ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 18切符で巡る、2023みちのくの夏(谷地温泉編)

 谷地温泉は日本三大秘湯の一つと言われている。
 あとの二つは、徳島県の祖谷温泉(祖谷のかずら橋で有名)、北海道のニセコ薬師温泉。
 誰がいつ決めたのか知らないが、知る人ぞ知るだからこそ「秘湯」と呼ばれるに値するのだから、「三大」という煽り文句とはそもそもコンセプト的に矛盾する。
 アクセスが困難な僻地という点だけなら、那須の三斗小屋温泉とか日光の八丁の湯とか、もっと秘湯らしいところはある。
 いったいなぜここが選ばれたのだろう?
 確かめるべく、『日本秘湯を守る会』に挙げられている近隣の酸ヶ湯温泉をあえてはずして、宿泊先に選んだ。

〒034-0303青森県十和田市法量谷地1
電話: 0176-74-1181

DSCN6436
谷地温泉バス停から徒歩10分
山小屋風の造りが心和ませる
秘湯っぽい

DSCN6446
入口にかけられたかんじきが雪の深さを物語る

DSCN6449
部屋には冷房がなかったが、朝晩は必要なかった

谷地温泉下の湯
温泉は撮影禁止
宿のホームページから転載させていただきました。
下の湯と呼ばれる38度の無色透明の源泉と、上の湯と呼ばれる42度の白濁した硫黄泉に交互に浸かる。
それとは別に、浴場内の石の階段を降りたひときわ暗い洞窟ようなところに源泉が噴き出しており、このスペースが秘湯っぽい土俗性に満ちている。(混浴あたりまえの昔は、おそらく“いろんな”使われ方をされたのでは?)
温泉は飲むこともでき、肝臓に効くと評判が高い。
下の湯に30分ほど浸かったら、体のすべての凝りや詰まりがほぐれるようであった。

DSCN6425
湯上りに見る夕空
最近空をゆっくり見てなかったと気づく

DSCN6428
お待ちかねの夕食
いわなの塩焼き、いわなのお造り、いわなの天ぷらははずせない

DSCN6429
柔らかな牛肉も美味

DSCN6430


DSCN6448
食堂に飾られたテンの写真
雪の季節の夜に遊びに来るのだという
見事にカメラ目線なのがかわゆい
秘湯のアイドル

DSCN6445
静寂な山間の夜にぎしぎしと鳴る廊下はウグイス張りのよう
人の気配や木のぬくもりが感じられる昭和っぽさが心をつくろがせる
数年ぶりにぐっすり寝た

DSCN6437
さわやかな朝の散歩

DSCN6438
八甲田の大岳が頭をのぞかせる。
ここから約2時間30分で山頂に立てるという
いつか登りたいな

DSCN6439
なんとこの温泉に入らないと、行くことができない神社と池があった
旅館の中にあるドアから、裏手の森に出る

DSCN6441
旅館の裏手の沢を渡る

DSCN6442
天然のイワナが泳ぐ薬師池
そばに谷地神社がある
 
DSCN6447
お待ちかねの朝食
白いおまんまが美味しい

DSCN6452
帰りは青森駅まで車で送っていただいた
約1時間、思ったよりずいぶん速い
ご主人はじめスタッフみな親切でした
また泊まりたいな

DSCN6458
青森駅で駅弁を購入
JR大館駅発のヒット商品、花善の鶏めし弁当(税込み950円)

DSCN6457
青い森鉄道にはじめて乗る
ここからはひたすら列車で南下
持ってきた書籍の出番である

DSCN6459
一ノ関駅ホームの表示板
英語、中国語、韓国語併記はもう当たり前
30年前の旅との一番大きな違いはやっぱりここにある
仙台牛タン店、盛岡冷麺店、五能線、奥入瀬渓流、谷地温泉、どこに行っても外国人と会わずには済まなかった。
ネット時代の人の動きって凄いな。

ガラ携と紙の時刻表をもって旅するソルティはシーラカンスみたいだ。





















● 18切符で巡る、2023みちのくの夏(奥入瀬渓流編)

 青森駅に降りたのは30年ぶりくらいだろうか。
 道の両側にアーケードの続く、長い駅前通りこそ記憶に残るままだが、日本のどの都市にもあるような立派なビルディングが立ち並び、最果ての港町といった感がない。
 30年前は街角の公衆電話ボックスの土台の高さ(冬の積雪のため)に「なるほどな~」と感心したものだが、いまや電話ボックスそのものを見つけるのが難しい。
 東口を出て左手に進むと見えてくる青森湾の青さと、かつての青函連絡船・八甲田丸の雄姿だけが、「ああ、青森に来た」と感興を呼びさましてくれた。

DSCN6344
青森駅は改修工事中だった

DSCN6456
青森湾
下北半島の山々が見える

DSCN6453
青函連絡船・八甲田丸


8月28日(月)晴れ、ときどき曇り、一時雨

 青森駅前から十和田湖行きのJRバスに乗る。
 街中を過ぎ、森の道を高度を上げていくと、ひらけた台地の彼方に八甲田の山々が見えてくる。
 車内アナウンスが、高倉健主演で映画にもなった明治35年「八甲田山死の彷徨」のドラマを語る。
 1977年の映画公開当時、北大路欣也のセリフ「天は我々を見放した」は流行語となり、中学生だったソルティも授業で抜き打ちテストなんかあると、よく叫んだものだ。
 八甲田山ロープウェイはこの日強風のため運転中止となり、それを目的にやって来た乗客たちから落胆の声が上がった。(せめて乗車前に分かれば良かったのにね)

DSCN6451
八甲田の山々
最高峰は大岳(1,585m)

 山の中に入ると、S字カーブのところどころに温泉が続く。
 城ケ倉温泉、千人風呂で有名な酸ヶ湯温泉、猿倉温泉、日本三大秘湯の一つ谷地温泉、蔦温泉・・・・。
 約2時間で奥入瀬渓流入口にある奥入瀬渓流館に着いた。
 ここを出発点とし十和田湖をゴールとする14kmのウォーキングスタート。

