ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 令和のはじまりに 漫画:『昭和史 全8巻』(水木しげる作画)

1988~89年講談社より刊行
1994年文庫化

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 時代区分から言えば、昭和は明治・大正・平成・令和と一緒に「東京時代」という風に、後世の歴史家から括られるんだろうなあと思うが、「大化」から始まった元号の歴史において、64年は最も長い。
 2番目が45年の「明治」、3番目が35年の「応永」(南北朝時代)である。
 1979年に定められた元号法により「一世一元」となったので、おそらくこの先も昭和を超える長さの元号は現れないだろう。
 昭和は長かった。
 
 昭和天皇が亡くなる前後に日本中を覆った自粛モードは、今のコロナ禍以上のものがあった。
 テレビは連日連夜、昭和天皇の在りし日の姿を偲び、昭和時代を総括する番組を流し続けた。
 その際に、ある識者が指摘した言葉で腑に落ちたものがあった。

 「結局、昭和というのは、昭和20年(1945年)8月15日だ」

 戦後生まれで高度経済成長のさ中に育ったソルティでさえ腑に落ちたのだから、戦前・戦中生まれの人間ならまさしく「その通り」と実感したことだろう。
 昭和とは、何より戦争の時代、日本が敗けた時代だったのだ。
 戦後の40年は混乱と復興と成長と爛熟の時代であったけれども、そうした平和で豊かな日常の底には常に暗く重い「戦争」という言葉が響いていたように思う。

原爆ドーム


 水木しげるは大正11年(1922年)生まれで、平成27年(2015年)に亡くなった。
 昭和を丸々生きた人で、二十歳のときに徴兵され南方の激戦地に送られ、片腕を失いながらも奇跡的に生還した。
 戦後は餓死すれすれの極貧生活から出発し、漫画家としてブレイクし、妖怪ブームに乗ってマスコミの寵児となった。
 昭和を語る資格も経験も見識も十分に備えた人と言える。

 もちろん、語り手として、絵描きとしてのテクニックは言うまでもない。
 本作でも、歴史漫画として政治や社会や世相の変遷を正確を期しながら客観的に描くのと並行して、水木しげる自身の個人史として自身や家族や仕事など身の回りの変化をリアルかつ主観的に描いている。
 それが「社会v.s.個人」あるいは「権力v.s.庶民」の構造を浮かび上がらせ、「下から見た昭和史」とでも言うような、非常に読者の共感を呼ぶものになっている。
 昭和を彩る様々な事件の概要も、水木のオリジナル人気キャラであるねずみ男をナレーターとして登場させ顛末を語らせるなど、教科書のような説明調に陥らない工夫がなされている。
 全8巻をぶっ通しで読んで、昭和を旅した気分になった。

ビンテージラジオ


 「あとがき」で水木も述べているが、全8巻のうち6巻の半分くらいまでは戦争(日中戦争~太平洋戦争)一色に染められている。
 戦後の長さを思えば、配分としては不均衡である。
 だが、それだけ戦争は、社会(国)にとっても個人にとっても比重が大きいものなのだ。
 老人ホームで働いていた時、齢九十を超える高齢者がほかのどんなことより戦時中のことを細かく覚えていて生き生きと語るのに接し、「やはり、そういうものなのか・・・」と得心がいったものである。
 
 水木しげるの個人史として読むとき、やはり水木のユニークな個性と運の強さが印象的である。
 のんきでマイペースで楽天的で好奇心旺盛で、周囲に対する忖度というものをまったくしない。(そのため軍隊では上官にビンタされ放題)
 水木自身がある種の妖怪のようで、漫画のキャラとして立っている。
 戦後、売れっ子になっても戦時中に知り合ったラバウルの原住民との交流を続けていたことが表しているように、金や名声や人気に溺れることも奢れることもなく、幼い頃のオリジナルな感性を大切にした。
 オリジナルとはつまり、自然の中で他の生きもの(妖怪含む)と共に生きるヒトとしての当たり前の感性である。
 国や社会や世間というものは、本当にいい加減で無責任で当てにならない。
 それは今回のコロナ騒動や東京オリンピック騒動を見れば一目瞭然であろう。
 そんなものに忖度する必要は全然ないのだ。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 
 
 

● 難しい判断、やさしい判断 映画:『アイたちの学校』(高賛侑監督)

2018年日本
99分

 日本にある朝鮮学校の歴史と現状を描いたドキュメンタリー。
 アイとは朝鮮語で「子ども」のことである。
 監督の高賛侑(コウ・チャニュウ)は1947年生まれのジャーナリスト、ノンフィクション作家。自身、朝鮮大学を卒業している。

 2010年に施行された高校無償化制度から朝鮮学校は除外された。
 それを受けて、地方自治体でも朝鮮学校への補助金の打ち切りが続いた。
 これに象徴されるように、朝鮮学校の歴史とは在日朝鮮人に対する差別の歴史の典型であり、また、当事者及び彼らを支援する市民有志らによって繰り広げられた差別との闘いの歴史である。
 本作は知られざる歴史的資料や当事者の証言をもとに、100年余におよぶ差別との闘いを浮き彫りにしている。

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 ソルティはかつて朝鮮学校の近くに住んでいたことがあり、散歩や買い物の途中、校庭の金網越しに飾り気のない白いコンクリートの校舎を眺め、下校途中の生徒たちの会話を耳にすることがよくあった。
 朝鮮語の中にたまに日本語の単語が混じる彼らの会話はなんだか面白かった。
 学校のたたずまいからも、常にグループで行動する生徒たちからも、外部を拒否するような空気が感じられたものだが、これはソルティの偏見も入っているかもしれない。
 心なしか男子はイケメンが多かった気もするが、これもやっぱりソルティの希望的観測かもしれない。

 学校の脇を通りながら、思ったものである。

「いったいこの校門の向こうで、高い塀の中で、何が教えられているのだろう?」
「授業は何語で教えられるのだろう? 生徒たちは、日本語と朝鮮語とどっちが得意なのだろう?」
「生徒たちは日本という国をどう思っているのだろう? 韓国や朝鮮についてどう思っているのだろう?」
「自らが選ぶことなく置かれている在日朝鮮人という立場をどう思っているのだろう?」
「将来の展望はどんなものだろう? 

 いろいろと疑問は浮かび、勝手な想像はしたけれど、それ以上追及することはなかった。
 無責任な想像のうちで、紋切り型にして最も悪いイメージは次のようなものであった。

 教壇の上の、日本人の学校であれば「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」といったクラス目標が掲げられるあたりに、額縁に入った金主席の写真が飾られている。
 朝と帰りの学活の際には、クラス一同、直立して金主席に最敬礼を行ない、朝鮮語で「偉大なる父・金主席の指導に従い、祖国の発展のために精励します」といったような文言を唱和する。
 朝鮮の歴史や文化を学ぶ授業では、朝鮮中央テレビに出てくるチマ・チョゴリを着た女性アナウンサーのような抑揚と迫力とをもって、教師たちがひたすら祖国や金主席の偉大さを讃え、儒教道徳に基づく生活指導を行い、反日教育をほどこしている。

 つまり、日本の戦前・戦中の学校教育のコピーである。
 在日三世、四世の時代となり、意識も嗜好もすっかり日本人化してしまった生徒たちを、あらたに朝鮮人として「洗脳する」場所、それが朝鮮学校――というイメージがあった。

 本作では主として、大阪にある朝鮮学校(小学校、中学校、高校)の様子が紹介されている。
 戦後の日本人のだれもが通った日本の学校とほとんど変わりない、平凡な学校の日常風景がそこにある。
 生徒たちは時間割に沿って数学や音楽や体育を学び、サッカー、ラグビー、演劇、吹奏楽などのクラブ活動に仲間と打ち込み、運動会やバザーでは親御さんも一緒に活躍し、卒業式では神妙な顔で卒業証書をもらい、学校との別れに涙する。
 異なるのは、国語の授業が朝鮮語で、日本語は英語と並んで外国語として学ぶところ。そして、学校内では朝鮮語で話すことが決まりとなっているところ。
 朝鮮学校に通っている生徒たちやOBたちの証言から、朝鮮学校が「日本社会での孤立を防ぎ、自らのアイデンティティを確認し、自己肯定する」のに大いに役立っていることが理解される。
 それゆえ、日本国家のたび重なる朝鮮学校に対する迫害は、少数民族への人権侵害であり、子供たちから教育を受ける権利を奪うものであり、110年以上前の日韓併合によって「在日朝鮮人」という存在を生み出した加害責任の放棄と映る。
 ソルティも基本、朝鮮学校に対する“不当な”差別には反対である。

 ただ、本作では肝心の朝鮮学校の教育内容が語られていない。
 朝鮮文化や歴史を学ぶ授業があることは触れられているが、現在のかの国の体制(=金主席による軍事独裁政権)を踏まえての具体的な政治教育の中味が語られていない。
 つまり、金主席を自由に批判できるような民主主義教育がなされているのか?
 そこのところが伏せられている。
 そのために、かつてソルティが抱いた“悪いイメージ”ほどではないにしても、やっぱり学校関係者は今の金政権や全体主義国家体制を批判できていないのではないかという疑問が残る。
 たとえば高監督は、生徒たちや教師や親御さんに直接マイクを向け、「いまの北朝鮮の体制をどう思っていますか?」といった質問さえ投げかけていない。
 そこを省いて(隠蔽して)、「子どもが教育を受ける権利」とか「少数民族の伝統や文化を守る権利」を主張されても、今一つ腑に落ちないものがあるのが正直なところ。

 (実際の朝鮮学校がどうなのかは知るところでないが)今の北朝鮮の体制を賛美肯定するような教育を行っている学校を、民主主義を標榜する日本国家がどこまで認めて公金で支えるか、そこは難しい判断であろう。

 一方、作中に登場する某右翼団体のような、当事者(しかも子どもたち!)に対するヘイトスピーチや威嚇行為は理由がなんであろうと決して許されるものではないし、それを取り締まらない行政のありようは差別を助長する人権侵害であるのは明らかである。
 その判断は難しくないはずだ。

 
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おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 本:『認知バイアス事典』(情報文化研究所著)

2021年フォレスト出版

認知バイアス事典

 一般にバイアス(bias)とは、織り目に対して斜めに切った布の切れ端のことで、そこから「かさ上げ・偏り・歪み」を指すようになった言葉である。
 よく耳にする「バイアスが掛かっている」という言い方は、「偏った見方をしている」ときに使う。
 「認知バイアス(cognitive bias)」とは、偏見や先入観、固執断定や歪んだデータ、一方的な思い込みや誤解などを幅広く指す言葉として使用されるようになったわけである。

