ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『レディ・ジョーカー』(平山秀幸監督)

2004年日活、東映
121分

 原作は高村薫の同名小説。
 1984-85年に世間を騒がせたグリコ・森永事件を題材とした社会派ミステリー。

 犯人(キツネ目の男)が捕まらずに時効になってしまった同事件であるが、元グリコ関係者説、株価操作をねらった仕手グループ説、被差別部落民説、作家の宮崎学説、元暴力団組長グループ説、北朝鮮工作員グループ説など、さまざまな憶測が飛び交った。
 真犯人が捕まらなかったのは、一味に身内(現職警官)がいて捜査情報を流していたからではないかという説もある。

 本作では、レディ・ジョーカーを名乗る犯人グループのメンバーとして、部落差別当事者を身内にもつ男、在日朝鮮人、重度障害の娘をもつ男、ブラック企業で働く男、所轄の刑事の5人――演じるは順に、渡哲也・吹越満・大杉漣・加藤晴彦・吉川晃司――を組ませて、いわば日本社会の底辺で生きる者たちの復讐劇といった色合いを出している。
 彼らのターゲットとなるのは、グリコならぬ日本を代表する一流洋酒メーカーである日之出ビール。
 なので、観る者にとっての正義は、被害者である日之出ビールや犯人を追う警察側にあるのではなく、庶民の代表たるレディ・ジョーカー側にある。
 社会の負け組による報復――その意味では、タイトルの一部を同じくするアメリカ映画『ジョーカー』(2019)に先駆けていると言えよう。

 主演の渡哲也も渋くていいが、やさぐれた刑事を演じる吉川晃司が印象的。
 80年代アイドル(デビュー曲『モニカ』)が、こんなにいい役者になっていたとは知らなかった。
 誘拐される日之出ビール社長・城山恭介役の長塚京三、副社長役の岸部一徳も存在感あって素晴らしい。

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サイコパスチックな刑事を演じる吉川晃司 
 
 ストーリー的にはアラが目立つ。
 辰巳琢郎演じる社長の弟が、なぜ自殺を選んだのか説明が見当たらない。
 吉川晃司演じる刑事が、なぜ徳重聡演じる合田刑事に執着するのか分からない。
 企みが成功し20億という大金を手に入れたのに、重度障害の娘を捨て去る父親(大杉漣)の心理描写も粗雑である。
 レディ・ジョーカー5人それぞれが犯罪計画に乗ろうとする動機や背景がじっくり描き込まれていないため、「部落や在日や重度障害というレッテルさえ出せば犯行動機として十分だろう」といったステレオタイプ化された(=観る者の差別意識に阿った)安易さを感じる。
 原作ではおそらく細かい描写があるのだろうが・・・・。

 ジョーカー(=ヨアキン・フィニックス)をキレさせるに至ったえぐいほどの悲惨さ、あるいはハンセン病差別を背景とする『砂の器』の慟哭に達する哀しみと比較したときに、この腰が引けたような粗雑さは残念至極。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● 母を訪ねて 本:『出生地』(ドン・リー著)

2004年原著刊行
2006年早川書房(池田真紀子・訳)

 1980年の東京を舞台とするサスペンスミステリー。

 博士論文のリサーチのために日本を訪れたアメリカ人女性リサ・カントリーマンが、「香港に渡る」という言葉を最後に失踪した。
 故国に住む姉から捜索依頼を受けた米大使館職員トム・ハリーと、麻布警察署の“窓際族”である太田刑事は、それぞれの思惑からリサの行方を追う。

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 著者のドン・リーは在米コリアン3世で、父親が外交官であったため子供時代を東京とソウルで過ごしたという。
 幼い頃の記憶の中にある日本と、新たに取材調査した80年代の日本、その結合が本書を生んだのであろう。

 外国人が書いた日本という点で、まず興味深い。
 ステレオタイプの日本像になるのはやはり避けがたく、高校時代の英語の副読本を思い出した。
 つまり、秋休みを利用してアメリカからやって来たペンパルのBenに、日本の名所や文化や風習を案内するYoshioとSachiの兄妹、といった観光案内タッチである。
 浅草の神輿かつぎ、禅寺での坐禅、お花見、お盆のお供え、紅白歌合戦、除夜の鐘、初詣といった伝統的なものから、80年代当時の風俗――窓際族、クリスマスケーキ(25歳過ぎたら女は見向きもされない)、竹の子族、ディスコブーム、銀座での接待、街中に溢れるへんてこりんなJaplish(和製英語)・・・・。
 とりわけ、(これはさすがに高校の副読本には載せられないが)性風俗の描写は微に入り細をうがっている。
 ソープランド、ピンサロ、イメクラ、覗き部屋、ノーパン喫茶、ラブホテル・・・。それらに群がる日本の男たちの昼の真面目な会社員の顔とは異なる夜の生態もとらえている。
 「屁は日本の古い歴史を持つ伝統芸である」といったジョークだか勘違いだかわからないような、思わず脱力するくだりも散見されるが、全般、一種の日本文化論として楽しむことができよう。

 日本人はウェットな人種なのだ。水気を含んで粘る米のように、仲間同士くっついて生きるのを好む。温かく、優しくて、情に篤い。対照的に西洋人は、ばらばらした彼らの米のように、ドライで不人情で個人主義的だ。

 1980年という時代を映すのに、大平首相の急死とジミー・カーター大統領の葬儀参列、在イラン米大使館人質事件、ソ連によるアフガニスタン侵攻、モスクワ五輪ボイコット、市場開放をめぐるアメリカとの貿易戦争e.t.c.といった時事テーマを散らし、一方、日本独特の戸籍制度や入管制度や刑事手続きについても丹念に調べていることが伺える。
 ソルティは80年代の日本や東京を知る一人であるが、時代の雰囲気はなかなかよく出ているんじゃないかと思う。
 
 次に特筆すべきテーマは、人種問題・民族問題である。
 幼い頃に捨てられ日本の養護施設で育ったリサは、実の両親を知らない。
 自らを日本人と黒人のハーフと思うが、外見はどちらにも見えず、アイデンティティの揺らぎに悩む。
 
 彼女は黒人と呼べるほど黒人らしくなく、東洋人と呼べるほど東洋人らしくなく、さらには白人と呼べるほど白人らしくない。初めて会った瞬間に自分の人種的分類を説明しておかなければ、かならずだまされたような気持を相手に抱かれる。説明せずにおくのは、怠慢の罪ででもあるかのように。黒人のくせに白人として通そうとしているかのように。その一方で、いずれかの人種への連帯感を宣言したところで、誰も信じない。 

 また、大使館職員トムは、韓国人の母とアイルランド系アメリカ人の父をもつが、自らをハワイ人と称することで、他人からのそれ以上のよけいな詮索を回避している。
 日本人のほとんどは、こうした“人種的分類”に関する煩瑣な説明を免れている。
 流暢な日本語さえ話していれば、「あなた、ナニジン?」、「父親と母親の人種は?」などと詮索されることがない。
 それゆえ、人種問題・民族問題に鈍感である。
 もともと移民の国であり、高い流動性を持ち異人種間の結婚の盛んなアメリカ、しかもいまだにWASPを頂点とする格差社会であるアメリカにおける人種問題・民族問題、そこに由来する個人のアイデンティティ(帰属)の問題。
 本書は、その複雑さと深さを伝えてくれる。


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アメリカは「人種のるつぼ」と言われる

 
 三つ目はネタバレになってしまうが、本書の核となるテーマは「母親探し」である。
 リサが日本に来た真の理由は、生みの母――50年代の終わりに日本駐留の黒人兵士との間にできた真由(=リサ)を養護施設に捨てた――に会うためだったのである。
 母親と会って、父親のことを聞いて、自分が何者であるかを確認したかったのだ。
 その意味で、本書は森村誠一の『人間の証明』のアレンジのようである。
 
 『人間の証明』では、日本人の母親と黒人の父親との間に生まれた色の黒い青年ジョニーが、母親に会うために勇んで日本にやって来るが、過去を隠したい母親の手によって命を奪われてしまう。
 本書では、黒人にも白人にも東洋人にも見えないリサが、母親の居所をついに探り当て、自らの正体を告げる。
 そして・・・・。

 本書は決して重苦しい小説ではない。
 太田刑事が登場するシーンなどは、刑事とは思えぬほど不器用で世間知らずでコミュ障な言動に、にやりとさせられる。
 やはり80年代に流行った「恋愛マニュアル」片手に、今夜のデートの予習をし、好きになった女性の落とし方を勉強しているところなど、日本のオタクっぽい青年そのもので、2004年にヒットした『電車男』を彷彿とさせる。

 ここまでずいぶんネタバレしてしまったように見えるが、実はもっとも大きなネタを明かしていない。
 本書はミステリーとしては、あるいはサスペンスとしては「凡庸」という評価を下されるかもしれない。
 が、その最大のネタ(どんでん返し)ゆえに、すべての日本人にとって痛みを伴って然るべきエモーショナルな内容であり、邦訳されて読まれる価値が十分にある。
 
 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● 三十年の馬鹿騒ぎ 映画:『仁義の墓場』(深作欣二監督)

1974年東映
94分

 東映ヤクザ映画の極北と言われる作品で、渡哲也の代表作の一つ。

 あまたのヤクザ映画と一味違うのは、これが実在したヤクザの半生を描いたノンフィクションであるところ。
 大正15年、茨城県水戸市の貧しい家に生まれ、「ヤクザになるため」に東京に出てきた石川力夫という男の、まさに破滅に向かって一直線の生きざま・死にざまが描かれる。

 石川を演じる渡は当時35歳。
 膠原病を発症し、最初の長い入院から復帰したばかりであった。
 体調は万全でなく、撮影中に点滴を打っていたという。
 渡の生に対する欲望、映画にかける執念が凄まじい気迫を生み、石川力夫が乗り移ったかのような迫真の演技となっている。
 かつて属した組の親分や舎弟らの面前で、自殺した妻の骨をぽりぽり齧るシーンの表情には鬼気迫るものがある。

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 仏教で言う阿修羅道は「闘うことが生きがいとなっている亡者の集まるところ」であるが、ヤクザの世界はまさに阿修羅道そのものであろう。
 切った張ったの世界。
 ただ、その中でも一応ルールはあって、極道に生きる者としてやってはならないこと、やらなければならないことはあるらしい。
 そういうルールを象徴する言葉が「仁義」である。
 たとえば、親分や兄弟分を手にかけるのは決してやってはならないことの一つであり、仁義にもとる行いである。

 石川力夫が伝説となったのはまさにそのルールを踏みにじったからで、一宿一飯以上の恩義ある親分を日本刀で切りつけ、なにかと庇い続けてくれた兄弟分をピストルで射殺してしまう。
 仁義もルールもしがらみも一切関係なく、気の向くままに暴力沙汰を引き起こす。
 置屋で出会い死ぬ前には妻にした女・地恵子(=多岐川裕美)にも、「金が要るから体を売ってこい」となんの躊躇いもなく言ってのける。
 今風に言うなら、サイコパスに近い。
 
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多岐川裕美(当時23歳)
 
