ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● シネマ・コンサート:『砂の器』(野村芳太郎監督、東京フィルハーモニー交響楽団)

1974年松竹
143分
上映日 2022年1月9日(日)15時~
会場  東京国際フォーラム(有楽町)
指揮:和田薫
ピアノ:入江一雄

 しばらく前からシネマ・コンサートというイベントが話題になっている。
 人気の高い映画の再上映に際して、BGMの部分を観客の目の前で楽団が演奏するという形式である。
 『砂の器』を筆頭に、『雨に唄えば』『E.T.』『ジュラシック・パーク』『ニュー・シネマ・パラダイス』『鉄道員 ぽっぽや』『ルパン三世 カリオストロの城』などが演目に上がっている。

 もともと無声映画の時代には、観客が白黒画面を観ている傍らで弁士が解説やセリフを喋り、ヴァイオリンやピアノあるいはオーケストラがBGMを奏でるというのは普通にあったから、今に始まったことではない。
 が、トーキーになって音楽も録音・再生できるようになってから、わざわざ指揮者と生オケ呼んでライブでBGMつけるなんて贅沢の極みというほかない。
 本上映会のチケット代も、S席 9,800、A席 7,800 (税込)と破格であった。
 
 バブル華やかなりし頃、単発イベントとしてシネマ・コンサートが催されたことがあった。
 ソルティが観た(聴いた)ので記憶しているのは、映画の父と言われるD・W・グリフィスの『イントレランス』(1916年)と、上映時間6時間でラストシーンで画面が3倍広がる(シネラマになる)アベル・ガンツの『ナポレオン』(1927年)であった。
 物好きな年頃だった。

 映画のサウンドの質が向上した、つまり録音・再生技術が非常に優れている現在、わざわざ生オケ呼んでBGMをつけてもらう必要はないと思うので、高い金出してシネマ・コンサートに行く気は基本的にない。
 ただし例外がある。
 そのBGMがスクリーンなしで単独で聴いても優れた曲であり、また音楽自体が物語の主要なテーマになっているような場合、シネマ・コンサート形式は燦然たる効果を放つ。
 その例外が『砂の器』であることは言うを俟たない。

砂の器ポスター


 5000席を超える東京国際フォーラム・ホールAは満席に近かった。
 昨秋チケットを取ったときはコロナの谷間だったが、ご承知の通り、今年に入ってオミクロン急増。しかもデルタを凌ぐ感染力。
 不織布マスクでしっかり鼻まで覆った上に眼鏡タイプのフェイスシールドをつけて鑑賞した。
 予想はしていたが、観客は50~70代が大半だった。

 舞台上の大きなスクリーンの下にオーケストラ席がしつらえてある。
 楽団員がぞろぞろ入って来て、最後に指揮者とピアニストが登場。
 そう、本作のBGMは菅野光亮(1939-1983)作曲『ピアノと管弦楽のための組曲 宿命』で、それはまた本作の主人公である天才作曲家にしてピアニスト・和賀英良(加藤剛)が自らの宿命を綴った一世一代の名曲でもある。
 指揮棒が上がり、ゆっくりと主要動機(メインテーマ)が流れ、スクリーンにクレジットが映し出される。
 生演奏の臨場感、迫力、波動の力は半端なく、もうこの時点でウルっと来てしまった。
 やばい。この先大丈夫か?

 スクリーンの進行に音楽を合わせていくのは随分と難しいのではないか、とくにスクリーンに映し出される手の動きに合わせてピアノを弾いていくのは至難の業ではないか、と素人目には思うが、そこはやはりプロ。まったく不自然なく、途中からはほとんど生オケであることも忘れて映画に没頭していた。
 感動の源はもちろん、残酷な宿命を背負わされた父と子の不憫さと絆、誰にもわかりえない主人公の苦しみと孤独、それを察する刑事たちの心情、そして悲哀と慟哭の音楽にある。
 だが、人生4度目の鑑賞、それも初回から40年以上の月日が経っている現在、もういろいろなことが感動のポイントとなる。
 撮影時に残っていた日本の風土、海岸線や稲田や農村の美しさ、昭和の街の風景、人々の艶のあるひたむきな表情、クーラーのない夏の暑さ、国電の列車、車窓を流れる景色、そしてすでに鬼籍に入った役者たち――主役の加藤剛や丹波哲郎はもちろん、渥美清、笠智衆、佐分利信、緒形拳、加藤嘉、菅井きん、穂積隆信・・・・。
 主要登場人物で今も残っているのは、元千葉県知事の森田健作、島田陽子、山口果林、それに子供時代の和賀英良を演じた春田和秀(現在55歳)くらいではないか。
 最初に観たとき、出演者のうち自分より年下は春田和秀だけだったのに、いまや森田健作や加藤剛はもちろん、丹波哲郎も緒形拳も渥美清も超えてしまった。
 次に観る時はおそらく佐分利信も加藤嘉も超えていることだろう。
 そう、今となっては、この映画の隠されたテーマは「波にさらわれた砂の器のごとく、失われた昭和、失われた日本の風土、失われた人、失われた時」なのだ。
 だから、話の筋も結末も感動のポイントも熟知しているにも関わらず、見るたびに感涙にむせぶのである。

 一方、「失われた昭和や日本の風土」をただ懐かしんでいるばかりではない。
 この作品の核をなすハンセン病差別は前近代的な日本の風土の中にこそ根付いていた。
 あの美しい海岸線、桜並木、緑なす山々、きらめく河川、蝉しぐれ、素朴な民衆の中に、無知や偏見が組み紐のように織り込まれていた。その観点からスクリーンを目にするとき、日本の風土の美しさが深い哀しみの色を帯びてくる。 
 映画の最後の字幕にあるように、「現在ではハンセン病は治療できる病いで、本浦千代吉のような患者はいない」。
 患者を家族と離れ離れにし、施設収容する必要もない。 
 天下の悪法・らい予防法は1996年に廃止された。 
 平成・令和生まれで、半世紀近く前に作られたこの映画を、主人公・和賀英良の背負った十字架の重みを、予習なしに理解できる人はそういないかもしれない。
 それはやっぱりいいことだ。  
 失われてよいものもある。

 上映終了後は拍手の嵐。
 アンコールでメインテーマが奏でられた。(今も頭の中に鳴り続けている) 

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国際フォーラム内のトラ門松


おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 永遠の田宮二郎 映画:『白い巨塔』(山本薩夫監督)

1966年大映
149分、モノクロ

 「白い巨塔」と言えば財前五郎、財前五郎と言えば田宮二郎。
 ――というのがソルティの固定観念であるけれど、山崎豊子原作のこの社会派医療ドラマは実に6回もテレビドラマ化されている(国内のみ。韓国でもドラマ化されている)。
 主役の財前五郎=友人にしてライバルの里見脩二=財前の愛人のホステス・花森ケイ子、主要3人の過去の配役を並べると、

1966年映画   田宮二郎=田村高廣=小川真由美
1967年テレビ  佐藤慶=根上淳=寺田史
1978年テレビ  田宮二郎=山本學=太地喜和子
1990年テレビ  村上弘明=平田満=池上季実子
2003年テレビ  唐沢寿明=江口洋介=黒木瞳
2019年テレビ  岡田准一=松山ケンイチ=沢尻エリカ

 その時代のトップ中堅スターが抜擢されてきたことが分かる。
 ソルティがこれまで観たのは78年テレビ版のみで、財前がガンで亡くなる最終回直前に田宮二郎の猟銃自殺があったため、なんだかドラマ(虚構)と日常(現実)の境が溶けるような奇妙な印象が生じ、そうでなくともハマリ役であった田宮=財前が強く脳裏に刻まれた。
 おそらくリアルタイムで78年版を観ていた多くの人も同じであろう。

 田宮二郎が財前を演じた最初にして、今のところ唯一の映画化が本作である。
 やはり素晴らしくハマっている。翳りある冷徹な二枚目ぶりはその後のどの財前も及ぶところではない(と勝手に思っている)。
 俳優だけでなく事業にも手を伸ばした野心家であり、ポスターの名前の序列をめぐって大映とケンカ別れするほどプライドが高く、妻子ある身で山本陽子と浮名を流し、最後は精神を病んで自害に至った田宮二郎の素そのものが、財前五郎というキャラと重なるのである。
 まるで財前五郎を演じるために生まれてきたかのよう。

 本作のラストは、誤診で患者遺族に訴えられた財前が裁判に勝利して、“白い巨塔”のトップに昇り詰め、有名な院内大名行列する場面で終わる。
「あれ、ここで終わり? 財前って最後は死ぬはずでは・・・・?」
 と思ったら、本作が撮られた66年の段階では山崎豊子の原作(65年出版)はここで完結していたのである。
 ところが、読者の反響すなわち「里見が象徴する正義が通らず財前が象徴する悪が勝つこと」への批判が凄かったため、山崎は続編を書くはめになったらしい。
 続編は69年に出版されているので、ソルティが観た78年テレビ版はもちろん、勧善懲悪バージョンだったのだ。
 まあ、そうでなければこれほど何回もドラマ化されないだろう。

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ただいまより財前教授の総回診が始まります

 本作の魅力は、田宮、田村、小川のみならず出演陣の豪華な顔触れと質の高い演技にある。
 東野英治郎、小沢栄太郎、加藤嘉、加藤武、藤村志保、石山健二郎、滝沢修、船越英二・・・・。
 なんとまあ実力派を揃えたことか!
 中でも、財前五郎の義理の父を演じる石山健二郎の「この世のすべては銭でっしゃろ!」の浪花ごうつく親爺ぶりが傑作である。
 この人は黒澤明の『天国と地獄』でも叩き上げのボースン刑事役として得難い個性を発揮していた。
 日本が誇る素晴らしきバイプレイヤーの一人である。
 観客を決して飽きさせない橋本忍の脚本も、『真空地帯』で示した山本薩夫の演出もゆるぎない。

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娘婿の教授拝命を喜び芸者と踊る財前又一(石山健二郎)

 タイトルの「白い巨塔」とは、「封権的な人間関係と特殊な組織で築かれ、一人が動いても微動だにしない非情な」医学界の意である。
 このたびのコロナ禍ではっきりしたように、白い巨塔はウイルス対策のような臨機応変の柔軟な対応を必要とされる事態に滅法弱い。
 利権、既得権、縦割り、派閥(学閥)、ピラミッド型組織、政財界との癒着、身内同士のかばい合い、パワハラ・・・・。
 目に見えないウイルスは、強固につくられ微動だにしない塔の隙間から自在に入り込んで、内側から塔を蝕んでいく。
 今回のコロナ禍になにかしらの益があるとしたら、昔ながらの白い巨塔がいくらかでも風通しのいいものになってくれるところにあると思いたい。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● ゲバゲバ、ぱぱや! 本:『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』(池上彰、佐藤優共著)

