ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『ベイビー・ガール』(ハリナ・ライン監督)

2024年アメリカ
114分

ベイビーガール

 1967年生まれのニコール・キッドマンは御年58。
 それでこのトンでもない役を引き受けて、完璧にこなしちゃうんだから!

 日本でこの役をやれる女優がはたしているだろうか?
 ニコールと同世代の女優達――沢口靖子、高島礼子、山口智子、薬師丸ひろ子、柏原芳恵、米倉涼子、石田ゆり子、天海祐希、内田有紀、松嶋菜々子、鈴木京香e.t.c.――をあれこれ思い浮かべたものの、これはという人が見当たらない。
 最後に、「あっこの人がいた!」と思いついたのは杉本彩。
 団鬼六原作のSM映画『花と蛇』のヒロインを文字通りの体当たりで演じきった彩姐さんなら、日本版ベイビー・ガールになりきれるかもしれない。
 つまり、本作はほとんどポルノ映画なのである。

 と言っても、ニコールの裸が出てくるのはほんの少しだけで、それも本人なのか吹替え女優なのか分からない。
 男優とのセックスシーンやニコールのオナニーシーン、床にうつぶせに押し付けられ男の手によって“イかされる”シーンなど、衝撃的なシーンは次々出てくるけれど、そこで写されるのはニコールの顔のアップであって、身体の動きや局部付近が写されることはない。
 演技とはいえ、欲情と絶頂と恍惚のあられもない表情をさらけ出すニコールの女優魂には驚嘆する。
 アカデミー賞常連の名女優で、もはや注目を集めるためにスキャンダラスな役を引き受ける必要なんてまったくないはずなのに、こんな冒険に挑戦するとは!

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Uki EiriによるPixabayからの画像

 裸とセックスシーンばかりのポルノ映画は、実は猥褻でも害毒でもない。
 それは勝敗のつかないスポーツみたいなもので、最初は「おおっ!」と興奮するが、同じことの繰り返しに観る者はやがて飽きてしまう。
 大島渚の『愛のコリーダ』がそのいい例である。
 観る者にいかがわしさや猥褻を感じさせるのは、裸そのものでもセックスという行為自体でもない。
 抑圧され秘められたセクシャルファンタジー(性的妄想)こそ、いかがわしさの肝である。
 他人のセクシャルファンタジーがさらけ出されるのを垣間見たとき、観る者は「見てはいけないものを見てしまった」ような決まりの悪さや猥褻を感じる。
 なぜなら、往々にして、個人のセクシャルファンタジーのうちにその人の魂の秘密が隠されているからである。
 それを目撃する者は、全裸を見るよりずっと、その人の恥部に接近する。

 本作の場合、CEOという地位も金も家族も美貌も手に入れた成功者であるヒロイン(ニコール・キッドマン)のセクシャルファンタジー(=魂の秘密)は、“屈辱されながらのセックス”というものであった。
 長年連れ添った優しく物わかりよい夫(アントニオ・バンデラス)は、頻繁に彼女の体を求めて愛の言葉をささやいてくれる。
 けれど、彼女がしんに求めている“それ”だけは与えてくれなかった。彼女からも求めることができなかった。
 それゆえ、彼女は欲求不満に陥っていた。
 ある日、若いインターン(ハリス・ディキンソン)が彼女の会社に現われ、彼女の心の奥の秘密を見抜いてしまう。
 社の誰もが敬い怖れる彼女を、インターンはぞんざいに扱う。
 2人は、鍵と鍵穴がはまるように、性の深淵へと突き動かされていく。
 彼女は、母という立場も、妻という立場も、CEOという立場も忘れて、淫欲の罠にみずから嵌っていく。
 人生で手に入れたすべてを失ってしまう危険にさらされても、彼女はその快楽を捨てることができない。
 単に肉体的なエクスタシーを得たいとか、真実の愛をつかみたいというのとは違う衝動がそこにはある。
 この映画は、人間の性の不可解を描いた作品と言えよう。

アイズワイドシャット
アイズワイドシャット(1999年)

 最後まで観て、なぜニコールがこの作品に出ようと思ったのか、ハリナ・ラインという女性監督と組もうと思ったのか、腑に落ちるところがあった。
 本作は、ニコールが当時の夫であったトム・クルーズと共演して話題になった、スタンリー・キューブリック監督の遺作『アイズワイドシャット』(1999年)へのオマージュであると同時に、女性側からの答えなのだ。
 『アイズワイドシャット』では、夫(トム)の妄想と性的冒険が、男性目線で描かれていた。妻(ニコール)はそこから追いやられていた。男の性の物語であった。
 本作は逆に、妻(ニコール)の妄想と性的冒険が、女性目線で描かれている。夫(バンデラス)はそこから追いやられている。徹底的に女性が主役、女の性の物語なのである。
 しかも、『アイズワイドシャット』の夫は、最終的には一線を踏み越えなかった。妻を裏切ることはなかった。
 が、本作の妻は夫を裏切って、若い男との性の快楽に身をゆだねてしまう。

 1999年から2024年の四半世紀におけるフェミニズムの浸透を実感するとともに、ニコール・キッドマンがもはやトム・クルーズが到底かなわないほど、表現者として高みにたどりついたことを、本作は実証する。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 運慶行列、あるいは四天王像の秘密(東京国立博物館)

 11/16(日)放送のNHK日曜美術館で、東博開催中の『運慶 祈りの空間 興福寺北円堂』展が取り上げられたので、平日の午前中でも結構混むだろうなあと予想していた。
 開館10分前に到着したら、正門前にはチケットを事前購入している60名近くがすでに並んでいた。
 その最後尾についたが、どんどん後ろに人が付き、列が長くなっていく。
 それとは別に、これからチケットを買う人たちの列がある。
 全部が全部、運慶目当てとは限らないが、混むのは間違いない。
 展覧会開始10日後の9月18日に来たときは、まったく並ぶことなく入場し、余裕で鑑賞できたのに・・・・。
  
