ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●  白鳥(レダ)の歌 本:『神話の力』(ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ著)

神話の力 アメリカの著名ジャーナリストであるビル・モイヤーズが、神話学の大家ジョーゼフ・キャンベルに、神話をめぐる様々なテーマについてインタビューする。裏表紙の解説に「驚異と感動の名著」とあるが、まさにその通り。人生でぜひとも読んでおきたい本の一冊と言っていい。しかも、読みやすく、面白い
 それだけのパワーを宿しているのは、なんといってもキャンベルの人間性が十全に引き出されているからであり、その点で聞き手としてのビル・モイヤーズの卓抜さ、そして二人の間にある信頼と親愛の深さを称え上げなければなるまい。この対談の翌年に83歳でキャンベルが亡くなっていることを思えば、これはまさに白鳥の歌なのである。


 神話とは何か。神とは何か。世界中にある神話の共通基盤は何か。神話によく出てくるテーマとは? 男の神と女の神との違いは? 神話の意義は? これからの神話の行方は? 
 神話学への興味から、こういった問いを抱えてぺーじをめくることもできる。むろん、キャンベルから適切な答えを得られるだろう。
 しかし、この本の類いまれなる意義は別のところにある。
 それは、「神話とは何か云々」とは別に、キャンベルという一人の人間が神話と人生とから何を学んだかが、驚くほどの率直さで語られていること。
 そう、キャンベルという人間こそが、キャンベルという個性において種を宿し、花開き、熟し、見事に結実した思想とその言葉のきらめきこそが、読み手を惹きつける。

 思わず線を引いたキャンベルの言葉。(赤字はソルティのコメント)


○ 人々はよく、われわれみんなが探し求めているのは生きることの意味だ、と言いますね。でも、ほんとうに求めているのはそれではないでしょう。人間がほんとうに求めているのは<いま生きているという経験>だと私は思います。純粋に物理的な次元における生命経験が自己の最も内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きている無上の喜びを実感する。それを求めているのです。
 
 たしかに、<いま生きているという経験>の最中には、人は決して「生きる意味」なぞ問わない。たとえば、震災や戦火に見舞われているようなとき。たとえば、恋愛の真っ直中にいるとき。


○ あらゆる神話は限界領域内の特定の社会で育ってきました。それからそれは他の神話と衝突し、相互関係を持ち、やがて合体して、より複雑な神話になるのです。でも、現代は境界がありません。今日価値を持つ唯一の神話は地球というこの惑星の神話ですが、私たちはまだそういう神話を持っていない。私の知るかぎり、全地球的神話にいちばん近いのは仏教でして、これは万物に仏性があると見ています。

 「万物に仏性」は大乗仏教の謂いだ。仏教が人間だけでなく「生きとし生けるものすべて」に対して慈悲喜捨を持つよう説いているのは確かである。

○ 個人の成長―依存から脱して、成人になり、成熟の域を通って出口に達する。そしてこの社会との関わり方、また、この社会の自然界の宇宙(コスモス)との関わり方。それをすべての神話は語ってきたし、この新しい神話もそれを語らなくてはなりません。

 「大人とは何か、成熟とは何か」―そこが曖昧で不透明になってしまったのが、いまの日本社会である。成長についての新しい神話(物語)が必要なのかもしれない。


○ 生はその本質そのものと、その性格において、恐るべき神秘です。殺して食うことによって生きるという、この生きざまのすべてが。しかし、多くの苦痛を伴った生に対して「ノー」と言うこと、「そんなものはないほうがよかった」と言うのは、子供っぽい態度です。

 ブッダが喝破したように「生きることは苦であり、すべては無常」である。その認識の次に、「では、どう生きていくか」が来る。ナチスのユダヤ人強制収容所を生き延びたヴィクトール・V・フランクルの著作『それでも人生に「イエス」と言う』を思い起こす。


○ もし自分の至福を追求するならば、以前からそこにあって私を待っていた一種の軌道に乗ることができる。そして、いまの自分の生き方こそ、私のあるべき生き方なのだ・・・・・。そのことがわかると、自分の至福の領域にいる人々と出会うようになる。その人たちが、私のために扉を開いてくれる。


 これぞ精神世界の黄金律。


○ 英雄はなにかのために自分を犠牲にするーこれがその倫理性です。一方、別の見方からすれば、その英雄が自らを捧げた思想が許し難いものだということだって、もちろんあります。相手側の立場から判断すればそういうことになる。が、だからといって、なされた行為に本来備わっているヒロイズムは損なわれません。

 伊藤博文は日本人にとって英雄だが、韓国人にとっては極悪人。彼を暗殺した安重根(アン・ ジュン・グン)は抗日運動の英雄である。


○ 私たちの意識は、自分こそ万事を取りしきっていると思っていますね。しかし、そうじゃない。意識は人間全体の中では二次的な器官であって、それが主人になってはいけないんです。意識は肉体を備えた人間性に従属し、それに仕えなければ。もし意識が支配者になってごらんなさい、意識して政治的意図だけで生きるダース・ベーダーみたいな人間になりますよ。

 ここでいう意識とは、「自我」または「思考」のことだろう。前野隆司『脳はなぜ心をつくったのか』を想起した。(→ブログ記事。http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4973785.html )

○ いきいきとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。人々は、物事を動かしたり、制度を変えたり、指導者を選んだり、そういうことで世界を救えると考えている。ノー、違うんです! 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです。

 「生きた世界ならば、どんな世界でもまっとう」
 これはすごい文句だ。近代的進歩主義価値観をひっくり返す。我々は、つまり、どんな瞬間でもすでに完全な世界に生きているし、生きることができる。自分がいきいきと生きさえすれば。


○ 最終的には人生は偶然で成り立っている。例えば、あなたの両親が出会ったことも! 偶然、あるいは偶然のように見えるものを通して、はじめて人生は理解できる。そこでの課題は、責任を追及したり説明したりすることではなくて、立ち現れてきた人生をどう扱うかということです。


○ 西洋の伝統の最善の部分には、生きた実体としての個人を認め、それを尊重することが含まれています。社会の役割は個人を啓発することです。逆に、社会を支えるのが個人の役割だという考えは間違っています。 


 「あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」(1961年ジョン・F・ケネディの大統領就任演説)


私は生に目的があるとは信じません。生とは自己増殖と生存持続の強い欲求を持った多く  のプロトプラズムにほかなりません。(モイヤーズ:まさか・・・・・まさか、そんな。) ちょっと待ってください。純粋な生は、ひとつの目的を持っているとは言えません。まあ見てごらんなさい。生は至るところで無数の違った目的を持っているんです。しかし、あらゆる生命体(incarnation)は、ある潜在能力を持っており、生の使命はその潜在能力を生きることだ、とは言えるかもしれません。そのためにはどうすればいいか。私の答えは、「あなたの至福を追求しなさい」です。あなたの無上の喜びに従うこと。あなたのなかには、自分が中心にいることを知る能力があります。

 プロトプラズムとは、細胞の中の原形質のこと。「生きることに目的はない」というキャンベルの衝撃的な言葉に、ビルが一瞬絶句するところが面白い。そのあとに、「生には使命がある」と続く。これまた、下記のフランクルの言葉と相通ずる。

 「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。「人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している」からです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
(『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル/山田邦男、松田美佳訳、春秋社)


 これ以上、何も言うことはない。
 あたかも、インドのグルか、禅の師か、『スター・ウォーズ』のオビ=ワン・ケノービーのような含蓄ある言葉の数々。
 折に触れ、繰り返し手にとって、再読したい本である。








● 本:『男おひとりさま道』(上野千鶴子著、法研)

男おひとりさま道 男も女も年を取ったら同じ。肉体も頭脳も衰えるし、社会的な役割も失っていく。孤独も死の不安も同様にある。ようやっと、訪れた男女平等。
 と言いたいところだが、やはりジェンダー差が歴然とある。

