ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『赤後家の殺人』(カーター・ディクスン著)

1935年原著刊行
2012年創元推理文庫

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 「赤後家」とは何のことかと思っていたら、「赤い(血塗られた)+後家(未亡人)」、英語ならred widow、フランス語なら la veuve rouge という隠語が示す、恐ろしき器具のことであった。
 ギロチンである。

 先祖代々、赤後家部屋すなわちギロチン部屋と呼びならわされている“開かずの間”において、客として呼ばれたヘンリ・メルヴェル卿はじめ屋敷の住人たちの目の前で起こる密室殺人。
 犯人はどこから部屋に入って、どうやって殺人を行い、どうやって立ち去ったのか?
 カーお得意の不可能犯罪である。

 その部屋がギロチン部屋と呼ばれるようになったのにはもっともな理由があって、過去に一人っきりでこの部屋にいた4人が謎の死を遂げているからであり、さらには、この屋敷に住む一族がフランスの有名な処刑人サンソン家の血を引いているからである。

 死刑執行人の家系であったサンソン家の存在はまぎれもない史実。 
 とくに4代目当主シャルル=アンリ・サンソン(1739-1806)は、フランス革命に際して、ルイ16世と王妃マリーアントワネットはじめ、ダントン、ロベスピエール、シャルロット・コルデーらの首を刎ねたことで知られる。
 残虐な男のイメージを持たれがちだが、アンリ・サンソン自身は死刑廃止論者、しかも王党派だったという。
 自分が嫌なことでも仕事ならやらねばならない。
 ドイツならシュミット家の例にも見るように、家業は継ぐものという時代だったのである。

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kalhhによるPixabayからの画像

 赤後家部屋の由来や血塗られた歴史が、登場人物の一人によって語られる部分が興趣深い。
 歴史オタク、怪奇オタクだったカーター・ディクスンの面目躍如。
 人を殺す部屋という発想や冒頭の謎の提示の仕方はさすが巨匠の腕前、ぐんぐん引き込まれた。
 が、そこをのぞけば、小説としての出来は良くない。

 登場人物の描き分けが中途半端なため誰が誰なのか曖昧になって、途中何度も扉裏の登場人物表に立ち戻ることになった。もっとも、ソルティの記憶力の低下のためかもしれないが。
 構成もずさんで、次から次へと話が展開するため、読むほどに混乱し、いらいらするばかり。
 メルヴェル卿の独善とわがままに振り回されるマスターズ警部同様、読者も鼻面をあちこち引き回されて、じっくり推理の筋道を見つける暇がない。
 明晰な語り口の欠如という、カーター・ディクスンのミステリーの欠点がここに集約されている。

 事件の時系列や各々のアリバイや証拠や証言といったその時点で分かっている事実をきちんと整理して読者の前に呈示し、解明すべき謎がどこにあるのかリスト化することによって、読者が事件全体を概観し、容疑者一人一人について犯行の動機と機会を検討し、真犯人やトリックを自ら論理によって推理する――本格推理小説ならではの楽しみを与えてくれないのである。
 だから、最後にメルヴェル卿によって差し出されるトリックの解明には、催眠術師による目くらましを喰らった気分にさせられる。
 見事に引っかけてくれたことの快感とはほど遠く、詐欺にあったようなすっきりしない気分で読み終わる。

 メルヴェル卿なりフェル博士なりに、ホームズにおけるワトスン、ポワロにおけるへイスティングズのような客観的な記録者を相棒として付ければ、この欠点は回避できたのにと思う。
 逆に言えば、明晰な語りをあえて取らないことで、読者を煙に巻いている。
 物語が面白ければ、その欠点はある程度まで許容の範囲と思うけれど、本作は読者の心理を無視し過ぎ。 

 これが名作と言われるのは腑に落ちない。



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損






● 昇天者たち 映画:『クライマーズ・ハイ』(原田眞人監督)

2008年日本
145分

クライマーズハイ

 原作は横山秀夫の同名小説。
 1985年8月12日に起きた日航123便墜落事故の現場となった群馬県の地方新聞社の奮闘を描いたドラマ。
 クライマーズ・ハイとは「登山者の興奮状態が極限までに達すると恐怖感が麻痺してしまう状態」を言うそうだが、これを新聞記者が特ダネをつかんだ際の心理状態とかけている。
 ひょっとしたら、「高く上った者=昇天者」の意も含んでいるのかもしれない。

 横山秀夫は墜落事故があった当時、実際に群馬県の上毛新聞の記者であった。
 自らの体験がもとになっているのだ。
 新聞社内部のリアリティと臨場感ある描写はそれゆえだろう。
 ソルティは原作を読んでいない。