 開門と同時の運慶ダッシュを避けるための措置だろう。
 「運慶展をご覧になる方はこちらにお並びください」
 というスタッフの声に誘導され、運慶展ポスターを手にした別のスタッフに先導され、アヒルの行列よろしく敷地内を遠回りしながら本館に近づいていく。
 運慶行列のお通りだ!
 伊豆の願成就院、逗子の浄楽寺、岡崎の瀧山寺、都内の半蔵門ミュージアムで、運慶を1時間近く独り占めできたことを思うと、このギャップはなんか滑稽である。
 北円堂ならではか? 
 それでも早起きしたおかげで、待たされることなく、特別5室に入場できた。
 身動き取れないほどではないが、気を付けて歩かないと人にぶつかる程度の混み具合だった。(ある程度入れたら、入場制限している)

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 中央にまします弥勒如来像、無着像、世親像の素晴らしさは、云わんかたない。
 運慶の最高傑作であると同時に、法隆寺の百済観音像、中宮寺の菩薩半跏像、興福寺の阿修羅像、宝菩提院願徳寺の菩薩半跏像、宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像などと並んで、日本の彫刻の最高峰に位置するのは間違いない。
 いや、世界の彫刻の中でも、ミケランジェロの「ダビデ」やロダンの「考える人」やバチカンの「ベルヴェデーレのアポロ」などに匹敵する人類の宝である。
 人間の精神性の深さを表現したものとしては、レンブラントの人物画に匹敵するのではなかろうか。
 観る角度によって印象ががらりと変わる無着と世親の不思議な表情は、千変万化する人間の心模様そのものであり、観る者の心の投影であり、また、真剣な学問と修行の末に2人の仏教者が達した境地、“この世の一切を分け隔てなく包含する慈悲”のあらわれのような気がする。
 少なくとも、“無の境地”ではない。

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無着(上)と世親(下)

 今回は、四天王像をよく見たかった。
 仏教や国を守護し、外敵を威嚇・退治する役を担った四天王は、それぞれに武器や宝物を手にし、おっかない顔して四隅に立っている。
 像の前に立つと、「睨まれている」、「見透かされている」、「怒られてる」、「威嚇されている」という畏怖感に襲われる。
 しかるに、今回じっと見ているうちに、怒っているような表情のうちに、より繊細な感情が秘められていて、4体それぞれ、かなり違いがあるように思った。

 持国天は、観る者を正面からぐっと睨み、「お前は何者だ?」と誰何し、威嚇する。
 4体のうち、もっともストレートに怒りを表出している。
 が、その奥に感じるのは、この男の生真面目さ、誠実さ。
 大事な仕事をまかせるなら、この男を措いてほかにない。

 増長天は、つかみどころがない。
 剣を前にかまえて、相手を威嚇しているようにも見える。
 ネズミを前にした猫のように、相手の出方を観察しているようにも見える。
 かと思えば、角度によっては、深い思索中の哲学者のようにも見える。
 さまざまな印象を装うことによって、相手を翻弄するのを楽しんでいるように見える。

 広目天は、激しい感情の爆発が特徴的。
 4体の中で一番気が短そう。
 だが、その爆発の原因を怒りのせいとするのは早とちりかもしれない。
 大きく開いた口からのぞくチャーミングな歯列や、その奥で震える舌は、「ひょっとしてこの男、怒っているのではなくて、哄笑しているんじゃないか?」と感じさせる。
 自由闊達な体の動きも、喜びの爆発ゆえではないか。

 多聞天こそ、不可思議である。
 多聞天=毘沙門天は四天王のリーダーであり、もっとも風格がもとめられる存在であるはずなのに、この男、像の前に立つ者と目を合わせようとしない。
 威嚇するのを忘れてしまったようだ。
 その視線は、左手に掲げた宝塔に向いている。
 なんだか自分の世界に籠っているメンタル系男子みたい。
 しかも、その表情、なんだか泣いているように見える。

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右下より時計回りに
持国天・増長天・広目天・多聞天

 持国天の「怒」、増長天の「楽」、広目天の「喜」、多聞天の「哀」。
 そう、この四天王は、あたかも「喜怒哀楽」の表現のようなのだ。
 これらの像を造るにあたって、設計図となるデッサンを書いたのは、あるいは寄木造の原型となる何分の1かの雛型を造ったのは、総監督であった運慶の可能性が高い。
 もし、雛型を作ったのが運慶で、それぞれの像を実際に担当したリーダーが運慶の長男(湛慶)、次男(康運)、三男(康弁)、四男(康勝)であるのならば、この四天王は、息子たちの性格をつかんでいる父・運慶が、それぞれの像に託して4人の息子たちを写し取ったものなのではないか、とさえ思えてくる。
 すなわち、真面目で誠実な湛慶、飄々としてつかみどころのない康運、天真爛漫で感情表現ゆたかな康弁、そして、ナイーブでスピリチュアルな気質をもつ康勝。
 4つの像の表情の多様さと深みの秘密は、眼の前の息子たち兼弟子たちを深い愛情をもって育ててきた父のまなざしに由来するのではないか、と思うのである。

 もう一つ感銘を受けたのは、四天王像のたくましい体つき。
 がっしりした肩、力強い腕、見事な背筋、でっぷりした腰回り、どっしりした脚、全身から発する野性。
 やはりこれは、運慶と関東武者の出会いの産物なのではないかと思う。
 京都の糖尿病予備軍の貴族たち、奈良のインテリ僧侶たち、都会育ちの垢ぬけた平家の武者たちを見慣れていた運慶の目に、草深い東国で野山を駆けまわって狩りをし、藁と汗にまみれて農作業をし、礼儀も風流も知らない武骨な関東武者たちの姿や生態は、きわめて新鮮なものに映ったのではなかろうか。
 野性のもつ生命力との遭遇が、運慶の中にある野生をも目覚めさせて、これまでの仏像にない力強い表現を生んだのではないか。

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東博本館より上野公園噴水広場を望む

 1時間弱で鑑賞終了。
 会場の外に出たら、本館入口前に20mほどの運慶行列ができていた。
 「ただいま10分待ちです」とスタッフが連呼する。
 平日でこれなら、休日はどうなることやら。
 展覧会終了まで、この状態が続くのは間違いあるまい。