 姉妹書(兄妹書?)の『おひとりさまの老後』と比べて読むと、つくづく「男」がひとりきりで年を取るのは難しいと感じる。
 経済的な面では、一般に現役時代から収入の多い男のほうが有利かもしれないが、それ以外の面で、男が女に勝てるものはほぼない。勝つとか負けるとか言っている時点で、己が男たるゆえんか(笑)。

 しかし、冗談ではない。
 現役時代、仕事ひとすじで来て家庭のことはすべて妻にまかせてきた男が、定年退職したあと、妻に離婚あるいは死別されたら、どうなるか。
① 家庭のことができない。掃除も料理も洗濯もままならない。
② 人間関係を失う。仕事以外の人間関係を築いてこなかったツケが回ってくる。今から友達を作ろうにも作り方がわからない。続かない。
③ やることがない。仕事一筋で趣味もなければ、「毎日が日曜日」は、日々退屈地獄となる。
 
  その上、娘や息子らとも疎遠になっていたら、病気に冒されたら、下手すると「ゴミ屋敷で孤独死」もあり得る。
 そうならないようにするにはどうしたらいいか。
 痒いところに手の届くように、具体的に懇切丁寧に指南してくれるのが、この本である。


 いまどき離婚するカップルは珍しくないし、どんなに仲の良い夫婦でも同時に死ねるわけではない。妻のほうが先立つこともざらだ。再婚という手もあるけれど、それ相応の財産と人間的魅力とがなければ、男やもめに来てくれる女性を見つけるのは難しいだろう。そうなると、「年老いて男ひとり」は避けられない。でなくとも、自分みたいに非婚シングルのまま年を取る男もこの先どんどん増えるだろう。
 男が「おひとりさま」で生きていく、生きられる技術を身につけておくのは必須と言えよう。


 著者の提唱するメニューの中で、面白いと思ったもの。


1.「おひとり力」をつける。

 これは、ひとりでいることがちっとも苦にならず、むしろ至福を感じることができる能力。そのためには、一人きりでも楽しめる趣味や娯楽やライフワークを持つことが鍵である。
(自分の場合、おひとり力はかなりのポイントだと思う。一人でできる趣味ばっかり持っている)


2.弱さの情報公開

 本文から。

 男が女とちがうのは、同じくらい弱いのに、自分の弱さを認められない、ということだ。弱さを認めることができない弱さ、といおうか。これが男性の足をひっぱることになるのは、老いるということが、弱者になることと同じだからだ。 

 そう。自分の弱さを認められなければ、他人に「ヘルプ」と言うことができない。いざというときに助けてもらえない。「強い」男を演じ続けるのも大概にしなければなるまい。

3.友人を作るなら「選択縁」


 選択縁とは、血縁でもなく、地縁でもなく、社縁でもない、自ら選べる縁。

 (選択縁は)志や教養、趣味、思想信条、ライフスタイル、学歴や経済水準などで、あらかじめスクリーニングされているから、打率が高い。よりすぐりの釣り堀のなかで、気の合う相手を選べばよい。 

 
 要は、趣味の友達であったり、ボランティア仲間であったり、同じ宗教の徒であったり。
 言うまでもなく、そうした縁につながるよすがをある程度若いうちから持っていることが有利となろだろう。五十の手習いはものになるが、七十の手習いはなかなか厳しそうだ。
 そして、選択縁づきあいに成功するための「七戒」というのが白眉である。

 その1 自分と相手の前歴は言わない、聞かない
 その2 家族のことは言わない、聞かない
 その3 自分と相手の学歴は言わない、聞かない
 その4 おカネの貸し借りはしない
 その5 お互いに「先生」や「役職名」で呼び合わない
 その6 上から目線でものを言わない、その場を仕切ろうとしない
 その7 特技やノウハウは相手から要求があったときだけ発揮する

 なんだかまるで「オタク」の交流ルールみたいである。オタク男には結構楽しい老後が待っているのかもしれないな~。
 この七戒がわざわざ披瀝されるのは、「男」が他人とのつきあいにおいて思わずやってしまう過ちが、この七つの反対の行動ということだ。
 ご同輩よ、気をつけよう!

 
 著者にとって、男が良いおひとりさまの老後を過ごそうと思うのなら「男」の鎧を脱ぎ捨てなさい、つまり「男を下りる」に限る、ということになろう。
 確かに、「下りた」ところで、金玉がついている以上、男は男にかわらないのだ。それがもはや役に立たないものであったとしても・・・。
 筋金入りのフェミニストの面目躍如たる結論だとは思う。男の幸福を願う著者の愛も感じる。

 けれど、バカは死ななきゃ治らないっていうからな。

 バカのまま死ぬのも「おひとりさま道」と覚悟するのもありだろう。


● 「男」という綱渡り 映画:『王の男』(イ・ジュンイク監督)

王の男 2005年韓国映画。

 16世紀の李氏朝鮮の宮廷が舞台のいわゆるコスチュームプレイ(歴史劇)。
 壮麗にして広壮な宮殿、豪華絢爛な調度の数々、目もあやなる衣裳。
 そこにうずまく嫉妬と陰謀と秘密。
 しかも、なにやらボーイズラブ的な、ジュネ的な、薔薇族的な、「組合」的な匂いが立ち込めて・・・。
 と来たら、おのずから期待せざるを得ない。

 一刻も早く観たいと思いながら、こんなにも見逃し続けたのは、昨今の韓流ブームのせいである。ドラマも歌もフィギアスケートも「韓国、かんこく、カンコク」の嵐なので、正直辟易しているのである。昨年の紅白の出場歌手もやたら韓国グループが目立っていた。在日出身の日本人歌手を含めたら、相当数の出場者が朝鮮系だったのではないだろうか。
 芸は韓国なのか?

 さて、この映画、韓国で大ヒットという評判を裏切らず、非常に面白かった。
 役者の魅力、キャラクターの魅力、舞台背景の魅力、映像の魅力、ストーリーの魅力があいまって、物語世界にすっかり入り込むことができた。
 映画というのは、莫大な金のかかる、無くてもいいような娯楽の最たるものだから、それにこれだけの人的・物的・精神的投資ができる現在の韓国のパワー、勢いを感じざるを得ない。

 この映画の最大の魅力は、コンギル(イ・ジュンギ)というキャラクター設定にある。
 美しく、やさしく、芸達者で、一見弱々しく、周囲の、とりわけ男達の庇護欲をそそる女形芸人。若かりし美輪明宏か玉三郎か。マツコデラックスってことは間違ってもない。
 コンギルをめぐる二人の男、幼馴染で芸の相方のチャンセン(カム・ウソン)と、第10代朝鮮王朝国王のヨンサングン(チョン・ジニョン)の「恋のさやあて」こそが見ものである。
 と言っても、そこに肉体上の同性愛はない。コンギルは、食べるためか、快楽のためかは問わず、男と寝ることができる男である。真性の同性愛者と言っていいだろう。(性同一性障害かもしれんが・・・・)
 しかるに、チャンセンもヨンサングンも同性愛者ではない。二人の男ともコンギルと添い寝こそするけれど、男と女のようにして愛し合うシーンはない。これは何も韓国の映倫コードのためではないだろう。二人がコンギルに求めているものは、男が「女」に求めているものとは違うのである。
 肉体的な関係を介在しない、プラトニック(文字通りプラトン的)なものだからこそ、それぞれの男のコンギルへの恋慕は、それぞれにとって他と代えがたい貴重なものとなり、互いの嫉妬は大っぴらに口に出せない性質のものであるがゆえに厄介なものとなる。
 この複雑な様相は、コンギルの位置に普通の「女」を持ってくると明白になる。
 コンギル(役の設定)がチャンセンの妻だったら、妹だったら、恋人だったら、物語はもっと単純に理解され、二人の男の心理も手に取るように観る者に読み取られるだろう。
 ただ、その場合、映画自体は感動的かもしれないが、ありきたりなものとして、たいした印象は残さないであろう。夫婦愛、兄妹愛、男女の愛、そこには何も新しいものがない。男は「男」としてふるまい、女は「女」としてふるまい、一人の女をめぐる二人の男の攻防があるだけ。

