ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『狂った果実』(中平康監督)

1956年日活
87分、モノクロ
原作・脚本 石原慎太郎

 のちに夫婦となった石原裕次郎と北原三枝の初共演作。
 北原三枝は品あって美しい。
 津川雅彦が主役の青年をつとめ、新人とは思えぬ演技を披露している。
 やっぱ、血筋だな。

 単純に言うと、遊び人の兄が、うぶで真面目な弟のはじめて好きになった女を横取りし、怒り狂った弟が兄と女に復讐するという話。
 遊び人の兄を裕次郎、清楚なお嬢様に見えて実は中年の外人に養われている女を北原三枝、うぶな弟を津川が演じている。
 舞台は、石原慎太郎十八番の逗子の海。
 不良のボンボンたちが親の別荘に屯ろってバカ騒ぎし、派手なアロハを着てボートや外車を乗り回す。

 フランソワ・トリュフォーが高い評価を与えたと聞いていたので期待して観たのだが、津川の演技以外は興味が引かれず、退屈した。
 ソルティは、どうも太陽族ってやつが好かん。
 上級国民の子弟のワガママとしか見えん。
 働けや。 


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友情出演の桑田佳祐と石原慎太郎
・・・じゃなかった、長門裕之


おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 漫画:『真夏の夜の二十面相』(うらたじゅん・作画)

2003年北冬書房
1998~2002年『幻燈』、『ガロ』等に初出

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 『嵐電』に続き2冊目。
 表題作含む9編の漫画のほか、エッセイ、猫がテーマのイラスト集、うらた自身の日記2002~2003から成る。
 日記では、はじめて胃がんが見つかって手術したあたりのことが書かれている。
 術後の経過は良かったようだが、その後、食道がん(2006)、乳がん(2010)と再発を繰り返し、うらたじゅんの漫画家人生は闘病とともにあったことが知られる。

 死と隣り合わせにあったことが、日々の平凡な暮らしの豊かさや美しさや有難さへの気づきにつながり、四季折々の風物に対する敏感な感性や観察や描写を生んだのではなかったろうか。
 彼女の漫画に氾濫する花や虫や動物たちは、ときに登場する女性の裸画以上に、エロチックでなまめかしく生命感にあふれている。
 植物が受粉し、魚やカエルが体外受精し、昆虫や動物が交尾し、生き物がひたすら種の存続を急いている真っ只中に、ヒトは生きて、様々なドラマを紡いで暮らしている。



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 映画:『ナイチンゲール』(ジェニファー・ケント監督)

2020年オーストラリア
133分

 レンタルショップのサスペンスコーナーに置いてあり、猟銃を手にした若い女性が森を駆けるパッケージデザインから、サイコパス看護師による大量殺人スプラッタホラーを予想していた。
 ところが、蓋を開けてみたらまったく違って、正統なる歴史物にして社会派ドラマであった。
 ナイチンゲールという題名は白衣の天使とは関係なく、美しい声を持ち、唄うのが上手な主人公クレアにつけられた渾名から来ている。
 ジェニファー・ケントはオ-ストラリア生まれの女性白人監督。

鶯
ナイチンゲールとはウグイスのこと


 舞台は19世紀オーストラリアのタスマニア島。
 英国による植民地支配の下、原住民アボリジニは残虐な仕打ちを受けていた。
 盗みの罪で当地に流刑されたアイルランド人のクレアは、英国軍将校ホーキンスとその手下にレイプされ、目の前で夫と赤ん坊を殺される。
 武装したクレアは原住民の男ビリーを雇い、駐屯地を離れ街に向かったホーキンスら一行を追う。
 復讐の旅が始まる。
 
 この映画には二つのマイノリティ問題が絡んでいる。
 一つは、英国人によるアボリジニ支配に象徴される近代文明社会による先住民迫害であるが、映画の中では詳しい時代背景は語られない(いつの時代の、どこの国の話か観る者には明らかにされない)ので、抽象化されて「白人による黒人差別」という面があぶり出される。黒人の代表がビリーである。
 今一つは、男性による女性支配である。とりわけ、すさまじい性暴力が描かれる。女性の代表がクレアである。
 黒人差別の被害者ビリーと女性差別の被害者クレア、マイノリティの二人が、支配者にして加害者たる白人男性への怒りを胸にタッグを組んで復讐の旅をする、というのが主筋なのである。

 
アボリジニ
アボリジニの男
 

 むろん、白人であるクレアもまた黒人に対する差別意識や偏見は持っており、ビリーから見れば支配者の一員に過ぎない。同時に、クレアから見れば男であるビリーは、決して気の許せない潜在的レイプ加害者である。
 二人の旅は、こうした二つの差別構造のバランスのもと、非常に緊張感みなぎるところから始まる。
 白人で女性のクレア、黒人で男性のビリー、属性や立場の異なる両者が厳しいジャングルの旅を続ける中で、次第に互いを理解するようになり、レッテルを越えたところで友情が結ばれていく。
 その点で、この作品は他者との邂逅の物語でもある。
 
 この映画は第75回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賛しており、高い評価が与えられている一方、賛否両論激しく、拒絶反応を示す観客も多かったという。
 むろん、目をそむけたくなるような暴力シーンやレイプシーンはある。
 しかし、拒絶反応の正体は、観る者のうちに生じる“疚しさ”にあるのではないかと思う。
 つまり、観る者が白人である場合、あるいは男性である場合、加害者である白人一味のあるいは男性一味の一員である自分が一方的に責められているような気分になって、上映中席を立ちたくなるような拒絶反応が生じるのではないかと思う。
 白人でもなくヘテロの男でもないソルティはまったく拒絶反応は生じず、むしろ、クレアとビリーの味方となって二人の復讐の成就に留飲を下げることができた。
 白人ヘテロ男性にあっては、これを冷静に観ることのできる者はむしろ少ないかもしれない。
 
 『マンディンゴ』と同じく歴史上の黒人差別、女性差別の実態を暴き出し、人間性の残酷面を赤裸々に見せる超ド級の非ヒューマンドラマであるが、マイノリティ同士の連帯と勝利を描いている点で、少なくとも『ナイチンゲール』には希望と愛とがある。
 
 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● ほしがりません勝つまでは!


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2021年5月11日読売新聞朝刊より(宝島社提供)








● 映画:『スピリッツ・オブ・ジ・エアー』(アレックス・プロヤス監督)

1988年オーストラリア
99分

 『ダークシティ』(1998)、『アイ、ロボット』(2004)、『キング・オブ・エジプト』(2016)などで世界的に知られるエジプト出身のアレックス・プロヤスのデビュー作。
 長いこと陽の目を見ず、幻の傑作と言われていた。

 舞台は地平線と水平線の重なる広大な赤土の砂漠(オーストラリアロケらしい)。
 登場人物はたった3人。
 空を飛ぶことを夢見るマッドサイエンティスト風の車いすの男フェリックス。
 その妹で、見た目は可愛いが狂信的でてんかん持ちのベティ。
 兄妹が暮らす“ポツンと一軒家”に、不意にやってきた正体不明の男スミス。
 何者かに追われているらしいスミスは、砂漠の北に崖のごとく聳え立つ山を越えたいと言う。
 スミスの願いを知ったフェリックスは、念願の飛行機作りに着手する。
 
 冒頭から始まる見事な映像美(色彩と構図)、十字架やら廃墟めいた建築やらガーゴイル(怪物の彫刻)やらの続く象徴的なカット、登場人物のエキセントリックな衣装や言動、謎めいたストーリー。
 70~80年代に渋谷や銀座の単館上映で評判をよんだデレク・ジャーマンを思い出した。
 シュールで芸術性は高いかもしれないけど、観ていると眠くなるジャンルである。
 本作も途中でまぶたが重くなって、一時停止してコーヒーブレイクを入れた。

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 先を急いでいるはずのスミスが、フェリックスに引き留められて蟻地獄に落ちたように一日一日と滞在を伸ばしていく様に、「これはもしかしたら安倍公房『砂の女』の翻案なのでは?」と思った。
 妹のベティがしきりにスミスに対し、「ここいると兄に殺されるから早く出ていけ!」と脅しめいた警告を与えるところなど、いかにも『砂の女』めいた不気味さを感じさせる。
 残酷で狂気めいた結末が待っているのか? 

 しかるに、この予想も裏切られ、飛行機は何度かの失敗ののちに完成し、スミスは一人で空に旅立ち、兄と妹は砂漠に残される。
 スミスを追ってきたらしい正体不明の3人の男の影が地平線に現われ、一方、スミスの操縦する飛行機の翼の破片らしきものが家の前で休んでいるフェリックスの背後に落ちてくるところで、ジ・エンド。
 
 なんとも不可解なストーリーである。
 ソルティは聖書的な寓意を感じた。
 つまり、
  スミス=イエス・キリスト
  発明家フェリックス=大工のヨハネ
  てんかん持ちのベティ=聖母マリア
  3人の追っ手=東方からの3人の賢者
 しかし、文脈的には聖書のどのエピソードにも符合するものはなさそうだ。
 
 70~80年代にはこの種の思わせぶりなアート映画が流行った。



おすすめ度 :★★

★★★★★
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 小豆はかりの教え 漫画:『のんのんばあとオレ』(水木しげる作画)

1997年講談社漫画文庫

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 1977年発表の同名の自伝エッセイの漫画化。
 「のんのんばあ」と呼ばれた信心深く妖怪に詳しいお手伝いのお婆さんと、少年時代の水木しげるとの触れ合いが描かれる。
 大らかな父親と母親の庇護のもと、海辺の田舎町(鳥取県境港)でガキ大将として元気に遊び回りながら、一方、妖怪や不思議な話に魅せられ、好きな絵ばかり描いて過ごした水木しげるの原点がここにある。
 昭和初期の日本の庶民の生活風景が興味深い。