 “普通の”ヤクザ映画とは異なる点はほかにもあって、本作の導入部では石川力夫の生い立ちが、古い白黒写真と当時を知る人々の証言とで綴られる。
 証言の一つによると、「一回泣き出すと、2時間でも3時間でも泣き続けていた」というから、疳の強い子供だったのだろう。
 
 手元にある『スクリーンのなかの他者』(岩波書店刊行『日本映画は生きている』シリーズ第4巻)の中で、高澤秀次という文芸評論家がこの導入シーンに言及し、石川力夫と部落差別を結びつけるような論を展開している。
 曰く、「この男をつき動かしてきたものが、和解しがたい出自にまつわる恨みであった」。
 事実のほどは知らないけれど、たとえ石川力夫が部落出身者であったとしても、死に場所を探しているかのような無軌道な生き方は、それのみによって説明できるところではなかろう。
 なぜなら、ヤクザの世界に部落出身者や在日コリアンが多いことは昔からよく知られているからである。(昨今の様子は知るところではない)
 
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 石川力夫は府中刑務所に収容されていた30歳の時に、屋上から飛び降りて自殺した。
 彼の胸中に何があったのか、人生をどう総括していたのか、もはや想像の域を出ない。
 映画の最後では、独房の壁に殴り書きされた辞世の句が映される。
 
 大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ
 
 
 
おすすめ度 :★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 日本版宮沢賢治? 本:『ひとさらい』(ジュール・シュペルヴィエル著)

1926年原著刊行
2013年光文社(永田千奈訳)

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 不思議な味わいのある作品。
 これまであまり読んだことがないようなタッチが新鮮である。
 コアなファンをもつというのも分かる気がする。

 ジュール・シュペルヴィエル(1884-1960)はウルグアイ生まれのフランス作家。両親はフランス人で両国籍を持っていたという。
 訳者によれば「フランス版宮澤賢治」として日本の読者に話題になったらしい。
 たしかに幻想的で童話タッチな詩のような語りは、『銀河鉄道の夜』や『ヨタカの星』などを思い出さないこともないが、テーマの質が宮澤とはまったく異なる。
 とくに『雨ニモ負ケズ』の宮澤とはかけ離れている。
 訳者が「あとがき」で触れているように、シュペルヴィエルの作品にはエロティシズムが漂っている。
 むしろ、『ロリータ』のナボコフや『少年愛の美学』の稲垣足穂を連想したほどだ。
 そう、ある種の倒錯愛の匂いである。
 
 本書の主人公ビグア大佐も、ウルグアイの大統領候補に挙げられるほどの大人物で歴戦の勇士のはずなのに、妙に神経症的で周りの目を気にしてばかりいて、そのギャップがおかしみを生む。
 周りの目の中には妻や子供や使用人すら入るのだ。
 そもそもギャップと言えば、大佐は虐待されている子や捨てられた子を見ると過剰なまでの憐れみを感じ、身柄を引きとって養父となって慈しむほどのやさしさを備えているのだが、法律的に正当な引きとり方をせずに無断でさらってしまうのである。
 立派な犯罪者である。
 そこには正義や慈悲とは別種の、嗜癖につながるようなフェティッシュな情動が潜んでいる。
 大佐が周囲の目を気にするのは、おそらく、自らもはっきり自覚していない複雑なるセクシュアリティを見抜かれまいとするためなのだろう。
 
 他の作品を読んでみたい。


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』(菅賀江留郎著)

2016年洋泉社発行

 戦後間もない静岡県で3つの冤罪事件が立て続けに起った――幸浦事件(S23)、二俣事件(S25)、小島事件(S25)。
 いずれも逮捕された容疑者に一審、二審とも死刑判決がなされ、最高裁で引っくり返って無罪が確定した。
 そのすべての事件の捜査に最初から関わって容疑者を自白させたのは、数えきれないほどの犯人検挙の実績をもち表彰されること五百回余という、県警きっての名刑事・紅林麻雄であった。
 その後も同じ静岡で起きた冤罪事件――島田事件(S29)、丸正事件(S30)、そして令和のいまも審理の続く袴田事件(S41)なども、元凶をつくったのは紅林刑事その人と云われている。
 紅林麻雄とはいったいどういう人物だったのか?
 なぜ同じ静岡県で冤罪事件が繰り返されたのか?
 それはどうすれば防げたのか?
 
 ――といったあたりが本書の主筋なのだが、副題が語っているように「道徳感情こそがその原因」というのが著者の主張である。
 道徳感情が冤罪の原因?
 普通、逆ではないのか? 道徳的でないから冤罪が起こるのでは?
 それとも、ここでいう道徳とは明治時代に世間に跋扈したという自己責任・自助努力を強調する通俗道徳のことなのか?
 

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ラファエロ作「堕天使を駆逐する聖ミカエル」をあしらった表紙


 掛け値なしの力作にして労作である。
 小口35ミリ、500ページを優に超える分量。
 巻末に上げられた参考文献たるや、300は数える。
 しかも、当事者のオリジナル証言が載っている一次資料が多く、先行する他の本からの引用や孫引きに頼らない正確さ重視の徹底した取材姿勢がうかがえる。
 “書庫派”を自認するだけあって、手間ひま惜しまず、根気よく丹念に調べ上げている。

 さらに、テーマの広がりと深さは特筆に価する。
 少なくとも5冊分のテーマと内容が凝縮されている感をもった。
 筆致もまたドラマチックなまでに熱く、「このことを世に知らしめたい」という著書の半端ない情熱が伝わってくる。 


「あとがき」にこうある。
〈二俣事件〉というあるひとつの冤罪事件について書くつもりが、冤罪すべての根本原因を解き明かし、さらには冤罪や殺人だけでなく、大恐慌や戦争、テロや革命に至る人間の歴史を動かす原理がじつは〈道徳感情〉であるなどという、その悲劇の克服法までをも含めた人間の本性についての壮大なる統一理論を展開する羽目になってしまいました。

 テーマの広がりと深さというのはまさに上の通りで、点が線となり、線が面となり、面が立体となり、立体が時空を超えるような、目くるめくスリリングな展開には興奮を覚える。
 一方、いろいろなテーマや人物エピソードを盛り込みすぎて全体に散漫な印象になっており、また、核となる冤罪事件の原因についての究明が後半になると具体性を失ってどんどん形而上学的になっていき、全般、焦点が曖昧になってしまった感がある。
 著者もその点は自覚しているようで、「この世のすべてを解き明す現代版〈造化の秘鍵〉を打ち立てるが如くになんでもかんでもぶち込んで大風呂敷を広げているよう」と自ら言っている。

 本書の後半で著者は、冤罪の原因を突き詰めていくとアダム・スミスの「道徳感情論」に行き当たると言う。
 そして、道徳感情は人類が進化の過程で身に着けた社会的性質(いわば認知バイアス)であり、それゆえ人間の本性である、冤罪は起こるべくして起こる――という結論につなげている。
 ソルティはアダム・スミスにも進化理論にも詳しくないので、この結論が当たっているかどうかは分からない。
 まことに興味深いテーマではあるが、ちょっと論理の飛躍が過ぎるんじゃないかという感を持った。

 なぜなら、実際には犯人を上げられずにお蔵入りする事件も数多くあり、そしてその際にたとえ怪しい容疑者がいたとしても多くの刑事たちは、紅林刑事のような拷問による自白強要や証拠のでっち上げなどしないのであるから、「冤罪=人間の本性」と結論付ける前にもっと個別の問題として精査すべき点はたくさんあろう。
 たとえば、紅林刑事のパーソナリティなり、静岡県警の体質なり、日本の捜査手法なり、裁判制度なり、組織間の縄張り争い(縦割り行政)なり、我が国の人権意識なり、マスコミの報道姿勢なり・・・・。
 いや、著者が決してそのあたりの追究や考察も疎かにはしていないことは前半で示されている。
 要は、前半と後半の作風のギャップのせいかもしれない。

 具体的な冤罪事件をめぐる検証ドキュメントという社会派スタンスと、冤罪という現象をめぐって見えてくる人間存在の解明という現象学的スタンス。
 両者の接合具合にすっきりしないものを感じた。 
 後半部におけるかなり強引にして粗雑な理論の展開が、前半部のせっかくの緻密なデータ調査による事件や世相の解析の価値を減じてしまった気がする。 
 はじめからどちらか一方にテーマを絞って、構成を組み立てて論じたのなら、もっとすっきりした読後感が得られたのではないか。
 そこを読者サービス満点と取るか、欲張りすぎ・気負いすぎと取るか、無理筋ととるか・・・・。
(ソルティは、5冊分の内容を1冊に詰め込んだのは「もったいない」という気がするが)

 菅賀江留郎(かんがえるろう)はもちろん筆名。
 詳しいプロフィールは不明。
 「少年犯罪データベースを主宰。書庫に籠もって、ただひたすら古い文献を読み続ける日々を送っている」とある。
 力量ある、個性的な作家であることは間違いない。
 今後の仕事に期待大である。 
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 夏の快適アイテム2 空調服


 連日気温35度超えが常態となりつつある日本の夏をどう乗りきるかについて、完全テレワークの人以外の誰もが、しっかり考えなければならない命題であろう。
 ただでさえ熱中症や夏バテになる危険があるのに、この夏は常時マスクをつけていなければならないのだから。
 また、戸外からクーラーの効いた屋内に入っても、吹き出す汗と暑苦しさのため、しばらく仕事に身が入らないというのも考えものである。
 ソルティはとくに、背中や胸や脇の下に下着やシャツが張り付く感触が嫌いで、なんとかならないものかと常々思っていた。
 
 ゴールデンウィークが明けて気温がグッと上がった頃に、この夏の対策を決めた。

 空調服――

 両脇腹に小型のファンがついているポリエステル製のジャケットだ。
 炎天下の建築現場や工事現場で働く人、エアコンのない工場で働く人、さらには交通誘導員や警備員の作業服というイメージがあるけれど、最近はキャンプや川釣りなど夏のアウトドアで使用する人が増えている。
 ワークマンに行けば、女性向けや子供向けを含め、色・デザインとりどりのファッショナブルなものが並んでいる。
 梅雨入り前に最寄りのワークマンに行って、ジャケットとファンとバッテリーの3点セットを購入した。

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3点セット(計1万5千円くらい)


 梅雨明けした7月中旬から30度超えの酷暑が始まった。
 仕事の行き帰りや休日の朝夕の散歩時に、空調服の着用を始めた。

 使って気づいたことだが、外を歩いている時は気にならないが、屋内では結構ファンの音がうるさい。
 また、炎天下を歩いているときに途中でバッテリーが切れないよう、あらかじめしっかり充電しておく必要がある。
 一番の注意事項は、ファンが作りだした風がジャケットの中をスムーズに流れるように、一回り大きめのサイズを買うことである。
 ソルティはあらかじめネットでつかんでいたこのアドバイスを軽く見て、体裁を優先し、ぴったりサイズを選んでしまった。
 いまいち効果が感じられないなあと思ったら、案の定ポッコリお腹がジャケットに張り付いて、空気の流れを遮断していたのである。
 一回り大きいサイズのジャケットに買い代えたら、上半身の前と後ろに気流が行きわたってジャケットが風船のように膨らんだ。
 
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空気による膨らみです。メタボではありません(かろうじて)


 さて、はたして効果のほどやいかに?