 コンギルが「男」であることによって、この物語は「恋愛もの」から「男を問う物語」へと変貌している。
 狂うほど慕う相手が「女」だったら、「男」はあたりまえに伝統的な「男」のままである。相手が女形とは言え、まぎれない「男」であるがゆえに、チャンセンとヨンサングンのそれぞれの「男」が問いかけられ、揺さぶられ、あばかれる。コンギルは、「男」という固い砦に投げ込まれた時限爆弾みたいなものなのである。
 その結果、ヨンサングンは自らの孤独と悲しみと内に押し殺した怒りとに向き合い、それを発散せざるを得なくなった。暴君の誕生である。
 一方、チャンセンはコンギルとの間に長年育みつづけ、王によって引き裂かれたことで初めて認識が迫られることになった名状しがたい感情を、「芸」という共通する生きがいによって昇華させる。
 クライマックスシーンで「生まれ変わっても芸人になりたい」と絶叫する二人の真意は、「生まれ変わってもお前と一緒になりたい」にほかならない。

 三人の「男」が微妙なバランスを保ちながら、ぎりぎりのところで「男」を演じていく。その緊迫感と怖いもの見たさとが、強烈な磁力を生んで観る者を呪縛する。あたかも、映画の最初と最後に出てくる綱渡りのシーンのように。



評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● 怒りと欲 本:『怒らないこと2』(アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ発行)

 怒らないこと2012年最初に読んだ本。

 自分もかなりのスマナファン、もといブッダファンであるのは認めるにやぶさかでない。

 この本はベストセラーとなった『怒らないこと』の続編であり、この本自体もベストセラーとなった。
 そのことにちょっと驚いた。
 スマナ長老のいずれかの著書が遅かれ早かれベストセラーリストに載るであろうことは予想していたが、それが『怒らないこと』であるとは思わなかった。
 世の中の人は、それほど日々「怒って」いるのであり、怒る自分を「どうにかしたい」と思っているがゆえのベストセラーなのであろうが、周囲がそんなふうであるとは思っていなかったのである。
 一昔前は、路上でも電車内でも飲み屋でも顔を真っ赤にして怒っている人、声を荒げて喧嘩している人を頻繁に見かけたものであるが、ここ最近目にすることがほとんどなくなったし、職場を含む自分の周囲で感情をむき出しにして怒る人も少ない。引きこもりがちな自分の生活のせいもあろうが、日本人はよく言えば「冷静に、我慢強く、おとなしく」、悪く言えば「無感情に、内向的に、臆病に」なっているように思われる。
 なによりも自分自身、最近ほとんど「怒った」という記憶がない。

 愚痴を言う、ケチをつける、皮肉を言う、批判する、イライラする、ムッとする、あきれる、ということは多々ある。これらも、もちろん「怒り」には変わりない。が、自分の中で抱えきれなくなるほどの感情には肥大しない。直接的にその原因となった対象に向かって、感情的なふるまいとなって跳ね返ることもない。暖炉に花瓶を投げつけたスカーレット・オハラや、ちゃぶ台をひっくり返した星一徹がよほど新鮮である。
 自分の中に怒りをため込んで、便秘状態になっているのに、そのことにすら気づいていないのかもしれない。いや、もっと悪いことに、行き場のない怒りのエネルギーが自己破壊に向かっている可能性だってある。
 くわばら、くわばら。

 大体、昔から他の人が「怒り」を感じるような場面で「哀しみ」を感じることの方が多かった。
 また、怒ってもそれが長続きしない。怒りの感情を自分の中に持ち続けている気分の悪さに自分自身が参ってしまうからだ。復讐や敵討ちは自分には向かない。愛する家族を殺害された遺族が、犯人の死刑を求めて、何もかも投げ打って残りの人生をかけて闘いに身を投じる姿は、無理もないと思うし、事件の真相と犯人への適切な処遇を求めることには大いに同感するけれど、怒りという原動力でそれをやり続けることは自分にはおそらくできないだろう。
 怒るのにも才能があるのかもしれない。

 自分にとって問題の多いのは、いつでも「怒り」よりも「欲」であった。
 欲に振り回されて、ずいぶん人生を棒に振ってきたと思う。まあ、「人生とは結局、欲に振り回されることである」と言えないこともないが・・・。

 であるから、この本の中で、スマナサーラ長老がこう述べているのにヒヤっとさせられた。

 「怒り」のバージョン違いに「欲」というものがあります。「苦」を感じると「怒り」が起こりますが、そのとき、「これがなくなってほしい、こうなってほしい」と希望します。この「ほしい」に焦点のあたった感情が「欲」です。
 たとえば、お金がない状態でいるとします。「なんでお金がないんだ」と思っているあいだは怒りの感情です。それが、「大金持ちになりたい」というふうに先を意識すると「欲」になります。今の状況・現実に焦点をあてると「怒り」です。その現実がなくなった状況を妄想すると「欲」です。現在を見るか、将来に期待するかという差で、怒りか、欲が生じるのです。

 つまり、自分には「怒り」が少ないのではなくて、「怒り」が「欲」に変じているだけということだ。しかも、現実を見ていないというおまけまでつく。
 う~む。とすると、「怒り」を長く抱えていられない性分が、かえって「欲」を強めているのかもしれん。

 新年早々のショック。




● 映画:『戸田家の兄妹』(小津安二郎監督)

 0121941年松竹映画。

 まずは音の悪さにがっかり。
 古いフィルムだから仕方ないのだが、こうしてみると、映画という表現形式は文学や音楽にくらべると、非常に脆いものであることが知られる。
 文字や楽譜は新たに書き写して、作品を元通りに再現することができる。作品そのものが失われる心配はまずない。絵画や彫刻や建築物も時の浸食を受けやすいけれど、フィルムの方が脆弱性では勝っていよう。500年前の絵画は今も残っていて鑑賞することができるけれど、わずか60年目のフィルムでさえ、途中で観るのを止めようかと思うほどの劣化ぶりである。
 もちろん、現在では作品をきれいなままデジタル化して保存もコピーもできるようになった。けれど、DVDは電気がなくなれば単なる円盤に過ぎなくなる。

 とは言え、やはり小津映画。観る価値は十分にある。
 構図の見事さ、日本家屋や女性の着物姿の美しさ(それをもっとも感得させるのが葬儀のシーンであることは奇妙である)、人の消えたショットの含蓄ぶり、セリフ回しの品の良さ、家族内で起こるちょっとしたすれ違いにドラマを生み出す冴えた演出(高峰三枝子演じる三女が、義姉に夜ピアノを弾くのを止めるよう頼みに行くシーンなど、凡百のサスペンス映画が吹っ飛ぶほどのドキドキ感がある)。8年後の『晩春』から始まる小津絶頂期の序章をここでは確認することができる。