 本書には、我々がはまりやすい認知バイアスが3分野に分けて各20個ずつ、計60個紹介されている。 
  1. 論理学系バイアス・・・早まった一般化、希望的観測、「お前だって」論法、信念の保守主義 e.t.c.
  2. 認知科学系バイアス・・・サブリミナル効果、吊り橋効果、デジャビュ、迷信行動 e.t.c.
  3. 社会心理学系バイアス・・・ステレオタイプ、チアリーダー効果、同調バイアス、バンドワゴン効果 e.t.c.
 いずれも、「ああ、言われてみれば確かにそういうことあるよな~」と自らや周囲に当てはまるものばかり。
 人間は良くも悪くも(ほぼ無意識に)自分をだまし、それによって他人をもだます生き物なんだとつくづく思う。

 必ずしもそれは悪いことばかりではなく、進化の過程で、あるいは仲間や社会をつくる(その中で生き残る)上での方便として、必要があったゆえに身についたものでもある。
 たとえば、昨今よく言われる日本人の“悪しき”同調圧力の強さは、集団作業や助け合いが欠かせない稲作文化の長い伝統と関係しているであろう。
 スポーツ選手のジンクスや受験生の合格祈願のお守りなどは、科学的な因果関係は立証できなくても、当人がそれによって精神的安定が図れて良い結果につながるのならば、「効果があった」と言って差し支えないだろう。いわゆるプラシーボ効果である。
 ロバート・ライトが、『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』の中で述べているように、「脳はなにより、私たちに妄想を見せるように設計されている」のである。
 
 問題は、バイアスが他人に対する差別やいじめにつながる場合である。
 というより、ほとんどの差別やいじめはバイアスが原因で、あるいは自分がある特定のバイアスにはまっていることに気づかないがゆえに、起こっている。
 
 その人たちは、たくさんのバイアスがあることも、人が無意識にそれに陥ってしまうことも、どのようなメカニズムで発生するかも知らない。そして、自分の中に存在するそのような認知的歪みが、差別につながっていることにも気づいていないのである。
 この場合、自分が差別をする側であるか、される側であるかは関係ない。そもそも「差別」をしている、されているという意識がないことすら少なくないのである。

 偏った考え方をする知人を「嫌なやつだ」と一蹴するのではなく、バイアスに陥っていることに気づいていないかもしれないと考えることが、呪縛を打ち破る第一歩となる。

 誰もが知っているとおり、他人を変えるのは難しい。
 いや、他人を変えようと思うこと自体が不遜なのではないかとすら思う。
 それよりは、自分の中にあるバイアスに気づいて、自分を変えるほうがたやすかろうし、それによって自らが自由にもなり他人に寛容にもなれるのだから、結構なことである。
 ベストセラーとなった『ファクトフルネス』同様、一読に値する本である。

 最後に、わかりやすいバイアスの例。

読売新聞社が5~7日に実施した全国世論調査で、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の橋本聖子会長が観客を入れた形での開催を目指す考えを示していることについて聞くと、「賛成」が45%、「反対」が48%と拮抗した。
調査によると、海外からのファンの受け入れに賛成している人はわずか18パーセントで、77パーセントが反対だった。
(読売新聞オンライン2021年3月7日記事より、ゴチックはソルティ付す)

 言うまでもなく、読売さんはこの時点で「開催ありき」だったわけである。 


 
おすすめ度 :★★★

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● モダニズム建築小津風 映画:『コロンバス』(コゴナダ監督)

2017年アメリカ
103分

 コロンバスはアメリカのオハイオ州にある小都市。
 モダニズム建築の街として知られている。

モダニズム建築または近代建築は、機能的、合理的な造形理念に基づく建築である。産業革命以降の工業化社会を背景として19世紀末から新しい建築を求めるさまざまな試行錯誤が各国で行われ、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立した。19世紀以前の様式建築(歴史的な意匠)を否定し、工業生産による材料(鉄・コンクリート、ガラス)を用いて、それらの材料に特有の構造、表現をもつ。(ウィキペディア「モダニズム建築」より抜粋) 

 有名なところでは、アール・デコ、フランク・ロイド・ライト、シドニーのオペラハウス、国立代々木競技場なんかが入るらしい。

シドニーオペラハウス
シドニーのオペラハウス

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コロンバスのモダニズム建築


 この映画の主役はまさにモダニズム建築である。
 観光ビデオさながらに、コロンバスにある有名な建築物が次から次へと映し出される。
 よって、映像の美しさの半分は被写体の美しさに拠っているわけだが、ズームも引きも移動もほぼない固定ショット限定というスタイルが、残りの半分の因を占めている。
 このスタイルこそ、本作が小津安二郎に対するオマージュと言われるゆえんであろう。
 確かに人がメインのシーンでも、『東京物語』や『晩春』を想起させるショットがいくつかあった。

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主人公の少女が母親との別れに泣く場面

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『東京物語』で義母との別れに泣く紀子(原節子) 
 
 本作がコゴナダ監督の長編デビューとのこと。
 素晴らしい映画的感性の持主であることはこれで証明された。
 これからどんなオリジナルなテーマを打ち出していくのか、自作を待ちたい。
 

おすすめ度 :★★★

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● SFスピリチュアル小説 本:「消滅の光輪」(眉村卓著)

1979年早川書房
2008年創元SF文庫

 眉村卓と言えば、たびたび映像化されている『なぞの転校生』、『ねらわれた学園』が有名であるが、映像作品はともかく小説は読んだことがなかった。
 生粋の文系ゆえ、あまり良いSF小説の読者でないソルティは、昔から書店や図書館に行ってもSFよりもミステリーにばかり目が行ってしまう。
 科学オンチということもあるが、SF小説はその性質上、最初の数十~数百ページは物語の舞台となる異世界(未来や地球以外の惑星など)の独特の気候風土や社会システムやルールについての説明に費やされてしまうことが多いので、ある程度の忍耐力が要求される。 
 よほど巧みな書き手でないと退屈してしまうのである。
 そこが、派手な殺人場面と謎の提示によって冒頭から読者を惹きつけるミステリーに、SF小説が敵わないところである。

 なので、上下巻970ページを超えるブ厚い本書を借りたのは、“なんとなく”気になったからである。
 手に取って、眉村卓というビッグネームと上巻の裏表紙の紹介文(下記)に惹かれ、「たまにはSFでも読んでみるか」と思った。

植民星ラクザーンでは、人類と瓜二つの温和な先住民と地球人入植者とが平和裡に共存していた。だがその太陽が遠からず新星化する。惑星のすべての住民を、別の星に待避させよ――。空前ともいえるこの任務に、新任司政官マセ・PPKA4・ユキオは、ロボット官僚を率いてとりかかるが・・・・。《司政官》シリーズの最高作にして眉村本格SFの最高峰。泉鏡花文学賞、星雲賞受賞作。

 もちろん、司政官シリーズなんてのがあるとは知らなかった。
 眉村卓が2019年11月に85歳で亡くなっていたのも知らなかった。
 ましてや、この小説の内容や評判も聞いたことがなかった。

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カバーイラストは加藤直之による


 マセに与えられた期限は惑星の公転周期で5レーン(地球時間の約8年)。
 その間にラクザーンのすべての住民の戸籍を作り、空港の拡張工事を行い、宇宙船搭乗の順番を決め、空港までの移送手段を整え、移住に必要な経費を捻出しなければならない。
 住民は家や仕事や財産を捨ててほぼ身一つで行くことになるのだから、新惑星に移住してからの当面の生活資金を政府で用意してやらなければならない。
 そのためにはどうしても税の徴収によって国庫を潤しておく必要がある。
 
 上位の連邦経営機構により緊急指揮権を付与されたマセは、絶大な権力を用いて、自らの立てた待避計画をロボット官僚群を駆使して遂行しようと決意する。
 しかし、そうは問屋が卸さない。
 移住を希望しない者、司政官の独裁を快く思わず反逆する者、逆に司政官の味方につき権力のおこぼれに預かろうとする者、税の徴収に反対し暴動を起こす者、機会に乗じて金儲けを企む者・・・・。
 危機に際してさまざまな人間模様が浮かび上がるのは、このたびのコロナ禍同様である。

 タイムリミットが設けられている点では本書はサスペンスである。
 マセが、既得権益を有する有力団体や住民の中の抵抗勢力を抑えるために、あるいは移住のため少しでも多くの資金を得るために、知略を尽くし、さまざまな策を弄し駆け引きを行なう様は、政治小説のような面白さ。
 暴動を起こした民衆を配下のロボットを使って制圧しようと苦心惨憺する場面は、戦闘パニックさながら。
 移住を希望しない先住民の謎を探っていくくだりは一種のスピリチュアルミステリーの趣き。
 もちろん、マセの頭脳や手足となるロボットの活躍ぶりこそはSF小説の独壇場である。
 いろいろなジャンルの小説の要素がバランスよく盛り込まれた一級のエンターテインメントである。
 40年以上前に書かれたSFなのに、科学性においてもIT的にもまったく古臭い感がなく、令和の今でも十分鑑賞に耐えるし、読み応えがある。
 眉村卓の小説家としての力量に感嘆した。

壊れる惑星


 最初のうち抵抗や不満を露わにしていた地球からの入植組が最終的には宇宙船に分乗し、新しい惑星に飛び立っていくのを傍目に、先住民は誰一人移住を希望しなかった。
 新星化した太陽が焦土を焼き、灼熱地獄と化し、しまいに惑星自体が消失する事実を知ったうえで、ラクザーンに残り続けることを選択したのである。
 先住民も助けたい、あるいは先住民の自殺行為に見える選択を理解できないマセは、説得を試みるが、彼らの意志は固い。
 先住民は、いったい何を考えているのか?
 なぜ自らの命を粗末にするのか?
 温厚で礼儀正しく、あとからやってきた地球人とも共存できる“いい人”ばかりの彼らの本心はどこにあるのか?
 この謎の解明が、本作の最大の鉤(フック)となって読者を引っ張っていく。
 
 読み進めていくうちに次第にゾクゾクしたものを背筋に感じてくるのは、ほかでもない、この先住民がどうにもこうにも仏教徒のあるべき姿――それも大乗ではなく小乗の――を思わせるからである。
 穏やかで感情的にならず、人と争わず、余計なお喋りもせず、「チュン」という敬称を持つ一握りの意識の高い者たちの指導のもと、今あるものに満足して昔ながらの暮らしを静かに送っている。
 チュンの存在はまるで在家信者に対する出家者、あるいは悟りを開いた覚者のようである。
 チュンはまた予知能力を持っていることが明らかにされる。
 つまり先住民は、地球人が入植してラクザーンの支配者となることも、太陽が新星化してラクザーンが消滅することも、大昔から知っていたのである。
 破滅を知りながら従容としてそれを受け入れる姿は運命論者のように見えるが、実は彼らにははるか昔から伝わる伝承があり、それこそがラクザーンからの待避を拒む一番の理由だったのである。(伝承の内容は詳らかにしないでおく)
 
