ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● ただただ傑作。映画:『近松物語』(溝口健二監督)

 1954年大映作品。

 つくづく50年代の日本映画って凄かったんだなあと思う。

 1951年『羅生門』(黒澤明)    ・・・ヴェネツィア国際映画祭グランプリ
 1952年『西鶴一代女』(溝口健二) ・・・ヴェネツィア国際映画祭監督賞
 1953年『生きる』(黒澤明)    ・・・ベルリン国際映画祭ベルリン市政府特別賞
 1953年『雨月物語』(溝口健二)  ・・・ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞
 1954年『地獄門』(衣笠貞之助)  ・・・カンヌ国際映画祭グランプリ
 1954年『山椒大夫』(溝口健二)  ・・・ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞
 1954年『七人の侍』(黒澤明)   ・・・ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞
 1954年『二十四の瞳』(木下恵介) ・・・ゴールデングローブ賞外国語映画賞
 1956年『ビルマの竪琴』(市川昆) ・・・ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジオ賞
 1958年『無法松の一生』(稲垣浩) ・・・ヴェネツィア国際映画祭グランプリ

 あまり有名でない国際賞など含め抜けているものがあると思うが、まったく凄い勢いである。海外の賞を受賞すること=傑作、と素直に認めるのもどうかと思うが(例えば小津安二郎は現在の国際的評価の高さを考えると信じられないくらいこうした賞とは無縁であった)、50年代こそ日本映画の黄金期だったのは間違いない。
 特にヴェネツィアでの評価が高いのはなんか理由があるのだろうか?
 このうち、『羅生門』『雨月物語』『山椒大夫』の3本を宮川一夫が撮影している。本当にすごいカメラマンがいたもんだ。(宮川一夫は99年に亡くなっている)

 このブログでも取り上げた『祇園囃子』『赤線地帯』同様、『近松物語』もまた溝口-宮川コンビによるものである。悪いわけがない。
 どころか、水も漏らさぬ傑作である。
 演出、構成、撮影、演技、美術、音楽、脚本(セリフ)、編集、叙情性、ドラマ性・・・どれをとっても非の打ちどころがない。

 ブログを初めて以来、初の「A+」の誕生である。(溝口作品は『西鶴一代女』がA+、『雨月物語』『山椒大夫』はA-)

 ときに、溝口健二は日本のヴィスコンティなんだと思う。いや、ヴィスコンティがイタリアの溝口健二なのか。
 テーマや作風、スタイルが似ているというのではなく、監督としての映画への向き合い方、風格のようなもののことを言っている。妥協を許さぬ完全主義、本物にこだわる貴族主義、大時代的な(歌舞伎っぽい、オペラっぽい)演出を好むところ(とくに俯瞰にあらわれる)、何より芸術家としての揺るぎない矜持。ミラノの貴族であったヴィスコンティはヴェネツィアびいきであったけれど、ヴェネツィアと溝口作品の相性の良さはもしかしたら、この二人の相似にあるのかもしれない。
 あるいは、溝口作品にときおり印象的・象徴的に出てくる水のシーンのすばらしさがヴェネツィアンのプライドをくすぐるのだろうか。
 この作品でも、物語の重要な場面で水が出てくる。不義密通を疑われて屋敷から逃げるおさん(香川京子)と茂兵衛(長谷川一夫)が湿地を横切るシーン。素性がばれて宿から逃げる二人が手を取り合って湖岸をゆくシーン。心中を決意した二人が舟上で愛を確認するシーン。
 生きがたい浮き世から主人公が逃避する場面で、溝口はいつも水を用意する。『雨月物語』でも、妖魔にたぶらかされた主人公が、夫の帰りを故郷で待つ妻を忘れて湖水で遊ぶ圧倒的に美しいシーンがある。
 現実を忘れさせ、夢と幻想の世界に旅人を誘うヴェネツィアの魔力と、溝口作品には通じるものがあるのだろう。

 素晴らしい『第九交響曲』の演奏は、指揮者の名前よりベートーベンの凄さを再認識させる。感動的な『リア王』は演出家や俳優の名前よりシェークスピアの偉大さを再認識させる。同様に、この映画も見ているうちに次第に溝口健二の名前が薄れていって、近松門左衛門の息吹が肌身で感じられてくる。
 その中で、まぎれもない溝口印がありありと浮かび上がってきたシーンがどこかといえば、湖での心中シーンである。
 舟から一緒に飛び込むつもりで、茂平衛はおさんの足を縛る。「いまわの際だから許されましょう」と茂平衛はおさんに忍び恋を打ち明ける。とたんに、死ぬ覚悟を決めていたおさんが「生」へと立ち戻るのである。
 「わたしは死にたくない。」
 茂平衛に抱きつくおさん。戸惑う茂平衛。絡み合う二人をのせて、小舟は行方も知らぬ方へと漂流していく。(ここのところのカメラワークは本当に巧い!)

 男に愛されていることを知った瞬間に、「生」へとベクトルを逆転させる女の性(さが)。
 これを溝口は描きたかったんだろうなあ。

 女の溝口、男の黒澤か。



評価: A+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 本:『ケアの本質』(ミルトン・メイヤロフ著、ゆみる出版)

ケアの本質 介護の仕事をしている友人から教えられた本である。その友人もまた介護の仕事に携わっている看護師さんから薦められたのだそうだ。自分も読み終わって、参加しているボランティア団体のメーリングリストに紹介した。こうやって本当に良い本は、クチコミを中心に広がって、いつの間にか古典の地位を獲得していくのだろう。(初版発行1971年)

 自分は18年間エイズのボランティアを通してケアの活動に関わって、多くのことを学んできた。エイズという病気の知識は言うまでもないが、エイズを通して見える社会のありよう(医療現場の欠陥、福祉の不備、教育現場の無責任、行政の限界、企業の良心の欠如、南北問題、根深い女性差別、売買春、そして感染者に対する差別e.t.c)、あるいは感染不安に陥った人々の状況、感染した人々の状況、支援する人々の心意気、NPO活動の意義と運営の難しさ、仲間と共に活動することの楽しさ・・・。数え上げればきりがない。
 しかし、活動の当初から今に至るまで、一番自分が考え続けてきたこと、折りあるごとに自らの心に問いかけ続けてきたこと、答えを探し続けてきたのは何かといえば、「人が人を助ける、ケアするとは一体どういうことか」ということであった。
 活動を始めたばかりの「自分がやっていることは偽善ではないか」という問いから始まって、「自分に何ができるのだろう」「自分に人をケアする資格があるのか」「助けることは本当に相手のためになっているのか」「何が本当に相手の役に立つのだろう」「結果がうまくいかなかったとしても、助けに関わったという行為そのものに意味はあるのだろうか」「自分の人生において他人をケアする意味はなんだろうか」などなど、様々な問いが立ち現れては、明確な解答も見出せずに時が過ぎていった。いや、おそらく言葉にはできないままに、仲間と一緒に心の中でそれなりに納得して、一つ一つクリアしながら、次なる新たな問いへと向かっていったのだろう。
 その証拠に、最初の問い「ボランティアは偽善ではないか」については、それを口にする者が目の前に現れたら、鼻で笑って答えてやる。
「お前は偽善を口にできるほど善なのか」と。

 この本は、自分がボランティアをやってきて言葉にできずに感じていたことのすべてを、適確な言葉にしてくれた。一読、心の中が整理され、これまで心という花器の離れた地点にばらばらに活けられていた概念たちが、それぞれを包括するより大きな視点のもとに統合され、全体として見事なデザインをもった生け花となるのを実感した。
 その全体像は、本書の序章で簡潔に惜しみなくまとめられている。

 一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである。

 一人の人間の生涯の中で考えた場合、ケアすることは、ケアすることを中心として彼の他の諸価値と諸活動を位置づける働きをしている。彼のケアがあらゆるものと関連するがゆえに、その位置づけが総合的な意味を持つとき、彼の生涯には基本的な安定性が生まれる。すなわち、彼は場所を得ないでいたり、自分の場所を絶え間なく求めてたださすらっているのではなく、世界の中にあって“自分の落ち着き場所にいる”のである。他の人々をケアすることをとおして、他の人々に役立つことによって、その人は自身の生の真の意味を生きているのである。


 この要旨を柱に、訳者まえがきにある通り、「読者自身をケアの動態に巻き込んで展開する稀有な著作」である。
 ケアに関わったことのない人、あるいはケアに関わりながらも「ケアとは何か」を自身に問いかけたことのない人にとっては、おそらくこの本に書いてあることはチンプンカンプンだろう。
 その意味では、読者を選ぶ本と言える。

 とりわけ、自分が「ああ、これだ」と思わず膝を打ったのは、自分の中で雲のようにもやもやと存在していた概念を見事に言葉にしてくれたと胸のすく思いをしたのは、次の3つの表現である。

①「場の中にいる」

 私たちは全面的・包括的なケアによって、私たちの生を秩序だてることを通じて、この世界で“場の中にいる”のである。・・・・前もって、ある“場”というものが私たちのために用意されているわけではない。私たちは、コインが箱にあるような具合に、ある場にいるのではない。むしろこう言うべきだ。つまり、自らを“発見する”人が、自らを“創造する”ことについて大いに力をつくしたと同様なやり方で、私たちは自分たちの場を発見し、つくり出していくのである。
 ・・・・成長していこうという他者の要求にこたえて私たちが応答すること、これこそ私たちに場を与えてくれるものだからである。

 “場の中にいる”ということにより、私は人生に十分没頭できると同時に、私たちの社会に広く存在している成長を妨げるような生き方から自由でいられるのである。


 活動中、「自分はこのためにここにいるな」とか「今までのすべての経験は、失敗や挫折も含めて、これをやるためにあったんだな」と思う瞬間がある。その時、自分は“場の中にいた”のだろう。



②「私と“補充関係にある”対象」


 ・・・・自分が“場の中にいる”ことができるほど十分包括的なケアについて、その対象となっているものを、私と“補充関係にある対象”と呼ぶことにしよう。・・・私と補充関係にある対象は、私の不足を補ってくれ、私が完全になることを可能にしてくれるのである。


 私と補充関係にある対象を見い出し、その成長をたすけていくことをとおして、私は自己の生の意味を発見し創造していく。そして補充関係にある対象をケアすることにおいて“場の中にいる”ことにおいて、私は私の生の意味を十全に生きるのである。


 長いこと、自分にとっての“補充関係にある対象”とは、性に悩んでいる人、差別に苦しんでいる人であった。
 これからは・・・・。



③「了解性」

 私が自己の生の意味を生きているとき、自分の生の中へしだいに了解性が浸透してくる。・・・・了解性とは、私の生活に関連しているものは何か、私が何のために生きているのか、いったい私は何者なのか、何をしようとしているのか、これらを抽象的なかたちではなく、毎日の実生活の中で理解していくことなのである。


 同様に、了解性は、存在の持つはかり知れない性格を排除するのではなく、むしろ私たちがもっとそれに気づくようにするのである。存在の持つはかり知れない性格とは、解決すべき無知という事柄でもないし、知識を増やしたり、特別な知識を持つことによって克服すべき事柄を指すのでもない。では何かというと、それは驚きと全く同じなのだが、経験し、理解し、感得するものなのである。・・・・私は、存在の持つ神秘そのものについて言っているのであり、そもそも森羅万象がここに存在しているという壮大な神秘、驚異について言っているのである。




 ところで、著者は、ケアとは「その人が成長することをたすけること」と定義しているのであるが、では、そもそも「成長とは何か」という疑問が湧いてこよう。
 それにも著者は答えている。

ある人が成長するのを援助することは、少なくともその人が何かあるもの、または彼以外の誰かをケアできるように援助することにほかならない。またそれは、彼がケアできる親しみのある対象を発見し創造することを、励まし支えることでもある。そればかりでなく、その人が自分自身をケアすることになるように援助することであり、ケアしたいという自分自身の要求に目を閉じず、応答できるようになることをとおして、彼自身の生活に対して責任を持つように彼を援助することである。(下線はソルティ)


 極めて明快である。ここまで成長についてはっきりと定義した文章を、西洋の哲学や心理学や教育学の書の中にこれまでに見たことがない。もちろん、日本のそれらにも。
 つまり、こうなる。
 我々は人をケアすることを通して、その対象自身が別の誰かをケアできるようにしていく。
 人の生きる意味は、ケアの輪を広げていくこと。
 なんという思想だろうか。


 最後に、この本で触れられていないケアの領域について指摘したい。
 それは死にゆく者のケアに関してである。
 死を前にした90歳の寝たきりの老婆をケアすることの意味はなんだろうか。
 目も見えない、耳も聞こえない。彼女はもはや成長とは無縁の存在である。他の誰かを、あるいは何かをケアすることもできない。穏やかに死ぬのを待っているだけである。
 彼女にとっての自己実現とはなんだろう?
 彼女をケアする者にとっての「了解性」とはなんだろう?


