ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『日航123便墜落 疑惑のはじまり 天空の星たちへ』(青山透子著)

2010年マガジンランド刊行
2018年河出書房新社
2021年文庫化

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 森永卓郎著『書いてはいけない』で薦められていた本。
 著者の青山は1985年8月12日夜の123便墜落事故時、日本航空(JAL)のスチュワーデスだった。
 後に転職し、企業・官公庁・大学等の人材育成プログラムの開発及び講師として働き、現在は「日航123便墜落の真相を明らかにする会」の事務局を務めている。
 スチュワーデスという呼称は現在は使われていない。客室乗務員あるいはフライトアテンダントと言う。
 堀ちえみ主演『スチュワーデス物語』は遠い昔だ。

 青山は今やJAL123便事故に関する真相究明派の旗頭的存在となっていて、本書を含み7冊の関連本を出している。
 本書は「疑惑のはじまり」というタイトル通り、その出発点となった第一作であり、ノンフィクション作家青山透子の誕生を告げた記念すべき書である。
 ちなみに青山透子はペンネームである。

 本書は3部構成である。

 第1部は、青山が一人前のスチュワーデスになるまでの若き日々を振りかえった回想録。
 厳しい訓練や失敗の数々、仲間や先輩との友情や助け合い、次第にプロ意識を身につけていく様子など、まさに『スチュワーデス物語』そのものの面白さ。
 もっとも、風間杜夫のようなイケメン教官との色恋や片平なぎさのような珍キャラは出てこないが。
 航空業界の専門用語や慣習についての要領のよい説明や、初フライト時の感動的な逸話など、文才が感じられる。
 JAL社員としての誇りと喜び、乗客の命を預かるプロとしての使命感をもって、青山が充実感のうちに働いていたことが伝わってくる。
 それだけに、1985年8月12日の出来事はたいへんな衝撃だった。

 第2部は、あの日のこと。 
 会社の女子寮でスチュワーデス仲間とともにニュースを耳にしたときの様子が、情景が浮かぶような臨場感をもって描かれている。
 我々外部の人間は、墜落事故の被害の凄まじさ、愛する者を突然失った遺族の姿、修理ミスという人為的原因などに感情を動かされ、加害者としてJALを非難し怒りをぶつけたものだけれど、辛く悲しいのはJALの社員も同じだったのである。
 苦楽を分かち合った同僚を失い、世間から後ろ指を指され、JALの社会的信用とプロフェッショナルとしての矜持を叩きつぶされ、それでも休まず飛行機を飛ばし続けなければならない。
 事故で亡くなったスチュワーデスやパイロットの遺族たちは、被害者でありながら、一方で加害者としてもみなされ、悲しみをあらわにすることすらままならなかった。
 遺族の世話を担当した社員の中には、その後自殺した者や過労で亡くなった者もいたという。

 いま思うに、JALの幹部が現場に足を運び遺族に謝罪するのは当然だが、遺族の世話は一般社員にさせるべきではなかった。
 一般社員は墜落原因とは何の関係もなかったのだし、心のケアは専門職に任せるほうが適切だ。
 過失致死を犯した人間の家族に、被害者遺族の世話をさせるようなものなのだから。
 一般社員に必要以上の罪悪感を抱かせ、遺族の怒りをぶつけるサンドバッグにし、過酷な肉体的労働や心労を与え、新たな犠牲者を生み出した。
 会社のために尽くす“会社人間”が称賛される昭和時代の大きなあやまちであった。
 もっとも、懸命に世話にあたったJAL社員と遺族の間に生まれた、事故後も長く続く交流を否定するものではない。 

 死亡者名簿の中に新人のとき世話になった先輩スチュワーデス数名の名前を見つけた青山は、衝撃を受け、悲しみに暮れた。 
 後日、深い追悼の思いと共に、事故について新聞記事を調べていくうち、様々な疑問が湧き上がる。
 それはスチュワーデスとして専門教育を受け、空の上の現場で何百時間も働いてきた者だからこそ抱き得る当然の疑問であった。

がくあじさい

 第3部は日航退職後、2000年代に入ってからの話である。
 教育の仕事に転じた青山は、航空会社への就職を希望する学生たち相手に講義する機会を持った。
 ある時、1985年当時はまだ物心つくかつかない年齢だった生徒たちに、JAL123便墜落事故について調べてクラスの前で発表するという課題を与えた。
 生徒たちははじめて知る事故の詳細に衝撃を受けるとともに、当事者の一人であった青山の影響を受けることなしに、新鮮な第三者の目で事故に関する記事を読み、知り合いの年配者にインタビューし、レポートにまとめた。
 彼らの発表はまさに疑問のオンパレードだった。
 そこには青山も気づかなかったような、思いつかなかったような事柄もあった。
 たとえば、事故当時の中曽根康弘首相の動向など、ソルティもまた本書を読んではじめて知った。
 事故のあった8月12日は夏休み中で軽井沢滞在。翌13日上京し、池袋サンシャイン開催の輸入品バザールに足を運び、15日は戦後初の靖国神社公式参拝を終えたあと二泊三日の人間ドック入り。17日軽井沢に戻って家族と過ごし、知人の別荘のプールで水泳に散歩。
 事故現場はおろか、遺族が参集していた軽井沢からほど近い群馬県藤岡の検視会場にも足を運んでいない。
 令和の今ならネットが爆発するようなふざけたものである。
 当時の日航は民間会社ではなかった。政府主導の半官半民の組織で、皇室や国会議員御用達のいわゆるナショナル・フラッグ・キャリアだった。

 事故直後に抱いた青山の数々の疑問は、次第に疑惑となって固まっていく。
 偶然が重なって、映画『沈まぬ太陽』にエキストラとして参加することになった2009年、ついに事故現場である御巣鷹の尾根をはじめて訪れることになる。
 現地では、当時群馬県警高崎署の刑事官で遺体の身元確認班の責任者だった飯塚訓氏(『墜落遺体』の著者)、上野村の村長だった黒澤丈夫氏に話を聞き、さらには飯塚氏とともに検視に携わった歯科医師の大國勉氏、地元消防団員で生存者を発見した黒澤武士氏から、現場を案内してもらう機会を得た。
 黒澤武士氏は言う。

「最初はねえ、生存者はいないだろうってことで来たからね、今思えば、担架を持ってきて、ヘリで空から落としたってよかったのにねえ、そういうことが全然出来ていなかった。だから吉崎さんの奥さんも、けっこう周りにいた人たちと話をしたって言ってたもんね。もっと救助が早ければ・・・・今24年経ってみて、落ち度があったっていえばそういう点が欠けていたよね」

 吉崎さんの奥さんとは、4人の生存者の一人で当時35歳だった吉崎博子氏のことである。
 青山は事故現場に立ち並ぶ犠牲者の名前の書かれた墓標をひとつひとつ拝み、そこにスチュワーデス時代にお世話になった先輩たちの名前を見つける。
 初フライトの時に助けてくれた前山先輩の墓標と出会うシーンには思わず背筋がぞわっとした。

 確かに言えることが二つある。

 一つは、青山透子はまったく陰謀論者などではない。
 公になっている記事や証言を粘り強く調べ、論理的科学的な思考によって物事の道理が判断できる、頭のいい人である。
 亡くなった同僚や乗客に対する深い哀悼の気持ち、当時のJAL経営陣や一部政治家に対する不信の念や怒りは当然あろうが、決して感情に引きずられて妄想をふくらませることをしていない。
 本物のジャーナリストがここにいる。