 どちらかと言えば、話の中心は123便の事故そのものより、地方新聞社の実態を描くほうにある。
 急を要する大事件が起きた時ほど、普段隠れている社内の部署間や人間関係のさまざまな軋轢が浮き上がってくる。
 過去の取材時の因縁であったり、地位や論功恩賞をめぐる男同士の争いや嫉妬であったり、限られた紙面を奪い合う各部署間の駆け引きであったり、広告・販売・編集各局間の積年の怨みであったり、社内の派閥であったり、単純な好き嫌いであったり・・・・。
 それは、520人の命が一夜にして奪われるような世紀の大事件に際して、人々の感情が大きく波打ち、言動が浮足立ち、普段見栄や理性で抑えているものが露わになってしまうからである。
 墜落事故に関する紙面づくりの“全権”を任された主人公悠木(演・堤真一)の視点を通して、昭和時代の一地方新聞社の実態が観る者に生々しく迫ってくる。
 群像劇としての面白さが際立っている。

 一方、墜落現場となった御巣鷹の尾根の惨状であるとか、事故原因であるとか、遺族の声であるとか、政治状況(たとえば戦後初の首相による靖国神社参拝)であるとか、当時を知る者なら忘れられない、事件を語る上で欠かすことのできない要素も描かれている。
 渡辺謙主演『沈まぬ太陽』を観たとき同様、あの事件の大きさ、あの夏の印象がソルティの中でまざまざと蘇った。

 逆に言えば、リアルタイムで事件を知らない世代がこの映画を観た時、どう感じるだろうか気になった。
 背景に関する説明不足から、内容を理解し難く、感情移入しにくいのではないか。
 つまり、観る者の記憶や体験におもねることで、作品として成り立っている部分があるような気がする。
 当時大学生だったソルティはむろん、JAL123便墜落事故に関する記憶や体験を持ってしまっているので、それを持っていない目から観た時、この映画がどう見えるかが分からないのである。 
 
 その意味でも、冒頭および所々で挿入される事故数十年後の悠木の登山シーンは思い切って削っても良かったと思う。
 中途半端な同僚との登山挿話および表面的なだけの悠木親子の愛憎譚を入れたため、物語の肝となる事故原因をめぐる詳細が浅く触れられるだけで終わってしまったからだ。
 “日航全権“である悠木は、事故調査委員会(つまりは日航&政府)の公式発表「機体後部の圧力隔壁の破壊」という情報を、部下を使った独自取材で事前に掴み、読売や朝日など全国紙に先んじる特ダネとして第一面に掲載する準備をしていた。
 が、最後の瞬間になってそれを取りやめる。「ダブルチェック」できていないからという理由で。
 その決断によって、逆に他紙におくれを取ってしまい、社長はじめ全社員を失望させ、総スカン食うことになる。
 悠木は自らを可愛がってくれた社長に辞表を出すことになる。

 この事故原因の紙面掲載に関わるシーンこそが本作のクライマックスなのだから、そこはもっと時間をかけて背景を丁寧に描くべきであった。
 もっとも、登山シーンをすべて省いてしまったら、『クライマーズ・ハイ』というタイトルの意味が薄れてしまうが・・・・。
 少し前に『セクシー田中さん』問題があったが、原作小説をTVドラマ化あるいは映画化する際の難しさを感じる。

 役者では、主演の堤真一、泥だらけになって墜落現場を取材する堺雅人、野望を秘めた女性記者の尾野真千子、車椅子に乗った社長役の山﨑努、悠木の天敵である等々力社会部長を演じる遠藤憲一がいい。
 原田監督は、役者づかいの上手い人と見た。

 映画のラスト、次の文が掲示される。

航空史上未曾有の犠牲者を出した日航機123便の事故原因には、諸説がある。事故調は隔壁破壊と関連して事故機に急減圧があったとしている。しかし、運航関係者の間には急減圧はなかったという意見もある。再調査を望む声は、いまだ止まない。

 特ダネを見送った悠木の判断の正否について、いまだ答えが出ていない。



 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 映画:『神々の深き欲望』(今村昌平監督)

1968年日活
175分、カラー

 南海の孤島での一年間におよぶ過酷なロケに、大ベテラン嵐寛寿郎が脱走を試みた、三國連太郎は破傷風にかかって片足切断の危機に陥った、新人沖山秀子は今村監督に毎晩抱かれていた・・・・と、作品内容のみならず、「鬼の今村」の役者づかいの荒さにおいても、文字通り“神話的に”語られている作品である。
 とくに、足に鎖をつけられ、始終泥水の中で演技させられた三國連太郎の苦労は、並大抵ではなかったろう。
 この太根吉という役は、演技の鬼の三國がいたからこそ可能だったのだと思われる。
 息子の佐藤浩市もいい役者だが、この難儀な役がはたして演れるかどうか。

 もっとも、このように時間と経費と手間のかかる贅沢この上ない映画を現在ではとても制作できないし、今村のように日本的土俗を生々しく描ける作家はいなくなった。
 その意味で、民俗学者柳田国男の作品と同様、日本の下層階級における土着文化の共通イメージ的な記録として価値がある。
 この作品(68年発表)より前に生まれたソルティですら、これが令和日本と地続きとは到底思えないのだから、平成生まれの人間が見たら、まったくの絵空事、ファンタジーかSFの世界としか感じられまい。
 実際、上映終了後に文芸坐から池袋の街に出たときのタイムスリップ的ギャップが凄かった。(沖縄民謡転じて、「ビーック、ビックビック、ビックカメラ」)

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Dick Thomas Johnson, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons

 ソルティは若い時分、こうした土臭い物語、因習の束縛のような話が好きでなかった。
 今村昌平を敬遠していた。
 昭和にはまだそうした前近代的因習の名残があって、自分自身がそういった束縛を受けていたからだ。
 楽しんで鑑賞できるようになったのは、自分も含めて日本人がまがりなりにもここ数十年で“近代化”し、本作に描かれた“物語”を、距離を置いて眺めることができるようになったからであろう。
 しかし、日本人の原点はここにあるし、清潔で合理的で礼儀正しい振る舞いを身につけた、つまり“民度”の上がった令和日本人の存在の深みには、やはりクラゲ島の民のような迷信深さや、性と暴力への止みがたき欲求が潜んでいるのは間違いなかろう。

 ときは終戦直後、場所は沖縄近辺の孤島。(日本領土とされているので、返還前の沖縄ではないと思われる)
 島民は、先祖代々の土俗信仰ときびしい掟のもと、漁をし、サトウキビを作って、細々と暮らしていた。
 代々神に仕える家柄である太(ふとり)家は不品行と不運が続き、村八分にされていた。
 家長である太山盛(嵐寛寿郎)は実の娘とまぐわって根吉(三國連太郎)を産ませ、根吉は実の妹ウマ(松井康子)と愛し合っている。
 根吉の息子である亀太郎(河原崎長一郎)は、島の古臭い因習から逃れるため東京に行きたいと思っている。
 そんななか、新たにサトウキビ工場を作るべく測量技師の刈谷(北村和夫)が東京からやって来る。
 刈谷は島の開発を押し進めようと孤軍奮闘するが、島の区長である竜元(加藤嘉)の裏表ある言動に翻弄されて、一向に進まない。
 そのうち、亀太郎の妹で知的障害のあるトリ子(沖山秀子)の熱意にほだされて、ねんごろになってしまう。

 鬼の今村によって、また熱帯の大自然によって、極限状況に置かれた役者たちの剥き出しの個性と生命力がスクリーンに焼き付けられている。
 嵐寛寿郎の傲岸、三國連太郎の執念、河原崎長一郎の朴訥、沖山秀子の狂気、北村和夫のインテリ性、加藤嘉ののらりくらり、浜村純の語り部性、松井康子の母性と娼婦性。
 どの役者も地なのか演技なのか見分けがつかないような域に達して、役を生きている。

 音楽は黛敏郎。
 一般には現代音楽の旗手とみなされる黛だが、不思議と、この土臭く猥雑な物語に馴染んでいる。

 ほぼ3時間の上映時間。
 気力体力あるときに鑑賞したい。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『薔薇の女 〈アンドロギュヌス〉殺人事件』(笠井潔著)

1983年角川書店

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 求道者探偵・矢吹駆シリーズ『バイバイ、エンジェル』、『サマー・アポカリプス』に継ぐ3作目。
 これでやっと、第4作にしてシリーズ随一の傑作かつ難解作と言われる『哲学者の密室』を読むことができる。(殺人ウイルスを扱った第5作『オイディプス症候群』はコロナ騒ぎに触発されて先読みしてしまった)
 もっとも、このシリーズを完全に理解したいのなら、前作や笠井のほかの著作を読む前に、哲学や思想史の勉強をしたほうがよいのかもしれない。
 というのも、このシリーズは本格推理小説+哲学批評のようなスタイルをとっているからだ。
 『哲学者の密室』にはマルティン・ハイデッガー批判が出てくると聞くし、本作『薔薇の女』ではエロティシズム論で知られるジョルジュ・バタイユを彷彿とする人物が出てきて、矢吹駆と討論する場面がある。
 哲学の基本的な教養を欠いているソルティは、第一義としてフーダニット(Who done it ?)あるいはハウダニット(How done it ?)の本格推理小説として楽しんでいるのであるが、ちょっと賢くなったような気にさせてくれる難解な哲学的部分もまた、ワイダニット(Why done it ?)すなわち「人生とはなんぞや?」「社会とはなんぞや?」というなかなか解けないミステリーを毎回提示して刺激を与えてくれるので、読み甲斐がある。

 今回はまたアンドロギュヌス(両性具有者)という題材をモチーフにしている。
 遠い昔、「オカマ」「男女」と馬鹿にされたことのあるLGBTの一人として、興味深く読んだ。
 アンドロギュヌスは現在ならLGBTのT(トランスジェンダー)に含まれる。
 トランスジェンダーの多くを占める「心と体の“性別”が異なる人々」とは違って、外見上だけを問題とした場合の概念、つまり体において男性と女性の両方の特徴を示している人を言う。
 端的に言えば、胸に二つの乳房があり股間に陰茎(と睾丸)がある人だ。
 逆のパターン、つまり胸が男のように平らで股間に女性器がついている場合も論理的には該当するはずであるが、見た目のわかりやすさや衝撃のためか、アンドロギュヌスと言えば〈乳房+ペニス〉というのが古来からの通念である。