DSCN6345
奥入瀬渓流館
ここでマップがもらえる

DSCN6403
途中にある石ヶ戸休憩所から歩く人が多い
それだと約9kmの歩行となる

DSCN6349


DSCN6354
整備された遊歩道
昨晩雨が降ったせいもあるが、このあたりの透明度は低い
上流に向かうほど澄んでくる

DSCN6355
阿修羅の流れ
水音は想像されたし

DSCN6357
気温30度を超えていたが、水音と木陰のおかげでしんどくはなかった

DSCN6360
千筋の滝

DSCN6365
雲井の滝
落差約25m
滝の真下まで近づいて轟音とマイナスイオンを浴びられる
ここで昼食休憩をとった

DSCN6367
白布の滝

DSCN6368


DSCN6370
景観を損ねない山小屋風のトイレ

DSCN6379
九段の滝

DSCN6381


DSCN6383
銚子大滝
道中一番の人気スポット
幅20m、落差7mの爆流はスモール・ナイアガラと呼ばれるにふさわしい

DSCN6385
ここだけはインターナショナルな観光バス客で混みあっていた
ほかはたまに人とすれ違う(追い抜く)静かなウォーキングだった

DSCN6394
最後に裸足になって渓流の中に足を浸した
自然との一体感つうか

DSCN6397
十和田湖からの取水堰

DSCN6401
流れに漂う水草が美しい

DSCN6404
考えてみたら、こっちが渓流のスタート地点だな

DSCN6417
十和田湖に到着!
14kmを4時間20分で歩いた
うち休憩が50分なので時速4km


DSCN6406


DSCN6412
周囲46km、最大水深326.8mのカルデラ湖

DSCN6409


DSCN6408
ああ、あの山の姿も湖水の水も
静かに静かに黄昏れて行く
(佐藤惣之助作詞、高峰三枝子歌唱『湖畔の宿』より)

DSCN6410
湖畔の樹々があざやか
紅葉時はいかばかりか

DSCN6419


DSCN6407
子ノ口バス停
軽食のほか土産も売っている

DSCN6418
平日にもかかわらず、バスは補助席使用の満席だった
三分の一、いや半分は外国人とくに中国人のようだった
インバウンド効果は馬鹿にならないが、福島原発汚染水問題でこの先どうなることやら?

DSCN6420
帰路の途中で下車
今日の宿りは谷地温泉♨





● 18切符で巡る、2023みちのくの夏(JR五能線編)

 今回ショックだったのは、18切符では盛岡(岩手県)から青森(青森県)に直接行けないという事実を知ったことであった。
 いつの間にかJR東北本線の終点は、青森駅でなく、盛岡駅になっていたのだ。
 もちろん、盛岡駅から、岩手県内(盛岡~好摩~金田一温泉)を走るIGRいわて銀河鉄道、および青森県内(目時~八戸~青森)を走る青い森鉄道を乗り継いで、青森駅に行くことはできる。
 しかし、この2つの路線の運営はJRではなく、半官半民のいわゆる第3セクターなので、18切符は使えない。別に切符(5590円)を買わなければならない。
 どうあっても18切符だけを使って盛岡から青森に行きたいのなら、盛岡駅からJR田沢湖線で大曲駅まで行ってJR奥羽本線に乗り換え、秋田~東能代~大館~弘前経由で青森駅を目指すという、秋田県経由の大回りをとるしかない。
 JRの在来線が、本州のすべての都府県をつないでいる時代はとうに終わっていたのだと、今さらながら気づかされた。


googleマップより

 今回は、秋田県から五能線に乗って日本海沿線を北上したかったので、盛岡からIGRいわて銀河鉄道で好摩まで行き、JR花輪線に乗り換えて大館まで行き、JR奥羽本線に乗り換えて東能代下車。
 そこから五能線に乗った。
 五能線は日に数本の各駅停車のほか、春から秋の期間は観光用の臨時快速列車「リゾートしらかみ」が走っている。
 全席指定で乗車券(18切符もOK)のほかに500円強の指定席券が必要となる。
 となると、どうあっても海側の窓側席をとりたいのが人情。
 出発5日前にJRのホームページで空席状況を確認したら、すでに窓側席は埋まっていた。  
 各駅列車でもいいかなと思いつつ、出発前日に再度確認したら、一席キャンセルが出た。
 即クリックした。

DSCN6234
盛岡駅前で食べた冷麺


8月27日(日)晴れ

DSCN6247
盛岡発大館行きのJR花輪線
(盛岡~好摩区間はIGRいわて銀河鉄道の管轄)

DSCN6245
早朝の空いた車両で緑のトンネルを抜ける快適さ

DSCN6242
進行方向左手に岩手山(2,038m)
石川啄木のふるさと「渋民」付近

DSCN6241
右手に姫神山(1,124m)
なだらかでシンメトリカルな山容が美しい

DSCN6246
十和田南駅
ここでスイッチバックする(進行方向が変わる)ため数分間停車

DSCN6250
東能代駅
能代市は林業とバスケが盛ん

DSCN6249
列車の形をした待合室
中は冷房が効かず暑かった

DSCN6253
五能線リゾートしらかみ「くまげら」号

DSCN6252
ゆったりした柔らかいシート、大きな窓、別に展望ラウンジも設けてあり、快適そのもの

DSCN6255
ザ・日本海
秋田と青森の県境あたり

DSCN6259
もっとも景色の美しい区間で列車速度を落としてくれる=シャッターチャンス

DSCN6264
おだやかな波
冬の日本海はこうはゆかない


DSCN6266
十二湖駅(青森県)で下車

DSCN6268
バスで山の中へ
白神山地の端っこに足を踏み入れる

DSCN6269
このあたりには大小12の湖沼が点在する

DSCN6274
もっとも有名な青池
天候や時間帯によって色が変化する

DSCN6279
ブナ天然林を歩く

DSCN6280
小一時間の散策コースがおすすめ
ここから白神岳(1,232m)頂上へは約8時間かかる
コースは廃道状態にあるとか

DSCN6283
沸壺の池

DSCN6291
五能線に戻って白神山地をあとにする

DSCN6292
漁村
湾の向こうに男鹿半島

DSCN6301


DSCN6302


DSCN6304


DSCN6316
千畳敷
1792年(寛政4年)の地震で隆起したと伝えられる海岸段丘面。
津軽藩の殿様がここに千畳畳を敷かせ大宴会を開いたとされることからこの名がある。
この駅で10分間ほど停車時間を設け、警笛が鳴るまで自由に散策できる。

DSCN6314
津軽出身の作家太宰治の小説『津軽』に出てくるらしい

DSCN6315


DSCN6313


DSCN6321
カメラを向けたら近寄ってきた人懐っこい海鳥

DSCN6323
シギだろうか?
七面鳥くらいの大きさがあった
かわいい目をしている
「あっ、警笛が鳴った!」


DSCN6335
進行方向右手に岩木山(1,625m)
「帰って来いよォ~」







● 18切符で巡る、2023みちのくの夏(仙台編)