 はしかや結核で幼馴染が亡くなったり、仲良くなった少女が人買いの手によって芸者として売られていったり、思いも寄らぬこと、思いどおりに行かないことがこの世にはたくさんあることを、少年しげるは学んでいく。
 彼の目にだけ見える妖怪・小豆はかりのセリフがいい。

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 この小豆はかりの教えを身につけて、後年水木しげるは太平洋戦争従軍中の絶体絶命のピンチを潜り抜けたのであった。



おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● コリン・ファースのフェロモン TVドラマ:『高慢と偏見』(サイモン・ラングストン監督)

1995年イギリスBBC制作
330分(55分×6話)

 ジェイン・オースティン原作『高慢と偏見』は、セス・グレアム=スミスによる『高慢と偏見とゾンビ』(2009年発表、2016年映画化)というトンデモない爆笑ホラーパロディを生んでしまうほどの大メジャー。
 イギリス人なら、否、英国文学を愛する者なら誰でも知っている傑作恋愛小説である。

 ローレンス・オリヴィエ&グリア・ガースン主演の映画(1940)、マシュー・マクファディン&キーラ・ナイトレイ主演の映画(2005)、どちらも19世紀初頭の英国カントリーハウスにおける有閑階級の優雅で格式高い日常と、個性的で魅力的なキャラクターたちと、英国人らしいユーモアたっぷりで、オースティンの原作をほぼ忠実に再現した素晴らしい出来である。
 英国で95年に放映され、40%という高い視聴率を誇り、社会現象にまでなったテレビドラマ版をやっと観ることができた。

 本作もまた、BBCドラマらしい時代考証ばっちりの丁寧で品格ある作りで、原作者への深い敬愛が感じられる。
 ロケも撮影も良し、脚本も演出も良し、役者陣も素晴らしく、上記の映画版と並び『高慢と偏見』映像化の決定版と言って過言ではない。
 実に見応えがあり、観ている間、令和日本の6畳間から19世紀英国の緑なすカントリー(田舎)へとタイムスリップしてしまった。
 見終わった後に立ち返った現実の侘しさよ(笑)!


カントリーハウス
カントリーハウス


和室


 同じBBC制作『ダウントン・アビー』に描かれる世界と同じなのだが、二度の対戦があり貴族階級の凋落が目立つ20世紀初頭を舞台とする『ダウントン』にくらべると、『高慢と偏見』はずっと牧歌的平和に満ちて、時の流れもゆったりで、人と人との交流が細やかである。(本作中の一番の事件は、主人公一家のバカな末娘の駆け落ちである) 
 何と言っても、移動するのに徒歩以外は馬か馬車しかなかった時代、日の光以外は蠟燭やランプの明かりしかなかった時代である。
 ジェントリィと呼ばれる有閑階級は、有り余る時間を遊びや恋愛や噂話にかまけることができた。

 本作でダーシー役をつとめた当時35歳のコリン・ファースは、この一作でスターダムにのし上がった。
 ソルティは『シングルマン』(2009)、『英国王のスピーチ』(2010)、『リピーテッド』(2014)などでようやくこの男優を意識するようになったのだが、すでに中年のコリンであった。
 若い頃のコリンは、たしかに相当の美男でセクシーですらある。
 原作から浮かぶダーシー像とはかなり異なるのだが、観始めたらそんなことは一切気にならなくなるほどの魅力を放っている。
 高慢で無愛想で特権意識丸出しの男をこれほど魅力的に見せることのできるコリンの演技力は、やはり本物なのだ。
 むろん上記の欠点など、ダーシーほどの美形と莫大な資産があれば、たいていの女子はつゆほど気にならないだろう。
 ダーシーの所有するカントリーハウス(ペンバリー)の壮麗さときたら!
 意地悪く見れば、エリザベス(=ジェニファー・イーリー)がそれまで嫌悪していたダーシーに対する気持ちを大きく変えたのは、ペンバリーを訪れてからなのである。


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コリン・ファースとジェニファー・イーリー


 何度映像化されても観たくなる、観て登場人物それぞれがどのように演じられているかを確かめたくなる、それ以前に発表された映像化作品と比較したくなる、そして英国がもっとも裕福で輝いていた時代と空間を追慕したくなる。
 『高慢と偏見』は、日本で言えば『源氏物語』にあたるような永遠の古典である。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 


 

● 本:『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)

2011年原著刊行
2016年河出書房新社(訳:柴田裕之)

 数ヶ月前に図書館予約しておいたのだが、ちょうど連休直前に順番が回ってきたのはラッキーと言うほかない。
 外出自粛中のたっぷりの時間を、難しそうで分厚い(上下巻で500ページ強)本書に当てることができた。

サピエンス全史下


 読み始めてみたら、そんなに難しくなかった。
 むしろ、わかりやすく、面白く、タメになる。
 学術書、研究書、哲学書、歴史書には違いないのだが、同時に教養娯楽本の趣きも強い。
 難しい事柄(たとえば資本主義経済における“信頼”の仕組み)は、比喩や事例を使って素人にもわかりやすく説明してくれるし、訳もまた良い。

 歴史上の知られざるエピソードの宝庫でもある。 
 人類が記した最初の記録文書は税の支払いや負債に関するものだったとか、コロンブスがアメリカに上陸するまで当地に馬はいなかったとか(インディアンはそれまで馬に乗ったことがなかったのだ!)、アステカ族は侵入してきたスペイン人の体臭を耐えがたく思って傍にいるときお香を焚いていた(笑)とか、鉄道が始まった頃のイギリスでは街ごとに時刻が違っていた(グリニッジ標準時の始まり)とか、「へえ~」と思うような意外な話てんこもりで、著者の該博な知識とブラックジョークに近いユーモラスな語り口にページが進んだ。

 タメになるというのは、人類の歴史を著者と一緒に振りかえることで見取り図が持てて、自分が現在、生物史上・人類史上・歴史上のどんな地点にいて、今世界ではどんなことが進行していて、これからどんな世界が待ち受けているかを概観することができるからである。
 そして、王侯でも資本家でもない庶民の一人が、こうやって堂々と休暇をとって、心地の良い我が家でブラジル産コーヒーを飲みながら、明日の食事の心配もせず電灯のもと本を読んでいられるという状況が、いかに人類史的に驚くべき達成であるかを、まざまざと知ることができるからである。


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Sofia IivarinenによるPixabayからの画像


 通常、人類の歴史を語るには、人類の誕生→火や道具の使用→言語の使用→農業革命(狩猟採集から定住へ)→工業革命(産業革命)→情報革命、といった概念と流れで語られることが多い。
 本書の画期的なところは、ここに認知革命という概念を導入した点であろう。
 認知革命は「7万年前から3万年前にかけて見られた、新しい思考と意志疎通の方法の登場のこと」だと言う。

 その原因は何だったのか? それは定かではない。もっとも広く信じられている説によれば、たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳内の配線が変わり、それまでにない形で考えたり、まったく新しい種類の言語を使って意思疎通をしたりすることが可能になったのだという。その変異のことを「知恵の木の突然変異」と呼んでもいいかもしれない。

 この認知革命の結果、サピエンスは「まったく存在しないものについての情報を伝達する能力」を得た。
 
 見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るかぎりではサピエンスだけだ。

 つまり、実体のない抽象概念を作りだして、それが“さも実在するかのように”扱えるようになったということである。たとえば、

神、家族、先祖、子孫、村、国家、国民、金、法律、正義、人権、資本主義、共産主義、平和、戦争、国連、会社、貿易、歴史、文明、文化、恋愛、進歩、幸福・・・・・。

 著者はそれを“共同主観的な想像上の秩序”と呼んでいるが、この指摘自体は目新しいものではない。われらが吉本隆明が60年代に「共同幻想」と名付けたものと重なる。
 重要なのは、共同幻想を持てるようになったことが、人類にとって決定的なターニングポイントになったという点である。

 まさにその通りであろう。
 その後に続く農業革命も産業革命も科学革命も情報革命も、認知革命のもたらした変化と影響の大きさにはまったく及ばない。共同幻想の最たるものである家族や国家や宗教という概念なしでは、人類はいまだ家を持たない狩猟採集民のままであったろう。
 
 国民は、想像上の産物であるという自らの特徴をできるかぎり隠そうとする。ほとんどの国民が、国民とは自然で永遠の存在であり、原初の時代に母国の土地とそこに暮らしていた人々の血を混ぜ合わせて生み出されたといったことを主張する、だが、このような主張はたいてい誇張にすぎない。国民ははるか昔に存在していたが、その重要性は現在よりもずっと小さかった。というのも、国家の重要性がずっと小さかったからだ。

 「共同幻想」のまたの名を「物語(ファンタジー)」という。
 神の失墜やジェンダー神話(男らしさ・女らしさ)の崩壊をあげるまでもなく、現代はこれまで人類にとって有効であった「物語」が馬脚を現し、幻想であったことが次々とバレていく途上にある。
 そうした伝統的な従来の「物語」に従えば幸福が手に入るという時代ではなくなってきている。
 つまり、認知革命の有効期限が終わりに近づいているのだ。
 そうしたときに、「いったい幸福とは何なのか?」が問われているわけだが、著者は最終章に近い丸々一章を「文明は人間を幸福にしたのか」と題して、幸福について様々な観点から考察している。(仏教的見地も登場する!)
 この一章だけでも本書を読む価値は十分にある。

 私たちが真剣に受け止めなければいけないのは、歴史の次の段階には、テクノロジーや組織の変化だけではなく、人間の意識とアイデンティティの根本的な変化も含まれるという考えだ。そして、それらの変化は本当に根源的なものとなりうるので、「人類」という言葉そのものが「妥当性」を問われる。 

 サピエンス、全死?