 いま一つは、やはりJAL123便墜落事故には不可解なことが多すぎる。
 機体が墜落してから墜落現場が特定されるまで9時間以上かかったこと。
 舵を失った飛行機が横田基地に緊急着陸せず、わざわざ長野県方面に方向転換したこと。
 遺族の要求に応じず、いまだにボイスレコーダーとフライトレコーダーの開示を拒んでいること。
 隠したい何かがあると疑わざるを得ない。

悪魔と議事堂





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 鶴は忘れない 映画:『沈まぬ太陽』(若松節朗監督)

2009年角川
202分

沈まぬ太陽

 原作は山崎豊子の同名小説
 1985年8月12日に起きた日本航空(JAL)123便墜落事故をモデルとしている。
 
 いろいろな意味で映画化困難と思われたものを、よく実現させ、このレベルまで仕上げたなあというのが率直な感想。
 角川映画と若松監督の執念を感じる。 
 未曽有の飛行機事故の悲劇、会社組織に振り回される一サラリーマンの悲哀と矜持、欲と利権まみれの腐敗した経営陣や官僚や政治家。
 山崎が文庫5冊分かけて描き切った幅広いテーマを、いずれも大きく損なうことなく、バランスよくまとめあげた脚本(西岡琢也)も見事である。
 原作とは違って、冒頭に123便の墜落シーンを持ってきている。
 そこでぐっと映画に没入した。
 最後の瞬間に乗客らが機上で書いた家族へのメッセージは、涙なしで聴けない。
 制作にあたって若松監督は、日本航空側の弁護団から二度ほど、「名誉棄損の恐れや遺族の感情を無視した商業主義的行為」として警告を受けたという。
 「どの口が言う」という慣用句の使用例として、これ以上ピッタリなものはなかろう。

  一番の見どころはやはり役者の演技。
 まず、主役・恩地元を演じる渡辺謙が素晴らしい。
 200分超える長尺を最後まで支えきれる堂々たる風格と重厚な演技。
 共演者と息を合わせるのも上手い。
 国際級のスターであるのも頷ける。
 
 渡辺と対立するライバル社員・行天四郎役の三浦友和。
 立身出世しか頭にない非人情な憎まれ役を、繊細なタッチで演じている。
 三浦の場合、ルックスの良さでかえって損している気がする。
 悪役をやってもなんだかカッコイイのである。
 この行天という男は、さしずめ『白い巨塔』の財前五郎に相当すると思うが、このような冷徹な人間になった背景が描かれていない。(原作ではどうだったか覚えていない)
 そこが少し匂わされると、人物像に深みが出るのだが・・・。

 心の底では恩地を敬愛しながらも、行天の悪巧みに協力していく八木を演じる香川昭之も上手い。
 組合の若き闘士から卑小な裏切り者に転じるこの役、おそらくもっとも演じるに難しい。
 そこにリアリティを与える香川の実力は、やっぱり血筋を思わせるに十分だ。
 
 墜落事故で娘夫婦と孫を亡くした遺族に扮するは宇津井健。
 都会のインテリ的なイメージが強いので、大阪弁を話す好々爺の姿は最初のうち違和感があった。
 が、やはりベテラン役者。
 老いたる自身をありのままに曝け出して、愛する家族を失い絶望しやつれ果てた遺族の悲哀を滲ませている。
 作品に品格をもたらす役者である。

 品格と言えば、石坂浩二。
 墜落事故後、世間から非難の矢を浴び経営的にも行き詰った国民航空を立て直すため、総理じきじきの指名を受けて会長を引き受けた敏腕経営者・国見正之に扮する。
 つくづく、石坂は役に恵まれた人と思う。
 金田一耕助、大河ドラマの上杉謙信・柳沢吉保・源頼朝、『細雪』の貞之介、水戸黄門・・・・。
 いい役ばかり回されるのは、持って生まれた何かがあるのだろう。
 汚れ役や悪役に挑戦できないのは、役者としては忸怩たるものがあるのかもしれないが。

 ほか、総理大臣役の加藤剛の“老いてなお”の二枚目ぶり、恩地の妻役の鈴木京香の上品な色気、国航商事会長役の西村雅彦の絵にかいたような業突く張りが印象に残った。

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Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

 本作では山崎豊子の原作どおり、国民航空の墜落原因を修理ミスによる機体後部の圧力隔壁の損壊としている。
 それはそのまま、モデルとなった日本航空(JAL)123便の墜落原因として公式発表されたものであった。
 山崎の小説は、組織の上層部の腐敗と組織内の風通しの悪さが、このような現場のミスを引き起こす要因になったことを示唆していた。
 しかるに、森永卓郎著『書いてはいけない』によれば、JAL123便の墜落原因は機体の不備によるものではなく、まったくの外的要因の可能性が高いと示唆されている。
 すなわち、外部から発射された何かが、123便の尾翼を直撃し破壊したというシナリオである。
 もし、それが真実であれば、123便墜落事故のすべてが引っくり返り、JALの責任は圧倒的に軽くなる。
 いや、JALもまた被害者ということになる。

 山崎豊子の原作はフィクションと謳われており、登場する人物や団体は架空の物とされているので、たとえJAL123便の墜落原因が現在我々が公式見解として受け止めているものと違ったところで、作品としての価値はいささかも失われるものではない。
 この映画の価値も同様に。

 39年前の御巣鷹山の墜落現場の火はいまだに燻っている。
 520名の犠牲者がいまだ成仏できていないとしたら、あまりにむごい。

花札の鶴




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 大瀬慕情 本:『万延元年のフットボール』(大江健三郎著)

1967年講談社
1988年講談社文芸文庫

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 大江健三郎の代表作である本作を読んでなかった。
 大学生の頃この作家にかぶれ、芥川賞を受賞した『飼育』はじめ『死者の奢り』、『芽むしろ仔撃ち』、『われらの時代』、『性的人間』、『個人的な体験』と初期作品をほぼ発表された順に読んできて、「次は『万延元年のフットボール』だ」と思っていたところ、なぜか『洪水はわが魂に及び』を先に読んでしまい、そこで打ち止めとなった。(小説以外では『沖縄ノート』を一昨年読んでいる)

 『洪水は~』がつまらなかったわけではない。
 脳に障害を持って生まれた息子と父親との言葉を超えた交感、および二人を包む不器用な若者集団の「連合赤軍あさま山荘」的破滅を描いた『洪水は~』は、寓意性や物語性に富んで、とても面白く感動的だった。
 タイトルが聖書の一節からとられていることからわかるように、スピリチュアルな色合いも濃かった。これを読んだ80年代初頭、“スピリチュアル”という概念はまだ日本になかったが・・・。
 面白かった一方、これまで読んできた大江作品とはカラーが違っていた。
 初期作品はどれも青年期の鬱屈が感じられた。
 性的抑圧と連動するようなカタチで、周囲の世界に対する苛立ちや畏れが基調を成していた。
 大江自身、初期作品群は「監禁」が主要テーマだったと後に述懐しているし、そこにGHQ支配下におかれた敗戦国日本の屈辱を見る論者もいる。
 20代のソルティは、戦後の政治状況や日本人の屈辱というテーマにはぴんと来なかったが、青年期の鬱屈は自分ごととしてビンビン共感できた。
 そこに大江作品にかぶれた理由があった。
 根暗な青年、今で言うなら「陰キャ」だったのである。