 8月26日は、加藤哲夫さんの13回忌だった。
 25と26の両日、仙台で『市民と社会のこれからを考える2Days「私たちはどう生きるか?~加藤哲夫さんの宿題を考える~」』が有志の呼びかけにより開催された。
 
 加藤哲夫さんは、仙台の街中で自然食品店&出版社『ぐりん・ぴいす&カタツムリ社』を経営しながら、反戦、脱原発、環境問題、ディープエコロジー、精神世界、HIV問題、市民活動支援(NPO)など実に幅広い分野の活動を展開した。
 とりわけ、市民活動支援セクターである「せんだい・みやぎNPOセンター」の設立に関り、全国を飛び回って行政や民間相手の研修講師を務め、一時は“NPO四天王”などと呼ばれるほどだった。(あとの3人が誰かは覚えていない)
 頭が切れ、弁が立ち、快活で、稀代のネットワーカーで、日本酒とアロマオイルと夏目雅子が好きで、人の悲しみをよく知る人だった。
 
 30代を仙台で過ごしたソルティは、HIV感染者支援の活動を通じて加藤哲夫さんと知り合い、以後、公私にわたりたいへん世話になり、多くのことを学んだ。
 加藤哲夫さんの活動や思いを振り返り、旧知の人々と再会し、還暦以降の生き方の指針が得られたらと思い、参加した。
 ついでに、ずっと乗りたかったJR五能線、ずっと歩いてみたかった奥入瀬渓流にも足を延ばし、全5日間のみちのく一人旅を決行した。
 旅のお伴は、青春18切符とJR時刻表と本3冊である。

DSCN6244
JR時刻表
ページをめくって列車の連絡を調べるのが旅の醍醐味
スマホは持って行かなかった

8月25日(金)、26日(土)晴れ

 仙台も関東に負けず劣らず暑かった!
 陽の当たる通りを歩いているだけで汗だくになった。
 ただ、東北本線の白河駅を越えたあたりで空気が変わったのを感じた。
 首都圏の濃厚とんこつスープの中に浸かっているようなギトギトの暑さとは違い、昭和の夏のジリジリした炎天下の暑さがあった。

 X君と仙台フォーラス前で待ち合わせ。
 国分町にある有名な牛タン専門店『太助』に行った。
 X君は、以前記事に書いた2年間ムショ暮らししていた旧友である。
 昨年9月に務めを終え円満退所(?)し、娑婆に戻って約1年。
 強制ダイエットされた体ももとに戻り、肉付きも顔色もよく、五十路越えとは思えない黒々した髪もふさふさとし、精神的な脆さは見られるものの、とりあえず元気そうであった。
 地域のNPOの支援を受けながら職業訓練所に通っていると言う。
 共通の友人を通じてたまに彼の動向は聞いていたものの、実際にこうして会って話すのは、東日本大震災のあった年の夏が最後だったと思う。
 海辺の町に住んでいたX君の被災見舞いだった。
 12年ぶりの再会。
 しかし、そんなに久しぶりの感がない。
 観光客で混みあう『太助』のカウンターで、すぐにムショ暮らしの苦労を包み隠さず滔々と語り始める主役感。(ツイッターへの投稿がもとで、某ビジネス雑誌のインタビューを受け、「中高年の貧困と孤独」と題する記事にもなった)
 そこが約30年前に仙台のゲイコミュニティで最初に出会ったときから変わらぬX君の持ち味なのだった。転んでもただでは起きない。
 炭火で焼く牛タンの旨さを堪能したあと、場所を移した。
 印象に残った話をあげる。(注意:尾籠なものもあります)
  • ムショでは起床時にビリー・ジョエルの『HONESTY(誠実、正直)』が流れていた。いまもこの曲を聴くとトラウマが蘇る。
  • ムショでは「ピンク」がもっとも軽蔑され、仲間内のランクが下だった。「ピンク」とは性犯罪者のことである。(特に小児性犯罪者は他の受刑者から蛇蝎のごとく嫌われると聞いたことがある)
  • トイレ付きの8畳くらいの部屋に3人で入っていた。トイレは一応仕切りがあったが、隠されているのは下半身だけで、上半身は廊下から見えるよう透明仕切りになっていた。
  • イケメンが全然いなくて残念だった。(何を期待しているんだか・・・)
  • 所内のカラオケ大会で尾崎紀世彦の『また逢う日まで』を歌って準優勝した。
  • ひと月に一度「アイスの日」というのがあり、それが一番の楽しみだった。
  • 雑居房ではオ×ニーをしなかった。他の男たちもしていなかった。当然、屈強な牢名主に“掘られる”ようなこともなかった。(互いにBLメディアの見過ぎ)
  • 娑婆を出た日にNPOにつながって、生活保護の申請やアパートを借りる手続きを手伝ってもらった。それがなければ、更生保護施設に行くほかなかった。
 織田信長が「人生50年」と言った時から500年以上経ち、今や「人生100年」の時代である。
 50歳なんて、ようやっと折り返し地点。
 とりあえず生きていてほしい。
 また逢う日まで。
 
DSCN6460
仙台駅の伊達政宗騎馬像
なんであまり人の来ない3Fに移したんだろう?

 夕方より、「2DAYS加藤哲夫さんの会」に参加。
 会場は広瀬通りに面した仙台市市民活動サポートセンター。(錦町にあった昔のサポートセンターに間違って行ってしまい、15分ほど探し回った)

プログラム

〇セッション1 (8/25 18:30~21:00)
「2011年の覚醒はどこへ~東日本大震災で社会は変わったのか」
進行:渡邉一馬(せんだい・みやぎNPOセンター)
ゲスト:
 高橋敏彦(前北上市長)
 高橋由佳(イシノマキ・ファーム)
 高橋美加子(北洋舎クリーニング)
コメンテーター:菅野拓(大阪公立大学)

〇セッション2 (8/26 9:30~12:00)
「加藤哲夫とNPO~市民、自治、民主主義」
進行:赤澤清孝(大谷大学)
ゲスト:
 川崎あや(元アリスセンター事務局長)
 福井大輔(未来企画)
 青木ユカリ(せんだい・みやぎNPOセンター)
コメンテーター:川中大輔(シチズンシップ共育企画)