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東洋館のシアターで「VR作品 興福寺阿修羅像」を鑑賞
やっぱり、和風美少年だな
先月亡くなったビョルン・アンデルセンの少年時代とはタイプが異なる


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入口で学生メンバーズパス(1200円)を購入
東京・京都・奈良・九州の4つの国立博物館の常設展を何度でも鑑賞できる
学生ってほんとにお得!
使いまくるぞ~















 




  
 
  

● この電話回線は2時間後に停止します 映画:『ジェリーの災難』(ロー・チェン監督)

2023年アメリカ
75分

 原題 Starring Jerry as Himself
 「ジェリーが自らを演じています」
 台湾出身のアメリカ人ジェリー・シューが、自らの身に起こった出来事を、自ら脚本化し、自ら演じた再現ドキュメンタリーである。
 ロー・チェン監督にとっては、初の長編作品という。

 最後にどんでん返しがあるので、ここで内容を書くのは反則かもしれない。
 が、大方の日本人なら、ソルティ同様、映画の早い段階で真相に気づくと思うので、ネタばらしをします。(知りたくない人はここで読むのをお止めください)

着物の外国人

 ある日、かかってきた電話を取ると、あるいは留守録を再生すると、次のような自動音声が流れる。
 「こちらは総務省(またはNTT)です。この電話回線は事情により2時間後に停止します。オペレーターと話される方は1番を押してください。または、×××番まで折り返しご連絡ください」
 心当たりある人も少なくないと思う。
 ソルティの職場の固定電話にも半年前くらいにかかってきた。
 実家の固定電話には半月前にかかってきた。
 もちろん、詐欺にちがいないと思い、無視した。
 親にも「絶対に応答するな」と釘を刺した。

 しかし、引っかかってしまう人はいるのである。
 本作の主人公ジェリー(69歳、一人暮らし、離婚歴あり、無職、友人なし)がその一人。
 まんまと引っかかってしまい、倹約に倹約を重ね生涯かけて作り上げた約100万ドル(約1億5千万円)の財産を根こそぎ奪われたのである。
 本作はその一部始終を描いている。

 人の心理を巧みに利用した詐欺グループの手口の狡猾にして芸術的なこと!
 電話回線停止にあわてたジェリーが指定された番号をプッシュすると、まず、「あなたはマネーロンダリング(資金洗浄)の犯罪グループの容疑者になっている」と脅かし、公安にすぐ相談せよと携帯番号を伝える。
 ジェリーが公安(もちろん詐欺グループの仲間である)に電話かけると、「このままだと中国に強制送還になるかもしれない」と脅かす。(なんと効果的な脅しだ!)
 不安を煽った後に、救いの手を差し伸べる。「なんとか疑いを晴らせそうです」
 ほっと一安心したジェリーが感謝の気持ちあふれているところで、すかさず、犯罪グループ逮捕への協力を依頼する。
 ジェリーが了解すると、さまざまな指示を出す。
 「あなたの利用している銀行が怪しいから、撮影して画像を送ってくれ」
 「あなたの担当職員はグループの一味である可能性が高いから、尾行してくれ」
 ・・・・・等々。
 絶体に周囲には秘密にしてくださいという警告とともに。

 公安に協力しスパイ活動しているというドキドキ感と栄誉に動かされて、言われるがまま動いて課題をクリアしていくジェリー。
 やりとりを重ねていくうちに、公安への信頼は次第に深まっていく。
 自分が重要人物として扱われることで自尊心は満たされる。
 自分の日常生活に関心を示してくれる他者の存在が、独り身の淋しさを埋めてくれる。
 そして、公安に言われるがまま、自らの資産を指定口座に送金してしまう。
 不審に思って問いただしてくる銀行員の姿が、もはや悪人にしか見えなくなっている。
 
 奪われるものがなくなったところで、終焉はやってくる。
 最後の送金を終えたあと、公安からの電話は途絶え、ジェリーからかけてもつながらない。
 明日までに、息子が新しいマンションを購入するための頭金を用意しなければならないというのに。
 息子に「出してやる」と約束したのに。
 そして、破綻がやって来た。

ナイアガラ

 ニュースなどでこうした詐欺に引っかかって大金を失った人の話を聞くと、
 「なんでまた、そう簡単に、会ったこともない相手を信じたんだ?」
 と思うけれど、誰にでも起こりうることなのである。
 とくに、年を取って、物忘れが出てきたり、耳が遠くなったり、親しい人が亡くなって心細さが増したり、目の前でわけのわからないIT用語を振り回されたり、子供や孫の名前を持ち出されて脅かされたりすると、一種のパニックに陥ってしまう。
 地域の高齢者の相談支援をしているソルティの回りでも、連日のように詐欺被害の話を聞く。
 地元警察署からの注意喚起の連絡が頻繁に入る。
 「今日は、×××地区で警官を装った詐欺電話が多発していますので、注意してください」 (ん? これほんとに警察からだよな・・・)
 昨今、固定電話を廃止する高齢者が増えているのも無理ない。

黒電話

 詐欺に遭って大金を奪われた話は、日本では漫画家の井出智香恵のケースが有名である。
 井出は、俳優マーク・ラファロを騙る国際ロマンス詐欺に引っかかって、7500万円を奪われた。
 青春を取り戻したいと願う中高年女性の孤独感や焦燥感を利用した、あくどい手口。
 人の弱みや人の善意につけこんで荒稼ぎする者たちに天罰あれ!