 あらすじから言っても、この作品は『東京物語』(1951年)の雛型であろう。
 名士であった夫の急死と共に屋敷を失った後、肩身の狭い思いをしながら娘や息子の家を転々とする年老いた妻(葛城文子)と三女(高峰三枝子)。その不憫な姿は、『東京物語』の上京した老夫婦(笠智衆と東山千栄子)の姿に重なる。
 長男の家でも長女の家でも厄介者扱いされて、行き場を失った二人は、『東京』では熱海の旅館に、『戸田家』では鵠沼の荒れた別荘に追いやられる。二人に親切にする唯一の人間として、『東京』では原節子演じる義理の娘の紀子、『戸田家』では佐分利信演じる次男昌次郎とが配される。
 『戸田家』では、母と娘は、昌次郎と共に大陸で暮らすことに決まり、ハッピーエンドとなるが、それだけにそこに至るまでの他の兄妹の邪険な仕打ちは無情に描き出される。父親の一周忌に集まる兄妹の面々を非難する昌次郎の矛先も容赦ない。親の恩を忘れ、年老いた親を大切にしない身勝手な子供たちに対する小津監督自身の怒りが爆発している感がある。戸田家の兄妹たちが名門を鼻にかけていることも怒りを増幅する効果がある。
 一方、『東京』はどうだろう?
 設定こそ似ているが、ここでは最早、身勝手な娘や息子に対する怒りはほとんど感じられない。『戸田家』と違い、一族が日々の生活に追われる庶民であることにもよるが、子供には子供の生活があり、家庭があり、仕事があり、日々の雑事がある。そんな中、親の居場所はつくりたくてもつくれないのである。決して恩知らずなわけではない。老夫婦に親切な紀子が、戦争で夫を亡くした寡婦であり、子供の持たない身であることは、偶然ではあるまい。新しい自分の家族を持つことは、生まれ育った古い家族を捨てることなのだ。

 すべて動物は我が子の面倒を見るようプログラミングされている。それは種の保存に関わる本能である。
 しかし、自分を生み育ててくれた親を死ぬまで面倒を見る動物はいない。それはそもそも本能に書き込まれていない行為なのである。
 唯一、人間だけがその行為をやることができる。本能でなく、文化として位置づけたことによって。(もちろん、愛も感謝も恩も義理も文化である)

 『戸田家』ではこうした一つの文化が時代と共に失われていくことを嘆き憤った小津が、『東京』ではある種の諦観と受容において映画を撮っているように思える。
 それとともに、『戸田家』ではほとんどない自然描写が、『東京』では頻繁に取り入れられる。生いること、老いること、別れること、死ぬこと。あたかも、人間も自然も同じ宿命のうちにあると達観しているかのように。

 文化が壊れていくことの焦りと憤りは、わずか12年の歳月を経て、哀しみと諦念に変わった。
 1941年から1953年。
 その間に小津監督自身に何があったかは知るよしもない。
 何が日本にあったかは言うまでもない。



評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 子供には勧めたくない:岩殿山(634m)から稚児落し

岩殿山 006●12月23日(金)晴れ

●ルートとタイムスケジュール
09:30 JR中央線・大月駅着
      歩行開始
10:40 岩殿山頂上着
      休憩
11:10 岩殿山出発
12:50 稚児落し着
      昼食
13:30 下山開始
14:10 富士急都留中央バス乗車
      歩行終了
14:15 大月駅着

●所要時間 4時間40分(=歩行3時間30分+休憩1時間10分)


 大月駅の近くにいかめしく構える異様な岩山。
 山頂からの富士山がすばらしいというので、一度は登ってみたいと思いながら、容易に人を寄せつけないオーラーを発している岩殿山。さすが、戦国時代に要塞堅固な城として名を馳せただけある。 
 
 前回は通常のルートとは逆からせめてみて、途中山道に迷ってさんざんな目にあった上、結局岩殿山まで辿り着けなかった。今回は、正攻法、岩殿山から稚児落しのコースをとった。

 岩殿山は階段が整備されているし、木々も少ないので、山登りという感じはしない。大月市街を見下ろしながら、ひたすら段を上り、高度を上げていく。

岩殿山 001 山頂からの景色は評判通り。
 ほぼ360度、山々が大月市を囲んでいる様が確認できる。平野が帯のように細くなって遠のいていく先には、山々を従えた富士山がひときわ高く空中に浮かんでいる。
 雲が多く、壮麗にして高貴なお姿をなかなか見せてくれなかったが、待っていたら、一瞬、幻のように全容が垣間見られた。

 富士山をかくまで貴くしているのは、どんなに近いところからでさえ、いつも必ず姿が見えるわけではないというところにある。
 前に、富士山の裾野にある公営施設で研修をしたときのこと。前日の午後に宿舎に入ったとき、霧でまったく周囲の景色が見えなかった。翌朝、起きて窓の外を見たら、真ん前に完璧な富士山が視界に入りきらぬサイズで出現していた。

         岩殿山 002


 山頂は陽がよく当たりポカポカして気持ちいい。ここで昼食にしたいところだが、我慢我慢。
 ここから稚児落しに向かう道がわかりにくい。表示が目立たず、最初は反対方向に歩いてしまった。
 前回も感じたが、どうも稚児落しへの道標が不親切である。大月市はなんとなく稚児落しへの登山者・観光客の入山を抑えたいと考えているのではないか、と思ってしまう。(その気持ち、わからなくもない)

岩殿山 003 やっと道を見つけて、築坂峠を経て、鎧岩に。
 ここの岩場は、手に汗握るスリルが味わえる。
 手すりやロープや鎖などがちゃんと張り巡らされており、登るのには苦労しないよう整備されてはいるが、足下は切り立った崖である。気を抜いて足を滑らせると、岩壁からまっさかさまに転落する危険がある。
 マジこわい。ここでのおふざけは禁物である。

 鎧岩から延々と尾根を歩く。
 片側(左手)は遮るもののすくない素晴らしい景色が続く。
 いい加減に休憩がほしくなった頃に、一登りで、いきなり稚児落しの大絶壁が現れる。
 面白いことに、稚児落しの大絶壁は、稚児落しに至るまでは視界に入らない。そして、稚児落しを離れるとすぐに視界から消えてしまう。稚児落しにいるときだけ、その驚くべき凄絶な景観が現れるのだ。
 おそらく、大月市のどこかの平地からこの大絶壁が口を開けているのが見えるはずである。(大月駅周辺からは見えない。) 下から見たらどう見えるのか、いつか確認したいものである。 
 
岩殿山 005 大月市に向かい西から南へ、垂直に切り立ったL字型の凄絶な岩壁。
 上からのぞくのにも勇気がいる。
 しかも、崖の突端には手すりも安全ロープも防護柵もない。足を滑らせたら、間違いなく一巻の終わりである。
 ここなら飛び降り自殺も容易だろう。

 「よく、こんなところが、こんな状態のままで、さらしてあるなあ~」

 驚きとも感心ともつかない感嘆の念が上がる。
 普通、転落防止のため、景色を妨げるいろいろな手すりだの、柵だの、安全ロープだの、警告板だのが、置かれてしまいそうなものである。それがいっさいないところが気持ちいい。
 その意味でも、あまり小学生や中学生などに来てほしくない。
 子供が来るようになったら、PTAが騒ぎ出し、この無防備な景観が瞬く間に工事現場みたいに殺風景になってしまうだろうから。
 稚児落とし子供(稚児)は来ないで(落し)。

 このまま知る人ぞ知る絶景のままであってほしいものだ。  
 

●  映画:『帰らない日々(Reservation Road)』(テリー・ジョージ監督)

 2007年アメリカ映画。

 目の前で息子を轢き逃げされた父親と、轢いた父親。
 被害者と加害者をめぐる物語である。
 加害者を目撃した者はおらず、車のナンバープレートも読まれず、現場には確たる物証も残っていない。
 このままなら、この二者が出会うのは難しかったであろう。

 運命のいたずらか、警察の犯人捜しに失望した被害者イーサン(ホアキン・フェニックス)は、弁護士に事件の捜査を依頼する。
 その弁護士こそが、加害者ドワイト(マーク・ラファロ)であるとも知らずに・・・。

 こうした異様な設定の中で、鏡のように向かい合う二人の父親(被害者と加害者)の心理が丁寧に描き出され、事故後のそれぞれの家族とのやりとりや関係の変容する様がドラマを深めてゆく。
 どの演技者も達者であり、登場人物のそれぞれの行動には説得力があり、全体に見ごたえのあるドラマとなっている。
 心の綾を丁寧に描くだけで、十分いい映画になりうるという見本である。
 濃密な時間が過ごせた。