 外出する時にはスイッチを入れっぱなしにしているので、いま一つよくわからない。
 たしかにジャケットの中に手を入れてみるとひんやり涼しいし、わきの下や首回りの開口部からは静かな風が吹き出してスースーして気持ちいい。
 だが、顔に当たる強烈な陽射しをさえぎってくれるわけではないので、いつもの夏にくらべて違いがあるのかないのか、どうもピンとこない。
 これはもう、スイッチを入れてファンを回した場合とスイッチを入れてない場合とで比較実験してみるよりない。

【実験方法】
① 空調服を着て30度を超える炎天下を歩く。(足元はいぐさ草履
② 最初はスイッチを入れないで25分間、次はスイッチを入れて25分間。
③ 汗のかき具合、息苦しさ、体温、疲れ度合などについて、両者を比べてみる。

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風があるためいつもよりしのぎやすい炎天下の午後
(30度超えになれてしまっているのが怖い)


実施日  8月1日(日)晴れ、やや風あり 外気温34.8度
開始時刻 15:30

① スイッチを入れないで、なるべく日向を選んで歩く。 

 開始時 体温35.8度(クーラーの効いた部屋に数時間いたため平熱より低め)
  • 10分後 背中に汗が出る
  • 12分後 胸に汗が出る
  • 15分後 シャツが背中と胸に張り付く、脇の下とマスク内にも汗が出る
  • 20分後 額に汗が出る、マスク外したい!
  • 25分後(終了) 息苦しい。クーラーの効いた室内に入るも、10分間は汗がだらだらと流れ続け息苦しさが続く。シャツとパンツがぐっしょり。立っていられないほど疲れた~。
 終了時 体温36.4度

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歩く前より0.6度上がっている

 30分間、クーラーの効いた場所にて休憩。水分を補給する。


② スイッチを入れて、なるべく日向を選んで歩く。

 開始前 体温36.4度(体温下がらないまま)
  • 10分後~ 明らかに違う。胸にも背中にも脇の下にも汗をかかない。ジャケット内に手を入れると、肌がひんやり湿っている。汗で濡れていたシャツの脇の下と胸の部分にファンの風が当たって、生地がどんどん乾いていく。マスクの中はあいかわらず苦しい。
  • 25分後(終了) 歩き終えた後がさっきと全然違う。汗が噴き出すようなことはなく、息苦しさもない。しんどさも少なく立ったままでいられる。のどもさほど乾いていない。
 終了時 体温35.6度0.8度低下) 

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一瞬目を疑った。歩く前より体温が下がっている!!

 ちなみに、スイッチを入れファンを回した状態で体温を測ってみたら・・・・

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脇の下から抜け出る風によるものだろう

【結果】
 空調服は体温を下げ、汗をかくことによる脱水を防ぎ、体力消耗を防ぐ効果がある。 
 
【備考】
 空調服の仕組みは、気化熱の利用にある。
 服に取りつけられているファンが汗を蒸発させる際の気化熱によって、体温を下げる仕組み。
 なので、汗をかかない状態だと効果は薄い。(クーラーのように冷たい風が送られて涼しくなるのではない)
 ポッコリお腹同様、背中のデイバッグやリュックサックもまた、せっかくの気流を遮ってしまう。
 空調服は山登りには向かないのであった(もちろん、手ぶらならOK)。 
 
【結論】
 10分間くらいの歩行では著しい効果は感じられない。
 ただ、歩き終わった後もしばらくファンを回しておくことで、体温の上昇を抑え、汗のかきすぎを抑えることが期待できる。
 長く歩くほどに、空調服を着ていない時との違いは大きくなる。 


 今回の実験で、空調服の効果のほどを実感した。
 熱中症や夏バテ対策にはとても良いアイテムだと思う。
 実際ネットでも、「一度着始めたらもう手放せなくなる」という声を多く見かけた。

 一方、汗をかくことには、新陳代謝を上げる、肌を健やかに保つ、ストレスを解消する、よく眠れるなどの効果がある。
 オフの時には運動をして、たっぷり汗をかくことも忘れないようにしよう。


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インナーに体にぴったりの放熱冷感シャツを着るとより効果的








● 本:『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(宮崎伸治著)

2020年三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売

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 別記事で紹介した『交通誘導員ヨレヨレ日記』(柏耕一著)と同じ「3K仕事、内幕暴露日記シリーズ」(ソルティ命名)の一冊。

 副題に『こうして私は職業的な「死」を迎えた』とある通り、イギリスへの留学経験含め英語力を身に着けるための熱心な武者修行の果てに憧れの出版翻訳家になった著者が、一時は訳者として関わった本(スティーブン・R・コヴィー著『7つの習慣』)がベストセラーになり多額の印税と“引く手あまた”の栄光を手に入れるも、出版業界の独特にして理不尽きわまる慣行に振り回されて怒りとストレスをためてバーンアウト、ついには翻訳業から手を引く決心をするまでの波乱含みの経緯を記している。
 この場合の「3K」とは、「きつい、契約がずさん、金にならない」だろうか。

 10代の頃から創元推理文庫や早川書房の本格ミステリーが好きで、大学では英文科に籍を置いたソルティも、「翻訳家になろうかな」と一時思った(魔が差した)ことがある。
 自らが発見した欧米の傑作ミステリーを、自らの手で訳して紹介し、それが書店に並んでベストセラーとなって、優雅な印税生活ができたら素晴らしいじゃないか、と夢想したのである。
 出版社に言われた締切りさえあるものの、好きな時に好きな場所でマイペースで仕事できて、会社勤めのような人間関係に悩まされないところもポイント高かった。
 しかし、どうやったら翻訳家になれるんだろう? 
 どうやって仕事を手に入れるんだろう?
 食っていけるだけの収入はあるのだろうか?
 そんな疑問が胸をよぎった。

 本書の魅力の一つは、そういった疑問に十分こたえてくれているところである。
 出版翻訳家という職業の実態と過酷な労働事情と出版業界の闇(病み)――とりわけインターネットが登場して「出版不況」が叫ばれるようになってからのジリ貧――を教えてくれる。
 なるほど、翻訳家にならなくて良かった・・・。

 私は本書で、ただ単に自分の不遇を嘆きたかったのではない。私には何がなんでも伝えたかった重要なメッセージがあった。
 ひと昔前までの私は金銭欲も名誉欲も旺盛な俗物であった。だからこそ欲望に惑わされて関わってはならない人や出版社と関わり、さまざまな「地獄」に陥った。そしてその「地獄」の底で私は金銭も名誉も幸せを保証するものではないことを悟った。

 著者は現在、警備の仕事をしているという。
 もとい警備の仕事を馬鹿にするわけではないが、著者が時間と金と気力をかけて長年磨き上げた英語力が活用されないのは、とてももったいない気がする。(ハッ!自分もそうか
 本書の発行を機に、新たな仕事とこれまでとは景色の異なる人生が展開することを祈念するものである。
 著者自身がかつて霊感と驚異的な集中力でもって訳した成功哲学の聖典『7つの習慣』の真価を、いまこそ見せてほしい。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● ヴィーガン映画? :『心と体と』(イルディコー・エニェディ監督)

2017年ハンガリー
116分

 雪におおわれた森の中、見事な角をもつ雄鹿と淋しげな目をした雌鹿とが静かに戯れている。

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 連夜のように同じ“鹿の夢”を見ている食肉工場で働く男と女。
 エンドレ(=ゲーザ・モルチャーニ)は妻と別れてから人を愛することをやめた中年男性、左腕が不自由である。
 マーリア(=アレクサンドラ・ボルベーイ)は発達障害気味の風変りな若い女性、異常なまでの記憶力をもち人と触れ合うのが苦手。
 ひょんなことから、夢を共有していることを知った二人は互いを意識し合う。 

 不器用な男女のスピリチュアル風恋愛ドラマなのであるが、この内気さと生真面目さは日本人には共感しやすいと思う。
 ハンガリーは自殺大国の汚名を得ていて、本作でもエンドレとの関係に絶望したマーリアが簡単に自殺を決行するシーンがある。
 どちらかと言えば悲観的に物事をとらえるところも、日本人と似ているのかもしれない。
 
 二人の恋の行方も気になるが、本作でより気になったのは二人の職場である食肉工場における牛の解体シーンである。
 むろん映しだされるのは、かつての日本の被差別部落であったと聞くような、丸ごと一頭の牛を下帯一つだけの男が熟練したナイフさばきで血だらけになって解体する、といった生々しく骨の折れる命との格闘風景ではない。
 製薬工場や製パン工場と変わりのない、完全にオートメーションされ分業化された、無機質と思えるほどの流れ作業である。
 牛たちは名前も個別性も持たず、AランクとかBランクとか肉質のみで識別される。

 工場の採用面接にやって来た若い男に、エンドレは尋ねる。
 「殺される牛を哀れだと思うか?」
 若い男は答える。
 「なんとも思いませんよ。血も平気です」
 エンドレは言う。
 「哀れむ気持ちがなければ勤まらない。神経をやられる」

闘牛

 現在、欧米を中心にヴィーガニズムが非常な勢いを見せている。
 ヴィーガニズムとは

衣食他全ての目的において――実践不可能ではない限り――いかなる方法による動物からの搾取、及び動物への残酷な行為の排斥に努める哲学と生き方を表す。
(ウィキペディア『ヴィーガニズム』より抜粋)

 卵や乳製品も口にしない、毛皮や革の使用にも反対する、ベジタリアンよりもっと徹底した脱搾取主義である。
 その是非をここで論じるつもりはないが、そうした風潮の中でわざわざ食肉工場を舞台に選び、牛が瞬殺され解体される一連の流れを描いた映画が制作され、それが国際的な評価(第67回ベルリン国際映画祭金熊賞、第90回アカデミー賞外国語映画賞候補)を得たという事実は、何を意味するのだろう?
 これは恋愛ドラマを隠れ蓑にしたヴィーガニズム推奨映画なのだろうか?
 