〇セッション3 (8/26 13:30~16:00)
「これからの『市民の仕事』~加藤哲夫の宿題」
進行:田村太郎(ダイバーシティ研究所)
ゲスト:
 白川由利枝(地域創造基金さなぶり)
 葛巻徹(みちのく復興・地域デザインセンター)
 前野久美子(book cafe火星の庭)
コメンテーター:長谷川公一(尚絅学院大)

 70名くらい入る会場には、加藤哲夫さんと親交のあった様々な分野の人々が集まって、活況を呈していた。
 登壇者にも、客席にも、古くからの顔見知りがチラホラいて、ゆっくりと語る時間こそ持てなかったものの、元気に活動している姿が伺えてパワーをもらった。
 2日間のセッションの中で、印象に残った言葉。(主観的変換あり)
  • 人生は後付けである。
  • 男は構造をつくりたがる。できあがった構造の中で、当初現場にあった覚醒や思いが薄れていく。
  • 優しい人たちのつくる、文句のつけようのない優しい制度の中に空白が生じ、そこに落ち込んで苦しんでいる人がいる。
  • ひとりひとりの人格ではなく、システムが人を殺す。
  • SNSに象徴されるように、今の社会は人と人とを分断する方向に進んでいる。
  • 社会のアプリケーションでなく、OSを変えることが重要。
  • 本来なら、国や行政が立法化するなどして仕組みを変えなければならないことを、仕組みを変えないままにNPOが安く下請けする、ニッチ産業のような構造ができてしまっている。そこに共助という落とし穴がある。
 加藤哲夫さんがその八面六臂の素晴らしい活動において最重要に位置付けていた思いは、「人を殺すシステムを変えること」であった。
 薬害エイズ事件にみるように、組織(当時の厚生省)に属する一人一人は巨悪でも悪魔でもない、普通の感覚を持った一市民にすぎない。
 それが歪な風通しの悪い組織の中で、自らを殺して組織のために働くことで、結果的にシステムとして人を殺すことに荷担してしまうのである。
 だから、中にいる人を変えたところでシステムがそのままであれば、同じことが繰り返される。
 誤ったシステムを変えなければならない。
 ソルティもまた、生前の加藤哲夫さんの口から同じような言葉を幾度も聴いた。
 加藤哲夫さんにとって、誤ったシステムによって起こる最大最悪の産物は「戦争」であった。
 天皇を神とする大日本帝国というシステムの中で、男たちは人殺しに駆り出されていったのだ。 

DSCN6230
加藤哲夫さん
 
 システムを変えるためには、まず、人はシステムの歪さに気づく目を持たなければならない。 
 システムの中で苦しんでいる弱者の声に耳を傾けなければならない。
 それから、“空気を読まず”に口に出して、それを変える行動を起こすための勇気を持たなければならない。
 すると、仲間が見つかる。
 
 薬害エイズ事件の頃、カレル・ヴァン・ウォルフレン著の『人間を幸福にしない日本というシステム』という本が流行った。
 あれから四半世紀が経って、いまだに「人間を幸福にしない日本というシステム」は、拘束服のように我々を縛り続けている。

 2日間のセッションを終えて、盛岡に向かう列車に飛び乗った。
 車窓に広がる東北ならではの稲穂の波を見送りながら、システムに捕らわれることなくその表層を飄々とした風情で飛び回った、あるいはカタツムリのようにのそのそと忍耐強く這い進んでいた、加藤哲夫さんの笑顔を思い出した。

DSCN6232

加藤哲夫かたつむり


 




● 関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼大会


IMG_20230831_175405~2

日時 2023年8月31日(木)18:15~
会場 文京シビック大ホール(東京都文京区)

 高麗博物館で開催中の特別展『関東大震災100年 隠蔽された朝鮮人虐殺』を見に行き、四谷区民ホールでの講演会『関東大震災から100年の今を問う』を聴きに行き、ついに犠牲者追悼会に参加する運びとなった。

 思えば、渡辺延志著『関東大震災「虐殺否定」の真相』(2021年ちくま新書)を読んでからというもの、ここ2年ばかり、このテーマを追ってきた。
 やはり関東大震災時に千葉県福田村で起きた、香川の被差別部落から来た行商一行虐殺事件とともに。(こちらは現在、森達也監督の映画『福田村事件』上映中である)
 本を読んで、現地に行って、絵巻を見て、講演を聴いて、虐殺事件のあらましは頭に入ったけれど、知識を身につけるだけでは意味がない。
 亡くなった人たちを追悼するとともに、このような残虐な事件が起こった原因を探り、同じようなことが二度と起こらないようにするという決意がなければ、知識にはなんの価値もない。
 そう思って、満月の夜の集会に参加した。

 シビックホールは後楽園ドームの近くにあり、大ホールの席数は1800あまり。
 ざっと見たところ、1200~1300人くらいの参加があった。
 長らく地域で犠牲者追悼の活動をしてきた人、最近知って興味を抱いた人、共産党や社民党の政治家たち・・・・100年経った今も、この問題に関心を持つ人がこんなにたくさんいるという事実に、なにか心強いものを感じた。

 舞台の上も、客席も、非常に熱い感情に満ちていた。
 それは、虐殺された朝鮮人・中国人犠牲者の遺族(孫など)による怒りと慟哭と告発の叫びであり、その叫びを言葉の壁を越えて受け止めた日本人参加者たちの恥と共感の波であり、ヘイトスピーチやネット上のコメントに見るようにいまなお続く在日朝鮮人・中国人への差別や恫喝に対する当事者の怯えと救いを求める声であり、なにより、虐殺事件をあたかもなかったことのように扱おうとする昨今の日本政府や東京都に対する全会場の怒りと闘いへの連帯意志であった。
 義憤にかられ声を上げる日本人同志がこれだけいることに感動した。
 と同時に、100年経ってもこれだけの抗議集会を開催せざるを得なくしてしまった日本という国の厚顔無恥ぶりに暗澹たる思いを持った。
 1923年9月初めに数千人規模の虐殺があったのは事実であり、その虐殺を政府が扇動したのも事実である。公式な記録に残っている。
 事実を事実として認め、反省や謝罪や償いができない国家が、他国から尊敬を受けられるべくもない。
 国民同士の信頼に基づいた国家間の友好関係を築けるはずもない。
 安部元首相が語った「世界に誇れる美しい国、日本」の内実とは、こんなものなのである。