おすすめ度 :★★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 平岡家のマナー 映画:『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』(豊島圭介監督)

2020年
108分

 今から半世紀以上前の1969年(昭和44年)5月13日に東京大学駒場キャンパス900番教室(現・講堂)で行われた、三島由紀夫と東大全共闘の討論会のドキュメンタリー。
 TBSが録画保存していたフィルムをもとに、スタッフによる注釈や三島をよく知る作家や学者などによる解説、そして実際に討論会に参加していた元学生(今や70代の爺サマ)によるコメントを加えて編集したものである。
 ナレーターを東出昌大がつとめている。

 この討論に先立つ4ヶ月前、学生らによって占拠された東大安田講堂は機動隊の突入によって陥落した。東大闘争は収束したが、1972年の連合赤軍事件にはまだ間があり、共産主義革命を夢見る学生たちの機運は高まる一方であった。
 一方、この討論の約1年後、三島由紀夫は自決した。私設の防衛組織である楯の会を前年10月に結成し、自衛隊体験入隊で鍛え、憲法改正のための自衛隊クーデーターをすでに目論んでいた頃と思われる。
 反体制・反権力を掲げる血気盛んな1000人の左翼の若者が待ち構える中に、天皇崇拝を大っぴらに口にする右翼作家が単身乗り込んでいき、言葉による対決を行なったのである。


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壇上の三島と学生たち(しかし男ばかり・・・)


 たいへん面白かった。
 108分、半ば興奮しながら夢中になって視聴した。 
 そのことがまず意外であった。
 というのも、この映画(DVD)の存在をしばらく前から知ってはいたものの、観るのにためらいを感じていたからである。
 ソルティは、石原慎太郎の三島評を俟つまでもなく、マッチョになってからの、あるいは政治的発言を盛んに口にするようになってからの三島由紀夫の言動になんとなく嘘くさいものを感じていて、天皇の復権を目指し国軍創設を呼びかけるナショナリスティックな物言いには反感というより茶番に近い滑稽さを見ていた。軍服を着て日本刀を振り回し、自分ではない何者かになろうとする三島の姿に痛々しさしか感じられなかった。
 『仮面の告白』、『金閣寺』、『サド侯爵夫人』など国際級の作品をいくつも発表した人が、何者かに憑りつかれたように訳のわからないことを口にし、自ら進んで道化を演じ、これまで築き上げた業績と栄光を反故にするかのように破滅へ向かって突き進んでいく。
 三島の古くからの親しい友人であり霊能者でもある美輪明宏は、晩年の三島を霊視して、「2・2・6事件の将校が憑いている」と言ったそうだが、そうしたオカルティックな理由を持ち出すのがもっとも納得いくような三島の狂気的行動と凄惨な死に様に、近寄りがたいものを感じていたのはソルティだけではあるまい。(むろん、三島自決事件のときソルティはまだ小学生だったので、後年、三島文学に触れるようになってからの印象である)


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市ヶ谷自衛隊駐屯地での三島

 
 今回、怖いもの見たさでDVDを借りて、自決一年前の三島の姿を直視したら、ずいぶん印象が変わった。
 討論の最初のうちこそ、何者かに憑りつかれたような不自然な表情の硬さと、どこを見ているのか分からない虚ろな眼光がちょっと不気味であった。
 が、討論が進むにつれ、どうやらそれは緊張であったらしいことが分かってくる。
 そりゃあ、単身敵地に乗り込むのだから、緊張して当り前だ。

 頭のいい学生(なんたって東大生!)との討論の内容や、どっちが優勢か、あるいはどっちが正しいか、最終的にどっちが勝ったか、なんてことはソルティにはさほど興味がない。(あまりに話が観念的過ぎて付いていけない部分もあった)
 また、三島がしばしば口にする「殺し合う」とか、自らの将来を予告するような「自決する」とか、あるいは非合法の暴力の肯定といった過激な言辞にもさほど惹かれなかった。
 ソルティにとってこの討論会の一番の魅力、この記録映像の最大の価値は、三島由紀夫という男の対人姿勢を垣間見たところにある。
 別の言葉で言えばマナーである。
 主義でも思想でもルックスでも論客ぶりでも断じてなかった。

 三島は講堂をぎっしり埋めている、あるいは三島と共に壇上にいる学生たちに対して、終始、真摯に向き合い、敬意を持って遇し、相手の話に耳を傾け、対話において誠実で率直であろうと務め、ユーモアにあふれている。
 まず、この三島のユーモアというのが意外であった。
 ユーモアがあるというのは精神が硬直化していない一つの証拠であるから、三島が「何者かに憑りつかれて」我を無くしているというのは、少なくともこの段階ではどうやら当たっていない。
 『仮面の告白』による華々しい文壇登場の時からまったく変わらず、自らを相対化できる視点を携えているのである。

 また、三島の言葉は決して頭でっかちではない。己の実感から離れた思想や主義を振りかざしているのではない。
 実社会経験に乏しい学生たちはどうしても頭でっかちになりがち、つまり、行動が思想や主義によって牽引される傾向にある。(その最悪の結果が連合赤軍事件であろう)
 その思想や主義もまた、生活者の実感が伴わない借り物めいた感じが漂う。そもそもどのような条件付けのもとに自らがそういった思想や主義を抱くようになったかという点ついて自覚に乏しい。歴史的存在としての自分についておおむね鈍感である。(だからこそ、若者は今までにない新しいものが生み出せるのだが)
 たとえば、被差別部落に生まれ貧困と不平等に苦しんできた大正時代の若者がロシア革命を知って共産主義に希望を抱くような具合には、戦後生まれのインテリで資本主義社会において「勝ち組」を約束された東大生には、共産主義革命に対する切なる願望も内からの止むにやまれぬ慫慂もありはしないだろう。現実的な飢えや痛みから生み出され選ばれた思想ではない。

 一方、三島の皇国思想の背景には、まず日本文化や歴史についての深い造詣と理解があり、国や天皇のために戦い散っていった同朋を見送りながら戦前戦中を生き抜いてしまった事実があり、戦後民主主義の建設過程で神から人間になってしまった天皇や鬼畜米英から親米へと豹変した日本人を複雑な思いで見ながらも、その後に訪れた豊かさを「時代の寵児」として誰よりも享受してきた自分に対するアンビバレントな思いがあり、加えて三島独特の大儀の死と美とが結合したエロチシズムへの希求があった。
 三島の内的洞察力はこうした自らの条件付けと思想や欲望の成り立ちを当然自覚していたはずである。その自覚があればこそ、「自分は日本人として生まれ、日本人として死ぬことに満足している」というセリフが出てくる。
 天皇制や資本主義はもとより、日本人という国籍からの離脱さえ夢見る学生たちには、到底理解できる相手ではないだろう。
 ここには三島由紀夫=平岡公威という一人の男が背負ってきた重み(業)がある。そして、「歴史的存在としての人間を無視できるのか」という学生たちへの、戦後日本人への問いかけがある。

 三島がそうした条件付けからの解放を望まないのは、おそらく本映画の中でフランス文学者の内田樹が解説している通り、「国家の運命と個人の運命とがシンクロしていた時代に存在したある種の陶酔」を求めているからであろうし、作家の平野啓一郎が指摘している通り、「生き残った者の疚しさと苦悩」ゆえであろう。
 遺作となった『豊饒の海』で三島は仏教の世界に足を踏み入れている。
 あるいは三島には、すべての条件付けから解放されるべく、瀬戸内寂聴(やはり本作に登場している)のように出家して、悟りに向けて修行するという選択肢だってあったのかもしれない。であったなら、自殺することはなかった。
 が、それを決して許さないもの――自分一人だけが国家や文化や制度から解放されて生きのびることを良しとしないもの、あるいはダンディズム?――が彼の中には厳然とあったのだろう。


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Pete 😀によるPixabayからの画像


 さて、マナーの話に戻る。
 三島がマナーを持って学生たちと向き合っているのは、彼らを「他者」として認めているからにほかならない。
 この他者をめぐる問題が、この討論会の、あるいはこの映画の、あるいは三島由紀夫自身の最大にして究極のテーマであったのだと思う。
 最初の10分間スピーチの中で、三島は次のようなことを述べている。

・私は安心している人間が嫌いだ。
・私は当面の秩序を守るために妥協するという姿勢が嫌いだ。
・私は知性(知識・思想)でもって人の上に君臨するのが嫌いだ。

 これは、「自己充足して他者と向き合おうとしない人間が嫌いだ」ということを言外に匂わせている。
 そのあと、司会を務める制服姿の学生(木村修)は三島への最初の質問として、奇しくも「自己と他者」の問題を投げかける。正直、彼の質問自体は要領を得ない稚拙なものであるが、他者という言葉を“いの一番”にぶつけたセンスは素晴らしい。(たぶん、横で構えていた三島もビックリしたのではないか)

 三島はおおむねこんなことを答える。

 エロチシズムにおいて、他者とは「どうにでも変形されうるようなオブジェ」であるべきで、意志を持った主体ではない。
 一方、(真の)他者とは、自分の思うようにはならない意志を持った主体であり、それとの関係は対立・決闘あるのみで、全然エロチックなものではない。
 自分はこれまで、エロチシズムにおける他者を作品のテーマとして描いてきたけれど、もうそれには飽きた。
 私は(真の)他者がほしくなった。
 だから、君たちが標榜する共産主義を敵(=他者)と決めた。