 よくわからないが、仮に二人が見た夢の主役が鹿ではなく牛だったら、ものすごいブラックジョークになっていたのは確かである。
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★ 
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● ONとOFF 本:『ブッダの実践心理学第5巻 業と輪廻の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃共著)

2009年サンガ発行

 仏教の三蔵(三つの聖典・・・経蔵・律蔵・論蔵)のうち論蔵にあたるアビダンマを、テーラワーダ仏教の出家僧たるスマナサーラ長老が懇切丁寧に説いた、アビダンマ講義シリーズの一巻である。
 アビダンマはいわば、仏教哲学の集大成である。

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 本巻で取り上げられている「業(カルマ)と輪廻」こそは、仏教の言説の中でもっとも神秘的かつオカルチックで、非科学的・迷信的と断じられやすく、物議をかもす部分であろう。

 業と言えば「自業自得」という言葉がすぐに思い浮かぶが、どこか冷酷で断罪的なイメージが強い。
 元来は「自分で行った行為の結果が自分に返ってくる」というニュートラルな意味合いで、悪い行いだけでなく善い行いについても使われる言葉なのだが、残念ながら、「それみたことか!」、「自己責任!」、「言わんこっちゃない!」、「思い知れ!」といった否定的ニュアンスで使われることが多い。
 使い方を間違うといらぬ誤解を招き、人間関係にひびを入れたり、他人を傷つける結果になりやすい。
 とくに輪廻転生(生まれ変わり)と絡んで使われる場合、「前世で悪いことをしたから障害者として生まれた」とか、「いかなる理由があろうと、生んでくれた親を殺めたからには来世は地獄行き」といったように、本人に責任(の自覚)がないのに一方的に人を裁いて貶めたり、尊属殺人に対する重罰(つい最近まで日本では親を殺したら死刑が普通だった)を正当化する根拠のごとくみなされたりと、合理性と思いやりに満ちた概念とはとうてい言えまい。

 それに現実を見れば、「悪いことをしたら必ず悪い結果が跳ね返ってくる」なんて正義の鉄槌はむしろ少なくて、うまく立ち回る悪人こそが栄え、正直につましく生きている者が不当な仕打ちを受けるのが世の習いではないか。(だからこそ物語では正義の味方が渇望されるのだ)
 それに対する業論の理屈は、「いや、今生では結果が出なくとも来世か、その先のどこかの転生先で報いは必ずあるのだ」とか、「たしかにカルマは正しく働いているが、カルマがすぐに出るのを妨害するカルマというのもあるのだ」とか、結局どう結果が出ても巧みに言い逃れできる占い師のような都合のいい言説を振りかざす。
 ソルティは基本的に業論が嫌いであるし、業論を振り回す人も嫌いである。

 輪廻転生(生まれ変わり)もまた議論百出である。
 「自分の前世はなに?」、「今生での課題はなに?」、「私のソウルメイトは誰?」といったスピリチュアルでファンシーな世迷言を生み出し、それを利用した霊感商法まがいの詐欺も引き起こす。
 また、「生まれ変わりがあるとしたら、一体何が生まれ変わるのか? 永遠の魂か?」、「しかるに仏教では永続するものはないと言っている。無我と輪廻転生はどう両立できるのか?」といった数世紀にわたる難問も立ちはだかっている。
 だいたい今の日本では、社会生活の中で輪廻転生を口にする人間は、「あやしい人」、「オウム系? それともムー系?」と思われるのが関の山だろう。
 
ダライラマ
生まれ変わりと言えばこの人


 アビダンマでは、業と輪廻について緻密な論理でもって詳細に分析している。
 本書でのスマナサーラ長老の説明は非常にわかりやすいし、アビダンマの記述の矛盾や不明点を率直に指摘していて信頼が持てる。
 そして、講義が単なる知的な説明に終わらず、聴き手(読み手)に対する説法になっている。
 つまり、業システムや輪廻転生の“科学的”説明を礎に、そこに豊かにして有益なアドリブを付け加えて、聴き手(読み手)の心の成長に役立つ実践的なノウハウをも授けてくれる。
 そこが本書の最大の価値であり魅力であろう。

 そもそも、業や輪廻転生について思い悩むことはナンセンスである。
 科学的に立証され得ないし、「脅し」によって人心をコントロールし得る危険な(悪用されやすい)言説にもなり得る。
 前世の因業のせいにして今生をあきらめるのも、来世に望みを託して今生を投げやりに生きるのも、とうてい前向きな姿勢とは言えまい。 
 そもそも、来世で「どこに、何に」生まれ変わろうが、記憶がつながっていないかぎり、そこに生まれた「自分」は今生の「自分」とは関係ないのだから、考えても意味がない。
 与えられた生を一回こっきりのものとして、与えられた場で生きるほうが充実感は高かろう。(本書によると、餓鬼道すなわち霊界と地獄においては前世の記憶があるらしい)
 要は、今をしっかりと慈悲と智慧をもって生きることだ。
 業システムや生まれ変わりが本当にあるのならば、そのように生きることで来世の幸福は保証されるし、それらが実在しないとしても少なくとも今生において、「自分は何にも恥じない生き方をしている」と自信をもって明るく生きられる。
 生まれ変わりや業はあってもなくても関係ない。
 こういう考え方を仏教では「アパンナカ(無戯論)」と言っている。

 思うに、輪廻という概念において重要なのは、前世とか来世とか六道廻りとかソウルメイトといったことよりも、輪廻とは変化の謂いであり、諸行無常の様態を表しているという理解であろう。

 仏教が言う「生まれ変わり」とは、「この身体に生まれる最後の瞬間が終わったら、すぐ次に、なんの隙間もなく、同じ感覚で、次の心が生まれる。今も隙間なく心が生滅変化しているのだから、そのときも隙間なく、死んだ。そして次に、生まれた」ということです。

 本当は、死は、いつでもあるものです。いつでも、死ななければ新しいものは生まれないのです。我々が勉強したら、新しい知識が生まれるでしょう。それには、前の心が死ななければ、生まれるわけはないのです。身体が死ななければ、いくら運動しても健康にはならないのです。弱い身体の人が運動すると、その弱い身体がじわじわと死んでいって、強い身体が生まれてくるのです。だから、死ななければ、何も成り立ちません。「瞬間の死」ということが、一番大事なことなのです。
(本書より抜粋)

 瞬間瞬間、我々の心も、身体も、この世界も、生まれては死んでいる。死んでは生まれている。
 コンピュータのように、0(OFF)と1(ON)とを繰り返している。
 それがあまりにも速いので、そして我々は0(OFF)を認識することができないので、連続しているように(常にONばかり)見えるだけなのである。
 諸行無常とは、「桜の花はすぐに散って儚いねえ~」とか「驕る平家は久しからず」といった“もののあはれ”風な感慨とは別物である。

 いったいにONとOFFを繰り返す以外に、物が変化していく方法があるだろうか?
 たとえば、アジサイの花の色の変化をじっと観察する。
 人間の視覚の分解能は1秒の1000分の50~100程度と言われるので、この時間よりも短い変化を認識することはできない。
 思考実験してみる。
 もし視覚の分解能に限りがなくて、どこまでも微分して観察してゆくことができたなら、アジサイの色の変化の瞬間をとらえることができるだろうか?
 最終的にはOFFの瞬間がなければ変化は成り立たないと得心できるはずだ。

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おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● 夏の快適アイテム1 いぐさ草履

 いぐさ草履を知ったのは、かれこれ四半世紀も前のこと。
 当時住んでいた仙台の街に『ぐりん・ぴいす』というお店があった。
 自然食品店&雑貨店&出版社&市民活動の拠点というユニークな店だった。
 そこで働いていたスタッフからすすめられたのだ。
「とっても気持ちいいし、歩くたびに草履おもてが足の裏を“ぺったん、ぺったん”叩くから、ツボが刺激されて脳にも健康にもきっといいよ~」
 もちろん天然いぐさを使用、鼻緒はビロード仕立てであった。

 夏のつっかけと言えば、子どもの頃からゴム製ビーチサンダルと相場が決まっていたソルティにしてみれば、決して安くない買い物ではあったけれど、複数のスタッフが口を揃えて履き心地の良さを力説するものだから、試してみる気になった。
 なにより、真新しいいぐさの香りがすがすがしかった。
 それ以来、毎年梅雨が明けると新しいいぐさ草履を買って、ひと夏で履きつぶすのが恒例となった。

 十数年前に東京に帰ってきてからは、近くに扱っているお店がなくて、ふたたびビーチサンダルに戻った。
 あるいは、合成樹脂でできていて爪先から甲の部分まで覆われていて、そこに穴がたくさん空いている、いわゆる「クロックス」サンダル。
 いつの間にか定番になっているが、日本で流行り出したのは2007年からという。
 「あんなヤンキーが履くような、合成着色料でコーティングされたアンパンみたいな靴なんて履けるか!」
 と最初は拒否っていたけれど、なんの拍子か試してみたら、軽くてやわらかく、路面の衝撃を吸収してくれる。
 足指が自由に動かせるので解放感がある。
 バンドの位置によってスリッパ風につっかけにもなるし、かかとに引っかけて簡単に脱げないように固定もできる。
 一昨年、左足のかかとの骨を折った際、ギプスが外れたあとしばらくは足が浮腫んで靴が履けなかった。
 そのときは本当に「クロックス」が役に立った。

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 しかるに・・・・。
 年をとると体質は変わるもので、ソルティは四十を過ぎてから花粉症とゴムアレルギーになってしまった。
 ゴムアレルギーは四十後半になって介護の仕事を始めたときに顕在化した。
 一日の仕事が終わると、なぜか両手の指の第一関節が赤くなって痛痒い。
 入居者からダニでもうつされたのかと思って、施設の看護師に診てもらった。
 「ソルティさん、それ多分グローブのせいだと思うよ」
 グローブ? 手袋?
 天然ゴムを含んだラテックス製の介護用手袋のせいだったのである。
 むろん、グローブを使わないで介護の仕事はできない。
 チーフに訳を話して、ラテックスを含まないタイプのグローブも購入してもらった。
 それを使うと症状は出なくなった。
 
 ゴムNGの身体になってしまった。
 当然、ビーチサンダルはもう履けない。
 滑り止めに使うゴムの指サックも使えない。
 ポリウレタン製でないコンドームを使うと・・・・・悲惨なことになる
 「クロックス」サンダルに天然ゴムは使われていないようだが、素足で履き続けていると、やはり足の甲が赤痒くなってくる。
 天然ゴムだけでなく、ある種のプラスチック素材もNGのようだ。
 また、バナナやアボガドやキウイにはラテックスに類似した構造物が含まれていて、ゴムアレルギーのある人がそれらのフルーツを食べるとアナフィラキシーショック(コロナワクチン接種でおなじみの用語となりましたね)を起こすリスクがあるらしい。
 できるだけ避けた方がいいのかもしれない。
 
 そんなこんなで、ここに来て懐かしの仙台の友・いぐさ草履に白羽の矢が立ったのである。
 近所の靴店をいくつか回ったが置いてなかった。
 ネットで探して取り寄せた。
 
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 綿+ナイロン製の鼻緒の硬さが取れて足指に馴染むまでちょっと時間を要したが、数回履くとジャストフィットした。
 ゴムやプラスチックでは到底感じられない足当たりの心地良さ。
 昭和生まれの日本人ならではの“畳の上で死ねる”安心感。
 汗を吸い取ってくれるので、べたつき感がまったくない。
 そして、歩くたびに交互に足の裏が叩かれる気持ち良さと「ぺったん、ぺったん」という響きの面白さ。
 歩くのが楽しくなる!