2021年講談社現代新書

 前著も面白かったが、今回はそれを上回る面白さと満足感があった。
 一気読みした。 
 
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 面白さの理由は、やはり新左翼の登場。
 ソ連や中国の顔色をうかがい右顧左眄し官僚化した共産党――その様子は大島渚監督『日本の夜と霧』に描かれている――と、学生や労働者らの支持を集めるも平和革命絶対主義を崩さない社会党。そこに颯爽と登場した新たなるエースが新左翼であった。
 この切れる頭と勇猛果敢な精神と抜群の行動力をもつ若きエースが、社会党左派の大人たちの贔屓にあずかり、あり余るエネルギーと時間を持つ全国の学生たちの支持を集め、ベトナム戦争や日米安保延長に反対する世論の波に後押しされて、いっときは檜舞台に躍り出て時代の寵児と輝くも、思想や運動方針の違いからセクト化し、革マル派V.S.中核派に象徴されるように互いに憎み合い暴力団まがいの抗争(内ゲバ)を繰り返すようになり、市民を巻き添えにするゲリラ戦を行い、一転、党や世論に見放され、一般学生が離反し、孤立化していく。
 その先に待っていたのは、連合赤軍による「よど号ハイジャック事件(70年3月)」や「あさま山荘事件(72年2月)」といった世を震撼とさせる残虐非道であった。
 もはや、「世界平和と平等のための共産主義革命」といった文句が、「ポア(殺人)によって相手の魂を浄化させる」というオウム真理教の犯行動機さながらの狂言としか聞こえない。

 一方で、見ようによっては、新左翼は、ずるがしこく保身能力に長けた世間や大人たちに振り回された、純粋で理想主義の若者たちの悲劇という感がしないでもない。
 そこが、映画『アラビアのロレンス』のような栄光と挫折と破滅のドラマを思わせるのである。

 面白さのもう一つは、これまでソルティがあちこちで読んだり聞きかじったりしていた、あるいは記憶の底に埋もれていたこの時代(1960-72)の様々な固有名詞――人名、地名、事件名、流行歌、国際指名手配の写真、社会現象、世界のニュースなど――が、パズルのピースが埋まっていくように一つの絵となり、全体像が浮かび上がってくる快感があったからである。

 一例であるが、ソルティが小学一年の時に『老人と子供のポルカ』(1970年)という歌が流行った。
 左卜全という名の人の良さそうなヨボヨボのお爺さん俳優が、小さな子供たちに囲まれて、やや調子っぱずれなふうに、「やめてけ~れ、ゲバゲバ」と歌う。
 軽快なリズムで歌詞もメロディも覚えやすかったので、幼いソルティは意味も分からずよく口ずさんでいた。
 当時、大橋巨泉と前田武彦の『ゲバゲバ90分』というバラエティ番組が大人気で、火曜の夜にはいつも家族で観ていた。ナンセンスなショートコントやギャグ満載で、今思い返しても質の高いセンスのいい番組であった。
 ソルティは、左卜全と子供たちが『なぜ「ゲバゲバ90分」をそんなに嫌うのだろう?あんなに面白いのに・・・』と幼心に不思議に思ったのである。
 長じてから、ゲバとはゲバルト(ドイツ語 Gewalt 暴力)の略で、ヘルメットをかぶり角材を手にした若者たちのやっていた実力闘争のことだと知り、「左卜全は暴力反対を訴えていたのだ」と知るわけだが、問題はこの曲が発売されヒットした70年という年の意味である。
 1965年に慶応義塾大学から始まった学園紛争が他大学にも広がって、全共闘が結成され、東大闘争や日大闘争(日大の体質ってほんと今も変わっていない!)へと発展していく。と同時に、北爆によって残虐化していったベトナム戦争や70年の日米安保延長に向けて反対世論が高まっていく。
 このあたりは新左翼にとって追い風だった。
 それが69年1月に東大安田講堂が陥落、70年6月に安保条約は自動延長される。
 70年という年は、世間が「もうゲバはいい加減にしてくれ」と新左翼や学生運動家に対して最後通牒を突き付けた頃合いだったのだろう。
 それが「左」という名の76歳の明治生まれのお爺さんの口を借りてだったというのが面白い。
 この世間の声を無視して突き進んだ結果、新左翼は修羅へと転落していった。
 ちなみに、三島由紀夫の自決(自分に対するゲバルト)も70年11月である。

ダルマ夕日
高知県宿毛市名物・だるま夕日
(令和4年元日友人撮影)


 これら新左翼の運動とその後の日本社会への影響について、佐藤と池上はこう総括(という言葉も左翼用語であるが)している。

●佐藤の言 

 新左翼の本質はロマン主義であるがゆえに、多くの者にとって運動に加わる入り口となったのは、実は思想性などなにもない、単純な正義感や義侠心でした。そのために大学内の人間関係などを軸にした親分・子分関係に引きずられて任侠団体的になり、最後は暴力団の抗争に近づいていった。

 理想だけでは世の中は動かないし、理屈だけで割り切ることもできない。人間には理屈で割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。

 正義感と知的能力に優れた多くの若者たちが必死に取り組んだけれど、その結果として彼らは相互に殺し合い、生き残った者の大半も人生を棒に振った。だから彼らと同形態の異議申し立て運動は今後決して繰り返してはいけない、ということに尽きると思います。

●池上の言
 日本人を「総ノンポリ」化してしまった面は間違いなくあったでしょうね。若い人が政治に口出すことや、政治参加することに対して大変危険なことだというイメージを多くの人が持つようになってしまった。

 80年代初期、ソルティが大学キャンパスの片隅で見かけた二つの勧誘団体――新左翼の残党と原理研。
 頭はいいが孤独で純粋でノンポリな若者たちを惹きつけたのは、いまや後者だったのである。 
 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 新年一本目 映画:『惜春鳥』(木下惠介監督)

1959年松竹
102分、カラー

 白虎隊で有名な会津若松を舞台に、5人の青年の友情と裏切りと成長を描く青春ドラマである。

 まず何と言っても、昭和30年代の会津若松の自然や町の美しさに目を奪われる。
 木造建築の温泉旅館やアールデコ調のカフェなど、木下監督の美意識がそこここで光る。
 
 5人の青年にはそれぞれ屈託がある。
 牧田康正(津川雅彦)は妾の子であり、母親が経営するカフェでバーテンをしている。
 峰村卓也(小坂一也)は温泉旅館の跡取りであり、父親は浮気相手の寝床で急死した。
 手代木浩三(石濱朗)は貧乏士族の家柄で、組合活動に専心する薄給サラリーマン。
 馬杉彰(山本豊三)は漆塗りの職人の息子で、片方の足を引きずっている。
 岩垣直治(川津祐介)は愛のない家庭に育ち、東京でアルバイトしながら大学生活を送っている。

 それぞれが何かしらの傷を抱えているところで5人の友情は育まれた。

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左から小坂一也、川津祐介、山本豊三、津川雅彦、石濱朗

 自刃した白虎隊の志士への敬愛を胸に固い友情で結ばれていたかに見えた5人だが、成長して就職し、それぞれが世間の波にもまれるようになるにつれ、関係が微妙に変わっていく。
 中でも、東京に行った岩垣はいつの間にか大学をやめて詐欺や泥棒を働くようになっていた。
 そうとは知らず、帰郷した岩垣を温かく迎え、岩垣に頼まれるがまま金を工面してやる4人。とくに仲の良かった馬杉は久しぶりの邂逅を喜び、5人揃ったことで共に剣舞に励んだ昔日に戻ったような気分の高揚を感じていた。

 5人それぞれのキャラクターがしっかりと書き分けられ、かつ演技力ある若い役者らによって演じられているので、見ごたえがある。
 デビュー間もない津川雅彦の華と色気、歌手でもあった小坂一也の感性と見事な歌声、演技派・石濱朗の安定感、山本豊三の愛すべき庶民性、そして顔立ちの可愛らしさと相反する川津祐介の計算された大人の演技。
 それぞれの魅力を引き出す木下演出の肝は、ジャニー喜多川と比すべき炸裂するイケメン愛である。
  
 本作は日本初のゲイ映画とも一部で言われていて、確かに足の悪い馬杉の岩垣に対する思いや態度は、友情を越えた恋情のレベルにある。馬杉がゲイである可能性は高い。
 しかるに、本作のゲイっぽさは話の内容そのものというより、木下の演出にあると見るべきだろう。
 冒頭の川津と小坂の入浴シーン、後半の津川と小坂の入浴シーンなどの演出は、温泉宿で旧交をあたため打ち割った話をするのに共に風呂に入るシーンがあるのは自然な流れとは言え、その自然が自然に収まらず、不自然に達するほどの耽美な雰囲気――ヴィスコンティかデレク・ジャーマンを想起するレベル――を醸し出している。
 つまり確信犯だ。

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津川雅彦と小坂一也の入浴シーン
 
 本作ほど木下惠介が、自分の撮りたいテーマをお気に入りの役者を集めて撮りたいように撮った映画はないんじゃなかろうか。
 5人の役者から見れば大先輩たる佐田啓二と有馬稲子が昔ながらの“心中する男女(芸者と肺病持ち)”を演じてさすがの貫禄を見せてはいるが、物語的には狂言回しに過ぎない。

 令和の現在、5人の個性的な若い男優を集めて、よりBL色鮮明にして再ドラマ化したら受けるんじゃなかろうか?