 この告解は衝撃的である。
 三島文学の大きな特徴は「他者との関係の不可能性」にあった。
 関係が不可能なところにエロチシズムが存在したのである。
 それは、川端文学や谷崎文学にも、いや三島以前のほぼすべての男性作家について言えるところであろう。
 基本、男のエロスは自己充足的=オナニズムだからである。
 三島はそれとは決別して、他者を探す旅に出たのだ。
 エロスでも暴力でもなく、言葉によって他者と出会う可能性を探ったのだ。
 共産主義を志向する若者たちを、自らの意志を持つ「他者」と認めればこそ、対等の立場で敬意を持って対話しようとしたのである。
 それが三島のマナーの持つ意味の一つである。


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壇上の三島と進行役の木村青年


 英国の推理作家G.K.チェスタトンのブラウン神父シリーズの中に『共産主義者の犯罪』という一編がある。
 共産主義による社会転覆と神の抹殺を標榜する名門大学の教授が、大学関係者が集う夕食会の席で、伝統破壊者らしい言辞を披露して同僚の不興を買いながらも、その一方、大学特製の葡萄酒を煙草を吸いながら口にすることはついにできなかった、という話である。
 思想や主義はいくらでも標榜できるし転向もできるけれど、生まれ育ちの中で身に着けたマナーは容易には変えられないという逆説。
 本映画で確認できる三島の品格あるマナーこそ、まさに後年筋肉と共に身に着けた思想や主義以前に、人気作家になるはるか以前に、三島由紀夫ならぬ平岡公威が平岡家の伝統の中で身につけた文化であると同時に、ほとんど無意識と言っていいくらい深いところで三島を規定している気質、すなわち人柄というものである。
 「主義主張が異なる相手に対しても、対話する際には敬意と忍耐をもって遇せよ」という三島の中の定言命令である。
 その品格は1000人の学生の目にはたしてどのように映ったのか。

 上記の木村修が発言の途中で三島のことを思わず、「三島センセイ」と言ってしまい、すぐに自らの権威盲従的失言に気づき、苦し紛れの弁明をする場面がある。
 木村の生真面目な愛されキャラのおかげで会場も三島も爆笑、一気に会場の雰囲気は和らぐ。
 おそらく、木村は思想や主義を超えたところにある三島由紀夫の人柄を敏感に察し、それに感化されたのだろう。 
 いまや70代になった木村がインタビューで当時を振り返るシーンがある。
 それによると、討論会が終わって木村が三島にお礼の電話を入れたところ、その場で楯の会に誘われたという。敵からの勧誘である。
 非常に面白い、かつ意味深なエピソードである。
 三島が実は、個人の思想や主義なんてさほど重要とは思っていない、人と人とが「肝胆相照らす」には思想や主義なんかより大切なことがある、とでも言っているかのようだ。

 尚武を気取る三島は口にしなかったけれど、他者との関係には対立・決闘だけでなく、互いを理解しようとする意志すなわち愛だってある。
 900番教室の学生に対する三島のマナーの根底にあるのは愛なのだと思う。
 この映画が感動的なのはそれゆえだ。

 それにしても、半世紀前には絵空事でナンセンスとしか思えなかった三島の言辞――天皇制をめぐる問題と憲法改正――が、今日焦眉の政治的テーマとなっているのは驚くばかりである。
 そして、900番教室を埋め尽くし口角泡飛ばして政治や社会を語った東大生が、いまやテレビのクイズ番組でアイドルのように扱われているのを見るにつけ、ソルティもそこに生きてきた日本の50年という歳月を奇妙なものに思う。


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現在の東京大学駒場の900番教室



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 漫画:『嵐電』(うらたじゅん・作画)

2006年北冬書房
初出2001~2006年『幻燈』
表題作含み全11編

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 一瞬、「みうらじゅん」かと思った。
 1954(昭和29)年大阪生まれの女性漫画家である。
 その存在をはじめて知った。
 いや、その非在をはじめて知った。
 2019年にがんで亡くなっている。
 
 エッセイ風漫画といった趣きで、収録されている11編のうちいくつかは少女時代の自らの記憶がネタになっている。『ちびまるこちゃん』のさくらももことの類似を思った。
 ただ、ちびまる子ちゃん=さくらももこ(1965-2018)の活躍する世界は昭和40年代の静岡県であるのに対し、少女うらたじゅんが生きる世界は昭和30年代の大阪近辺。
 この違いが結構大きくて、戦争の傷跡や貧困や公害のエピソードが、少女の牧歌的な日常にふと影を落としている。
 セックス、挫折、老い、死などをテーマとするうらたじゅんの作品は明らかに大人向けであり、最終的には子供向けギャグ漫画になってしまった『ちびまる子ちゃん』とは一線を画する。
 
 花、木、鳥、虫など自然を描くのが巧みなことも、うらたじゅんの特徴であろう。
 日本の美しい春夏秋冬をバックに、ちっぽけで愚かだけれど愛おしい無名の人々のドラマが展開している。
 西岸良平『三丁目の夕日』のような庶民性もあれば、尾崎翠『第七官界彷徨』のような女性ならではの不思議な浮揚感もある。
 細く柔らかな描線、めくるめく花鳥風月、時折読者にひたと向けられる少女の潤んだつぶらな瞳・・・。
 どこかで見たような気がずっとしていた。
 
 末尾を飾る『眠れる海の城』(傑作!)を読み終わって、ハタと気づいた。
 大島弓子だ!
 うらたじゅんは少女を脱皮した大島弓子なのだ。
 


おすすめ度 :★★★

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● 映画史上最も醜悪なカット 映画:『マンディンゴ』(リチャード・フライシャー監督)

1975年アメリカ
127分

 現在、日本各地で46年ぶりにリバイバル上映されている話題作である。
 宣伝資材には「映画史上最大の問題作」、「呪われた大作」、「最悪の映画」などセンセーショナルな煽り文句が冠されている。

 実際、酷い映画である。
 正視できない場面も少なからずあった。
 ただし、映画の出来が酷いのではない。
 内容があまりに残酷で、あまりにおぞましく、あまりに暴力的で、ヒューマニズムからあまりにかけ離れているので、「酷い」と言うしかないのだ。
 最後まで観てしまったけれど、鑑賞後にこれほど自分が穢れたような気分になった映画は最近珍しい。

マンディンゴ
『風と共に去りぬ」をパロった公開時のポスター

風と共に去りぬ


 物語は19世紀半ばのアメリカ南部。
 アフリカから連れてこられた黒人奴隷が売り買いされ、農場で酷使されていた。
 そう、『風と共に去りぬ』の時代。
 『マンディンゴ』を観ると、『風と共に去りぬ』の作者マーガレット・ミッチェルとヴィヴィアン・リー主演の映画の制作者たちが、いかに南部を美しく描いていたのかを痛感する。
 人種差別の醜い現実からいかに目を背け、白人の美男美女の壮大なラブストーリーに読者の関心を向けさせたか、その少女漫画のごときデイドリームぶりに呆然とする。
 こうして『マンディンゴ』を観てしまったからには、もう二度と『風と共に去りぬ』を心から楽しめないような気さえする。
 『風と共に去りぬ』が『オズの魔法使い』に、スカーレット・オハラがドロシーに思えてくるほどだ。

 主人公一家は“奴隷牧場”を経営している。
 これは黒人奴隷が牧場で働いているという意味ではない。
 優秀な奴隷を集めて飼育し、牛馬のように掛け合わせ、さらに優秀な奴隷を作って売る仕事なのだ。
 黒人は動物である。  
 だから、病気になった黒人を診るのは獣医である。

 『マンディンゴ』はカイル・オンストット著の同名小説がもとになっているのだが、リアリズムと言っていいのだろうか?
 どこまで史実に則っているのだろう?
 これだけのクズ白人がアメリカの地で大手を振って歩いていたなんて本当だろうか?
 それとも誇張や粉飾があるのだろうか?
 思わず問いただしたくなってしまう。
 スティーヴ・マックイーン監督『それでも夜は明ける』や、ソルティが子供の頃に観たアレックス・ヘイリー原作のテレビドラマ『ルーツ』の内容を踏まえると、史実と言っていいのだろうな・・・・。
 信じたくないような話であるが、目を背けてはいけないホモサピエンスの姿である。
 
 牧場を経営する主人は、リウマチを治癒するために、暇さえあれば床に寝かせた黒人少年の裸の腹の上に素足を乗せる、その母親の目の前で――。
 こうすると少年に体の毒がうつるから、と主治医がすすめたからだ。
 おそらく、映画史上最も醜悪なカットの一つに違いあるまい。
 (現代なら、このシーンの撮影すら許されないのではなかろうか)
 
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おすすめ度 :★★★★

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● 本:『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』

2020年中公文庫

 1956年から69年に誌上で行われた三島由紀夫と石原慎太郎の全対話9編、併せて1970年の毎日新聞紙上での論争を収録している。
 「戦後日本を象徴する二大スタア作家の競演」という裏表紙の謳い文句に偽りはない。

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 上記の写真は1956年撮影と注釈にあるから、おそらく二人が初めて対談した『文學界』昭和31年4月号の際に撮ったものであろう。
 場所は当時文藝春秋社ビルがあった銀座界隈と思われる。
 時に三島由紀夫31歳、石原慎太郎24歳、7つ違いであった。

 昭和40年生まれと昭和47年生まれ、あるいは平成3年生まれと平成10年生まれの違いはそれほど大きくはない。
 しかし、大正14年生まれと昭和7年生まれの違いは看過できないほど大きいと思う。
 なぜなら、三島は多感な青春期に太平洋戦争、徴兵検査、広島・長崎原爆投下、ポツダム宣言受諾、天皇の人間宣言、日本国憲法発布を経験しているのであり、一方、石原の青春は戦後に始まったからである。
 両者の国家観、天皇観、戦争観、日本人観、そして死生観には埋められない深い溝があると想像される。
 その意味では、ともにブルジョア育ちで戦後に文壇に躍り出て一躍マスコミの寵児として持て囃されたという共通項こそあれど、三島は戦前・戦中の意識を背負った作家、石原は戦後の空気を象徴する作家という違いが指摘できよう。
 