 本書刊行当時、まだLGBTの存在や人権問題が社会で顕在化していなかった。
 そのため、見た目でそれと知られてしまうトランスジェンダーとりわけ両性具有の人たちに対する差別や偏見には、今以上にきびしいものがあった。 
 両性具有者は「半陰陽」、「ふたなり」、「シーメール(shemale)」などと呼ばれ、文学や絵画など芸術において非日常的存在として神秘化され祀り上げられる一方で、日常生活ではキワモノ扱いされていたことは否定できない。(草彅剛がトランスジェンダーを演じた『ミッドナイト・スワン』では、服を破かれ乳房を晒された草彅が「化け物」とののしられるシーンがある)

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 ともあれ。
 本作におけるアンドロギュヌスのモチーフは、それほど深いものではない。
 両性具有者が登場するわけでもなければ、性別適合手術を望む男性なり女性なりが殺人事件にからむわけでもない。
 複数の死体(4人の女性と1人の男性の死体の一部づつ)を組み合わせて“アンドロギュヌス人形”を作らんとする異常な人間の犯行およびその解決を描いたものである。
 両性具有者が殺人の首謀者であったり、両性具有者を狙った連続殺人が描かれたりしているわけでないので、LGBT諸君は安堵されたし。

 考えてみたら、笠井潔作品は残虐な殺人シーンが多く出て来る割には、性的リビドーに彩られた陰惨なサイコミステリーとは一線を画している。
 ある意味、健全なのである。
 そんなところも、クリスティやカータ-・ディクスンやエラリー・クイーンなど本格推理小説の古典のスタイルを汲む、王道を行っていると思う。

 
 

 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『世界の果てまでヒャッハー!』(ニコラ・ブナム&フィリップ・ラショー監督)

2015年フランス
93分

世界の果てまでヒャッハー

 フランス発のコメディ映画。
 お馬鹿な若者たちが旅先ブラジルで巻き起こす騒動を描く。
 バチェラーパーティの男達の一夜の馬鹿騒ぎを描いたトッド・フィリップス監督『ハングオーバー』シリーズのフランス版という感じ。

 『ハングオーバー』シリーズでは、酒と麻薬のせいで前夜の記憶をすっかり失った男達が、翌朝姿を消した仲間の一人の行方を探すために、残された手がかりをもとに前夜の仰天すべき出来事をたどっていくという趣向であった。
 本作の場合、お馬鹿な若者たちが行方不明となった現場には、そのうちの一人の持ち物であるカメラが残されていた。
 行方を探す者たちは、カメラに残された動画を再生し鑑賞することで、若者たちに何があったかをたどっていく。

 観る者は、お馬鹿な若者たちのとんでもない奇行と冒険の数々を楽しみながら、同時に、彼らの行方を心配する人々が動画を見て示す反応の数々を楽しむことになる。
 言わば、二重のドラマが並行して語られるわけで、発想といい脚本といい演出といい、ニコラ・ブラム&フィリップ・ラショー両監督の目覚ましい才能とコメディセンスの高さを証明している。

 とにかく面白い!
 難しいことは抜きにして、笑うに限る。

 原題は Babysitting 2
 前作、『真夜中のパリでヒャッハー!』も観なければ。




おすすめ度 :★★★★


★★★★★
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● イチヤ再会 寄席:柳亭小燕枝独演会

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日時 6月20日(木)19:00~
会場 成城学園前 アトリエ第Q藝術
演目
柳亭すわ郎(前座): 『たらちね』
柳亭小燕枝: 『親子酒』、『宿屋の仇討』

 寄席に行くのは6年ぶり。
 コロナ前、四国遍路に行く前の2018年9月のすがも巣ごもり寄席が最後であった。
 あの頃は二枚目もとい二ツ目であった柳亭市弥が目当てで寄席に行くようになり、おかげで落語の面白さに目覚めたのであった。
 
 久しぶりに寄席に行ってみようかと思い、ネットで調べてみると、市弥はすでに存在せず。
 といって廃業したのではない。
 2022年8月に真打昇進して、八代目柳亭小燕枝(りゅうてい こえんし)になっていた。
 遅ればせながら、おめでとう!

 真打市弥(自分の中ではまだイチヤ君だ)の実力のほどをこの目で確認しようと思い、新宿から小田急線に飛び乗った。

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小田急線・成城学園前駅

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アトリエ第Q芸術

 前座の柳亭すわ郎(swallow 燕のもじりか)は30代後半と見受ける。
 市弥の弟子になって半年たらずとのこと。
 『たらちね』は覚えたばかりのようであった。
 夫が当人の名前と勘違いした、「寿限無寿限無」ばりに長い新妻の口上、

自らことの姓名は、父はもと京都の産にして姓は安藤、名は慶三あざなを五光。母は千代女と申せしが、わが母三十三歳の折、ある夜丹頂の鶴の夢を見てはらめるが故に、たらちねの胎内を出でしときは鶴女と申せしがそれは幼名、成長の後これを改め清女と申しはべるなりい~