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』(カルロ・ロヴェッリ著)

2020年原著刊行
2021年NHK出版(冨永星 訳)

 今回の秩父リトリートに持って行った一冊。
 200ページに満たない小冊子ほどの分量であるが、なにせ量子論である。
 すっきりした頭と心と体で、じっくり時間をかけて集中して読まないと到底読みこなせないと思い、リトリートまで読むのを待っていた。

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 カルロ・ロヴェッリは1956年イタリア生まれの理論物理学者。
 最先端科学の知見を、ソルティのような科学素人にもわかりやすく説き明かしてくれる文学センスに恵まれた書き手で、同じNHK出版から出ている『時間は存在しない』は世界的ベストセラーとなった。(ソルティ未読)
 アインシュタインの相対性理論とハイゼンベルクの量子論との結合を研究目標としているという。
 
 科学音痴のソルティ、とりわけ物理は大の苦手で高校時代はいつも赤点だった。
 それでも量子論に惹かれるのは、量子論が我々の生きる世界のありようについての従来の解釈を決定的に打ち壊し、いわゆるパラダイム変換させるものを含んでいるからにほかならない。
 つまり、ニュートンに代表される古典物理学――人間(科学者)が物質(対象)を客観的に観測し、物質が持っている様々な性質を見極め、また物質間に存在する恒常的な物理法則をつきとめて公式化する――が、どうやら量子の世界では通用しないらしく、現象を解釈するための新たな枠組みが必要とされている。
 その新たな枠組みとして俄然注視を浴びているのが、ほかならぬ仏教なのである。
 ひとりの仏教徒として関心を持たざるを得ない。
 瞑想とウォーキングと脱アルコールと節食とでクリアにした頭をもって二度読みし、なんとかカルロの言葉についていった。
 
 まず、カルロは量子論誕生の背景を語る。
 立役者は23歳のドイツの青年ハイゼンベルク。
 ハイゼンベルクと彼の師であるニールス・ボアとマックス・ボルン、そして同僚のパスクアル・ヨルダンとヴォルフガング・パウリ、これらの面子が量子論誕生の中心となった。
 続いて、イギリスのポール・ディラックや猫のたとえ話で有名なシュレーディンガーが登場する。
 このあたりの記述は、偶然と興奮と驚嘆と激論と感動がついて回る科学的大発見の物語として面白く読める。
 シュレーディンガーが“女ったらし”だったとは知らなかった。

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箱の中の猫は起きているのか、寝ているのか
 
 次に、カルロが描くのはあまりに不可解な量子のふるまい(量子現象)と、それを説明するためにこれまで専門家によって唱えられた解釈の列挙である。 
  • 量子飛躍・・・・量子は一つの軌道から別の軌道に瞬時に飛ぶ
  • 量子干渉・・・・量子を観測しようとしただけで、そのふるまい方が変わる
  • 量子もつれ・・・遠く離れた二つの量子の一方を観測した結果が、もう一方の量子に瞬時に伝わる
 これまでの物理法則では説明しがたい現象をなんとか合理的に説明しようとして、専門家はいくつかの説を編み出した。 
  • 「多世界解釈」理論・・・・この世界は一つでなく、観測と同時に分裂し、無限に存在する
  • 「隠れた変数」理論・・・・我々には決して見えず測定できない波(変数)があって、それが量子に影響を及ぼしている
  • 「自発的収縮」理論・・・・(これは説明を読んでもよくわからなかった)
  • 「QBイズム(認識論的解釈)」・・・・観測する我々の認識にそもそも非合理なものがある(ってことを言っているらしい)
 カルロは上記の解釈をすべて退けて、自説を打ち出す。
 それが本書の核心であり、タイトルの意味するところ、すなわち関係論的解釈である。

 その答えの鍵、とわたしが信じているのは――同時にこの本のさまざまな着想の要でもあるのだが――科学者も測定機器と同じように自然の一部である、という単純な観察だ。そのとき量子論は、自然の一部が別の自然の一部に対してどのように立ち現れるのかを記述する。
 量子論の関係を基盤とする解釈、すなわち関係論的な解釈の核には、この理論が、量子的な対象物のわたしたち(あるいは「観測」という特別なことをする主体)に対する現れ方を記述しているわけではい、という見方がある。この理論は、一つ一つの物理的対象物が、ほか任意の物理的対象物に対してどのように立ち現れるかを記述する。つまり、好き勝手な物理的存在が、別の好き勝手な物理的存在にどう働きかけるかを記述するのだ。

 一つ一つの対象物は、その相互作用のありようそのものである。ほかといっさい相互作用を行なわない対象物、何にも影響を及ぼさず、光も発せず、何も引きつけず、何もはねつけず、何にも触れず、匂いもしない対象物があったとしたら・・・・・その対象物は存在しないに等しい。(中略) わたしたちが知っているこの世界、わたしたちと関係があってわたしたちの興味をそそる世界、わたしたちが「現実」と呼んでいるものは、互いに作用し合う存在の広大な網なのである。そこにはわたしたちも含まれていて、それらの存在は、互いに作用し合うことによって立ち現れる。わたしたちは、この網について論じているのだ。

 量子論は、物理的な世界を確固たる属性を持つ対象物の集まりと捉える視点から、関係の網と捉える視点へとわたしたちを誘う。対象物は、その網の結び目なのである。

 このような解釈を唱えるカルロが、「この奇妙な世界像を理解するための、観念的基盤」を求めていたところ、ぶち当たったのがなんとナーガルジュナ(龍樹)であった。

龍樹(150―250ころ)
インドの最大の仏教学者。原名はナーガルジュナ。南インドの出身。
当時のインド諸思想を学んだのち北インドに赴いて、仏教、とくに新興の大乗仏教思想に通暁して、その基礎づけを果たし、晩年は故郷に帰った。
主著に『中論』『大智度(だいちど)論』その他がある。
『中論』において確立された空(くう)の思想は、彼以後のすべての仏教思想に最大の影響を与えている。すなわち、実体(自性)をたて、実体的な原理を想定しようとするあり方を、この書は徹底的に批判し去り、存在や運動や時間などを含むいっさいのものが、他との依存、相待、相関、相依の関係(縁起)のうえに初めて成立することを明らかにする。
(小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』より抜粋)

 どうだろう?
 まさに関係論的解釈そのものではないか!
 「我意を得たり!」のカルロの驚きと喜びを想像するのは難しくない。

 何ものもそれ自体では存在しないとすると、あらゆるものは別の何かに依存する形で、別の何かとの関係においてのみ存在することになる。ナーガルジュナは、独立した存在があり得ないということを、「空」(シューニャター)という専門用語で表している。

 しかし、テーラワーダ仏教を学ぶ者なら誰もが知っている。
 専売特許はナーガルジュナにない。
 上記の内容は、「諸行無常」「諸法無我」「縁起」「因縁」という言葉をもって2000年以上前にブッダが説き明かしている。
 諸行無常で諸法無我だから「空」なのだ。縁起と因縁が存在の様式なのだ。
 ブッダは『阿含経典』の中で、五蘊――すなわち色(物質)・受(感覚)・想(観念やイメージ)・行(意志や感情や思考)・識(認識)――がどれも無常であり無我であり苦であると明確に語っている。

 五蘊の原理は無我(Anatta)であることを示す。「人間の生命」は様々な構成要素の集まりであり、そしてこれらの構成要素の集まったものも自我ではない。それぞれの構成要素も自我ではない。また、これらの構成要素とは別に自我であるものもありえないことを示す。このように見ると、自我に固執することを止めることができる。
(ポー・オー・パユットー著『仏法』サンガ出版より)

 カルロの量子論は実に仏教そのものである。(ただし、カルロは輪廻転生の類いは信じていないらしい。自身を「ハードコアな唯物論者で自然主義者」と言っている)

 ここにおいてソルティは、「宗教」と「哲学」と「科学」の三者に関する次のような歴史的洞察を披露したいという誘惑に抗しきれない。
 すなわち、
  1. 大昔(たとえば原始社会)において、宗教と哲学と科学は同じ一つのもの(三位一体)であった。(キリスト教原理主義者やイスラム教原理主義者にとってはいまも一つのままである)
  2. 古代ギリシアにおいて、哲学と科学が宗教から独立した。
  3. 中世ヨーロッパでは、宗教(キリスト教)が哲学と科学の上に立った。
  4. ルネサンスから近代を経て、宗教が玉座から転がり落ち(「神は死んだ」by ニーチェ)、哲学と科学が隆盛になった。
  5. 近現代、哲学も袋小路に陥り、科学万能の時代が到来した。
  6. 量子論は、宗教と哲学と科学をふたたび結合させる可能性を示唆している。ただし、その場合の宗教とは仏教である。
 本書においてカルロは、量子現象の関係論的解釈が、人間の発する「問い」の表現を変えてしまう可能性を指摘している。 
 ごく単純なレベルで言えば、問いを発する際の主語が「私( I )」という一人称単数から、「私たち(We)」とか「世界(World)」とか「生きとし生けるもの(All Living Being)」に変わっていくやもしれない。
 環境問題を語るときにすでにそうなっているように・・・・。


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おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 秩父年越しリトリート(後段)

 秩父市内散策の面白さは、やはりレトロ探訪にある。
 江戸時代から続く商家、明治時代のハイカラ建築、大正・昭和初期のアールデコ調店舗、戦前の妓楼や料亭、昭和レトロなアパートや民家などが、混然と立ち並んでいる。
 地盤が固いため関東大震災の被害を受けず、戦災も免れたことが、このような多彩でノスタルジックな街並みを可能にした。

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秩父名物・豚肉味噌漬けの老舗

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煙草屋

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PUB

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工務店

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旧病院

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レストラン

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焼き鳥屋

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 大みそかの午後は西武秩父駅前の祭の湯で禊をし、鍋焼きうどんを食べた。
 宿に帰って瞑想しながら年越し。
 秩父のカウントダウンは、若者の雄叫びも爆竹音もバイクの唸りも、除夜の鐘さえ聞こえない、静かなものであった。 (泊まっていた宿の防音効果によるかもしれない)  
 元日は朝5時に起きて、暗い中を秩父神社へ。
 久しぶりにたくさんの星を見た。
 境内は人少なく、ゆっくりと参拝できた。
 おみくじは「小吉」。
 これは中吉と吉の間(上から3番目)なので、ちょうどいい塩梅かな。 

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秩父神社
酒樽(お神酒)が並ぶ

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秩父神社
特設賽銭箱が置かれている


 そうそう。秩父散策の醍醐味は街角の神仏との出会いもある。
 お寺の境内や路傍に立てられた神仏の像たちの由緒を確かめるのも面白い。

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秩父ガメラ?
妙見様(北斗七星の神格化)のお乗りになる亀の子石である
江戸末期まで秩父神社は妙見様を祀っていたという

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六地蔵
季節ごとに衣替えしている

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う、麗しい!

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七福神(秩父市東町の惣円寺)
昨年末に禍々しい六福神を掲載したら、
この方々に呼ばれ、「訂正せよ!」と言われました・・・


生きとし生けるものが幸せでありますように!