 『洪水は~』を読んだとき(正確にはその前に読んだ『個人的な体験』あたりから)、大江が内に抱いて作品として結実させるテーマが、自分の関心とはかけ離れたものになっていることを察し、「もう大江は十分だ」と思ったのであった。
 当然のことながら、若くデビューした作家も成長する。疾風怒濤の青春期を後にし、社会化する。齟齬や摩擦のあった周囲の世界と、とりあえずの和解をもつ。
 そのうえ大江の場合、脳に障害ある息子(作曲家・大江光)の父親になる――父親になることを引き受ける――という大きな転機があった。
 言ってみれば、アフリカの原住民部族のバンジージャンプのような通過儀礼である。
 つまるところソルティは、“大人になった”大江健三郎に置いてけぼりにされたような気がしたのであった。
 これは初期作品から順に読んできたからこそ、つまり小説家の成長過程を追ってきたからこそ起こり得た現象だろう。はじめの一冊に『洪水は~』以降の作品を手にとっていたら、逆に初期作品を読むことはなかったかもしれない。

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 およそ35年ぶりに大江の作品を手にとったのは、かつての“推し”にして我が国で川端康成に継ぐノーベル賞作家の代表作を読んでいないという長年の気がかりを解消したかったのと、2018年の秋に四国遍路をした折、大江健三郎の生まれ故郷であり、本作の舞台である大窪村のモデルとなった愛媛県喜多郡内子町大瀬を訪れたからである。
 小説を通じて、もう一度大瀬に会いたかった。

内子駅で下車して東方に道をたどると、駅前の集落はたちまち尽きてしまい、そこから渓谷を蛇行している小田川に沿って昔ながらの街道が山間部にずっと延びている。その狭隘な街道を約5キロほども遡行すると、やっと小さな村落にたどりつく。そこが大瀬の集落である。村落の北東方面に目をやると遠く近く石鎚山脈の巨大な峰々が起立していて、いかにもここで行き止まりといった印象を受ける。(本書巻末「作家案内」より抜粋)

 むろん、本作で描き出される大窪村(大瀬)は、ソルティが訪れるより半世紀以上も前の1960年代初頭の姿であり、交通事情やら家並みやら人口構成やら村人のたつきやら、まったく現在とは違っている。
 また、あくまでもフィクションの中に設定された集落であり村人であり、大窪村=大瀬と単純に受け取るのは早合点が過ぎる。
 が、大江健三郎の出身地という以外に特別な観光名所もない、遍路道沿いにあるとは言え巡礼札所からは離れている――67キロ離れた43番と44番の間にある――ので歩き遍路でなければ立ち寄ることもない、アクセスの悪い山間の僻地ゆえ、半世紀前と変わっていないところも多かろう。
 地形であるとか、左右に広がる深い森と谷間を流れる小田川の透き通った水の色であるとか、空気感であるとか、土地柄であるとか、古くから住みついている人々の“村民性”であるとか、60年代当時から残っている建物であるとか、リンを鳴らし通り過ぎる遍路の姿であるとか・・・・。
 2018年に訪れた際の大瀬の光景を脳裏に浮かび上がらせながら本書を読むという、まことに贅沢な、臨場感ある読書体験をした。

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江戸や明治の町屋や蔵屋敷が並ぶレトロな内子町

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大正14年から昭和40年まで営業していた映画館(旭館)
少年時代の大江健三郎も通ったことだろう

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内子から大瀬に向かう遍路道

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大瀬

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小田川

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小田川を渡ったところにある遍路休憩所

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大瀬の目抜き通り

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大江健三郎の実家

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大江の母校の大瀬小学校
シンメトリカルで瀟洒な造りに驚いた

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大瀬の館(大瀬自治センター)
元村役場だった

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見学や休憩ができる
掲示されていた昔の村地図に「朝鮮部落」とあった
『万延元年』に朝鮮人が登場するのは故あることだった

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宿泊することもできる

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大江健三郎の写真が飾られていた

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もちろん書籍も

 翻訳の仕事をしている蜜三郎と妻の菜採子は、はじめての子供が脳に障害を持って生まれ自分たちの手では育てられそうもないことにショックを受けた。蜜三郎はまた親友の奇矯な自殺を目撃し、引きこもり状態になっている。
 そこへ60年安保の闘士であり、挫折を胸にアメリカ放浪してきた蜜三郎の弟鷹四が帰ってくる。鷹四は兄夫婦に、「新しい人生を始めるために、一緒に生まれ故郷の大窪村に行こう」と誘いかける。
 鷹四を信奉するヒッピー風の若い男女一組も引き連れ、一行は四国の谷間を目指して出発する。
 だが、実は鷹四には兄には告げていない過去の秘密と、闘士としての密かな目論見を持っていた。
 やがて、万延元年に大窪村で起きた一揆をなぞるように、静かな山間に鬨の声がとどろく。

 ――という物語が、大江の特徴である翻訳調のごつごつした文章で綴られていく。
 難解で固い文章には違いないのに不思議と土俗性を醸し出していく才は、この作家ならでは。
 食べるのを止められない病いにかかった大女のジンや、かつて徴兵逃れのため森に入って戦後もそのまま森に棲み続ける隠者ギーなど、印象に残るキャラクターづくりもさすが。
 思った以上に面白かった。
 文庫の裏表紙の短い解説文では、物語の簡潔なあらすじと共にこう紹介されている。

 幕末から現代につなぐ民衆の心をみごとに形象化し、戦後世代の切実な体験と希求を結実させた画期的長編。谷崎賞受賞。

 おそらく、一般的にはこの通りの解釈で間違いないのだろう。
 けれど、「戦後世代の切実な体験と希求」を共有していない、60年安保も70年安保も知らない、一揆はもちろんゲバ棒にヘルメットのような暴力をともなう政治運動を経験したことがない、“戦後”という言葉すら時代遅れとなった昭和元禄&バブル世代に育ったソルティは、この兄弟をめぐる物語を、上記解説のように読むのは難しかった。
 まったく別の読み方、違った解釈で読むことになった。
 ソルティは本作を、鷹四という主人公の一種のトラウマドラマとして、すなわち鷹四という人物の一連の行動を精神分析的に解釈する誘惑にかられながら読まずにはいられなかった。

 鷹四には兄の蜜三郎に隠していた、家族の誰にも話すことのできずにいた少年時代のあやまちがあった。
 そのあやまちは残酷な結末を迎え鷹四は致命的な傷を負うのだが、誰にも話せないことであるがゆえに、そのトラウマは鷹四をその後ずっと束縛し、苦しめ続けることになる。
 鷹四が安保闘争に飛び込んで恐れ知らずの闘士として同志から英雄視されるようになるのも、アメリカ旅行中に単身スラムに入って無防備な探索をするのも、自らを罰したいという破滅願望ゆえなのである。
 そしてその破滅願望は、生まれ故郷の大窪村で、村人たちを扇動し“伝説の一揆”を起こすという無鉄砲をもって表出される。ほかならぬたった一人の肉親である兄の目の前で、自らのトラウマをさらなる暴力によって昇華させ、良くも悪くもケリをつけたいという、やむにやまれぬ衝動のあらわれとして――。
 鷹四は、兄蜜三郎にすべてを目撃してもらい、すべてを知ってもらい、過去のあやまちを償う自らの“証人”になってもらいたかったのだ。

 そのように解釈してみると、鷹四というキャラクターは初期作品に共通して見られた「鬱屈」の形象化であり、一方、鷹四の暴発と悲劇的最期を傍らで目撃しつつ、その根源にあるものをつきとめ、荒ぶる魂を鎮静し、日常生活に復帰していく蜜三郎は「社会化」の比喩である。
 本作は初期作品から後期作品への「乗越え点」と、「あとがき」で大江健三郎自身が述べている。
 まさに“通過儀礼”的な作品なのである。

 一つだけ釈然としない点をあげる。
 ラストで鷹四の子供を妊娠した菜採子が蜜三郎のもとに戻ってくるが、これは夫である男性の視点からはともかく、妻である女性の心情からして不自然な気がする。
 ここまで決定的なことがあって、夫婦関係をこれまでどおり継続できるものだろうか?
 離婚するかどうかは別として、少なくとも、二人には冷却期間が必要だろう。
 妻の菜採子の実家は裕福らしいので、いったん里に帰らせるというやり方もできたはず。 
 「なんかとってつけたような、無理くり大団円にしたラストだなあ」という感がした。
 女性読者の多くはどう思うのだろう? 