 ラクザーンから人類がどんどん去っていくのに呼応するように、というよりも太陽の新星化が進行するにつれ、先住民は意識の進化を速め、次々と悟りを開き、チュンになってゆく。
 チュンになったのち、肉体から抜け出て、別の生命体となって宇宙意識と合一する。
 このあたりもまた「悟りから解脱へ」の道を説く仏教的である。と同時に「梵我一如」を説くバラモン教的でもある。
 実に先住民とは「精神的・瞑想的な存在として、思惟の世界を持つ者」であり、諦念に達しているがゆえに現世に拘泥することのない種族なのであった。

 むろん、この逆座標に来るのがマセを始めとする人類であるのは言うまでもない。
 人類は「物質的・科学的な力を駆使して空間的に勢力を広げる者」であり、自らの手で運命を変えることができると信じ、現世において夢や野望や欲望を追い求める種族である。
 本作の一番の肝は、人類と先住民との対比を描いたところにある。
 それはちょうど、未曽有の科学力とIT技術を使いこなす神のごとき未来の人類像――ユヴァル・ノア・ハラリ言うところのホモ・デウス――と、自己および自由意志の幻想性を悟り俗世間に見切りをつけた今一つの人類像――ソルティ名付けるところのホモ・ブッダ――との対比のようである。

宇宙空間のブッダ

 
 司政官マセはロボット官僚を自らの手足のごとく自在に動かし、一時は独裁者として君臨する。
 が、最後には、マセ自身もまた連邦経営機構という巨大な官僚組織の交換のきく歯車の一つに過ぎず、経営機構が事前に練り上げた「惑星移住計画」のシナリオ通りに動かされていた操り人形であったことに気づく。
 令和時代の主人公なら、真実を知ってショックを受け、憤りや虚しさに襲われ、己れのこれまでの生き方や価値観を点検し直すところであろう。
 が、何と言っても40年前の作品である。
 日本は未だバブル知らずの昭和元禄真っただ中。
 作者の眉村卓も昭和ヒトケタ生まれの男である。 
 マセは、会社に命を預けた昭和時代のモーレツ社員さながら、ふたたび組織に戻って司政官の職を続けてゆく決意をする。
 この結末だけが時代遅れを、いや40年の時の流れを感じさせた。

 それにしても、娯楽を求めて“なんとなく”手に取った本が、結局仏教へとつながっていく不思議
 なんだろな、これは?

 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
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● デヴィッド・ボウイのテスラ 映画:『プレステージ』(クリストファー・ノーラン監督)

2006年アメリカ、イギリス
128分

 19世紀末のロンドン。
 マジックショーに人生をかけた二人の男(ヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベール演ず)の熾烈な闘いを描くミステリードラマ。

 二人が奇術のネタを求めてはるばるアメリカまで渡って出会う人物が、何を隠そう、天才科学者ニコラ・テスラ
 当時、電気を使った派手な公開実験で衆目を集めていたのである。
 このテスラをなんと往年の美形ロックミュージシャン&俳優たるデヴィッド・ボウイが演じている。
 『戦場のメリークリスマス』で世の婦女子を虜にした黄金の美貌こそ、さすがに過去のものではあるが、カリスマ性あるたたずまいは浮世離れした異端の天才科学者にふさわしい。


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テスラに扮するデヴィッド・ボウイ


 ここでのテスラは失意のマッド・サイエンティストとして描かれている。
 奇術師の依頼によりテスラが作成した電磁波を使った装置によって、文字通り一世一代の“人間瞬間移動”マジックが実現したという設定である。
 むろんフィクションであり、テスラはそんな装置を手がけることはなかった。
 アメリカの都市伝説の一つで、テスラが当初関わったと言われるフィラデルフィア計画がこのエピソードのもとになっているのだろう。

  


おすすめ度 :★★

★★★★★
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● 漫画:『諸星大二郎 自選短編集 彼方より』

初出1974~1994年
2001年集英社
2004年集英社文庫

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 諸星大二郎が25歳から45歳に描いた10の短編が収録されている。
 タイトル通り「彼方」という言葉によって統一されうるような異界物ばかりであるが、SFあり怪談ありギャクタッチありシュールあり古代中国あり人類初期のアフリカあり・・・とジャンルもテーマも幅広い。もちろん、それぞれの話に応じて絵のタッチもまったく異なる。
 読みながら、つげ義春と伊藤潤二と赤塚不二夫と永久保貴一を想起したけれど、諸星大二郎は諸星大二郎である。大変ユニークで傑出した才能に恵まれた人。
 
 自選だけのことはあって読みごたえのある傑作が並んでいる。
 いっぺんに読んでしまうのがもったいなくて、一日一編と決めてじっくり味わいながら読んだ。
 また、一つ一つが濃すぎて、続けて読めるものでもない。

 人間が自ら産んだ人工物と融合してしまう不条理世界『生物都市』、わらべ唄「通りゃんせ」に隠された恐るべき秘密『天神さま』、ダリのごとく奇抜で奔放な創造力が冴える『ど次元世界物語』、古代中国の詩人・陶淵明を主人公とするオカルトファンタジー『桃源記』、ジェンダーと性に切り込んだ意欲作『男たちの風景』、恐ろしさと不思議さと懐かしさとがないまぜになった奇妙な味わい『カオカオ様が通る』等々、ソルティの遅すぎる諸星デビューとなった『暗黒神話』同様、作者の天才と日本漫画界の豊穣を知らしめるに十分な一冊である。

 遅すぎはしない。
 諸星大二郎をこれから踏破する幸せが待っている!



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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● ブッキーの無駄遣い 映画:『黒衣の刺客』(ホウ・シャオシェン監督)

2015年中国、台湾、香港
106分
中国語

 『童年往事』(1985)、『悲情城市』(1989)のホウ・シャオシェン(侯孝賢)はソルティの最も好きな映画監督の一人であるが、ここ30年とんと追っていなかった。個人的には『悲情城市』で頂点を極めたという印象がある。
 撮影本数も2000年に入ってからグッと減って、この『黒衣の刺客』は8年ぶりの新作という。(その後は今のところない)
 
 映画史に残る名監督の8年ぶりの新作で、カンフー系のアクション時代劇という触れ込みで、第68回カンヌ国際映画祭の監督賞を獲り、日本からはブッキーこと妻夫木聡が出演しているというのに、話題になったという記憶がない。
 なんでだろう??と思いながら観たのだが、答えは簡単。
「つまらなかった」

 8世紀の群雄割拠の中国が舞台というだけでも歴史をよく知らない者には背景がわかりにくいのに、登場人物の関係性がややこしく、同じような民族衣装をまとった役者の顔も見分けがつかず、筋書きもつかみづらく、登場人物が何を考えどう感じているのか捉えにくい。脚本(監督自身による)が不親切なのだ。
 そこにホウ監督ならではの緩慢で濃密な時の流れを映したカットが続くので、何度か寝落ちするところであった。

 最後まで見続けられたのは、やはり映像の素晴らしさに尽きる。
 中国王宮ドラマの色彩の美しさはもとより、風、火、水、木、煙、光といった自然の揺らぎを敏感に捉えて映し出す手腕は、監督デビューの頃から変わらずに健在であった。
 映画を観る至福が一方にあり、ドラマに入り込めない苛立ちが一方にある。

 独自のスタイルを持つ監督が自他ともに認める巨匠となり、周囲の人間が誰も忠言できなくなる、監督も周囲の助言に耳を傾けなくなると、えてしてこういった独りよがりに陥りがちである。
 このつまらなさは世のカンフー系アクション映画に対する冒瀆であろう。
 芸術映画というならまだ許せる気もするが・・・。


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どういう役柄かいっこうにわからない中国人?の妻夫木聡
(とりえず大監督の作品に出演できて良かったね)



おすすめ度 :

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● バトルの悪魔的魅力 オペラDVD:モーツァルトの『魔笛』

指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:グース・モスタート(オリジナル演出:ジョン・コックス)
ステージデザイン:デイヴィッド・ホックニー
キャスト
 パミーナ : キャスリーン・バトル
 夜の女王 : ルチアーナ・セッラ
 タミーノ : フランシスコ・アライサ
 パパゲーノ : マンフレート・ヘム
 ザラストロ : クルト・モル
1991年2月メトロポリタン歌劇場におけるライブ収録
180分

 モーツァルトのオペラは劇場で聴くならともかく、家でDVDやCDで鑑賞していると退屈してしまうことが多い。
 とくに『魔笛』は、彼の作品中もっとも有名なものの一つで夜の女王のアリアやパミーナとパパゲーノによる「男と女の愛の二重唱」など、聴きごたえのある素晴らしい歌もあるのだけれど、積極的に視聴したい気分にはなれない作品である。
 作られた時代的に仕方ないと分かってはいるものの、男尊女卑、人種差別な内容には毎度辟易させられるし、フリーメイソンを賛美していると言われる筋書きも上から目線の教条的な感じで、面白みに欠ける。
 ドラマツルギーにおいても、近現代の起伏に富みスピーディな、視聴者を飽きさせないドラマにくらべると、のったりと緩慢でまどろこしく、「ここはカットしてよ!」と思わず言いたくなる場面が多い。 
 と言うと、「オペラは演劇ではない、音楽だ!」という声が聞こえてきそうだが・・・。

 このDVDを借りようと思ったのは、キャスリーン・バトルがパミーナを歌っているからである。
 性格に難があり毀誉褒貶さまざまなプリマドンナなれど、やっぱりソルティはバトルの歌声には魅かれる。
 そもそもソルティのオペラ開眼、クラシック道参入の端緒となったのは、86年にバトルが出演したニッカ・ウヰスキーのテレビCMであった。下世話に言えば、「筆おろしの相手」みたいなもんである。
 あれから35年、いろいろな歌手を知り、多くのオペラやリサイタルを聴き、CDやDVDを集めてきたけれど、今でも普段もっとも頻繁に棚から取り出してプレイヤーにかけるのはバトルのCDである。
 ヘンデルアリア集、モーツァルトアリア集、同じソプラノ歌手ジェシー・ノーマンとの共演ライブ、この『魔笛』でも共演している指揮者ジェイムズ・レヴァインのピアノ伴奏によるザルツブルグ・リサイタルなど、どれもすこぶる魅力的である。