を、よどみなく節回しよく言いのけたのは立派。
 二ツ目を目指して頑張ってほしい。

 6年ぶりに見る市弥は、あたりまえだが老けていた。
 世田谷区出身でミッション系の玉川大学卒という経歴と、色白で清潔感ある柔和なイケメンぶりから、“いいとこのお坊ちゃん”イメージが強かった市弥であったが、40歳という年齢に達した為のみならず、この6年間「いろいろあった」のだろうと思わせる変容であった。
 外部から見える事実だけとっても、結婚して父親になっているし、コロナ禍の「寄席が出来ない」試練があった。
 いろいろと苦労もあったことだろう。
 そう思わせるに十分な意義ある老けぶりであった。
 それがもろ高座に反映されるところが、舞台商売の面白いところである。

 オッサン化した容姿はともかく、芸の上ではまず声や口調に変化を感じた。
 声が太く低くなり、時にだみ声混じりになった。
 人を面罵する場面での迫力が増した。
 年齢による声帯の変化や酒の影響もあろうが、実生活において父親となり守るべきものを持ったことによる意識の変化が、声や口調に表れているように感じた。
 もはや“お坊ちゃん”とはいえない風格。

 それに伴い演技力が増した。
 もともと与太郎のような天然ボケキャラや、ちょっと蓮っ葉で色っぽい長屋のおかみのようなキャラを演じるのが上手い人ではあった。
 そこに加えて、年輩の頑固親父キャラがリアリティ持って演じられるようになっていた。
 『親子酒』の酒飲み親父であるとか、『宿屋の仇討』の隣室の侍であるとか、一つの生きたキャラとして成立している。
 それが成立しているがゆえに、噺全体がまるで一人芝居のような見世物になっている。
 とくに『宿屋の仇討』は、落語というより、一人の役者が数役を演じ分けるアングラ演劇を見ているようであった。
 そして、少なくとも5人(宿の主人、侍、3人の若い衆)が登場し、各々のセリフが飛びかい入り混じるせわしない噺にあって、だれのセリフか分からない瞬間が一度もなかった。
 顔の表情もまたバリエーションが増えた。
 子供をあやすうちに身につけたものだろうか?
 顔の筋肉と目の表情を巧みに操って、登場人物の刻々移り変わる感情を、生き生きと滑稽な風味をもって、客席に伝えるのに成功していた。
 たしかに腕を上げた。

 一方で、6年前と変わらないものがあった。
 噺が佳境に入って、演者が役に没入する時、あるいは役が演者に降りてくる時、演者から立ちのぼり周囲に放射されるオーラである。
 市弥の高座をはじめて観た時、ソルティがなにより心を奪われたのはこのオーラであった。
 決してイケメンだからではない(←嘘)
 その後しばらく市弥の高座を追ったが、このオーラは出る時と出ない時があった。
 人間だから、体調が悪い時もあれば、精神的に不安定な時もある。
 あるいは、気力体力ともに充実し、心が純粋な若いうちだけの特権かもしれなかった。
 「40歳の今、どうかな?」と思って臨んだ今回、やはりオーラは健在であった。

 柳亭小燕枝、また追ってみようかな~。

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● 映画:『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督)

2023年アメリカ・イギリス・ポーランド
105分
原題:The Zone of Interest

 『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(2014)、『記憶の棘』(2004)のジョナサン・グレイザー監督は、現在世界でもっとも挑発的で才能ある監督の一人であろう。
 10年に1本しか撮らない寡作作家であるのが残念至極だが、そのぶん、発表される作品はそのたび業界の話題となり、賛否両論を巻き起こし、観る者に衝撃を与える。
 本作も、カンヌグランプリと米国アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞した。

 本作の主人公はルドルフ・ヘス。実在の人物である。
 と言っても、ヒトラーの個人秘書からナチスの副総統にまでのし上がったルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス(1894-1987)ではなくて、アウシュビッツ強制収容所の所長をつとめたルドルフ・フェルディナント・ヘス(1901-1947)のほうである。
 1940年からアウシュビッツ所長を務めたヘスは、妻ヘートヴィッヒと5人の子供と共に収容所に隣接する広大な敷地に家を建てて暮らしていた。
 緑と季節の花あふれる美しい庭園、園芸好きの妻のために建てたガラス張りの広い温室、子供たちのための遊具やシャワー付きプール、使用人を何人も雇い、休日には近くの河原でピクニック。
 優しい夫、美しい妻、可愛い子供たち、良き仲間。
 言うことのない理想的な生活。
 絵に描いたような幸福な一家。

 しかし、壁一枚隔てた向こうは、ほんの数年間で100万人以上が虐殺されたアウシュビッツ収容所。
 各地から汽車に詰め込まれたユダヤ人が連れて来られては、衣服をはぎ取られ、髪の毛を切られ、用途によって分別される。
 焼き鏝で囚人番号を皮膚に標され、収監され、強制労働に従事させられる。
 拷問され、レイプされる。
 “生産性”がないとみなされた者はガス室に送られ、遺体は焼却される。
 ヘスの立派な屋敷内には、昼夜を問わず、ユダヤ人たちの悲鳴や助けを求める声が切れ切れに届く。
 塀の向こうには、汽車の煙がたなびくのが見え、焼却炉から上る黒煙が見える。
 妻のヘートヴィッヒは、ユダヤ人から取り上げた宝石や毛皮で身を飾る。