 ジェリーの場合も、井出の場合も、救いがあった。
 両者ともこの苦い体験を生かして、映画や漫画を作り上げたのである。
 井出の場合は、自らの体験を本にし、コミックにし、メディア出演し、自分のような被害者が増えないよう啓発活動を続けている。
 平凡なエンジニアだったジェリーは、人生の最後に役者デビューし、主演男優賞をもらうなど一躍有名人になった。
 転んでもただは起きない2人の強さが素晴らしい。
 たしかに、「詐欺に遭ったせいで、私の人生は終わった」と言うのならば、奪われたのは財産だけでなく、人生であり、尊厳であり、命である。
 詐欺師にそこまでの力を与えてはいけない。

 立ち直りを可能にしたのが、家族の支えであったという点も両者共通している。
 本作では、ジェリーの家族(元妻と3人の息子)も共演し、それぞれの本人役を演じている。
 全財産をだましとられたジェリーが、失意から自ら命を絶ったりしないよう見守り、本人の若い頃の夢であった映画づくりをすすめ、全面的に協力したのである。
 本作が、ただの犯罪ミステリーに終わらず、世界中で絶賛を博した理由はそこにある。
 詐欺グループも家族の絆は奪えなかった。

 ラストシーンでジェリーは、40年前にアメリカにやって来たとき同様、スーツケース2つきりで台湾に帰国する。
 何も知らない故郷の人は、その姿を見て“尾羽打ち枯らして戻って来た”と言うかもしれない。
 が、本作を観た人なら、「結局、ジェリーが失ったのは、手に入れたものにくらべれば、些細なものに過ぎない」という意見に同意してくれるだろう。

 禍福はあざなえる縄の如し。
 詐欺師はあざなえる縄に縛るべし。

出雲大社



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● なんなら、奈良22(奈良大学通信教育日乗) 大学生のためのレポート・論文術

 考古学概論のレポートを提出しホッとしているところ。
 何を書いたらいいのか分からなかった白紙状態から、テーマを見つけて、構成を考えて、材料を探し、資料を読み込んで、なんとか文章に仕立て、間違いがないか何度も読み返し・・・・。
 奈良大学通信教育部行きメールの送信ボタンをクリックしたときは、我が子をサバイバルキャンプに送り出す母親のような気分だった。

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Sasin TipchaiによるPixabayからの画像

 レポート作成にあたって、本文に苦労するのは毎度のことであるが、意外に頭を悩ませるのは引用の仕方である。
 既刊の図書や新聞記事からの、あるいは先行論文からの引用は、ちゃんと引用元を表示しないといけない。
 それをしないと、剽窃や盗用になってしまう。
 著作権侵害になってしまう。
 なので、レポートの最後に引用文献や参考文献を列挙するのであるが、その表記の仕方がいまいちよくわからない。

 考えてみたら、学術レポートを書くのは実に40年ぶり。
 すっかり書き方を忘れているのも無理ない。
 しかも、ソルティは英文科の学生だったので、卒論は英文提出だったのである。(いま思うとなんと無謀な!)
 10年ほど前に社会福祉士の資格を取るために通信教育を受けたときも、レポートはどっさり(1年半で33本!)書いたが、テキストを要約すればいいレベルだったので、他の文献からの引用は必要なかった。
 日本語のレポートや論文の場合、どうやって引用表記すればいいのか?

 いや、そんなに悩むことないっしょ?
 【筆者の名前、本のタイトル、出版社、刊行年、引用ページ】
 でいいでしょうに――と思うところだが、40年前と格段に状況が変わった。
 インターネットの登場である。
 いまや、ネット上の記事というか資料からの引用・参照が当たり前の時代である。
 たとえば、今回の考古学概論レポートの場合、6つのサイトの記事を参照した。
 国立大学が2カ所、大手新聞社が1カ所、有名民間企業の外郭団体が1カ所、国立研究法人が1カ所である。
 一応、“怪しくない”=信頼性が高いと思われるサイトを選んだけれど、どうなんだろう?
 選ぶ基準が難しい。
  • ネット上の記事ならどれでも引用していいのか? たとえば、Wikipediaや他者ブログはどうなのか?
  • 著作者(たとえばブログ主)の許可を取る必要はあるのか?
  • 図表や画像も引用(コピペ)していいのか?
  • 末尾の引用(参照)文献一覧にどうやって表記するのか?
  • 論文などが pdf. でそのまま掲載されている場合、「ネットで読んだ」ことを示すべきなのか?
  • 論文を作成した後に、引用した記事が削除されてしまったらどうするのか?
 等々、よくわからないことが多い。
 〈論文 引用方法〉とネットで検索すると、大学関係はじめいろいろな記事が上がってきて丁寧に引用方法を教えてくるが、サイトによって言ってることが違うので、ますます混乱してしまう。
 そんなわけで、やっぱり昭和世代。最後は本に頼りたい。
 小笠原喜康著・近藤たかし作画『マンガでわかる 大学生のためのレポート・論文術』という本を見つけた。
 2002年に刊行されてから累計で50万部のロングセラーになっているそうだ。

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2020年講談社発行版

 たしかに、とても読みやすい。
 知りたいポイントがわかりやすくまとまっている。
 論文の書式やレイアウトや段落のつけ方といった基礎の基礎から、文献・資料の集め方、引用・参照のルール、わかりやすい文章をつくるコツ、論文の基本的な組み立て方など、初心者には大助かりの、痒いところに手が届く内容である。
 とりわけ、ネットを使った先行論文の検索方法や関連図書の探し方、ネット資料の表記の仕方が書かれているのが嬉しい。
 それによると、ネットからの引用の記載の基本は、以下の通り。
  1. 資料のある場所のURLを記載。
  2. 記事に日付がある場合にはそれを記載。
  3. 記事の取得日(アクセスした日)を必ず記載。
  4. 可能な限り、サイトの管理者・情報提供者を記載。
例.
 “なんなら、奈良20(奈良大学通信教育日乗)入学まる1年”(2025-09-   
   27掲載),『ソルティはかた、かく語りき』,  
   https://saltyhakata.livedoor.blog/archives/10437061.html
   (2025-11-15取得)

 検索した記事の中には、「サイトの最新更新日を記載すること」と書かれているものもあったが、本書ではそこまで求めていない。
 最新更新日って最近のサイトではほとんど記載されていないし、調べるのは結構手間がかかるみたいだし、日付がたくさんあっても混乱するだけなので、今回の提出レポートには付さなかった。
 なにせ、ネットからの資料の入手は新しい事態なので、上記以外はっきりしたルールが決まってはいないようだ。
 つまるところ、レポートや論文を読んでくれる先生の意向に合わせるのがベストなのだろう。

奈良大学旧校舎破風「學」
奈良薬師寺内にある南都正強中学旧校舎(奈良大学の前身)








