶ。
 三道は、ほぼ4里(約2120m)の等間隔をなしており、現在でも形跡が残っている箇所も存在する。

大和の古道2
大和古道
文化財学購読Ⅱ
のスクーリング時に奈良文化研究所・藤原京跡資料室で撮影した資料

 上ツ道は、桜井市から奈良盆地東端の山沿い(山辺の道近く)を北上して、天理市を経て奈良市中部(猿沢池)に至る。
 中ツ道は、橿原市の天香具山北麓から奈良市北之庄町に至る。南は藤原京の東京極をなし、北は平城京の東京極をなしていた。
 下ツ道は、藤原京の西京極から、奈良盆地の中央を北上し、平城京の朱雀大路につながる。橿原市から天理市にかけては、現在の国道24号とおおむね合致・平行する。
 奈良健康ランドから近鉄二階堂駅に向かう道は、下ツ道の一部だったのである。

DSCN8171
敷設年代は、7世紀半ば頃と推定されている。

DSCN8170
 『日本書紀』に壬申の乱の時に武士が通ったとある。
 奈良の寺社詣、伊勢、吉野、高野山参りの信仰遊山の道でもあった。
 710年に藤原京から平城京に遷るときは、元明天皇はじめ貴族や役人や僧侶たちはこの道を通ったに違いない。

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地蔵堂
 ここに膳夫姫(かしわでひめ)ゆかりの膳夫寺があったという。
 膳夫姫と聞いてピンとくる人は、相当の古代史通あるいは仏像通あるいは漫画通である。
 法隆寺金堂の釈迦三尊像は、聖徳太子とその后である膳夫姫の追善供養のために鞍作止利がつくったものである。
 また、山岸涼子作『日出処の天子』には、蘇我毛人にふられた聖徳太子が自暴自棄になって、知的障害のある膳夫姫を妻とするエピソードが創作されている。
 二階堂という地名は、膳夫寺のお堂が二階造りに似ていたことに由来すると言う。


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二階堂駅へ続く道沿いには古風で洒落たつくりの家々が並び、いまも古道の風情を醸している。

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二階堂駅
近鉄二階堂駅

 奈良の奥深さ、奈良旅の面白さを感じた朝であった。








● ここにはドラマがある : NHK制作『大地の子』(山崎豊子原作)

大地の子

TV放送 1995年11月11日~1996年3月20日(計11回)
DVD 全6枚(11時間14分)
制作 NHKエンタープライズ21
原作 山崎豊子
脚本 岡崎栄

 山崎豊子の原作が『月刊 文藝春秋』に連載されたのは、1987年(昭和62年)5月~1991年(平成3年)4月。
 戦後40年以上経って本作は書かれ、50年経ってテレビドラマ化された。
 多くの人命が失われるような大きな悲劇的出来事があってからそれがドラマ化されるまで、ある程度の月日を要するのは無理からぬことだが、ことにテーマが中国残留孤児の苦難の生涯ということもあって、1972年9月の田中角栄首相による日中国交正常化までは「知られざる物語」だったのである。
 ソルティが10~20代の頃(1980年代)、毎年のように中国残留孤児の団体が肉親を探しに日本にやって来て、テレビでは感動の再会シーンを繰り返し流していたものである。
 当時は昔のことにあまり関心がなかったし、顔も名前もさだかでない肉親を探す(成人した)孤児たちの気持ちもよく理解できなかった。
 ただ、日本鬼子(リーベンクイズ)と綽名されたほど残虐なふるまいをした日本兵への恨みもものかは、大陸に残された日本人孤児たちを拾い養った中国人の寛容さが心に残った。
 同じことを日本人は他国の孤児に対してできるだろうか?

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コーリャン畑
Karl Egger
によるPixabayからの画像

 昭和・平成のテレビドラマが、ここまで感情を揺り動かす力があったことに驚いた。
 ソルティは物語後半、ほぼ毎回号泣していた。
 年取って涙もろくなったことも確かにあるが、そればかりでない。
 ここには、強烈なドラマを成り立たせるに十分な時代状況があり、制作者側にとってはその状況を描くことで視聴者にぜひとも伝えたいテーマがあり、視聴者側にとってはその状況を理解できるだけの記憶と登場人物たちに共感できるだけの感情体験があった。
 状況とはアジア・太平洋戦争の敗北である。