 著者がこの領域に触れなかったのは、この件に関して何らかの見解がなかったからではあるまい。おそらく、どうしてもそれを語るに宗教がからんでくるからであろう。西洋の著書であってみれば、キリスト教を持ち出さずにはおれないだろう。となると、天国とか地獄とか復活とか最後の審判というナンセンスを語らざるを得ない。あるいは否定せざるを得ない。
 賢い著者のこと、もちろん、そんなことするわけがない。

 あるいは、キューブラ・ロス『死ぬ瞬間』(1969年)に譲ったのか。


 


● 腐ったミカンの多元連立時空方程式、または一つの死刑廃止論

 光市の母子殺人事件の死刑判決が確定して、死刑についての思いがまたもや頭をもたげるこの頃。
 世間では、この判決確定を「当然である」「あまりに遅すぎる」「とっとと執行せい!」とする声が大きいのは重々承知しているが、やはり、むなしさ、悲しさを感じざるを得ない。
 自分が死刑制度に反対する理由は言葉にするのがなかなか難しくて、ましてや死刑賛成論者と議論するなど到底無理な話と思っているのだが、自分が反対する理由に近いものをこれまであまた語られてきた死刑廃止論の中には見つけることができないので、ここで不十分ながらもまとめておくのもよいかと思う。


 まず、この問題を考えるとっかかりとしてベタは承知の上、段ボール箱に詰められたミカンを持ち出してみたい。

 どこからか箱ごと送られてきたミカンは、早いとこ食べるか人に分けるかしないと、他のミカンの重さを引き受け空気の流通も悪い、箱の一番下のミカンからカビて腐っていく。腐ったミカンを取り除いて捨てたところで、保管方法を変えなければ、また一番下になったミカンが腐るだけである。
 なぜ腐ったのか原因をつきとめて、時々箱をさかさまにするとか、すべてのミカンを取り出して分散して保管するとか、一部はミキサーで搾って冷凍するとか、保管方法をそれなりに工夫しなければ状況は変わらない。「腐ったら捨てればいいじゃん」は、保管方法をこれまでどおり維持する口実となるばかりでない。そのうち腐ったものをそれと気づかずに口にしてしまう危険だってある。
 死刑もそれと同じである。
 犯罪者をこの社会から抹殺しても、何の解決にもならない。
 解決するように見えるものがあるとしたら、それは犯罪者を収容し続けるあるいは更生するためにかかる経費の削減と、殺された被害者の家族らの感情がいささかでもなだめられるという点である。経費の削減のために死刑を執行するというのはいくらなんでもとんでもない話であるから無視するとして、被害者の家族らの感情についてはどうであろうか。 
 たとえ加害者が死刑になったとしても亡くなった者が帰ってくることはないし、受けた苦しみが消えることはないだろう。「なぜ自分の愛する者が・・・」「なぜ自分がこんな目にあうのか・・・」という理不尽は生涯ついて回るであろう。
 死刑は、なぜ「彼(彼女)がそうした犯罪を行ったのか」という問いと追究を封じて、そうした行為が二度と起こらないようにするための対策への努力を怠る口実となる。
 「社会のゴミは処分すればいいじゃん。」


 引き続き、ミカン箱の比喩を用いよう。
 台所の隅に無造作に置かれたミカンの段ボール箱。このような保管方法をしている限り、いずれ一番劣悪な状況にあるミカンが腐るのは時間の問題である。
 同様に、このような社会構造がある限り、いずれ誰かが犯罪の加害者となり、誰かが被害者として選ばれるのは時間の問題である。今回は、たまたまAさんが「加害者」になり、Bさんが「被害者」となったけれど、Aさん、Bさんでなければ、きっとCさんが加害者、Dさんが被害者になったであろう。このような社会構造の中で、いずれこのような事件がどこかで生じることは避けられないのであり、AさんやBさんは今回たまたま「加害者」「被害者」の役を振り当てられたと見るのである。
 このような社会構造とは、むろん、戦争があり、飽くなき欲望の追求とその称賛があり、熾烈な競争があり、他者との比較があり、差別があり、不平等があり、虐待があり、福祉の欠如があり、無知が蔓延しているこの社会のありようである。

 あれがあるからこれがある。
 あれがなければこれがない。


 これは仏教で言う因縁の見方である。


 この世は因縁で成り立っている。
 因(原因)があり、そこにいくつかの縁(条件)がそろって、果(結果)が生じる。生じた果はそのまま新たな因となる。この流れが気の遠くなるような過去から現在まで、一枚の落葉から銀河の衝突に至るまで、複雑微妙にからみあって、しかし完璧な秩序をもって運行している。その意味では、世界は瞬間瞬間「完全」である。
 ある事象が起こる因縁が調ったとき、それは不可避に生じざるを得ない。社会の中である事件が起こる因縁がそろったとき、それは起こらざるを得ない。その当事者となるのがどこの誰であるかは、私たちには読み取れない。
 この考え方に、個人の意志や理性というものについての軽視をみるかもしれない。
 その通りである。個人とは、結局、歴史の大海の中に現れたある特定の「社会」という渦巻きの中の波のしぶきのようなものである。言葉を換えて言えば、個人とは歴史と社会によって条件付けられた「土のかけら(人間は炭素からできている)」である。個人は社会(世界)の不出来なミニチュアである。自分の意志なんてものは錯覚にすぎない。
 とすると、犯罪が起こるのは仕方ない、人が悪事を犯すのは止められないという極論に導かれそうだが、そうではない。
 我々人間が行う一つ一つの行為は、それが意図的であろうとあるまいと、必ずや因縁の流れに組み込まれ、なにがしかの結果をもたらさずにはいない。歴史と社会に条件付けられた意識が、その条件付けの範囲内の因縁しか流れに加えることができないのは火を見るより明らかであろう。悪い社会の悪い環境に生まれ育った青年は、流れに悪い因を加え、結果として社会をいっそう悪くするのに力を貸す。遅かれ早かれ自身も悪い果を得るだろう。
 だが、この条件付けに気づき、そこからちょっとでも身を引き剥がすことに成功した人間は、よい因縁(と自ら判断したもの)をつくりだして、流れに加えることができる。そこが、本能(自然)だけで命をまっとうする(まっとうできる)動物と、どういうわけか本能の壊れた人間との違いである。
 人は犯罪を犯した人間を裁くが、その人間がその犯罪を起こすことになった因縁は見たがらない。あたかも、その人間が悪い意志を持った、悪い人間であるかのように考える。良くなる意志を欠いた怠け者のように扱う。
 だが、良くなろうとする意志もまた、その背景(因縁)がそろってはじめて生まれるものなのである。事件を起こすまでの半生の中で、その因縁をつかめなかったのは当人の所為であろうか。良き親との出会い、良き人との出会い、良い本との出会い、そもそも「良いとは何か」を知る機会がなかったのは当人の努力不足であろうか。ミカン箱の一番下になったのは、そのミカンの所為だろうか。

 東日本大震災で、我々は被災した多くの人々の苦しみ・悲しみに共感し、援助を捧げることに何のためらいも見せなかった。日本人であれば、被害にあったのが自分であったかもしれないことを誰もが知っているからであろう。地震大国の日本では早晩大地震が起こるであろうことは知れていたし、どこに来るかは誰にも予測できなかった。今回、被害にあった地域と住民たちは、いわば、幸いにして被害にあわなかった自分たちの身代わり、人身御供になったのである。
「自分の地域だったかもしれない」
「自分の家族だったかもしれない」
 その思いが当事者とそれを免れた者とを結びつける。
 一方、誰も地震や津波そのものを責めはしない。このように不安定な岩盤を持つ土地に暮らしている以上、いつかは来ることは覚悟していたからである。
 社会における犯罪というのもそれと同じように自分には思われる。
「加害者は自分だったかもしれない」
「被害者は自分や自分の家族だったかもしれない」
 死刑という制度は、このような世のしくみ(=因縁)に対する無知のあらわれのように思われる。と同時に、条件付けから解かれないがゆえに、このような社会構造をそのまま持続させることに加担してしまっている、社会の一員である自分に対する負い目が、死刑を声高に唱えることを控えさせるのである。


 因縁を別の側面から取り上げてみよう。
 我々のすべての行為が新たな因となり縁となって流れをつくるのであってみれば、死刑という行為自体も当然因縁をつくる。それははたして良い因であろうか。良い縁であろうか。良い果を生むであろうか。
 死刑は、理由や背景がどうであれ、人を殺す行為である。決してポジティブな結果を生むとは思われない。
 単純な結果だけ見ても、それは国が合法的に人を殺すことを認める行為である。戦争と同じである。戦争放棄をうたっている日本が、合法的に人を殺すことを認めるのは矛盾している。この矛盾は憲法9条の存続を揺るがしかねない。
 また、主権在民の国家において、「国」とは国民である私たち一人ひとりである。すなわち、国による殺人である死刑の実情とは、私たち一人ひとりによる殺人なのである。国が殺すのではない。法律が殺すのではない。裁判所が殺すのではない。死刑執行人が殺すのではない。ましてや電気椅子や13階段が殺すのではない。私たちが、一億二千万分の一の責任を背負って殺害者になるのである。その自覚と覚悟がおありだろうか。


 再び、ミカン箱に戻る。
 社会がミカン箱であり、個人は社会のミニチュアであるならば、ミカン箱はまた個人の中にも存在する。個人の中味は社会の中味そのものなのである。
 社会がミカン箱から腐ったミカンを捨て去った(=死刑を執行した)時、それはその社会に住む個人が己の中からも同じ腐ったミカンを捨て去ったことになる。自分自身の一部を理解することなく、受け入れることなく、切り捨てたのである。切り捨てるのを許容したのである。腐った部位だからかまわないだろうか。だが、それはほかでもない自分の一部なのだ。自分の中のある部分が、許容できない別の一部を阻害した。それは自己分裂のはじまりであろう。

 このことを自分が強く感じたのは、1980年代終わりに連続幼女誘拐殺人で世間を騒がした宮崎勤の死刑が執行された時(2008年6月17日)であった。
 自分と同世代の人間として、つまり、生まれたときから同じ時代の変遷を経験し、同じ年齢でその都度同じ社会の有する価値観の内面化をはかった人間として、宮崎勤にはどこかつながりを感じていた。犯罪こそ起こさないけれど、自分の中にも「宮崎的なるもの」は育まれ、潜んでいた。フローベルに倣って言えば、「宮崎勤は私だ!」
 これは、他の世代の人間にはなかなか理解できないものであろう。けれど、一つの世代にはその世代にだけ理解できる、なんとなく共感しうる代表的な犯罪者がいるはずである。たとえば、『無知の涙』の永山則夫、『佐川君からの手紙』の佐川一政、神戸連続児童殺傷事件のサカキバラ、秋葉原通り魔事件の被疑者・・・・。彼らは、同世代の人間が隠し持つ「負の部分」の結実であり、同世代の中から選ばれた社会に対する生け贄なのである。
 宮崎勤が死刑になったとき、自分の中から何かが奪われるのを感じた。自分の中の「宮崎的なるもの」が結局、社会に理解されることも、そういうものが「ある」と認められることさえなく、捨て去られたような気がした。切り捨てられた「何か」は、どこにも落ち着くところがなく、今もどこか中空を漂っているような感覚がある。自分の中で統合される機会を持たないままで・・・。
 死刑とは、自分自身の一部を殺すことである。否、自分自身の一部が社会に殺されるのを黙って見過ごすことである。