● 本:『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(トム・ストッパード著)

1966年初演(エジンバラ)
1969年日本初演
2017年ハヤカワ演劇文庫

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 イーサン・ホーク主演『ハムレット』を観たら、この戯曲が読みたくなった。
 作者自身の手で1990年に映画化されたものは、前に観ている。
 ローゼンクランツをゲイリー・オールドマンが、ギルデンスターンをティム・ロスが演じていた。

 この戯曲の成功はひとえにその独創的なアイデアにある。
 タイトルの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』は、この2人が端役で登場するシェークスピア作『ハムレット』の最終場面のセリフそのまま。
 もともと端役であるローゼンクランツとギルデンスターンを主役に持ってきて、主要人物であるハムレットやオフィーリアやクローディアスが脇に回る。
 一方、ストーリーや設定や上記主要人物たちのセリフは原作と変わらないので、ローゼンクランツとギルデンスターンは『ハムレット』内で与えられている出番において決められたセリフを言うとき以外は、自分たちが何をしていいのか分からない。
 それどころか、自分たちがどこで生まれ、どういう過去を持ち、何の仕事をしているのか、何が目的で生きているのか、どこに住んでいるのか、も分からない。
 ただ、かつてハムレットの御学友であったことと、王の命令は絶対であることのみ、分かっている。
 作者シェークスピアから与えられている2人の情報はそれだけ。
 台本によってすべてが縛られているからである。 

 ある朝、2人は伝令によって叩き起こされ、クローディアス王の命令によりデンマークに呼び戻される。城に上がると、ハムレット王子が思い悩んでいる理由をそれとなく探るよう王に命じられる。
 その務めを果たさないうちに、ハムレットは「生きるべきか死ぬべきか」のご乱心。危機を感じたクローディアスは、暗殺を企図し、ハムレットをイングランドに送る。ローゼンクランツとギルデンスターンは王に命じられるまま、監視役としてハムレットに同行する。
 王の魂胆を見抜いたハムレットは、裏をかき、旅の途中でデンマークにとんぼ返り。残された2人はそのままイングランドに向かい、クローディアスからの親書をイングランド王に届け、ハムレットの代わりに暗殺されてしまう。

 要は、脇役という存在が、いかに作者に軽く扱われ、十分な人物背景が与えられず、都合の良い駒として動かされているかということを、「主・脇」を逆転することによって明らかにしているわけだ。
 それがあたかも、自らのアイデンティティを疑う不条理劇の主人公のように見えるのが面白い。
 なぜこの世に生まれてきたのか、ここで何をすればいいのか、自分は何がしたいのか、答えが出ないままに予告もなく世を去っていかなければならない我々(舞台の観客)の姿を振り返らせるのである。
 
 もっとも、この戯曲の成功によって、ローゼンクランツとギルデンスターンは、生みの親であるシェークスピアが到底予測もつかなかったくらい有名になってしまった。
 ハムレットやクローディアスのような英雄的な死が与えられず、虫けらのように意味なく殺される2人は、ある意味、カフカの小説の主人公のようで、現代の民主主義的感覚で見れば、ハムレット以上の悲劇存在である。
 しかも、その生を、何千回も、何万回も、繰り返さなければならない。
 世界のどこかで、『ハムレット』が上演される限り。 
 輪廻転生の比喩のようだ。

 今日もどこかで、ローゼンクランツとギルデンスターンは蘇っては死んでいる。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 名前の出てこない俳優No.1 映画:『あ、春』(相米慎二監督)

1998年日本
100分

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 神保町シアターで開催中の「藤村志保特集」の一本。
 未見であった。
 シアターの入口で40代くらいの見知らぬ男に呼び止められた。
 「チケット、1000円で買ってくれませんか?」
 急な用事ができて鑑賞できなくなったのだと言う。
 1000円という額は、ソルティが活用できる学生入場料金と変わらないので別にトクにはならないのだが、人助けと思って購入した。
 正規の大人料金は1400円である。
 
 藤村志保はどちらかと言えば地味な女優で、一番の代表作はデビュー作『破戒』(市川崑監督)ではないかと思う。(芸名の藤村は、島崎藤村から取っている)
 60年代大映時代劇の“刺身のツマ”的ヒロインをはじめ、脇役としての活躍がメイン。
 本作でも、主役をつとめる佐藤浩市の義理の母親役で、脇をしめている。
 女優対決では、実の娘で佐藤浩市のメンタルな妻役の斉藤由貴はともかく、出番のずっと少ない緋牡丹お竜こと藤純子こと富司純子の艶やかな存在感の前には、かすみがちである。
 そういった控え目な、カスミ草のような風情がいいというファンも多かろう。
 演技は確かである。

 演技という面では、佐藤浩市。
 やっぱりいい。
 ある日突然目の前に現れた、幼い頃に死んだと思っていた父親(演・山崎努)に振り回される平凡な入り婿サラリーマンを、リアリティ豊かに演じている。
 観る者に登場人物の心のうちを自由に想像させてくれるような、“演じ過ぎない”塩梅がいい。
 演じ過ぎていないのに、一癖も二癖もある不良親父に扮する山崎努の怪演に喰われていない。
 映画(スクリーン)の演技というのは、演劇(舞台)の演技とは違うのだと、つくづく思う。
 この演技のクオリティや存在感を目にすると、血は争えないと思う一方、昨今の佐藤浩市の使われ方の“もったいなさ”思わざるを得ない。
 三谷幸喜の『ザ・マジックアワー』(2008)でコメディに挑戦し、新境地を開いたのは良かったけれど、その後も続く三谷作品への出演作を観ていると、「本来の佐藤浩市ではない。役者・佐藤浩市は三谷作品におさまりきれない」という気がしてしまうのだ。
 ついでに、吉永小百合との度重なる共演も、佐藤を“殺している”のではないかと危惧する。
 佐藤浩市の魅力を生かせる監督あるいは企画がなかなかないってのが原因かもしれない。