 戦争そして敗戦という、日常を破壊し、多くの人命を奪い、親しい者たちを離れ離れにし、苦痛と困窮の極みに庶民を追いやり、人間性のあらゆる面が暴露される極限状況において、かえって家族愛や兄弟姉妹愛や友情や恋愛や正義や信頼や献身や犠牲的精神や慈悲などの崇高さが輝きわたる。
 戦争という人類にとっての最大の悲劇が、「物語」を輝かせる。
 ドラマツルギー的に言えば、強固な「枷」や逆境が存在するほど、読者や視聴者の感情は波打ち、ドラマは面白くなる。

 80年代バブル以降の日本で失われた最大のものの一つは、ドラマ(=物語の力)であろう。
 80年代トレンディドラマの軽佻浮薄がもてはやされて以降、日本人はドラマを喪った。
 国民がこぞって観て、感動を共にできるようなドラマがなくなった。
 率直に言えば、ドラマがつまらなくなった。
 だが、それが戦争のような国民共通の悲劇が無くなったことによる感情鈍麻のせいであるのなら、それは平和の証であるから、批難すべきことではないのかもしれない。
 それとも、共同幻想が破れて「物語」の力自体が失われた結果なのか?
 あるいは、もっと単純に、リアリティある骨太のドラマを作る体力や経済力を喪失した、つまり国力の低下が原因なのか?
 頬を伝う滂沱の涙の一方で、そんなことを考えた。
 本作を観た令和の若者は、どのような感想を持つだろう?

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 中国残留孤児の主人公・陸一心(日本名:松本勝男)を当時無名の上川隆也が演じている。
 素晴らしい演技で瞠目させられた。
 上川隆也がこれほど演技達者とは知らなかった。
 原作者の山崎は、一心役に本木雅弘を考えており、脚本・演出総指揮を務めた岡崎栄は竹野内豊を想定していたという。
 しかしこれは、上川隆也で正解だった。
 本木や竹野内ではこれほどリアリティある素朴な演技は望めなかったろう。

 幼い頃に別れた松本勝男の実父を、昨年11月に亡くなった仲代達矢が演じている。
 今さら述べるまでもない好演である。
 仲代は20代の時、小林正樹監督『人間の條件』の主役に抜擢され、戦中戦後に大陸で彷徨する日本人敗残兵を演じて、一躍名を知らしめた。
 亡くなる最後まで反戦を貫いた人だったから、戦争の悲劇を伝える本作の出演も思うところ大であったろう。

 だが、本作の最優秀演技賞を付与するなら、陸一心(上川隆也)の中国の父親・陸徳志を演じた朱旭(チュウ・シュイ、1930-2018)を措いてほかにない。
 主役の上川はもとより、ここまで仲代達矢が食われた例を見た記憶がない。
 日本では本作以外ほとんど知られていない役者であるが、戦後中国で「小日本鬼子」と言われ差別され続けた中国残留孤児を拾い、養父を引き受けた男の苦悩と情愛のすべてをあますところなく演じきった一世一代の名演である。
 この演技を観るだけでも、本作を観る価値がある。

 キャンディーズのスーちゃんこと田中好子も、陸一心=松本勝男の母親に扮して鮮烈である。
 スーちゃんの「地」である人の良さが役にオーバーラップしている。

 本作は中国人残留孤児となった日本人の苦闘の生涯を描くことがメインなので、これだけ観ていると、残留孤児を差別・虐待する中国人の残酷さや一党独裁の中国共産党の横暴が目立って映るかもしれない。
 しかるに、中国残留孤児が苦難の生涯を舐めることになったそもそもの原因は大日本帝国の中国侵略にあった。
 本作を観る人は、その前提を忘れてはならない。
 本作が刊行あるいは放映された当時、ほとんどの日本人はそのことを前提として了解していた。
 が、ある世代以下の日本人はそこが理解できず、「中国はやっぱり酷い国」と印象づけられて見終えてしまうかもしれない。

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mkarasch0によるPixabayからの画像

 通算128日間という長期にわたる中国での大規模ロケは、90年代の日本のメディアに残っていた体力のあらわれであると同時に、日本と中国当局の関係の良好を語ってあまりない。
 現在ではまったく無理な話である。
 戦後50年、田中角栄をはじめとする先人が築いてきた日中関係をすっかり反故にしてしまった高市政権の方針がはたして善策なのかどうか、政治音痴のソルティには分からない。
 ただ、歴史を学ばない人間は傲慢になる。
 そのことは確かだと思う。




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