 さらに、この写真で気づくのは二人の身長差である。
 181㎝と長身の石原に対し、三島は163㎝、20㎝近い差がある。
 撮影ではそのギャップが目立たないように、三島を前景に置き、かがんで手すりにもたれているような姿勢を取らせ、下半身はカットするという工夫が取られている。
 だが、ちょうど頭一つ分の二人の顔の位置の差は、そのまま二人の身長差であろう。
 これに象徴されるように、生まれながらの美丈夫でスポーツマンであった石原に対し、三島はコンプレックスを持たざるをえなかった。
 三島が貧弱な肉体改造のためボディビルを始めたのが、石原が『太陽の季節』で華々しくデビューした直後だったのは一つの符号である。
 二人の対話は、三島が己の肉体にそれなりに自信を持てるようになった頃、マッチョへの道、武芸への道、革命の志士への道を歩みだすターニングポイントに立ったあたりから始まったのである。

 本書の一番の面白さは、戦後のスタア作家でマスコミの寵児という共通項を持ちながらもまったく対照的な二人の対話を通して、それぞれのキャラ(本質)が浮かび上がってくるところにある。
 両人は、互いに小説家としての才能と仕事を認め合い、「友人ではなくとも味方」として認識し、互いの作品への忌憚ない批評を行い、男同士ならではの女性論や結婚論を開陳し合い、ときには文壇の先輩後輩という立場を離れて意見を闘わせている。
 先輩作家であり時代のヒーローである三島に対する新人作家・石原のタメグチに近い応答は、無礼と思う前に有吉弘行のようなふてぶてしさに感心するほどであり、それを平気で許してしまう三島の度量というか愛情(だろうな、やっぱり)は貴重なものである。
 石原慎太郎という男は、若い頃から偉そうだったんだな~。

破れ障子


 三島由紀夫は、漱石や芥川龍之介や谷崎や川端や太宰治など明治以来の文豪の流れをくむ根っからの物書きで、「書くこと=生きること」タイプのインドア人間。
 一方、石原慎太郎は、小説のほかにも映画を作ったり、ヨットやオートバイラリーをやったり、政治をやったり、女と遊んだり、「行動すること=生きること」タイプのアウトドア人間。
 この違いは両人の“自意識”に対するスタンスの差にあるようだ。
 三島は石原を「自意識において破滅しない作家」と評する。

三島 この人たちはどうほうっておいても、どんなにいじめても、自意識の問題で破滅することはない。それは悪口いえば無意識過多ということになるよね。・・・(中略)・・・自意識というものがどういうふうに人間をばらばらにし、めちゃくちゃにしちゃうかという問題にぶつかったときに、耐えうる人と耐え得ない人があるんだね。

 三島は「自意識において破滅する作家」の典型として太宰治を上げているが、むろん、三島自身も間違いなくその一人であった。三島の有名な太宰批判は、一種の同族嫌悪であろう。
 別の言い方をすれば、三島にとって自意識は常に「邪魔になる」ものであったのに対し、石原の自意識は常に「宝になるもの、自慢になるもの」であった。
 我が国の明治以来の文学の伝統は、「厄介なる自意識(近代的自我)をどう社会の中に位置づけるか」みたいなところにあったわけだが、石原はその本流からは逸れているのかもしれない。(ソルティは石原の対談集はともかく小説を読んだことがないので推測にすぎんが)

 両者の違いが鮮明に表れるのは、『守るべきものの価値』と題された最後の対談(昭和44年11月実施)である。この対談のちょうど一年後に三島は自決している。
 石原による「あとがきにかえて」(2020年に行ったインタビュー)によれば、この対談の最初のテーマは『男は何のために死ねるか』だったそうで、対談の皮切りに両人が「せーの」で提出し合ったこの問いに対する回答はまったく同じ、「自己犠牲」であった。
 ところが、対談を通して判明していくのは、この「自己犠牲」の中身がまったく異なることである。
 「最後に守るべきものは何か」という問いに対して、三島が出した答えは「三種の神器」すなわち天皇制である。
 これは、天皇こそが日本文化の要であり、日本を他国から弁別できる最終的なアイデンティティは天皇制だけだ、という三島の思想によっている。
 それを死守するための自己犠牲なのだ。
 一方の石原は「自分が守らなければならないもの、あるいは社会が守らなければならないもの」は、自由だと言う。

石原 僕の言う自由はもっと存在論的なもので、つまり全共闘なり、自民党なり、アメリカンデモクラシーが言っているもののもっと以前のもので、その人間の存在というもの、あるいはその人間があるということの意味を個性的に表現しうるということです。つまり僕が本当に僕として生きていく自由。

 自らの自由、あるいは自由な表現を守るための「自己犠牲」は尊い、というのが石原のポリシーなのである。
 同じ「自己犠牲」でもベクトルは真逆である。
 三島が没我的・他律的であるのに対し、石原は自己顕揚的・自律的である。
 あるいはこの違いこそ、「お国のため」、「君のため」を幼い頃より叩きこまれた戦前・戦中派と、「自分ファースト」の戦後派の違いなのかもしれない。
 両人はこの違いにおいて、激しく意見を衝突させる。

三島 形というものが文化の本質で、その形にあらわれたものを、そしてそれが最終的なもので、これを守らなければもうだめだというもの、それだけを考えていればいいと思う、ほかのことは何も考える必要はないという考えなんだ。
石原 やはり三島さんのなかに三島さん以外の人がいるんですね。
三島 そうです、もちろんですよ。
石原 ぼくにはそれがいけないんだ。
三島 あなたのほうが自我意識が強いんですよ。(笑)
石原 そりゃァ、もちろんそうです。ぼくはぼくしかいないんだもの。ぼくはやはり守るのはぼくしかないと思う。
三島 身を守るというのは卑しい思想だよ。
石原 守るのじゃない、示すのだ。かけがえのない自分を時のすべてに対立させて。
三島 絶対、自己放棄に達しない思想というのは卑しい思想だ。
石原 身を守るということが?・・・・ぼくは違うと思う。
三島 そういうの、ぼくは非常にきらいなんだ。
石原 自分の存在ほど高貴なものはないじゃないですか。かけがえのない価値だって自分しかない。

 図式的な見方になるが、

 三島由紀夫 =自己否定的=生の否定=肯定できる他者(美、天皇)の顕揚と仮託
 石原慎太郎 =自己肯定的=生の肯定=他者不要(あるいは自分を顕揚してくれる他者のみ必要)
 
 両者はちょうどネガとポジのよう。
 どっちが生活者として幸福かといったら、自ら「太陽」であり「天然」であり「王様」である石原のほうであろう。
 どっちが文学者として幸福か、つまり後世に残るかといえば、むろん三島である。
 なぜなら、他者不要の文学なんて意味がないから。

「あとがきにかえて」の最後で、石原はこう述べている。

 結局、あの人は全部バーチャル、虚構だったね。最後の自殺劇だって、政治行動じゃないしバーチャルだよ。『豊饒の海』は、自分の人生がすべて虚構だったということを明かしている。最後に自分でそう書いているんだから、つらかったと思うし、気の毒だったな。三島さんは、本当は天皇を崇拝していなかったと思うね。自分を核に据えた一つの虚構の世界を築いていたから、天皇もそのための小道具でしかなかった。彼の虚構の世界の一つの大事な飾り物だったと思う。

金閣寺


 ソルティも、ここで石原の言っていることはかなりの程度まで当たっているように思う。
 ただ、石原の人を貶めるような物言いには、文学者として最早決して同じレベルに立つことができない先輩・三島に対する男の嫉妬のようなものが感じられる。
 悪名高い石原のホモフォビアも、三島への嫉妬心から来ると思えば存外理解しやすい。
 恩知らずな奴。




おすすめ度 :★★★★

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● フェミニスト、ホームズ 本:『シャーロック・ホームズのクロニカル』(ジューン・トムスン著)

1992年原著刊行
1993年創元推理文庫(押田由起 訳)

 『シャーロック・ホームズのドキュメント』に続き、2冊目のトムスン・パスティーシュ。
 ワトスン手記による7つの短編が収録されている。

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 どれも小粒だがよく出来ていて、コナン・ドイルの“聖典”を彷彿するパスティーシュとしてはもちろんのこと、単純なミステリーとしても、19世紀英国の風俗小説としても十分楽しめた。
 ホームズの実兄であるマイクロフトが登場する大捕物サスペンス『スマトラの大鼠』などは、没後60年ぶりに発見されたドイルの遺作と言われたらそのまま信じ込んでしまいそうなほど、“聖典”の短編群に遜色ない出来栄え。
 真犯人の隠れ家の探索に行き詰まったホームズに、ワトスンの一言が曙光をもたらし、一気に解決へと向かうプロットは、いつも鈍重な役回りばかりさせられる我らがワトスンの面目躍如たるものがある。
 しかし、ワトスンが子供の頃、二十日鼠を飼っていたとは!