 壁一枚隔てた天国と地獄。
 天国に住まうものは、地獄のことなど気にもかけない。
 聞こえてくる悲鳴は、庭を飛ぶ蜂の羽音ほどの騒音にもなり得ない。
 煙突から立ち上る黒煙は、パン焼き窯の煙ほどの日常性をもって無視される。
 “関心領域”の外にあるがゆえに・・・。
 妻のヘートヴィッヒが願うことは、いつまでもこの理想の環境が維持されること、夫が休暇をもらって家族で温泉地に出かけること、戦争が終わったら農家に転身することである。
 
 本作を観る者が突きつけられるのは、観る者にとっての現在の“関心領域”と、その外で起こっていることへの意識のありようである。
 平和な国の立派な映画館の心地良いシートに身をまかせて、ポップコーンを頬張りながらスクリーンに向き合っている誰ひとりも、ヘス一家を責め立てることが容易にはできまい。

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華徳院(東京都杉並区)の本尊である閻魔大王
舌を抜くための巨大ペンチも完備



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● 本:『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』(青山透子著)

2017年河出書房新社刊行
2022年文庫化

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 『日航123便墜落 疑惑のはじまり 天空の星たちへ』(2010年刊行)に継ぐ、元JAL客室搭乗員によるノンフィクション第2弾。
 前作では、墜落事故に関して青山が抱いた様々な疑惑を洗い出し、読者に問いかけるところで終わっていた。
 その後、青山のもとには新たな証言や証拠が次々と集まった。
 そこには、伊豆上空での緊急事態発生の約5分後にジャンボジェット機とそれを追う2機のファントムを静岡県藤枝市上空で目撃したというOLの話や、墜落現場となった群馬県上野村の小中学生らが事故直後に書いた作文、あるいは『天空の星たちへ』を読んで青山に連絡してきた被害者遺族・吉備素子氏の体験談や、現場で収容された完全に炭化した遺体に関する専門家の見解などもあった。
 それらをもとに推理することで、一連の疑惑が解消され、すべてが整合性持って説明し得るような仮説を提示している。
 詳細は本書を読むに如くはないが、かなりの確実性をもって言えることは、
  1. 単なる事故ではなく、自衛隊や在日米軍が何らかの形で絡む事件である
  2. 公式発表された事故原因(圧力隔壁の修理ミス)は疑わしい
  3. 再調査による真相究明を阻む巨大な政治的圧力が働いている

 この32年間、墜落に関する新聞記事等の膨大な資料を、現在から墜落時まで時系列にさかのぼって読み込んでいくと、そこに見えてきたものは、これは未解決事件であるということだ。後から次々と重要なことが判明しても再調査はしない、無視する、という方針を持ち続ける運輸安全委員会の姿勢もさることながら、日本人の特質なのか、何かを隠し通すことが美徳であるという勘違いによって、嘘を突き通すことに慣れてしまっているずるさが関係者の中に蔓延しているのではないだろうか。

 まさに、森永卓郎が『書いてはいけない』で指摘したように、昭和の暗部=タブーなのである。

鍾乳洞


 ときに、ソルティは『天空の星たちへ』について書いた記事の中で、被害者遺族の世話を日航の社員たちにやらせたのは間違いだったと記した。
 昭和時代ならではの“愛社精神”に付け込んで、多かれ少なかれ罪悪感を抱いているであろう末端の社員に遺族の世話を申しつけ、愛する家族を亡くした遺族の遣りようのない怒りと悲しみのサンドバッグにし、社員を長期にわたって多大なるストレスと激務にさらしたことは、それが世間のきびしい非難と悪評をこれ以上避けるために日航のとった謝罪の形式あるいは経営戦略であるとしても、適切な対応とは言えないと。
 が、考えが浅かった。
 遺族の一人である吉備素子氏は青山に次のように語っている。

 とにかく、おかしな話はたくさんあって。遺族もみんな連携しているわけではないのでね。日航の世話役の中でもOさんのように表向きはいい人なんやけど裏ではねえ、実際はあることないこと私らの悪口を言う人もいて・・・・。それぞれが陰で何を言われていたかわからない。遺族間で、相手と組まないように散々吹き込まれている。横のつながりがいまだに持てないんですよ

 遺族間の連携を阻むよう、世話役が会社から言いつけられていた?
 いや、それこそが会社が遺族ひとりひとりにわざわざ世話役をつけた理由だとすると、その奥にある動機は何なのか?
 賠償問題をうまくまとめるため?
 あるいは、事故原因に疑問を抱かせないため?