 ひとつだけ気になるのは、画面が暗すぎること。
 夜のシーンが多いのだが、画面が暗すぎて目を凝らさなければならないので、疲れてしまう。
 「夜は暗いのが当たり前」ではなくて、暗さが必要なシーンと、そうでないシーンとで、もっと工夫して明るさにメリハリをつけてくれれば、まだ我慢のしようもあるのだが・・。
 なんだか全体的に暗い。
 話の暗さを、画面の暗さによって保障する必要はないだろうに。


 「光が強いほどに影も濃い」って、月影先生も言ってたぞ。(from『ガラスの仮面』)



評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

●  枝に座ってその枝を伐採することはできない 講演:『嫉妬しないこと 誰かの美徳を喜ぶこと』(講師:アルボムッレ・スマナサ-ラ)

代々木からの富士山 12/18開催、テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
 最近は満席続きで、予約必須になっている盛況ぶり。
 代々木のオリンピックセンターの窓から見える夕映えの富士山がきれいであった。

 いくつか心に残った言葉を羅列する。
 
○ 嫉妬は怒りのあまたある顔の一つ。自分の無能に対する怒りが「嫉妬」。一方、自分の失敗に対する反抗が「後悔」。

「枝に座って、その枝を伐採することはできない」
 貪瞋痴(どんじんちー欲、怒り、無知)も煩悩も心の本能(土台、精神的基礎)なので、そもそも「自我」がそれらを無くすことは無理な話。「自分」で「自分」を治そうとすることは誤り。

○ 貪瞋痴は心の本能であっても、常にいっぺんに機能するわけではない。状況によって悪い面が表れる。しかし、繰り返し同じ感情が起こると、心はそれに慣れてしまい、「性格」となる。

○ 欲や怒りが成長や発展の起爆剤となるというのは邪見。

○ 嫉妬の解毒剤は「喜び(ムディター)」
 他人を観察して自分の中に「喜び」が生じるように、敢えて、おのれの見方にバイアスをつけるのがコツ。これは「常に喜びや楽しみを求めている」という生命の法則にかなっているので、「正思惟」である。

○ 嫉妬を解毒する「美徳発見の探検」のやり方
1. 自分が気に入っている相手を何人か選ぶ。(性欲や愛着を起こすような相手は避けること)
2. その生命の善いところ(美徳、長所)を思い浮かべ、心の中で微笑んでみる。
3. その相手がもっと幸せになったらいいなあと思う。
4. 短所は無視する。長所を拡大する。相手が喜びを感じることを調べて共感する。


 いつもながら、明快で、歯切れ良く、ユーモアに縁取られた講演であった。
 不思議なことには、いつも、自分がまさに今抱えている問題や疑問に対する答えが示されるような気がするのである。まるでスマナ長老が自分の状況を透視しているかのように・・・。

 ところで、「生きることは苦」「すべては無常」という鉄壁の法則をとことん悟るためにテーラワーダ仏教徒は修行しているわけであるが、これと上記の「生命は常に喜びや楽しみを求めている」という法則は一見矛盾する。

 この矛盾を解く鍵こそ、「無知」であろう。
 生きることは本来「苦」にほかならないのに、そのことに気づかない、そのことを認めたがらない。それゆえに、生命は喜びや楽しみを求める。そもそも、喜びや楽しみを求めるということ自体が、「生=苦」のまぎれもない証拠であるのだが・・・。

 無知により仮りの喜びや楽しみを求める人々に、あえて共感し、その喜びの成就を願う。自分自身はそれが「苦」であり「無常」であると認識していても・・・。


 それが「慈悲」なのだろうか。 


● 映画:『パーフェクト・ゲッタウェイ』(デヴィッド・トゥーヒー監督)

 2009年アメリカ映画。

 タイトルが良くない。
 というか、これは原題なので仕方ないとしても、なぜ適当な邦訳をつけないのだろうか。
 ミラ・ジョヴォヴィッチ主演をいいことに、『バイオハザード』のようなSFアクションと勘違いさせる為か。
 『とんだカップル~血塗られたビーチ』なんてのはどうか?
 『欺かれたハネムーン』は?
 『殺楽園』は?・・・。
 
 途中までかったるい。
 奇跡のように美しいハワイの風光明媚がなければ、とても見続けられない。
 ある一点を境に、物語が逆転し、驚くのもつかの間、あとはジ・エンドまで一気呵成のスリラー&アクション。
 見終わったあとに、もう一度最初から一つ一つのシーンを確認したくなること請け合い。主役二人のせりふの掛け合いや表情、彼らの一つ一つの行動とその理由などを確認する楽しみが待っている。
 すると、なるほどうまいこと作られているなあ~、と感心する。

 レオナルド・デカプリオの『シャッター・アイランド』同様、語りそのものがトリックという点で、アガサ・クリスティの有名な戯曲を想起した。
 しかし、トリックをのぞいたら、凡庸な作品。
 


評価: C+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

●  高野山・南山進流馨明コンサート:「馨奏一如」

 12月8日、みらい座いけぶくろ(豊島公会堂)にて。
 
 声明とはお経に節をつけたもの。空海が伝えた真言声明、最澄が伝えた天台声明のほか、各宗派で伝統的に受け継がれてきた声明がある。
 当日パンフレットによると、声明と音楽の共演は本来珍しいものではなく、東大寺大仏の開眼供養会(752年)において、一万人の僧侶が雅楽や伎楽と共に声明を披露したという。しかし、近年の仏教寺院は音楽を閉め出してしまったので、今回の「馨奏一如」はまさに声明が本来持つべき音楽的原点への回帰なのである。

 高野山と題したところからわかるように、今回の声明は真言宗の法会の形式を軸としたものである。全国から集まった真言宗の僧侶たちが唱える声明と、二胡や尺八や箏や和太鼓といった伝統楽器、ギター、パーカッション、キーボードといった現代楽器とのコラボレーションである。

 結論を言うと、読経本来が持っている力―清らかさ、荘厳さ、ありがたさ、凛とした美しさ、空気を震わせ場を浄化する力など―の大半が失われてしまい、代わりにオーケストラを聴いているかのような音楽的壮麗さ、重層性、華やかさ、迫力があった。声明か音楽か、という点では音楽の方が勝っていた。というより、全体に音楽としての出来映えを優先したのではないかと思う。そこでは声明もまた、楽器の一つにすぎないという感じであった。
 これは監修者(山崎篤典)の考えなのかもしれない。声明を唱える僧侶たちが若年ばかりであったことによるのかもしれない。(たしかに、音楽をつけない声明だけを聞くと、若いだけに張りのある声は気持ちいいのだが、心境の深さようなものは感じられなかった。) あるいは、鋭角的な強い響きを持つ現代楽器に引きずられてしまうせいなのかもしれない。
 個人的には、もう少ししっかり声明そのものを聴きたかった。
 しかし、プログラムのメインを飾った「般若心経」などは、もともとのお経そのものがきわめてリズミカルで歯切れ良く、また構造もダイナミックで呪文というクライマックスも用意されているので、そういった特徴が音楽との融合により増大される結果となり、華々しい効果が見られた。

 客席は高齢者が圧倒的。

 自分の精神はすでに老後にいるのか。



● 本:『反社会学講座』(パオロ・マッツァリーノ著、ちくま文庫)

002 最近読んだ本の中で、最も面白かった。

 「反社会・学」―つまり、テロリズムや極道やアナーキズムやソーローの『森の生活』的社会離脱のすすめとか、そういった類いの本かと思って手に取ったら、「反・社会学」なのであった。
 うさんくさい統計や怪しげなアンケート調査を手がかりに社会問題を提起し、具体的な解決への道筋も方策も示さないままに無責任な悲観論を繰り広げるのをこととする社会学、そして社会学的手法によってもっともらしいウソの要因を捏造し、自分にとって都合の悪い真の原因から世間の目をそらせようとするスーパーペシミスト(スーペー)に対する反旗ののろしなのである。