● 秩父年越しリトリート(前段)

 「初詣は秩父神社だ」と思い、年末から元日まで4泊5日の秩父リトリートを行った。
 中3日はいつものように外界との接触をできるだけ断って、瞑想&ウォーキング&読書をしてストイックに過ごした。

 寒さは覚悟していた。
 が、秩父は盆地のため朝夕は確かに冷え込むけれど、風は強くなく、日中は陽が射すと意外と暖かい。
 2時間もウォーキングすると、厚い上着を脱ぎたくなるくらいだった。

 今回は、秩父市街の盆地を形成する二つの丘――西側の長尾根丘陵と東側の羊山丘陵――に登った。

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秩父市いいかげんマップ

 長尾根丘陵は秩父中心街から荒川を渡って急斜面を登る(標高300~450m)。
 尾根沿いに、秩父巡礼23番札所・音楽寺や市民憩いの秩父ミューズパークがある。
 2021年春のリトリート時にソルティがはじめて足を運んだ船をイメージした展望塔からは、武甲山に見守られた秩父盆地の素晴らしい光景を眺めることができる。
 この丘陵のふもとを流れる荒川に沿うようにして、秩父札所20番岩之上堂・21番観音寺・22番童子堂・24番法泉寺が並んでいて、秩父巡礼路の中でも最も眺めがよく、歩きやすく(車道である)、気持ちのいいルートとなっている。(23番音楽寺への登りはなかなかコタえるが)
 2018年にソルティが初の秩父巡礼した時もこの道を辿ったし、その後の秩父リトリートの際も恰好の散歩コースとして利用してきた。

 今回思わぬ発見をした。
 札所21番から22番に向かう車道の途中、右手に「江戸巡礼古道」という標識と矢印があり、住宅地に入っていく細い道がある。
 興味を惹かれてこの道を進んでいったら、道は宅地の奥で行き止まり・・・・と思ったら、雑草生い茂る道ならぬ道があって、「こちらでいいのかな?」という不安を抱きつつ進んだら、すっぽり山の中に入ってしまった。
 あとは踏み跡もさだかでないような竹林や雑木林のもの寂しい登りが続く。
 「蛇が出る季節だったら絶対に進めないな」

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 ところどころ木に結わえ付けられた「巡礼道」と書かれた札だけが頼り。
 傾斜はどんどん険しくなってゆく。
 長尾根丘陵に登るルートであるのは間違いない。
 ようやく平地らしきところに飛び出たら、古い看板があった。

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 なんと、22番・童子堂はもともとここに、長尾根丘陵の山腹にあったのだ。
 かつて、21番を打ち終わった巡礼者は、さきほど標識のあったところから右に進路を取って山道に入り、薄暗い森の中の急斜面を登り、息を整えながら22番を拝んで、さらに山道を登って尾根に達し、尾根沿いに23番・音楽寺に向かったのである。 
 その後(明治末期)、童子堂が今あるところ(丘のふもと)に移ったので、21番から平坦な道をずっと苦労なく行けるようになった。
 もちろん今でも22番を打ち終わったら、23番・音楽堂への登りを避けることはできないけれど、ここは尾根までの車道や舗道がしっかりついているので、山登りという感じはない。
 巡礼は段違いに楽になったのである。

 長尾根丘陵の尾根からは、秩父市街とは丘陵をはさんだ反対側にある小鹿野町や旧吉田村(現・秩父市)、その背後に聳える両神山を見ることができた。
 考えてみると、秩父事件の主役たちは旧吉田村の椋神社にて決起集会を行い、そこから長尾根丘陵を登って尾根上にある音楽寺で鐘を打ち鳴らし、鬨の声を上げ、一気に山を駆け下りて荒川を渡り、秩父神社周辺にあった役所を襲ったわけである。
 その計り知れない脚力と体力と胆力に感嘆する。
 若いって・・・・・。 

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尾根道

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長尾根から望む両神山(1723m)

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23番・音楽寺観音堂と武甲山

長尾根から見た秩父盆地
長尾根丘陵から見た秩父盆地


 今一つの羊山丘陵は、武甲山の山麓を成している高台(標高250~300m)で、西武秩父駅を降りたらすぐ目の前に見える。
 尾根上には芝桜で有名な羊山公園がある。
 丘陵の向こう側は、アニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』の舞台として有名になった横瀬町があり、ここもまた秩父札所5番から10番が点在している。
 羊山丘陵からは、秩父市街地の全景とともに、向かいの長尾根丘陵および頭一つ抜けた両神山のノコギリ状の特異な山型を見ることができる。
 他の山と見間違いっこない独特の存在感である。

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羊山公園から武甲山(1304m)を望む

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羊山公園から見た秩父市街(北方面)
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羊山公園から見た秩父市街(南方面)

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長尾根丘陵の上に顔出す両神山

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 両神山は、盆地の底にある秩父市街地からは到底望めないものと思っていたのだが、丘陵を下りながら確認していったら、なんと西武秩父駅の駅前広場からもその山頂を拝むことができた。
 つまり西武秩父駅からは、秩父の両雄たる武甲山と両神山の二つを見てとることができるのだ!
 これは思わぬ発見であった。

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西武秩父駅の左手にほんのちょっと両神山が覗いている


 今年の目標の一つは、武甲山と両神山、この二つの山に登ること。
 「呼ばれている」という実感があった。



● 六福神がやって来る! 漫画:『妖怪ハンター 水の巻』(諸星大二郎作画)

1991~1995年初出
2005年集英社文庫

 令和3年の大いなる収穫の一つは、諸星大二郎と出会ったことだ。
 「今まで縁がなかったけれど、試しに一冊読んでみるか」と手に取った『暗黒神話』でカミナリに打たれたような衝撃を食らい、その後、『自選短編集 彼方より』でギャグや怪談やSFや中国文学ありのテーマの幅広さと作画タッチの多彩ぶりに目を瞠り、安部公房風のシュールな『壁男』ですっかりファンの一人になってしまい、三鷹で開かれたデビュー50周年記念の個展にいそいそと足を運び、ついに満を持して、諸星の代表作&ライフワークたる『妖怪ハンター』に踏み込んだ。
 こうしてみると、ソルティもなかなかの凝り性。 

 古くからの諸星ファンにしてみれば、あまりに遅いデビューは「あんた、目がついている?」と小馬鹿にされそうであるが、これからまだまだ沢山の傑作・怪作・奇作・珍作との出会いが待っている宝の山が目の前にあることを思うと、「手をつけずに残しておいて良かった」と喜びもひとしおである。
 読書に漫画に音楽に映画に山歩き・・・・この5つの趣味があれば、それなりに楽しい老後を生きていけそうな気がする。(それにしても、みんな独りでできるものばかり)


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 『妖怪ハンター』第3弾は、「水の巻」という副題通り、海や淵を舞台とする怪談揃い。
 海と言えば、すべての生き物の母であり、すべてを包み込む(飲み込む)女の比喩である。
 おのずと、「女」が事件の鍵となるような母性的・官能的なストーリーが集まっている。
 女性ヌードやセックスシーンも多い。 
 発表媒体が少年誌でなく青年誌(『ウルトラジャンプ』他)であることが、そのような挑戦を可能にしたのであろう。

 諸星の描く「女」は、実に生々しく、毒々しく、美しい。
 寡聞にしてよく知らぬが、この世代(諸星は1949年生まれの団塊の世代)の男で、ここまで「女」を生々しく描く漫画家がいるだろうか?
 いや、他の世代を見渡しても、すぐには思い浮かばない。
 ジョージ秋山や小島功や上村一夫の描く色っぽい「おんな」や酸いも甘いも知った「おとな」の女性とは違う。
 もっと根源的な生理的なところで生々しく毒々しい。
 なんとなく、諸星大二郎は女性恐怖のところがある(あった)のではないか。

 収録作では、文字通り怪物的な母性愛がほとばしる『産女の来る夜』と、あまりにも不気味で罰当たりな『六福神』が面白かった。
 さすがに、この六福神には初夢に出てきてほしくない。

 良いお年を!

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令和3年の厄を連れていってください!


 


● 若者よ、体を鍛えておけ 映画:『日本の夜と霧』(大島渚監督)

1960年松竹
107分

 封切り4日で公開打ち切りという伝説の映画。
 制作元の松竹は客の不入りを理由としたが、『真説 日本左翼史』の佐藤優の言によれば、「あまりに政治性の強い内容に(松竹が)恐れをなした」云々。
 たしかに、おめでたいはずの結婚式の会場が参列者による口角泡飛ばす政治討論&暴露合戦の場となり、最後は警察(公安?)介入による修羅場と化していくという、現在ではちょっと考えられないようなシチュエーションである。
 「こんな時代があったんだ」「こんなに政治意識の高い若者たちがいたんだ」という驚きと、カットの少ない長回しの多用でナマの舞台のような緊張感を生みだしていく大島監督の手腕にあらためて感嘆した。
 ウィキによれば、カットの少なさは上からの制作中止の声を恐れた大島ができるだけ早く撮影を済ませるための苦肉の策だったとか。
 出演者がセリフをとちったり忘れたりしているのが、かえって臨場感を生んで、若さゆえのもどかしさや不器用さの表現みたいに見えるのが面白い。

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一人だけ優雅な空気をまとっている小山明子(大島渚夫人)
 
 実際に映画が「不入り」だったかどうかは知るところでないが、本作は時代背景(1950~60年)や当時の左翼運動(とくに共産党)の動向を知っていないと、まったくのチンプンカンプンであろう。
 現在の渋谷あたりで歩いている若者をつかまえてこの映画を見せたらどういう感想を持つか、興味深い。(おそらく上映開始10分で寝落ちするか、スマホいじりを始める)
 かくいうソルティも、もし『真説 日本左翼史』を事前に読んでいなかったら、まったく内容や面白さが理解できず、アラン・レネ監督『去年マリエンバードで』のような難解な前衛映画の一種?と勘違いしそうである。
 1950年のコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)による日本共産党の平和革命論批判、からの武装闘争路線への転換、からの1955年武装闘争路線の放棄、からの党の方針を批判し離脱した学生らによる新左翼の誕生、からの1960年日米安保改定騒動下の全学連デモ(樺美智子の死)・・・・・という一連の流れと、二転三転する党本部の方針に苛立ちや懐疑を募らせた若者たちの心境を理解してはじめて、本作の深みと面白さが十全に味わえる。
 当時の日本人(あるいは若者)の何割が、この映画を咀嚼できるアタマと見識を持っていたのだろう?
 その意味では、インテリ・ブルジョア映画と言えるかもしれない。

 保守右翼の看板的存在であった津川雅彦が、新左翼の尖った若者を演じているのが興趣深い。 
 池上彰の解説付きで上映会したら面白いだろうなあ。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 
 

● 本:『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』(ランサム・グリス著)

2011年原著刊行
2016年潮文庫

 アメリカ発のヤングアダルト・ファンタジー小説。

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 体の中に蜂を飼っている少年、空中浮遊する少女、透明人間、怪力娘、火を自在に操れる美少女、泥人形に命を吹き込むオタク少年、植物を成長させる少女・・・・等々、不思議な力を持つ奇妙なこどもたちが、時間を操ることができるミス・ペレグリンの見守りのもと、1940年9月3日を幾万回もループしながら生きている。
「これ、映画にしたら面白そうだな」と思いながら読んでいたのだが、2016年に映画化されていた。
 監督は、『ビートルジュース』『バットマン』『シザーハンズ』『チャーリーとチョコレート工場』などで知られるファンタジー映画の巨匠・ティム・バートン。
 これは観なくてはなるまい。

 小説としては、主人公の少年ヤコブの祖父が終生抱えていた秘密と数々の奇妙な写真の謎が解き明かされる途中までは良かったのだが、怪物との闘いがメインとなってくる後半が書き急いだように雑な感じで、最後はバタバタと余韻なく終わる。
 金持ちのボンボンであるヤコブの性格もあまり共感持てなかった。
 続編はおそらく、時の扉(過去に作られたループ)を探しながら、こどもたちが持ち前の特異能力を発揮して怪物と闘う――って展開になるのだろうが、読むかどうか迷うところ・・・・。
  