 2017年に刊行された本書も、今年発行された森永卓郎の『書いてはいけない』もベストセラーになっている。
 いま、JAL123便墜落事故の真実を知りたいという世間の声が非常に高まっている。
 来年はちょうど事故40周年。
 加えて戦後80周年である。
 昭和のタブーはいい加減、清算してもいいのではなかろうか。

 この事件で命を落とした人々への供養は、まだ生きている関係者が「真実を語ること」、それだけである。 


黄色いアイリス





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 本:『東京震災記』(田山花袋著)

1924年博文館
2011年河出文庫

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震災後の浅草の風景
日本一高いビルヂングだった凌雲閣(浅草十二階)

 1923年9月1日に起きた関東大震災の見聞録、今でいうルポルタージュである。
 田山花袋(1872-1930)は当時51歳、家族と共に渋谷区代々木に住んでいた。
 花袋の家は瓦が落ち、壁が一部毀れはしたが、崩壊は免れた。家族も無事だった。
 被害は下町、現在の地名で言う台東区、墨田区、江東区、荒川区、文京区、足立区、葛飾区、江戸川区あたりが顕著だったのである。
 花袋は近辺が落ち着いた数日後、歩いて被災状況を見に行った。
 ここに書かれているのは、その一月半後より書き始められ、翌年春に刊行された記録である。
 河出書房新社で文庫化された2011年8月は、もちろん、東日本大震災のあった5か月後である。

 ソルティは田山花袋を読んだことがなかった。
 本書中に、震災で失われた江戸の面影、とくに料理屋や芸者置屋が並ぶ隅田川沿いの情緒を懐かしむ記述があるので、耽美派の酔狂人であった永井荷風(1879-1959)と取り違えていた。
 田山花袋は、『蒲団』、『田舎教師』を代表作とする自然主義派の作家である。
 なので、本書の記述も写実的にして簡潔平明であり、読みやすい。
 それでいて、現代のルポルタージュ作家が書くような淡々と客観的な事実のみを綴る無味乾燥な記録とは一線を画し、文学者ならではの視点と描写が見られる。
 たとえば、廃墟の中でなおさら美しい自然――地平線を囲む秩父や丹沢の青々した連山、澄み切った秋空、不忍池の蓮など――の描写は、人間の営みとは無縁に存在する自然の泰然自若を浮き上がらせ、逆に人間の営みのはかなさや卑小さをかえりみさせる。

 あの緑葉は一層緑に、あの紅白は一層紅白に、人間にはそうした艱難が不意に、避くべからずに起ったとは夢にも知らないように、或るものは高く、或るものは低く、ある者は開き、あるものはつぼみつつ、一面にそこに見わたされていたではなかったか。それは仔細に見れば、その岸に近いところの葉は焦げ、花は焼けていたであろうけれども、またその大きな半燃えの板片なども、その池の中には沢山に沢山に落ちていたであろうけれども、しかもその咲き揃った花の美しさは、何とも言えない印象を私に与えるのに十分であった。それにその日は空が透徹るように青く晴れて、それがその緑葉の中の紅白と互いに相映発した。

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LunnyHによるPixabayからの画像


 本書を読んで、「なるほど、そうであったか」と思ったことをいくつか。

 まず、明治大正になっても東京に残っていた江戸時代の風景が、この震災によって完膚なきまで失われたこと。
 当時の人々にとって、江戸との断絶を意識したのは、明治維新の文明開化や大正モダニズムやたびたびの戦争より、むしろ関東大震災のほうが大きかったのではなかったか?
 日常親しんでいた風景が一変するということは、生活者の意識に少なからぬ影響を及ぼすはずだ。

 次に、いまの新宿や渋谷の隆盛のきっかけになったのが、まさにこの震災であったということ。
 大正時代までは東京の文化的中心、つまり日本の文化的中心は、浅草や上野や銀座であった。
 新宿や渋谷や池袋は、一部の住宅地をのぞけば牧草が広がる田園地帯であった。
 1912年発表の童謡『春の小川』の舞台が、作詞の高野辰之が住んでいた、まさに渋谷区代々木の風景であったという話はよく知られている。
 震災によって下町が灰燼に帰したため、沢山の人や店が山の手に流動し、後の発展の礎となったのである。
 震災あっての渋谷交差点なのだ。

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は~るの おがわは さらさらいくよ♪

 さらに、よく言われることであるが、死者・行方不明者10万5千人という未曽有の被害を生んだのは、地震そのものではなく、その後に起きた火事であったこと。
 実に9割近くが火事、つまり人災による被害で亡くなったのである。
 すこし前にNHK制作ドキュメンタリー『映像の世紀』で関東大震災をテーマにした回があった。
 震災直後の下町の場景をカメラマンが撮ったフィルムを最新技術で修復着色し、そこに鮮明に写し出された人々の様子を分析していた。
 多くの人々は離れた場所で起きている火災を高みの見物としゃれこんで、談笑し飲み食いしていた。
 自分のところまでは火の手は来るまいと思っていたのだ。
 だが、火災は一ヵ所だけで起きていたのではなかった。
 下町の何十か所で同時に起き、折からの強風に煽られて、見る間に燃え広がっていった。
 文字通り“対岸の火事”とのんきに構えていた人々は、気がついたら四方八方、火の壁に阻まれ、逃げ場を失っていたのである。
 とりわけ、3万5千人が焼け死んだとされる本所の被服廠跡地(現・都立横綱町公園)の惨状は言語を絶するもので、日露戦争に行って沢山の死体を見てきた花袋ですら、積み上げられた黒焦げの髑髏の山を「見るに忍びなかった」とそそくさと通り過ぎている。
 火事と津波は決して侮ってはいけない。