 よく聴く理由の一つは、バトルの歌が「~ながら作業」に向いているというところにある。パソコンに向かって事務作業やブログ記事作成、部屋の片づけをする、寝転んで本や漫画を読む、そんなときのBGMにちょうどいいのである。その意味ではエンヤといい勝負。
 これがマリア・カラスでは絶対ダメである。カラスの歌声ほど「~ながら」に向かないものはあるまい。どうしても肝心の作業の手を止めてカラスの作るドラマチックな世界に入り込んでしまう、あるいは、作業に集中しようとすれば決して美しくはないその歌声が邪魔になる。
 バトルの歌声は作業の邪魔にならない。作業効率を高める。
 むろん、単なるBGM以上でもある。
 なんといっても耳に心地いいのだ。
 白大理石のようにつややかで、千歳飴のように甘く、森の中の小川のように清冽で、野辺の花のようにやさしく儚げで、小鳥のように軽やかで愛らしい。
 この『魔笛』ライブの3年後にバトルはあまりに度を越した我儘ゆえメトロポリタンを首になった。
 歌い手の歌声と性格のギャップをこの人ほどあからさまに見せてくれる人はおるまい。

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ソルティが所有するバトルのCD


 期待通り、素晴らしいパミーナである。
 パパゲーノとの重唱や第2幕の悲嘆のアリアはまさに絶品で、天上的でたおやかな歌声には陶然とさせられる。
 歌声ばかりでなく、容姿もスタイルも表情も立ち居振る舞いもすこぶる魅力的で、裏事情を知らなければ“まるで女神のような女性”と勘違いしてしまうこと請け合い。天使に扮する3人の少年たちとの共演シーンなど、「私は子供好きで子供にも愛される優しいお姉さんなのよ」的なオーラを醸し出している。
 しかし、裏事情を知っている者からすると、共演者がどれだけバトルに気を遣っているか、その激しい気性にビクビクしているか、勝手な振る舞いや要求にうんざりしているか、重唱ではバトルの小さな声をかき消さないように自らの声を仕方なくセーブしているか、といったあたりを見つけ出そうとしてしまう。それもまた一興である。

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子供の表情がこわばっているように見えるのは気のせいか?
 
 バトルのみならず、超絶技巧を見せる夜の女王のルチアーナ・セッラ、ライオン・キングの如き貫禄たっぷりのザラストロのクルト・モル、剽軽で単純なパパゲーノを演じるマンフレート・ヘムも素晴らしい歌を披露している。
 ステージデザインをアメリカ在住の有名なアーティストであるデイヴィッド・ホックニーが手掛けている。ポップでメルヘンチックで美しい舞台美術も見物。
 
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夜の女王に扮するルチアーナ・セッラ
『銀河鉄道999』のプロメシューム(メーテルのお母さん)のよう


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ザラストロ役のクルト・モル
体のでかい人は黙っていても存在感があって得だな
しかし手がデカい


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デイヴィッド・ホックニーによるデザイン



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 蒲田調 映画:『隣の八重ちゃん』(島津保次郎監督)

1934年松竹
77分

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 俗に蒲田調と言われる小市民の日常を切り取ったドラマ。
 島津保次郎(1897-1945)作品を観るのはこれがはじめて。
 二十歳の原節子主演で『嫁ぐ日まで』を撮っている。
 フィルムが残っているならぜひ観たいものだ。
 本作のクレジットでは助監督として豊田四郎と吉村公三郎、撮影の一員として木下惠介の名が上がっている。後進を育てる名人だったのだろう。
 
 出てくる俳優で見知っていたのは、『一人息子』など小津安二郎作品の常連であった飯田蝶子くらい。
 八重役の逢初夢子、岡田嘉子、高杉早苗も名前だけは聞いたことのある伝説の女優といったイメージ。とくに岡田は共演男優との駆け落ちや妻のいる共産主義者とのソ連逃避行など、スキャンダルで名を売った。
 八重の幼馴染で思われ人の恵太郎を演じる大日向伝(おおひなたでん)は、阿部寛のような正統派美男子。のちにブラジルに渡って牧場経営し巨万の富を築いたというから面白い。
 当時の役者の奔放さ。 
 
 昭和初期の東京近郊の住宅地の風景がなんともゆかしい。
 午後から銀座に映画を見に行ったり、近くに大きな土手があるところからして、隅田川か荒川近辺なのではないかと思うのだが・・・。

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 大学をさぼって早帰りした恵太郎が自宅の鍵が閉まっているのを見て、隣の八重の家に勝手知ったる我が家のごとく上がり込み、昼食をよばれるシーンがある。
 父親の仕事の関係で大陸行きが決まった八重の家の引っ越しを、恵太郎一家が総出で手伝い、みんなで見送るシーンがある。 
 昭和40年代くらいまでの日本は、東京近郊でもこんなふうだったなあ。


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おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『男らしさの終焉』(グレイソン・ペリー著)

2016年原著刊行
2019年フィルムアート社

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 著者は1960年イギリス生まれのアーティスト。
 トランスヴェスタイト(異性装愛好者、※普通訳語として使われる「服装倒錯者」という言葉は好ましくない)である。日本で言えば、森村泰昌のような存在か。ゲイではない。
 幼少の頃から伝統的なマスキュリニティ(男性性、男らしさ)を押し付けられることに違和感を覚え苦闘していた彼による「脱・男らしさ」のすすめである。
 多くのゲイが社会に巣くうマッチョイズムによって抑圧され差別され自己否定に陥ってきた(いる)のは昨今知られてきたし、理解や支援も進んできたと思うが、実のところ、ヘテロの男自身もマッチョイズムによって苦しめられて馬鹿を見ている。
 そのことを縷々説いている本である。

 男性のことを、深みがなくて、短気で、柔軟性がなく、変化しない存在として片付けるのをやめよう。何しろ彼らは女性と同じ脳をもっているのだ。問題は、現在の男性の性役割に締め付けが強いことだと思う。男性は常に、無意識に監視してしまうのである。健全に変化を起こすには、差異を許容することが重要だ。男性は、他の男性に対しても自分に対しても、男らしさの基準に達していないという理由で責めるのをやめるべきだ。・・・(略)・・・新しい柔軟な男性は、新たなジェンダーの性役割に適応するだけでなく、さまざまな文化、階級、民族、宗教でも適応できなければならない。

プール


 ときに、ソルティは週3回ほど家の近くのスポーツクラブのプールに通っている。
 曜日と時間によっては、水中運動(アクアエクササイズ)のレッスンと重なることがあり、自分が水中ウォーキングしたり泳いだりしている隣のコースで、数十人の受講者がプールサイドに立つコーチの指導を受けながら、軽快な音楽に合わせて水しぶきを跳ね上げているのを見かける。
 場所柄、通勤帰りよりも地域の人が多いので、60代以上のおばさまで占められている。
 男は一割満たない。

 数ヶ月通っているうちに、数種類のエクササイズプログラムがあって、3人のコーチがいることがわかった。わかりやすくニックネームをつける。
 ① 静香ちゃん・・・20代後半とおぼしき美人で内気な感じの女性。
 ② 睦男くん ・・・30代くらいの無愛想で傲慢な感じのするマッチョな男性。
 ③ 陽子さん ・・・40~50代に見える溌剌としてスタイルのいい女性。

 一番人気は③の陽子さんで、彼女の元気な掛け声や躍動感ある動き、レッスン終了後の受講者とのコミュニケーションを見れば、人気の高さももっともと頷ける。受講者との年齢が近いことも大きいのかもしれない。
 次の人気は①の静香ちゃん。男性参加者の割合が一番高いのはわかりやすい。丁寧な指導でやさしい声掛けも魅力的だが、海千山千のおばさま受講者との会話がどうも苦手のようである。
 ②の睦男くんは「なぜこの人がコーチの仕事を?」と傍で見ていて思うほど、毎回面白くなさそうな表情で指導している。岡田准一ばりのイケメンで水泳で鍛えた均整の取れたガタイも見事、普通ならおばさま人気一番と思えそうなのに、水中にいる受講生のソーシャルディスタンス度は高い。つまり人気がない。男の受講者は皆無である。

 コーチ自身が楽しんでいるか、自らの仕事を愛しているかがポイントである。
 体を動かすこと、人に教えること、人と交流することを楽しんでいるコーチの放つオーラは、水中にいる受講者に容易に伝わり、受講者の表情や動きに素直に現れる。レッスン効果もきっと高いことだろう。
 
 数週間前、新たなコーチが加わった。
 「この人、初顔だな。誰か休んだコーチの代わりかな?」と思っていたが、どうやら臨時ではなく、理由は分からないが睦男くんが辞め、その“後釜”らしい。
 後釜氏は40代くらいのテディベア系の男で、ぷよぷよしたお腹まわりといい、後頭部の照りといい、まったくアスリートっぽくない。睦男くんとは正反対のタイプである。体の切れも動きもスポーツというより盆踊りのようなユルさ。
 しかし、後釜氏の人気はうなぎのぼりで、あっという間に静香ちゃんも陽子さんも抜いて、参加者多数の人気プログラムになってしまった。

 後釜氏は口が悪い。レッスンの合間に、悪口すれすれのジョークをお客様である受講者に投げかける。「はい、短い脚を精いっぱい伸ばして!」とか平気で言う。
 プールサイドに椅子を用意していて、自分が疲れてくると「ちょっと一休み」とか言って腰掛けて、そのまま口頭指導している。
 なのに、おばさまたちはジョークに笑い、コーチのいい加減な態度に怒ることなく、楽しそうに指導に従っている。マドンナやレディ・ガガといったノリのいいBGMに遅れることなく水中での激しい動きを次々とこなし、まるでシンクロナイズド・スイミングの選手たちのよう。60代超え(中には80代もいる)とはとうてい思えない。
 楽しんでいることが表情からも動きからも笑い声からも伝わってきて、彼女らが放つキラキラしたオーラはプールサイドを明るくする。
 
 この奇跡の秘密はなんのことはない。
 後釜氏、オネエなのである。
 
 おばさまたちのオネエ好き、中高年女性をやたら元気にさせてしまうオネエの威力には驚くばかりである。
 ソルティ思うに、おばさまたちは“彼”のうちに、「定年退職したものの趣味もなく家事もできず、他人とコミュニケーションとるのも苦手で、ただ家でゴロゴロしている亭主」とは違った男性像を見ているのではなかろうか? 
 最近では後釜氏のレッスンに参加する中高年男性も増え始めている。
 結局、Gay(陽気)であることがなによりの健康の素なんである。 

二つのジェンダー



おすすめ度 :★★

★★★★★
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● 50年前の四国遍路 映画:『旅の重さ』(斎藤耕一監督)

1972年松竹
90分

 少女が四国遍路する話というので借りてみた。
 懐かしい景色が観られるかな~と思って・・・。
 
 が、残念ながら少女の歩いている場所が四国のどこなのかほとんど見当がつかず、画面に映し出される美しい自然風景や家並みにも見覚えがなかった。
 主人公の少女が歩いた70年代初めの四国と、ソルティが歩いた2018年の四国とでは、あまりに変貌著しく、わずかに高知の海岸沿いの岩塊そそり立つ光景だけが、「こんな感じのところを通ったな」と思い返すのみであった。
 南国ならではの明るい光だけは、半世紀近く隔てても変わりなかった。