 まな板にのせられるテーマは、だから、世間一般的にもっともらしく聞こえ、思わずうなずいて賛同してしまいかねない言説ばかりである。曰く、
 
○ 昨今、少年凶悪犯罪が増加している。
○ 日本人は勤勉な国民である。
○ 欧米の若者は自立している。
○ 読書にはすばらしい効用がある。
○ 人と人とのコミュニケーションやふれあいが大切である。
○ 少子化により労働力が減り、日本経済は破綻する。
○ 少子化により年金制度は破綻する。
○ イギリス人は立派で日本人はふにゃふにゃ。
○ パラサイトシングルやフリーターやひきこもりの増加が、日本をダメにする。 

 こういった言説の一つ一つを、論拠とされている統計の不備や欠陥をあばき、情報を流す者によって半ば意図的に隠されているデータ(特に海外の実態)を添えることによって、あれよあれよとひっくり返していく。そのやり方が、「正義感に燃えて」とか「怒りにうち震えて」とかではなくて、ちょっと毒を聞かせたユーモアで、日本人読者のプライドを傷つけかねない棘をやわらかく包みながら、時には爆笑させ、時にはニヤっと苦笑させながら、すいすいと運んでいくところがニクイほどうまい。

 自分もさまざまな日本の制度や風習の欠点を指摘するときに、つい「欧米では~」とやってしまいたくなることがある。文明開化以来日本民族に刷り込まれた欧米賛美、というか欧米コンプレックスが、敗戦後のアメリカ文化洗脳でさらに拍車をかけられて、心の中に根付いているのだろう。
 自戒、自戒。

 福祉や教育の分野でも今や当たり前のように使われて神棚に奉られている「自立」とか「自己決定」という言葉に対しても、著者は容赦なく刃を向ける。 


「自立している」人など、どこにもいやしません。世界中の誰もが誰かに依存して成り立っているのが現代社会です。他人に迷惑をかけずに生きることなどできません。自立の鬼は、自立という幻想を喰らって太る妖怪です。
 それじゃあ、なにもしなくてもいいのか、とはなりません。依存と努力の両立こそが大切ですが、やっかいなことに、日本人は努力も幻想にしてしまっているのです。「やればできる」と励ます人がその元凶です。やってもできない人のほうが圧倒的に多いというのに、あまりにも無責任なことをいいます。・・・・・・・
 「やればできる」は努力を勧めているようで、じつは暗に結果を求めています。教育者たるもの、そんなウソを教えてはいけません。「できなくていいから、やってみろ。それでダメなら生活保護があるさ」と教えるのが、本物の教育者です。

 すべてのもっともらしいウソをひっくり返した先の処方箋がここにある。
 これこそユーモアとブラックジョークによって覆い隠されたいま一つのもの、著者のやさしさの核であろう。
 
  
 

● オタクかゾンビか? 映画:『ゾンビランド』(ルーベン・フライシャー監督)

 2009年アメリカ映画。

 スパッ、ビューッ、ドボドボ、ガブッ、ドロドロ、ゲボゲボのスプラッタムービー。
 こういうのが苦手な人には絶対におすすめできない。


 掛け値なしのB級映画である。
 が、制作費を4倍以上上回る大ヒットを記録。各地の映画祭での評判も高かったようだ。コメディ映画の往年の人気スターであるビル・マーレイが本人役で出演していて、あっという間に非常にオマヌケな情けない殺され方をするのも見ものである。


 スプラッタは好きではないが、「生き残るために必要な32のルール」設定など、語り口にいささかのセンスのよさが感じられたので、我慢して見続けたら、単なるスプラッタではなかった。
 スプラッタの部分をのぞけば、主人公の青年コロンバス(ジェシー・アイゼンバーグ)の成長物語となっているのだ。その意味では西洋の伝統的なビルデュングスロマン(教養小説)の系譜に連なる。
 ただし、いにしえの成長物語は、「世間知らずの若者が夢や野心を持って社会に飛び出すが、厳しい現実にぶつかって挫折する、または幻滅する。が、その過程で、友情や愛を育み、新たな目で世間を見ることを覚え、大人になっていく」というパターンであった。『真夜中のカウボーイ』や『ソフィの選択』が典型的である。
 現在のそれ、少なくとも、この作品で描かれたそれはいささか異なる。
 「ひきこもりでオタクの若者がどうしようもない周囲の状況から否応なく社会におっぽり出され、同じようなハミダシ者たちと出会い、共通の敵と闘いながら友情や愛を育み、世間とは違った価値観を生きる自分を肯定していく。」


 昔は、「社会化すること=世間に同化すること=成長」という図式があったが、今では「社会」も「世間」も必ずしも成長のゴールではない。そこにいるのが死にぞこないのゾンビばかりだとしたら、社会化に何の意味があろう? オタクから脱皮してゾンビになるのではつまらないではないか。
 ゾンビとの血みどろの戦いをくぐり抜け、生まれてはじめて「仲間」を見つけたコロンバスの最後の気の利いたせりふが、B級スプラッタコメディに過ぎなかったこの作品を、現代社会とそこに生きる孤独な人々を揶揄するB級風刺作品へと不意に変貌させる、その鮮やかさに感服した。




評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● 千の船を連れてきた顔 映画:『トロイのヘレン』(ロバート・ワイズ監督)

 1955年アメリカ映画。

 CGも3Dもデジタル合成もない時代に、大がかりなセットと大人数のエキストラと莫大な制作費を使い「ハリウッドの威信をかけて」作られた、いわゆるスペクタクル史劇。
 「アメリカは偉大だった。元気だった。単純だった。」としみじみ思う。
 剣闘シーンも戦闘シーンも見ごたえたっぷり、おなかいっぱいになれる映画。 
 
 アメリカ人はなぜかこういうスペクタクル史劇が好きである。
 よく知られていてレンタルショップで見かけるものだけ挙げても、

  57  十戒 (セシル・B・デミル)
  59  ベン・ハー (ウィリアム・ワイラー)
  60  スパルタカス (スタンリー・キューブリック)
  63  クレオパトラ (ジョゼフ・L・マンキーウィッツ)
  65  偉大な生涯の物語 (ジョージ・スティーブンス)
  66  天地創造 (ジョン・ヒューストン)

 ハリウッド黄金期(30~40年代)が終わった後に、こういった大作が続々と出てくるのも興味深いけれど、アメリカ人のスペクタクル史劇好きは、『グラディエーター』(2000年)、『アレキサンダー』(2004年)、『トロイ』(2004年)と今も健在である。
 考えてみると、これは不思議である。

 フランス人が『ナポレオン』を撮ったり、ロシア人が『イワン雷帝』を撮ったり、イギリス人が『エリザベス』を撮ったり、イタリア人が『カリギュラ』を撮ったり、日本人が『日本誕生』を撮るのは不思議ではない。自らのアイデンティティのルーツであるし、観客にとってもどこかで一度は耳にしたことがある親しみやすい物語であり、良くも悪くも祖国のヒーロorヒロインであるからだ。
 しかるに、なぜアメリカ人が、エジプト人が撮るべきクレオパトラを撮るのだろう? ギリシヤ人が撮るべきアレキサンダーを撮るのだろう?
 モーゼやキリストについてならまだ分からなくもない。旧約聖書も新約聖書もキリスト教という点では、アメリカ人の心の拠り所であり、ルーツと言えるから。
 たとえ、莫大な制作費があろうとも、日本人監督が日本の俳優を使ってクレオパトラを撮るなど、まず考えられない。昔、コミックが大ヒットした「ベルサイユのバラ」が映画化されたが、さすがに俳優は外国人を使っていた。そもそもこれは、漫画のヒットの二匹目のドジョウをねらっての映画化なので別物と考えるべきだ。史劇と言うより恋愛ドラマだし、あれは・・・。

