2010年マガジンランド刊行
2018年河出書房新社
2021年文庫化
森永卓郎著『書いてはいけない』で薦められていた本。
著者の青山は1985年8月12日夜の123便墜落事故時、日本航空(JAL)のスチュワーデスだった。
後に転職し、企業・官公庁・大学等の人材育成プログラムの開発及び講師として働き、現在は「日航123便墜落の真相を明らかにする会」の事務局を務めている。
スチュワーデスという呼称は現在は使われていない。客室乗務員あるいはフライトアテンダントと言う。
堀ちえみ主演『スチュワーデス物語』は遠い昔だ。
堀ちえみ主演『スチュワーデス物語』は遠い昔だ。
青山は今やJAL123便事故に関する真相究明派の旗頭的存在となっていて、本書を含み7冊の関連本を出している。
本書は「疑惑のはじまり」というタイトル通り、その出発点となった第一作であり、ノンフィクション作家青山透子の誕生を告げた記念すべき書である。
ちなみに青山透子はペンネームである。
本書は3部構成である。
第1部は、青山が一人前のスチュワーデスになるまでの若き日々を振りかえった回想録。
厳しい訓練や失敗の数々、仲間や先輩との友情や助け合い、次第にプロ意識を身につけていく様子など、まさに『スチュワーデス物語』そのものの面白さ。
もっとも、風間杜夫のようなイケメン教官との色恋や片平なぎさのような珍キャラは出てこないが。
航空業界の専門用語や慣習についての要領のよい説明や、初フライト時の感動的な逸話など、文才が感じられる。
JAL社員としての誇りと喜び、乗客の命を預かるプロとしての使命感をもって、青山が充実感のうちに働いていたことが伝わってくる。
それだけに、1985年8月12日の出来事はたいへんな衝撃だった。
第2部は、あの日のこと。
会社の女子寮でスチュワーデス仲間とともにニュースを耳にしたときの様子が、情景が浮かぶような臨場感をもって描かれている。
我々外部の人間は、墜落事故の被害の凄まじさ、愛する者を突然失った遺族の姿、修理ミスという人為的原因などに感情を動かされ、加害者としてJALを非難し怒りをぶつけたものだけれど、辛く悲しいのはJALの社員も同じだったのである。
苦楽を分かち合った同僚を失い、世間から後ろ指を指され、JALの社会的信用とプロフェッショナルとしての矜持を叩きつぶされ、それでも休まず飛行機を飛ばし続けなければならない。
事故で亡くなったスチュワーデスやパイロットの遺族たちは、被害者でありながら、一方で加害者としてもみなされ、悲しみをあらわにすることすらままならなかった。
遺族の世話を担当した社員の中には、その後自殺した者や過労で亡くなった者もいたという。
いま思うに、JALの幹部が現場に足を運び遺族に謝罪するのは当然だが、遺族の世話は一般社員にさせるべきではなかった。
一般社員は墜落原因とは何の関係もなかったのだし、心のケアは専門職に任せるほうが適切だ。
過失致死を犯した人間の家族に、被害者遺族の世話をさせるようなものなのだから。
一般社員に必要以上の罪悪感を抱かせ、遺族の怒りをぶつけるサンドバッグにし、過酷な肉体的労働や心労を与え、新たな犠牲者を生み出した。
過失致死を犯した人間の家族に、被害者遺族の世話をさせるようなものなのだから。
一般社員に必要以上の罪悪感を抱かせ、遺族の怒りをぶつけるサンドバッグにし、過酷な肉体的労働や心労を与え、新たな犠牲者を生み出した。
会社のために尽くす“会社人間”が称賛される昭和時代の大きなあやまちであった。
もっとも、懸命に世話にあたったJAL社員と遺族の間に生まれた、事故後も長く続く交流を否定するものではない。
もっとも、懸命に世話にあたったJAL社員と遺族の間に生まれた、事故後も長く続く交流を否定するものではない。
死亡者名簿の中に新人のとき世話になった先輩スチュワーデス数名の名前を見つけた青山は、衝撃を受け、悲しみに暮れた。
後日、深い追悼の思いと共に、事故について新聞記事を調べていくうち、様々な疑問が湧き上がる。