 それにつけても、やっぱり、大江健三郎は凄い。
 またいつの日か大瀬の里に行きたいな。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ルリ子の無駄遣い 映画:『赤いハンカチ』(舛田利雄監督)

1964年日活
98分

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 石原裕次郎主演の犯罪アクションロマン。
 1962年にヒットした裕次郎の同名の歌をモチーフに制作されたもので、映画の中では裕次郎がギターを弾きながらこの曲を歌っている。
 なので、いつ赤いハンカチが出てくるんだろう?――と思っていると肩すかしを食らう。
 赤いハンカチも木綿のハンカチーフも真っ赤なスカーフも小道具としては出てこない。

 元刑事を演じる裕次郎、親友で同僚だった二谷英明、二人の間を揺れ動く浅丘ルリ子、三者ががっちり組み、そこにベテラン刑事役の金子信雄が執拗に絡む。

 役者レベルで言えば、金子信雄の圧勝である。
 ちょっと陰険な感じのする有能な古狸といったキャラクターを見事に作り上げている。
 声だけ聞くと、アルフレッド・ヒッチコックやTVドラマ版『名探偵ポワロ』のエルキュール・ポアロ(演・デヴィッド・スーシェ)の吹き替えをした熊倉一雄そっくり。

 二谷英明はまずまず。
 もっと上手く演じられる役者だと思うのだが、主役の裕次郎を引き立てるため、力を抑えたのかもしれない。
 吉永小百合主演『青い山脈』を見れば、そういった引きの演技、受けの演技、分をわきまえた演技ができる人だと分かる。

 裕次郎は下手糞だが、これはこれでよい。
 大スター石原裕次郎は裕次郎以外のものになれないし、なってはいけない。
 当時の観客は裕次郎その人を見に来たのであって、裕次郎が演じる凡庸な市井の誰かを見たいわけではなかった。
 吉永小百合や高倉健がそうであるように、「なにをやっても裕次郎」で正解。
 少なくとも日活にいた間は・・・。
 演技はともかく、歌のうまさに驚く。
 裕次郎(演じる元刑事)が、北国の飯場(はんば)でギターの弾き語りをするシーンがある。
 それまで酒を飲んで騒いでいた土方たちは、裕次郎が歌い出すとしんと静まり返って、神妙な顔で歌を聴く。
 スターにここぞとばかりスポットを当てる観客へのサービスショットに違いないのだが、この流れが不自然を感じさせないのだ。
 それは裕次郎の歌の力がはんぱないからで、実際にこの人が目の前で歌い出したら、周りは黙って聞くほかないだろうと納得してしまう。
 そこには人生に疲れた心に浸透する不思議な響きがある。
 
 問題は浅丘ルリ子である。
 汗だくになって工場で働く貧乏長屋の娘から、高価なミンクのコートをまとう優雅な奥様に変貌する浅丘。
 ほっそりしたスタイル、ビスクドールのような整った顔立ち、ファッショナブルな恰好が良く似合う。
 舛田監督は浅丘をこの上なく美しく魅せることに成功している。
 裕次郎と二谷が命を懸けて奪い合うのも無理もないと思う美女ぶりだ。

 しかし、本作を観ている間ソルティの脳裏に浮かぶは、「ルリ子の無駄遣い」という言葉であった。
 後年になって示したように、浅丘は役者として素晴らしいものをもっている。
 三島由紀夫原作『愛の渇き』の悦子や『男はつらいよ』のリリー、蜷川幸雄と組んだ豪奢な舞台の数々、極めつきは天願大介監督『デンデラ』の素顔で勝負した老婆。
 いまだに日活アイドルイメージから抜けられないままでいる吉永小百合と比べると、浅丘ルリ子の役者根性やキャラクター創造にかける気概はすばらしい。
 それが日活時代は、泥臭い男世界に清涼剤として添えられた、よく言えば泥中の蓮、悪く言えばトイレのサワデーみたいな、演じ甲斐のないつまらない役ばかり。
 いわば刺身のツマ。
 もったいないことこの上なかった。

 たとえば、若尾文子における増村保造、岡田茉莉子における吉田喜重、岩下志麻における篠田正浩、原節子における小津安二郎。
 役者としての可能性を最大限引き出してくれる演出家と若い時分に出会えることは、女優にとって最高の幸福であろう。




 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 英国の紫式部 本:『ベンバリー館 続・高慢と偏見』(エマ・テナント著)

1993年原著刊行
1996年筑摩書房(訳・小野寺健)

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 財産があってすでに結婚している男なら、跡継ぎの息子を欲しがっているはずだというのは、ひろく世間に認められている真理である。

 ――というさわりを読んだら引き込まれ、そのまま半分以上読んでしまった。
 気がつけば午前2時を回っている。
 明日は仕事なのに!
 ジェイン・オースティン『高慢と偏見』のファンなら、「それも仕方ない」と分かっていただけるだろう。
 面白過ぎる。

 ヒロインのエリザベスを取り巻く一癖も二癖もある登場人物たち。
 由緒ある家柄ゆえ高慢なところのあるイケメン夫ダーシー。
 やさしい姉のジェインと気のいいチャールズの暢気なおしどり夫婦。
 頭が空っぽで騒がしいだけの母親ミセス・ベネット。
 その母親そっくりでミーハー根性丸出しの妹リディアと性根の腐ったその夫ウィッカム。
 偏屈で本の虫の妹メアリ。
 底意地の悪いビングリー姉妹。
 傲慢を絵に描いたようなダーシーの叔母レディ・キャサリン・ドバーグ。
 計算高い割にはとんちんかんなコリンズ氏としっかり者の妻シャーロット。

 ときはクリスマス。
 舞台はダーシー夫妻が暮らす豪壮きわまるベンバリー館。
 これだけ癖のある人間が一堂に会すれば、ひと波乱起こらないのが奇跡というもの。
 一行はあたかもトラブルに引き寄せられるように、ベンバリー館にやって来る。

 そのうえに、新たに創作されたキャラとして、ダーシーとエリザベスのあいだに男子が生まれなければベンバリーを相続することになっているオタク気質のローパー氏やら、夫を亡くしたミセス・ベネットに結婚を申し込む義足のキッチナー大佐やら、ダーシーが結婚前にフランス女に生ませた隠し子らしきが登場し、館の女主人であるエリザベスは心労の種が尽きない。
 オースティンが創造した元キャラたちと新たに創造したキャラたち、どちらをも巧みに描き分け、オリジナル作にせまるユーモアセンスを発揮するエマ・テナントの手腕は称讃に値する。