 アメリカ人の史劇好き。
 それは、アメリカの歴史の浅さコンプレックスの裏返しなのかもしれない。
 国民に共通した「神話」を持たない民族の羨望なのかもれない。

 アメリカという国が生まれたとき、日本は江戸時代中頃である。天皇によって体現された神話と滔々たる歴史とを持った「アイデンティティのできあがった民族」だったのである。
 一方、アメリカはどうか。
 キリスト教徒(特にプロテスタント)であるというだけではアイデンティティとして弱い。なぜなら、キリスト教国など他にもたくさんあるから。プラスアルファとしてアメリカ人が基盤として誇れるものは、つまるところ、独立宣言と合衆国憲法と奴隷解放宣言にほかならない。すなわち、「自由」「正義」「平等」「権利」。それ以外に求めるとしたら、「金」と「武力」になる。
 いずれにせよ、「平和」がない。
 そのアメリカが日本に「平和憲法」を押しつけた(もたらした)のだから、不思議な巡り合わせである。

 話がそれた。

 トロイのヘレンは歴史上1,2をあらそう美女である。
 スパルタの王であるメネラオスを捨てて、トロイの王子パリスと出奔。怒ったメネラオスはギリシャ全土から「千艘の船を引き連れて」トロイを攻撃、滅亡に追いやった。いわゆる、トロイ戦争である。
 国家を揺るがすほどの美女を「傾城」と言うが、まさに、クレオパトラ、楊貴妃と並ぶ傾城である。
 それだけのことを巻き起こしたヘレンの美貌が尋常であるわけがない。ただ美しいだけでなく、見た者を虜にする魔性の輝きを放っていたであろう。

 ヘレン役のロッサナ・ポデスタはまぎれもなく美女である。が、男を狂わせ国の命運を左右するだけの魔力は感じられない。
 もっとも、この映画ではヘレンは悪女ではなく、平和と愛をもとめる賢い女性として設定されていて、パリスとの駆け落ちも彼女の本意でなく状況的に止む終えなかったものと描かれている。だから、作品上では十分なヘレン役ではある。
 だが、やはり個人的には傾城のヘレンこそ観たかった。その魅力に酔いたかった。
 としたら、やはり、この人しかいない。

 グレタ・ガルボ。

 彼女がテクニカラーに間に合わなかったことが本当に残念である。
 


評価: B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:『今日も僕は殺される』(ダリオ・ピアーナ監督)

 2007年アメリカ映画。

 主人公イアン青年は、毎日午後5時過ぎになると何者かに殺され、記憶を消されて、新たな人生に送られる。
 そのことに徐々に気づいてきたときから、奇怪な人物や出来事が次々と襲いかかってくる。
 一体なにが彼に起こっているのか?

 シチュエーション自体は面白いと思う。
 テンポも悪くない。
 観る者は、イアンの立場に身を置いて、混乱や疑惑や恐怖を体験し、次第に明らかにされていく真相に強く気を引かれることになる。

 しかし、その真相とやらがいただけない。
 新機軸もなければ説得力もない。
 イアンが毎日殺されなければならない理由も釈然としないまま、理屈の分からない解決方法で決着する。
 不条理ミステリー&サスペンスと思っていたものが、化け物ホラーに堕してしまうのも残念。

 同様の設定でなら、ジョン・オーガスト監督の『9-ナイン』(2007年)のほうが断然素晴らしく、気が利いていて、感動的。(「ナイン」と題した映画はたくさんあるので要注意)



評価: D+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!






 

●  映画:『祇園囃子』(溝口健二監督)

祇園囃子 1953年、大映作品。

 冒頭のタイトルバックで延々と映される京都の街並み。
 高いビルディングも広告も電線もなく、古い木造の家並みからすっと抜け出るように五重塔や鐘楼などが点々とそびえる。背景に黒々と迫るは北山、はたまた東山か。空が広い。
 このような幻想的な京都の光景は、もはや二度と目にすることができない。
 古き良き古都は喪われてしまった。
 永遠にー。

 芸妓の世界もまた能やお茶と同様、古き良き日本文化の伝統を伝えるものである。
 だから、舞妓になる決心をした少女・栄子(若尾文子)は、他の娘たちと一緒に師匠について芸事の稽古に明け暮れる。芸妓のなんたるかもよく知らないままに。
 いきなり抱きついてきた贔屓客の口を噛み切る、戦後育ちのアプレ(現代風)なじゃじゃ馬娘を演じる弱冠二十歳の若尾がなんとも可愛いらしい。デビュー当時、「低嶺の花」と言われ、庶民的な魅力で売っていたと言うが、後年の若尾にはその形容はまったくふさわしくない。わずか3年後の『赤線地帯』ではすでに大女優のきざしがうかがえる。
 これは、若尾が脱皮する前の初々しい姿をとどめた貴重なフィルムなのである。

 栄子の面倒を引き受ける先輩芸者・美代春(木暮実千代)。
 花街の風習にあらがい、特定の旦那をつくらない。凛とした美しさのうちに、情のもろさや女が一人生きる哀しみを漂わせる名演である。

 もう一人の主要な女は、置屋の女主人お君(浪花千栄子)。芸者達から「かあさん」と頼りにされ、客の男たちの欲望の裏も表も知り尽くした花街の伝統を体現する女だ。

 世代の異なるこの三人の女の生き方やふるまい方、そして栄子の不始末と男たちの欲望をめぐって仲違いする三人の関係を鮮やかに描いている。
 カメラの宮川一夫の丁寧な仕事ぶりも健在である。

 三人の生き方は、各々の花街との関わりの長さ、深さ、洗脳度によって異なる。
 お君の務めは茶屋を切り盛りし、花街をささえること。そのためには、客の男たちの企みの手先となって、抱える芸妓たちを駒のように動かすのは当たり前。
 売れっ子芸妓の美代春は、芸は売っても心は、いや、体は売らぬ。好きでもない男の手に落ちるはまっぴらごめんと一人頑張ってきたが、栄子の不始末が原因でお君からお座敷を干されてしまう。妹分の栄子を守るために、ついに大企業のお偉いさんに体を許す。
 「日本国憲法の基本的人権は、好きでもない客から私たちを守ってくれる」と息巻いていた栄子は、美代春の犠牲を知って、ついに「日本が世界に誇る伝統文化なんて嘘八百。芸妓とは結局、きれいなおべべを着た娼婦と変わりがない。」という事実を知る。
 三人の女はみな、花街という構造の、芸者遊びを求める男たちの欲望の犠牲者である。そこから抜け出すすべもなく、おのれに降りかかる運命をそれぞれのやり方で闘いながら受け入れるしかない。

 しかし、男たちもまた組織という構造の犠牲者である。自分の会社を守るため、大口の仕事を取るために、取引先のお偉いさんを接待するのに汲々としている。そのためには「女」を使うのが一番なのだ。
 では、取引先のお偉いさん、金持ちで地位ある男の一人勝ち、一番得するのだろうか。
 溝口は、美代春にこう言わせている。
 「どんなに金持ちだって、どんなに地位があったって、一人ぼっちはやはり寂しいもの。それより、貧乏でもこうやって仲間同士助け合って生きていくのが一番。」
 なんと美代春は深いことか。やさしいことか。

 そう。この構造は誰にとっても不幸なものである。

 この映画からすでに60年近く経った。
 構造は消えたのだろうか。
 好きでもない男に体を売らなければ生きていけない女たちは消えたのだろうか。
 会社のために女を利用して接待する男たちは消えたのだろうか。
 「花街」「芸者遊び」という体裁すらもはや必要としないところで、欲望があからさまに取引きされているのが現代ではないだろうか。

 古き良きものが失われた代償として、古き悪しきものも消えたのであればまだ救われる。
 古き良きものがなくなって、古き悪しきものだけが残っているとしたら、日本のこの数十年はなんだったのだろう?