 好きな俳優であり、三國連太郎という名優の息子であり、顔立ちも濃いので、絶対に忘れることのない役者なのだが、不思議なことにソルティにとって、「どうしても名前が覚えられない」役者No.1である。
 「名前が覚えられない」というより、「名前が出てこない」のである。
 顔は思い浮かぶし、三谷作品含めいくつかの出演作(役柄)も上げられるし、父親は三國連太郎で息子(寛一郎)もまた役者をやっていて、競馬やキリンビールのCMにも出ていて・・・・とプロフィールはいくらでも出てくるのに、名前が出てこない。
 どうしてなんだろう?
 しばらく考えて出した答えは、サトウコウイチという名前のもつイメージと、本人の持っているイメージが一致しないという理由。
 サトウコウイチって、ソルティ的には「爽やか系優等生」のイメージがある。
 サイダーのCMにでも出てきそうな。
 それと実物の佐藤浩市の醸し出す“ちょっと重たくて陰のある”雰囲気にギャップがある。
 これが、たとえば「犬神浩市」だったら絶対忘れないと思う。
 
 1998年公開のこの映画、バブル崩壊後の平成につくられたわけだが、匂いは昭和である。
 ざらざらしたフィルムの質感や、古い家屋や店舗をロケに用いたせいもあろうが、季節感がよく出されている点が大きい。
 薔薇の剪定、節分、春雷、春雨、ひな祭り、桜吹雪、鯉のぼり・・・。
 『あ、春』というタイトルからすれば当然なこととはいえ、日本映画において庶民の生活を描くには、季節を感じさせることはとても大切だったのだと改めて思った。
 人の生き死にが季節とともにあったのだ。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

















● 映画:『Playground/校庭』(ローラ・ワンデル監督)

2021年ベルギー
72分、フランス語

 「小学生の頃が一番楽しかった」
 「あの頃に戻りたいなあ」
 ――なんて、つい思ったり口にしたりするけれど、よくよく思い出してみれば、実際には日々学校ではいろいろな出来事があって、楽しいことばかりではなかった。
 午後の音楽の時間に使うリコーダーを持ってくるのを忘れて午前の授業中ずっと「どうしようか」思い悩んでいたり(ヒステリックな女の先生だった)、クラスのイジメっ子に「明日100円持ってこい」と脅かされたり、下校中にズボンの尻が破れてしまったのをバレないように歩くのに苦労したり、お気に入りの消しゴムがなくなった次の日に同じ消しゴムを前の席の人が使っているのを見たり、放課後に大便が我慢できなくなってクラスから離れた校舎の個室を使っていたら、上から覗いた上級生に冷やかされたり・・・・。
 どれもこれも大人の目から見たらささいな出来事だが、子供にとっては小さな心臓がバクバクするような、しんどい出来事だった。
 クレヨンしんちゃんみたいに面の皮が厚かったり、ちびまる子ちゃんみたいにやり返すことができたり、磯野カツオみたいにマイペースで要領のよい性格だったら良かったのだが、ソルティは気が小さくて、恥をかくのが嫌で、人に相談できないタイプの子供だったのである。
 公立の小中学校はいろいろな背景ある家庭からやって来る、いろいろな生活レベル・知的レベルの子供が集まる、まさに社会の縮図のようなところである。
 大学進学率の高い地域の高校に入って、自分と同じような知的レベルの、乱暴でも野蛮でもない同級生に囲まれて、ようやっと修羅場をくぐり抜けたような気がしたものだ。
 そのぶん、突拍子もない面妖な事件が減ってつまらなくなりはしたが・・・。

 総じて、学校時代は子供にとっての“世界”はそこだけで、嫌なことがあっても逃げるという選択肢が考えられず、またたとえ選択肢が与えられたとしても、そこから逃げることで人生から脱落するような怖さが先立って、たとえ苦しくとも“世界”にへばりつこうと頑張ってしまう。
 親をはじめとする周囲に弱みを見せまいとこらえてしまう。

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 本作の原題はまさに Un monde(世界)。
 子供たちの作りだす“世界”が、子供視点で描かれている。
 「校庭(Playground)」という邦題は上手い。
 小学校に入学したばかりの7歳の少女ノラが日々体験する出来事が、手持ちカメラによる撮影によって、生々しい臨場感と子供の背丈から見る世界の狭隘感をもって、映し出される。
 そこで描かれるのは、ソルティの小学生時代の体験なんか屁と思えるほどの残酷な天使のテーゼ。
 ひとりぼっちで弁当を食べる泣きたいほど心細い時を経て、一緒に遊ぶ友達ができて、やっと学校に馴染めてきたノラが目撃したのは、優しくて頼りになる、大好きなお兄ちゃんが日々虐められている姿であった。

 戦場は、ガザ地区やウクライナやミャンマーに行かなくとも見つけることができる。
 地域の小学校の校庭で日々繰り広げられている。
 地獄は日常に潜んでいる。
 “世界”の縮図がここにある。

 本作は第74回カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞した。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損











● 本:『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』(NHKスペシャル取材班)

2025年NHK出版新書

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 現在、NHK教育テレビで『3か月でマスターする古代文明』という教養番組が放送されている。
 各回約30分×全12回のシリーズで、以下のようなライナップである。

  第1回 衝撃!最古の巨大遺跡 見直される“文明の始まり”
  第2回 メソポタミア 都市は“最終手段”だった?
  第3回 ヒッタイト “鉄の帝国”のヒミツ
  第4回 エジプト ピラミッドと黄金が王国を変えた
  第5回 インダス 王も武器もない文明
  第6回 中国 “交雑”が生んだ王朝
  第7回 原シルクロードと中央アジア 交流と繁栄
  第8回 ギリシャとミケーネ ネットワークが育んだ“民主政”
  第9回 オセアニア 巨大化する石像の謎
  第10回 マヤ 多様性を王国の力に
  第11回 アンデス1 ナスカ・地上絵 文字なき世界の道しるべ
  第12回 アンデス2 初めに神殿ありき

 11/09現在、第6回まで放映済みである。
 ちょうど、奈良大学通信教育学部で「考古学概論」のレポートに取り組んでいるソルティにしてみれば、なんつう Good Timing !
 毎回録画し、欠かさず視聴している。
 ここまでに観ただけでも、「なんだか考古学が凄いことになっている・・・」という実感がひしひしと湧いて来る。
 数十年前にソルティが歴史の授業で習ったことや、歴史ドキュメンタリー番組を見て吸収してきた情報が、どんどん塗り替えられていくような印象。
 つまり、歴史認識のパラダイムシフトが起きている !?