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● VAMOS!今年一番面白かった映画 :『ぐらんぶるGRAND BLUE』(英勉監督)

2020年日本
107分

 2021年はまだ終わっていないけれど、今年観た84本の映画のベスト10を上げるなら(順不同)

(清水宏監督、1941)
セックスチェック 第二の性(増村保造、1968)
寝ても覚めても(濱口竜介、2018)
クロッシング(キム・テギュン、2008)
パッチギ(井筒和幸、2005)
ボーダー 二つの世界(アリ・アッバシ、2015)
残菊物語(溝口健二、1939)
蜘蛛巣城(黒澤明、1957)※再鑑賞
さらば友よ(ジャン・エルマン、1968)※再鑑賞
ぐらんぶる(英勉、2020)

 単純に一番面白かったのは、この『ぐらんぶる』であった。

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左:滝丈星涼、右:犬飼貴丈

 原作は講談社『good!アフタヌーン』連載中の井上堅二作のギャグ漫画で、2018年にテレビアニメ化されたらしいが、ソルティはまったく知らなかった。
 若い男二人が水中ではしゃいでいるDVDのパッケージを見て、高校の水泳部か水球部かシンクロ部のインターハイに向けての奮闘を描いた青春スポ根ギャクタッチドラマかと思った。
 妻夫木聡主演『ウォ-ターボーイズ』(2001)や林遣都主演『DIVE』(2008)のような。
 
 美しい南の島での楽しいキャンパスライフを期待してやって来た青年・北原伊織(竜星涼)。
 叔父さんが経営するお洒落なショップ「GRAND BLUE」兼下宿先に到着したら、そこで出会ったのは夢に見た美少女。

 ――とここまでは『めぞん一刻』型の青年コミックお決まりの出だし。
 と、いきなり物語は異次元へワープする。
 伊織の衆人環視の全裸シーンが延々と続き、そこにもう一人の主役・今村耕平(犬飼貴丈)の全裸も加わり、いったいこのイケメンヌード2乗の「ウホッ!」感はなに??
 あっけにとられて見ていると、タイムスリップ物のSFドラマのような様相を帯びてくる。
 このドラマはいったい???
 ちなみに竜星涼は仮面ライダーシリーズの、犬飼貴丈はスーパー戦隊シリーズのヒーローを務めた人気沸騰中の俳優である。
 
 結局、叔父さんはスキューバダイビング店を経営しており、タイムスリップ(タイム・ストリップ?)と思ったのは、地元のダイビングチーム Peek a Boo(ピーカブー)所属の屈強な男たちの歓迎の儀式(=悪戯)と分かるのだが、この奇想天外な激しいプロローグにすっかり掴まれた。
 その後も、ボリウッド映画つまりインド映画のような「いきなりみんなで激しく踊り狂う」シーン(しかも裸の男どもがお立ち台に乗って!)が頻発したり、ふだん真面目な役の多い髙嶋政宏が紫のパンツ一つでとんでもない弾けっぷりを見せてくれたり、とにかくこちらの予想を超える奇抜なシーンの連続に度肝を抜かれた。
 むろん面白い原作あってのことだが、英勉監督のギャグセンスの素晴らしさは紛うことなし。

 本映画の最大の爆笑ポイントは、「VAMOS!」という謎の掛け声とともに始まる、郷ひろみ「GOLDFINGER '99」とオールブッラクスのハカ踊りを掛け合わせたようなダンス&ミュージックであるが、これは原作にはなく映画オリジナルの演出という。

 この映画及び高嶋政宏の怪演ぶりは、おそらくカルト映画として熱狂的なファンの間で語り続けられることであろう。
 畏れ入った。

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「ごちそうさま」


P.S. 1 VAMOS!とはスペイン語で「行くぞ!」の意。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● フェルマータ or 増えるまぁた? :ベートーヴェン第九演奏会(日本フィルハーモニー交響楽団)

日時 2021年12月22日(水)19時~
会場 東京芸術劇場(池袋)
曲目
  • J.S.バッハ : 甘き喜びのうちにBWV729
  • J.S.バッハ : カンタータ《神の時こそいと良き時》BWV106より第1曲「ソナティーナ」
  • J.S.バッハ : トッカータとフーガ ニ短調 BWV565
  • ベートーヴェン : 交響曲第9番《合唱》ニ短調
指揮 小林研一郎
合唱 東京音楽大学
ソリスト
 オルガン:石丸由佳
 ソプラノ:市原愛
 アルト:山下牧子
 テノール:錦織健
 バリトン:青戸知


 2年ぶりの《第九》。
 前回(2019年12月)はコロナの「コ」の字もなかった。
 骨折手術後の松葉杖姿で何とか会場まで辿りつけた「喜び」でいっぱいだった。

 今年はあちこちで《第九》演奏会が復活しているが、嵐の前の静けさならぬ、オミクロン爆発前のフェルマータ(休止)といった印象で、演奏する方も聴きに行く方もどこかおずおずと遠慮がちで、歳末の華やぎはまだまだ薄い。
 本日の合唱隊もみなマスクを着けたまま歌っていた。

フェルマータ【 fermata 】
〈休止〉〈停止〉を原義とする西洋音楽の用語。イタリア語では記号の形状からコロナcoronaともいう。大別して(1)正規の拍節が停止されて音符や休符が延長されること(延長記号)、(2)曲の区切りや終止、の二つの意味がある。(1)の意味では、音符や休符の上に置かれてその音価を任意に長くする。しかし、とくに長い休符に付される場合には、必ずしも延長を意味せず、適当な長さの休みを漠然と要求している。(平凡社『世界大百科事典 』第2版より抜粋)


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フェルマータまたはコロナマーク


 コバケンの《第九》と言えば「情熱」という形容詞が定番なのであるが、今回は第一楽章から予想に反していた。

 流麗で繊細で優しい!

 「こんな優しい第一楽章は聴いたことがない」と思っていたら、そのまま、第2楽章も第3楽章も、合唱付きの第4楽章も、流麗で繊細で優しい!
 情熱とか湧き上がる歓喜といった激しさは影をひそめ、ひたすら曲そのものが持つ美しさの展開に力点が置かれていたように感じた。

 コバケンから「情熱が消失した、手を抜いている」というのではない。
 これはむしろ枯淡の境地というやつではなかろうか。
 楽譜に対する圧倒的に繊細な読みはそのままに、夢見るようなメロディをその指の先から紡ぎ出していた。
 それはベタな言葉で言えば「癒し」。
 
 ここ最近の巷のニュース――東京の列車内で起きた傷害事件、大阪のクリニックの放火事件、神田沙也加の転落死、各地の地震や火山の噴火、もちろんオミクロン株の不気味な広がり――に触れて、なんだか不穏な気配を感じて気分が塞ぎがちになっているのは、ソルティだけではあるまい。
 自然の乱れに呼応するように、人心も乱れている。
 2年に亘ろうとする自粛とソーシャル・ディスタンスとマスク着用のおかげで、人と人との触れ合いが減って、町の風景からさりげない声がけやあたたかい笑顔が消えてしまった。
 そのことが、孤独や人間不信や絶望を深め、人々の生きる気力を萎えさせていく。

 たとえば、列車内や店内での見知らぬ人からの「ありがとう」とか「大丈夫ですか?」といったほんの一言、自分に向けられた店員や子供の笑顔、セクハラではないちょっとしたスキンシップ――そんなちょっとしたことが実はとても大事だったと気づかされたのが、このコロナ禍ではなかったろうか。
 ソルティも松葉杖を使っていたとき、そうした小さな心遣いにどれだけ助けられ、感謝したことか!
 
 いま社会に必要なのは「情熱」ではない。
 お互いへの小さな「優しさ」とそれを示す「勇気」だ。
 今回のコバケン×日フィルの《第九》はそんなことを伝えているように感じたし、客席もそのメッセージを十分受け取っていたように感じた。

 
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東京芸術劇場前のXmasイルミネーション








● 本:『真説 日本左翼史』(池上彰、佐藤優共著)

2021年講談社現代新書

 左翼の歴史について大まかなところを学びたいなあと思っていたら、恰好な本が出た。
 『宗教の現在地 資本主義、暴力、生命、国家』(角川新書)で相性の良さを証明した池上&佐藤の博学コンビによる戦後左派(1945-1960)についての対談である。

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 今回も、池上の見事な手綱さばきに身をまかせるかたちで、青春時代に日本社会党を支える日本社会主義青年同盟(社青同)に属し、その後外務官僚となってロシア外交の主任分析官として活躍した佐藤優が、広い見聞と鋭い分析をもとにトリビアな知識もたっぷり、日本左翼史を概観する。
 佐藤の話が脱線したり拡散しそうなところで池上が本流に戻し、そこまでに出てきた概念を整理し、前後の脈絡をつけて、一つの歴史に編み上げていく。
 テレビ現場で鍛えた池上の編集力はさすがというほかない。
 「説」ではなく「説」と銘打っているところに、二人の自信のほどが伺える。

 革マル派、中核派、新左翼、セクト、ブント、樺美智子、重信房子、よど号ハイジャック、浅沼稲次郎刺殺・・・・・。

 折に触れていろいろなところで見聞きしてきたこれらの単語が、いったいどういった意味を持つのか、どういう影響を日本社会にもたらしたのか、ソルティはよく知らなかったし、率直に言ってあまり興味もなかった。
 戦後の左翼運動に一つの決着をつけたと言われる1972年の連合赤軍あさま山荘事件の時はまだ物の道理も分からない子供であったし、大学に入学してキャンパスの片隅で拡声器を手に演説やビラ巻きをしている活動家を見たときは“時代遅れ感”しか覚えなかった。別の一角で勧誘活動していた原理研(統一教会の学生組織)との区別もつかなかった。
 ソルティは他の多くの同世代同様に、ノンポリだったのである。

 その後、1989年のベルリンの壁崩壊や東欧諸国の民主化、とどめに91年のソ連消滅があって、「社会主義は終わった」という実感を持った。
 多くの日本人がそうであったろう。

 といって、「資本主義の勝利」とか「資本主義こそ正しい」と単純に思ったわけではない。
 利益追求、弱肉強食の資本主義は、何の規制も倫理もなければ、格差の増大や環境破壊や弱者の人権蹂躙などのゆゆしき問題を生むのは目に見えている。
 対抗概念としての社会主義が終わった今、「世界はどうなってしまうんだろう?」という懸念を持った。
 そのあたりから(30歳前後)ソルティは左傾化し、市民活動や人権支援などの運動に関わり始めたのである。