林檎の花

 ジェインの男児出産とエリザベスの妊娠発覚でハッピーエンドとなるプロット自体はたいしたものではない。
 面白さの9割以上は、ジェイン・オースティンによって創造されたキャラクターたちのぶつかり合いにこそある。
 これだけ多くの読者の脳裏に刻まれる複数の個性的キャラを生み出し得たのは、同じ英国の作家ならチャールズ・ディケンズとコナン・ドイル、本邦の作家で言えば『源氏物語』の紫式部くらいではなかろうか。
 このようなパスティーシュが作られるのは、まさにそれゆえなのだ。
 『高慢と偏見』の場合、コリン・ファース人気に火をつけたBBC制作のTV版や数度の映画化は当然のこととして、なんとまあ、『高慢と偏見とゾンビ』(セス・グレアム・スミス著)というホラーコメディのパスティーシュまで作られている。これが実によく出来ていて面白い!(映画化もされた)

 ジェイン・オースティンの天才を再認識するばかり。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 

● 怒りのショスタコ :横浜国立大学管弦楽団 第122回定期演奏会

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日時: 2024年5月25日(土)
会場: 大田区民ホール・アプリコ 大ホール(蒲田)
曲目:
  • A.ボロディン: 交響詩「中央アジアの草原にて」
  • A.ボロディン: 歌劇「イーゴリ公」よりダッタン人の踊り
  • D.ショスタコーヴィチ: 交響曲第5番「革命」
  • (アンコール) エルガー: エニグマ第9変奏 「ニムロッド」
指揮: 和田 一樹

 和田一樹のショスタコーヴィッチははじめて聴く。
 これまであまり振っていないのではないか?
 どう見ても“陽キャ”の和田と、“陰キャ”の極みとしか思えないショスタコーヴィチは相性が良くないように思われるが、どうなのだろう?
 そんな好奇心を胸に蒲田に馳せ参じた。

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太田区民ホール・アプリコ

 ボロディン『ダッタン人の踊り』については前に書いたことがあるが、やはり、アルタードステイツすなわち意識の変容を引き起こすスピリチュアルな音楽と思う。
 一曲目の『中央アジアの草原にて』も同様で、知らないうちに瞑想状態、いや催眠状態に引き込まれた。
 ボロディンについてはほとんど知らないが、ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィッチの証言』(1979)によれば、博愛主義者でフェミニストだったという。
 そのあたりのスピリチュアル性が音楽に反映されているのかもしれない。

 ボロディンはまた優れた化学者でもあり(むしろ作曲は副業)、ボロディン反応(別名ハンスディーカー反応)という化学用語を残している。
 意識の変容を起こすこの特徴も「ボロディン反応」と名付けたいところだ。

ボロディン反応
ボロディン反応

 ショスタコーヴィチの第5番『革命』をライブで聴くのは2回目、前回は東京大学音楽部管弦楽団(三石精一指揮)によるものだった。
 その時感じたのは、『革命』という標題はまったく合ってないなあということと、最終楽章で表現される「暗から明へ」の転換はどうにも嘘くさいなあということであった。
 むしろ、第1楽章から第3楽章で表現される「不安・緊張・恐怖・悲愴・慟哭」が限界に達し精神が崩壊したために生じた“狂気”――という印象を持った。
 その後、ショスタコーヴィチの伝記を読んだり、他の交響曲を聴いたり、彼が生きた時代とくにスターリン独裁時代のソ連の内実などを知って、自らが受けた印象があながち間違っていなかったと思った。
 最終楽章は、体裁上は「暗から明」の流れをとって「ソビエト共産党の最終的勝利」、「スターリンの偉大さ」を讃えているように見える。
 が、それは二重言語であり、裏に巧妙に隠されたメッセージは、「ファシズムの狂気」、「独裁者の凱歌」、「強制された歓喜」なのである。
 マーラーに匹敵する天才と官能性を兼ね備えていたショスタコーヴィチが、自らのもって生まれた個性を自由自在に表現することを禁じられた、その“抑圧の証言”こそが、彼の音楽の個性とも特徴ともなってしまったのは、悲劇である。
 が、一方それはまた、「巨大権力による抑圧と迫害」という、ロシアやガザ地区やミャンマーをはじめ現在も世界各地で起こっていて、インターネットで世界中の人々に配信・共有されている“悪夢の現実”を、内側(被害者の視点)から表現しているわけである。
 もしかしたら、しばらく前から音楽的な時代の主役は、「マーラーからショスタコーヴィチに」移っているのかもしれない。


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ガザ地区
 hosny salahによるPixabayからの画像

 和田一樹の第5番を聴いて“革命”的と思ったのは、最終楽章である。
 大太鼓の皮が破れるのではないかと思うほどの爆音の連打にソルティは、「狂気」でもなく、「悪の凱歌」でもなく、「強制された歓喜」でもなく、ショスタコーヴィチの「怒り」を聴きとった。
 それは指揮者の怒りと共鳴しているのやもしれない。
 そうなのだ。
 人民は抑圧する権力者に対して、いろいろな態度を取りうる。
 諦めたり、悲しんだり、絶望したり、流されるままになったり、従順になったり、抑圧に手を貸す側に回ったり、内に引きこもったり、他国に逃避したり・・・・。
 ショスタコーヴィチが置かれた境遇のように、たとえ表立って抗議するのが困難な場合でも、少なくとも怒りは持ち続けることができる。
 怒りは忘れてはならない。
 怒りこそ「革命」の源なのだから。

 横浜国立大学の学生たちの若いエネルギーを怒りのパワーに転換させたのが、今回の第5番だったように思った。
 





● 狼は生きろ、豚は死ね 映画:『白昼の死角』(村川透監督)

1979年東映
154分

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 高木彬光原作のミステリーにしてピカレスクロマン(悪漢ドラマ)。
 公開時、「狼は生きろ、豚は死ね」のキャッチコピーが話題となった。
 村川透監督は、『蘇える金狼』、『野獣死すべし』など松田優作とのコンビによるハードボイルド映画やTVドラマ『あぶない刑事』の演出で気を吐いた。
 「悪」を描くのが上手い人である。

 本作の主人公鶴岡七郎(演・夏八木勲)も、「悪」のために「悪」を重ねるサイコパスのような男で、東大法学部出身の切れる頭脳を企業相手の手形詐欺に用い、巧妙な手段で巨額な富を手に入れていく。
 一方、私生活では友人を失い、妻や愛人は自殺を遂げ、孤独な人生を強いられる。
 「正義は勝つ」「勧善懲悪」のラストではないので、人によっては受け入れがたいストーリーかもしれない。
 が、「そのようにしか生きられない」鶴岡の哀しい宿縁が、渋く手堅い夏八木の演技と虚無的風貌によって描き出されている。
 実際、犯罪が成功しようが、何億という大金を手にしようが、美しい女たちに命がけで愛されようが、鶴岡はまったく笑顔を見せない。
 鶴岡が破顔一笑する唯一のシーンは、外国人神父が主宰する教会を利用して手形詐欺を働いたが失敗し逮捕された仲間が、件の神父の説教によって改心したと聞いた時である。
 彼は神も悪魔も信じない無神論者なのである。
 映画の中では描かれていないが、おそらくその背景には昭和20年代という時代的要因、すなわち太平洋戦争時の従軍体験や、鶴岡の生い立ちが関係しているのだろう。