マウス


 “聖典”との大きな違いの一つは、やはり、現代女性作家ならではの視点である。
 産業革命華やかなりし19世紀英国の活気あるヴィクトリア時代をきっちりした時代考証をもとに再現しながらも、階級社会への風刺であるとか、ロンドンのスラムにおける貧困や衛生の問題であるとか、ホームズがぷかぷか吸っている煙草の害であるとか、男女不平等社会の弊害であるとか、時代の真っただ中にいたドイルが「あたりまえ」に思い問題意識を持たなかったであろうトピックが、現代女性の視点からやんわりとではあるが問いただされている。
 そこが単なるパロディとは違ったトムスン・パスティーシュの魅力であろう。

 一例をあげると、有能なる家政婦が勤め先の館の主人を毒殺し、その罪を相続人の甥になすりつけようとした『キャンバウェルの毒殺事件』において、家政婦の犯罪を見事な推理により暴いたホームズは、沈痛な面持ちで「すべての罪を彼女に負わせるべきでない」と言う。
 ワトスンは困惑し、「まだほかに共犯者がいるのか?」と尋ねる。
 ホームズは答える。

「きまっているじゃないか、社会だよ!」彼は言った。「彼女の境遇を考えてみたまえ。ここに疑う余地のない知性と才能を持ちあわせながら、財力に乏しく、世に出るチャンスはさらに乏しい女性がいる。いったいわれわれは――ここではワトスン、きみとぼくがその一員である社会一般のことを言ってるんだぜ――彼女にどんな生き方を期待できるだろう? もちろん、結婚すればいいさ。だがもし当人がそうしたくない場合、彼女より能力はないが経済力のある他人のために、女中頭や家庭教師やコンパニオンをつとめて、あたら才能を費やすしか道はないんだ。社会が彼女に可能性を充分に発揮させていたなら、きっと犯罪に頼ることなど考えもしなかったろう。大使だろうが、実業家だろうが政治家だろうが、何でも好きな職業を選んで資質を存分に生かすことができたろうし、こいつはばかげた考えに思えるかもしれないが、それこそ英国首相の座にのぼりつめることだって、できなくはなかったかもしれない」

サッチャー
マーガレット・サッチャー元首相


 “聖典”のホームズなら、決して口にしないであろうセリフである。
 きっちりした時代考証と原典研究で本シリーズをものしているジューンであるが、肝心の主人公ホームズのキャラクターについては、実のところ“聖典”とは若干ズレている。
 筋金入りのシャーロキアンであればそれは許されないことに思えようが、ジューンはホームズとワトスンを愛すればこそ、ホームズをフェミニストに仕立て上げて、このようなセリフを吐かさせずにはいられなかったのであろう。



おすすめ度 :★★★

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● 日活的な笠智衆 映画:『花形選手』(清水宏監督)

1937年松竹
64分、モノクロ

 関口宏の父親で天下の二枚目として名を馳せた25歳の佐野周二と、8つ年上の笠智衆とが、同じ大学の陸上部のライバルにして親友を演じるコメディ。
 この二人、小津安二郎の『父ありき』(1942)では父と息子を演じて、まったく違和感なかった。
 老け役イメージの強い笠智衆が、本作では青春真っ盛りの負けん気の強い若者で、「勝ったほうがいい!」とか拍子を取って歌い踊りながら佐野を挑発したり、なにかと競争を吹っ掛けたり、女に心を奪われた佐野を張り飛ばしたりと、まるで日活青春映画の主役のような振る舞い。
 なかなか見られない笠さんの青年姿になぜかしらドキドキしてしまふ

 時代が時代で(37年は日中戦争勃発の年)、行軍の模擬演習に駆り出される大学生の姿が描かれている。
 が、戦意高揚映画のようなプロパガンダ臭やナショナリズムの色合いは希薄で、物売りや香具師や芸人や荷馬車が行き交うのどかな田舎道や古い集落を舞台に、のんべんだらりとした空気が漂う。
 野外ロケの素晴らしさ。 
 あいかわらず、男の子たちのやんちゃぶりも楽しい。
 清水監督自身、幼少期はガキ大将で、戦後は十数人もの戦災孤児や浮浪児を引き取って育てたという。子供を思い通りに動かすのはお手の物だったのだろう。

 清水監督は大人の役者の芝居臭い演技を嫌い、作為ではない、あるがままなものを好んだらしい。  
 と言っても、それはリアリズムの追求とか、自然な演技というのとは違う。
 彼が好んで使った子供や素人の演技は、芝居臭くはないが、決して自然ではない。
 むしろ、棒読み感が強く、演技としては稚拙である。
 その下手糞さによって独特の間合いをつくり出して、オリジナルスタイルとしての“牧歌的滑稽”を生み出しているように思う。
 その意味では、自然な作風ではなく、“大映ドラマ”に近いような人工的な構築物ではないかと思う。
 ただそれを計算ではなく直観的にやってしまっているのが天才たるゆえんだろう。




おすすめ度 :★★★★

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● 本:『やっぱりかわいくないフィンランド』(芹澤桂著)

2021年幻冬舎文庫

 著者は1983年生まれ。フィンランド人と結婚、ヘルシンキ在住の2児の母。
 タイトルに「やっぱり」とあるのは、『ほんとはかわいくないフィンランド』という前著があるから。
 亭主との馴れ初めや移住の話なんかは、おそらくそっちに書かれているのだろう。(図書館に置いてなかった)

 ソルティは意外とこういった異国生活こぼれ話的なエッセイが好きである。
 日本との風習や制度の違い、ものの考え方の違い、いわゆる“お国柄”を知るのは面白い。
 とりわけ、女性の書き手によるものが生活者のリアリティを感じさせて、その国で住むとはどういうことかを目に見えるように伝えてくれる。
 これが男性の書き手となると、どうしても政治論や文化論といったお堅い一般論になりがちで、いったいに無味乾燥なんである。
 本書も、フィンランドの食風景や保育園事情、休暇の過ごし方、家の売り買いのあれこれなど、きわめて日常的なテーマがざっくばらんに語られ、肩の凝らない楽しい読み物になっている。
 フィンランドをモチーフとした「それでも」かわいい表紙のイラストが、本書を借りようと思った大きなきっかけになった。
 
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イラストレーター赤羽美和による

 フィンランドと言えば、

 サウナ、キシリトール、森林、湖、シベリウス高福祉、ムーミン、白夜、オーロラ、オルキルオトのオンカロ・・・・

あたりが常套フレーズであるが、本書を読んでこれに新たにいくつか加わった。

 高い離婚率、冷凍庫のブルーベリー、不味いコーヒー、牛乳フリーク、フィンランドじわ。

 中で離婚についていえば、なんと二組に一組は離婚するという!(日本は三組に一組)
 フィンランドは事実婚が多いので、事実婚カップルも含めると、生涯離婚をしないで添い遂げるカップルのほうが圧倒的に少ないということになる。
 住居を変えるのと同じくらいの気軽さで離婚するらしい。(フィンランドでは“終の棲家”という考え方はあまりないそうだ)

 この背景には、西洋人の個人主義とか忍耐力のなさ(というより忍耐を美徳とはとらえない文化)とかいろいろあるのだろうが、「やっぱり」看過できないのは男女平等と高福祉であろう。

 日本で女性が離婚をためらう一番の理由は、離婚後の生活の厳しさを思ってしまうからである。
 旦那の稼ぎに頼れなくなり、かと言って小さな子供を抱えた女性が就職先を見つけるのは難しい。
 子供を預けようにも保育園を探すのも難しい。
 別れた元亭主の7割以上が養育費をきちんと払ってくれない。
 子供が手にかからなくなるまでの、あるいは必要十分な収入ある仕事が見つかるまでの社会保障があるかと言えば、これまたない。
 四面楚歌である。
 離婚したくても簡単にはできない檻のような(鬼のような?)システムなんである。


象と檻


 別に離婚を勧めているわけではないけれど、生理的に一緒にいられなくなった相手と一つ屋根の下で暮らし続けるのは、どう考えてもハッピーではない。
 互いにとっても、子供にとっても。

 先進国で最低の日本の男女平等ランキング(フィンランドはアイスランドに次いで2位)といまの社会保障制度や予算配分のあり方、これらは女性が「結婚してもロクなことがない」、「子供を産んでもロクなことがない」と思わせる結果を生み、つまるところ我が国の出生率の低下を招く。
 我が国の与党の力ある層は、明治民法下の儒教的な「家」制度をかたくなに守ることに執念を燃やしているように見えるけれど、それを推し進めれば進めるほど、国民は結婚や子育てから遠ざかってしまい、結局は「家」の弱体と消滅を招いてしまうということが、どうやら分かっていない。
 選択的男女別姓制度に関する議論にもそれが表れている。
 男女別姓をすんなり認めたほうが、女性にとって結婚することへの敷居が低くなるのだから、「家」を守りたい派にとっては結構なお話だろうに・・・・。
 
 ゲイであるソルティにとってはどうでもいい話とさらりと逃げたいところだが、出生率の低下は老後の年金生活に影響してくるので、困ったものだ。
 ただ、今回のコロナ騒動で明らかになったけれど、国家の社会保障費の供出は「できない」のではなく「やりたくなかった」のだ。
 ホント国民を馬鹿にしている。


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     読み損、観て損、聴き損


● 牧歌的滑稽の系譜 映画:『小原庄助さん』(清水宏監督)

1949年新東宝
97分、モノクロ

 小原庄助さんは民謡「会津磐梯(ばんだい)山」の囃子詞に登場する人物。
 「朝寝・朝酒・朝湯が大好きで、それで身上(しんしょう)つぶした」というが、モデルとなった人物については不明である。
 その小原庄助を地で行くような村の旧家のあるじを、時代劇の名優・大河内傳次郎が風格と諧謔を持って演じている。
 
 坊ちゃん育ちで遊び好き、金儲けが下手で、情に厚く、頼まれたら断らないお人よし。
 根っからの善人である男が、没落して無一文になっていく過程を描く。
 が、悲劇ではなく、あくまでもユーモラス。
 悲哀はあれど、不幸はない。