 加害者が自分であったかもしれないのと同様、被害者も自分であったかもしれない。被害者は、他の人に代わって、このような社会構造の犠牲になってくれたのである。
 であってみれば、被害者とその家族に最善のケアをすることが社会の義務であるのは当たり前の話である。なぜこのような事件が起こったのか、加害者はどんな人間でなぜこのような犯罪を起こすに至ったのか、どういう償いが妥当なのか、更生はうまくいっているのか。こういった事件の詳細にまつわる情報を知る権利がある。また、その被害を社会が何らかの形で賠償する義務がある。

 被害者の身内の怒り、苦しみ、悲しみはどうしたらなくなるだろうか。そもそもその怒り、苦しみ、悲しみはなくなるものだろうか。克服すべきものだろうか。その怒り、苦しみ、悲しみの大きさこそが、もはや帰ってこない奪われた身内に対する愛情のバロメーターであるときに・・・。
 「なぜ自分の家族が・・・」「なぜ自分がこんな目に・・・」という問いかけに、答えは見つからない。だが、「他の家族に起きれば良かったのに・・・」「自分でなく隣の人であれば・・・」と彼らが思うわけもなかろう。

 苦しみが避けられない世の中に、我々は共に生きている。

みかん




●  映画:『狩人の夜』(チャールズ・ロートン監督)

 1955年アメリカ映画。

 驚くべき映画である。
 今日では俳優としてほとんど名前が口にされることのないチャールズ・ロートンの生涯ただ一つの監督作なのであるが、この一作にして監督としてのロートンの名前は永遠に映画史の中にゴチック体で刻まれることになった。とりわけアメリカ映画史の中に置かれたとき、この真に独創的な実験映画的なスタイルは異彩を放っている。
 公開当時は不評で批評家にも大衆にも受け入れられなかったものが、現在ではカルト的な人気と高い評価をほしいままにしているという点でも、驚くべき作品である。日本初公開が本国に遅れること35年の1990年ということからもそれが知られる。
 
 リリアン・ギッシュ、ロバート・ミッチャムといったアメリカを代表する名優が出演していながら、なぜかアメリカ映画っぽくないところがある。
 モノクロの象徴主義的な映像は確かにヒッチコックやオーソン・ウェルズ(『市民ケーン』)の系統という気もするが、『カリガリ博士』や『吸血鬼ノスフェラトゥ』やフリッツ・ラングなどドイツ表現主義の流れをくむ作品のようにも思える。一方、全編(特に後半部)に漲っている幻想的でみずみずしい詩情は、『雨月物語』の溝口健二あるいは北欧の影絵のような印象を与える。
 ロートンの突出したオリジナリティは国籍を超えている。

 実際、いくつかのショットに想起したのは、なんと我らが「モー様」もとい萩尾望都の『ポーの一族』であった。
 たとえば、殺人鬼である義理の父親ハリー(ロバート・ミッチャム)から逃げる子供たちが農家の納屋の二階に隠れるシーン。わらのベッドに横たわり疲れた体を休める子供たち。大きな窓からのぞむ三日月の輝く美しい夜景、はるかな地平線。美しく、幻想的な、童話のような世界。と、豆粒のように小さく、画面左から現れて地平をゆっくり右へと移動していくのは、馬に乗ったハリーの黒い影。この美しさと恐ろしさのバランスはまさに「モー様」風。
 たとえば、ベッドに横たわる妻のウィラを殺そうともくろむハリー。天井の梁がベッドを底辺とした二等辺三角形を描いて、その中にたたずむハリーの月光を受けた姿は、これからアランに吸血の儀式を行うエドガー・ポーツネルのようである。
 萩尾望都がこの映画を観たとは思えない。むろん、ロートンが『ポーの一族』を読んだわけもない。
 二人に共通する芸術上の祖先がいると思うのだが、残念ながら見当がつかない。

 厳格な説教師にして妻殺しの男を演じるロバート・ミッチャム、不遇な子供たちを引き取って一人で育てる信仰に支えられた芯の強さと愛情深さとを合わせ持った女を演じるリリアン・ギッシュ。この二人にこの年のオスカーがいかなかったことは、アメリカアカデミー賞の歴史上、最大の失策だろう。
 真の価値が見出されるまで時間を必要とする作品があるということがその要因である。


評価: A-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」 
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 娘による父親殺しの行く先は? 映画:『dot.ドット』(ジェイミー・バビット監督)

 2005年アメリカ映画。

 原題は『The Quiet(静寂)』。

 愛する父親を交通事故で失った少女ドットは、ショックから耳が聞こえなくなってしまう。孤児になったドットは、両親と住むいとこのニーナの家に引き取られる。
 ドットの静寂の周りで、事件が起こり始める。

 まず、ドット役のカミーラ・ベルが光っている。  
 ウィキによると、

カミーラ・ベルカミーラ・ベル(Camilla Belle、本名:カミーラ・ベル・ルース、Camilla Belle Routh1986 年10月2日 - )は、アメリカ合衆国女優。 2010年12月14日、米映画専門サイト Independent Criticsが発表した2010年度版の 「最も美しい顔トップ100」で1位になった。

 ということだが、実際、黒髪に陶器のような白い肌、どことなく哀しげな瞳、横顔のラインが高貴で美しい。存在感も演技力もある。いまのところメジャーな作品での主役はないようだが、これからが楽しみな女優である。

 この作品は一言で言うと、「娘による父親殺し」の物語である。
 ドットは、いとこのニーナが実の父親ポールに性的虐待を受けているのを知る。ニーナの苦しみを黙って(quietly)見ていられなくなったドットは、ついにある晩、ニーナに暴行を加えようとするポールを背後からピアノ線で絞め殺す。
 
 現象的には、ドットが殺めたのは血のつながらない義理の父であるが、これは殺意を持ちながらも実行にうつせなかった実の娘ニーナの肩代わりをしたのであり、ニーナによる父親殺しと言ってよいだろう。
 一方、失った父親との思い出の中に閉じこめられて周囲との関係を拒絶しているドットは、ニーナの父親を殺すことで、自らの心の中の父親(あるいは父という理想)を殺して思い出の殻を破って言葉を取り戻す。

 二人の娘によるそれぞれの「父親殺し」。

 これまでの映画の中で、ほとんど見られなかったテーマであろう。
 息子による父親殺しの物語は掃いて捨てるほどある。それによって、男は一人前の「男」として自立する。娘による母親殺しの物語は聞かないが、女は子供を産み自らが母親になることによって一人前の「女」となるので、特に実の母親と闘う必要がない。
 同性の親を殺す、あるいは同性の親からの束縛のくびきを打ち破り成長する。このテーマは西洋の物語の類型として馴染みである。(物騒な誤解を避けるために言うと、「殺す」とは文字通り命を奪うこと(だけ)ではなく、親を「理解する、乗り越える、同じ人として見られるようになる」という視点の変化の比喩である。)

 一方で、息子による母親殺し、娘による父親殺しは、あまり問われてこなかった。異性の親を殺す必要性が考えられなかった。必然性がなかったのであろう。
 その意味するところはなんだろうか?

 フロイト的に言えば、子供にとって異性の親との関係は、将来の自らのパートナーとの関係のリハーサルというか、依存関係の原型を造るものである。男の子は母親の胸から離れて、女の恋人の乳房に吸い付く。女の子は父親の手から離れて、男の恋人の手に抱かれる。それは、依存相手を差し替えるだけの、成長と言うにも足らない文化様式の一つである。
 だが、それによってこの社会、この異性愛社会は回ってきたし、回っているのである。

 それぞれの父親を殺したあと、ニーナとドットの二人が仲良く並んでピアノを弾く姿に、レズビアニズムの匂いを感じとったのはいきすぎだろうか。
 そう思って、ジャイミー・バビット監督についてウィキで調べてみた。

『Lの世界』シーズン4&5の監督チームに加わる。自身の長編映画『Go!Go!チアーズ』(’99)と『Itty Bitty Titty Committee』(’07)や、ドラマ『アグリー・ベティ』(’06)、『NIP/TUCK マイアミ整形外科医』(’03)、『ゴシップ・ガール』(’07)などの監督のひとりとしても知られる。14年来のパートナーで映画プロデューサーのアンドレアと、人工授精でふたりの女の子を出産。2007年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にもゲストとして招かれた。


 我ながら自分の直感が怖い。



評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」 
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 変換ミス 映画:『リバーワールド』(カリ・スコグランド監督)

 2003年アメリカTV映画。

 原作はアメリカのSF作家フィリップ・フォセ・ファーマーの同名の人気小説。未読だが、SF界でもっとも権威のあるヒューゴ賞に輝いているし、ストーリーのダイジェストからも相当に面白い小説と思われる。

 リバーワールドは、ネアンデルタール人から21世紀の人類、合わせて360億人(5歳以下の子供を除く)が、死んだすぐ後に復活した世界(惑星)である。宇宙飛行中に不時着してしまった主人公がこの世界の謎を解かんとする。歴史上の人物たち(例えば、マーク・トウェインと皇帝ネロ)が同時代に存在し、交流を深めたり、闘ったり・・・。というアイデアは秀逸で、機会があったら原作を読みたいものである。

 しかし、この映画は原作の名を貶めるひどい出来。
 テレビ放送用に制作されたという点を差し引いても、あまりに杜撰で、薄っぺらく、下手な演出が目立つ。
 トールキン『指輪物語』 → ピーター・ジャクソン『ロード・オブ・ザ・リング』
 松本清張『砂の器』   → 野村芳太郎『砂の器』
ほどの質の高い変換はそうそう望めないことは分かっている。
 けれど、ここまでひどいと原作者がかわいそうである。



評価: D+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 



  

● 失われた40年 本:『恍惚の人』(有吉佐和子著、新潮文庫)

120210_0552~01 この作品が最初に出版されたのは昭和47年(1972年)。
 なんと40年前である。
 今の高齢者が元気で働き盛りで、日本経済も財政も安定していて、バブル到来もその破綻も予期してなくて、阪神大震災も東日本大震災も知らず、消費税も導入されていない。オイルショックや公害問題などいろいろ事件はあれど、今から見れば「豊かな、牧歌的な」時代。
 そのときに、有吉佐和子は、医療や保健衛生や食生活の向上の結果として訪れた寿ぐべき長命の影に次第に姿を現わしつつあった老いの問題、介護の問題について問題提起し、来たるべき超高齢社会について警鐘を鳴らしたのであった。
 慧眼というべきだろう。

 それから10年後、昭和57年に書かれた森幹郎氏の本書の解説の中に、次のような文章がある。 


 今度、十年ぶりに本書を読み返した。まず強く感じたのは、内容的にはちっとも古くなっていないということである。痴呆の老人をめぐる問題はそのころより社会的な深刻さを増していると言ってもよい。その意味で、本書は、ますます今日性を強めていると言えよう。

 
  驚くことに、30年たった今(2012年)も上記の解説はそのまま生きている。(なんという寿命の長さ!)