 鶴岡を演じる夏八木勲がすばらしい。(この映画の頃は夏木勲と名乗っていた)
 この役者はどちらかと言えば地味な風貌で、脇役で光るタイプだった。
 主役を演じるのを観たのはこれが初めてかもしれない。
 本作はこの人の“生涯の一本”と言っても過言ではなかろう。
 (2012年に園子温監督『希望の国』で主演しているが未見)

 共演者がまた魅力的。
 鶴岡の愛人を演じる島田陽子の美しさ。
 考えてみたら、島田は『砂の器』、『犬神家の一族』、TVドラマ『氷点』、『白い巨塔』など、犯罪ドラマのイメージが強い。
 どこか淋し気な陰のある美人という役が似合っていた。
 銀幕の匂いを感じさせる最後の世代の女優であった。

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島田陽子と夏八木勲

 鶴岡の同窓生にして相棒である九鬼を演じるは、先日81歳で亡くなった中尾彬。
 本作をレンタルしたのは訃報の前で、中尾が出演していることは知らなかった。
 思いがけず、中尾をその代表作によって偲ぶことになった。
 30代の中尾はトッチャン坊やのような初々しさがあり、後年バラエティや池波志乃とのCMで観たようなふてぶてしさはない。
 ただ、さすがに学ラン姿の大学生役はきびしい。

 ほか、鶴岡の妻役の丘みつ子、ひたすらカッコいい「悪」の先輩千葉真一、ガッツ石松、佐藤蛾次郎、コミカル担当の藤岡琢也、長門勇、佐藤慶、鈴木ヒロミツ、成田三樹夫、丹波哲郎、西田敏行、柴田恭兵、嵐寛寿郎、明智小五郎にしか見えない刑事役の天知茂、室田日出男、伊吹吾郎、バーのママ役がはまる沢たまき、音楽も担当しているダウン・タウン・ブギウギ・バンド(宇崎竜童)など、個性的な出演陣に目が眩む。
 プロデューサーの角川春樹、原作者の高木彬光がチョイ役で出ているのは、角川映画のお約束である。

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左より、中尾彬、夏八木勲、竜崎勝

 この映画の時代背景は1950年代の戦後間もない混乱期の日本なのだが、今(2024年現在)観ると、作られた当時つまり1970年代後半の日本の匂いをビンビンと感じる。
 40分に一度はベッドシーンを挿入する脚本のあり方とか、その際に女優の乳首は決して映さないとか、ギャグシーンにおけるお笑いのセンスとか、脂ぎった画面の質感とか、“バブル突入前の昭和”の空気がみなぎっている。
 ソルティは、「なんて70年代の昭和なんだ!」と思いながら観ていた。
 あたりまえと言えばあたりまえの話であるが、歴史ドラマや時代劇というものは、題材となった時代の風俗を描き出すと同時に、制作された時代の価値観や流行を反映する。
 リアルタイムで(本作なら1979年に)映画を観ている人間は、そこになかなか気づかない。
 なぜなら、自分が生きている時代を客観的に見るのは難しいからである。
 79年に本作を映画館で観た人間は、「戦後の日本ってこんなだったんだ」、「昔の人はめんどくさい価値観に縛られていたんだなあ」と思いながら観る。
 しかるに、令和の現在本作を観る者は、そこに2つの時代を重ねつつ見ることができる。
 50年代と70年代と――。
 そして、70年代の日本人もまた、「めんどくさい価値観に縛られていたんだなあ」と知る。 
 昔の映画を観る面白さは、こんなところにもある。





おすすめ度 :★★★★

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● 広末涼子のオーラ 映画:『バスカヴィル家の犬 シャーロック劇場版』(西谷弘監督)

2022年日本
119分

 2019年にフジテレビで放映されていたドラマ『シャーロック』の劇場版作品。
 ソルティはドラマは観ていなかったが、コナン・ドイルの原作の日本的アレンジ(脚色&映像化)とは違って、ホームズとワトスンのキャラ設定だけを借りて、ストーリーはオリジナルだったらしい。
 ホームズになぞらえられるのがフリーの犯罪捜査コンサルタントである誉獅子雄(演・ディーン・フジオカ)、相棒のワトスンになぞらえられるのが元精神科医の若宮潤一(演・岩田剛典)である。

 本作はタイトルが示すように、ドイル原作『バスカヴィルの犬』を原案と謳っており、魔犬らしきが登場する。
 舞台を19世紀イギリスの荒涼とした湿地ダートムアから、現代の瀬戸内海のある島に移し、バスカヴィル家ならぬ蓮壁(はすかべ)家の莫大な遺産が犯行の動機を形作っている。
 しかし、原作との相似を匂わせるのはそこまでで、中味はまったくと言っていいほど違っていた。
 いわば、バスカヴィルの犬は看板。 
 最近問題となっている、著名人の画像を本人には無断で広告に使ったネット詐欺に似ていると思った。
  
 残念ながらソルティは、ホームズを模したはずの誉獅子雄というキャラになんら魅力を感じられず、ワトスンを模した若宮潤一とのコンビにもまったく惹かれるものがなかった。(ディーンと岩田の相性もあまり良くないように見える)
 ベネディクト・カンバーバッチがホームズを、マーティン・フリーマンがワトスンを演じたBBC制作『SHERLOCK』に比べると、脚本の質といい、ミステリーとしての面白さといいい、キャラの魅力といい、ホームズとワトスンのコンビネーションの妙といい、ダンチである。
 シャーロキアンでこの映画に納得する人がいるのだろうか?
 
 途中で観るのを止めようかと思ったが、広末涼子が話のメインに出て来てから幾分面白くなった。
 主役二人を完全に食う広末涼子のオーラはやっぱり凄い。

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 GHIによるPixabayからの画像 





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● ゾンビ・イヤー? : プロースト交響楽団 第39回定期演奏会

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日時: 2024年5月19日(日)13:30~
会場: ミューザ川崎シンフォニーホール音楽ホール
曲目:
 ● 山田耕筰: 交響詩「曼荼羅の華」
 ● グスタフ・マーラー: 交響曲第2番ハ短調「復活」
   ソプラノ: 盛田 麻央
   メゾソプラノ: 加納 悦子
指揮: 大井 剛史
合唱: 日本フィルハーモニー協会合唱団

 今年はなんだか『復活』の年みたいで、ソルティが調べた限りでも、
  • 3月10日 サントリーホール/フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団(小林研一郎指揮)
  • 4月7日 東京芸術劇場コンサートホール/オーケストラハモン(冨平恭平指揮)
  • 5月19日 本公演
  • 7月14日 サントリーホール/フィルハーモニア・ブルレスケ(東貴樹指揮)
  • 8月2日 大阪フェスティバルホール/大阪フィルハーモニー交響楽団(尾高忠明指揮)
  • 8月6日 広島文化学園HBGホール/広島交響楽団(クリスティアン・アルミンク指揮)
  • 9月16日 サントリーホール/デア・フリューゲル・コーア(角田鋼亮指揮)
 とプロアマ入り乱れての『復活』ラッシュ。
 このマーラー第2番交響曲は、ソプラノとメゾソプラノの独唱者と混成合唱団を必要とするので、そうそう簡単には舞台にかけられない。
 それを思うと、すごいブームである。
 おそらく10月以降も年末まで増えていくだろう。
 いったい、なぜ『復活』?
 演奏会のプログラムが一年以上は前に決まるであろうことを考えると、やっぱり、「コロナからの復活」という思いが、クラシック業界に満ちているためなのではないか?