 第1回に出てきたトルコのギョベックリ・テペは、農耕が始まるはるか前、約11,000年前につくられた狩猟採集民の巨大遺跡。
 青銅器も鉄器もない時代にキツネやサソリやワシなどの動物が彫られた最大5.5mのT字型の石柱が何本も並び、文明の存在を感じさせる。
 世界最古の文明はBC3000頃のメソポタミア文明じゃなかったのか!

 第3回に出てきたヒッタイト。
 古代ギリシャのスパルタと並ぶ強大な軍事力を誇る「鉄の帝国」と習ってきたのに、実際には鉄の大量生産はなかったという。
 右翼が好むような帝国主義の単一民族国家かと思っていたら、多民族、多文化、多言語、多宗教の20世紀後半のアメリカみたいな国で、世界最初の和平条約をエジプトと結び、死刑が回避される寛容な統治だったという。

 第5回のインダス文明のモヘンジョダロにも驚いた。
 整備された道路や大浴場や上下水道が備わった数万人が暮らす都市であったにもかかわらず、王様や軍隊や神殿の存在を匂わせる遺物や遺跡がまったく出てこないという。
 いったいどうやって統治していたのか?

 農耕革命⇒人口増と貧富の差拡大⇒都市化と権力者の登場⇒国家と文明の誕生、という流れを常識的に思っていたのが、ひっくり返された感。
 面白いのは、古代遺跡の解釈をするときに、考古学者を筆頭とする近現代人が、自らの生きている時代の風潮や価値観に影響されてそれを読んでしまう、というナビゲーター(考古学者の関雄二)の指摘。
 たとえば、ヒッタイト=鉄の帝国というイメージは、20世紀前半ヨーロッパ列強の帝国主義や戦後日本の鉄工業重視の復興の機運が、誤った解釈を生む一因となった。
 すなわち、時代の価値観というバイアスがかかってしまったのである。
 考古学は、遺物や遺構や遺跡といったモノを分析し、そこから物語を読んで過去を再構成する学問だが、モノを読むときに読み手の性格や思想傾向や信仰や人生観や期待や欲望などが絡むと、思わぬ誤読をしてしまう。
 歴史解釈の難しさを思った。

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MartaによるPixabayからの画像

 江戸時代から続く邪馬台国論争や、ヤマト王権の成立すなわち天皇制の始まりに関する議論もこれと同じで、読み手のバイアスに左右されるところが大きい。
 最初の天皇は神武と信じている人は、どうしたって(おそらく)4世紀に成立したヤマト王権との時間的齟齬に直面するはずだが、そこは進化論を認めないキリスト教原理主義者と同じような脳の硬直が起こっているのだろう。
 邪馬台国が九州か畿内かについても、当地の人間にしてみれば死活問題(大げさか)、卑弥呼クッキーや邪馬台ラーメンの存亡に関わる。
 だいたい、日本の歴史学や考古学の人気も、古代史の謎の解明に負っているところが大きい。
 中には、「このまま場所が特定されないまま、いつまでも謎であってほしい」と思っている人もいるかもしれない。

 最新科学の活用とグルーバルヒストリーの研究成果を謳っている本書も、結局のところ、謎の解明には至っていない。
 卑弥呼の墓ではないかと議論されている奈良県の箸墓古墳に、上空からレーザー光線を当てて赤色立体図を作成、古墳の構造に迫る!/「空白の4世紀」に築かれた奈良県の富雄丸山古墳から国内最大の蛇行剣(全長237cm)を発見!/鳥取市にある青谷上寺地遺跡から出土した大量の人骨のDNA解析をして、埋葬された人たちのルーツをたどる!・・・等々、古代史研究の最前線の様子が描き出されてワクワクしないこともないが、結局、「いちばん率のいいのは古墳をあばくことだよな」と思わざるを得ない。
 それができない理由としていつも挙げられるのは「宮内庁が禁じている」だが、宮内庁にそこまでの権限があるのか疑問に思う。
 国の最高決議機関である国会で「調査する」と決めてはなぜいけないのだろう?
 たしかに、先祖の墓が採掘されるのは皇室の人々にとっては不快に感じるかもしれないが、そもそも先祖かどうかも分かっていないのだ。
 どこのだれかが分かっていない墓なのだから、皇室云々は関係ない。
 むしろ、古墳をあばいたら、皇室や宮内庁はじめ保守右翼にとって都合の悪い事実が判明することを恐れての禁止なのか、と邪推してしまうのも仕方あるまい。
 よもや、ピラミッドならぬ古墳の呪いを恐れているとも思えないが・・・・。
 
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天武・持統天皇陵
鎌倉時代の盗掘によって暴かれ尽くした




おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● To be or Not to be 映画:『ハムレット』(マイケル・アルメレイダ監督)

2000年アメリカ映画。
112分

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 原作はもちろんシェークスピアの『ハムレット』。
 舞台が中世のデンマークから現代アメリカに置き換えられているのは、DVDパッケージの解説を読んで事前に知っていた。 
 人物関係やプロットは原作そのままに、設定やセリフを現代風にアレンジしているのだろうと思っていた。
 が、驚いたことに、セリフはほとんど原作まんま。
 シェークスピアの書いた初期近代英語を現代英語に変えただけである。

 そんなこと可能なのか?
 いろいろと意味的な不自然が生じてくるだろう?
 ――と思ったけれど、そこはうまく工夫している。
 たとえば、ハムレット王子の将来治めることになる“デンマーク”を、ハムレット青年が将来継ぐことになる大企業“DENMARKE”に変換している。
 だから、ハムレットが学友のローゼンクランツとギルデンスターンに向かって投げかける、「なぜ、君たちはデンマークに送られて来たんだ?」というセリフがそれなりに符合するという具合。
 まあ、英語のヒアリングが苦手なソルティは、日本語字幕をたよりに観るので、セリフの意味的な不自然さは気にならないのだが。(日本語字幕はそれなりに現代社会に合うよう脚色されているので)
 むしろ、単純に、シェークスピアの書いたセリフが持っている高貴さやリズムの面白さが、音楽でも聞くように味わえた。

 To be or not to be, that’s question.