 もちろん、介護の社会化を目指す介護保険の導入(2000年)という大きな転換はあった。
 日本全国に高齢者のための施設が増え、介護福祉士をはじめヘルパーも増えた。
 最新の科学的知識や蓄積された経験をもとに、介護に関する知見や技術も日進月歩で向上している。
 人権に関する意識、男女平等に関する意識も高まった。
 全般的に見れば、日本の介護事情はすこぶる良くなったと言っていいだろう。

 一方で、少子高齢化に歯止めがかかる気配もなく、年金はすでに破綻している。
 バブルの頃の羽振りの良さを伝えるエピソードがホラ話に聞こえるほど、経済は冷えきっている。国債は膨らむばかり。そのうえに、東日本大震災である。
 福祉予算をどう捻出していくか、高齢者をどう養っていくか、前途はまったく明るくない。

 本当に日本人はいったいこの40年間何をしていたのだろう?


 長年連れ添った妻の死と共にボケが始まり徘徊するようになった義父・茂造の介護に右往左往する昭子は、困じ果てて役所の老人福祉担当者と会う。
 しかし、期待していた老人ホームへの入所は、圧倒的な施設不足で、まったく見込みがない。昭子は茫然とする。 


 はっきり分かったのは、今の日本が老人福祉では非常に遅れていて、人口の老齢化に見合う対策は、まだ何もとられていないということだけだった。もともと老人は、希望とも建設とも無縁な存在なのかもしれない。が。しかし、長い人生を営々と歩んで来て、その果てに老耄が待ち受けているとしたら、では人間はまったく何のために生きたことになるのだろう。
 

  もう一度言う。
 40年前の文章である。

 この作品が古くならないのは、しかし、上記の文章の前半に指摘されているように、「人口の老齢化に見合う対策」が取られていないという政治上、財政上、制度上の無策、怠惰、いい加減、福祉の欠如の体質が、40年前の日本および日本人と、現在の私たちとが、いささかも変わっていないからだけではない。
 後半部がポイントである。

 すべからく人間は老いて弱って死ぬ。
 結婚しようが、子供を作ろうが、仕事で成功しようが、金持ちになろうが、有名になろうが、ゴールは誰でも「老、病、死」である。何もこの世から持っていくことはできない。
 いったい何のために生きているんだろう?

 入居金ウン千万円、きれいで立派な介護付き老人ホームのよく陽のあたるリビングで、車椅子に乗った昼食後の老人たちが、何もすることがない手持ち無沙汰の折に、ふとこの問いが頭をかすめる限り、この作品が古くなることはないだろう。

 

●  映画:『ターネーション』(ジョナサン・カウエット監督)

 2003年アメリカ。

 いったん見始めた映画を途中で切り上げるのは、なかなか決断の要るものだ。
 「これから面白くなってくるかもしれない」「ここまで見たのだから、途中で止めたらもったいない」「最後まで観なければ批評する資格がない」・・・・など、見続けるための理由が頭をよぎってくる。

 「カンヌが熱狂、サンダンスが絶賛、アメリカ映画評論家支持率92%」というすこぶる評価の高い=ゆえに観る前の期待も高かったこの作品について、まさか途中で退屈するとは思わなかった。しかも、主人公の青年は自分と同じセクシャルマイノリティなのに・・・。

 ターネーション(TARNATION)は「天罰、神の呪い」ということらしいが、別に「酷評」という意味もある。カウエット監督、あらかじめ予防線を張っておいたのか。大衆にこんなにも熱く受け入れられるとは思っていなかったのだろう。
 そう思うのも無理はない。なにしろ、監督自身の壮絶な半生を、監督自ら出演しドキュメンタリータッチで描いた、まったくの個人史だから。

 このような「自分語り」の映画は、日本でも90年代中頃から流行りだしたように記憶している。だいたいが、映画学校で卒業制作を課された学生が「自分をテーマにしてみました」みたいなノリで作られて、その多くは凡庸な作品で終わるのだろうが、中には題材の新鮮さや切り込みの鋭さとで評判になったものもある。覚えているもので『ファザーレス』(茂野良弥監督、1999年公開)がある。

 近代の芸術家の表現とは、どうにもしようのない生きづらさを抱えている自己の魂の咆哮であり、遺書であり、死なないための自己表現である。とりわけ、デビュー作にその傾向が濃厚に情熱をもって表れる。映画ではないが、三島由紀夫『仮面の告白』とか村上龍『限りなく透明に近いブルー』とか。(だから、作家はデビュー作を越えられないと言われる。)
 つまるところ、いかなる芸術作品も「自分語り」に過ぎないのだが、それを技術や表現スタイルで調理し、ある程度普遍的な意味を持つところまで練り上げていくのが、芸術表現というものだろう。

 『ターネーション』を観ていて思わず呟いてしまったのは、「なんで見ず知らずのあんたの人生を見せられなければならないのか? 他人の人生になんか興味ねえよ。」
 が、そのあとですぐに気がついた。自分がいつも「好きこのんで」映画で観ているのは、まさに他人の人生そのものではないか。他人の人生に興味がなければ、とても映画なんか観られるわけがない。ドラマなんか観られるわけがない。
 そうなのだ。自分はジョナサン・カウエットという青年の人生に興味がないわけではない。それは、一風変わった刺激的な出来事の連続であるし、カウエット自身が大変な美少年→ハンサムだというビジュアルの楽しみもある。
 興味がないのは、「自分語り」そのものなのだ。それは、酒場で目の前の男が滔々と「自分語り」を始めたのにつきあわされていると思えばいい。
 その男に恋しているとか、何か下心があるとか、自分と同じような境遇で共感できるとかというのでなければ、とてもそのようなナルシシズムにつきあっていられないってのが本音だろう。
 
 『ターネーション』が多くの観客(と批評家)に迎えられたのは、なぜだろう?
 プロデュースしたガス・ヴァ・サント(『エレファント』『ミルク』)、ジョン・キャメロン・ミッチェル(『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』)の後光か。
 ジョナサン・カウエットのルックスか。(これはバカにできない。ジョナサンがもし醜かったら、この作品はまったく鑑賞に堪えないだろう)
 まさか観客(と批評家)がジョナサンの半生に共感したとも思えないが・・・。
 となると、自分自身を手術台に乗せて、自分自身がメスを握り、徹底的に自分と家族を解剖した、その勇気と大胆さと表現することへの飽くなき情熱ゆえか。
 ああ、そうか。技術とスタイルを追うことに躍起になって活力を失った映画界への覚醒の一発になったのかもしれない。

 カウエット監督のその後の動向が入ってこないのが気になるところである。



評価:C-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」        
         ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」        
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● アメリカ映画に見る成熟の証 映画:『リトル・チルドレン』(トッド・フィールド監督)

 2006年アメリカ映画。

 国の成熟度というのは、その国で作られた映画の質にもっとも敏感にあらわれるのではないか。
 実際は文学の質なのかもしれないが、小説はほとんど読まないので何とも言えない。
 ただ一般に、映画の方が文学より大衆的=興業的であることが期待されるので、ヒットした映画を見れば、その国の大衆が達している心境のようなものを探ることができる。大衆的ならテレビこそとも思うが、テレビはどの国においても一様に下劣である。
 もっとも、なにを持って「成熟」というかは、意見の分かれるところであるが・・・。

 アメリカ人というのは、基本的に単純でわかりやすい世界観を持っている。一言で言うなら、「二項対立。自分は正しい。」
 善と悪、正義と不正、光と闇、勝者と敗者という二項対立の世界の中で、自分は常に「善であり、正義であり、光の側に組し、勝者である」という根拠なしの確信を持っている。否、持っているだけでは足りない。その確信をバネに、異なる価値観を持つ他の国の人々を教導し、洗脳し、改宗させる使命があると思っている。それに歯向かう敵を攻撃し、支配する権利があると思っている。まことにお目出度い国民である。
 敵と目されるのは、時代によって替わる。インディアンであったり、ソビエトであったり、共産主義者であったり、テロリストであったり、悪の枢軸であったり・・・。それはまるで「自分は正しい」というアイデンティティを保つために、二項対立の相手、つまり敵を必要としているかのようである。
 この国民性の根底にあるのは、むろん、キリスト教であろう。すなわち、神と悪魔、天国と地獄。そして、伝道することを使命とするメシアニズム。

 キリスト教を信仰する国々の中で、なぜアメリカだけがこのように単純な世界観を21世紀まで保ち続け得たのであろうか。
 それはアメリカが対外戦争に負けたことがなく、アメリカ本土が戦場になったことがないことによるのかもしれない。
 喧嘩に負けたことのないお山の大将。

 伝統的にアメリカ映画(ハリウッド映画)もその世界観を反映し、基本的に、明るく、前向きで、単純で、わかりやすい。「ダークサイド」なんて言葉を臆面もなく使っちゃうのは、アメリカ映画だけである。

 1999年公開の『アメリカン・ビューティ』と『マグノリア』を観たとき、「あっ、アメリカ人も変わってきたなあ~」と思った。これまでのアメリカ映画、オスカー作品にはない深さ、複雑さ、苦さが感じられた。これらの作品は、より複雑で神意のはかりがたい世界の様相というものに触れている。そこでは、自分のいる位置こそが世界の中心であるという自信も驕りも錯覚もない。

 2001年の貿易センタービルの倒壊以降、アメリカ国民はブッシュに先導されて、本来の「二項対立。自分は正しい」をほとんど強迫症的執拗さで主張し、聖戦へと突入した。
 ゆくりもなくそれは、大義なき戦いとなり、政治的かけひきとなり、非人道的な侵略に墜したが、がむしゃらな攻撃に傾斜していくアメリカ人の有様を見ていると、本当に恐れているのは敵ではなく、「自分は正しい」というアイデンティティの崩壊なのではないかと思われた。

 一方、映画人たちはより冷静に事態を見つめていた。
 もはや、現代では、二項対立のわかりやすい世界観など無用である。というよりむしろ、それこそが世界にとって有害である。
 『クラッシュ』(2004)、『バベル』(2006)、そして『ダークナイト』(2008)。
 これらの作品は、明らかに伝統的なアメリカ人の世界観に楔を打ち込むものであった。

 『リトル・チルドレン』もまた、この系列に連なる良作である。
 登場人物の誰も、善人でもなく、悪人でもなく、ただ欲と弱さを抱える人間であるに過ぎない。
 そんな大人たちが、なんてことのない日常生活の中で、ふれあい、すれ違い、愛し合い、憎み合い、現実のやりきれなさに懊悩し、ひとときの夢を見る。 
 複数の人物のリアリティのある心理と行動が、お互いの知らぬところで連関し合って、表にあらわれない因果の網を紡いでいく。そして、これ以上なく緊張の高まった最後の瞬間に、その網がつと人々の頭上に降りてきて、それぞれが落ち着くべきところに落ち着いていく。そのカタルシスが心地よい。

 現象を深く見たとき、世界は複雑で多様性に満ちており、遠く離れて見える事象同士の符合、連関、響き合いがもたらす物事のなりゆきは、人の浅はかな思惑をはるかに超越している。それを「神の見えざる手(配剤)」とか「神意はかりがたし」と呟いてもいいのだが、いくつもの系で同時多発的に起こる原因と結果の連鎖の空隙に、不意に訪れる癒しの一瞬を「恩寵」と呼んでもいいのだが、やはり二項対立の一方である神の名は出したくない。

 縁起と因縁、そして慈悲。
 『リトル・チルドレン』で観る者が感得するのは、これである。
 
 


評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」 
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」 
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 
   


 
 

● 本:『くじけないこと』(アルボムッレ・スマナサーラ著、角川SSC新書)

くじけないこと こういうタイトルの本を書店で手に取り買ってしまったのは、自分が今まさに「くじけ」そうになっているからである。
 「何に?」と言えば、現在通っているホームヘルパー2級を取るための介護の学校というかカリキュラムにである。


 初めの頃は、何十年ぶりかの学校生活にワクワクし、はじめて知る介護の世界にも、世代の異なる様々なバックグラウンドを持つクラスメートにも新鮮な思いを感じ、そこそこ張り切って通っていたのだが、だんだんしんどくなってきた。