 しかも、今回思わぬ利点に気づいた。
 左右の足で「ぺったん」の大きさと響きが違う!
 つまり、左と右とで歩き方(地面への足の付き方、筋肉の使い方、地面の蹴り方)が違っていた。
 骨折から回復して一応普通に歩けるようになってはいたのだが、ケガをした左足の使い方が元のようには(右足と同じようには)戻っていない=変に癖がついてしまっている、ことに気づかされたのである。
 足首全体を覆う普通のシューズだと気づかなかったものが、草履だと足の裏の使い方が実によくわかるのだ。
 自分の場合、左足を地面に付ける時も地面を蹴る時も親指側にしっかり力が入っておらず、小指側に重心をかけて歩いていた。
 だから、長時間歩くといまだに左足の外側の腱に痛みが生じていたのだ。
 その理屈が手に取るように理解できた。

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 左右とも同じ「ぺったん」が出るように意識して歩くことで、自然と正しい歩き方、筋肉の使い方の訓練になる。
 なんといぐさ草履って素晴らしいのだろう!
 気持ちいいうえにリハビリにも役立つとは。
 
 この夏は「ぺったん、ぺったん」だ!
 




● 本:『ロックダウン』(ピーター・メイ著)

2020原著刊行
2021年ハーパーコリンズ・ジャパン発行

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 ロンドンを舞台とする刑事ミステリー。
 工事現場の穴から発見されたボストンバッグに入っていたのは、死んで間もないアジア系少女の頭蓋骨。
 退職を目前とする刑事マクニールは、少ない手がかりをもとに謎の解明に挑むが、その行く先々で重要参考人が次から次へと変死を遂げて行く。
 頭蓋骨の科学調査から重大な事実を発見し、恐るべき真相に気づいたマクニールの身辺にも危機は及び・・・・・。

 ――といった内容で、これだけなら凡庸な話なのであるが、この小説には大がかりな仕掛けが施されている。
 それこそ、タイトルが示す通り「ロックダウン」されたロンドンが舞台、すなわち死亡率80%の新型ウイルスが猛威を振るい、わずか数ヶ月で死者50万人超え(その中には英国首相も含まれる)、医療は崩壊し、暴徒が店を略奪し、軍が街を警備し、交通機関はストップし、マスクをつけ他人との接触を避ける市民は抗ウイルス薬だけを頼りに家に閉じこもる、という悪夢のごとき非日常世界の中での出来事なのである。

 この小説が書かれたのは2005年。
 「あまりにも非現実的だ」という理由で出版を見送られたそうだ。
 非現実的がまさしく“現実”となったがための緊急出版。
 まったく何が起こるかわからない。
 少女(中国人だった)の死が実は新型ウイルスの発生と関係していて、その背後には血も凍るような組織の陰謀があった・・・・・という真相も“現実”にならないといいが。

ウイルス


 いま世界中で起こっている新型コロナウイルス騒動をあたかも予知したかのような想像力とリアリティある描写は見事。
 読んでいて、同じロンドンを舞台としたドキュメントであるデフォー作『ペスト』を想起したが、元ネタはそこかもしれない。
 ゾンビパニックと本格ミステリーを結合させたのは今村昌弘『屍人荘の殺人』であるが、本作はウイルスパニックと刑事ミステリーを結合させたのである。
 その思いきった発想は買うものの、物語の収束の仕方が弱い。
 真犯人とついに対峙し追跡する場面におけるマクニールの行動はあまりに愚かで、プロらしさに欠けていて、あきれるばかり。
 ゲイのカップルや生意気な鑑識の女子インターンなど、著者が快く思っていないらしい(描き方に毒がある)登場人物が全員殺されてしまうのも、著者の偏向とご都合主義を感じさせる。
 大風呂敷を広げたわりには・・・・・という読後感が残った。
 新型コロナがなければ、たしかに発行されることはなかったろう。



おすすめ度 :★★

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● 映画:『いつだってやめられる 7人の危ない教授たち』(シドニー・シビリア監督)

2014年イタリア
105分

 イタリア発のドタバタ犯罪コメディ。
 大ヒットして続編が決定、3部作となった。

 不景気で大学を解雇された IQ 抜群の7人の学者先生たちが、起死回生をねらって、合法ドラッグの開発と販売に乗り出す。
 『フル・モンティ』(ストリップ)、『シンクロ・ダンディーズ』(シンクロナイズド・スイミング)など、落ちこぼれの冴えない中年男たちが徒党を組み、新たな分野に挑戦して一発大逆転!
――というストーリーは最近流行りのようだが、本作の肝は同じ落ちこぼれでも、普通ならトップクラスの社会的ステイタスと収入を誇るはずの有能な学者たちが主役になっているところ。

 日本でも少子化と不景気の影響で、多くの大学が経営難に苦しんでいる。
 私立大学の1/3が定員割れになっていると聞く。
 大学側は人件費のかかる正規の職員を雇うよりも、安上がりな外部からの非常勤講師を雇うので、「大学院は出たけれど・・・」みたいな若手研究者がたくさん生み出されている。
 ソルティもかつて介護士の資格を取るために通った研修センターで、有名私大の大学院卒(博士)の女性と会ったことがある。
「ピラミッド型・男尊女卑・年功序列の狭い世界で、将来性もなく安い給料で教授にこきつかわれるよりも、高齢者の世話をして安定収入を得る方がいいと思った」といったことを話していた。
 そう、ツブシの利かない学歴よりも手に職をつけた方がいい時代なのである。

 面白いのは、本作の学者たちが“落ちこぼれ”たるゆえんは、所属大学における派閥闘争や研究費獲得レースに敗北した負け組であるというのみならず、研究生活中心のアカデミックな世界しか知らないため、実社会における経験値が少なく、世渡りが下手という点にある。
 ガリ勉の優等生と遊び上手な不良は、学校内の評価と実社会に出てからの評価とが逆転する傾向にあるってことだ。
 大学を辞めた7人の学者たちは、実社会でなかなか使い物にならず、ガソリンスタンドやレストランの皿洗いなどで上司に怒鳴られながら働き、糊口をしのいでいる。
 本来の才能を発揮する機会とてなく・・・。
 そこから逆転する手段として選んだのが、ストリップでもシンクロでも合唱でもなく、合法ドラッグの開発と販売というのがユニークかつイタリアンなところである。

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おすすめ度 :★★

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● 本:『介護ヘルパーは見た』(藤原るか著)

2012年幻冬舎新書

 市原悦子主演『家政婦は見た!』ばりの家庭内ドロドロミステリーではなく、実際の介護ヘルパーすなわち介護保険の訪問介護員によるリアルな体験記である。
 副題は「世にも奇妙な爆笑!老後の事例集」。

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 著者は東京の某訪問介護事業所に所属する、この道20年以上の現役ヘルパー。
 1000人を超える要介護高齢者と出会ってきた。
 在宅ヘルパーの労働条件の向上を目指し公の場で発言したり、掃除・洗濯・買い物などの生活援助を介護保険から外そうと目論む厚生労働省に抗議の足を運ぶなど、現場と政策を結びつける活動もしている。
 「るか」という名前は、イエス・キリストの生涯を記した『ルカによる福音書』から取られたそうで、著者自身クリスチャンである。
 本書ではそうした出自を匂わすようなスピリチュアルな話は控えられているが、著者の奉仕精神の源に宗教的なバックグラウンドがあるのは間違いなかろう。
 認知症高齢者など個性豊かな利用者とのエピソードが楽しい。
 
 本書が出版されたのは2012年。
 その時点で著者は、上記の“生活援助外し”や“訪問ヘルパーの滞在時間の短縮”などを企む国の方針に対し怒りの声を上げている。
 10年近くが経ったいま、介護保険制度の改正(改悪?)はさらに進み、生活援助こそ制度から外されてはいないものの、比較的介護度の低い要支援者の「訪問介護」と「通所介護」については、もはや国の管轄にはなく、区市町村で行う事業へと移行している(2015年~)。
 区市町村の限られた予算で実施しなければならないわけで、地域格差やサービスの質の低下が問題視されている。
 国はどうやら要介護者の「訪問介護」と「通所介護」についても同様の方針でいるらしい。
 つまり、ホームヘルプとデイサービスを介護保険から外してしまおう、という魂胆である。

 また、介護保険サービスを利用するためにはケアプランを作成する介護支援専門員(いわゆるケアマネ)のいる事業所とマネジメント契約をする必要があるが、現在自己負担なしで利用できるケアマネジメントが今後有料化する気配もある。
 明らかに介護保険の利用者を減らしたいのだ。

 むろんこれは、高齢化が進むにつれ膨らむ一方の介護給付費(令和2年度3兆 3,838 億円)を抑制したいという大義名分からなのではあるが、どうなんだろう?
 公的な介護保険サービスでまかなえないところが、たとえばNPOや企業など地域の民間サービスで同等の価格で代替できるのならよいが、そうでないと結局、要介護者の家族にしわ寄せがくる。(家族の世話を“しわ寄せ”と言ってはいけないが・・・)
 高齢者の一人世帯や核家族世帯が増えている日本では、親の介護のために離職せざるを得ない、いわゆる「介護離職」につながる。
 すでに家族の介護・看護が理由で離職する者は年間約10万人という。
 40~60代の働き盛りの人が社会の一線から退くことは、少なくない経済的損失を招き、日本経済の減速を招く。
 つまり、負のループ=悪循環にはまり込んでしまう。

 介護や医療のサービスは、もはや電気や水道やガスや道路と同様のインフラなんだと思う。
 命や健康や生活の質に直結する分野の予算を削るよりも、もっと先に削減してもいいところがたくさんあるはずだ。

車椅子とステレス機
安倍政権がアメリカから購入した最新鋭ステルス戦闘機・F35
1機116億円を147機(1兆7052億円)爆買い




おすすめ度 :★★★

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● 本:『交通誘導員ヨレヨレ日記』(柏耕一著)

2019年三五館発行、フォレスト出版発売

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 工事現場に立つ交通誘導員こそ、軟弱なソルティには向かない仕事である。

 炎天下の夏も極寒の冬も、日差しや強風をさえぎるものない道の真ん中で、終日ひとつところに立っていなければならない。
 まず体力勝負である。

 交通量の多いところでは、自動車や自転車や歩行者の安全に気を配りながら、適切に誘導しなければならず、足止めや遠回りを指示されて苛立つ人々、工事の騒音や振動やほこりや異臭に眉を顰める近隣住民からのクレーム対応もしなければならない。
 気が疲れることこのうえない。

 逆に交通量の少ないところでは、手持ち無沙汰に苦しむ。
 持ち場を離れることもできず、いすに座ってスマホをいじることも、仲間の誘導員や工事現場の作業員とおしゃべりするわけにもいかない。
 呉服売り場のマネキンと化して、無為や眠気や退屈とたたかわなければならない。
 と言って、気を抜いてボーっとしていると事故の原因になりかねず、いったん事故を起こせばクビは必至である。

 そのうえに、工事現場で働く監督や作業員から仕事中の態度や誘導の上手下手を監視され、理不尽な命令を下され、時にはイジメまがいの悪態を衝かれる。 

 日給はそこそこ貰えるけれど、決して割の合う仕事とは言えまい。

 なのに、工事現場で見かける誘導員のなかには高齢者が多い。
 70歳以上が8割を占めている警備会社もあるという。
 老後資金の乏しい高齢男性がもっとも気軽に就ける仕事なのである。

 働けば日払いもあり家がなければ寮もある。嫌が応でも社会とのつながりもできる。とりあえず残業すれば最低限の社会生活が可能なのが警備員かもしれない。仕事として楽しい楽しくないは別として、決して悪い選択ではないのではないか。
 土壇場に追いつめられた人にとって交通誘導員の仕事は社会との最後の“蜘蛛の糸”かもしれない。

 著者は1946年生まれ。本書執筆時、73歳である。
 もともとの職業である出版関係の仕事をしながら、生活費を補填するため、いまも交通誘導員として現場に立っている。
 夜勤もすれば、日勤・夜勤・日勤の昼夜3連続勤務もこなすというから、相当な体力・気力の主には違いない。
 介護の仕事で夜勤1回したら、“明け”の日はもちろん、その翌日もグダーってなってしまうソルティには到底考えられない。
 そんな状態で交通量の多い現場に立ったら、どれだけ悲惨な事故を巻き起こすことか!