小原庄助

 
 清水宏作品が放つ牧歌的滑稽とでも言うべき作風を、だれが引き継いだのだろう?
 すぐに思い浮かぶのは、同時期に松竹入社して清水没後も作品を発表し続けた生涯の親友たる小津安二郎である。
 たしかに、清水と小津の作品にはかなり似たところがある。
 無人ショットや切り返しの多用、子供とくに男の子を取るのがうまいところ、セリフの棒読み感、とぼけたユーモア、役者の演技よりカットを重視したところ等々。
 笠智衆、飯田蝶子、三宅邦子、坂本武といった常連出演陣も共通している(同じ松竹だから当たり前といえば当たり前なのだが)
 
 しかるに、もっとも清水宏のユーモラスな作風を引き継いだのは、木下惠介ではなかろうか?
 井川邦子主演『わが恋せし乙女』、原節子主演『お嬢さん乾杯』、阪東妻三郎主演『破れ太鼓』、高峰秀子主演『カルメン、故郷に帰る』、同『カルメン、純情す』、岡田茉莉子主演『今年の恋』あたりに、清水作品同様の大らかなるユーモアの発露が見られる。
 牧歌的だけれど泥臭くはない。
 あくまでもソフィストケイトされたユーモアである。
 
 この種のユーモアはなかなか日本には育たない。
 木下惠介以降で誰かいるだろうか?
 寅さん(山田洋次)?
 ウ~ム・・・・・
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『完璧な家』(B・A・ハリス著)

2016年原著刊行
2017年ハーパーコリンズ・ジャパン発行

 原題は Behind Closed Doors 
 イギリス生まれフランス在住の女性作家。
 デビュー作である本書は、英国で100万部を超えるベストセラーになったそうだ。


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 負け知らずの有能な弁護士でハリウッドスター並みのルックスを持ち、富と名声と知性と優雅さを兼ね備えた「完璧な」男、ジャック・エンジェル。
 彼に熱く口説かれ、求婚され、夢見た通りの豪邸に住むことになった主人公グレース。
 だれもが羨む幸せいっぱいの新婚生活が始まると思いきや、蓋を開けてみたら、夫の正体は血も凍るようなサイコパスであった。
 外面を「完璧に」取り繕うことができるジャックに骨の髄まで支配され、障害を持つ妹ミリーの安全という人質をとられたグレースは、ジャックの命じるとおりに幸せいっぱいの「完璧な」人妻を演じなければならない。
 地獄の日々はいつか終わるのか?
 
 過去と現在を交互に語る構成が効を奏して、読み始めたら止まらなくなる強烈なサスペンスが全編みなぎっている。
 女性作家ならではの日常生活の細やかな描写もリアリティを生んでいる。
 ジャック・エンジェルがドメスティック・バイオレンスを専門とする弁護士で、虐待された女性のヒーロー(文字通り「天使」)であるという皮肉な設定も、グレースの絶望を一層高める。

 自粛生活続きで退屈しきった人におすすめである。



おすすめ度 :★★★

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● 行為は意志に先立つ? 本:『マインド・タイム 脳と意識の時間』(ベンジャミン・リベット著)

2004年原著刊行
2005年岩波書店より邦訳発行
2021年岩波現代文庫(訳・下條信輔、安納令奈)

 ベンジャミン・リベット(1916-2007)はアメリカの生理学者、医師。
 彼の主著である本書には、パラダイムを一新し、我々の世界観・人間観を根底から覆すような衝撃の科学的発見が記されている。
 邦訳発行からしばらくの間は、彼の名前やその発見内容がメディアに取り上げられ、かなり話題になったのを覚えているが、ここ最近はあまり見聞きしなくなった。
 といって、彼の発見が事実として世間に認められ、常識として定着したからではあるまい。
 いまだにリベットの名は科学や哲学に関心ある人の間ではともかく、世間的には知られていないと思うし、その発見の意味するところを他人に語れる人も多くないと思われる。

 察するに、リベットの発見した内容があまりに突飛すぎて、我々の実感とそぐわないものであることが一因としてあるのだろう。

「単なる仮説だろう?」
「トンデモ科学者の発言なんじゃないの?」
「実験そのものにおかしなところがあるに決まっている!」

 そしてまた、その発見内容が人類にとって好ましくないもの・聞きたくないもの(いわゆる「不都合な真実」)であり、まかり間違えば倫理を破壊しかねないものであるところも、話題に乗りにくい原因なのではあるまいか。
 実際、リベットが本書で記している発見とそれが引き出す究極の結論を鵜呑みにした人は「モラルに反する行動をとりやすい」――ということを示した実験結果もあるそうだ。

 究極の結論とは、我々の自由意志の全否定であり、運命決定論である。


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 この本でリベットは、大きく分けて三つの画期的なことを述べています。
 その第一は、感覚が脳で「知覚」されるのに時間がかかるということ、にもかかわらずその遅れを遡り、補うメカニズムを脳が備えているということです。
 第二は、自由で自発的な意志決定といえども、それに先立つ脳神経活動があるということ。このことは一見決定論に加担し人間の自由を奪うようにみえます。そこでリベットは、みずからの発見から自由意志を救い出すためにかなりの紙幅を割いています。
 そして最後が、脳神経活動の空間的な場(リベットがCMFと呼ぶもの)が意識を紡ぎ出しているという仮説でした。(「訳者あとがき」より引用)


 我々が何かに「気づく(アウェアネスがある)」とは、四六時中無意識に受けている膨大な情報の中から特定のものが意識に上がることを言うわけだが、意識に上がるためにはある条件があって、それは「脳内で一定の条件を満たした神経活動が約0.5秒間続かなければならない」――というのが第一の発見である。
 つまり、感覚で何らかの情報を受け取った時点からそれを自覚するまで、少なくとも0.5秒の遅延が生じる。

 自覚したものごとは、それに先立つおよそ0.5秒前にすでに起きたことなのです。私たち人間は、実際の今、この瞬間を意識していません。いつも、少しだけ遅れるのです。

 精神世界でよく「今、ここ」に意識を置いて生きることの大切さが唱えられるけれど、実を言えば、意識のある限り、我々は「今」に生きることができない、常に0.5秒後の世界を生きているのだ。

 でもまあ、これは今さら驚くほどのことではない。
 たとえば、「今」夜空に見えている星が地球から8億光年離れているとしたら、我々が実際に見ているのはその星が8億年前に発した光である。
 もしかしたら、その星は4億年前に消滅して、「今」はないのかもしれない。
 それと同じ類いの話である。


星の爆発

 
 重要なのは二つ目の発見である。
 S・M・コスリンによる「序文」から引用する。

 リベットは人々に、彼らが選んだ任意の時間に手首を動かすことを求めた。実験の参加者は、時間を動かす点をみて、手首を曲げようとした正確な瞬間(に点がどこにあったか)を心に留めておくように求められた。彼らは実際に運動を始める約200ミリ秒前に意図を持ったと報告した。リベットはまた、脳内の「準備電位」を計測している。これは(運動の制御にかかわる)補足運動野からの活動記録によって明らかにされた。この準備電位は実際の行為の開始におよそ550ミリ秒も先立って生じる。したがって、運動を生み出す脳内現象は、実験の参加者当人が決定を下したことに気づくよりも約330ミリ秒前には起こっているということになる。

 すなわち、ふつう我々は、「①まず意志決定があって、②それから行為につながる脳内の段取りがいろいろあって、③最後に脳からの指令によって行為が現れる」と何の疑いもなく思っているけれど、実験結果が示したのはそれとは違って、「①脳内の段取りがスタートし、②その次に意志決定し、③最後に行為が現れる」というものであったのだ。
 行為は意志に先立つ。
 別の言い方をすれば、我々は無意識が決定した行為を、「自分の意志で行った」と勘違いしながら生きている。

 本書には、実験の詳細な方法や過程、結果とそれについての評価、結果から引き出されるリベット自身の解釈、そしてリベットの発表に対して湧き起こった様々な反論についての反駁が記されている。(このあたりの記述は文系のソルティには正直理解が難しかった)
 リベットは言う。

 自発的に活動しようとする意図または願望に被験者自身が気づくよりもずっと前に、脳は自発的なプロセスを無意識に始動します。この結果は、自由意志の性質をどのように考えるかについてと、個人が追う責任と罪にまつわる問題に、まぎれもなく深い影響を与えます。

 すべての行為が無意識の決定によるというのなら、我々は事前にプラグラミングされた通りに動くロボットのようなものである。
 生まれたときから運命はすでに決まっている。
 であるのなら、この世で罪を犯すことも事前にプログラムに書かれているのだから、それについて責任を問われるのは理不尽ということになる。
 これが、この発見が倫理上の問題を引き起こしかねないという意味合いである。


ロボット



 リベットの発見は、運命決定論者や「心的現象はすべて脳神経の問題に還元できる」という決定論的唯物主義者にとって力強い論拠となり、その持論や研究を後押しする流れを作ったことが、訳者の下條信輔による解説で触れられている。(当ブログでも取り上げた前野隆司の受動意識仮説はその流れの一つであろう)
 世間的には一見忘れ去られているように見えても、脳科学や意識研究の先端においては今や本流となっている知見(作業仮設)なのであった。
 生物学、生物工学を専門とする下條自身もまた、こう言っている。

 私自身の立場は「自由意志は、真正のイリュージョン」というものだ。この「真正」にポイントがあり、「自由意志はリアルで実体がある。ただし、他の知覚・認知と同等の身分で」というのと、ほぼ同じ主張だ。


 ただし、本家本元たるリベット自身は最初の引用に見るように、「みずからの発見から自由意志を救い出す」方向性を選び取った。
 究極の運命決定論に与さなかったのである。

 意識を伴う自由意志は、人間の自由で自発的な行為を起動しません。ですが、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御できます。行為を(実行に至るまで)推し進めることもできるし、行為が起こらないよう拒否もできます。