 「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」から始まるハムレットの独白には、時代や地域に関係なく、一度でも自死を思ったことがある者なら誰にでも共感できる真理の響きがある。
 やっぱり、シェークスピアって凄い!

 役者が豪華メンバーかつ演技達者で驚いた。
 主演のイーサン・ホークは、『テスラ エジソンが恐れた天才』(2020)でもアルメレイダ監督と組んでいた。舞台もこなせる実力派である。
 ハムレットの叔父クローディアス役は、『ブルーベルベット』や『ツイン・ピークス』シリーズや『デスパレートな妻たち』で有名なカイル・マクラクラン。甘いマスクがカッコいい。
 ハムレットの亡き父親(亡霊)役は、劇作家にして名優のサム・シェパード。渋くてカッコいい。
 ポローニアス役はハリウッドが誇るコメディアンのビル・マーレイ。
 ハムレットの母親ガートルード役のダイアン・ヴェノーラ、オフィーリア役のジュリア・スタイルズも役にはまって良かった。
 シェークスピアの難しいセリフ回しを見事にこなせるのは、皆、舞台の基礎が身についているからなのだろう。

 ハムレットを、ファザコンの映像オタクで統合失調症患者的に解釈したアルメレイダ監督の演出と、スタイリッシュな映像も、見る価値あった。
 一番驚いたのは、ハムレットが自分の部屋でひねもす流している映像の中に、ティク・ナット・ハンが出てきたこと。
 ハンの有名な Interbeing(相互共存)の説法が突然流れてきて、思わず姿勢を正した。

 To be or not to be, that isn’t question.
 Just “interbeing”.

 在るのでも、無いのでもない。
 「共に在る」のです。

 ――という、監督の投げかけた禅問答だったのかな?

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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● 復活の日 : オーケストラ・ラム・スール 第11回演奏会

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日時: 2025年11月3日(月)13:30~
会場: すみだトリフォニーホール大ホール
曲目: 
  • 平林遼: 神秘の存在証明 世界初演
  • マーラー: 交響曲第2番「復活」
  ソプラノ: 隠岐 彩夏
  メゾソプラノ: 藤田 彩歌
指揮: 平林 遼
合唱: コール・ラム・スール

 本年2度目の復活。
 平林遼という指揮者もラム・スールもはじめて。
 なかなか個性的かつ独創性ある指揮者のようで、気に入った。

 まず、舞台に登場してすぐ「オッ!」と注目を集めたのが、その衣装。
 タキシードではない!
 黒地に紫を基調としたカラフルな模様が編みこまれた、『銀河鉄道999』に出てくるプロメシューム(メーテルの母親)を思わせるような、お洒落なドレスシャツを着ている。
 そうよ、指揮者はタキシードを着るものと法律で決まっているわけではない。
 どんどん自分の好きなものを着て、気持ちをアゲアゲにして、いい音楽を作ってくれればそれに越したことはない。
 素晴らしい。

 次に、前プロに自ら作曲した世界初演のオリジナル曲(8分)を持ってきた。
 これが東洋風かつマーラーチック、しかも合唱付きで、場内の空気を一気に『復活』臨戦モードに変えていく。
 「ちょうど、いい曲を前プロに持ってきたもんだなあ」と感心したが、あとからプログラムを読んだら、なんとこの日のために即興的に書いたという。
 『復活』の前に置くのにふさわしい短めの曲がなかったから、という動機らしい。
 「大がかりな儀式のような『復活』を演奏するにあたり、場を浄化する露払い的な曲」と本人が記している。
 やるねえ~。
 しかも、前プロのあとに休憩は入れず、曲の切れ目がそれと分からないままに、『復活』第1楽章に突入。
 「前プロ、たしか8分のはずなのに妙に長いなあ~」と思って、途中でそれと気づき、トイレに行く機会を失った観客も少なくなかったと思う(笑)。
 いや、さすがに7度目の復活という最強ゾンビのソルティは、ちゃんとわかりましたとも。
 会場は7割くらいの入り。盛況であった。

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 率直に言って、これまで7回聴いた『復活』の中では、2019年に杉並公会堂で聴いた金山隆夫&カラー・フィルハーモニック・オーケストラと並ぶベストであった。
 全般に迫力と熱意があふれていた。
 第4楽章のオール・フォルティシモの爆風たるや、巨大なトリフォニーホールが木っ端みじんになるんじゃないかと思うほどだった。
 一つ一つの音が明確で、メリハリが効いていた。
 第1楽章がとくに緩急・強弱・硬軟自在で、扉が開けば別の世界、別の景色が目の前に広がる、遊園地のようなマーラーの音楽世界を見事に現出していた。
 合唱もあたたかみがあって良かった。
 人類は、他人からあたたかい声をかけられることで、ホモ・エレクトスからホモ・サピエンスに進化したのでは?――なんて妄想するほど、どんな腕の立つ演奏家がどんなに頑張っても、楽器では得られない人の声のもつ特質を思った。
 平林はこの曲について、マーラーが「魂の永遠の不滅性=輪廻転生」を表現したものと解釈したようだが(それゆえに東洋タッチで開始したのだろう)、そこのところはソルティはよく分からない。
 マーラーは、生まれ変わってこの世に戻りたかったのかな?
 また、最愛のアルマと出会いたかったのかな?

 素晴らしい演奏に出会った時にソルティに起こる現象として、例によって、身体中のチャクラがビクンと反応し、客席で何度もケイレンした。
 そのたびに“気”が湯気のように湧き上がった。
 しかるに――最近薄々感じていたのだが――これはソルティに憑依していた浮遊霊が浄化されている、すなわち音楽による除霊ってことなのかもしれない。
 鑑賞後に肩こりが楽になったのはそのためかも。
 

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終了後、錦糸町駅横の「てんや」で遅い昼食
いい音楽の後の飯は格別!




















 

 

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