ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『ショスタコーヴィッチの証言』(ソロモン・ヴォルコフ編)

1979年原著刊行
1980年中央公論新社より邦訳刊行(水野忠夫訳)
1988年文庫化

ショスタコの証言

 ソ連出身の音楽研究家ソロモン・ヴォルコフ(1944- )が、晩年のショスタコーヴィチにインタビューした内容をまとめたもの。
 ヴォルコフは、ショスタコーヴィチが亡くなった後、アメリカに亡命してこれを発表した。
 ショスタコーヴィチの回想録ではあるが、自身について語っている部分はそれほど多くなく、その人生において出会ってきた同じソ連の作曲家や演奏者や演出家や文学者についてのエピソードや評価、スターリン独裁下に生きた芸術家の苦悩や悲劇などが、多くを占めている。

 スターリンやソ連の社会体制に対する批判が書かれている以上、出版後、ソ連当局から「偽書」と断定されたのは仕方あるまい。
 たとえば、

 当然、ファシズムはわたしに嫌悪を催させるが、ドイツ・ファシズムのみならず、いかなる形態のファシズムも不愉快である。今日、人々は戦前の時期をのどかな時代として思い出すのを好み、ヒトラーがわが国に攻めてくるまでは、すべてがよかったと語っている。ヒトラーが犯罪者であることははっきりしているが、しかし、スターリンだって犯罪者なのだ。

 スターリンにはいかなる思想も、いかなる信念も、いかなる理念も、いかなる原則もなかった。そのときそのときに、スターリンは人々を苦しめ、監禁し、服従させるのにより好都合な見解を支持していたにすぎない。「指導者にして教師」は、今日は、こう言い、明日は、まったく別なことを言う。彼にしてみれば、何を言おうが、どちらでもよいことで、ただ権力を維持できればよかったのである。 

 一方、アメリカの音楽学者からも「偽書」疑惑を投げかけられ、議論を招いた。
 ヴォルコフがショスタコーヴィチに数回インタビューしたことは事実であるが、書かれている内容の多くは、ショスタコーヴィッチ自身の口から出たものではなく、ヴォルコフ自身がソ連にいた時に見聞きしたことを材にとった創作――必ずしも捏造ではない――なのではないか、という疑惑である。
 長年の研究の結果、現時点では「偽書」の可能性が高いようだ。
 ヴォルコフ自身が今に至るまでなんら反論していないというのが、確かにおかしい。

 ただ一方、偽書であるか否かは別として、すなわち、どこまでがショスタコーヴィチの“証言”で、どこからヴォルコフの“証言”なのかは不明であるものの、大変興味深く面白い書であるのは間違いない。
 登場する有名音楽家――ショスタコーヴィチの師であったグラズノフ、同窓生であったピアニストのマリヤ・ユージナ、ベルク、リムスキイ=コルサコフ、ムソグルスキイ、ストラヴィンスキー、ハチャトゥリアン、ボロディン、プロコフィエフ、トスカニーニ、ムラヴィンスキーなど――にまつわる豊富で突飛なエピソードの数々には興味がそそられる。
 とりわけ、グラズノフの天才的な記憶力や、ボロディンの博愛主義者&フェミニストぶり、スターリンに意見するを恐れないユージナの強心臓には驚いた。
 また、ショスタコーヴィチの崇拝者であった指揮者トスカニーニや、彼の曲の初演の多くを手がけた指揮者ムラヴィンスキーに対する辛辣な評価も意外であった。(ヴォルコフ評なのかもしれないが)

 あるとき、わたしの音楽の最大の解釈者を自負していたムラヴィンスキーがわたしの音楽をまるで理解していないのを知って愕然とした。交響曲第5番と第7番でわたしが歓喜の終楽章を書きたいと望んでいたなどと、およそわたしの思ってみなかったことを言っているのだ。この男には、わたしが歓喜の終楽章など夢にも考えたことがないのもわからないのだ。いったいあそこにどんな歓喜があるというのか。

 ソルティは、第5番第7番を最初に聞いたとき、終楽章が歓喜の表現とはとても思えなかった。
 ナチズムやスターリニズムのような独裁ファシズム国家における狂気や衆愚の表現と受け取った。
 「なんだ。ソルティのほうがムラヴィンスキーより、よく分かっているではないか」
 と一瞬鼻高々になりそうだったが、真相は別だろう。
 ムラヴィンスキーがどこかで本当に上記のようなセリフを吐いたことがあったとしても、それはおそらく、ショスタコ―ヴィチのためを思ってのことであろう。
 自らの発言が公になってスターリンの耳に入る可能性を思えば、友人を危険にさらすようなことは言えるはずがない。
 それがわからないショスタコーヴィチではないはずなのだが・・・。

 ともあれ、本書で何より読み取るべきは、ソ連社会とくにスターリン体制下において、芸術家たちが、いかに圧迫され、監視され、服従を求められ、自由な表現を禁止され、体制賛美の作品の創作を強制されていたか、それに抗うことがいかに危険であったか、という点である。
 スターリンの機嫌を損ねたら、その指ひとつで、地位も名誉も財産も奪われ、シベリヤに抑留され、処刑され、あまつさえ家族や親類縁者にも害が及びかねなかった。
 こんなエピソードが載っている。

 スターリンはたまたまラジオで聞いたモーツァルトのピアノ協奏曲を大層気に入って、そのレコードを部下に要望した。
 だが、そのレコードはなかった。それは生演奏だったのだ。
 機嫌を損ねることを恐れた周囲の者は、その夜のうちに再度オーケストラとピアニスト(ショスタコーヴィチの親友ユージナ)と指揮者をスタジオに集めて録音作業し、たった一枚のレコードを制作し、翌朝スターリンのもとに届けたという。

 ユージナがあとでわたしに語ってくれたことだが、指揮者は恐怖のあまり思考が麻痺してしまい、自宅に送り返さなければならなかった。別の指揮者が呼ばれたが、これもわなわな震え、間違えてばかりいて、オーケストラを混乱させるばかりだった。三人目の指揮者がどうにか最後まで録音できる状態にあったそうである。
 
 ショスタコーヴィチの友人、知人らも多く、あるは収容所送りとなり、あるは処刑され、あるは亡命を余儀なくされた。
 ショスタコーヴィチ自身も、幾度となく抹殺される瀬戸際にあったたらしい。
 その危機一髪のところを、軍の有力者に助けられたり、自らの作品の成功によって乗り超えたり、西側に知れ渡った名声によって救われたりしたようである。
 「自分の音楽で権力者のご機嫌をとろうとしたことは一度もなかった」と本書には勇ましくも書かれているが、実際には体制迎合的な作品も数多く残している。
 運よく地獄を生き残った者には、命を奪われた仲間たちの手前、自己弁護しなければいられないくらい、忸怩たるものがあったと想像される。