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ベルリンの壁


 本対談を通じて、日本の近現代史を「左派の視点」から捉え直す作業をしようと思った理由として、佐藤は次のように語っている。

佐藤 まず一つ目の理由として、私は「左翼の時代」がまもなく到来し、その際には「左派から見た歴史観」が激動の時代を生き抜くための道標の役割を果たすはずだと考えているからです。

 格差や貧困といった社会矛盾の深刻化(とくにコロナ以降)、アメリカに典型的にみられる民主主義の機能不全、北朝鮮や中国との戦争の危機・・・・。
 こうした脅威に対処するには、「格差の是正、貧困の解消、反戦平和、戦力の保持」といった問題で議論を積み重ねてきた左翼の論点が重要となるというのである。

佐藤 第二の理由は、左翼というものを理解していないと、今の日本共産党の思想や動向を正しく解釈できず、彼らの思想に取り込まれる危険があるということです。

 そう、今や旧社会党の末裔たる社民党は風前の灯火、一度は政権を奪った民主党の衣鉢を受け継ぐ立憲民主党も前回の選挙では票が伸びず、党首交代の憂き目を見ている。
 左派野党では共産党だけが元気なようで、昨今では格差社会に憤る若者の支持も増えていると聞く。
 ソルティも実は前回の比例区では共産党に入れたのだが、別に共産党を支持しているわけでも社会主義や共産主義を信奉しているわけでもない。
 右傾化(とくに安倍元首相周辺)の重しが増えて天秤のバランスが悪くなるのを防ぐために、反対側の皿に重しを置いているのだ。(たぶん、今のソルティの政治的位置は、左翼席の一番右あたりだろう。本書によれば「右派左翼=社会民主主義者」か)
 ソ連崩壊後の、かつ今の中国の実態を目の前にしての、日本共産党の位置づけというのがソルティには正直良く分からない。 

 実を言えば、共産党と旧社会党の区別も関係性もよく分かっていなかった。
 共産党が一番左、その右隣が旧社会党となんとなく思っていたのだが――というのも社会主義は共産主義に至る前段階と学校で習っていたから――本書によればそう事は単純ではないらしく、共産党より社会党のほうが過激な時代もあったという。(新左翼と言われる革マル派や中核派は、共産党より社会党左派とシンパシー感じていたとか)
  
 本書の帯には「左翼の歴史は日本の近現代史そのものである」と書いてある。
 戦後の日本人が出発点において、「もう二度と戦争はごめんだ!」、「国家主義や全体主義はいやだ!」、「飢えはもうたくさんだ!」というところから始まったことを思えば、大衆の中で社会主義に期待する声が高まったのも十分うなづける。
 ソ連の失敗はまだ表沙汰になっていなかったし、現在の中国や北朝鮮のありさまなど想像できるわけなかったろうし・・・・。
 日本の近現代の政体は、左に触れていた針がだんだんと中心に戻って、中心を過ぎて右に傾いてきた――っていう感じだろうか。

 それにしても、平和と平等の理想社会を目指した社会主義者や共産主義者たちが、思想や手段の違いから内部分裂を繰り返し、互いを批判し、内ゲバに至るありさまを読んでいると、結局、男というものは「自分のほうが上だ」のマウンティング体質から抜けきれないのだなあ、と慨嘆せざるをえない。
 猿山の猿か。
 これには右も左も関係ない。
 思想や理念の前にジェンダーの問題だ。

 日本でほぼ死語になっている社会主義(socialism)という言葉が、ヨーロッパのみならず伝統的に社会主義に対する抵抗感の強い米国においても、最近、頻繁に用いられるようになっている。日本でも近未来に社会主義の価値が、肯定的文脈で見直されることになると思う。
 その際に重要なのは、歴史に学び、過去の過ちを繰り返さないように努力することだ。日本における社会主義の歴史を捉える場合、共産党、社会党、新左翼の全体に目配りをして、その功罪を明らかにすることが重要だと私は考えている。
(佐藤優による「おわりに」より)

 次の対談では、学園紛争、70年安保闘争、あさま山荘事件などが語られる予定。
 発行が楽しみ。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ノンポリ作家? 漫画:『妖怪ハンター 天の巻』(諸星大二郎作画)

1985~1993年初出
2005年集英社文庫

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 『妖怪ハンター 地の巻』に続いて購読。

 古事記や日本書紀、民話(瓜子姫、花咲爺)、怪談『番町皿屋敷』、童謡『通りゃんせ』に材を取ったストーリー性の濃い中編が収録されている。
 一方、ジャンボ旅客機の墜落事故(『花咲爺論序説』)やパナウェーヴ研究所を連想させる白衣の女性教祖率いるカルト集団(『天孫降臨』)など、時事ネタっぽいのを取り入れてリアリティと興趣を担保しているのはさすが。
 もっとも、1985年の日航機123便墜落事故はともかく、統一教会やオウム真理教やパナウェーヴ研究所がマスコミで騒がれたのは上記の作品発表よりあとのことである。
 諸星が時代の空気を鋭敏に嗅ぎつけている証拠であろう。
 
 その意味で、諸星作品に特徴的と思えるのは、時事的テーマを扱うことがあっても、またそうでなくても、作品を通じて社会問題を提起するとか倫理を問いただすというような気配がまったく見られない点である。
 上記の場合で言えば、大手の飛行機会社の杜撰な管理体制を暴くこともないし、カルト教団の危険性を読者に訴える意図も感じられない。
 時事ネタは単なる物語のきっかけとして周縁的に扱われるだけであって、そこから社会批判なり政治批判なり文明批判なりが引き出されることがない。
 
 これは、民俗学や歴史学の該博な知識をもとにオカルト漫画を描く、諸星大二郎の直系ともいえる後輩漫画家・永久保貴一の場合とくらべると分かりやすい。
 永久保作品では、民俗学や歴史などに材を取り、そこにオカルティックな味付けや霊能力や呪術などのサイコキネスを駆使できる人物を登場させ、勧善懲悪のエンターテインメントを創り上げる。
 しかもそればかりでなく、何かしらの社会問題性が余韻として残るものが多い。
 たとえば、反戦、環境問題、小児虐待、差別、政治の腐敗といったような・・・。
 もっともわかりやすい例は『カルラ舞う!』であろうか。
 物語を単なる勧善懲悪に終わらせない、悪役が単なる悪役のままで成敗されない、深みのようなものがある。
 人間社会の構造悪を描いている――とでも言おうか。
 
 それに比べると、諸星の徹底した非・社会問題性は不可解な気がするのだ。
 彼が1949年生まれの団塊の世代であることを考えると、なおさらに。
 団塊の世代でも、全共闘つまり学園紛争に関わったのは大学進学組の15%弱のエリートであったので、団塊の世代=政治意識が高いとするのは性急に過ぎるのだろうか。
 諸星は、高校卒業後進学せずに公務員になったというから、いわゆるノンポリだったのかもしれない。
 
 別に、作家はもっと社会問題に目を向けるべきとか、諸星作品より永久保作品のほうが上等だとか、そんなことを言うつもりはまったくないし、作家にはそれぞれの関心やスタイルがあるのが当然で「諸星は諸星で十分すぎるほど偉大」なのは間違いないのだが、不思議と言えば不思議・・・・・。

 収録品の中では『天神さま』が一番の傑作。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

 

● 北斎・広重・裕次郎 仙元山(189m、神奈川県葉山町)

 海の向こうに富士山を望む“北斎・広重な”景色が見たいと思い、はじめは房総半島を考えていたが、自宅からの日帰りはなかなか厳しい。
 横浜から京急を使って三浦半島を訪ねることにした。
 前夜の烈風と今年一番の朝の冷え込みに出発前は怖じていたが、日中は風はやさしく陽射しは暖かかく、絶好のハイキング日和であった。
 上も下も念を入れて厚着したせいで、30分も歩けばうっすらと汗をかいた。

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葉山教会下にあるマップ


登山日 2021年12月18日(土)
天気  晴れ(最低気温2.7度、最高気温8.9度)
行程
09:40 京浜急行・逗子葉山駅
    歩行開始
10:20 葉山教会
10:30 仙元山
    昼食休憩(60分stay)
12:20 189mピーク
13:15 葉山教会下
13:30 森戸海岸・森戸神社
15:40 逗子葉山駅
    歩行終了
所要時間 6時間(歩行4時間+休憩2時間)
最大標高差 180m


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京急・逗子葉山駅(北口)
目の前に逗子市役所がある

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亀岡八幡宮もある
土地の神に挨拶し登山の無事を祈る
これ、大事

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このあたりは土地の起伏が激しい
∴トンネルが多い
四国遍路を思い出すなあ~
 
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葉山教会下
ここからいきなりの急登(心臓破りの坂として知られる)

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葉山教会(プロテスタント)
歌に出てくるような丘の上の教会
建物左手から山道が始まる

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ひと登りで仙元山の頂上に
立派なビャクシン(イブキ)の威風があたりを払う
ちょっと早いがここで昼食
絶景をオカズに・・・

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葉山町、相模湾をはさみ伊豆半島と富士山を望む

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富士山の右手に七里ガ浜と江の島

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富士山の左手に続くは “伊豆のや~ま やァ~ま”

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海岸べりに森戸海岸、森戸神社の杜が見える

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俗に「ナポリを見て死ね」と言うが、この景色はナポリ以上
ナポリ湾とヴェスヴィオをこの目で見たソルティが保証する

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心臓破りの階段を上って本日のピーク(189m)

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ここからも富士山が見えた

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伊豆大島も見えた

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照葉樹の気持ち良い尾根を下る

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江の島の見える坂道を下る

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森戸海岸に到着

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ここが慎太郎・裕次郎が遊んだ『太陽の季節』や『狂った果実』の舞台

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葉山の御用邸はもう少し半島の先にある

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森戸神社
治承4年(1180年)源頼朝によって建てられた
祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)、 事代主命(ことしろぬしのみこと)

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別荘や分譲マンションが立ち並ぶセレブな海岸
砂浜には散歩する人、ジョギングする人、貸しボートに乗る人、
犬と遊ぶ人、寝っ転がって日光浴する人、ただ海を見る人

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トンビの姿と鳴き声が目立つ
ピ~ヒョロヒョロ
うららかだ

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駅へ戻る途中で見かけたクッキーの自販機

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JR逗子駅
立憲民主党が街頭演説をやっていた。
もらったビラに書いてあったのだが、米在住の男が最近逗子市に10億円を寄付した。
なんでも、若い時に逗子市から支援を受けて大学に行けたことに対するお礼だとか。
逗子市はそれで基金を作り、若者支援に使うらしい。
いい話だ。

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逗子葉山駅(南口)に戻る


 今回、休憩をはさみながら都合4時間歩いた。
 やはり、3時間を超えたあたりから骨折した左足のかかと周囲の筋に痛みが生じる。
 まだ歩き方に変な癖が残っているようだ。
 もっと足先を鍛えて筋力および柔軟性を身につけないと、秩父武甲山(1304m)にも両神山(1723m)にも登れないな。
 再度の四国遍路も難しいな(やるつもりか!)