 原因の一つは、体力・気力の低下である。
 6時間同じ教室に閉じ込められて机に座っていること(もちろん休み時間はある)が、これほどしんどいとは思わなかった。よく中学・高校時代は来る日も来る日もこれをやっていたなあと感心する。その上、放課後には部活動なんかもやっていたのだから、元気がありあまっていたのだろう。
 当初は、授業がすんだら週二回はジムとプールに通って体力づくりを、週一回はボランティアを、などと目論んでいたのだが、ひと月もせずに挫折してしまった。
 とにかく、疲れるのである。
 頭はぼうっとして授業がなかなか吸収できないは、目は老眼入ってきてしょぼしょぼするは、肩は凝るは、腰は痛むは、風邪はひくは、満身創痍である。夜になると、両足にびっしょり汗をかいて夜中に起きてしまう。朝目覚めてもすっきりしない。どころか寝る前より疲れを感じている。更年期障害なのかもしれない。
 年を取ることのしんどさをまさに自分の体で学んでいる。

 もう一つは、集団生活の息苦しさ、うざったさである。
 もともと集団生活は苦手だったのだが、どうも忘れていたらしい(苦笑)。
 自分と同年代が半分、自分より若いのが半分くらいのクラスであるが、若者のノリについていけない。ついていきたいとも思わないし、ついていかなければいけないわけでもないが、授業中の私語はあたりまえ、実技でのおふざけはあたりまえ(ふざけすぎて設備の一部を壊したりする)、まるで中学校からそのままやって来たような感じなのである。「男っていつまでたっても子供?」なんて目を細めているレベルじゃない。
 見ているとどうも、今の30代あたりを境目に授業態度が変化しているような気がする。確かに40代の自分の学生時代はまだ先生の力が効いていて、授業中は簡単に私語できない空気があった。今の先生は本当にたいへんだろうなあ~と思う。
 小中学校とは違って、誰に強制されたではなく、自分から望んで介護を学びに来ているのだから(就職につながる死活問題なのだから)ちょっとは真面目に学べばいいのに・・・というのは通用しない。真面目とか真剣であることが「カッコ悪い」という風潮があるようだ。
 おそらく、彼らが生まれた頃から「お笑い」ばかりになってしまったテレビの影響が強いのだろう。何かにつけ冗談を言わなければならない、ウケなければならない、沈黙に耐えられないというある種の強迫観念に支配されているかのように思われる。
 一方で、いわゆる「空気を読む(KY)力」はなるほどたいしたものである。周囲の状況や雰囲気をとっさに読んで、そこに自分を合わせていくのがうまい。孤立しないように、浮かないように気を使う。

 こういった力学が作用している教室の中では、本当に重い悩みを抱えている人やマイノリティは生きづらいだろうなあ~と推測できる。いや、実際には、誰もが何らかの悩みや不安を持っているはずなのだが、そうした他人の暗さや重さや弱さと向き合うスキルというか根性というか耐性を欠いているような気がする。それは、逆に言うと、運命のいたずらで自分がもしそういう立場になったとき、非常に弱いということだ。自分自身の重さや暗さと向き合うことができないし、周囲を信じ助けを求めることもできないからだ。
 そう言えば、ちょっと前にNHK教育テレビで「一番の親友には自分の悩みを打ち明けられない」という十代の声を聴いた。むしろ、顔も名前も知らないネット上の相手のほうが安心して何でも相談できるのだという。
 老人介護なんて、つまるところ人の弱さ・暗さ・重さと向き合う仕事だと思うが、大丈夫なんだろうか?

 とは言うものの、そうした息苦しさ、うざったさを感じてしまうのは、自分もその力学の中に埋没している証拠である。私語を注意するでもなく、おふざけをたしなめるでもなく、クラスの中で「どこまで自分を出すか」考えている自分がいる。
 やれやれ・・・。 


 くじけることは、自分の考えたこと、あるいは思い込みにしがみついた瞬間に起こります。なぜなら、物事はもともと思い通りにいかないものだからです。
 では、自分の思考から、どのように離れればいいのでしょう。
 思いつめて出した結論ではなく、客観的に自分の立場や考え方を捉えてみることです。そうすると、今まで見えていなかった解決策が見つかったりするものです。

 この世で何が完璧ですか。変わらないものなんかが、何かあるでしょうか。不完全な自分が、不完全な知識で、不完全なデータに基づいて、最終判断して安心するとは、どういうことでしょう。
 人生は「とりあえずの判断」にしましょう。これが、くじけない方法です。


 はっきり言います。無常を認める人にとっては、衰えて死んでしまうことも楽しい出来事です。


 すべてが無常であることを知り、楽しみがその瞬間ごとのものであることが理解できれば、すべての変化を受け入れられるようになります。無常を知る人は、決してくじけません。


 キーワードはやはり「無常」。
 固定的なものは一つもなく、すべてが変化する。
 うまく成し遂げたところで、それもまた崩れる。
 失敗したところで、それもまた過ぎ去る。
 人との出会いも然り。

 考えすぎるからくじけそうになるのだろう。
 結果にこだわるから不安になるのだろう。
 自我を張るから疲れるのだろう。
 目の前のことをできる範囲で、結果に頓着せず、できれば楽しんで、片付けていくよりない。

 

● 世界よ、驚け!浮世絵:『歌川国芳展』(六本木、森アーツセンター)

120126_2328~01 国芳の没後150年にあたって開催された記念展。
 
 とにかく「凄い!」
 「凄い!」の一言に尽きる。

 ゴーギャンもびっくりの色彩感覚。
 ミケランジェロものけぞる大胆な構図。
 ジョットーも嫉妬する愛敬のある表情や仕草の数々。
 ダ・ヴィンチもおののく緻密で正確なデッサン力。
 レンブラントも真っ青の多作ぶり。

 江戸時代にこれほどの画家が本邦にいたことを誇りに思う。
 西洋絵画に伍して遜色ない。どころか、迫力(生命力)ではキリスト教圏の画家を凌駕している。

 魚や動物の絵がどれも見事なのだが、国芳が好きだったという猫の絵が実によく生態を観察していて、猫のとぼけた感じを描き出していて微笑ましい。

 1500円払って、絶対に損はない。

 

●  映画:『ヴェネツィア・コード』(ティム・ディスニー監督)

 2004年ルクセンブルク・オランダ・スペイン・イギリス・アメリカ・イタリア制作。

giorgione_tempesta01 原題は『TEMPESTA(嵐)』。
 ルネッサンスの巨匠ジョルジョーネの代表作にして、ヴェネツィア(ベニス)はアカデミア美術館所蔵の西洋絵画史上最も議論かまびすしい作品。
 この作品の盗難をめぐって、水の都ベニスを舞台に繰り広げられる連続殺人と贋作事件と運命的な恋とをミステリー仕立てで描いた映画である。

 まず、画面の美しさを讃えなければなるまい。
 それもそのはず。ベニス&世界的名画、である。美しくなければウソである。美しくなければ撮る意味がない。
 しかも、美しいだけでなく、ベニスという古都が持つ類いまれなる魅力―張り巡らされた水路、迷路のように入り組んだ街路、靴音の響く石畳、噴水のある広場、そこかしこに息づく暗がり、いくつもの瀟洒な橋、ゴンドラ、海に浮かぶ蜃気楼のごとき鐘楼、そして、マントと仮面の彩りとが旅人を中世にタイムスリップさせるカーニバル。こうした道具立てを上手に使って、ミステリーと恋という二つの物語をからませながら盛り上げていく。たいした手腕と感心する。
 そう、真の主役はベニスと言えるかもしれない。

 となると、やはり持ち出したくなるのは、ヴィスコンティ『ベニスに死す』である。
 世界的に有名な作曲家が旅先のベニスで出会った美少年タジオの虜となり、街を襲うコレラもものともせず少年の追っかけを敢行。ついには罹患し、浜辺で少年を眺めながら息絶えていく。テーマは、自然の「美」の前に屈する芸術、「愛」の前に投げ出す人生。

 『ヴェネツィア・コード』もまた、腕のいい絵画鑑定士(元画家)が出張先のベニスで出会った美女の虜となり、殺人犯の濡れ衣を着せられながらも危ない橋を渡り続け、女のためにまっとうな人生から転落し、最後には命を落としてしまう。彼が選んだのも芸術より人生より「愛」であった。『ベニスに死す』の高踏的な文学性(原作がトーマス・マンだから当然だが)とくらべると、センセーショナルで俗っぽくはあるが、狙うところは一緒であろう。

 人生の成功者となるよりも破滅的な愛を、平凡な日常の気の遠くなるような繰り返しよりもつかの間の甘美なる陶酔を。そんな選択を人にさせてしまう、そんな心の奥の願望を表に引っ張り出してしまう力が、ベニスという街にはある。
 それこそがベニス最大の謎であろう。

 ミステリーとしては底が割れていて、最後に明かされる真犯人に驚きもしなければ、盗まれた絵画をめぐる謎に『ダヴィンチ・コード』のような奇想天外な解釈が用意されているわけではない。
 そこはいいのだが・・・・。

 人生が破滅しても悔いはないと主役の鑑定士に思わせるほどの「運命の女」とやらが、ジョルジョーネの『嵐』に描かれている女はもとより、『ベニスに死す』のタジオの魅力にもまったく及んでいないのが、残念至極である。



評価: C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」  
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

●  三国連太郎、礼讃! 映画:『飢餓海峡』(内田吐夢監督)

 1964年東映作品。

 昭和30年代生まれの自分は、三国連太郎と言えばTBSドラマ『赤い運命』の島崎を思い出す。
 当時人気絶頂の山口百恵の父親役(実際には血はつながっていないことがあとから判明する)で前科のある殺人犯を、三国連太郎は素か芝居か分からないほどの入魂の演技で表現し、自分のような百恵ちゃん目当ての視聴者をさえ毎回惹きつけてくれた。
 三国の演じる島崎は、どう見てもうさんくさい日陰者で、カッとしたら何をするかわからないような暴力性と、常に周囲に怯えている小動物のような神経質な一面と、人を絶対に信用しない疑り深さと、自分が得することにおいては俊敏に器用に立ち回るずるがしこさとを兼ね備えた、複雑なキャラクターであった。そのうえ三国は、ドラマ内では説明されることのなかった島崎の悲惨な生い立ちを暗い冷めた目つきと粗暴なふるまいとで十二分に感じさせ、百恵ちゃん演じる娘・直子の献身的な愛情によって次第に心が揺れ動き、自らも愛に目覚めていく過程を全く不自然なく演じきった。
 おそらく日本のテレビドラマ史上、最高の犯罪者役だと思う。三国の数多い出演作の中でも代表作と言っていいのではないだろうか。

 今、『飢餓海峡』の三国を見てはじめて、「ああ、島崎の原型はこの映画の犬養太吉だったんだなあ。『赤い運命』を観ていた大人の視聴者の多くは、きっと島崎の影に三国連太郎を媒介として犬養の姿を見ていたのだろうなあ」と納得する。
 犬養もまた想像を絶する悲惨な過去の犠牲者であり、殺人事件の加害者であり、遅れてやってきた愛を素直に信じ受けとることのできない不器用な男である。
 ただし、役の完成度から言えば、島崎の方が上を行くと思う。