 生き残ったのは愚者ばかりだ、とわたしも本当は信じているわけではない。たぶん、最小限の誠意だけでも失わないようにしながら生き延びる戦術として仮面をかぶっていたにちがいない。
 
 それについて語るのはつらく、不愉快ではあるが、真実を語りたいと望んでいるからには、やはり語っておかなければならない。その真実とは、戦争(ソルティ注:独ソ戦)によって救われたということだ。戦争は大きな悲しみをもたらし、生活もたいそう困難なものになった。数知れぬ悲しみ、数知れぬ涙。しかしながら、戦争の始まる前はもっと困難だったともいえ、そのわけは、誰もがひとりきりで自分の悲しみに耐えていたからである。
 戦前でも、父や兄弟、あるいは親戚でなければ親しい友人といった誰かを失わなかった家族は、レニングラードにはほとんどなかった。誰もが、いなくなった人のことで大声で泣き喚きたいと思っていたのだが、誰もがほかの誰かを恐れ、悲しみに打ちひしがれ、息もつまりそうになっていたのである。
 
 わたしの人生は不幸にみちあふれているので、それよりももっと不幸な人間を見つけるのは容易ではないだろうと予想していた。しかし、わたしの知人や友人たちのたどった人生の道をつぎからつぎと思い出していくうちに、恐ろしくなった。彼らのうち誰ひとりとして、気楽で、幸福な人生を送った者などいなかった。ある者は悲惨な最期を遂げ、ある者は恐ろしい苦しみのうちに死に、多くの者の人生も、わたしのよりもっと不幸なものであったと言うことができる。 

 偽書であるかどうかは措いといて、一つの国の一つの時代の証言として、そしてまた現在のロシアの芸術家の受難を想像するよすがとして、読むべき価値のある書だと思う。
 
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● ブルックナー蛙 :EMQ Ensemble MUSIKQUELLCHEN 第28回演奏会

musikquellchen28

日時: 2023年8月13日(日)
会場: 杉並公会堂 大ホール
曲目:
  • シューマン: マンフレッド序曲
  • ブルックナー: 交響曲第6番 指揮者によるプレトーク付き
指揮: 征矢健之介

 MUSIKQUELLCHEN(発音がわからん)とは「音楽の小さい泉」という意味だそう。
 指揮者の登場にちょっと驚いた。
 折り曲げた動かない左腕を脇腹につけながら、えっちらおっちら、オケの間をゆっくりすり抜けて来た征矢健之介(そやけんのすけ)。
 プロフィールによれば、もともとヴァイオリン奏者だったというからには、元来の障害ではあるまい。
 高齢者介護施設で8年間働いた人間の見立てとして、脳梗塞による半身麻痺の回復途上にあるのではなかろうか。
 指揮台には、腰かけて振れるよう、ピアノ椅子が用意されてあった。
 こういった状態で指揮する人を見るのははじめて。
 なんだか初っ端から掴まれてしまった。
 
 さらには、開始早々、ホールにびんびん共鳴するオケのクリアな響き、高らかに鳴る弦。
 「巧いじゃん!」と感心しきり。
 プログラムで確かめたら、このオケは早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団(早稲フィル)のOB、OG中心に結成されたという。
 征矢は早稲フィルのトレーナー兼相談役を務めているようだから、学生時代から築かれた信頼関係が安定した音を生み出しているのかもしれない。

林檎の花

 一曲目の「マンフレッド序曲」は初めて聴く。
 印象としては、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』終幕を思わせる。
 プログラムによると、バイロン原作の劇詩『マンフレッド』上演ために書き下ろされた曲とのことで、「道ならぬ恋」で恋人を永遠に失った青年マンフレッドの苦悩を描いた物語とか。
 奔放なる性愛の果てに地獄へ落ちたドン・ジョヴァンニと似ているのも無理からぬ。
 シューマンって情熱家なのね・・・・。

 このあと珍しく、指揮者によるプレトークがあった。
 後半のブルックナー交響曲第6番の各楽章の聴きどころを、実際にオケに音を出させながら解説してくれた。
 やっぱり、ブルックナーって補助線を引かないとなかなか理解の難しい作曲家なのかしらん?
 が、障害を負った征矢が、不器用な仕草と口調とで、不器用なブルックナーを語るところに、なんとも云えない深く心地良い味わいがあった。
 そのせいだろうか、ブルックナーライブ4回目にしてソルティは半眼開いた。

 まず、ブルックナーは映画監督で言えば、小津安二郎に似ている。
 性格とか扱うテーマとかの問題ではなくて、「決まりきったスタイルで、同じ狭いテーマを繰り返し語り、深みに達しようとする」芸術スタイルが似ていると思った。
 で、小津の映画を繰り返し観ていると、その常に変わらぬ特有のリズムやトーンがいつの間にか心地よく感じられてきて“癖になる”。
 それと同様、ブルックナーの音楽も“癖になる”性質を持っているように感じた。
 つまり、「ブルックナーリズム、ブルックナー休止、ブルックナー開始(トレモロ)、ブルックナーゼグエンツ等々」の決まりきった形式は、あたかも小津の「ローポジション、固定カメラ、切り返し対話、空ショット、童謡使用」といったものと同じ“お約束”の感があり、それにさえ慣れ親しんで身を任せてしまえるなら、オリジナルな小宇宙が開け、快感を手に入れられる。
 ソルティもどうやら、“癖になりそ”な予感がしている。
 
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小津の代名詞、ローポジション撮影

 小津安二郎が決まりきったスタイルで描き出そうとしたテーマは、家族であり、無常であった。
 その意味で、現在観ることができる小津の作品は、『おはよう』のような子供を主役とする喜劇をのぞけば、どことなく暗くて、さびしい。
 一方、プレトークで征矢が指摘していたように、敬虔なカトリック信者で教会のオルガニストだったブルックナーの場合、やはり神への信仰が主要なテーマとなる。
 なので、基本的に暗くはない。
 深刻さや悲壮感、神を失った人間が抱く絶望や虚無感は見られない。
 悲しみと苦しみの谷間にいる人間が、はるか高みにいる偉大なる神に憧れて、神に少しでも近づこうと、何度も何度もジャンプする。
 そのトライアル&エラーこそが、ブルックナーにとっての喜びであり、音楽スタイルだったのではあるまいか。
 到達することもなく、叶えられることもない、簡単に手に入らない対象だからこそ、愛し、讃美し、信じるに値する。
 それを希求する振る舞いこそが、日々の生きがいとも喜びともなる。
 基本、幸せな男なのだ。

 ブルックナーは十代の少女が好きで、晩年に至るまで何十回と少女たちにプロポーズしては撃沈するを繰り返した。
 性懲りもなく・・・。
 それはまさに、ブルックナーの神に対する上記のような関係性とも、彼の音楽スタイルともよく似ているように思われる。
 つまるところ、人のセクシュアリティは、その人のスピリチュアリティと通底している。
 ブルックナーの音楽を聴いていると、小野道風の見守る中、柳に飛びつこうと頑張る無邪気な蛙を思い起こす。
 憎めない・・・・。

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それ、がんばれ!