それはスチュワーデスとして専門教育を受け、空の上の現場で何百時間も働いてきた者だからこそ抱き得る当然の疑問であった。
第3部は日航退職後、2000年代に入ってからの話である。
教育の仕事に転じた青山は、航空会社への就職を希望する学生たち相手に講義する機会を持った。
ある時、1985年当時はまだ物心つくかつかない年齢だった生徒たちに、JAL123便墜落事故について調べてクラスの前で発表するという課題を与えた。
生徒たちははじめて知る事故の詳細に衝撃を受けるとともに、当事者の一人であった青山の影響を受けることなしに、新鮮な第三者の目で事故に関する記事を読み、知り合いの年配者にインタビューし、レポートにまとめた。
彼らの発表はまさに疑問のオンパレードだった。
そこには青山も気づかなかったような、思いつかなかったような事柄もあった。
たとえば、事故当時の中曽根康弘首相の動向など、ソルティもまた本書を読んではじめて知った。
事故のあった8月12日は夏休み中で軽井沢滞在。翌13日上京し、池袋サンシャイン開催の輸入品バザールに足を運び、15日は戦後初の靖国神社公式参拝を終えたあと二泊三日の人間ドック入り。17日軽井沢に戻って家族と過ごし、知人の別荘のプールで水泳に散歩。
事故現場はおろか、遺族が参集していた軽井沢からほど近い群馬県藤岡の検視会場にも足を運んでいない。
事故現場はおろか、遺族が参集していた軽井沢からほど近い群馬県藤岡の検視会場にも足を運んでいない。
令和の今ならネットが爆発するようなふざけたものである。
当時の日航は民間会社ではなかった。政府主導の半官半民の組織で、皇室や国会議員御用達のいわゆるナショナル・フラッグ・キャリアだった。
事故直後に抱いた青山の数々の疑問は、次第に疑惑となって固まっていく。
偶然が重なって、映画『沈まぬ太陽』にエキストラとして参加することになった2009年、ついに事故現場である御巣鷹の尾根をはじめて訪れることになる。
現地では、当時群馬県警高崎署の刑事官で遺体の身元確認班の責任者だった飯塚訓氏(『墜落遺体』の著者)、上野村の村長だった黒澤丈夫氏に話を聞き、さらには飯塚氏とともに検視に携わった歯科医師の大國勉氏、地元消防団員で生存者を発見した黒澤武士氏から、現場を案内してもらう機会を得た。
黒澤武士氏は言う。
「最初はねえ、生存者はいないだろうってことで来たからね、今思えば、担架を持ってきて、ヘリで空から落としたってよかったのにねえ、そういうことが全然出来ていなかった。だから吉崎さんの奥さんも、けっこう周りにいた人たちと話をしたって言ってたもんね。もっと救助が早ければ・・・・今24年経ってみて、落ち度があったっていえばそういう点が欠けていたよね」
吉崎さんの奥さんとは、4人の生存者の一人で当時35歳だった吉崎博子氏のことである。
青山は事故現場に立ち並ぶ犠牲者の名前の書かれた墓標をひとつひとつ拝み、そこにスチュワーデス時代にお世話になった先輩たちの名前を見つける。
初フライトの時に助けてくれた前山先輩の墓標と出会うシーンには思わず背筋がぞわっとした。
確かに言えることが二つある。
一つは、青山透子はまったく陰謀論者などではない。
公になっている記事や証言を粘り強く調べ、論理的科学的な思考によって物事の道理が判断できる、頭のいい人である。
亡くなった同僚や乗客に対する深い哀悼の気持ち、当時のJAL経営陣や一部政治家に対する不信の念や怒りは当然あろうが、決して感情に引きずられて妄想をふくらませることをしていない。
本物のジャーナリストがここにいる。
いま一つは、やはりJAL123便墜落事故には不可解なことが多すぎる。
機体が墜落してから墜落現場が特定されるまで9時間以上かかったこと。
舵を失った飛行機が横田基地に緊急着陸せず、わざわざ長野県方面に方向転換したこと。
遺族の要求に応じず、いまだにボイスレコーダーとフライトレコーダーの開示を拒んでいること。
隠したい何かがあると疑わざるを得ない。