IMG_20230831_204418~2
李政美氏と紫金草合唱団のみなさん
 
 プログラムには、在日韓国人3世のピアニストである崔善愛(チェ・ソンエ)氏によるショパンの『革命』と『別れの歌』、アリランの演奏があった。
 また、やはり在日韓国人2世の歌手である李政美(イ・ジョンミ)氏と紫金草合唱団による関東大震災時の虐殺をテーマにした歌曲なども披露された。
 魂のこもった演奏や歌声は、人種や国籍や言葉の壁を超える力がある。
 「我々は同じ人間なのだ」と、あたりまえの原点に立ち返らせてくれる。

 本集会実行委員会の共同代表をつとめた田中宏氏(一橋大学名誉教授)の発言にあったのだが、関東大震災のあと、東京帝国大学に学ぶ朝鮮人留学生は『帝国大学新聞』にこう寄稿したという。
 「日本の教育は、人間となるよりもまづ国民になれと云ふ。・・・朝鮮人を殺すことを以て、日本国家に対する大いなる功績と思って居たやうに見える」

 人間たることを止めたとき、人は狼にも鬼にもなりうるのだ。

wolf-7105073_1280
Peace,love,happinessによるPixabayからの画像



 

● 戦犯作家と呼ばれて 本:『革命前後』(火野葦平著)

1960年中央公論社
2014年社会批評社

革命前後

 本書の刊行は、1960年1月30日、火野葦平はその一週間前の1月23日に服薬自殺した。
 本書は火野の遺作であると同時に、遺書と言っていい。
 というのも、戦時中『土と兵隊』『麦と兵隊』などの従軍記を書き“兵隊作家”として持て囃され、自ら進んで戦意高揚に協力した火野が、戦後15年経って“戦犯作家”としての自らの戦争責任について内省し総括しているからである。
 自死の理由ははっきりしていないのだが、少なくとも、本書を書き終えた後、火野の中で何か吹っ切れるものがあったのは間違いあるまい。

 本書は、1945年7月中旬から1947年5月までの火野の身辺雑記あるいは私小説である。
 この間に、B29による度重なる本土爆撃があり、不可侵条約を破ったソ連の満州侵攻があり、広島と長崎への原爆投下があり、玉音放送があり、ポツダム宣言受諾があり、GHQの占領があり、獄中にいた共産党員の釈放があり、パンパンや闇商売の横行があり、戦犯追及の嵐があり、天皇の人間宣言があった。
 タイトルにある「革命」とはまさに1945年8月15日のことで、この日を境に、火野の周囲がどのように変わっていったかが生々しく描かれている。
 “革命”前の火野は、故郷九州の博多で西部軍報道部に所属し、地域の戦意高揚のため、軍人や文化人らとともに、軍が徴用したホテルに泊まり込んで軍務に従事していた。
 軍国主義下の日本で、「お国の為」に生きていた。
 “革命”後の火野は、文芸復興を期して九州文学という出版社を仲間と立ち上げるとともに、博多の焼け跡を利用した食べ物屋街「太平街」の設立に関わった。(いずれも頓挫した)
 焼け跡が広がり物資のない日本で、自責の念から筆を折った自分がこれからどうやって生きていくか、模索していた。

 遺書と言うと重苦しい印象を受けるかもしれないが、革命前後の疾風怒濤の日々の記録はドラマチックで、ドキュメンタリー風の面白さがあり、その中にも鋭い社会風刺や人間観察が顔をのぞかせ、やはり人気作家にして芥川賞作家だなあと感心した。
 背水の陣をとうに越えた日本存亡の危機だからこそ、あるいは価値観が180度引っくり返った混乱期だからこそ、人間の本性が暴かれる。
 報道部の同僚、火野の家族、親戚、友人、文芸仲間、闇商売の相手、復員してきた兵隊、巷の庶民等々、さまざまな立場の人々のさまざまな振る舞いが描き出されていて、一種の「人間喜劇」の様相を呈している。
 九州のみならず、日本中で同様なことが起きていたのだ。
 そして、自らもまた喜劇の登場人物とみなし、客観的におのれの愚かさと滑稽さを見つめようとする火野の目は、あやまたず作家のそれである。
 九州革命――米軍の本土上陸前に九州を独立させ革命政府を作り、九州独自で米軍と闘おう――なんて本気で考えていた人がいたとは驚きであった。
 また、ポツダム宣言受諾の数日後には、連合国の国旗を掲げる日本人の変わり身の早さも興味深い。
 敗戦で自決した者をのぞいて、「日本人総パンパン化」みたいな米軍忖度ぶり・・・。

桜と川面

 さて、火野は自らの戦争責任をどう総括したか。
 戦時中の火野の活動について調査するために訪ねて来たGHQのCIC(民間情報局)ケインジャー大尉に向かって、火野はこう語る。

 私は太平洋戦争が侵略戦争なのかどうか、よくわからないのです。少なくとも、戦っている間は、一度もそう考えたことはありませんでした。祖国が負けては大変だという一念があったばかりで、私などがいくら力んでみてもなんにもならなかったのですけれど、ともかく全身全力をあげて、祖国の勝利のために挺身しました。米英撃滅をモットーにして戦争に協力しました。私には老いた両親があり、妻と三人の子供があることはさきほど申し上げましたが、私は祖国の勝利のためには命をすててもかまわない覚悟でいました。それというのもただ日本が負けては大変だという一途の気持だけです。私とともに戦線を馳駆した兵隊たちの多くもその気持であったと信じます。けれども負けてしまうと、日本は侵略戦争に狂奔したということになり、軍閥の姿が大きく表面に出て来て、実のところ、茫然として居ります次第です。

 恐らく私がお人よしの馬鹿だったのでしょう。軍閥の魂胆や野望などを看破する眼力がなく、自己陶酔におちいっていて、墓穴を掘ったのでしょう。しかし、私は私なりに戦争に協力したことを後悔しません。敗北したことは残念でありますが、私の気持は勝敗にかかわらず今も変わっておりません。

 これが本心なのだろう。
 「国のため」「天皇陛下のため」という絶対的な価値が火野のアイデンティティの核を成していたのである。
 子供の頃からそういったしつけや教育を受け続け、社会全体がその観念を共有しているのであれば、そこから脱して体制に疑問を持ったり、別の視点を持つのは難しかろう。
 それは、戦後生まれのソルティが、「民主主義」「基本的人権の尊重」を当たり前とし、疑問を抱かないのと同様である。
 国家は国民に奉仕するもの、「国<人民」とソルティは思っているが、“革命前”の普通は、「国>人民」だったのである。
 いまでも、祖国あっての人民、祖国あっての百姓、祖国あっての水田、祖国あっての自分・・・すべてのものの上に「国」が来るという観念は、保守右翼が好むところであるが・・・。
 