● 蘇ったベルカント 荒川区民オペラ第21回公演:ドニゼッティ作曲『愛の妙薬』


愛の妙薬

日時  2023年8月12日(土)16:00~
会場  サンパール荒川・大ホール
指揮  小崎 雅弘
演出  澤田 康子
合唱  荒川オペラ合唱団
バレエ 荒川オペラバレエ
管弦楽 荒川区民交響楽団
キャスト
 アディーナ(ソプラノ):前川 依子
 ネモリーノ(テノール):新堂 由暁
 ベルコーレ(バリトン):秋本 健
 ドゥルカマーラ(バス):鹿野 由之
 ジャンネッタ:(ソプラノ):田谷野 望
原語上演・全2幕

 荒川の夏の風物詩・荒川区民オペラ、4年ぶりに復活。
 この『愛の妙薬』は、2020年夏に上演される予定だった。
 まずもって再開(再会)を祝したい。

 ソルティは2017年『蝶々夫人』、2018年『イル・トロヴァトーレ』を観ている。
 指揮者と主要キャスト以外はアマチュアで占められているが、なかなかどうして、質の高い楽しい催しである。
 アマならではの情熱と歓びと庶民性が舞台せましとほとばしって、現代では高尚で高価な娯楽というイメージを持たれ、いささか敷居の高くなったオペラを、大衆芸能というオペラ全盛期(19世紀)にそうであった位置に戻してくれる。 
 とくに今回の『愛の妙薬』は、筋立てがわかりやすく、管弦楽も複雑でなく、美しく親しみやすいメロディーがふんだんにあるので、普段オペラに接する習慣のあまりなさそうな客席の反応も良かったように思う。
 何といっても、主要キャストの死で終わることが多い、つまりは悲劇の多いオペラ演目にあって、本作は肩の凝らないコメディであり、最後は恋人同士が結ばれる大団円。
 コロナ明けを祝すにはぴったりの作品である。

 ソルティは、2012年10月にメトロポリタン歌劇場でかかったアンナ・ネトレプコ&マシュー・ポレンザーニ出演の『愛の妙薬』を、松竹東劇のMETライブビューイングで鑑賞した。
 生の舞台を観るのはこれがはじめて。
 なにより思ったのは、「このオペラ、まさにベルカントなんだな~」ということ。
 ベルカント(Bel Canto)すなわち「美しい歌」を響かせることに最大の目的を置いたリブレット(台本)であり、作詞・作曲技法であり、歌唱法であり、管弦楽である。
 歌い手の美しい声と華麗な歌唱技術が十二分に発揮されるよう、観客がそれを十二分に楽しめるよう作られているのだ。

 アディーナ役の前川依子の清冽な小川のように澄み切ったソプラノと軽やかなコロラトゥーラ、ネモリーノ役の新堂由暁の雲ひとつない秋空のような朗々たるテノールの輝き、ドゥルカマーラ役の鹿野由之のイタリア語の語感を見事に生かしながら諧謔を生み出すベテランの味。
 それぞれが素晴らしいアリアを披露し、また重唱で絡み、次々とやってくる快楽の波。
 あまりの気持ちよさに、夏バテで疲れていた心身は文字通りの夢見心地になった。

 そう、ドニゼッティやベッリーニらのベルカントオペラの困った点は、音楽があまりに耳に心地よいのと、物語の筋があまりに荒唐無稽なので、途中で気が遠のいてしまうところ。
 しかるに、作曲者の生きた当時の客は、上演中も客席で物を食ったりお喋りしたりして、アリアなどの聴きどころが来ると舞台に耳を傾けたという話もある。(何で読んだか忘れたが、アリアの前奏部分が歌い出しのメロディーとまったく同じであるのは、観客に「さあ、アリアが始まるぞ」と告知して舞台に集中させるためだったとか←確証なし)
 現代では、上演中に客席で物を食ったりお喋りしたりはさすがに許されないので、イビキを立てずに仮眠するくらいは大目に見られたし。
 思うに、夏バテだけでなく、今になってコロナ疲れが、3年余り続いた緊張からの弛緩という形で、浮上してきているのかもしれない。
 その点でも、まことに癒される公演であった。

 ちなみに、愛の妙薬とはボルドーワインのことである。

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サンパール荒川

 

 

● 本:『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬著)

2021年早川書房

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 昨年11月に図書館予約したとき、53人待ちだった。
 一ヶ月に2名が借りるとして、2年以上はかかるかと思っていたら、半年で順番が巡ってきた。
 図書館が在庫数を増やしてくれたのである。
 それでも今もまだ、新たに借りようとしたら30人以上待ちになる。
 すごい人気である。
 第11回アガサ・クリスティ賞受賞。
 「あいさかとうま」は1985年生まれの男性である。

 第2次世界大戦の独ソ戦(1941-1945)、ソ連が舞台である。
 片やヒトラー率いる全体主義国家、片やスターリン率いる社会主義国家。
 独裁国家同士の闘い。
 平和な村に侵攻してきたドイツ兵に、母親や隣人を目の前で殺された16歳の少女セラフィマは、復讐を誓い、女性ばかりの狙撃兵訓練所に入る。
 女性教官長イリーナの厳しい指導のもと、必要な知識と技術とタフネスを身につけ、最終過程まで残った4人の仲間とともに狙撃兵となり、実戦に送られる。
 スターリングラードやケーニヒスベルグでの激しい戦闘で、仲間を失いながらも腕を磨き、数十名の敵を射殺し、いまや取材が来るほどの一人前の狙撃兵となったセラフィマ。
 ついに、母親の仇のドイツ兵とあいまみえる時がやって来た・・・・。