 首都圏でマーラーの第2番と第3番がかかるなら、可能なかぎり聴きに行きたいと思っているソルティ。
 今年は少なくとも5回は“復活”できそうな気がする。

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ミューザ川崎

 2回目の“復活”となる本公演、実に素晴らしかった。
 公演あるのを知ったのは一週間前。
 ネットではすでにA,B,C席すべて売り切れていた。
 2日前に再度確認したところ、一番安いC席に空きが出た。
 ミューザ川崎はサントリーホールや杉並公会堂同様、舞台を囲むように客席が配置されている(アリーナ型)。
 空きのあったのは、舞台の左右斜め後ろのブロックである。
 オケのほぼ背後から、指揮者を正面45度の角度で見下ろすことのできる席である。
 すぐさまチケット購入した。

 おそらく、もともとこの左右両ブロックは販売予定になかったのだろう。
 というのも、舞台の後ろ側すなわちオケの背後のブロックは合唱団が入るからである。
 合唱団のため余裕をもって空けておいた席を、チケット売り切れになった後も問い合わせが殺到したため、新たに客席として開放したんじゃないかと推測される。
 ソルティが取った席は、オケの最後列をなす打楽器チームをちょうど真横(舞台向かって右袖)から見下ろせる位置で、右側に3つほど空席をはさんだところには合唱団の女性が座った。
 つまり、合唱団に最も近い席だったのである。

 とても面白い席であった。
 指揮者はもちろん、オケ全体の動きがよく見えて――ただし、真下にいるコントラバスとハープ奏者だけは見えなかった――オケメンバーの奮闘ぶりが実感できた。
 オケにも合唱団にも近いので、音や声の迫力が凄かった。
 オケや合唱団や客席のさらに上、ホールの高みにひとり位置して、曲の最後の最後に登場するパイプオルガン奏者の手の動きもよく見えた。
 オケのメンバーの中には、譜面台に紙の楽譜でなくタブレットを置いている人がいた。
 楽譜をパソコンに読み込んで、タッチパネルでページをめくっていた。
 たぶん、エクセルで文書にコメントをつけるように、指揮者からの指示など必要な書き込みなんかも画面上で入力できるのだろう。
 こういうデジタルなやり方が今後広まっていくのかもしれない。

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右隅に合唱団の女性の姿が見える

 山田耕筰の交響詩『曼荼羅の華』を聴くのははじめて。
 とても美しく、儚げな曲であった。
 考えてみると、ソルティは歌曲『この道』、『からたちの花』や童謡『赤とんぼ』、『ペチカ』や映画音楽(原節子主演『新しき土』)の山田耕筰しか知らない。
 日本人のこころに染み入る歌の作り手というイメージが強い。
 が、本曲はマーラーの影響をかなり感じた。
 山田は1910年から3年間ドイツに留学している。
 1911年5月に亡くなったマーラーの葬儀に立ち会ったかもしれない。
 当然、浴びるようにマーラーの曲を聴いたことだろう。
 山田のほかの交響曲を聴いてみたい。

 大井剛史の指揮は2度目。
 前回は府中市民交響楽団共演のショスタコーヴィッチ『レニングラード』だった。
 基本、楽譜に忠実な、これ見よがしな演出をしない正統派指揮者だなあと思ったが、今回の『復活』でその印象は強まった。
 全体に落ち着いたテンポで丁寧に音符をさらっていた。
 そしてそれは、この大曲がもっとも生きる、すなわち、作曲者自身の思いを汲んで内在する美と崇高さをもっとも明瞭にあらしめる行き方と思った。
 第2楽章の揺蕩う美しさ、第3楽章の皮肉めいた諧謔性が、くっきりと浮き彫りにされていた。
 マーラーの交響曲と言うと金管のイメージが強いのだけれど、今回は非常に木管が冴えていた。
 木管が主役と思ったくらい、よく鳴っていた。
 金管は咆哮し、木管は語る。
 マーラーのナイーブな内面が吐露されているのは実は木管なのだな、と思った。
 ヴォリュームを微妙に引き絞って最後まで持っていき、第5楽章のクライマックスでここぞとばかりホールを震わせる fff を放つ。その効果は赫奕たるものがあった。

 合唱の素晴らしさを言い置いてはいけない。
 一糸乱れぬハーモニーの見事さ。
 透明度が高すぎるためその深さに気づかぬ湖のように、清澄な美しい響きのうちに深い慈愛が感じられた。
 さすが半世紀以上の歴史をもつ合唱団である。
 長々とインスツルメント(器楽)を聴いてきたあとで、この合唱が入って来ると、ソルティはいつも感動してしまう。
 それは人の声が持つ“ぬくもり”を再発見するからだ。
 キリスト教徒でない自分が『復活』に感動する最大の理由は、この曲の宗教的価値に共鳴するからではない。
 器楽に対する声楽の勝利を、人工に対する天然の優越を、鮮やかに知らしめてくれるからなのだ。
 と、今回気がついた。

 今年中にあと3回、『復活』するぞ!

ゾンビ男





● 本:『ハタチになったら死のうと思ってた AV女優19人の告白』(中村淳彦著)

2018年ミリオン出版

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 毀れている。
 ――というのが本書を読んでの何よりの感想だ。

 若い女性たちが毀れている。
 家族が毀れている。
 AV業界が毀れている。
 社会が毀れている。

 本書は、『職業としてのAV女優』を書いた中村淳彦による現役AV女優19人へのインタビュー集である。
 「あとがき」によれば、これまで数多くのAV女優インタビューを行ってきた中村は、「なにが正しくてなにが間違っているのか」わからなくなり、「グチャグチャに」なった。
 苦渋ののち辿りついた結論が、「情報を掴むために必要な最低限の質問以外、ほとんど自分からは喋らない。ただただ聞くだけ」に徹するということだそうで、それが本書を貫く基本スタイルとなっている。
 なので読者は、中村自身の価値観によって評価・判断されることを免れた、19人のAV女優たちのナマの声に出会うことができる。

 AV女優をやっている若い女性たちが毀れている。
 ただし、自らの性を売っているから“毀れている”というのではない。
 それなら、かつて女郎部屋に身売りされた貧農の娘や、家族を養うため或いは男に貢ぐため性風俗で働く女性は昔からいた。
 女が「金のため」「家族や男のため」に性を売る(性を売ることを強要される)というのは、よくある話だ。
 一方、本書に登場する女性たちの多くがAV女優となった理由として上げるのは、「他人から承認されたい」である。
 承認欲求――。
 それは、人間の行動を引き起こす3つの動機の1つ――あとの2つは欲望と理性――とフランシス・フクヤマが書いていた。その通りなのかもしれない。
 他人から承認されるためなら、裏社会とつながる性風俗業界にあえて飛び込み、自らの“痴態”がネットで世界中に発信されデジタルタトゥとして半永久的に残ることにも怖じない。
 自らを危険にさらしてまでも他人から承認されたい。
 この闇雲な承認欲求のあり方が、“毀れている”と感じさせるのである。
 それは、本書に登場するAV女優のみならず、現代日本の若い世代の女性に共通した心的傾向なのではないかとも思われる。
(一方、承認欲求のために戦争をする男たちが、“毀れている”のは言うまでもない)