 山と海と絶景の素晴らしいコースであった。


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駅構内のお蕎麦屋さんで天玉そばをいただく
(高知県土佐清水の宗谷節を使ったダシが美味) 


 































● 崖の上のなぎさ TVドラマ:『横溝正史シリーズ 女王蜂』(富本壮吉演出)

1978年毎日放送
各55分×3回

 京マチ子の演技が素晴らしかった『犬神家の一族』に続き、同じシリーズの『女王蜂』を40数年ぶりに再見。
 演出の富本壮吉は三島由紀夫原作の『獣の戯れ』(1964年)を撮っている。
 むろん、金田一耕助は古谷一行である。
 
 本作は推理ドラマとしては凡庸なのだが、伊豆沖の孤島に住む源頼朝の血を引く美しき令嬢・大道寺智子に魅せられた男たちが、女王蜂に群がる雄蜂のごとく無残に命を奪われていく。しかも、謎解明のカギは20年前に起きた智子の父親の死にあるらしい――という大時代にしてドラマチックな設定が読者や視聴者の興味を引く。
 2度の映画化、5度のTVドラマ化がその証拠である。
 
 ソルティの一番の関心は、女王蜂と名指されるほどの絶世のカリスマ美女・智子をどの若手女優が演じるか、そして智子の家庭教師で本ドラマの影の主役たる神尾秀子をどの芝居達者な女優が演じるか、という点に尽きる。
 これまでの7作のカップリング(智子―神尾)は以下のごとし。

 1952年映画  久慈あさみ―荒川さつき
 1978年映画  中井貴恵―岸惠子
 1978年テレビ 片平なぎさ―岡田茉莉子
 1990年テレビ 井森美幸―小川知子
 1994年テレビ 墨田ユキ―沢田亜矢子
 1998年テレビ 川越美和―池上季実子
 2006年テレビ 栗山千明―手塚里美
 
 個人的には、智子役のベストは栗山千明、神尾役のベストは岸恵子なのであるが、両者揃って及第点と思えるのは、この1978年テレビ版ということになる。(ただし、1952年版は観ていないし、女優のことも知らない) 
 当時デビュー間もない19歳の片平なぎさのはち切れんばかりの若さと匂い立つような美しさは眼福もの。
 子どもの頃リアルタイムで見た時は、「絶世の美女ってほどじゃないじゃん」と辛らつな見方をしていたが、40年以上経た今見ると、「これなら周囲の男たちが浮足立つのも無理ないなあ」と素直に思える。
 つまり、片平なぎさはデビュー当初、年下や同年代の男の子向けのアイドルとして売り出したけれど、それは戦略ミスであって(思ったほど売れなかった)、実際のところは川島なお美同様の中年キラー、オジサマ受けするタレントだったのである。
 だから、後年になって中高年視聴者が多い2時間ドラマの女王足りえたわけである。
 19の彼女を「ぬあんて可愛いんだ!」と思うソルティもすっかりオジサマになった。

 2時間ドラマ絡みで言えば、本作の冒頭とラストシーンの舞台は、海に浮かぶ月琴島の断崖絶壁の上である。
 なぎさの崖ストーリーはここから始まっていた。

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左から、片平なぎさ、長門勇、古谷一行

 子供の頃は玩味するすべを持たなかった大人の役者の魅力も、40年経た今ようやく味わえるようになって、脇をつとめるベテランの上手さというのに新鮮な驚きを覚えた。
 日和警部役の長門勇と山下巡査役の三谷昇のコミカルな味、岡田茉莉子のグレタ・ガルボばりの目の演技、新劇で鍛えた南美江の安定感と発声の見事さ、時代劇などの悪役(「おぬしも悪よなあ~」)でならした川合伸旺の凄み、神山繁のダンディな渋さ・・・・・昭和の俳優ってやっぱり素晴らしい。

 だいたいテレビドラマの最盛期は70~80年代にあると思うのだが、当時、各映画会社の撮影所で育てられドラマづくりのノウハウを一から学んだ役者や演出家やスタッフらが映画業界の斜陽と共にテレビ業界に入り込んで、一線で活躍していた。
 映画と比べてテレビは馬鹿にされていたけれど、それでも令和の現在のテレビドラマと比べたら、役者の演技も演出も美術も撮影も音楽も、質の差は歴然。
 本作に横溢する70年代日本の空気が妙に懐かしいのは、ソルティの懐古趣味ばかりでなく、失われたアートに対する哀惜なのだ。

 それにつけても、予告された殺人を阻止するために大道寺家にやって来た金田一耕助の目の前で、5人の男が殺され、1人が自害し、当人も頭を殴られ大事な鍵を盗まれるという体たらく。
 今さらではあるが、名探偵ではないよな・・・・。

 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● 消えかけた初恋 映画:『マティアス&マキシム』(グザヴィエ・ドラン監督)

2019年カナダ
120分、フランス語

 『Mommy/マミー』のグザヴィエ・ドラン脚本・監督・主演によるLGBT映画。
 仲の良い幼馴染のマティアスとマキシム。二人が、知り合いの制作する映画に出演するはめになって芝居でキスを交わしたことから互いを意識するようになり、困惑・葛藤・苦悩する様子を描く。

 マキシムを演じるドラン監督の芝居の上手さに驚いた。
 それもそのはず、ドランの父親も俳優で、ドラン自身子役として活動してきたという。
 『Mommy/マミー』でADHDの息子を持つ母親を演じたアンヌ・ドルヴァルが、今度はマキシムの母親で後見人を必要とする生活破綻者に扮している。
 これも見事な演技で恐れ入った。
 
 昨今、BL(ボーイズラブ)系の映画やTVドラマは日本でも珍しくなくなった(現在テレビ朝日で放映中の『消えた初恋』ではなんとジャニーズアイドル2人がカップリングしている)。
 観ていていささか鼻白むのは、主役の男たちが揃いも揃ってイケメンであるってことだ。
 それは男女の恋愛ドラマでも同じで、昔から主役は「愛されて当然」と思えるような美男美女と相場が決まっている。
 視聴者(主に女性)に夢を与えるフィクションの世界だから仕方ないと分かっているのだが、男の視点からすると「少女マンガじゃあるまいし・・・」と思ってしまうのもまた仕方ないところであろう。(『消えた初恋』はもろ少女マンガが原作らしい)

 一般に、ノンケ(ヘテロセクシュアル)の男たちはLGBTドラマはもちろん恋愛ドラマに関心を持たないから、そこは“女子の道楽”ってことで放っておけるのだろうが、恋愛体質の強いゲイの当事者からしてみれば、「自分たちが主役であるべきBLドラマが腐女子に乗っ取られている」みたいな疎外感に近い感覚を持たされがちである。(ソルティだけか?)
 腐女子を熱狂させるBLドラマと当事者が作るLGBTドラマは似て非なるもの、と考えるべきだろう。
 
 その意味で、本作はまさに当事者(ドラン監督はゲイ)の作るLGBTドラマであり、主役の二人は決して美男ではない。
 その象徴がマキシムの顔の痣である。
 普通なら、その痣は恋愛ドラマの主役たりえない瑕疵となるであろう。
 が、話が進むにつれて、「あばたもエクボ」で魅力的に見えてくる。
 それは観る者が、些細なきっかけからマキシムを恋するようになってしまったマティアスに感情移入し、マティアスの視点や気持ちからマキシムを見るようになるからである。
 
 人は、相手が「美しいから、カッコイイから」恋するのではない。
 恋した相手だから「美しいし、カッコイイ」。
 そんな原点をキュンキュン思い出させてくれた一本であった。
 
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おすすめ度 :★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 「日本沈没」後の移住先に関する一考察

 このあいだの日曜日はTBSドラマ『日本沈没―希望のひと―』の最終回だった。
 ちょうど小松左京の原作を読んだばかりだったので、「これも何かのお導き?」と思い、まことに珍しいことに、テレビドラマをリアルタイムで初回から最後回まで観倒した。
 もっともリアルタイムとは言え、録画しておいたものを数日後にCMを飛ばしながら観たのではあるが。

 ドラマと しての出来栄えや、原作あるいは過去2度の映画化作品との違いなんてことは、取り立ててここで論じる気はない。
 個人的にはベテラン役者たちの演技が一番の見どころだったと思う。
 主役の天海啓示を演じた小栗旬や新聞記者役の杏もなかなかの力演だったが、副総理役の石橋蓮司、田所博士役の香川照之、啓示の母親役の風吹ジュンが、味のある芝居でそれぞれに魅力あるキャラを創り上げていた。
 大映ドラマ『スチュワーデス物語』で一世を風靡した往年の二枚目・風間杜夫のいや増した渋さにも目を見張った。

 ドラマの最後のほうでは、沈没する日本から脱出し生き延びるために、1億2千万の国民が海外に移民する。
 ドラマでは移住にあたっての申請単位として、「個人枠、家族枠、5人までのグループ」の3通りがあり、それぞれ移住したい国を第1希望から第5希望まで上げることができる、という設定であった。(のちに「100人までの地域単位」で申請というのが加わった)
 つまり、「一人で行くか、家族と行くか、仲の良い友人や知人と行くか、町ぐるみで行くか」という選択と、「どこの国に行きたいか」という選択が、国民一人一人に課せられたのである。
 希望の多い国はコンピュータによる抽選となった。

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 今回ドラマを観ながらソルティが一番考えふけったのは、自分なら「誰と、どの国に」行くことを選ぶだろうか?――ということであった。
 とくに「どの国を移住先として選ぶか」というのは難しい問題と感じた。

 国と国との関係性や治安という点で比較的“安全牌”と言えるのは(希望殺到しそうなのは)、アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・スイス・イギリス・フランス・ドイツあたりだろうか。
 高福祉や女性の権利を望む人ならば、北欧(フィンランド・ノルウェー・デンマーク・スウェーデン)あたりになろう。寒さを覚悟しなければならないが。
 親日という観点では、トルコ・台湾・タイ・シンガポール・モンゴル・パラオは居心地いいかもしれない。(ただし台湾は中国とみなすべきだろう)
 共産党員など社会主義者は、きっと自ら進んで、中国とかキューバとかベトナムとか北朝鮮などの社会主義国に行ってくれるのであろう。