 本作の一番のポイントは、言うまでもなく、少女が主人公で、女性狙撃兵チームの戦いぶりが描かれている点である。
 それはノーベル文学賞受賞のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチのノンフィクション『戦争は女の顔をしていない』にある通り、史実に則っている。
 ソ連では多くの女性たちが自ら志願し、戦地に赴き、兵士として男たちと肩を並べ闘った。
 いい悪いは別として、ジェンダー平等であった。

 本作の主人公が少年であり、男性狙撃兵チームの物語であったのなら、この作品はおそらく陽の目を見ることはなかったであろう。
 その類いの物語は、小説でもマンガでも映画でも、昔から掃いて捨てるほどある。
 可憐な少女が銃を持つというヴィジュアルに、多くの男の読者は、『セーラー服と機関銃』の薬師丸ひろ子や『エヴェンゲリオン』の綾波レイや惣流アスカのイメージを重ねて萌えるのだろう。(主人公セラフィマの容姿についてはとくに描写されていないが、まず読者は、表紙の美少女を想定して読むことだろう)
 一方、多くの女の読者は、軍隊という究極の男社会の中で、男どもに負けず、男どもを歯牙にもかけず、男どもを蹴散らして、男以上に活躍する彼女たちの姿を小気味よく感じるだろうし、女性ばかりのチームにおける友情や反目や恋愛というテーマに心躍らせると思う。(この作品、宝塚ミュージカル化したらヒット間違いなし)

 『戦争は女の顔をしていない』同様、武器をもって男並みに闘う女性、殺した敵の数を勲章とするような女性に対する周囲の目を描いているところも、読みどころである。
 敵を100人殺した男性兵士は、男の中の男であり、間違いなく国家の英雄として持て囃される。
 敵を100人殺した女性兵士は、英雄と祭り上げられはするが、誰も近寄ろうとしない。嫁に貰おうとしない。
 昨今のトランスジェンダーに対するバッシングに見るように、伝統的なジェンダーを逸脱する人間は、叩かれやすい。
 女狙撃兵たちの戦後は、ともすれば、戦中よりも生きづらい。

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Javier RodriguezによるPixabayからの画像
 
 一方、独ソ戦を舞台に少女スナイパーの苦難や活躍を描くだけでは、たとえ本作が狙撃や独ソ戦に関する綿密な調査を踏まえ、個性あるキャラクターたちや臨場感ある戦闘シーンを描き出すことに成功しているとしても、やはり、クリスティ賞受賞には至らなかったと思う。
 本作にはある種の「どんでん返し」が仕掛けられており、それこそが本作をして、単なる男女の「とりかえばや物語」に終わらせずに『ガリバー旅行記』のような風刺小説の域まで高らしめ、読む者に衝撃を与えて作者のたくらみの妙に感心せしめ、ミステリーの女王の名を冠した賞の栄誉にふさわしいと納得させるトリックである。
 ここまで“萌える少女戦記”として読んできた男たちの足元をすくう結末が待っている。
 そのとき、『同志少女よ、敵を撃て』というタイトルの意味に、読者の胸は射抜かれよう。
 正直、これを書いたのが女性ではなくて30代の男性であることに、ソルティは驚いた。
 それこそ、読者の読みを最初から誤らせる、本作品最大のトリックかもしれない。 
 
 本書を存分に楽しむためには、スターリン独裁下のソ連、ヒトラー独裁下のドイツ、そして独ソ戦の概要を、ネットでざっと調べてから読み始めるのがおススメである。 
 半年待った甲斐はあった。
 
 
 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 杉村春子と原節子 映画:『わが青春に悔なし』(黒澤明監督)

1946年東宝
110分、白黒

 この黒沢作品は観てなかった(かもしれない)。
 京大事件、ゾルゲ事件を材にした反戦映画と言われるが、そういった歴史に疎くても、面白く鑑賞できる。
 というのも本作は、一人の女性を主人公とした恋愛ドラマかつ成長ドラマの面が強いからだ。
 その意味で、岩下志麻主演『女の一生』(1967)や、司葉子主演『紀ノ川』(1966)に通じるものがある。

 大学教授の一人娘でわがままに育ったお嬢様・八木原幸枝(原節子)が、反戦活動家・野毛隆吉(藤田進)とのつらい恋を経て世間を知り、自分自身に目覚め、「非国民、スパイ」と周囲に嘲られながらも自らの意志を貫いて厳しい生き方を選んでいく姿が、感動的に描かれる。
 原節子は難役を見事にこなしている。
 とりわけ、監獄で亡くなった夫・隆吉の実家に赴いて、泥と汗まみれの畑仕事に従事する後半が素晴らしい。
 小津安二郎監督の『晩春』や『東京物語』の美しく上品な原節子とはまったく違った、文字通りの“汚れ役”を性根の据わった演技で見せている。
 内に秘めた情熱と強い意志を示す表情が素晴らしい。
 これをして「大根役者」というなら、いまの女優たちは「かいわれ役者」である。

 本作は、途中までは、「巨匠黒沢にしては力不足かな?」という、ちょっと期待外れの印象を受ける。
 「やっぱり黒沢は、男を描くのは上手くとも、女はイマイチかな・・・」と。
 が、後半になると、「やっぱり黒沢は凄い!」となる。
 幸枝が隆吉の実家に飛び込んでからが巨匠の本領発揮。
 観る者を圧倒し、心を鷲づかみにするボルテージの高さとリアリティの深みがある。
 そして、後半のドラマを第一級の演技でしっかりと支え、間然するところなきドラマに押し上げているのが、隆吉の父親役の高堂国典と母親役の杉村春子。
 この二人の名役者の存在感と鬼のような演技力は、本作の白眉である。

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高堂国典と杉村春子

  「スパイの家」と村八分にされた隆吉の父母は、家に引きこもって、夜しか外に出られない。
 絶望した父親は、日がな一日、働きもせず囲炉裏ばたに座し、一言も発しようとしない。
 なかば強引に野毛家に住み込んだ幸枝は、隆吉の母親を見習いながら、田んぼを耕し始める。
 いまのように耕運機も田植機もない時代、農作業は困難を極める。
 それでも、嫁と姑は力を合わせて田植えを終える。
 が、喜びも束の間、悲劇が待っていた。
 村の心ない連中が、田植えをすませたばかりの田んぼを滅茶苦茶に荒らした。

 ある朝、それを知って家に駆け込み土間に打ち伏して泣き喚く姑(杉村)、それを聞くや病床から飛び出して畑に駆けつける幸枝(原)、目の前の惨状に呆然とたたずむ二人、やがて身をつらぬく怒りをばねに田んぼを片付け始める嫁、それを見て我もと手伝う姑、そこへついに百姓の血が覚醒して駆けつける舅(高堂)。
 このシークエンスは、おそらく黒沢作品中でも一、二を競う素晴らしさ! 
 名優二人に負けていない原の存在感もやはり大変なものである。