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今ではこのように舗装されていない道自体が少ない


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愛媛の段々畑(少女は逆打ちしている)


叶崎光景
2018年の遍路で歩いた高知の海岸(足摺岬の西側)

 家庭環境に悩んだ16歳の少女が、自宅のある愛媛の新居浜を出発し、一人巡礼の旅に出る。
 途中、白装束のお遍路と出会い、道々お接待を受け、ふらりと入った街(松山あたりか?)の映画館では痴漢に遭い、ドサ回りの役者連中と数日過ごす間に一座の男に襲われ、女にレズビアニズムを仕込まれる(若い女性の遍路行はかくもスリリングである)。
 高知の海辺の町で栄養失調に倒れた少女は、魚の行商をしている中年の男(=高橋悦史)に助けられ、介抱を受けるうちにいつしか男女の仲になっていく。

 主役の高橋洋子はこれがデビュー作。
 応募者2000人近いオーデションで秋吉久美子と競って勝ち取ったという。
 撮影当時18歳。
 素朴で健康的で瑞々しい。
 砂浜での全裸シーンやレズビアンシーンにも果敢にチャレンジしている。
 この2年後に熊井哲監督『サンダカン八番娼館 望郷』に抜擢され、女衒にだまされてボルネオの娼館に売られる「からゆきさん」を、やはり体当たりで演じている。
 女優としてたいへん恵まれたスタートを切ったのである。


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主役を競った秋吉久美子と高橋洋子
秋吉にとってもこれがデビュー作となった

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高知の容赦ない陽射しと青い海は遍路を解放的にする
(ソルティも実は全裸で泳ぎました


 旅芝居一座の座長を三國連太郎が演じている。
 上手さは言うまでもないが、息子の佐藤浩一との相似にびっくりした。

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三國連太郎(当時39歳)


 よしだたくろうの『今日までそして明日から』をBGMに、野宿もいとわず自然の中を歩き、いろいろな人との出会いを重ねて自分探しをする少女の姿は、まさに60~70年代のヒッピー文化を彷彿とする。
 70年代初頭の日本の地方の風景が切ないほど美しい。
 こんな豊かな旅はもうできない。
 日本列島改造計画やバブルを通過して国土はすっかり変わってしまったし、日本中どこにいてもインターネットから逃れられない。
 たとえば、見知らぬ美しい少女が砂浜で全裸になっているところを見かけたら、スマホを取り出して隠れて撮影する不届きな輩がいることだろう。
 そして、それをSNSに投稿するだろう。
 またたく間に少女のヌードは世界中に配信されて拡散し、多数の「イイね!」を獲得し、その砂浜はどこで、どこの海か、映っている少女はどこの誰なのか、特定する者が現れることだろう。
 翌日には、少女を一目見るために(あわよくば性的欲望を満たすために)、全国から暇な男たちが四国遍路に押しかけるやもしれない。
 少女は旅を続けることができなくなるであろう。
 
 今や、“旅行”はできても“旅”は難しくなった。
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● 21世紀の仏教経典 本:『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)

2015年原著刊行
2018年河出書房新社より邦訳発行(柴田裕之訳)

 『サピエンス全史』は、人類の過去から現在までを俯瞰し、とりわけ3~7万年前に起きた認知革命によって人類が虚構(物語)を共有できるようになったことが、人と他の動物を分かつ決定的な進化(退化?)につながったことが説かれていた。
 続編となる本書では、人類の過去の歩みと傾向、および現在飛躍的な進歩を遂げている科学と IT 分野の現状を踏まえ、人類の行く末を予測している。
 前著同様、ユヴァルの博覧強記と具体的でわかりやすい事例を挙げて解説・論証する説得力、そしてブラックジョーク風ユーモア満載の語り口に圧倒される。


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 ホモ・デウス=ホモ(人間)+デウス(神)=神人――というのが、ホモ・サピエンス(賢い人間)たる我々が今後目標とするであろう存在のあり方だ、というのがユヴァルの予測である。
 人類は何万年以上もの間、「飢餓・疫病・戦争」の3つに苦しめられてきたが、21世紀を迎えてようやくそれらを克服できるようになった。(コロナワクチン開発の速さと高い効果を見よ!)
 次に人類が目指すべきは次の3つ――「不死・至福・神性」であり、それこそはまさに数千年の昔から神の属性と考えられてきたものである。
 これに到達するために最大限活かされるツールが、遺伝子工学や脳科学を中心とする生命工学(バイオテクノロジー)であり、膨大なデータを瞬時に解析・処理・記憶・応用できる I T(コンピュータ―テクノロジー)である。

 21世紀初頭の今、進歩の列車は再び駅を出ようとしている。そしてこれはおそらく、ホモ・サピエンスと呼ばれる駅を離れる最後の列車となるだろう。これに乗りそこねた人には、二度とチャンスは巡ってこない。この列車に席を確保するためには、21世紀のテクノロジー、それもとくにバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を理解する必要がある。これらの力は蒸気や電信の力とは比べ物にならないほど強大で、食糧や織物、武器の生産にだけ使われるわけではない。21世紀の主要な製品は、体と脳と心で、体と脳の設計の仕方を知っている人と知らない人との間の格差は、ディケンズのイギリスとマフディーのスーダンの間の隔たりよりも大幅に拡がる。それどころか、サピエンスとネアンデルタールの間の隔たりさえ凌ぐだろう。21世紀には、進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、後に取り残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ。

 ソルティは早々に絶滅しそうです(笑)
 ちなみに、アルゴリズムとは

計算や問題解決の手順のこと。定められた手続に従って計算していけばいつかは答えが得られ、それが正解であることが保証されている手続である。
(小学館『日本大百科全書 ニッポニカ』より抜粋)

 クローン人間の創造とかIDの付いたコンピュータチップを体内に埋め込むとかには眉を顰める自分であるけれど、たとえば、近眼と老眼に悩んでいる目、数十年付きあってきて今後確実に悪化の一途をたどるであろう腰痛、地肌が透けて見える頭髪の過疎化を、安価で完璧に治してくれる再生医療があったとしたら、あるいは、行きたいところにはどこでも安全に快適に最速で連れていってくれる自動運転車があったとしたら、やっぱりそれを利用したいではないか。
 人間の欲望と資本主義経済を基盤とする、ユヴァル言うところの“自由主義的人間至上主義”は、実現可能なことで利益を生むものならなんだって実現していく道を選ぶ。
 もちろん、そこには倫理という壁が立ちはだかるが、残念なことに神は数世紀前に死んでしまった。

 本書では、最先端の生命工学やコンピューターテクノロジーを活用したビジネス(主としてアメリカで起こっていること)の事例が紹介される。
 30年前ならSF小説かトンデモ科学の本の中にしかお目にかかれなかったような荒唐無稽・奇想天外なアイデアが、すでに実用化されつつあることに驚きと慄きを覚えざるを得ない。
 キアヌ・リーブス主演『マトリックス』は88年の映画だが、あそこで描かれていたヴァーチャル・リアリティの技術――脳を電極に繋がれた人間たちが透明ポッドの中で仮想世界を現実と思いながら生きる――は、もう手の届くところまで来ているのだ。

 映画では主人公ネオはその欺瞞に気づき、カプセルから脱出してコンピュータと闘う。
 その姿に鑑賞者は共感し応援するけれど、カプセルの中と外と、いったいどちらが幸せなのかは保証の限りではない。
 というのも、コンピュータは人間の感じる幸福感の正体をビッグデータを通じて解析し、それを生み出すような脳への電気刺激や薬物を適宜与えることができるからだ。
 ネオの奮闘によりカプセルから抜け出した群衆が、助けてくれたネオに集団で襲いかかり殺戮する可能性だってある。
「なんで、起こしたんだ!?」


バーチャルリアリティ


 ユヴァルは示唆する。
 生命工学と IT の進歩は人間を神のごとき万能な存在に近づけるかもしれない。
 が、一方、人間の存在価値を剥奪してしまうかもしれない。
 一つには、自由意志や自己の幻想性を徹底的に知らしめることで。
 一つには、コンピュータの能力が人間のそれをはるかに凌駕し、人間から仕事を奪うことで。
 と同時に、「私」以上に「私」のことをよく知っているコンピュータが、「私」に変わって常に最適な答えを提供してくれるようになるがゆえに。

 18世紀には、ホモ・サピエンスは謎めいたブラックボックスさながらで、内部の仕組みは人間の理解を超えていた。だから、ある人がなぜナイフを抜いて別の人を刺し殺したのかと学者が尋ねると、次のような答えが受け容れられた。「なぜなら、そうすることを選んだからだ。自分の自由意志を使って殺人を選んだ。したがって、その人は自分の犯罪の全責任を負っている」。ところが20世紀に科学者がサピエンスのブラックボックスを開けると、魂も自由意志も「自己」も見つからず、遺伝子とホルモンとニューロンがあるばかりで、それらはその他の現実の現象を支配するのと同じ物理と化学の法則に従っていた。

 生き物はアルゴリズムで、キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法にすぎないという考えに同意できない人もいるかもしれない。だが、これが現在の科学界の定説であり、それが私たちの世界を一変させつつあることは知っておくべきだ。

 昨今のニコラ・テスラ再評価の理由がこれで理解できよう。
 二コラは人間がアルゴリズムであることをいち早く見抜いていたのだ。
 (現在、イーサン・ホーク主演の伝記映画が公開中である!)
 