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Gerhard G.によるPixabayからの画像


 ソルティにはもっともできそうにない仕事と書いたが、逆にソルティがやっていた介護の仕事も、「自分には無理! 死んでもやりたくない」という人(とくに男性)は少なくないだろう。
 介護現場でおむつ交換や老人相手の幼稚なレクリエーションするくらいなら、工事現場の案山子のほうがマシという人もいるはずだ。
 つまるところ、まったく楽な仕事はないし、どんな仕事にも向き不向きがあるのだ。

 この「 3K仕事、内幕暴露日記シリーズ」(ソルティ命名)は、前から気になっていた。
 本書のほかにも、タクシー運転手編、出版翻訳家編、マンション管理人編、メーター点検員編、非正規介護職員編、ケアマネ編などが発刊されている。
 本書にしばしば出てくる「片交」、「立哨」、「トラバー」といった用語のように、どの業界にも身内だけに通じる用語やルールがある。
 そういったのを知るのも面白い。 
 しばらくこのシリーズを追っていきたい。

 今日は雨。誘導員さんも暇だろう。
 


おすすめ度 :★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 肉食系? 映画:『エクス・マキナ』(アレックス・ガーランド監督)

2015年イギリス
108分

 A I 系 SFスリラー。
 エクス・マキナ Ex Machina とは「機械仕掛け」の意。
 
 有名検索エンジン企業の一社員ケイレブ(=ドーナル・グリーソン)は、抽選に当たって天才プログラマーである社長ネイサン(=オスカー・アイザック)の広大な屋敷に招待される。
 そこにはネイサン自らが制作した人間女性そっくりのA I ロボットたちがメイドとして働いていた。
 ネイサンとの契約により、そのうちの一人エヴァ(=アリシア・ヴィキャンデル)の性能を確かめることを引き受けたケイレブは、交流を通じて次第にエヴァに惹かれるようになる。

 アカデミー賞の視覚効果を受賞しているだけあって、映像が美しい。
 I T 映画(ってジャンルあるのか?)ならではの無機的な美しさに統一されている。
 この文脈の中では、ネイサンの屋敷を囲む山岳や森、屋内に差し込む日光といった自然でさえ、無機的な清潔感をもって感じられる。
 ガーランド監督の映像センスは素晴らしい。
 
 ストーリー自体は、AI たちが次第に知性のみならず感情を身に着けていき、己を造った神たる人間=ネイサンに復讐を遂げるというもので、目新しいものではない。
 ケイレブがロボットと分かっていてもエヴァを恋するようになっていくのが、「無理もないな」と納得させられる。
 テレビのバラエティ番組かなにかで、「ダッチワイフを恋人に持つ男」というのを観たことがある。毎日、服を着替えさせ、髪を梳かしてやり、車の助手席に乗せて一緒にドライブする。優しい笑顔で話しかけながら・・・。
 そのうえに、それが理想の女性(男性)の姿をしていて、会話も成り立ち、家事全般を完璧にこなせて、必要な情報や娯楽を即座に提供してくれて、さらにセックスもできるとしたら、どうだろう?
 めんどくさく不衛生な(どんな細菌やウイルスを持っているか分からない)生身の人間とわざわざ付き合おうという奇特な人がいるだろうか?

 そう遠くない未来に、富裕層では一人一台(あるいは複数台)、そうした“色仕掛け”ならぬ“機械仕掛け”の恋人を所有する時代が来るのかもしれない。
 それとも、あなたは生身派?

ロボット女性

おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 
 
 

● 君の名前を教えて 本:『朝鮮大学校物語』(ヤン・ヨンヒ著) 

2018年(株)KADOKAWA

 朝鮮学校を舞台とするドキュメンタリー『アイたちの学校』を観ていて生じた疑問、

 朝鮮学校では金主席や北朝鮮という国の体制をどこまで批判できるのか?

 ――を確かめようと、検索していたら本書に当たった。
 著者は1964年大阪生まれの映画監督。在日コリアン2世である。

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 朝鮮大学校は東京都小平市にある。
 武蔵野美術大学(通称「ムサビ」)、創価学園(いわゆる「ガッカイ」)、白梅学園、津田塾大学、都立小平西高校などが集まる文教地区で、玉川上水の緑豊かな遊歩道が続く閑静な住宅地である。
 最寄りは西武国分寺線の鷹の台駅。毎朝、小学生から中・高・大学生まで多くの学生たちが改札を抜けて、それぞれの学校へと向かう。
 ただし、その中に朝鮮大学校の学生の姿はない。
 全寮制だからである。
 ここは民族教育の最高学府であり、全国の朝鮮高校からやって来た在日コリアンの若者たちが、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)を担う幹部となるべく、勉学や民族意識の確立に励んでいる。
 文部科学省から大学としての認可は受けておらず、法律上は各種学校である。

 本書は、80年代前半に大阪の朝鮮高校から朝鮮大学校へ入学した一人の女性、パク・ミヨンを主人公とした学園青春物語である。
 むろん、ミヨンのモデルは若かりし日の著者ヤン・ヨンヒ自身であり、三人称のフィクションという形を取ってはいるが、書かれていることのかなりの部分――朝鮮大学校での授業や寮生活の様子、卒業旅行で訪れた北朝鮮での見聞など――は、著者の体験に基づいた事実と思われる。

 ミヨンが朝鮮大学校に入学した一番の目的は、東京でたくさんの芝居や映画を観ること。将来は演劇の道に進むつもりなのである。
 本書に登場する映画のタイトルや劇場名、劇団名は、同じ80年代の東京で『ぴあ』を片手に青春を過ごしたソルティの耳に懐かしく響くものばかりであった。
 入学早々、六本木の俳優座に芝居を観に行って夜8時の門限破りをしてしまったミヨンは、生活指導員に呼び出され、厳しく注意される。

「ここは日本ではありません! 朝鮮大学校で生活している貴女は、共和国で、すなわち朝鮮民主主義人民共和国で生きているのだと自覚しなさい!」

 比較的自由が享受できた大阪の朝鮮高校とは違って、朝鮮大学校は規則づくめで管理のきびしい、まるで中世のカトリック修道院のような場所であった。
 修道院と違うのは、敬愛と信仰の対象となるのがイエス・キリストや聖母マリアではなくて、北朝鮮の最高指導者たる金日成(キム・イルスン)・金正日(キム・ジョンイル)親子であること。
 朝は、「放送事故のような音量で」流される革命的行進曲と合唱団が歌う戦闘曲で起こされ、毎夜の政治学習の時間には金親子の著作集を読まなければならない。
 そのあとに一日の自分の言動をルームメイトの前で振り返る“総括”が待っている
 抜き打ちの持ち物チェックでは、倭風(日本的)や洋風の物を持っていないか徹底的に調べ上げられ、ミヨンの持っていた外国音楽のカセットや映画雑誌、バタイユの『エロティシズム』などは没収されてしまう。
 外出できるのは週一回日曜日のみ。外出先と目的を書いた許可書を提出し、5人の管理者の印を受けなければならない。
 外部の日本人との交流は制限され、とくに日本人男子との交際などもってのほか。
 つまりは、まったくの洗脳教育機関である。

玉川上水
玉川上水


 映画や演劇を愛するだけあって自由な感性の持ち主であるミヨンは、校風に馴染めず、事あるごとに反抗を重ね、お隣のムサビの男子学生との恋愛騒ぎを巻き起こし、問題児のレッテルを貼られてしまう。
 卒業旅行では、幼い頃に北朝鮮に“帰国した”実の姉との数年ぶりの再会を心待ちにするも、当局の不興を買った姉夫婦は首都ピョンヤンから僻地に追放されていた。
 持ち前の度胸と袖の下を使ってやっと姉のもとを訪れることができたミヨンは、その道中、貧しい祖国の悲惨な現実を知り、監視社会のもと自由が奪われた人々の絶望しきった暗い表情を見る。
 ひたすら姉のことを心配するミヨンに向かって、姉は言う。

「アンタは私の分身やから。私の分も幸せになってくれな困るの! 組織や家族のためとかアホなこと言うたら私が許さへん。後悔せんように。わかった? 朝鮮で生きるのもキツいけど、この国背負わされて日本で生きるのも大変やと思うわ」

 日本への帰国間近、ミヨンたち一行は思いがけずも金日成主席の姿を拝謁する機会を得る。
 アフリカのどこかの国の大統領を迎える金主席を讃えるサクラとなるため、空港に召集されたのである。
 「民族の太陽」のおでましに、号泣しながら「万歳!」を叫ぶ教員や同級生たちの間にあって、ミヨンはひとり冷めている。
 
「これが本物のキム・イルソン・・・・」
 伝説のカリスマを目撃しているという事実よりも、集団心理に感染しない自分を発見した実感の方がスリリングだ。
 この人はこの国をどう思っているのだろう? この国の実情を知っているのか。部下たちはちゃんと報告するのだろうか。この国の現状にどれほど満足しているのだろうか。

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Tomoyuki MizutaによるPixabayからの画像


 本書に描かれているのは、30年以上前の朝鮮大学校の実態であり、いまの金正恩(キム・ジョンウン)主席の祖父にあたる金日成時代の北朝鮮である。
 令和の現在、当時とはいろいろと違っていることだろう。
 まず間違いなく状況は悪化しているに違いない。
 本書の裏表紙に載っている朝鮮大学校の校舎の黒ずんだ外壁の写真を見れば、相当な経営難に陥っていることは推察できるし、入学する生徒も激減していると聞く。
 コロナ禍のいま、北朝鮮の内情に至っては想像するだに怖ろしい。

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 世界中の誰だって、自ら望むことなく前もって定められた条件下に生まれ落ち、歴史に翻弄されながら、各々が属する国や民族や宗教や文化や社会制度や伝統に絡めとられ、かつ、そこにアイデンティティを見出しながら生きている。
 日本人しかり、在日コリアンしかり、台湾人しかり・・・・。  
 アイデンティティとは“条件付け”にほかならない。
 同じ日本に生まれ、同じ空気を吸いながら、在日コリアンの人々と日本人とではいかにバックグラウンドが異なることか。
 見ている景色が違うことか。
 アイデンティティの中味が異なることか・・・・。