 すなわち、「①脳内の段取りがスタートし(0.5秒前)、②その次に意志決定し(0.2秒前)、③最後に行為が現れる(0秒時点)」という流れにおいて、無意識の領分である①の段階には介入できないが、意識の領分である②の段階において「拒否権」を発動できる。
 無意識が決定したことにNOを言うのが、我々の自由意志の主たる役割という。
 究極の運命決定論との違いは、プログラムは事前に決定されてはいるものの、それに従わないことを選択できる0.5秒内の自由裁量が与えられているってことだろう。
 そこを逃したら、我々はロボットのように自動的に生きるほかない。

 ただし、リベットの“良心的な”救い出しの理論は、不整合が指摘されている。
 無意識が決定したことにNOを言う、すなわち「拒否する」という意志自体もまた、先行する無意識の決定に0.5秒遅れて発動されている可能性があるではないか?――というものだ。
 つまり、「拒否する」こと自体を0.7秒前に無意識が決めているのではないか?
 であれば、結局、決定論と変わりない。
 リベットは、「意識を伴う拒否には、先行する無意識プロセスは必要ないし、あるいはその直接的な結果でもない」と言っているが、それは実験による検証を経た事実ではなく、希望的観測に近いとみなされている。

脳みそ


 
 ソルティのなによりの関心は、リベットの発見と見解が原始仏教の言説と重なるところである。
 無意識による行為の決定と運命支配の様相は、あたかも業(カルマ)や因縁について語っているように思われる。
 つまり、原因と条件があって結果が生じる。私の意志もまた原因と条件があって勝手に生じている。すべては起こるべくして起こっている
 また、リベットがここで言う自由意志とは原始仏教の五蘊(色・受・想・行・識)の中の「行」(サンカーラ)に相当すると思うのだが、ブッダはまさに五蘊は無常であり無我であり、自由意志は幻想(イリュージョン)に過ぎないと説いたのであった。
 無明から始まる十二因縁がただ連続して生起消滅し、果てしない過去から果てしない未来へと苦の連鎖すなわち輪廻転生が続いているのが我々の生(と死)であって、その流れのどこにも「私」と言えるものは実体として存在しない。
 そこに気づかないから輪廻転生は終わらない、欲望と衝動に突き動かされてありのままの真実を見ないから無明から抜けられない、そう説いたのである。
 そして、輪廻の苦しみから抜け出る唯一の方法は、「気づき(念)」すなわちアウェアネスを育てて輪廻の輪に楔を打ち込むことであり、それがヴィパッサナ瞑想である。
 気づきによって無意識の罠(=プログラミングされた生)から抜けること、それが解脱であろう。


知恵の輪


 最終章でリベットは、ルネ・デカルトとの架空対談を設定している。
 デカルトは言うまでもなく、「心と体は別物」という二元論説の生みの親にして、「我思う、ゆえに我あり」の近代的自我の発見者と目されている。
 この対談によって、リベットの発見や見解が近代哲学においてどう位置づけられるかが措定されるとともに、「自己や魂や自由意志のいかなる感情もイリュージョンである」とする決定論的唯物主義者とは微妙に距離を置くリベット自身の世界観(あるいは宗教観)も明らかにされる。
 面白い趣向である。

 だが、リベットはここでブッダとこそ対談すべきであった。
 おそらくリベットは原始仏教を知らなかったのだろう。知っていたらデカルトでなくブッダを対談相手に選んだはずである。
 さすれば、おのれが発見し辿りついた見解が、2000年以上も前にすでにブッダによって明らかにされ理路整然と説かれていることに驚愕し、即座に三宝帰依したに違いない。

 現代の脳科学者や意識研究者たる者、原始仏教の経典を紐解かずに研究し発言することは、恥をかきたくないのならば、控えたいところである。


サードゥ、サードゥ、サードゥ


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おすすめ度 :★★★★

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● 〽なのにこの同じ空のし~た~ TVドラマ:『犬神家の一族』(演出・工藤栄一)

放映年月 1977年4月
放映局  TBS系
放映時間 225分(45分×5回) 

 最高視聴率45%を超えた古谷一行主演「金田一耕助シリーズ」の第一作にして記念碑的作品である。
 茶木みやこがねっとりと唄ったテーマ曲「まぼろしの人」(第1シリーズ)、「あざみの如く棘あれば」(第2シリーズ)の禍々しいメロディが、凄惨にして忌まわしいドラマ内容と増幅し合って、金曜夜の放映後の寝つきを不穏なものにしたことを覚えている。

 演出の工藤栄一は、『その後の仁義なき戦い』ほか東映ヤクザ映画で鳴らし、朝日放送「必殺シリーズ」では研ぎ澄まされた美的感覚によるスタイリッシュな映像(陰影と色彩と構図の妙)で視聴者を魅了した名演出家。
 当時中学生だったソルティは工藤栄一の名を知らず映画も観ていなかったけれど、数十年たった今あらためてこうして見直してみると、「なんて質の高い作品だったのか!」と驚くほかない。
 演出といい、撮影といい、美術といい、役者の風格や演技といい、平成令和のテレビドラマが失ってしまったものの大きさに慨嘆するばかり。

 とくに本作は、市川崑&石坂浩二による映画『犬神家の一族』が前年大ヒットして、その影響冷めやらぬなか企画された横溝正史シリーズのトップバッターであることもあって、制作陣の気合の入れ方が半端ではない。
 犬神三姉妹(京マチ子、月丘夢路、小山明子)をはじめとする豪華出演陣、信州の素封家・犬神家の豪邸内の凝ったセット(テレビなので広さは割愛せざるを得ないが)、全編に行き渡る工藤監督の美的センス、そして、「助清の白いゴムマスクを能面に変更する」、「三姉妹の母親たちと犬神佐兵衛の異常な関係を描く」など原作や市川映画との相違部分も見事に効果を放って、225分ノンストップの極上の人間ミステリードラマに仕上がっている。
 『犬神家の一族』はこれまで3度映画化され7回TVドラマ化されているのだが、やはり市川崑による最初の映画と工藤監督による本作が双璧といってよかろう。


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京マチ子と古谷一行


 個人的には映画より本作のほうに軍配を上げたい。
 なんといっても真犯人犬神松子役の京マチ子が素晴らしい。
 大女優の貫禄や風格は言わずもがな、日本髪に着物姿の艶やかな美しさ、切れ長の目の茶が勝った瞳に宿る妖しさと狂気、母親を虐待した身勝手な父親(犬神佐兵衛)への怒りと憎しみを孕みつつ、自らもまた息子(助清)を溺愛するあまり犬神家の忌まわしい因縁に囚われて、その手を血で染めていく。


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助清役の田村亮と京マチ子
白い能面が照明と角度により様々な表情と心理を映し出していく


 京マチ子と言えば、一般にはグランプリ女優の異名をとった『羅生門』、『雨月物語』、『地獄門』あたりが代表作なのだろうが、長年の役者としての経験と一人の女としての成熟が深い演技を引き出している本作こそが、彼女の“ベスト”なのではないだろうか。
 ソルティは京マチ子の映画を10本くらいしか観ていないので断言するのは乱暴に過ぎるのだが・・・・。

 愛する息子の幸せのために人倫を踏み越えていく業の深い母親。
 母を愛するがゆえにその罪をかぶり追い込まれていくパラリーガル復員兵の息子。
 その母子に遺恨を抱く覆面の男。 
 息子をひたすら愛し待ち続けることを誓う大相続人の娘。
 
 なんとなくどこかで聞いたことのあるような物語である。

 
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犬神松子、最期の一服



おすすめ度 :★★★★

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● ロマンチックが止まらない 映画:『ラ・ラ・ランド』(デミアン・チャゼル監督)

2016年アメリカ

 記事のタイトルは、1985年1月にリリースされたC-C-Bのシングル曲。
 中山美穂と木村一八主演のちょっとエッチな性春ドラマ『毎度お騒がせします』(TBS系列)のテーマソングであった。
 ドラマの内容から言えば、「妄想が止まらない」に近かったが・・・。
 
 『ラ・ラ・ランド』こそ、まさにロマンチックそのものである。
 このITとスピードの殺伐とした時代に、かくもロマンチックで純粋なミュージカル映画が作られ、それが大ヒットし、数々の賞を受賞するとは意外であった。
 いや、この夢も希望も恋も語りづらい時代だからこそ、受けたのだろうか?
 
 主演の恋人たち、ライアン・ゴズリングは『ブレードランナー2049』ではじめて観て、トム・クルーズやブラピ系列の“イケメンだけれど演技は今一つ”の男優かと思っていたが、本作で認識を改めた。
 非情に繊細な演技ができる本格派であった。
 オスカーも近いのではなかろうか。
 一方のエマ・ストーン。
 演技は申し分ないが、歌がまずい。
 わざと下手に歌っているのかと思うほど。
 昔のハリウッドだったら吹き替えを使うところではなかろうか?
 二人の相性はぴったりである。

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ライアン・ゴズリングとエマ・ストーン
 

 色彩豊かでカメラ回しも面白く、『雨に唄えば』など50年代のミュージカル映画を思わせるレトロでポップな雰囲気と、ゲイ受けしそうな陽気でキャンピーなノリと、CGを使った魔術的なタッチとがうまい具合に調合されている。
 そのうえに抜群の音楽センス。
 チャゼル監督の紛うことない才能が証明されている。
 
 コロナ禍のいま、ショービズ関係で働く人たちが困窮している。  
 生活面の困難はもとより、舞台や音楽や芸能が「不用不急」の烙印を押されてしまうことは、そこで生きる人たちの誇りを傷つけ生きがいを奪うだけでなく、社会から夢を見る力を剥奪しかねない。  
 そんなことを気づかせてくれる映画である。



おすすめ度 :★★★★

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