 また、火野の場合、独自の美意識を持っていた。

 英雄となるか、ピエロとなるか。それはしたりげな後世の歴史家がアヤフヤなレッテルを貼るにすぎないのであって、瞬間に昂揚される人間の火花の美しさこそ、英雄の崇高さというものだろう。(ソルティ、ゴチ付す)

 一瞬一瞬の正直な実感こそが、人間の行動の中で信じ得られる唯一のものではあるまいか。真実には盲目であり、虚妄に向かって感動したとしても、それは尊ばるべきではあるまいか。滑稽と暗愚の中にこそ、人間がいるのではないか。戦争も、国家も、歴史も、なにがなにやらわからない。革命の名の下に大混乱がおこっているが、その中で信じられるのは人間の、自分の、自分一人の実感だけだ。

 換言すれば、人間にとって大切なのは、目的や結果の良し悪しではなく、瞬間瞬間の行為における誠実さや真剣さや熱意である、ということだろう。
 そのような視点に立てば、たとえばゼロ戦による自爆攻撃も美化され、称讃されるべきものになる。
 なんとなく、これは『葉隠れ』的な、晩年の三島由紀夫的な、つまり武士道につながる美意識のような気がする。
 本書を読んでいても、火野葦平という男の“もののふ”っぷりが感得される。
 生粋の九州男児で、父親は仲仕玉井組の親方であったという出自からは、相当の硬派(マッチョ)であったことが伺えよう。
 自らが信じるところに、結果を顧みずに自己投棄する。
 それを「美しい」「雄々しい」と言っていいのかどうか、ソルティにはよく分からない。(そういう機会に巡り合わなかったゆえに、この歳までおめおめと生きてこられたのだろう)

 最後に――。
 火野葦平は、『土と兵隊』で描かれている最初の従軍(杭州敵前上陸)の際、続けて南京入城を果たしている。
 すなわち、1937年(昭和12年)12月13日のいわゆる南京虐殺事件に居合わせたことになる。
 が、『土と兵隊』には当然ながらその記述はない。
 戦後、他の作品に書いたという話も聞かない。
 謎だ・・・・。

tragedy-2039486_1280
国明 李によるPixabayからの画像




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 映画:『ウォーデン 消えた死刑囚』(ニマ・ジャウィディ監督)

2019年イラン
90分、ペルシア語

 原題 Sorkhpust は、調べたところペルシア語で「インド人」って意味らしいのだが、なぜインド人なのか不明。
 ウォーデン(warden)は英語で「刑務所長」の意である。
 
 イランの砂漠の中にある巨大刑務所のお引越し中に、死刑囚が一人いなくなった。
 脱獄でもされた日には大事件である。
 刑務所長は、男がまだ所内のどこかに身を隠していると確信し、部下を集めて必死に探し回る。
 死刑囚のことをよく知るソーシャルワーカーの女性がやって来るが、彼女は男の無実を訴え、刑務所長と対立する。
 完全撤退の期限が刻々と迫るなか、刑務所長は、男を隠れ処からおびき出すべく、ある作戦を決行する。
 
 かくれんぼミステリーという、わかりやすい設定。
 沢口靖子主演の『科捜研の女』に出てくるような最新科学機器を使えば、すぐに男の居場所がわかりそうなものなのに、全館に向けて拡声器で投降を呼びかけたり、捜査犬を使ったり、ごきぶりバルサンのように煙でいぶり出そうとしたり、非常に原始的。
 イランの地方刑務所ってまだこんなレベルなの?――と思ったら、これは1960年代を舞台とする話であった。
 たしかに、中庭に置かれた首吊りの死刑台は前世紀の遺物である。

gallows-2631370_1280
kalhhによるPixabayからの画像

 一つ一つのショットが素晴らしい。
 構図も色彩も照明もカメラワークも手練れている。
 そのため、刑務所があたかも中世のお城のように美しく見える。
 最後まで死刑囚の姿を映し出さないやり方も巧い。
 姿の見えない主人公が、かえって存在感を増して、サスペンスを高めている。
 三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を思い出した。

 ソーシャルワーカーの女性が元AKBの前田敦子そっくりである。
 敦ちゃん、いつの間にイラン映画にデビューしたの?・・・と思った。
 男尊女卑のイメージの強いイスラム教国の、男性社会の権化である刑務所という空間に、ヒジャブをつけない一人の女性ソーシャルワーカーがこうやって人権擁護の仕事をしていることに驚いた。
 60年代のイランで、こんな状況があったのだろうか?

 刑務所長を演じる男優は、一見、貫禄ある冷徹な物腰のうちにナイーブさと優しさを秘めた男を作り上げている。
 邦画で言えば、往年の松竹三羽ガラスである上原謙・佐分利信・佐野周平を足して3で割った感じ。(かえってよくわからない?)
 すなわち、イイ男である。

 物語的には予想通りのヒューマニズムな結末でそこに意外性はないが、脚本、演出、撮影、演技、音響効果ほか非常に完成度の高い作品で、またひとりイラン映画に一流監督が誕生したことを告げてあまりない。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


 
 

● 映画:『野火』(市川崑監督)

1959年大映
105分、白黒
脚本 和田夏十
音楽 芥川也寸志

 大岡昇平の原作を読んだのは高校生の時。
 テーマを受け止めるには重すぎた。
 カニバリズム(食人)の衝撃だけがあとに残った。
 読後まもなく、佐川一政のパリ人肉事件(1981年)が起こった。
 実際にそういうことがあるのだとびっくりした。
 佐川の場合、飢えからでなく、性愛からの行為だったと記憶する。
 猟奇殺人として世間を騒がした。

 市川の映画で描かれるのは、カニバリズムの猟奇性より、恐怖と飢えという極限状態に置かれた人間のありさまである。
 太平洋戦争末期のフィリピンのレイテ島で、米軍に敗れ、ジャングルの中をばらばらになって遁走する日本兵たち。
 米軍の爆撃や銃弾も怖い。米軍に協力する現地住民の反乱も怖い。
 鬱陶しい雨季のジャングルも、ぬかるみもしんどい。
 しかし、一番の問題は飢えである。
 芋が尽き、塩が尽き、ヒルや草を食べる日々。
 極度の空腹から幻覚を見る兵士。
 力尽きて倒れる兵士。
 主人公である田村(船越英二)も米軍への投降を考える。
 そんななかで出会った永松(ミッキー・カーチス)と安田(滝沢修)は、猿を撃ち殺して、その肉を食べているという。