 しばしば、原節子が演技開眼したのは小津監督の出会いによると言われる。
 しかし、本作を観て思ったのは、杉村春子との共演を重ねることで、原は女優として育てられたのではないかということである。
 本作で二人が共に経験した農作業の苦労が、『晩春』以降の二人の息の合った演技につながっているのではなかろうか。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
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● 本:『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』(NHK取材班編著)

2011年NHK出版

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 2011年1~8月にNHKスペシャルで5回に分けて放映されたドキュメンタリーの書籍化。
 日中戦争、太平洋戦争開戦に至る経緯をたどった上下巻と、真珠湾攻撃のあと戦線が拡大していく様相に焦点を当てた戦中編から成る。
 ソルティはこの放送を観ていなかった。
 当時、テレビを持っていなかった。

 今思うに、2011年という年に放映・出版されたことに、少なからぬ意味を感じる。
 一つには、もちろん、東日本大震災と福島原発事故があったからだ。
 本作品において、複数の専門家が異口同音に指摘し、制作陣が結論としてまとめている「日本人が敗けると分かっていた戦争へと向かった」原因、さらには、「敗けたと分かっても戦争を終わらせることができなかった」原因は、まさに福島原発事故の起きた原因や事故後の政府の対応のあり方と重なるところ大だからである。
 この番組を観た人は、間違いなく、「ああ、また同じことが繰り返されてしまった」と愕然とし、嘆き、憤り、落胆したことだろう。

 今一つには、時の政権が自公連立でなく、民主党だったことである。
 第2次安倍政権(2012年12月26日~)以降の政府によるマスコミへの報道圧力およびメディア側の萎縮や忖度のさまを鑑みるに、本作のような内容をもつ番組が制作・放送されるタイミングはこのときを措いてなかったのではないか、と思うのである。
 安倍政権下であったなら、安倍派国会議員や日本会議やネトウヨら歴史修正主義の保守右翼から「自虐史観」と叩かれ、NHKに何らかの横やりが入ったのではあるまいか。

チャクラの目

 開戦に至る経緯をたどるのに、本書では「外交」「陸軍」「メディアと民衆」「リーダーの不在」の4つのテーマを立て、公的史料はもとより、関係者の証言や当時の日記や手記、および専門家へのインタビューなどをもとに検証している。
 「軍部が暴走した」とか「軍国主義だったから」といったように単純化せずに、多角的な視点から原因を探っているところに、制作陣の意気込みを感じる。

 開戦を不可避とした要因は何だったのか。番組は四点、指摘する。第一は1930年代の日本外交の国際的孤立、第二は満州事変をきっかけとする陸軍の暴走のメカニズム、第三は戦争支持の国民世論を煽ったメディア(新聞だけでなく、とくにラジオ)の役割、第四が政治的なリーダーシップの問題である。番組はこれら四点の相互連関のなかで、ドミノ倒しのように開戦へと進んだ日本の姿を活写していた。(下巻より)

 なぜ日本は孤立化への道を歩んだのか。それは、時代の選択の一つひとつが、確とした長期計画のもとに行われなかったという点があげられる。むしろ浮かび上がってきたのは、定まった国家戦略を持たずに、甘い想定のもと、次々に起こる事態への対応に汲々とする姿であった。
 いったい誰が情報をとりまとめ、誰が方針を決めるのか。そして、いったん決まったことがなぜ覆るのか。そうした一連の混乱を自らの手で解決できなかった日本は、やがて世界の信用を失っていく。(上巻より)

 日本の舵取りを任された指導者たちは、自分たちの行動に自信が持てなかった。そのために世論を利用しようと考え、世論の動向に一喜一憂した。その世論は、メディアによって熱狂と化し、やがてその熱狂は、最後の段階で日本人を戦争へと向かわせる一つの要因となってしまったのである。(下巻より

 国家全体の利益より組織の利益が優先されるセクショナリズムが横行し、連携を欠いた陸海軍が独善的に戦争を続けていく。政治は指導力を失い、国民と世論に迎合したメディアには冷静な分析と批判など望むべくもなかった。日本の社会から歯止めという歯止めが失われ、膨張する戦争を押しとどめるものはいよいよなくなろうとしていた。(戦中編より)

  • 確とした国家戦略を持たず右顧左眄に終始したこと。
  • 決定権を持ち責任のとれるリーダーがいなかったこと。
  • 省庁間や陸海軍の縦割りシステムが国家の利益より組織の利益を優先させてしまったこと。
  • 戦意高揚をひたすら煽り利益増加を狙ったメディアと、その情報を妄信し踊らされた民衆。
 笠井潔が指摘した、令和の今なお続く日本人の宿痾=ニッポン・イデオロギーがここには巣食っている。

 下巻では、太平洋戦争開戦に至るまでの大本営政府連絡会議の議事の様子が描かれている。
 大本営は、総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、陸海軍統帥部の両総長、次長らが顔をそろえる実質的な日本の最高意思決定機関である。
 ここで戦略が決められなければ、日本人の他の誰も決めることはできない。
 天皇は決められたことを事後承認するだけだった。
 しかるに会議はいつも、参加者がそれぞれの要望を主張し紛糾するばかりで、重要なことは、決められずに先送りされるか、中途半端なまま投げ出されるか、体裁だけつくろい中味の矛盾する決議でお茶を濁すか、もうグダグダなのである。
 中学生の学級会のほうがまだマシだ。
 このくだりを読んでいて、背筋が寒くなった。
 四谷怪談よりも永田町会談のほうが、よっぽど避暑効果がある。
 こんな無能な男たちのために(日本人だけで)300万という命が失われたのかと思うと、あまりの理不尽に・・・・・・(言葉を失う)。

お化けと議事堂

 一方、下巻に載っているアメリカの歴史学者ジョン・ダワーのインタビューを読んで、「なるほど」と思い、自戒するところもあった。
 ジョン・ダワーは、「戦争へと至った道を、日本文化の特殊性によって説明することには、価値がない」と言い、アメリカによる「愚行」であったイラク戦争と比較する。