 犬養役は、脚本のせいもあろうが、行動の背景にある動機がいまいち理解できない部分がある。そもそも行動そのもの(犬養が結局何をしたのか)が謎のまま終了してしまうのだから、無理もないのだが・・・。 
 犬養が一緒に逃亡した仲間二人を海の上で殺害したのかどうかは重要なポイントである。そこが郷里の母親に仕送りを欠かさない孝行息子である彼が、悪に手を染めるか否かの分かれ目だったのだから。
 もし、捕まった犬養(=樽見)が自供したとおり、仲間殺しが正当防衛であったのならば、次のポイントは残された金を持って船から逃げるところになる。犬養という主人公が、もはや引き返せない道を選んでいく、その心理の変化を見せるドラマ的に最も重要な「おいしい」箇所を、あえて謎のままにして観る者に示さないのは、どうなのだろう?
 すでに一度意図的に殺人を犯している手で後年家を訪ねてきた八重を殺めたのか。それとも、盗みこそはしたけれど故意に人を殺めたことはなく、八重を殺したのが犬養の初めての殺人なのか。その違いは大きいと思う。
 演じる三国の解釈もどちらともとれるような演じ方であった。
 観る者の想像におまかせしますってことか?
 犬養太吉という主人公のキャラクター設定がもともとあいまいで、三国も後年の島崎を演じた時ほどの自由な表現を監督からまかされなかったのかもしれない。

 その点をのぞけば、良くできた面白い映画である。
 伴淳三郎、高倉健、藤田進、左幸子、加藤嘉。どの役者も渋くて、存在感が抜群で素晴らしい。
 良い役者には「暗さ」が必須であるとつくづく思う。



評価: B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 
 
  
 

● 講演:「気づき」の迷宮 ~サティの実践とは何か?(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
 会場は代々木にあるオリンピック記念青少年総合センター。

 スマナ長老の話を聞き始めて丸3年になるが、最近話の内容が高度と言うか、濃いと言うか、あけすけと言うか、いよいよもって仏教の核心にずばり踏み込んでいくような大胆さと迫力とを感じる。どうも3.11以来、その感じが強まっているような気がしてならない。ひとりひとりが悟ること、変容することの重要性、緊急性が増しているとでも言うかのように。やはりマヤの予言は実現するのか?(笑)
 それとも、常連の多い聴衆者のレベルがそれだけ上がってきているのだろうか。
 いずれにせよ、聞くたびに焦燥感にかられる。

 今回の話も実に深い、実に鋭い、実にシビれるものであった。
 サティ(気づき)の重要性を説明するのに、スマナ長老がとっかかりとして持ち出したのは、なんと「この世の仕組み」「認識の仕組み」「生命の仕組み」という大がかりなテーマであった。
 考えてみたら、すごいことだ。開口一番、「はい、これからこの世の仕組みについて話します」なんて、誰にでもできることではない。(スマナ長老が実際にそう言ったわけではない。念のため。)

 
○ すべての生命の認識(知覚)システムは、幻覚をつくる(捏造する)ようにできている。

○ 存在(世界)とは、認識システムによってとらえた情報を主観で組み合わせて作り出したもの(=幻覚)である。

○ 認識システムは、動物・植物・昆虫・人間の別をとらず、一つ一つの生命によって異なるので、「私」の世界と「他人」の世界とが異なるのが当然である。「私」の世界を「他人」が知ることも、またその逆も、不可能である。

○ 「私」は、幻覚を事実と錯覚してしまい、それにとらわれてしまう。それによって「苦」が起こる。

○ 幻覚(捏造)が起こるのは、六門(眼・耳・鼻・舌・身・意)に絶えず入ってくる、色・声・香・味・触・法という情報(データ)を処理する仕方が間違っているため。

○すなわち、
 六つの門に情報が触れる
       ↓
 「感じた者」が概念(想)をつくる
       ↓
 概念ができたら思考する
       ↓
 この思考が捏造する
       ↓
 過去・現在・未来にわたって捏造された概念を適用する。

○ アジタ行者とブッダの問答
 アジタ: 世は何に覆われている?
 ブッダ: 無明によって覆われています。
      (六門からの情報により捏造された幻覚が事物の本然の姿を覆い隠している)
 アジタ: 人はなぜそのことが分からない?
 ブッダ: 疑いと放逸とがあるからです。
 アジタ: この無明の状態を固定してしまうものは何か?
 ブッダ: 妄想の回転です。
 アジタ: その結果起こる危険とは?
 ブッダ: 苦が起こることです。
 アジタ: あらゆる方向から、絶えず流れ(=情報)が入り込む。どうすれば止められる?
 ブッダ: サティ(気づき)がこの流れに対する堤防です。智慧によって無明がなくなります。


 と、やっとここでサティが出てくる。
 仏教におけるサティとは、「(情報の流入→捏造)という大いなる津波に対して堤防として働くものであり、サティは生命そのものの問題である」と長老は言う。「生きるとは知ることであり、知るとは捏造することです。」

 つまり、我々(生命)が生きるとは、それぞれの認識システムを使って捏造した世界(幻覚)を瞬間瞬間作り出していることであり、幻覚の世界に「私」をもって生きるとき、絶え間のない「苦しみ」が生じるのである。
 「苦しみ」から離脱するには捏造をやめること。六門から入ってくる情報を、次の段階(概念を作る、あるいは思考が始まる)にまで持っていかずに、即座に楔を打つ。
 その楔こそサティなのであろう。 

 こうしたことを「頭で理解する」ことと、実際に「体験する」こととは違う。体験してこそ納得し確信が持てるのだから。心が裏返るのだから。体験するためには、やはり修行=瞑想が不可欠である。
 自分は、頭では理解しているつもりなのだが、なかなか悟れない。

 やっぱり、精進が足りないのだろう。
 

● 若尾文子が怖すぎる! 映画:『妻は告白する』(増村保造監督)

 1961年大映作品。

 しとどに雨の降る午後のオフィス。
 机を並べる同僚たちとの会話。
 と、女子社員の声がする。
 「幸田さん、お客様です」
 部屋の入り口に目をやると、そこには喪服と見まがう黒ずくめの着物に身を包み、ずぶぬれになった髪を振り乱し、ドアの影から上目づかいにひたと男を見つめる女の姿。
 床にポタポタとしずくが垂れて・・・。

 この若尾文子の鬼気迫る演技に背筋がぞっとしない男に幸いあれ。
 職場に突如ヤクザか妖怪が現れたとて、これほど心肝を寒からしめるものではない。
 それくらい恐い。

 明らかに増村監督にはこのような女につかまって振り回された経験があるのだろう。
 ちょっと前なら中森明菜、今ならさしずめ沢尻エリカか・・・。いわゆる魔性の女。
 美しく魅力的でどこかあぶなっかしい。少女のように純粋なふうでもあり、老獪で計算高いふうでもあり。言ってることは本当のようでもあり、ウソのようでもあり。
 平成の精神科医ならば、まずこう診断を下すであろう。
 境界性人格障害。

 登山中の良人殺しの罪を問う裁判という謎とサスペンスをはらむ舞台装置を用いて、一人の真面目な心やさしい青年・幸田修(川口浩)が、被告にして魔性の女・滝川彩子(若尾文子)との切るに切れない関係にはまって破滅していく様を描き出す。
 愛に飢えている女が若い男の愛をもとめて「鬼にも蛇にも」なっていく過程を巧みに描ききった増村監督もすごいが、それに応えた若尾の演技も申し分ない。本当に若尾文子は美しいだけの女優じゃないんだと、この一作を見れば十二分に納得できる。着物の襟から覗く白いうなじも官能的ったらありゃしない。
 
 物語の最後で、幸田は、滝川に出会う前からの婚約者である理恵(馬渕晴子)にも捨てられる。理恵は言う。
 「本当に人を愛したのは奥さん(滝川)だけよ。私もあなたも誰も愛してなんかいない。」
 この言葉によって、幸田との関係の破綻に絶望し薬を飲んで自殺した滝川彩子の愛の強さ、純粋さが賞揚されるような錯覚、幸田の臆病さと冷たさとが非難されているような印象を観る者は持たされるけれど、本当のところどうなのだろう?

 滝川彩子の死に方を見てみよう。
 傘も差さずに(なぜ?)突然訪ねていった幸田の会社のトイレで、持ち歩いていた青酸カリを飲んで自殺。夫の死でおりた生命保険500万円の証書とともに、しっかりと「幸田宛ての」遺書をしたため。その内容は「保険金は、あなた(幸田)と婚約者の理恵さんとの幸せのために使ってください。」

 だれがそのような気色の悪いお金に手をつけられようか。
 彩子と二人での新生活のためにさえ、彩子の元の亭主の保険金を使うのを拒絶した幸田なのだ。(それが二人の仲違いの原因となったのである。) まして、幸田のほとんど目の前であてつけるように自殺した(私は幸田に殺されましたと社内中に広めているようなものではないか!)彩子からのたっぷりの罪悪感付きのプレゼントを、幸田が受け取れるわけがない。
 そんなことくらい想像できない彩子の想像力の欠如こそ恐ろしい。自分を拒否した幸田に対する復讐だろうか? いや、そうではあるまい。自分に都合のいいようにしか人の心を解釈しない(できない)彩子の徹底した自己中心性のなせるわざなのだ。
 それこそ実におぞましい。(実に哀れだ!)

 彩子の亭主がなかなか離婚に応じようとしなかったのも、幸田(と我々観る者)が彩子の口から知った以上の何かしらの理由があるのではと勘ぐってしまう。ちょうど、沢尻エリカとなかなか別れようとしない高城某のように・・・。

 このような女に魅入られてしまったら、男はどうすればよいのだろうか?

 最初から関わらないのが得策には違いないが、危険を見抜けるほど目が肥えるにはそもそも痛い目にあうことが必要だ。美しく魅力的で、そのうえ不幸な結婚をして夫に虐げられているときたら、どんな男が同情せずにいられようか! ちょっと優しく振舞って女の気をひいたが最後、あとは、女の手管にかかってなすがままである。気づいたときには引くに引けないところまではまりこんでいる。
 やっと危険を察知して下手に「NO!」を言うと、女は命というネタを使ってこちらに脅しをかけてくる。つまり、自殺をほのめかす。ちらつかす。これが狂言かというとそうでもなく、今回のように冗談ですまなくなることもあるので実に厄介である。だいたい、自分の命を担保に相手をコントロールするくらいタチの悪いものはない。
 この無間地獄からのがれるには、どこかではっきりと女に「自分にはできない!」を突きつけるしかないのだが、これこそ男が一番苦手とするセリフなんである。

 結局、女に振り回されて心身とも消耗して「もう無理だ、ごめん」と相手に伝えるか(マッチバージョン?)、今までの優しさをかなぐり捨て逆上して相手と同レベルで醜い闘いを続けるか(高城バージョン?)、あるいは、死ねばもろとも世間も仕事も捨てて相手と行けるところまで行く決意を固めるほかない(石田吉蔵バージョン=阿部定の情死の相手)。
 三番目の男は、女から見たら最高に「いい男」なのかもしれないけれど、愛にそこまでエネルギーを(自分を)投資できる男が少ないのは確かである。
 というより、それができる男は、女と釣り合うくらいの深い心の闇(病み)を抱えているような気がする。

 とは言え。
 このような人間がいてくれるからこそ、退屈でつまらない日常がつかの間輝くのかもしれない。保守化し固定化する一方の自我が、巻き込まれることで破壊され、新たに生まれ変わることができるのかもしれない。
 その意味で、自分はこの種の人をこう呼ぶことを提案したい。

 トリックスター症候群。


 
評価: B+
 
 
A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 映画:『チェックメイト』(エリック・テシエ監督)

 2009年フランス映画。

 希望の映画学校への入学が決まり、ルンルン気分で(いつの流行語だ!)自転車で走っているところ、目の前を黒猫が横切る。急ブレーキで転倒。ケガした手を洗うためにたまたま入った最寄りの家で、監禁されている瀕死の男を発見。
 結果、ヤニックもまたその家の主人ジャックに捕らわれることになる。
 だから、「他人の家に勝手に入ってはいけない」ってあれほど言ったのに。(聞こえてないか・・・。)