 ユヴァルは、神の死とともに始まった近現代の人間至上主義が、人間を含むすべての生物をデータというフラットなものに還元するデータ至上主義に変わっていく未来を予測している。

 データ至上主義は、人間の経験をデータのパターンと同等と見なすことによって、私たちの権威や意味の主要な源泉を切り崩し、18世紀以来見られなかったような、途方もない規模の宗教革命の到来を告げる。ロックやヒュームやヴォルテールの時代に、人間至上主義者は「神は人間の想像力の産物だ」と主張した。今度はデータ至上主義者が人間至上主義者に向かって同じようなことを言う。「そうです。神は人間の想像力の産物ですが、人間の想像力そのものは、生化学的なアルゴリズムの産物にすぎません。」 18世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に変えることで、神を主役から外した。21世紀には、データ至上主義者が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかもしれない。

 これは、人類の過去と現在とを十分に研究・検討したうえでの未来予測である。
 ノストラダムスの大予言のような根拠のない言説とは違い、蓋然性の高い未来図と言えるだろう。
 むろん、まったく予期しない第三項が生じるかもしれない(たとえば世界同時多発発電所破壊テロとか)。あるいは、ユヴァルがこういった予測を立てて全世界に向けて発表したこと自体が予測を変貌させる結果につながるかもしれない。(観察すること自体が結果に影響を与える量子力学の観察者バイアスのように)
 コロナウイルスの発生同様、なにが起こるか分からないのがこの世の中だ。
 
バタフライ効果



 本書は内容自体が衝撃的と言っていいものであるが、実はソルティがなにより衝撃を食らったのは、上巻の扉を開いて目次のあとに来る献辞ページを見た瞬間であった。
 こう書かれていた。

 重要なことを愛情をもって教えてくれた恩師、S・N・ゴエンカ(1924~2013)に 

 ゴエンカってまさか、あのゴエンカ?
 下巻の巻末にある謝辞を見ると、こう書かれていた。

 ヴィッパサナー瞑想の技法を手ほどきしてくれた恩師サティア・ナラヤン・ゴエンカ。この技法はこれまでずっと、私があるがままに見て取り、心とこの世界を前よりよく知るのに役立ってきた。過去15年にわたってヴィッパサナー瞑想を実践することから得られた集中力と心の平穏と洞察力なしには、本書は書けなかっただろう。

 間違いない。
 瞑想業界で有名なあのゴエンカ師である。
 ユヴァルは、ヴィッパサナー瞑想(俗にマインドフル瞑想と呼ばれる)の実践者だったのである!
 それも15年以上もの!(ソルティより長い)
 つまり、仏教徒かどうかは知らないが、かなり深く仏教を学び理解しているのは間違いない。
 ブッダの重要な教えであるところの「諸行無常、諸法無我、一切皆苦、縁起、輪廻」を言葉の上の知識としてではなく、智慧として掴んでいる可能性が高い。上記の「ヴィッパサナー瞑想を実践することから得られた洞察力」とは、そういう意味に違いあるまい。
 だとしたら、自由意志や自己が幻想であることも、アルゴリズム(=「これあるゆえにそれがある。これなきゆえにそれがない」)とはすなわち「縁起」や「輪廻」の別称であることも、科学や IT の勉強を通してではなく坐禅によって悟っているのかもしれない。
 本書や『サピエンス全史』が、仏教の智慧を有するイスラエル在住のユダヤ人のゲイの学者によって書かれた意味は大きい。

以下、引用。

 歴史を学ぶ目的は、私たちを押さえつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき始める。私たちをここまで導いてきた偶然の出来事の連鎖を目にすれば、自分が抱いている考えや夢がどのように形を取ったかに気づき、違う考えや夢を抱けるようになる。歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える。

 虚構は悪くない。不可欠だ。お金や国家や協力などについて、広く受け容れられている物語がなければ、複雑な人間社会は一つとして機能しえない。人が定めた同一のルールを誰もが信じていないかぎりサッカーはできないし、それと似通った想像上の物語なしでは市場や法廷の恩恵を受けることはできない。
 だが、物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や基準にすべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な収益をもたらすため」、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。

 国家や神や貨幣と同様、自己もまた想像上の物語であることが見て取れる。私たちのそれぞれが手の込んだシステムを持っており、自分の経験の大半を捨てて少数の選り抜きのサンプルだけ取っておき、自分の観た映画や、読んだ小説、耳にした演説、耽った白昼夢と混ぜ合わせ、その寄せ集めの中から、自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのかにまつわる筋の通った物語を織り上げる。この物語が私に、何を好み、誰を憎み、自分をどうするかを命じる。私が自分の命を犠牲にすることを物語の筋が求めるなら、それさえこの物語は私にやらせる。私たちは誰もが自分のジャンルを持っている。悲劇を生きる人もいれば、果てしない宗教的ドラマの中で暮らす人もいるし、まるでアクション映画であるかのように人生に取り組む人もいれば、喜劇に出演しているかのように振舞う人も少なからずいる。だがけっきょく、それはすべてただの物語にすぎない。


 現代科学が我々に見せるありのままのこの世の風景は、きわめて仏教的である。
 本書では触れられていないけれど、人間至上主義の先に待っているのはデータ至上主義(この世のすべては現象の生起消滅に過ぎない)であると同時に、人類がホモ・デウスならぬホモ・ブッダとなる一縷の可能性なのかもしれない。




おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● コロナではない、それは・・・  映画:『ステイ・ホーム』(ロベルト・デ・フェオ監督)

2019年イタリア
108分

 幼い頃に自動車事故で父親を失い、自らは車椅子生活となった少年サミュエル。
 使用人に囲まれながら、広大な森の中の屋敷に母親と二人で暮らす。
 「外は危険、家の中が一番」と聞かされ続け、生まれてから一度も敷地の外に出たことはない。
 ある日、外の世界から一人の少女デニーズがやって来て、使用人の一人となる。
 快活で美しいデニーズに心を奪われたサミュエル。
 デニーズを虐げる母親に憤りを覚え、ある夜、デニーズと共に屋敷をあとにする。

 一見、支配的で精神異常の気のある母親の束縛から、恋に目覚めた思春期の息子が自立する物語と読める。
 それは間違いないのだが、ラストで話がひっくり返る。
 原題 Il nido は「巣」の意だが、それは母鳥が必死で雛を守る巣であると同時に・・・・。


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 母親役のフランチェスカ・カヴァリンという女優が素晴らしい。
 凛とした美しさのうちに、狂気に近い母の愛、怖れと哀しみを表現している。
 イタリアのニコール・キッドマン(@『アザーズ』)といったふう。
 
 色彩感覚と画面の照りはまさにイタリア映画である。
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 本:『世界から戦争がなくならない本当の理由』(池上彰著)

2019年祥伝社

 本書では、第一次大戦以降に世界で起こった内戦・外戦について述べられている。
 むろん数え上げたらキリがないので、ほんの一部に過ぎないが。

1939~1945年 第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争含む)
1945年~1949年 インドネシア独立戦争
1948年~1973年 中東戦争
1950年~ 朝鮮戦争
1960年~1975年 ベトナム戦争
1962年 キューバ危機
1968年 プラハの春(チェコ事件)
1969年~1998年 北アイルランド紛争
1971年~1992年 カンボジア内戦
1975年~2002年 アンゴラ内戦
1979年 中越(中国×ベトナム)戦争 
1979年~1989年 ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻
1983年 アメリカのグレナダ侵攻
1980年~1988年 イラン・イラク戦争
1989年~2001年 アフガニスタン内戦
1990年~1991年 湾岸戦争
1991年~ ソマリア内戦
1991年~2000年 ユーゴスラビア紛争
2001年~ アメリカのアフガニスタン侵攻(対テロ戦争)
2003年~2011年 イラク戦争

 これはもうほとんど趣味か依存症の領域だろう。
 人類はほんとうに戦うのが好きだ。

 本書のタイトルに対する池上の答えは、「人間は過去から(歴史から)学ばないから」というものである。
 ソルティならもっと直截に「人間はアホだから」と言う。

 おそらく人類が過去をどれほどしっかり学んでも、戦争はなくならないだろう。
 各民族・各国民・各信者は、自分たちが聞きたい過去しか耳に入らないし、欲する歴史しか学ぼうとしない。アイデンティティが絡んでいるのだから。
 過去をいろいろな角度から客観的に学び反省できる奇特な人でも、現在の怒りや欲望に打ち勝つのは難しい。
 戦争がなくならないのは、ずばり人間が「欲・怒り・無知」から逃れられないからである。

 世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』の中で著者のユヴァル・ノア・ハラリは、人間が他の動物とは異なる道を歩むことになった決定的なきっかけとして「認知革命」という概念を上げている。
 国家、宗教、民族、金、歴史、自我・・・・e.t.c. 現実にはないものを“さも実在するかのように”信じ込んで取り扱えるようになった「認知革命」こそが、人間が戦争をやめられなくなった最大の要因であろう。
 認知革命を遂げたことにより、人間は湧きおこった欲や怒りを動物のように一瞬にして完結するという芸当ができなくなった。
 自分をより大きな力強い(と思える)ものに仮託するクセがついた。
 集団で欲や怒りを引きずるようになってしまった。
 ホモ・サピエンスはそのように造られている。
 
 結論として、戦争を無くすためには人間が人間であることを止めなければならない。
 

宇宙人襲来
あるいは外圧か?


おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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★     読み損、観て損、聴き損


● 本:『怒羅権と私 創設期メンバーの怒りと悲しみの半生』(ワンナン著)

2021年彩図社

 本書の表紙カバーにでかでかと載った著者の顔写真を見て、どう感じるだろう?
 中国人であることは分からないかもしれない。
 13年間ムショにいた男というのも分からないかもしれない。
 一見、人懐っこそうな顔立ち。
 賢そうな額。
 意志の強そうな顎の線。
 人生の辛酸が刻まれた深い皺。
 凄みのある風貌は、長く海風に吹かれた漁師か、数々の建築現場をかんな一つで渡り歩いてきた凄腕の大工のようにも見える。
 しかるに、カメラ(=読者)にひたと向けられた両の瞳をのぞき込むと、長年蓄えられた怒りと悲しみと絶望、簡単には人を信じない用心深さとある種の冷酷さ、瞬時に相手の正体を見抜く眼光の鋭さ、そしてどんな相手でも飄々と受け入れるであろう懐のふかさを読み取ることができよう。
 「修羅場をなんども潜り抜けてきた人だな」と直感する。

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 怒羅権(ドラゴン)は、東京都江戸川区葛西に暮らす中国残留孤児の2世や3世の少年たちが1980年代後半から徒党を組むようになり、88年に命名し誕生した。
 初期メンバーは12人、90年代前半の全盛期には府中や八王子にまで勢力が拡大し、800人の大所帯になったという。
 日本人の作る上下関係の厳しいピラミッド型の組織とは違い、上下関係の希薄な、ゆるやかなつながりのチームで、中国人らしい“今の瞬間の絆を大切にする精神”が息づいていたという。
 それが「反社」を取り締まる警察にしてみれば、親分やヘッドをあげれば組織が瓦解する既存の暴力団や暴走族とは異なる摘発の難しさにつながっていたのである。
 汪楠(ワンナン)は初期メンバーの一人であり、おそらく最も勇猛果敢で、最も知能が高く、最もよく稼いだ男である。
 
 1972年中国吉林省生まれ。
 日本好きな父親に強引に連れてこられ、14歳より日本に暮らすようになる。
 怒羅権と暴力団の両方に関わって悪事を働いていたが、28歳のときに逮捕され、岐阜のLB級刑務所に収監される。
 2014年出所後は犯罪の世界に戻らないことを決意し、全国の受刑者に本を差し入れる「ほんにかえるプロジェクト」に力を入れている。 

 ソルティは90年代を仙台で過ごした。
 怒羅権についてはよく知らなかった。
 怒羅権と名乗る在日中国人の若者たちが都心でひどく暴れ回っているというのは聞き知っていたが、「そんなこともあるだろう」くらいの感覚であった。
 よもや、ソルティの古くからの馴染みである池袋の文芸坐(現・新文芸坐)が組織拡大の拠点になっていたとは!
  