 イラク攻撃に至るブッシュ政権の意思決定過程を調べると、それは、真珠湾攻撃に至る日本の意思決定プロセスと非常によく似ていることがわかります。

 確かに、日中戦争時および太平洋戦争時の「愚行」の原因のすべてを、日本と日本人の特殊性に帰するのは、正当でない。
 ナチス時代のドイツ、ベトナム戦争やイラク戦争におけるアメリカ、ウクライナを攻撃するロシア・・・・国際社会から認められない大義なき戦争や、指導者の理性を疑うようなおかしな戦略はいくらでも例がある。
 組織のセクショナリズムの弊害や、マスコミに踊らされる大衆の姿も、どの国も変わりない。
 また、非常時に置かれた個人や集団がはまりやすい心理の罠――たとえば、コンコルド効果やバンドワゴン効果やリスキー・シフトなど――あるいは、脳の機能にもとから備わっているとされる認知の歪みなどは、人類に共通するものだろう。 
 戦死者が増えれば増えるほど、亡くなっていった兵士やその遺族の手前、退くに退けなくなる、簡単に降参できなくなる「死者への負債」という現象も、日本人だけのものではない。

 さらには、本書では指摘されていないけれど、やはり戦争とマチョイズムの関係は切っても切れない。
 「敗北という言葉を口にすることができない」「戦わずに引き下がるなんて男がすたる」「素直に負けを認めることができない」「生き恥をさらすくらいなら死んだ方がマシ」・・・・軍国主義下のマチョイズムがどれほど強烈なものか、今のロシアを見るとよく分かる。
 マチョイズムは、「男子たるもの教」という一つの宗教なので、理性や論理は容易に吹き飛ばされてしまう。
 
 非常時に置かれたどこの国、どこの国民にも起こり得る現象なのか、日本人特有の気質(ニッポン・イデオロギー)に由来するのか、両者をごっちゃにして語らないほうが賢明には相違ない。

サメ先生

 いずれにせよ、我々が過去の戦争の歴史を学ぶのは、「こうすれば勝てた」「こういう戦略をとれば良かった」と次の戦争に向けて敗因分析するためではないし、「こいつが悪い」「この組織が間違っていた」と当時の人間を批判したり責めたりして、留飲を下げるためでもない。
 同じ過ちを繰り返さないために、どこに破滅に向かう要素が潜んでいるか、我々日本人がどんな制度文化的弱みや思考のクセを持っているか、を知るためである。
 反省すべき点は反省し、同じ轍を踏まないことがなにより大切だ。
 そこで“いの一番”に言えるのは、「ある程度、事態が進んでしまうと、引き返すのが困難になる」ということである。
 コロナ禍での2020東京オリンピックの開催をめぐる議論や、安倍元首相の国葬の実施をめぐる騒動を思い起こせば、それは明らかだろう。
 戦争の芽は、早いうちに見つけて、摘んでおく必要がある。
 良くない流れを押し止めて、手遅れにならないうちに、方向転換する必要がある。

 毎年8月になると、戦争に関する記事や番組を登場させるのを慣例にしてきましたが、いつでも他人事のように取り扱って、自分たちの問題として考えようとしてこなかった。自分自身を正視しないジャーナリズムの報道や言論が大きな説得力をもつとは思えません。自分自身をまず正視し、そこから考えることがジャーナリズムを変えていく第一歩のはずです。(下巻より)

 頼みますよ、NHK!





おすすめ度 :★★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 無 映画:『生きてはみたけれど』(井上和男監督)

1983年松竹
123分

 小津安二郎監督没後20年に公開された伝記ドキュメンタリー。
 『大学は出たけれど』『一人息子』『父ありき』『戸田家の兄妹』『風の中のめんどり』『晩春』『麦秋』『東京物語』『早春』『秋刀魚の味』等々、無声映画からトーキーを経てカラー作品に至る小津作品の名場面の数々や、小津とゆかりのあった役者、映画監督、スタッフ、文化人らへのインタビューをつなぎながら、60年の生涯を城達也のナレーションでたどる。
 没後60年にあたる今年は回顧展が催された。
 
 小津とのエピソードを語る出演者の顔触れがとにかく豪華。
 笠智衆、岸恵子、司葉子、有馬稲子、淡島千景、岡田茉莉子、杉村春子、岸田今日子、岩下志麻、東野英治郎、中村伸郎、木下恵介、今村昌平、新藤兼人、山田洋次、厚田雄春、川喜多かしこ、ドナルド・リチー、佐藤忠男、中井貴恵、山内静男(里見弴の四男)、小津新一(実兄)、小津信三(実弟)、山下とく(実妹)等々。
 戦後の銀幕を彩った大女優たちの中年期の美貌と風格が圧巻である。(杉村春子はちょっと別枠だが・・・)
 小津安二郎の実兄と笠智衆の風貌や雰囲気がなんとなく似ており、もしかしたら小津監督は笠智衆に自らの父親を見ていたのかもしれないと思った。
 笠さんはほんと、老いていい顔している。

 役者たちは一様に、撮影現場で何十回と繰り返されたテストの話をする。
 セリフから、動きから、表情から、視線から、タイミングから、小津監督が前もって決めた通りに演じなければOKが出なかった。
 役者を一つの型にはめる演出は、家族ドラマという古くてマンネリなテーマと共に、評価が分かれるところであるが、今観ると、それぞれの役者の個性や良さはちゃんと引き出されている。
 笠智衆と原節子がその典型だろう。
 つまり、小津監督がそれぞれの役者の本質を見抜き、キャスティングしていたことを示している。
 現場ではもはや余計な演技をする必要がなかったのだ。

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 鎌倉円覚寺にある小津安二郎の墓には「無」の一字が刻まれている。
 そこに托した思いを本作では「無常観」と解していたが、そもそもなぜ小津が無常観を抱くようになったかについては深掘りされていなかった。
 ソルティはやはり、従軍体験が大きかったのではないかと思う。

 京橋の国立映画アーカイブにて鑑賞。
 客席は高齢男性“おひとりさま”が圧倒的に多かった。
 年を取れば取るほど、小津の描いた世界が切に感じられてくるのだろう。
 超高齢化時代、小津人気は今後も高止まりを続けるのは間違いない。
 隣席の男が上映中しきりに鼻を啜っていた。
 
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国立映画アーカイブ



おすすめ度 :★★★

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● 小百合の日活デビュー 映画:『拳銃無頼帖 電光石火の男』(野口博志監督)