 よくある展開である。
 定石通りならば、この主人はこれまでにすでに何十人も拉致監禁殺害している異常性格者にして残虐な殺人鬼であり、家の地下にはこれまで殺した男や女の死体や骸骨がゴロゴロと塁をなしている。捕らえられた獲物は、必死に逃げだそうとあの手この手を使って奮闘するが、いいところまで行っては捕食者に見つかっておじゃんになる。そのうち、肉体だけでなく精神的にも衰弱し、幻覚が見えたり幻聴が聞こえたり・・・。
 というところであるが、実際まさにその通りに展開するのだから、マンネリズムに通常なら退屈しそうなものである。
 
 定石の退屈さ、凡庸さからこの作品を切り離しているのは、フランスならではの軽妙なエスプリがところどころ効いていて、思わず吹き出すとまではいかないけれど、日本やハリウッドの同種の作品ならば主人公の陥った状況の過酷さにこっちも緊張して固唾を呑んで観てしまうところ、なんだかサンドイッチマンのコントでも聞いているような不条理な笑いに口元が緩むのである。

コント1 
 監禁されたヤニックをジャックが夕食に誘う。一緒に階下に降りていくと、そこにはジャックの妻モードと娘二人がくつろいでいる。絵に書いたようなありきたりの家族の日常風景。隙を見て逃げようとしたヤニックを、ジャックが止めようと殴りつける。それを見たモードのセリフ。
「あなた、子供たちの前ではしない約束よ」

コント2
 2階から飛び降り逃げようとするヤニックを、娘のミッシェルが庭で待ち伏せしていて、バッドでヤニックの足を何度も殴りつける。それを見て怒るジャックのセリフ。
「無用な暴力はいかんと言ったろ。部屋に行ってろ。今夜はテレビはなしだ」

コント3
 翌朝、甲斐甲斐しくヤニックの足の手当てをするジャック。ミシェルを連れてきて、ヤニックに詫びを入れさせる。
「許してくれ。娘に悪気はないんだ」

 と、こんな調子である。
 人を平気で殺す殺人鬼でありながら、妻や娘に尊敬される父親で、平凡なタクシードライバーで、親切なんだか残酷なんだか、異常なんだかまともなんだかよくわからない、というジャックの不条理な性格が、こうした不条理な笑いを生んでいるのであり、ヤニック同様、観ている我々も混乱の極みに置かれる。

 が、この不可解さには理由がある。
 ジャックには、神の命のもと自分が正義を行っているという確固たる信念があり、悪人を見つけ出して退治することを自分の使命と信じているのである。であればこそ、彼には彼なりのルールがある。
「無用な暴力、無用な残酷さは罪である。殺すときは一気にとどめを刺すべし。」
 家族も共有しているこの信仰をのぞけば、あとはまったく普通の家庭なのである。拉致監禁中のジャックがまるで客人であるかのように同じテーブルで夕食をとり、一家団欒し、食後は父と娘はチェスを行い・・・。
 このへんてこなギャップがこの作品の一番の見所であろう。

 チェスの達人であるジャックは、ヤニックに告げる。
 「一回でも私に勝ったら、君は自由だ」
 そうして、二人は毎晩チェスをするようになる。
 負け続けるヤニック。監禁されて他に気を紛らすものがないことも手伝って、ヤニックは次第に勝負にのめり込んでいく。
(絶対にジャックに勝ってやる!)
 しまいに、それは妄執となる。せっかく逃げだす機会をモードがつくってくれたのに、ヤニックはそれを拒絶し、ジャックとの勝敗をつけるために家にとどまる。

 ヤニックがどうしてもジャックに勝ちたいと思うのは、単にチェスの魔力に引き込まれたとか、負けず嫌いであるとか、男の意地とか、ジャックを打ち負かしてジャックの信仰の間違いを正したいとかいうのではなく、ジャックの後ろに自分の支配的な父親の姿を見るからである。ジャックに勝つことは、ヤニックが個人として自立するための通過儀礼なのである。
 なるほどなあ~、やっぱり欧米人のエディプス・コンプレックスって強いんだなあ~。
 
 かくも父親像が確固として強く立ちはだかるのは、キリスト教徒の欧米人は、父親の後ろに「神」を見るからなのだろう。
 近代的自我の確立が神を倒すことから始まったことを思えば、この構造は手に取るようにわかりやすい。
 
 最後のゲームでは、ヤニックがいいところまで行ってジャックを破れるかと思いきや、邪魔が入って結局決着がつかないまま終わってしまう。事件は警察に知られるところとなり、ジャックは捕まり、ヤニックは自由の身となる。
 しかし、精神的にはヤニックはなお捕らえられたままである。
 倒すべき神がいないモラトリアムの牢獄にー。
 
 思ったより深い作品である。



評価: C+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● 映画:『天国と地獄』(黒澤明監督)

日本映画150 1963年東宝。

 手元にある文藝春秋編『大アンケートによる日本映画ベスト150』(1989年発行)によると、『天国と地獄』は22位にランクされている。黒沢の作品では、
『七人の侍』(1位)
『生きる』(3位)
『羅生門』(4位)
『用心棒』(17位)
『酔いどれ天使』(18位)
に継いで6番目である。
 100位までになんと13本がランクインしているのだから、いかに黒澤作品が日本人に愛されているのかがわかる。ちなみに、同時代に活躍した巨匠達を見てみると、溝口健二7本、木下恵介6本、小津安二郎5本である。
 このアンケートの回答者は、文春が選定した映画好きを自認するマスコミ関連の業界人372名であるから、それなりのバイアスはかかっていよう。が、黒澤明こそが日本映画史上最大の監督であり、それを超える者はいまだに(永久に)現れていないという評価が動かし難いところなのであろう。 


 『天国と地獄』も実際文句のつけようがない。
 このレベルの作品を生涯に1本撮っただけでも、その監督の名前は永く映画史に刻まれることだろう。脚本、演出、撮影、演技、どれをとっても標準をはるかに凌駕し、第一級の娯楽作品に仕上がっている。本当に巧い。本当に面白い。
 前半の家の中の一室だけでドラマが進行する演劇的な手法は、ヒッチコックの『ロープ』(1948年)を思い出させる。おそらく、あれが黒澤の頭の中にはあっただろう。言葉の応酬と役者の演技、そしてカメラワークだけで緊迫感を生み出していく手腕には舌を巻く。三船敏郎の重厚な骨のある演技には惚れ惚れする。
 一転して、捜査陣の推理と犯人の追跡を描いていく後半では、ミステリーの醍醐味を十分に味わうことができる。警部役の仲代達矢もいいが、たたきあげの刑事らしい無骨さと逞しさと愛敬とをふりまく「ボースン刑事」こと石山健二郎が光っている。
 トーンの対照的な前半と後半とをつなぐ文字通り「橋」における身代金引き渡しのシーンこそ、日本映画いや世界映画における鉄橋シーンの白眉と言える。鉄橋周辺の空間の広がり、列車の走るスピード感をいっさい殺すことなく、何台ものカメラの使用によって角度を変えつつ切り替わっていくショットの生み出す緊張感は、登場人物(警察側)の心理状態とからんで、絶大な効果をもたらす。息を詰めて観るほかない。
 実際、その後の日本のすべての推理・刑事ドラマの原型は、映画・テレビ問わず、この一作にあると言っていいだろう。


 瑕瑾の見あたらない作品であるけれど、あえて難を言えば、エンドシーンがちょっと肩すかしな感じがした。
 誘拐犯である竹内(山崎努)と、脅迫され身代金を払った権藤(三船)との刑務所での対面シーンにおいて、物語はクライマックスに達する。見ている我々は、何らかの両者の対決あるいは犯人側の真情の吐露を期待する。なぜなら、そこに至るまでのドラマの中で、なぜ竹内が犯行を行ったのかがはっきりとは示されないからである。
 もちろん、「貧困=金」が動機ではある。
 地獄(スラムまがいの地区にある竹内のアパート)から天国(丘の上の瀟洒な権藤の邸宅)を来る日も来る日も眺め続けていた竹内が、権藤に対して嫉妬し、劣等意識をかき立てられ、やがて憎むようになるのはわからなくもない。金持ちに対する憎悪や貧富の差を生む社会に対する憤りが、いかにも金持ち然とした権藤に集約されることも不自然ではない。
 しかし、竹内も病院で働くインターンであるからには医者の卵、エリートである。いまは安い給料でこき使われているかもしれないが、末はドクター、前途有望である。しかも、どこかの院長の娘あたりをたらし込むことだってできそうなほどハンサムだ。
 そうした輝かしい将来を棒に振って、失敗するリスクの大きい誘拐脅迫のみならず、死刑になりかねない殺人にまで手を染める必要がなぜあるのか?
 竹内には、語られていない悲惨な過去、強烈な何らかのコンプレックスがあるに違いない。左手の深い傷はそれを暗示しているに違いない。それが最後には何らかの形で明らかにされることを期待していたのである。
 が、結局、竹内は刑執行を前にして自ら面会を希望したにもかかわらず、権藤を前に虚勢を張り続ける。内面は見せない。来たるべきものに怯え、身を震わせ、最後には絶叫して看守に連れ去られていく。また、警察署内の会議の席でも、竹内の生い立ちとか家族関係とかが語られるくだりはない。
 一体、竹内とはどういう人物だったのだろう?
 山崎努は、どういう解釈を持って竹内を演じたのだろう?

 同じ推理ドラマの傑作『砂の器』(1974年松竹、上記アンケートでは13位)と比較したとき、犯人の動機についての描写の浅さは歴然である。
 もっとも、黒澤が撮りたかったのは、純粋に推理&サスペンス娯楽作品だったのであり、山崎努(=竹内)に求められていたのは普通に「悪」役なのだ、と言われればそれまでだが・・・。
 それとも、リアルタイム(63年)でこの映画を観た世代は、あえて説明してもらう必要もないほどに、竹内の置かれている状況の悲惨さ、己のキャリアや将来を棒にふってまで金持ちを憎み犯罪行動に走らざるを得ない苦悩に対する、暗黙の共通理解のようなものを持っていたのであろうか。

 今は「天国」の側にいる権藤の前歴が靴職人であったことが何らかの暗示になっていると読むのは、いささか考え過ぎか?