 若い女性たちが毀れているのは、なにより家庭が毀れているからである。
 あえて選んだわけでもあるまいに、本書に登場するAV女優たちの生育環境の悲惨なこと! いびつなこと!
 実の母親が実の息子(語り手の弟)と近親相姦していたり、小学校の先生に毎日のように“悪戯”されるのを親には黙っていたり、失踪した母親が愛人の家で自殺したり、統合失調症の兄が家庭内暴力を起こしたり、子供の時にAVマニアの父親のオナニーを目撃したり・・・・。
 機能不全家庭のオンパレードである。
 そもそも親たちが他者からの承認に飢えているので、とうてい子供(語り手)をしかるべく承認することができない。
 そうした家庭内の負の連鎖をここから読み取るのは難しくない。

 表社会に馴染むことができずグレーゾーンで生きている男たちがつくるAV業界が毀れているのは、いまさら言うまでもない。
 著者はそれを“異界”と呼んでいる。

 そこは、まさに異界である。その空間の異常さを一般社会側から糾弾しているのが強要問題(ソルティ注:暴力や脅しによってAV出演を女性に強要すること)で、自分たちの社会が生んだ異界という理解がないまま、一方的に責め立てるのでさらなる分断に陥っている。本文でも書いている通り、異界に一般的なルールを求めて「非を認めて」「足並みを揃えて」「改善」させるのは困難であり、無理難題だ。みんな一般社会から弾かれて漂流しているので、居心地のいい異界しか知らない。自浄能力はない。

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 個人や家庭が毀れているのは、社会が毀れているからである。
 これまでの日本社会の通念や常識というものが、いたるところで通用しなくなっていることは、昭和育ちの人間なら日々感じているところだろう。
 仏教や儒教や神道で養われた日本人の宗教観や倫理観、稲作や漁業で培われた共同体のルールや人間関係のあり方、そして欧米仕込みの戦後民主主義の価値観。
 これらの共同幻想の微妙なバランスの上に成り立ってきたのが、戦後の日本社会、日本文化だった。
 それがここに来てドラスティックに変容している。
 その主因は、インターネットを嚆矢とするIT時代の到来と、個々人の欲望の達成を第一原理とする新自由主義の浸透ではないかと思う。
 力を持たない個人を守ってきた共同幻想という砦が崩壊してしまい、個々人は各々のアカウントのみを持った孤独な戦士として、弱肉強食の戦場におっぽり出されてしまった。
 社会が毀れたとは、つまり共同幻想が毀れたということである。

 もちろん、共同幻想が毀れたことで救われたこと、良くなったこともたくさんある。
 たとえば、男尊女卑の文化など、その最たるものであろう。
 昭和時代には誰もなんとも思わず楽しんでいた芸人のジョークや流行歌の歌詞などが、令和のいまでは「とんでもない!」とうつるのは、もう日常茶飯のことになっている。(例として、さだまさしの『関白宣言』やおニャン子クラブの『セーラー服を脱がさないで』)
 セクハラ(セクシュアル・ハラスメント)という言葉が「新語・流行語大賞」に選ばれたのは1989年(平成元年)であった。
 まさに、昭和から平成になってパラダイムが変わったのであり、それに合わせてバージョンアップできない昭和育ちの男たちがいまだに墓穴を掘り続けているのは、日々のニュースに見るとおりである。

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 そう。もっとも変わった共同幻想の一つは、性に関する意識である。
 男尊女卑的な性文化が糾弾され、人権的見地から改善されていく一方で、性そのものの敷居が低くなった。
 いわゆる、性がオープンになった。
 隠すべきこと、うしろ暗いこと、猥らなこと、恥ずかしいこと、悪いこと、大っぴらに語ってはいけないこと――つまりはタブーであった性が、誰の目にも見える陽の当たるところに出てきて、ある程度自由に語れるようになった。
 それは、ヒッピー文化であったり、エイズの出現であったり、フェミニズムであったり、ゲイリブであったり、昭和バブルの高揚感・軽佻浮薄であったり、アニメ文化の興隆であったり、性教育を推進する人たちの運動であったり、インターネットが登場したり・・・・いろいろな要因が積み重なっての“いま”であろう。
 元ジャニーズ事務所のジャニー喜多川がタレントの卵である少年たちに性虐待を行っていたことがやっと表沙汰になったが、マスメディアによる長年の犯罪放置の底にあるのは、売れっ子タレントを抱える巨大芸能事務所への忖度という以上に、同性愛を大っぴらに語ること、それも成人男性と未成年男子のセックスについて語ることが、日本社会の(というより男社会の)タブー中のタブーだったことが大きいと思う。
 昭和育ちの多くの人間たちが性に関して抱えている鬱屈というものを、平成育ちの若い世代が理解するのは難しかろう。
 本書に登場するAV女優(インタヴュー時23歳)はこう語る。

 昭和って性に対して悪いような感覚がありますよね。はしたないみたいな。ファッションもそうだし、感覚もそう。古き良き時代に過ごしてきた人たちと、私たちは全然感覚が違いますよね。だから親はもちろん知らないけど、バレても理解してもらおうとか、思ってないです。

 彼女にとってAVの仕事は、「お金になるし、なにより面白い。人と違った経験ができて牛丼店より割がいい、いい仕事」であり、「将来的にAV女優の経験が人生の足を引っ張る」とも思っていない。
 これが、いまどきの若い子なのだ。

 性がオープンになったことは、性風俗の仕事に対する世間の価値観が変わり、敷居が低くなることにつながった。
 うしろ暗いこと、隠すべきこと、恥ずべきこと、食いつめた女性の最後の手段、表社会からの転落・・・・といったイメージが希薄となり、数ある職業のひとつ――とまではいかなくとも、率のいいアルバイトという感覚はすでに若い女性たちの間で一般化している。(ハローワークに登録されるのも時間の問題?)
 性のカジュアル化がすすみ、玄人と素人の境が無くなった。
 人権意識はダブルバインドで、性風俗で働く女性に対する暴力や搾取をきびしく咎める一方、個々人の自己決定と職業選択の自由を侵すことができない。
 大のオトナが自分の意志で性を売ることについて、AV女優はじめ性風俗の仕事を自分の意志で選ぶことについて、反対する理屈を持たない。
 下手に咎めたら、「おまえは職業差別するのか!」、「私の人生は私が決める!」、「それとも、あんたが私の生活を保障してくれるのか!」、「私とつきあって、私を承認してくれるのか!」、「偏見に凝り固まった昭和オヤジは引っ込んでいなさい!」と言い返されるがオチである。
 すると、結局、あたら不幸になることが目に見えているのに、そうした仕事を率先して選ぶ――昭和オヤジから見ると“転落していく"――若い女性たちを、ただ傍観するしかすべはなくなる。

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 性というタブーが無くなり、性をオープンに語れるようになること。
 それはソルティも若い頃から望んでいたことであった。
 であればこそ、80年代半ばに日本に入ってきたエイズという病に惹きつけられ、ボランティアをするようになったのである。
 エイズという病が、「死」と「性」という人間の二大タブーに打ち込まれた楔のように思われたのだ。
 そこには、タブーを嫌い打破したがる若者の特有の血気もあったし、社会が性を語れるようになることが、ゲイというセクシャルマイノリティである自分が「自由になる」ための前提であると思ったからである。
 いまのLGBTをめぐる状況に見るように、それはかなりの程度、当事者にとって明るい方向に進んだ。
 タブーであった「性」が、日常的な話題の一つになるまでカジュアル化した。
 しかるに、本書に見るようなカタチでの「性のカジュアル化」を自分が望んでいたかと言えば、首をひねらざるを得ない。
 中村が「グチャグチャに」なったと言うのも頷ける。





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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




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