1960年日活
86分

 赤木圭一郎主演、拳銃無頼帖シリーズ第2弾。
 舞台は三重県四日市。
 四日市と言えば、50年代末から70年代にかけて「四日市ぜんそく」で有名になった。
 公害の街のイメージが抜けない。
 映画冒頭で美しい海岸を歩く主人公・丈二(赤木圭一郎)の向かう先に、白い煙を吐き出す工場の煙突が並ぶのが見える。社会問題化する直前くらいの撮影であろうか。
 四日市駅周辺や標高 1,180mの御在所ロープウェイなど、60年当時の風景が感興をそそる。
 ビキニ姿の黒人女性が客席を縫いながら腰を振って踊るキャバレーなど、昭和感いっぱいの映像がかえって新鮮である。

 ヒロイン役の浅丘ルリ子、敵役の宍戸錠、恋のライバルで刑事役の二谷英明、中国人役の藤村有弘など、日活アクション映画のお馴染みメンバーが出揃い、「恋と煙草と港と拳銃」のハードボイルドな雰囲気が漂っているところに、それを一瞬にしてぶち壊す大型新人女優が登場。
 この作品が日活デビューとなった吉永小百合である。
 喫茶店のウエイトレスにして下っ端ヤクザのガールフレンドという役を与えられている。
 出番は多くないが、破壊力は凄い!
 小百合が出てくるだけで作品のトーンが変わってしまうのである。
 ハードボイルドが、一瞬にして、少女漫画の世界になる。
 顔に傷ある男が背広の内ポケットに手を入れたら白い鳩が飛び出した、ピストルを発射したら銃口から花束が出てきた、みたいな・・・・。
 この違和感にはただならぬものがあり、もうちょっと小百合の出番が多かったら、赤木も浅丘も喰われてしまい、この作品は破壊されただろう。
 ハードボイルドの文脈に置かれたことで、小百合の持っている無垢なる資質が演技やメイキャップや演出では隠しようもないことが証明されている。
 ビスクドールのように整った顔立ちのせいもあるが、湖畔の白百合のごと侵しがたい気品(と学芸会風の芝居)が、周囲をファンタジーかメルヘンの世界に変えてしまい、裏社会で生きる者たちのシリアスな渡世感が消失してしまうのである。
 日活は、浅丘に代わるアクション映画の新ヒロインとして小百合を考えていたのかもしれない。
 が、小百合は日活アクション路線にはまったく馴染まない。
 そのスター性を生かすには、彼女のための新たな路線を開発するしかない。 
 小百合の登場が、日活アクション路線の終焉を予告したのは間違いあるまい。
 
 一方、赤木圭一郎の魅力は、先行する日活アクションヒーローである石原裕次郎や小林旭、あるいは東映ヤクザヒーローである高倉健や菅原文太とは、タイプがちょっと異なる気がする。
 他の4人は当人そのものに強い個性がある。カリスマ性が備わっている。
 赤木の場合、カリスマ性や強い個性は感じられない。
 むしろ、ライバルである宍戸錠や二谷英明、浅丘や白木といったヒロインたちのほうが個性的である。
 赤木は演技も下手で、セリフは棒読みに近い。肝心の拳銃の扱いも宍戸には劣る。
 容姿もまた、イケメンには違いないが、一度見たら忘れられないというインパクトには欠ける。
 自らの個性を埋没させて、共演者やスタッフの仕事を輝かせるところに、赤木の良さがあるのではなかろうか。
 結果として、作品の質は高いのである。

 追って確認しよう。
 
赤木圭一郎
赤木圭一郎



おすすめ度 :★★★

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● ダーウィンが叱られる! 本:『生命の劇場』(ヤーコプ・フォン・ユクスキュル著)

1950年原著刊行
1995年博品社
2011講談社学術文庫

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 ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)は環世界という概念を提唱した生物学者である。
 環世界とはなにか。

 自分の諸器官を用いて、どの動物も、周囲の自然から自分の環世界を切り取ります。この環世界とは、その動物にとって何らかの意味をもつ事物、つまり、その動物の意味の担い手だけによって満たされているような世界です。同じく、どの植物も、その環境から、その特有の居住世界を切り取るのです。
 私たち人間はいかなる幻想にも身を委ねてはなりません。私たちもまた生きた自然に直接に向かい合っているのではなく、個人的な環世界の中に生きているのです。

 たとえば、朝顔には朝顔の、ダニにはダニの、イワシにはイワシの、蝙蝠には蝙蝠の、犬には犬の環世界がある。
 それは、それぞれの生物が、おのおのお認識システムを用いて“外界”を切り取っていることで成立している、その生物固有の“世界”である。
 ちょっと考えれば当たり前のことだ。
 ダニの生きる“世界”と、蝙蝠の生きる“世界”は、まったく異なる。
 それぞれの生物が持ったり持たなかったりする「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」は、全然違うのだから、“外界”の受け取り方が違ってくるのは当然で、生物(種)の数だけ“世界”は存在する。
 重要なのは、我々人間もまた同じことで、固有の環世界を持ち、そこに生きている。
 人間が認識している世界が“客観的に正しくてスタンダード”であり、人間以外の生物はそれを正しく認識できていないのだ――ということではない。
 人間もまた人間固有の認識システム(五感+脳)を用いて“外界=生きた自然”を切り取って、その“世界”に生きている。
 我々は、ありのままの世界を認識しているのではなく、認識することによって“世界”を、瞬間瞬間、生み出しているのである。
 認識=存在なのだ。

 いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実にほかならない。(ヤーコプ・フォン・ユクスキュル著『生物から見た世界』より抜粋)


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Jean-Louis SERVAISによるPixabayからの画像

 環世界についての基本理解は、『生物から見た世界』(岩波文庫)がおすすめである。
 ダニやモンシロチョウやヤドカリや蠅やゾウリムシなど、いろいろな生物の環世界の様相が描かれていて、とても面白い。
 本書は、それをさらに一歩も二歩も進めて、異なった生物同士の環世界の相互関係に焦点を当て、その奇跡のような“対位法的結合”を描き出し、この世に無数ある環世界がオーケストラのように有機的に共鳴し合っているさまを説く。
 本書刊行時に東京大学教授の西垣通が書評に紹介した文章が的確である。

 本書では、生物機械論者を含む数名の討論という形をとりつつ、『それぞれの生物の環世界の上位に、全体をまとめあげる高次元の統一秩序がある』という著者の信念が姿をあらわす。それはいわば壮大な交響曲の総譜のようなものであり、個々の生物は対位法的に一定の役割を演じつつ、宇宙の巨大なドラマに参加しているというわけである。
(読売新聞1995年12月10日付)