 ほとんどが野外ロケである。
 ボロ靴のごとく草臥れた敗残兵たちの恰好や爆撃シーンなど、迫力あるリアルな映像は、さすが大映、さすが市川崑。
 某大河ドラマとはレベルが違う。
 CGでは出せない即物性がある。
 芥川也寸志の音楽もよい。
 芥川はマーラーの影響をかなり受けているように思う。
 マーラー風の不安と狂気を映像に結びつけている。 

 船越英二は、どの映画出演作でもあまり強い印象を与えない役者であるが、この一作は素晴らしい。
 どことなくハーフめいた彫りの深い顔立ちと恬淡として虚ろな眼差しが、牧師のように世俗離れした雰囲気を醸して、むごい運命に流され、周囲の欲深な兵隊たちに馬鹿にされる、受動的な兵士像を造り出している。
 この役者の生涯の一本と言っていいだろう。(水谷豊主演『熱中時代』の校長先生も捨てがたいが・・・)
 海千山千のあこぎな上官下官コンビを演じる滝沢修とミッキー・カーチスも素晴らしい。
 ミッキー・カーチスが上官の滝沢を撃ち殺して、その肉にしゃぶりつくシーンは実にグロテスクで、貴志祐介の『クリムゾンの迷宮』を想起した。
 ここはカラーでなく白黒映画で良かったと思った。

野火 (2)
左から2人措いて、3人目が船越英二、滝沢修、ミッキー・カーチス

 食人と言えば、スターリン時代のウクライナで大飢饉が起こり、数百万人が亡くなった。
 飢えに苦しむ人々は、鳥や家畜や雑草はもちろん、病死した馬や人の死体を掘り起こして食べたり、時には、我が子の一人を殺して他の家族に食べさせることもあったと言う。
 なんともひどいのは、この飢饉がソ連政府による人為的かつ計画的なものであった可能性が示唆されていることだ。
 ナチスによるユダヤ人大虐殺であるホロコーストに倣って、ホロドモールと呼ばれている。
 ウクライナとロシアの間には深い因縁があるのだ。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● 兵隊作家と呼ばれて 本:『土と兵隊』、『麦と兵隊』(火野葦平著)

1938年改造社より発表
1953年新潮文庫

 火野葦平(1907-1960)は読んだことがなかった。
 どういう人で、どういう文学的または社会的評価を受けていたかも、よく知らなかった。
 興味をもったのは、NHKで4月3日に放送された『映像の世紀 バタフライ・エフェクト~戦争の中の芸術家』を観たからである。
 番組では、ナチスドイツ時代を生きた指揮者フルトヴェングラー、スターリン独裁下のソ連を生きた作曲家ショスタコーヴィチ、そして日中戦争に従軍し“兵隊作家”としてマスコミの寵児となった火野葦平の3人が取り上げられていた。
 つまり、芸術家の戦争責任がテーマだった。

 火野は、戦後になってから“戦犯作家”として批判を浴びた。
 自らの戦争責任に言及した『革命前後』という本を書いた後、睡眠薬を飲んで自殺した。

 いったい、火野はなぜ自ら進んで戦争協力するようになったのだろう?
 自分につけられた“兵隊作家”というレッテルを、のちには“戦犯作家”というレッテルを、どう受け止めていたのだろう?
 最後の瞬間、彼の心のうちで何が起きていたのだろう?
 
 俄然興味が湧き、まず彼の代表作である2作品が載っている本書を借りた。
 この2作品プラス『花と兵隊』の兵隊3部作の大ヒット(300万部を超えた)ゆえに、彼のその後の人生は決定づけられていったのである。

DSCN6227 (2)

 本書は、1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争の従軍記である。
 火野葦平は、1937年9月に応召され、10月杭州湾に敵前上陸し、一兵卒として中国軍と戦った。
 当時30歳だった。
 翌38年2月、『糞尿譚』により第6回芥川賞を受賞。
 一躍、時の人となった。
 報道部に転属となり、1938年5月には攻略後の南京に入り、徐州会戦に参戦した。
 1939年11月に退役して帰国。
 日本出立から中国大陸上陸、杭州での戦いの様子を記したのが『土と兵隊』である。
 徐州会戦の様子を記したのが『麦と兵隊』である。
 題名通り、前著は泥の中での行軍が、後者は一面の麦畑の中での行軍が、日記形式で書かれている。
 どちらの場合も、中国軍との激しい戦闘の模様が描かれているのは言うまでもない。
 火野葦平は、銃弾や砲弾が飛びかい、死傷者があふれる前線で、死と向き合いながら戦った勇士なのである。
 その体力と精神力は筋金入りと言ってよかろう。

 本書は、お国や天皇陛下のために命をかえりみずに戦う日本兵たちを称賛するものであり、飢えや喉の渇きや足のマメや寒さやダニなどさまざまな困難に遭いながらも、助け合って行軍する、同じ釜の飯を食う兵隊同士の連帯と友愛の素晴らしさを伝える内容である。
 火野のナショナリズム(祖国愛)や仲間の兵隊たちへの愛情はまごうかたない。

 多くの兵隊は、家を持ち、子を持ち、肉親を持ち、仕事を持っている。しかも、何かしら、この戦場に於て、それらのことごとくを、容易に捨てさせるものがある。棄てて悔いさせないものがある。多くの生命が失われた。然も、誰も死んではいない。何も亡びてはいないのだ。兵隊は、人間の抱く凡庸な思想をも乗り超えた。死をも乗り超えた。それは大いなるものに向って脈々と流れ、もり上がっていくものであるとともに、それらを押し流すひとつの大いなる高き力に身を委ねることでもある。又、祖国の行く道を祖国とともに行く兵隊の精神である。私は弾丸の為にこの支那の土の中に骨を埋むる日が来た時には、何よりも愛する祖国のことを考え、愛する祖国の万歳を声の続く限り絶叫して死にたいと思った。(『麦と兵隊』より)