 他人のことはともかく、ソルティが考えた末の今のところの希望は以下のごとし。
  1.  ブータン・・・・・GNPよりGNH(Gross National Happiness 国民総幸福量)で有名な国。一仏教徒としても死ぬまでに一度は行ってみたい。
  2. 北欧(フィンランド、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン)・・・・・高福祉(税金や物価は高い)、自然環境が良い、LGBTが住みやすい、寒いのが難点
  3. 南太平洋の島国(ニュージーランド、フィジー、トンガ、パラオなど)・・・・・気候がいい、魚や果実が豊富で食べ物に困らなさそう、住民も陽気でのんびり
  4. テラワーダ仏教の国(タイ、スリランカ、カンボジア)・・・・・仏道修行には最適。が、どこも治安がネック。ミャンマーは現在問題外。ラオスについては良く分からない。
  5. どこにも行かない・・・・・沈みゆく日本と運命を共にする。つまり殉死。上記ドラマでも数十万の日本人は最後の最後まで移住を拒否していた。もちろん、ネトウヨ含む国粋主義の皆さまは含まれているのであろう。
 これって結局、「どの国の国民が一番幸福なのか、幸福を感じているのか」あるいは「自分は人生において何を優先するのか」って話になってくるって気づく。
 ちなみに、米調査会社ギャラップのデータを元に編まれた国連の「世界幸福度報告書2021年版」によれば、幸福度ランキングは次の通り――。

1位:フィンランド
2位:デンマーク
3位:スイス
4位:アイスランド
5位:オランダ
6位:ノルウェー
7位:スウェーデン
8位:ルクセンブルク
9位:ニュージーランド
10位:オーストリア
11位:イスラエル
12位:オーストラリア
13位:アイルランド
14位:アメリカ
15位:カナダ
16位:チェコ共和国
17位:ベルギー
18位:イギリス
19位:台湾
20位:フランス

 日本は56位だった。
 評価の判定基準となったのは、その国に住む人が「どのくらい自分自身の生活に満足しているか」だという。
 日本人はもっと自分たちがいかに恵まれているかを自覚してもいいと思う・・・。







● 本:『共同研究 団塊の世代とは何か』(御厨貴ほか著)

2008年講談社

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 14人の有識者による多角的視点からの団塊の世代論。
 14人の構成は、社会学者、経済学者、政治学者、作家、新聞社コラムニスト、トヨタの会長、イベントプロデューサー、元官僚等々で、年齢は30~60代、うち6人が団塊の世代当事者(1947~1950年生まれ)である。
 これら多彩な論者によって、団塊の世代の特徴や歴史的位置づけ、政治・経済・文化における志向や影響、定年後の方向性などが語られる。
 御厨(みくりや)の前書きによると、本書のもとになったのは財務省が各方面の有識者を集めて開催した団塊の世代をテーマとする勉強会だという。
 そこでの毎回の議論の盛り上がりが、本という形に結実したのである。

 団塊の世代について語ると良くも悪くも盛り上がる。
 そこにまず、この世代の特徴があるのだろう。
 つまり、日本で世代論が成り立つほとんど最後の世代なのではなかろうか。
 それは600万とも700万とも言われる突出した世代人口の多さによるばかりでなく、一つの世代がある程度共通した価値観や生活様式を保ちながら生きてこられた最後の世代、という意味において。
 団塊の世代以降の世代、たとえばソルティが属する新人類世代(1960年代生まれ)ともなれば、価値観の多様化(つまりオタク化)や個人主義(連帯を嫌う心性)はもう明らかで、共通基盤はもろく、世代を統合し得る神(シンボル)もない。
 わかりやすい話、70年代までのNHK紅白歌合戦であれば、お茶の間でテレビを観ている一家は、出場歌手の顔と名前、その持ち歌をあらかた知っていた。
 80年代以降は知っての通り、「どういう基準で選んでいるのかわからない」というラインナップが定着した。日本人の音楽嗜好は多様化し、お茶の間も消失した。
 職業に関しても、年功序列×護送船団方式で一つの職場に生涯居続けるのを当たり前とする感覚は、団塊の世代が最後であろう。
 新人類世代以降は、「最初に就職した職場に生涯居続けられるなんてラッキーだ(あるいは奇特な人)」くらいの感覚であろう。
 ある時期に生まれた一つの世代を、共通のキーワードや概念でくくるのが難しくなったのである。

 また、本書の書き手の顔触れを見てすぐに気づくのは、14人のうち女性がたった1名(残間里江子)しかいないという点である。
 ここにもまた団塊の世代の特徴、というか限界が透けて見える。
 つまり、男尊女卑の日本社会から数々の恩恵を受け、そこから抜けきれなかった最後の男たちの世代ということである。
 もちろん、新人類世代以降だって男尊女卑の男たちはたくさんいる。
 が、雇用機会均等法(1986年)や男女共同参画社会基本法(1999年)の施行、あるいはフェミニズムの興隆やジェンダーフリー教育の登場、セクハラやパワハラに対する社会的制裁などがあって、「女性差別にご用心!」ってことは、多かれ少なかれ新人類以降の世代の男たちには意識づけられている。
 公平であるべき行政の主宰する会合のメンバーが男ばかりという状況に、「これ、大丈夫かな?」と思うくらいの意識はある(と思う)。
 「団塊の世代とは何か」を議論する会合に、世代の半数を占める女性の声を伝える代表者がたった1名っていうのは、どう考えてもいびつだろう。

 以下、興味深く思った発言を引用する。

 要するに、団塊の世代というのは、戦争を経験した若い人たちの子供であるということです。命がけで、ある価値観を共有させられていた父親世代が、ちょうどエディプス・コンプレックスの対象として、対立的な世代として上に乗っかっている、それが団塊の世代だ、と言うことができるでしょう。
(作家・平野啓一郎の発言)

 では、なぜ団塊の世代に民主党支持や無党派が多いのか。
 理由をいろいろ考えるとすれば、先ほど述べたような学生時代までの精神形成期に得た経験や感覚――その後、挫折したり体制順応の中でしまい込んできたようなもの――が、どこかに生き続けているということではないでしょうか。
 つまり、学生時代に体制変革を求めた気持ちからして、自民党は支持したくないという気持ちがいまも強いのですが、さりとてもはや現実を知らぬ訳ではないし、野党にも裏切られてきたから、おいそれと野党も支持できない。簡単に言えば、そんなところでしょうか。
(朝日新聞社コラムニスト・若宮啓文の発言)

 団塊の世代の特徴
1 ホームルーム民主主義(多数決信奉)
2 楽観的である
3 人口圧力の恐怖にさらされてきた(老化人口圧力へと続いている)
4 「世界復帰」への渇望をもつ(国連信奉)
5 教養主義(本が好き、説教が好き)
6 なにかと回想したがる
(作家・関川夏央の発言)

 団塊の世代の家族の特徴を一言で言うならば、前の世代に比べると「豊かでない家族の中で育ち、豊かな家族生活にあこがれ、それを作りだしたが、子へのバトンタッチに失敗した世代」だと言うことができると思います。
(中央大学教授・山田昌弘の発言)

 恋愛に関する統計を見てわかることは、団塊の世代は「鏡を見なければ、今も青春」と思っているようだということです。つまり、いまもバリバリ現役だと思っているということです。

 なぜ母親(ソルティ注:団塊の女性たち)が(娘の)結婚に対して否定的なのかと言えば、自分は結婚したくない、あるいはもっと何かやりたかったのに世の中が結婚という道筋しか作ってくれなかったという怨念があるからです。自分の結婚と出産・育児に対して誇りを持っている人、すばらしいことだと自信を持っている人が、団塊の女たちには非常に少ない。多くの人が、仕方なく結婚し、子供を持ったのだと思います。

 団塊の世代は、まだ見ぬ自分に対する投資と、健康に対する投資は惜しまない、ということです。
 とにかく子供の世話にはなりたくない、と思っています。まあ、本当はなりたいようですが、なりたくないと言ってしまった以上はポックリ死にたいという願望を持っている。そのため、心身ともに現役でいるために、健康コストはそうとう費やします。ジムにも行くし、健康のためなら死んでもよいという人たちがいるくらいです。
(イベントプロデューサー・残間里江子の発言)

 最後に、団塊の世代の政治家を上げる。

 菅義偉、甘利明、舛添要一、川崎二郎、鳩山由紀夫、鈴木宗男、西村眞悟、中村喜四郎・・・

 う~ん、微妙・・・・



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ぱらいそさ いくだ! 漫画:『妖怪ハンター 地の巻』(諸星大二郎作画)

初出1974~1993年
2005年集英社文庫

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 超ド級の傑作ぞろい。
 「プロローグ」をのぞいて9編が収録されているが、いずれも作者の創造した独特の世界に引きずり込まれ、読後もなかなか日常への生還が難しい。
 しばらくはその世界への旅を反芻することになる。
 一日一篇か二篇読むのが限度。
 というか、あまりに凄いので、サーっと読むのがもったいない。
 
 その世界を構築しているのは、諸星の該博なる考古学的・民俗学的知識と奇想天外なる発想、そして画力である。
 この三つの連合が、諸星を他の追随を許さない唯一無二の漫画家たらしめている。

 とりわけ、漫画家という観点から言えば、画力がはんぱない。
 絵が巧いとか下手とかいうレベルを飛び越えたところにある魅力。
 諸星よりデッサン力がある者、写実の巧みな者、遠近法など絵画技法に長けた者、構図の秀でた者、ペンの使い方の達者な者、余白の使い方の上手い者は、ほかにたくさんいることだろう。
 彼の絵の凄さは、クライマックスをつくるここ一点のコマの圧倒的迫力と日常破壊力にあると思う。

 本シリーズの主人公でありながら金田一耕助のような「事件の傍観者」に過ぎない考古学者・稗田礼二郎が、日常の中でたんたんと探り続けてきた奇妙な謎が、解明に向かって次第に緊張を高めていき、クライマックスの一点において、ついに謎が暴かれると同時に日常から非日常へと飛躍する。
 そのポイントとなる一コマ(数コマ)の持つ衝撃が、読者である我々を完全にノックアウトし、我々もまた非日常空間へと連れ去られるのである。
 
 たとえば本コミックで言えば、『生命の木』ではあちこちで引用されるほど有名になった「おらといっしょにぱらいそさいくだ!!」からの数コマ、『海竜祭の夜』では平家伝説のある孤島に伝わる奇妙な祭の謎が暴かれる海竜登場の見開きページ、『闇の客人(まろうど)』では鬼面をかぶった踊り手に曳かれて大鳥居を抜けて“あの世”に去っていく禍つ神の後ろ姿(『帰ってきたウルトラマン』の津波怪獣シーゴラスを思い出した)。

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 これらのコマの持つ破壊力の秘密は、悪夢のような超現実的感覚を読者に与えるところにある。
 つまり、日常生活で隠蔽されている読者の無意識に訴えるのだ。
 その意味で、シュールリアリズム系の画家であるジョルジョ・デ・キリコやサルバトーレ・ダリに近いものがある。
 諸星の作品を読んで、「怖いけれどなんだか懐かしい」という奇妙な感じに襲われるのは、考古学や民俗学が下敷きになっているからばかりではなく、ユング的な深層心理への接触があるからではなかろうか。
 それを視覚的に表現できる才能こそ、唯一無二なのである。
 
 

おすすめ度 :★★★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

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