 仏教徒のソルティとしては、“条件付け”からの解放こそが最終的な自由への道と思ってはいるけれど、それは今現在自分や他人が大切にしているアイデンティティを軽視していいということには決してならない。
 それは互いに尊重すべき、でき得る限り理解に努めるべきものであろう。
 「自分たちは国籍なんて気にしないよ。君がナニジンだろうが関係ないよ」という、ムサビの恋人をはじめとする周囲の善意の日本人たちの言葉にミヨンが傷つくのは、それが(幸運にも)国籍を気にしなくてすむ立場にいる人間による“上から目線”のセリフだからだ。
 セクシャルマイノリティの一人であるソルティも、「わざわざカミングアウトしなくたって実生活上の問題がなければ別にいいじゃん」という“決して差別者ではない”ヘテロの同僚の発言に、「それはそうだけど・・・・」とふっ切れない思いとともに口をつぐんだことがある。
 その瞬間、自分(を含むセクシャルマイノリティ)という存在が「無きもの」とされたような気持ちがしたのである。
 「多様性を受け入れる」というのは、「君が何であっても関係ないよ。差別しないよ」という表面的なものではなくて、「君が何であるか教えてくれ。自分は黙って聴くから」ということなのだろう。

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cm_dasilvaによるPixabayからの画像


 朝鮮大学校は、ソルティが想像していた通りの、あるいはそれ以上の不自由で窮屈な怖ろしい世界であった。
 しかるに、そこで学ぶ若者たちの皆が皆、洗脳されてしまうわけではないことが本書では証明されている。
 おそらく、完全に洗脳されて金主席を神と仰ぎ、北朝鮮を理想の国と信じ込むのは一握りの“優秀な”学生だけであって、ほとんどの学生は教員や朝鮮総聯に目を付けられないよう外面は従順なふりをしつつ、それなりに楽しみを見つけながら、自己表現の手段を探しながら、したたかに生きているのだろう。

 まあ、難しいことは抜きにしても、本書はとても面白い小説である。
 「一人でも多くの人に読んでほしい」という言い回しは、たいていの場合、評者の誇張か独り善がりに過ぎないので、あまり口にしたくない。
 が、本書に限っては「一人でも多くの日本人に読んでほしい」と素直に思った。
 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 

● 羊と亀 本:『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(森達也著)

2012年角川書店

 スプーン曲げの清田くん、恐山のイタコ、オカルト・ハンター、スーパー霊能者の秋山眞人、人気オカルト番組の元プロデューサー、オーラー鑑定士、毎日同じ時間に扉がひとりでに開閉する寿司屋、永田町の陰陽師、UFO観測会、ダウジング、超心理学の権威、臨死体験者、メンタリストのDaiGo・・・・。
 様々な分野のオカルト現象に関するレポートである。
 著者の森達也は、元オウム真理教の信者の日常を描いた『A』シリーズ、『放送禁止歌』、『職業欄はエスパー』などのドキュメンタリー作品で知られる。

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 オカルト現象に共通する特徴として、いざ厳密な科学的調査によって証明しようとすると何故かうまくいかないというのが知られている。
 ホラー映画『リング』の元ネタとなった明治時代の福来友吉博士による千里眼実験(の失敗)などが有名である。
 こういったオカルト特有の振る舞いを「羊・山羊効果」と言うのだそうだ。

 オカルトは人目を避ける。でも同時に媚びる。その差異には選別があるとの仮説もある。ニューヨーク市立大学で心理学を教えていたガートルード・シュマイドラー教授は、ESPカードによる透視実験を行った際に、超能力を肯定する被験者グループによる正解率が存在を否定する被験者グループの正解率を少しだけ上回ることを発見し、これを「羊・山羊効果(sheep-goat effect)」と命名した。
 この場合における「羊」は超能力肯定派を、そして「山羊」は否定派を示している。つまり超能力を信じる者たち(羊)が被験者となる実験では、超能力の存在が肯定されたかのような結果が出るのに対し、超能力に否定や懐疑の眼差しを向ける者たち(山羊)が被験者となる実験では、超能力を否定するかのような結果が出る現象が「羊・山羊効果」だ。

 観測者の態度いかんによって現象のありかたが変わるというのは、まるで量子力学の不確定性原理みたいで興味深い。
 信じる者は救われるってことか。
 子供の頃からオカルト番組やつのだじろうの怖い漫画が好きで、長じてはスピリチュアルにはまったソルティは「信じる者(羊)」の一人であるが、自ら不思議な現象を体験したことがあるかと言えば、さっぱり縁がない。
 UFOを見たこともなければ、霊的現象に遭遇したこともない。
 むろん、スプーンを曲げることも馬券を当てることもできない。
 せいぜいが晴れ男である――外出が決まっている日は晴れることが多いなあ~と思う――のが関の山であるが、これはむしろ逆に、山登りで培った長年の勘から、あらかじめ晴れそうな日をねらって外出予定を組んでいるせいかもしれない。

 とはいえ、自分ではそれと気がつかないところで奇跡は生じている可能性はある。
 たとえば、一昨年の12月に最寄り駅の階段から落ちて左足を骨折し、結果として介護現場から離脱せざるを得なくなった。
 高齢者を安全に介護できる自信と保証が持てなくなったからだ。
 その後しばらくして、辞めた介護施設を新型コロナが襲った。
 数名の職員と利用者が感染し、濃厚接触者となった職員は2週間の自宅待機を余儀なくされた。
 幸いなことにコロナで亡くなった人は一人も出なかったけれど、少ないスタッフでシフトを回さなければならず、施設はてんてこまいだったらしい。
 もしソルティがあのまま働き続けていたら感染していたかもしれない。
 同居の両親にうつしていたかもしれない。
 50代の自分はなんとか復活できたとしても、80代の親はどうなっていたか分からない。
 日本でも世界でも、介護や医療の現場で働いてコロナに感染し、そうと知らずに家に持ち帰って家族にうつしてしまい死なせてしまった、という人もいることだろう。(自分を責めないでほしいものだ)
 両親の2回のワクチン接種が完了した今、「なんとかこのたびは乗り切ったな」という安堵感はやはり大きい。
 転落事故は不幸、不運というより一種の天恵だったのではないかとすら思うのである。
 まあ、こういう都合のいい“こじつけ方”のできるところが「羊」たるゆえんなのだろう。 

羊


 天恵と言えば、歴史を学んだり昨今の世界情勢を学んだりすると、2021年の日本に暮らしていることがいかに幸運なのかをつくづく感じる。

 もし太平洋戦争時に二十歳の若者だったら。
 もし日本でなく北朝鮮やミャンマーやジンバブエに生まれていたら。
 もしイスラム教圏に生まれ育ったゲイであったら(国によっては死刑になる)。
 もしインドのスラムの底辺カーストの家に女性として生まれていたら。
 もし・・・・・・・
 
 幸運と幸福は似て非なるものなので、上記のような厳しい条件下に生まれても「幸福である」ことは可能かもしれないし、逆に現代の日本で何不自由なく生活していても「不幸である」ことはあり得よう。
 でも、衣食住と安全、信仰や表現の自由が保障されている国に生まれ暮らしているのは、それだけでかなりの強運の持ち主であり、幸福へのパスポートを手にしていると言っていいのだ。
 ついつい忘れてしまいがちだけれど・・・。

亀


 「盲亀の浮木」というお釈迦様の教えがある。
 いま海底に盲の亀が棲んでいる。
 その亀は百年に一度だけ海面に上がって顔を出す。
 広い海原を小さな穴の開いた浮き木が、波の間に間に漂っている。
 亀が海面に顔を出したちょうどその瞬間、流れてきた浮き木の穴に亀の首がすっぽり入る。 

 その稀なる確率でしか、生命は(仏道修行ができる=悟りの可能な)人間として生まれてはこられないという教えである。
 すなわち、人身受け難し。
 その上に2021年の戦火のない日本に生きている。
 本来なら、それ以上のオカルト(=奇跡)を求める必要はないのだろう。



おすすめ度 :★★

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● タカ v.s. ハト 映画:『エジソンズ・ゲーム』(アルフォンソ・ゴメス=レホン監督)

2017年アメリカ
108分

 原題は The Current War (電流戦争)
 1880年代後半アメリカで起きた電力供給事業における「直流 v.s. 交流」の覇権をめぐる争いを描いている。
 直流側に与するのが発明王トーマス・エジソン一派、対する交流側はエジソンのもとで一時働いていたこともあるニコラ・テスラと実業家ジョージ・ウェスティングハウスである。
 最終的には、より安く、より遠くまで電気を送ることのできる交流システムが勝利するのであるが、本作では自分の敗北を認めたくないエジソンによる卑劣で陰険な妨害工作の数々が暴き出されている。
 どうもエジソンは天才なのは間違いないけれど、人間的にはいけ好かない男だったようだ。

 エジソンを演じるは『SHERLOCK(シャーロック)』、『裏切りのサーカス』、『それでも夜は明ける』のベネディクト・カンバーバッチ。
 対するウェスティングハウスを演じるは、『テイク・シェルター』、『シェイプ・オブ・ウォーター』のマイケル・シャノン。
 どちらもベテランらしい安定した演技で、気負うことなく実在した人物に扮している。
 エジソンの性格付けが今一つはっきりしないが、これは役者の演技というより脚本の甘さによるものだろう。

 ニコラ・テスラを演じているのは、よく似た名前のニコラス・ホルトという美形のイギリス俳優。
 ノーブルで神経質で世間知らずでお洒落なニコラ。
 デビッド・ボウイ演じる二コラといい勝負だ。 
 そう、交流戦争の主役はおそらく、この映画に描かれているとおりエジソンとウェスティングハウスであって、ニコラではなかったのだろう。
 ニコラ・テスラという人は、どこか浮世離れしたところがあって、ビジネスや政治や利権争いのような実際面には疎かったのではないかと思われる。
 晩年はホテル住まいだったが、近くの公園のハトに餌を上げるのが最大の楽しみだったという。
 あくまでハト派なのだ。

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ニコラス・ホルト扮するニコラ・テスラ


おすすめ度 :★★

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● 本:『老いる意味 うつ、勇気、夢』(森村誠一著)

2021年中公新書ラクレ

 森村誠一と言えば、映画にもなった『人間の証明』や『野性の証明』、太平洋戦争時の731部隊の戦慄すべき人体実験の様を暴いたノンフィクション『悪魔の飽食』などのベストセラーで一世を風靡した作家である。
 ソルティも十代の頃、上記の映画を観て人並みに感動したし、大学生のときに『悪魔の飽食』を読んで衝撃を受けたものである。
 だが、作家としての森村誠一が好きかと言えば、残念ながら、肌に合わない作家の一人であった。
 いくつかの小説には手をつけてみたが、途中挫折した。
 
 一番の原因は、この作家、基本マッチョイズムなんである。
 高倉健の娘役でデビューした薬師丸ひろ子が一躍スター入りを果たした『野性の証明』なんか、主題歌からしてもろマッチョであった。
 男はだれもみな孤独な戦士――である。
 どうあがいてもマッチョになれない軟弱なソルティは、こういうドラマに接するとかつてはコンプレックスを抱きがちだった。
 登場する男たちの思考や言動をよく理解できなかったし(なんですぐ暴言を吐き暴力を振るうんだろう?)、主人公であるヒーローの生き方にも共感できなかった。
 ハードボイルドはソルティの鬼門であった。
 横溝正史や松本清張は読めても、森村誠一は読めなかった。