 一方、それをもって、本書を単純に、「戦争賛美、帝国陸軍万歳、中国憎し」の戦意高揚の書と言えるかと言えば、ソルティはそうは取れなかった。
 やはり、ここに描かれている「土」の行軍、「麦畑」の行軍は、たいへん厳しいものに違いなく、これにくらべればソルティのおこなった四国歩き遍路1400キロなどパラダイスである。
 いったいに、日中戦争体験者の手記を読むと、地獄のような行軍の話がよく出てくるが、ほんとうにこのような行軍が必要だったのか、疑問に思う。
 敵と出会う前に、ほかならぬ行軍によって体力と気力をあらかた奪われて、食糧も尽きて、いざという時に十分な力を発揮できなかったのではないか?
 あるいは、行軍によって兵士を徹底的に疲れさせ、正常な感覚や思考を麻痺させることで、人を殺すという人倫の壁を乗り越えさせたのだろうか?
 火野のリアリズムな筆によって描かれる、凄惨な戦闘場面、累々と積み重なる死体、捕虜となった中国人への残虐な仕打ち、戦争に巻き込まれた民間人の悲劇など、普通に読んでいれば、「やっぱり、戦争は嫌だ」、「戦争は人を狂気にする」、「戦争なんかするもんじゃない」としか思えない。
 また、火野は、敵である中国人があまりに日本人とよく似ているため厭な気持ちを抱いたことや、中国人捕虜の首を軍刀で刎ねる陸軍曹長の行為を前に自らの心を確かめ、まだ自分が「悪魔」になっていないことに安堵したことなども、ありのままに書いている。
 本書が戦意高揚の役に立つとはとても思えなかった。
 むしろ、「よくこの従軍記の発表を軍は許可したなあ」と思ったくらいである。
 (捕虜の中国兵が殺される場面に、日本国民の多くは快哉の叫びを上げたのかもしれないが) 
 違う時代の違う価値観に生きている目で読めば、同じ本でも違ったふうに受けとれるってことだろうか。

grain-field-4316900_1280
PeggychoucairによるPixabayからの画像

 戦後になってから、本書について、「作家としての独自の判断力も批判も放棄して」いる、と某文芸評論家に批判された火野は、「(当時は検閲と弾圧があったため)ここに表現されているのは、書きたいことの十分の一にすぎない」と反論したという。(本書「解説」より)
 書きたかった残り十分の九は、どんな内容だったのだろう?
 そして、本書発表を契機に、どんどん体制翼賛へと傾いていった火野の真意はどこら辺にあったのだろう?
 
P.S. 2019年にアフガニスタンで狙撃されて亡くなったペシャワール会の中村哲医師は、火野葦平の甥っ子だという。この叔父と甥の関係も気になる。



 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 日活ヒロインと「泥中の蓮」論 映画:『霧笛が俺を呼んでいる』(山崎徳次郎監督)

1960年日活
80分

 トニーこと赤木圭一郎の代表作として名高い。
 同名で発売したレコードもヒットした。

 撮影期間一ヶ月、いわゆる量産体制のプログラムピクチャーであるが、質は高い。
 山崎徳次郎監督についてはよく知らないが、脚本を担当しているのがその後日本を代表する国際的監督となった熊井啓、美術が『東京流れ者』、『ツィゴイネルワイゼン』、『火まつり』、『夢見るように眠りたい』、『親鸞 白い道』、『帝都物語』、『ドグラ・マグラ』などを手がけた木村威夫、音楽が「大きいことはいいことだ」の山本直純である。
 今となってみれば、贅沢極まりないスタッフ陣。
 構図の斬新さ、色彩の見事さ、セリフの良さに、痺れる。
 日活アクション映画と言えば、ヒーローがどれだけ気障なセリフを真顔で吐けるかが勝負である。
 本作の2大名ゼリフ。

杉敬一(赤木圭一郎): 友情なんてものは、ガキのはしかみたいなもんだ。一度はかかるが、そのうちケロッと消えちまうもんさ。

刑事(西村晃): おい、どこに行くんだ!
   (船の汽笛がボーと鳴る)
敬一: そうさな、霧笛に聞いてくれ。どうやら霧笛が俺を呼んでいるらしいぜ。

霧笛1
赤と青を対比させたショットが多い

霧笛2
縦の構図で立体感と奥行きが生まれている

霧笛3
鏡の中に親友(赤木)と妹(吉永)の姿を見る浜崎(葉山良二)

 吉永小百合が『拳銃無頼帖 電光石火の男』に続いて出演している。
 日活2作目である。
 難病と闘う健気な少女という、のちの『愛と死を見つめて』を予感させる、小百合にふさわしい役柄。
 やはり、可憐さと清純なオーラは半端でない。
 すでに脇役におさまらないレベルの輝きを放っている。
 
 しかし、本作で赤木の相手役となるヒロインは芦川いづみである。
 芦川いづみは美人で品があって芝居も上手い。
 本作では歌も披露しているが、これが実に美声で味があって聞き惚れる。
 吉永小百合と芦川いづみ、そしていま一人の日活ヒロインである浅丘ルリ子、3女優を比べたとき、吉永小百合の特異性がくっきりと浮かび上がる。
 これらのヒロインは、犯罪や暴力がテーマとなる日活アクションドラマにおける、いわば「泥中の蓮」である。
 脛に傷もつ男ばかりが右往左往し、容易に足抜けすることのできない汚泥のような裏社会に、すくっと咲いた一輪の蓮の花。
 が、同じ蓮の花でも、水面からの高さが違う。
 芦川いづみは水面に近いところに咲いていて、花びらに泥はねがついている。
 どことなく陰のある風情は、まかり間違えば、泥に吸い込まれそう。
 浅丘ルリ子はもう少し高いところに咲いていて、ガクに泥がついている。
 泥と馴染むことはできるが、自らは汚されることはない凛とした強さを持っている。
 吉永小百合は最初から絶対に泥がつかない圧倒的な高さで咲いている。
 そこからは周囲の葉に隠れて、水面が見えないほどである。
 住んでいる世界がまったく違うので、アクションドラマのヒロインは無理である。

lotus-3031400_1280
Charlie YoonによるPixabayからの画像

 ほかの出演者では、敬一の元マドロス仲間で無二の親友だった浜崎を演じる葉山良二と、刑事役の西村晃がいい。
 葉山良二の着る紫のシャツが、妙に美輪明宏チックで印象的である。

 ここまで3作、赤木圭一郎主演作を観たが、いずれもラブシーンがなかった。
 女性との一夜を暗示するようなシーンもない。
 本作でも、最後は芦川いづみ演じるヒロインと結ばれるかと思いきや、霧笛に引かれて街を去っていく。
 このストイック性が赤木の清潔感を生んでいるのかもしれない。
 赤木圭一郎もまた、別の意味で、「泥中の蓮」みたいなところがある。
 (そのうちラブシーンが見られるのかな?)




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文