評価:
 A-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった


「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 本:『おひとりさま介護』(村田くみ著、河出書房新社)

おひとりさま介護 001 上野千鶴子のヒット本にあやかった二匹目のドジョウならぬ三匹目、四匹目のドジョウではあるが、中味はいたって真面目で、つぼを押さえており、個性的。文章も読みやすく、介護に関する様々な情報が得られる点でも有益である。さすが『サンデー毎日』の記者。
 「個性的」というのは、著者の正直さに由来する。
 突然自宅で倒れ嘔吐を始めた母親(74歳)を救急車で病院に搬送し、医師に「ここ1日がヤマ」と宣告されたあとの著者の弁。

 しかし、「ここ1日がヤマ」と言われていたのに、2日経っても3日経っても「ヤマ」はきませんでした。
 そう、私は「ヤマがくる」ことをどこかで願っていたのです。
 父が死んで母が扶養家族になってから、2人の力関係は逆転してしまいました。まだ、母の身の回りの世話まではしていませんでしたが、目に見えてやつれていく母を見ていて、これからの生活はかなり負担が増えることを、なんとなく恐れていたのです。「助かってほしい」という気持ちとは裏腹に、「これで母の面倒を看なくてすむ」という気持ちを私は抱えていました。助からないことに安堵しているもうひとりの自分がいたのです。

 
 長い眠りから覚めた母はというと、私たちが「お母さん」と呼びかけても、「どなた様ですか」。娘の顔がわからないのです。目を開けても視点が定まらず、「キョトン」とした表情で意味不明な言葉を発するのです。
 その様相を見て、私は母が死の淵から生き返ったと喜ぶと同時に、「これはエライことになる」と血の気が引いてしまいました。

 
 著者をエゴイスティックというのはたやすい。
 けれど、いつまで続くか分からない介護地獄を予感した、30代働き盛り&まだまだ遊び盛りの娘の率直な感想ではないだろうか。

 かくして、食べ歩きと海外旅行とを謳歌していた「おひとりさま」の青春の日々が一瞬にして消え去り、何もかもが未知である介護の世界に、多忙な記者の仕事をしながら、足を突っ込まざるを得なくなる。


 そこで知った厳しい現実の数々に驚き怒り落胆しあきれかえりながら、また、軽度の認知症を発病した母親のこれまで想像もしなかった奇矯なふるまいやヒステリーに振り回されて介護ウツに陥りながら、介護保険はじめ様々な制度や裏技を活用することを覚え、最終的に母親をケアハウスに入居させることに成功(?)する。

 このあたり、別記事で紹介した松本ぷりっつ『笑う介護。』(→http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5338578.html)と似たような展開である。(あちらは父親を介護する娘の奮闘ストーリだが。)
 松本が最終的には介護を前向きにとらえようと意欲し読者にも勧めるのに対し、この著者は自ら言うように「マイナス思考な人間」なので、なかなかハッピーな気分にはなれない。

 介護の本を読むと、「介護をするとあなたの世界がひろがります」「誰かに感謝をすると良い気持ちになります」と書かれています。
 私はいまだに介護をして良かったと思ったことがありません。
「自分の人生は終わったも同然」
「なんで自分ばかりが親の面倒を看なければならないのか」
「生まれ変わったら人間だけはイヤだ」・・・・。
 介護を始めた当初は、1日24時間そんな気持ちでした。最近はそこまで思い詰めていませんが、その気持ちがすっかりなくなったわけではないのです。


 正直でよろしいなあ~。
 この文章を、同じような気持ちを抱きながらも表面上は懸命にとりつくろって現在進行形で家族の介護をしている人が読んだら、「ああ、こんな非情なことを思うのは自分だけではないんだ」と安堵して、自分自身を責めたり罰したりする手をゆるめるかもしれない。
 ポジティブ思考もいいが、「そう思わないといけない」と努力目標になってしまうと、かえってマイナスな影響を生み出す。と言ってネガティブ思考もそのままではつらい。ネガティブ思考の自分をたまには笑うくらいのゆとりがあるのが、ちょうどよいのかもしない。


 一回きりの人生が、自分が選んでつくった「子供のために」犠牲になるのならともかく、「親のために」犠牲になるというのは、なかなか受け入れられるものではない。それも、ある程度自分が人並みのこと(結婚、出産、育児、仕事上の成功、財産の形成、家を建てる、後進を育てるe.t.c)をやり終えたあと、例えば定年退職したあとにそれがやって来るのならまだしも、30代40代というのは、まさにいま自分の人生を作り上げている最中である。そこで、親の介護のために仕事を辞めざるを得なくなりキャリアがストップしてしまったら、結婚や出産する機会を逃してしまったら、今度は自分が年老いたときにニッチもサッチも行かなくなる可能性がある。悪循環である。
 仕事と介護、結婚と介護、子育てと介護の両立が可能なところまで、介護の社会化を持っていかなければ、次世代が育たない。

 しかし、著者が介護を負担だと思う気持ちが抜けないのは、決して著者の「マイナス思考」でも、恩知らずからでも、若者気分が抜けきらない未熟さのせいでも、自分の老後を心配するからでも、老親との関係の難しさのためでもない。
 この本の中で一番見事に真実を突いているな、さすがプロの記者の目だなと思った文章がこれだ。
 

    介護が負担だと思う原因は、金銭的な不安がつきまとっているからです。
 

 介護の社会化が叫ばれて介護保険が導入されたはいいが、まだまだやっぱり介護にはお金がかかる。介護される者が長く生きれば生きるほど、お金がかかる。
 軽くない負担を背負った子供が「一体いつまで続くのだろう(生き続けるのだろう)」とこっそり思ってしまったり、これ以上子供に負担をかけさせたくないと思う親が「一刻も早く死にたい」と願ったりするのも無理のない話である。その状況下で「自立支援でいい介護」なんてできるわけがない。

 もし消費税率を上げるのであれば、ぜひ介護に関する経済的不安を軽減する方向に税金を投入してほしいものである。すべからく人は老い、死ぬのだから、これは正真正銘、誰もが平等に恩恵を受ける公平な税の使い方であろう。


● ファントムはどこにいる? ミュージカル:『オペラ座の怪人』(ロイヤル・アルバート・ホールinロンドン)

オペラの怪人 001 アンドリュー・ロイド・ウェバーの傑作ミュージカル『オペラ座の怪人』の25周年記念公演が、昨年10月にロンドンで行われた。そのときの記録映像を吉祥寺バウスシアターでスクリーン上映するというので、風邪をおして出かけた。

 ガストン・ルルー原作『オペラ座の怪人』は、ブライアン・デ・パルマ『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年)のような翻案作品も含めると、なんとこれまでに10回も映画化されている。これほどリメイクされている作品は他にないだろう。舞台のほうは、ロンドンでは『レ・ミゼラブル』に次ぐミュージカル史上第2位の22年、ニューヨークでは21年の史上最長ロングラン公演記録を現在も更新しているという。
 史上最強、もっとも人々から愛されているミュージカルであることは間違いない。ルルーも『黄色い部屋の謎』よりも有名な作品になろうとは、よもや推測していなかっただろう。推理作家ルルー最大のどんでん返しかもしれない。

 そんな文字通りの「モンスター」ミュージカルの記念公演に、イギリス演劇界&音楽界が威信をかけないはずがない。歌い手といい、踊り手といい、オケといい、舞台装置といい、美術といい、特殊効果を駆使した演出といい、あらゆる要素が最高度に揃えられて、スクリーンを通してからでもその質の高さ、豪華絢爛さ、目も眩むようなイリュージョンの魔術的効果、圧倒的な迫力が伝わってくる。劇場でライブで観たら、腰が抜けるほど衝撃を受け、感動するに違いない。一般に感情をあらわに出さないと言われるイギリス観客たちが、熱狂し、総立ちで惜しみない拍手と「ブラヴォー」を贈っている様子からも、それが十分にうかがえる。
 幕が下りた後は、恒例のようにカーテンコールが続くが、さすが25周年、制作スタッフの紹介から始まって、作曲者のアンドリュー・ロイド・ウェバーが出てきて挨拶するわ、歴代のファントム5名が出てきてサラ・ブライトンと一緒にテーマ曲を熱唱するわ、最後は紅白歌合戦ばりに舞台袖から仕掛け花火が発射されるわ、まあゴージャス極まりない。
 観劇の余韻など一気に吹っ飛んでしまった。
 ・・・・。

 ストーリー展開も見どころ聴きどころも結末も知っていて、ところどころ退屈な部分もあるこの作品に、今さら涙するだろうかと思いながら観ていたのだが、やっぱりていもなくやられてしまった。ファントムの苦悩が吐露される最初のシーンで。

 産みの母親にすら疎まれた醜い顔を仮面で隠し、世間の水準をはるかに凌駕する学識と音楽の才能と器用さとを持ち合わせながら見世物小屋で糧を得ざるをえなかったファントムの半生は、苦悩の凝縮と言っていいだろう。エレファントマンですら、実の母親の愛を受けることができたのに・・・。
 人間にとって最初の関係性の作り相手である母親(父親あるいは養父母でもいいが)から愛を拒まれたとき、人は後年いかに才能やお金に恵まれようとも自分自身を肯定することができなくなる。自分で自分を愛することができないとき、周囲からの愛を受け入れることもできない。「こんな自分を愛するなんて、こいつはおかしい。嘘をついているに違いない。なにか下心があるに違いない。」と解釈するからである。
 だから、ファントムのクリスティーヌに対する愛もまた、その裏返しで、「音楽の美にともに身をささげる」という大義名分に隠された条件付きの愛である。ファントムに怯え、幼馴染のラウルの手を取ろうとするクリスティーヌに対して、ファントムが「歌を教えてあげたのに、なぜ自分を裏切る?」と怒り嘆く真意は、「歌を教えてあげるかわりに、自分を愛してくれ」ということである。
 ファントムの苦悩は、第一義にはその醜い容貌のためであるけれど、二義的には無条件に彼を受け入れ愛してくれる胸に抱かれたことがないことに起因する。ただ音楽だけが、彼の容貌に関係なく、彼を受け入れ、支え、慰め、力づけ、夢見させる力を持っていたのであろう。

 人々は、そうした彼の苦悩を観る(聴く)ために、わざわざ安くない金を払って劇場に、映画館に足を運ぶ。DVDを購入する。
 なぜだろう?
 人の不幸は蜜の味というように、他人の苦しむ姿を見て自らが優越感にひたるためか、自らの幸運を確認し安堵するためか、身内にかきたてられた同情や憐れみをもって己が優しさに酔うためか・・・。
 それもあるかもしれない。
 しかし、この作品が25年間というもの、これだけ多くの観客を魅了し、今もロングランを続けていることを思うとき、次のように結論せざるを得ない。

 苦悩こそが人間の魂の奥底を領する主人であり、苦悩こそがすべての人が理解し共感しうる最たる感情であり、それゆえ苦悩こそが芸術家が表現すべき第一のものである。

 もちろん、他人の幸福にも人は共感できる。人が喜びにあふれている姿を見ることは、嫉妬に駆られていない限り、一般に気持ちのいいものである。
 ただ、それは周りの者の心を深く揺り動かすだけの力は持っていない。人はどこかで幸福はつかのまのものだと知っているし、幸福な人は「ほっておけばいい」ので、人と人とを結びつける働きも弱い。
 一方、他人の苦しみは人を動かし、人と人とを結びつける働きをする。一つの同じ苦しみを通して人と人とが出会った時、人はお互いが「大いなる苦しみの生」という同じ条件下に投げ出されている同じ人間であることを知る。
 その悟りが、どういうわけか芸術家を使嗾(しそう)し、芸術表現を生み出させる衝動をよぶのである。

 クリスティーヌの無償の愛を受けて苦悩の癒されたファントムは、お得意の手品で持って、舞台から、我々の前から消え去る。
 否、我々ひとりひとりの胸の奥に還って、次なる蘇生の日まで眠りにつくのである。



● 映画:『レイク・マンゴー』(ジョエル・アンダーソン監督)

 2008年オーストラリア映画。

 家族と出かけた湖で行方不明となり、数ヵ月後に水死体で見つかった少女の死の謎をたどる物語。
 全編が記録による回想という体裁を取り、過去の出来事がすべてが終結した現在の視点から、さまざまな記録媒体を駆使して語られていく。テレビ、カメラ、カセットテープ、ホームビデオ、VHSテープ、携帯電話の動画・・・。録画や録音を通して、少女の謎はだんだんと明らかにされていくのだが、一方、記録することで生み出されていく「魔」がある。少女の霊が撮影されたテープに取り込まれていくのである。
 オーストラリアの美しい自然を写し取ったインサートショットを差し挟みながら、思春期の少女の心の脆さ、はかり知れなさをオカルティズムと融合しつつ、客観的に(記録ゆえに当然そうなる)淡々と描いていて好感は持てるのだが、肝心の少女の胸のうちが曖昧なままに終わっていて、いささか拍子抜けの感を否めない。少女が霊となって現れるのは、「家族に本当の自分の姿を知ってもらいたかったから」というドラマ内の説明がそのとおりであるなら、もう少し、少女の心が明かされる必要があろう。つまり、彼女に「何があったか」ではなくて、彼女が起こったことをどう感じ、どう思っていたかを。
 でないと、やっぱり「犬死に」という印象しか残らない。
 それとも、明かされなかった、家族に十分に理解されなかったがゆえに、最後のシーンに見るように、少女の霊は成仏することなく、屋敷に残ったということなのか。

 

評価: C-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

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