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 ここでもまた、朝鮮人虐殺に関する記載がたびたび出て来る。
 田山花袋も目撃していた。
 9月3日の夕のことだ。

 夕方に突然に私達の周囲で起こったことがわかった。それは、もう日がくれかけて、人の顔もはっきりとは見えない頃であったが、俄かに裏の方でけたたましい声がして、「××人? 叩き殺せ?」とか何とか言って、バラバラ大勢が追っかけて行くような気勢(けはい)を耳にした。慌てて私も出て行って見たが、丁度その時向こうの角でその××人を捉えたとかで、顔から頭から血のだらだら滴っている真っ蒼な顔をした若い一人の男を皆なして興奮してつれて行くのにぴったり出会した。私はいやな気がした。いずれあの若い男は殺されるのだろうと思った。気の毒だとも思った。

 現場にいて目撃した人間が「あった」と書き残していることを、その時生まれていなかった人間が「なかった」と強弁するおかしさ。
 虐殺否定論をまくし立てる者らが利用できる最大の武器が、関東大震災を経験した人間が現在ひとりも存在しないという点にあるのは明らかである。
 来年2025年は戦後80年にあたるが、歴史の生き証人がいなくなることは、事実をゆがめたい人間たちにとって、非常に都合の良いことなのである。

 一方、上のように記している花袋であるが、当時中央公論社の社員であった木佐木勝(きさき まさる)の証言によると、「花袋宅に原稿依頼に行った際、本人から、自宅の庭に逃げ込んできた朝鮮人を引きずり出して殴った話を聞いた」という。(出典:筑摩書房発行、西崎雅夫編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』)
 朝鮮人を殴った話が事実だとすると、花袋も本書を出版するにあたって、自分に都合の良い嘘を一つついたことになろう。

 関東大震災は明日にもやって来るやもしれない。
 100年前より、巨大化・機械化(IT化)・密集化・複雑化した大都市でいったい何が起こるか、どの程度の被害が生じるか、想像もつかない。
 ただ、現実問題として、それが起こる確率は、日本が戦争に巻き込まれる確率よりよっぽど高いのである。



 
おすすめ度 :★★★★

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● 赤門ミステリー 本:『その可能性はすでに考えた』(井上真偽著)

2015年講談社
2018年文庫化

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 推理小説の定石を覆す話題作。

 容疑者が仕掛けたトリックを探偵が推理によって暴き、犯人を特定するのが、推理小説の定石である。
 しかるに、本作の探偵上苙丞(うえおろじょう)は、容疑者が仕掛けたトリックを暴かんとする複数の挑戦者たちの仮説を推理によって逆に論破することで、「犯人がいない=殺人がなかった」ことを証明せんとする。
 誰がどう見たって他殺としか思えない現象が、実は殺人ではなくて「奇蹟」であったことを証明せんとする。
 奇蹟の証明――それが探偵の目的なのである。
 ある意味、山口雅也著『生ける屍の死』以来の変化球、いや魔球かもしれない。

 この上苙(しかし読めない名前だ!)の風変りすぎる目的には、もっともな動機がある。
 単なる『ムー』好きの超常現象オタクではない。
 そのへんのリアリティづくりが面白い。

 上苙に挑戦する面々がまた超個性的で危ない奴ばかり。
 鳥打帽にインバネスをまとった老師風の元検察官、巨大な売春組織を操る冷酷にして惚れっぽい中華美女、金田一少年のコピーのような小学生探偵、そして精神世界を牛耳するラスボス。
 趣向は、『少年ジャンプ』あるいはロール・プレイング・ゲーム。
 プロフィールに作者の生年が書かれていないので分からぬが、昭和生まれではない気がする。

 プロフィールと言えば、一番びっくりしたのが、著者の学歴。
 東京大学卒業とある。
 これまで東大卒のミステリー作家っていただろうか?
 早大卒(栗本薫)や慶大卒(夏樹静子)や京大卒(綾辻行人など多数)や名古屋大卒(森博嗣)はいるけれど、東大卒ってミステリー作家には聞いたことがない。
 と思ってググったら、昨今は東大卒あるいは在学中のミステリー作家があまた出現しているではないか!
 ソルティが最近の国内ミステリー事情に疎いだけだったのね。

 東大出身のミステリー作家――って言うとなんだか「宝の持ち腐れ」、「牛刀割鶏」って気がしてしまうのは、ミステリーに対する冒瀆、あるいは京大出身者に対する侮辱になるだろうか?
 なんか結びつかない。 
 でも、最近はクイズ番組に出るのが東大生の勲章みたいになってるからなあ。

 ともあれ、東大の頭脳で本気でミステリーを書かれたら、凄いのが生まれるのも道理。
 本作で駆使される中国文学と物理学の知識ときたら、作者が文系なのか理系なのか戸惑うレベル。
 といって、無用に衒学的にならず、エンターテインメント性も高い。
 ほんとうに頭の良い人は、知識をひけらかそうなんて思わないものなのだ。
 
 まだまだミステリーの可能性は尽きない。


赤門



 
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