 討論に参加しているのは、大学理事、宗教哲学者、画家、動物学者、生物学者の5人。
 生物学者がユクスキュルの分身であり、生物機械論者とは動物学者のことである。
 動物学者が自説の基盤とするのは、人間を「万物の霊長」とするダーウィンの進化論であり、「すべての生命現象は、物理学、生化学、脳科学、進化論で説明しうる」という機械論的自然観である。
 当然、「全体をまとめあげる高次元の統一秩序」といった神の存在を匂わせる概念は、彼には受け入れられない。
 生物学者と動物学者は、何かといえば対立することになる。

 面白いのは、他の3人(大学理事、宗教哲学者、画家)もはじめから生物学者の味方として設定されているところ。4対1なのである。
 動物学者袋叩きみたいなニュアンスがあり、「ダーウィン、ピンチ!」。
 動物学者が、国際連盟総会で席を蹴った松岡洋右みたいに、怒って場を辞さないのが不思議なほどである。
 ユクスキュルの「環世界」概念は、「科学的でない」として当時の学界とくに動物学には受け入れられず、学者としては不遇な生涯であったらしい。
 おそらく、そのリベンジがここでなされているのだろう。
 ユクスキュルという御仁もなかなか執念深い(笑)。

わら人形と男

 ソルティの進化論理解は乏しくて、せいぜい、「多様性の中での生存競争と適者生存によって自然淘汰が起こり、生物は進化してきた」といったくらいである。
 70年代に受けた教育がアップデイトされないまま、今に至っている。
 しかるに、たまにテレビなどで動植物の生態や共生関係をとらえたドキュメンタリーを見ると、疑問に思うことがある。
 過酷な環境を生きる動物たちの、あまりにうまくできている形態や機能や生態にはいつも驚かされるし、イソギンチャクとクマノミに例示される異なった動物同士の共生関係の見事さには――人間のように“考えて”それをやっているのではないだけに――畏敬の念に打たれる。
 そして、こう思うのだ。
 「こんなことが進化論だけで説明しうるのだろうか?」
 「こういった精密な共生関係を生み出すまでに、どのくらいの時間を要したのだろう?」
 「はたして、試行錯誤の自然淘汰説だけで、いまある自然界の多様性と生き物同士の精緻極まる関係性を説明しうるのだろうか?」
 「やっぱり、何かしらの高次元の意図(=プログラマーの存在)を想定しないことには、説明しきれないのではないか?」
 そう思わせる一番手の番組がNHKの『ダーウィンが来た!』なのだから皮肉である。

 それと同時に、子供の頃の教育によって身につけてしまったダーウィニズムで、自然界だけでなく、人間世界を見ている危険性を思うのである。
 つまり、「生存競争と適者生存は世のならい」といった観念。
 ダーウィニズムが、産業革命当時のイギリスの経済学に影響を与え、社会的な貧富の差を「優勝劣敗」という単純な図式に還元し、「持てる者」が現状肯定するのに役立ったことは、よく指摘される。
 それは21世紀の資本主義社会を生きる我々の意識の中に、今でも刷り込まれているように思う。
 格差社会を「仕方ないもの」と肯定し、人や組織を「勝ち組」「負け組」に分けたがり、福祉の必要性に疑問を投げかけ、劣性遺伝の淘汰を唱える、疑似ダーウィニズム的言説があとを絶たない。

 ユクスキュルの環世界論は、そういった、まかり間違えばナチスのような非人道的価値観の解毒剤になり得るものだ。
 神を信じるかどうかは別として、自然の驚異に対して畏敬の念を抱くことは大切なことと思う。

 天文学者が唱えるように、混沌がかつて支配していて、その後に天体の秩序が生まれてきたということはけっしてない。そうではなく、まずはじめに秩序があった、秩序は生命のうちにあり、生命がまさに秩序であった。こうした秩序を通じて、私たちの前にある広大無辺の全自然がその永遠の秩序において成立したのだ。


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Stefan KellerによるPixabayからの画像 



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● 映画:『新感染半島』(ヨン・サンホ監督)

2021年韓国
116分、朝鮮語

 『新感染 ファイナル・エクスプレス』の続編。
 謎のウイルス蔓延によってゾンビフィールドとなった韓国。
 国としての機能は完全に失われた。
 運の良い人々はいち早く半島を脱出し、難民となって海外移住していた。

 香港に移住した元軍人ジョンソク (カン・ドンウォン)は、ある日、闇の組織から仕事を依頼される。
 「ソウルの街中に、大金が積まれたトラックが捨て置かれたままになっている。それを回収して来い。褒美は山分けだ。」
 ジョンソクは義兄らとともに半島に渡る。
 そこには「神に見捨てられた」世界が待っていた。
 
 前作同様、ゾンビパニック+バイオレンスアクション+家族愛ドラマが展開される。
 前回は急行列車(エクスプレス)が惨劇の主たる舞台であったが、今回は荒廃しきった街中での派手なカーチェイスが目玉となっている。
 さらに、ジョンソクらの敵はゾンビだけではない。
 もともと市民を守るべく組織された民兵集団が、半島に取り残されて凶悪化し、相手かまわぬ殺人を行う愚連隊になっていたのである。
 その名も631部隊。
 彼らは、ゾンビ化していない人間(野良と呼ばれる)を街で見つけると番号をつけて檻に収容し、制限時間を決めてゾンビと戦わせるという、古代ローマの見世物のようなアトラクションを開発していた。
 明らかに、日中戦争時に捕虜を使った人体実験を行った日本の731部隊を揶揄っている。

 そもそもジョンソクの乗った避難船は、当初日本に行くはずだった。
 途中で行き先を変更し、香港に変えられたのである。
 おそらく日本が韓国人の受け入れを拒否したのだろう。
 本作には、日本に対する反感や批判が隠し味のようにたくし込まれている。
 気づかない人も多いだろうが・・・・。

 それにしても、家族愛をここまでストレートに打ち出した作品を、日本人は、昔も今も作ることができない。
 日本人の感情表現はもっと控えめである。
 韓国朝鮮人はラテン系に近いのではないか?
 国民の1/3というクリスチャン人口も、精神文化の根幹が西洋に馴染みやすいことを匂わせる。
 そもそも、ゾンビというキャラクターは、「復活」という奇跡を信じ土葬文化をもつキリスト教文化圏だからこそ、発想され“人気”を得たものであろう。
 言うまでもなく、史上最強のゾンビはイエス・キリストである。
(ゾンビ映画のそもそものルーツは、ハイチのブードゥー教にあると言われている)
 日本にも『カメラを止めるな!』や『屍人荘の殺人』などゾンビ映画はないこともないが、やはり日本人の感覚には合わないようである。
 
 
ゾンビ集団
歩きスマホしている人間はゾンビに近いかも・・・


おすすめ度 :★★

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