 本書を読んで、90年代の東京の荒れ具合というのを実感した。
 ソルティは80年代半ばから都内で一人暮らしをしていたが、91年に「東京はあまりに変だ。このまま東京にいたら自分がダメになる」と思って、仙台に越した。
 バブル絶頂期の東京があまりに異様なものに思えたのである。
 人々は「24時間闘えますか!」の覚醒剤常用者のような総躁状態、ゴールドラッシュ時の西部開拓者のような欲に目がくらんだ脱抑制状態にはまり込んで、人間としての(生物としての)あたりまえの感覚を失っていた。
 「明るさ・軽さ・浪費」がひたすら推奨・追求され、その反対の「暗さ・重さ・倹約」が軽蔑・忌避された。ネアカ、ネクラなんて言葉が流行った。
 ひとりの人間には陽の部分もあれば陰の部分もある。社会には陽の当たる層もあれば陰を背負わせられる層もある。
 ひたすら陽の面だけを追求していれば、いつかはきっと陰の面が浮上して、社会に対して復讐を開始するだろう。
 そんなことを思って、東京を離れた。 
 いや、自分の中の陰の部分が危険信号を出していたのかもしれない。
 オウム真理教の一連の事件や怒羅権の出現は、まさにバブル時代の日本人(とくに都会人)が抑圧してきた陰の部分の報復だったのだろう。
 
 90年代前半に怒羅権のニュースを聞いて「そんなこともあるだろう」と思ったのは、もちろん在日中国人(や在日朝鮮人)の境遇を知っていたからである。
 怒羅権はもともと、「日本社会で孤立していた中国残留孤児の子孫たちが生き残るため、自然発生的に生まれた助け合いのための集まり」だったという。
 同調圧力の強い日本社会でいじめや差別を受け、一袋500円の大量のパンの耳を仲間で分け合うような貧困(ときはバブルだ!)を舐め、教師をはじめ周囲の大人たちからの不等な扱いに苦しむ若者たちの鬱屈したエネルギーが、怒りとなって暴発するのは火を見るより明らかである。
 
 少なくとも私も仲間たちも、非行少年にはなりたくなかったし、ましてや刑務所に入るような人間になるとは、あの頃は思っていませんでした。
 私の犯した犯罪は私が自発的に実行したもので、これを時代のせいや環境のせいにすることは許されません。しかし、あまりにも多くの望まない現実が私たちに振りかかり、その現実に抗うためにもがいた結果として、いつしか暴力がアイデンティティとなり、犯罪を通じてしか他者とのつながりを持てなくなっていったのもまた事実なのです。
 そのようにして自分の歴史を振り返ってみると、私たちは負の存在で、負の遺産しか生み出せなかったのかもしれないと分かっていても、これまでの歩みを全否定できない自分がいます。それは自分が自己中心的な人間だからでしょうか。もしかすると、もう生きるためには肯定するしかないと思っているからなのでしょうか。 

 本書では、著者のおこなってきた数々の喧嘩の模様や犯罪の手口が結構詳しく書かれている。捕まった後に求められて披露した錠前破りの手口などは、その場の警察官や刑務所関係者を蒼ざめさせたという。
 また、内側から見た裏社会や刑務所の実情も描かれ、そこで一目置かれて人脈を広げていく著者の人心掌握術と器の大きさが伺える。
 これほど賢くて器用で肝っ玉が据わっていて、人を集め動かす力のある人物が、もし最初から日本社会に正当に受け入れられ真価を発揮していたら、どれだけ社会にとって益になることだろう!
 一部の人間を疎外することで一番損害を被るのは当の社会であることを、我々は知らなければならないだろう。
 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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● ほすぴたる記その後24 両神山に向けて(事故後1年半)

 左足踵骨の骨折から1年半。
 リハビリ通院を終えてから8ヶ月が経った。
 よほど長い時間歩き続けない限り、痛みを感じることはない。

 日常生活で骨を折ったことを意識するのは、朝起きた最初のうちだけである。
 夜中に固まってしまった足首を床に着けて立ち上がり、廊下を歩いて階段を下りるまでの一日最初の5分がネックである。
 左のかかとを上げて爪先だけで体を支えることが難しいので、両足交互にまっすぐスムーズに歩くことができない。
 横歩きで階段を下りている。
 たぶん、これは後遺症として残り続けるのだろう。
 (寝床から起き上がる前に、足首を回す、爪先を十分ほぐす、足指を動かす、足の裏をたたく、屈伸するなどすれば硬さは解消するので問題ない)
 
 それ以外、生活上の不都合はない。
 一年前できなかった手すりなしの階段の下り、左足だけの爪先立ち、走る、あぐらをかく(坐禅)、正坐、30分以上続けての歩行もできるようになった。
 雨が降っている日や寒い日などは神経痛のような痛みが生じるかと思ったが、いまのところ大丈夫である。もっと歳を取ると分からないが・・・・。

 自主的なリハビリとして、週3回スポーツクラブに通って水中ウォーキング30分と水泳15分をしている。(まあこれは趣味のうち)
 通勤駅ではエスカレータでなく階段を利用している。
 休日は1時間近い散歩時間をつくっている。
 ケガする前と明らかに変わったのは、こういったリハビリを続けていれば患部に問題は生じないけれど、リハビリを怠ると悪化するってこと。
 つまり、そこだけ老化が早まったような感じだ。

事故後75日の足
事故後75日
まるで豚足!

事故後150日の足
事故後150日
血管が現れてきた

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現在(事故後550日)
右足と変わらない


 ケガした時やっていた介護現場の仕事はさすがにもう無理と判断し、しばらく前から同じ介護でも事務系に転職した。
 運動量が激減した。
 体重が4キロ以上増えた。
 それが足首にも膝にも腰にも負担となる。
 いまは意識的に歩くようにしている。
 一般に、3Kと言って忌避される介護の仕事だが、これほど「よく歩き、よく筋肉を使い、よく声を出し、よく汗をかき、よく会話し、よく笑う」仕事はほかにあるまい。
 無理さえしなければ、無理さえさせられなければ、感染症のリスクさえなければ、健康には(ダイエットにも)いい仕事なのだと思う。
 ちなみに、ソルティは高齢者と接する介護関係者なので一般よりワクチンを早く打てる見込み。
 
 いまの目標は、秩父の両神山(1723m)である。
 山頂までの往復で6時間半かかる。休憩入れたら8時間半だ。
 これがクリアできれば、完全復活と言っていいだろう。
 とくに登りよりも下りが問題である。
 これから毎回少しずつレベルを上げた山歩きにトライしていきたい。
 待ってろよ、両神山!
 
両神山


両神山2

 

● リアル若者たち 映画:『日本春歌考』(大島渚監督)

1967年松竹
103分

 上京し大学受験を終えたばかりの高校生たちの数日間を描く青春ドラマ。
 と言っても時代は学園紛争直前、ベトナム戦争や日米安保反対の声がかまびすしい政治の季節。
 そして、監督は『青春残酷物語』の大島渚である。
 元千葉県知事・森田健作主演の明るく爽やかな青春ドラマのようにはどうしたってなりようがない。
 実際、本作中にはベトナム戦争反対を訴える男女の学生たちが、キャンプファイヤーを囲んでギターを鳴らしながら森田健作もカヴァーしたザ・ブロードサイド・フォーの『若者たち』を合唱するシーンが出てくるが、主人公の少年たちはこの輪の中に入ることはなく、性に飢えた目つきと妄想でいっぱいの脳みそを抱えながら「ひとつ出たホイの良さホイのホイ」と春歌を口ずさみつつ街をうろついている。
 その意味では、左翼思想にかぶれ平和や友情や未来を語る当時の楽天的な青年群像に、日本古来の猥雑な文化(春歌)を対置させた大島流の風刺映画と言えるかもしれない。
 性の飢餓の前には政治がなんだ!というリアル・・・・。

 大島監督は空間の扱いが滅法うまい。
 奥行き表現や空間の中の人や物の配置の妙が日本人離れしている。立体的なのだ。
 また、『太陽の墓場』でも示したように、いかに残酷な話であろうと、いかにどぎついアブノーマルな場面であろうと、品格を失うことはない。洗練されている。
 後年、国際的な評価(とくにフランスで!)を得るようになったのは、この空間性と洗練によるところが大きかったのではなかろうか。

 主演の高校生を演じるのは荒木一郎
 撮影当時23歳、高校生にはまったく見えない(笑)
 1966年『空に星があるように』でレコード大賞新人賞をとった歌手でもある。
 とりたててハンサムというのではないが、印象に残るふてぶてしい面構えである。

 大島の妻である小山明子の若い頃ははじめて観た。
 非常にムードのある女優。

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 ほかに、伊丹一三(のち十三と改名)、串田和美、宮本信子、吉田日出子が出演している。伊丹と宮本はこの映画がきっかけで付き合いはじめ結婚に至ったという。

 こんな小難しく政治的な装いの映画が、制作を許され、全国上映され、それなりに評判を呼んだ時代があったというのが不思議な気がする。



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● 天才ニコラ・テスラの秘密

 『ヨーロッパの都市伝説』(片野優、須貝典子著)に出てきた天才科学者ニコラ・テスラが気になって、彼に関する本を2冊読んだ。
 日本では90年代にちょっとしたテスラ・ブームがあったらしく、その後もテレビのドキュメンタリーや科学番組などでたびたび取り上げられたらしいが、ついぞ知らなかった。

①  ニコラ・テスラ著『ニコラ・テスラ 秘密の告白』(成甲書房、宮本寿代訳、2013年)
②  新戸雅章著『知られざる天才ニコラ・テスラ』(平凡社新書、2015年)

 ①  はテスラ自身の残した二つの手記――1919年刊行『私の発明:ニコラ・テスラの自叙伝』と題する自伝、および1900年刊行『人類エネルギーを増加させるには』と題する論文――の合本である。もちろん、『秘密の告白』という怪しげなタイトルはテスラ自身がつけたものではない。
 成甲書房という出版社は陰謀論、超常現象などのジャンルを得意とするらしく、他にも天童竺丸著『シオンの議定書』、副島隆彦著『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』、羽仁礼著『永久保存版 超常現象大事典』、後藤よしのり著『間違いだらけのオンナ選び』なんていう、“いかにも”な本を出している。
 表紙のニコラ・テスラの謎めいた眼差しといい、この科学者の日本での受け入られ方を象徴するような一冊である。
 ただ、中味はトンデモなところはなく、テスラの生涯や発明の裏話と共に、その人となりや思想や科学的ヴィジョンの一端が伺える真面目な内容である。