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 どうして本書を手に取ったかと言えば、80歳を過ぎた森村誠一が鬱病を発症し、それを告白しているという触れ込みを広告に見たからである。
 森村誠一と鬱病・・・。
 いや、マッチョだって鬱になる権利はある。
 しかし、鬱病になったことをカミングアウトするのは、マッチョにはなかなかできないところであろう。
 しかも、森村誠一は1933年(昭和8年)生まれ。
 石原慎太郎しかり、この世代の日本の男は他人に“弱さ”を見せることを極端に嫌う。
 実際、本書あとがきによると、「先生の作品には強いヒーローが登場しますが、病気もする、人生に苦悩する人間・森村誠一の老い方の本を作りませんか」という編集者の依頼に対し、森村は、

 読者に夢を与える作家は、弱い一面を見せてはいけない」と一度は断った。

――そうである。
 今の若い人にはなかなか理解できない思考回路であろう。
 世界トップランクのテニスプレイヤーである大坂なおみが最近鬱病を告白して話題になったけれど、それによって「夢が壊れた」、「大坂には失望した」なんて思うテニスファンがいるだろうか?
 むしろ、あんなに強いフィジカルとメンタルを持っているアスリートでさえ、名声もお金も恋人も手に入れたスーパースターでさえ鬱病になるんだと、一般庶民の多くはどこかホッとして、かえって大坂に共感を覚え、より応援していきたいと思ったのではなかろうか。(ソルティはそうである)
 「だって、彼女は女じゃないか!」だって?
 それこそマッチョイズム特有のジェンダーバイアスである。

 令和の現在、鬱病であることは恥でも敗北でもない。
 それを告白することは「弱さの証明」ではない。
 いや、弱くったって別にいいじゃないか!
 こんな複雑で目まぐるしく、人間関係ややこしく、大自然との絆も断たれ、自己肯定しづらい時代に、一生鬱病にならないでいられる人のほうが、むしろ珍しいのではないか?
 鈍感すぎるのではないか?
 鬱病こそ、「人間(らしさ)の証明」である。

 昭和時代、鬱病のスティグマは強かった。
 うかつに患者に近寄れば感染してしまう業病のように、鬱病は忌み嫌われた。
 苦悩の大きさの度合いで感受性と天才性を顕示できる芸術家は別として、大の男が鬱を告白することは社会的な死にも等しかった。
 男は黙って「〇大ハム」(ん? なんか違う?)
 昭和ヒトケタの森村にとって、この告白は、それこそ“清水の舞台から飛び降りる”思いだったはずである。
 マッチョからの転落。
 下手すると長年のファンを失望させ、逃げられてしまうかも・・・。
 それゆえ、鬱病になってそこから生還した森村がどう変化したのか、今回思い切ってカミングアウトしたことでなにか心境の変化はあったのか、そのあたりに興味を持ったのである。

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 その日の朝はいつもと違った。 
 今日も充実した時間を過ごせるだろうと思っていた早朝、いつものようにベランダに出て、爽やかな空気を吸いながら身体を動かそうとしたとき、違和感を覚えた。
 前日までとはまったく違ったように、朝がどんよりと濁っていたのである。

 最初のうちは気のせいだとも思った。
 しかし、仕事部屋で原稿用紙に向かったときに愕然とした。
 原稿を書き進めていこうとすると、これまで書いてきた文章とはまったく違う雑然とした文体になっていたのである。
 言葉が、文章が、汚れきっていたのである。

 病院に診断結果を聞きに行って、わかった。
 老人性うつ病という暗い暗いトンネルに入ってしまっていたのである。

 本書によれば、2015年から3年近く“暗いトンネル”の中にいたようである。
 ちなみに、「老人性うつ病」と言うのは正式な病名ではない。
 単に65歳以上の人がかかる鬱病を便宜的にそう呼ぶだけであって、症状や治療法に65歳未満の鬱病と大きな違いがあるわけではない。
 認知症と間違われやすい、不眠や食欲不振や疲労感など身体症状として表れやすいといったあたりが「老人性」の特徴と言われている。

 森村は、「極端な多忙による疲労によって、そうなった」と自己診断している。
 たしかに人気作家だけに執筆や講演に追われる日々を送っていたのだろう。
 が、鬱病の原因は「よくわからない」というのが今の医学の見解である。
 (ソルティが15年くらい前に鬱を患ったときも、「ある日突然、予兆もなく、自転車を漕ぐのがしんどくなった」という気づきから始まった)

 森村は、体力・気力・集中力の低下、物忘れがひどくなる、食欲不振と体重減少、興味・関心の薄れ、社会からの疎外感、喉の違和感、便秘・・・など、鬱病一般の症状に苦しめられたことを記している。
 とくに、「言葉が出てこない」ことに非常に焦りと恐怖を感じたようで、手元にあった雑紙に頭に浮かび上がる単語をひたすら書きつけていったことが写真付きで語られている。
 言葉を武器とする小説家という職業ならではであろう。
 おそらく本書に書いてあるのはほんの触りで、もっとしんどい症状や簡単には口にできないエピソードがあったのではなかろうか?
 同じ高齢男性の鬱病と引きこもりからの生還を描いた『あなたを自殺させない 命の相談所「蜘蛛の糸」佐藤久男の闘い』(中村智志著、新潮社)に比べると、遠慮がちなものを感じる。
 
 3年たって無事、鬱病を“克服”した森村は、執筆生活に戻ることができた。
 その後はいっそう充実した老いを生きるべく、意気軒昂である。

 たとえ老いても、「人間枯れたらおしまいだ」という執念が必要になる。
 「自分は絶対枯れない」という意志を強固にして、そのための生き方を考える。
 人間は歳を重ねても、欲望を持ち続けていれば、艶がなくならない。
 生涯現役で生きていこうと考えるなら、欲望はビタミンと同じように絶対に必要なものになる。
 
 高齢化社会では、寂しさに耐える覚悟が求められ、自分の死に対しては責任を持たなければならない。それがなければ、無責任な孤立死につながっていく。
 
 仕事はやめても、臨戦態勢のままいることが大切になる。
 「生きていく緊張感」を失ってはいけないということだ。
 生きていく緊張感を失うというのは、人生を放棄したことを意味する。そうなってしまえば、老いるのが早くなる。

 あいかわらずのマッチョぶり。
 鬱を“克服”したことが、さらなる自信につながったかのようだ。(ソルティは、鬱は一度取りつかれたらトンネルを抜けることはあっても生涯付き合っていかざるを得ない背後霊のようなもので、“克服”され得ないと思っている)
 自身の小説に登場するヒーロー同様、死ぬまで戦士でいる心づもり満々。

 「三つ子の魂百まで」なので、そこは無理もないし、人の自由である。
 なによりもその堅忍不抜な精神によって作家として成功したのであるから、生き方を変える必要はさらさらない。
 これからも充実した執筆活動を続けていただきたいと思う。 
 ただ、鬱を患いそれを告白したことによって、もうちょっとマッチョイズムからの退却が見られるかと思ったのだが、その点は肩透かしだった。
 わずかに、あとがきで次のような文章があるのが目を惹いた。

 人間老いれば、病気もするし、悩み苦しむ。老いれば他人にも迷惑をかけることもある。他人に助けてもらわないといけないことだらけだ。それが老いというものなのである。 

作家バリバリ


 それにしても、森村誠一に限らず、五木寛之や上野千鶴子曽野綾子キケロ―など、いろいろな作家が老いについて指南しているのをこれまで読んできたが、正直どれも、非常に参考になったとは言い難い。
 なぜというからに、みんな社会的成功者ばかりで、金も人脈も発言力もある人たちだからである。
 ソルティ含む一介の庶民とは立場的にかけ離れたところにいる。
 とくに老後資金のある無しは大きい。
 貧乏で、無名で、交友関係もさして広くなく、平凡な人生を送ってきた人の中に、老いをありのままに受けとめて、穏やかに、力むことなく、自暴自棄になることもなく、日々を大切に生きている高齢者がいたら、その人の言葉こそ市井の読者の役に立つであろうに・・・・。
 そう思って、ハタと気づいた。

 ブッダの教えこそ、まさに無名の庶民に惜しみなく開かれた最高の老いの指南書じゃないか!

 たとえ巨額の財産があなたのものになっても、世界中の人があなたにひれ伏したとしても、心の平穏がなければ、幸福にはなれません。年をとりたくない、死にたくないと怯えながら生活するのは、とても不幸なことなのです。

 この世が、すべてが変化し続ける無常の世界だと気づけば、何に頼ることも、依存することも、執着することもできません。だって変わってしまうのですから、それに値しないのです。すると心は穏やかに安定して、怒りや憎しみもなくなっていきます。
(アルボムッレ・スマナサーラ著『老いと死について』、大和書房刊より)

 ついでに言えば、ヴィッパサナー瞑想(マインドフルネス瞑想)ほど鬱病に効く治療法はないとソルティは思う。
 
  




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『ジュリアン』(グザヴィエ・ルグラン監督)

2018年フランス
93分

 フランス発のDV(ドメスチック・バイオレンス)サスペンス。
 ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、セザール作品賞を獲得している。

 暴力的で嫉妬深い夫アントワーヌと別れ、18歳の娘と11歳の息子ジュリアンと新居での再出発を始めたミリアム。
 しかし調停により、ジュリアンは隔週末ごとに父親アントワーヌのもとで過ごさなければならない。
 ジュリアンを介してミリアムとよりを戻そうとするアントワーヌは、思い通りにいかぬ苛立ちから次第に偏執的になり、ある晩ついに母子の住むアパートメントに押し掛ける。
 手に猟銃をもって・・・。

 衝撃のラストに向かって、始めのうちはジワリジワリ、途中からゾワゾワ、しまいにはハラハラドキドキと、加速度を上げて高まっていく緊張感がたまらない。
 ストーリーは単純だが、観る者は11歳の少年の目を通して、大の男(=父親)の暴力と愛する母や姉、そして自身に襲い来る恐怖とを味わうことになるので、臨場感もはんぱない。

 DVを受けている被害者が、なぜ声を上げて訴え出ないのか、なぜ相手から逃げないのか、なぜ逃げ切れないのか、この作品を観ると非常によく理解できる。
 たとえ実際に身体的な暴行を受けるのでなくとも、始終追い回されて暴力の予兆が十分にあるというだけでも、つまり暴力の気配だけでも、人は竦んでしまい力を削がれてしまうものなのだ。

 原題 jusqu'à la garde は「完全に、徹底的に」という意味の慣用句だが、直訳すると「当直まで」「警備員まで」といった意味になる。
 一種の掛け詞になっていることが最後まで観ると分かる。
 加害者である父親役、被害者である母親役、息子ジュリアン、3俳優の演技が素晴らしい。

暴力的会話



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

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