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 ②  は日本におけるニコラ・テスラ研究の第一人者と言える新戸雅章(しんどまさあき)による評伝である。
 こちらは、生まれ故郷のクロアチア(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)や終焉の地アメリカはもちろんのこと、今やヨーロッパでも発明王トーマス・エジソンと並び称される高い評価と人気を得ているにもかかわらず、日本ではまだまだ知名度が低いテスラについて、「より広く深く知ってもらおう」という著者の思いがビンビン伝わってくる力作である。
 これ一冊読めば、ニコラ・テスラについて一通りのことが分かるし、他人にも自信を持って“ニコラ語り”することができよう。
 新戸は1948年神奈川県生まれ。テスラ研究所所長をつとめる。


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 ニコラ・テスラとは何者か?
 ① よりプロフィールを引用すると、

1856年7月9日~1943年1月7日。発明家。磁束密度の単位「テスラ」にその名を残す。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、無線送電システム(世界システム)を提唱した。また、地球全体の磁場を利用し電気振動と共鳴させることで空間からエネルギーを無限に得られる仕組み(フリーエネルギー)を構想していた。8ヵ国語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通、生涯独身を貫いた。

 我々が現在使っている電気は、エジソンが発明した直流システムではなく、テスラが発明した交流システムである。つまり、電気を主要インフラとする現代文明はまさにテスラの築いた土台の上に成り立っている。
 テスラさまさまなのだ。
 ②の新戸によると他にも、

 蛍光灯や水銀灯、ネオンサインなどの放射照明、無線電信、電子レンジ、ラジオ、テレビのリモコン、車の電子キー、航空機やロボットの無線操縦、ワイヤレス給電システムなどは、いずれもテスラが発明したか、原理を提供したものである。
 まことに我々は、テスラのアイデアの中に日々の生活を送っているのだ。

 これほどの恩人がなぜ正当に評価されて来なかったのか?
 新戸の本から察するに、ナイアガラの滝の水力を利用した壮大なる実験で交流システムを成功させ、かつての師エジソンをうち破って国際的な名声と評判を得たのであるが、その後(人生後半になって)、上記の「世界システム」とやらに固執したあたりから現実離れの様相を呈し、逆にテスラの特許を利用した後輩科学者が次々と実用的な発明を世に送り賞賛を浴びるようになり、次第に「過去の人」となっていったようだ。
 石炭や石油はもちろん、水力・風力・原子力にも頼らないフリーエネルギーを空間から取り出し、そのエネルギーを無線で世界中に瞬時に送るという「世界システム」は、当時も(今も?)あまりにも突飛すぎているし、既存のエネルギー業界にしてみれば何としてもその実現を阻みたいアイデアに違いあるまい。逆風必至。
 そのうえ、観客の度肝を抜く派手な放電ショーを各地で繰り返して魔術師のようにみなされ、殺人光線や人工地震発生装置開発の噂も独り歩きし、山師かいわゆる「マッド・サイエンティスト」の如くみなされていったようだ。日本で長らくオカルト文脈で語られることが多かったのはそのためであろう。
 また、同時代の発明家であるエジソンやマルコーニのように商魂たくましくなかったところも、世間から忘れられやすい一因だったのかもしれない。(最後は困窮のうちにホテルの一室で亡くなった)


ナイアガラ
 

 さて、天才と言えば奇癖や奇行がお約束である。
 テスラもまた歴史上の天才たちに負けず劣らず、たいそうクセが凄かった
  • 人の髪には触れられない。
  • 女性のイヤリングが嫌い。
  • 歩くときには歩数を数える。
  • 食べる前にスープ皿、コーヒーカップ、食べ物の体積を測らないと、美味しく食べられない。
  • 同じ行動を繰り返す。そのとき必ず3の倍数回しないと気が済まない。
  • 設計図を書かずに頭の中で装置を完璧に組み立てて、一気にアウトプットできる。
  • 極度の潔癖症。
  • 幼い頃から、たびたび幻視、幻覚、幻聴に襲われた。
 一種の強迫性障害あるいは自閉症のようにも思われる。
 生涯独身であったのは、こういった事情もあったのかもしれないと新戸は推測している。(ゲイ説もあり)
 
 今回、ニコラ・テスラについて調べてソルティが最も興味深く思ったのは、実は彼の発明に関するエピソードでも、華やかな交友関係でも、奇癖や奇行でも、毀誉褒貶さまざまな生涯でもなかった。
 上記の通り、テスラは幼い頃より幻覚に悩まされていたのだが、現れる心象(イメージ)はいつも現実との区別がつかないほどのリアリティを持っていた。
 自分の見ているものが現実のものなのか幻覚なのか分からないことが、彼を不快にも不安にもした。
 そこで、彼は何らかの心象が目の前に現れたとき、それがどうやって出現したのかを観察する習慣を“第二の天性”のごとく身に着けた。
 その結果、あることに気づく。

 実は、あるものの心象が目の前に現れるとき、事前にそれを思い出させるようなものを見ていたのだ。初めのうちは、ただの偶然だと思ったが、まもなくそうではないと確信するようになった。心象が目に見える前に、意識的に見るのであろうと無意識のうちに見るのであろうと必ず、何かの光景が思い浮かんでいたのだ。

 次に私が気づいたのは、実際に前もって何かを見た結果として何かの心象が浮かぶのだが、それと同じような方法で考えも浮かんでくるということだ。そこでまた私は、その考えを抱くきっかけを突き止めたいと思うようになった。

 これだけではない。自分の動きはどれも同じように突き動かされているせいなのだとまもなく気づいた。これまで私が一つひとつ考え、行動を起こすことで歳月を重ねながら行ってきた継続的な探究も観察も実証もすべて、私が動力を与えられた自動機械(オ-トマシン)だから、外部から感覚器官への刺激にただ反応し、それに従って考え、行動し、運動しているゆえであることを示していたのだし、今でも日々示している。そのことに私は十分納得した。自分の動き、考え、あるいは夢がもともと何の影響を受けたせいなのかが突き止められなかったのは、人生のなかで一度か二度しかなかった。

 私たちは自動機械(オートマシン)であって、私たちを取り巻くものの力で完全に制御されている。コルクのように水面に放り投げられているのに、外部からの刺激を受けた結果を自由意志だと誤認するのだ。運動やほかの行動は常に生命維持のためのもので、見かけ上は互いに無関係であるようだが、見えない絆で結びついている。

 なんと、ここでニコラ・テスラは、「人間は無意識によって動かされている自動機械に過ぎない。自由意志は錯覚だ」と言っているのだ。
 ベンジャミン・リベットが『マインド・タイム 脳と意識の時間』で示唆したこと、トニ・パーソンズや阿部敏郎などのノン・デュアリティ(非二元)の覚者らが述べていること、ブッダが因縁や諸法無我という言葉で説いたことと同じ、すなわち「自我の否定」である。
 これこそまさに「秘密の告白」の名に値する ‼

 上記の哲学を持つがゆえに、ニコラ・テスラは人間とまったく同じ機能を持つ自動機械、いわゆる A I ロボットの制作が可能と考えたのである。
 つまり、ソルティという一人の人間の“様々な刺激に対する外的内的な反応パターン”を徹底的に調べ上げて精密なプログラムをつくり、それを優れた工学性を備える A I ロボットにダウンロードすれば、ソルティそっくりの反応パターンを示すソルティ2が生まれる。
 次に、ロボットを動かすエネルギーの問題であるが、ここで空間から無限に取り出せるフリーエネルギーを利用すれば電力は必要ない。ロボットが壊れない限り、動作し続ける。フリーエネルギーは人間で言うところの「命」に相当しよう。
 最後に、ソルティ2に一つの指令(自己参照回路)を組み込む。
 
 COGITO ERGO SUM (我思う、ゆえに我あり)
 
 ソルティという人間とソルティ2というロボットの違いはどこにあるだろうか?
 
 ニコラ・テスラは人間を創造しようと考えていたのだ。
 おそるべし、二コラ。
 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 映画:『ナンシー』(クリスティーナ・チョー監督)

2020年アメリカ
86分

 ヤフーの映画レビューを見ると、「だまされた!」的な苛立ちや失望を表明するコメントが多い。
 それは、巧みなプロットに「だまされた!」ではなくて、サイコサスペンスと思って借りたのに普通のヒューマンドラマだったという肩透かしだ。
 確かに、レンタルショップのサスペンスコーナーに置いてあるし、「いかにも」サイコっぽいDVDジャケットだし、「ナンシー」というタイトルもまた『エルム街の悪夢』のヒロインかナンシー関を連想させるし(早見優『夏色のナンシー』というのもあるが)、なんたってサンダンス映画祭出品である。
 ソルティも、てっきりサイコサスペンスだと思ってレンタルした。
 もっとも、作品の出来そのものは悪くなかったので、苛立ちや失望は感じなかったが。
 先日観た『ナイチンゲール』でも同じ錯覚というかトリックに引っかかった。
 たぶん、普通のドラマとして出すよりサスペンスとして売ったほうが買い手の反応がいいことからの販売戦略なのだろう。


ナンシー (2)

 ビッチで病弱な母親と二人きりで暮らす30代のさえない娘ナンシー。
 四六時中スマホやパソコンにかまけ、SNS上で架空の人物になって見知らぬ相手とのフェイクな関係を楽しむのが趣味。
 ある日、母親を失ったばかりのナンシーは、30年前に行方不明になった幼い娘を探しているリンチ夫妻のTVニュースを観る。CGで予想された娘の30年後の顔立ちが自分と瓜二つだった。
 ナンシーは夫妻に連絡を取り、「自分があなた方の娘なのではないか?」と告げる。

 話のメインは、夫妻の家に愛猫とともにやって来たナンシーが、DNA鑑定の結果が出るまで彼らと一緒に暮らす間の三者三様の気持ちの揺れ動きである。
 ナンシーを実の娘と信じたくて、かいがいしく世話する妻エレン。
 信じたいけど疑いがぬぐいきれない夫レオ。
 一方、ナンシーの過去は観る者にはっきりと示されないので、ナンシーの話のどこまでが本当でどこからが作り話なのかが分からない。
 ナンシーは嘘と知りつつ(DNA鑑定でばれることを知りつつ)夫婦をだましたのか?
 それとも、自分でも「もしかしたら?」という一抹の希望のもとに、夫婦のもとにやって来たのか?
 あるいは、ナンシーもまた悲惨な過去や受け入れがたい現在から逃れるために、自分で自分をだましているのか?
 そのあたりは観る者の解釈にゆだねられている。

 孤独なナンシーを演じるアンドレア・ライズボロー、ビッチな母親役のアン・ダウド、娘を失った父親役のスティーヴ・ブシェミ、同母親役のJ・スミス・キャメロン。
 この4人の演技が甲乙つけがたく素晴らしい。
 脚本、映像もレベルが高く、カットの処理も巧みである。
 良い意味で「だまされた!」という印象を持った。
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 

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