評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 山道を歩きながら考えた:高尾山(599m)・城山(670m)

111130_1021~01●11月30日(水)晴れ、風なし、小春日和

●ルートとタイムスケジュール
10:10 京王線・高尾山口駅着
      歩行開始
11:45 高尾山頂上着
12:30 城山山頂上着
13:30 下山開始
14:30 小仏バス停着
      歩行終了
14:40 京王バス乗車
15:00 JR高尾駅着

●所要時間 4時間20分(=歩行3時間+休憩80分)


 小春日和、紅葉シーズン。そして、高尾山はミシュラン三つ星の名山。都心からのアクセスも良く、山頂近くまでケーブルカーやリフトで気軽に上れる。登山道も歩きやすく整備されている。薬王院をいただく信仰の山としても名高い。人気があって当然の山ではある。
 しかし、平日にも関わらず、なんと人の多いことか。
 京王線の高尾山口から登山口となるケーブルカー清滝駅までの小道は、まるで日曜日の竹下通り、もとい巣鴨地蔵通りであった。
 そう、万全の登山スタイルに身を包んだ「毎日が日曜日」な高齢者グループに、山道はすっかり占拠されたのである。
 
 これが高齢社会か・・・。

 山登りできる体力と元気と仲間がいることは素晴らしいことである。
 総じて彼らはお金がある。靴もヤッケもスティックもザックも、アウトドアショップで売っている本格的なものばかりだ。1000円のジョギングシューズ、1500円のデイバッグ、ユニクロのコットンパンツで、どんな山でも登ってしまう自分とは大違いである。プロ仕様としか思えないゴージャスなカメラを抱えて動き回っているおじいさんもよく見かける。(この記事の写真はすべてau携帯で撮影)
 まあ、パンプスにタイツ姿の若い女性、ベビーカーを押しながら山道を登ろうとするヤンママ集団・・・。あきれるほど山をなめている若者たちに比べれば、彼らの山に対する態度は立派である。

 高尾山の登山路では琵琶滝の脇を通って渓谷を遡る6号路がもっとも人気が高い。森と水を十二分に楽しめる気持ちのいいコースである。自分も大抵このルートをとる。
 しかし、今日は数珠つなぎのように前にも後ろにも人が続く。なんと11月いっぱいは混乱を避けるため、登り専用になっていた。こんなことは他に富士山くらいしか考えられまい。
 予定を変えて、琵琶滝の横の階段を上って、森を横断し、3号路に変更することにする。いきなり登りが続くが、案の定、人は少なくなった。ゆっくりと一歩一歩踏みしめながら、高度を上げていく。
 ところが、3号路は崖崩れのため通行禁止。いったん表参道(1号路)に出て、浄心門(写真)のところで、4号路に入る。
 いろいろなルートがあって、植生や景色の違いを楽しめるところが高尾山のもう一つの魅力である。 

 山頂近くのトイレは改修工事をしていた。ミシュランに載ってから、山のあちらこちらで整備が進んでいる。新しい展望台や階段ができ、東屋ができ、ところどころ道が広くきれいになった。
 それはいいことなのだが、木々の間から見える建設中の圏央道のグロテスクさは、どんなに山自体をきれいにしたところでどうなるものではない。環境や生態系の破壊も気になる。

111130_1116~01 111130_1147~01 

 
 高尾山頂はまるで花見会場のような賑やかさであった。腰を下ろす場所を見つけるのも一苦労。
 紅葉を天井に一息ついていると、隣りで昼食を取っている高齢者グループの会話が耳に入ってきた。

 「Aさん、三日前に亡くなったんだってさ」
 「へえ、いくつだったっけ?」
 「75歳」
 「え~、まだ若いのにねえ。なんで死んだの?」
 「肺ガンだって」
 「ああ、ずいぶんと煙草吸ってたもんね。Bさんと同じだ。」
 「違うよ。Bさんは脳梗塞だよ」
 
 これが高齢社会か・・・・。

 天気は西から下り坂。富士山は見えなかった。

111130_1235~01 高尾山から城山への道は、尾根とは言え、上り下りが続き、短い距離のわりには疲労する。
 しかし、山頂は高尾より断然城山がいい。
 広々として、眺めも東西に開けている。
 都心側の崖の突端に、新しく木彫りの天狗の像が立っていた。
 微妙・・・。

 昼食にする。
 ここで最大のお楽しみは、城山茶屋のなめこ汁(250円)。
 なめこと豆腐のたっぷり入った醤油仕立てのあつあつの汁をいただくと、実に幸福な気分になる。
 こんなにおにぎりと合うものが他にあるだろうか。
 おそらく、下界で同じものをいただいても同じ感動はないだろう。
 はるばる時間と体力かけて登ってきて、心晴れる眺めを見下ろしながらこその美味である。
 
 ああ~、登ってきて良かったあ~。

 下山はあっという間。
 高尾駅から送迎バスに乗って「ふろっぴい」で温泉に浸かる。
 湯上がりに生ビールをぐいっと飲み干して、無事山登りが終了。

 それにしても・・・。
 数年後には団塊の世代が定年を迎える。
 彼らもまたどっと山に繰り出すことだろう。
 アクセスの良い人気のある山はどこも渋滞になるかもしれない。
 静かな山歩きを楽しみたい自分のような人間にとっては災難である。

111130_1350~01 これもそれも高齢社会ゆえ、仕方あるまい。

  

 
 

 



  

● 日本映画最良の布陣 映画:『破戒』(市川昆監督)

 1962年、大映制作。

 キャスト・スタッフの顔ぶれがすごい。
 主演の市川雷蔵は、生真面目な暗い眼差しが被差別部落出身の負い目を持つ瀬川丑松に過不足なくはまっている。正義感あふれる友人の土屋銀之助役に若き長門裕之。なるほどサザンの桑田そっくりだ。解放運動家・猪子蓮太郎役に三國連太郎。白黒の画面に映える洋風な凛々しい風貌が印象的。後年、三國は自らの出自(養父が非人であった)をカミングアウトしたが、抑制されたうちにも思いの籠もった品格ある演技である。中村鴈治郎、岸田今日子、杉村春子、『砂の器』ではハンセン病患者を名演した加藤嘉、落ちぶれた士族になりきった船越英二、この映画が女優デビューとなった初々しい藤村志保(原作者の島崎「藤村」+役名「志保」が芸名の由来だそうだ)。錚々たる役者たちの素晴らしい演技合戦が堪能できる。
 脚本(和田夏十)も素晴らしい。音楽はやはり『砂の器』の芥川也寸志。
 そして、そして、なんと言ってもこの映画を傑作に仕立て上げた最大の立役者は、撮影
の宮川一夫である。

 市川昆の映画というより、宮川一夫の映画と言ってもいいんじゃないかと思うほど、カメラが圧倒的に素晴らしい。この撮影手腕を見るだけでも、この映画は観る価値がある。
 下手に映像が良すぎると物語や演技を食ってしまい、全体としてバランスを欠いた残念なものになってしまうケースがおいおいにしてある。が、この作品の場合、もともとのストーリが強烈である上に、役者達の演技も素晴らしいので、見事に映像と物語が釣り合っている。丑松が生徒たちに自らの出自を告白するシーンなど、白黒のくっきり際立つ教室空間で丑松の背後に見える窓の格子が、まるで十字架のようにせりあがって見え、象徴的表現の深みにまで達しているかのようだ。
 市川昆監督が狙った以上のものを、宮川カメラマンが到達して表現してしまったのではないかという気さえする。


 「丑松思想」の悪名高き原作の結末を、いったいどう処理するのだろうと懸念していたら、やはり大きく変えていた。
 原作では、丑松は自分の教え子の前で出自を隠していたことを土下座し、アメリカに発つ。いわば日本から避げるのである。悪いことをしたわけでもないのに習俗ゆえに厳しい差別を受けてきた人間が、なぜ謝らなければならないのか。なぜ逃げなくてはならないのか。藤村の書いた結末は、当時としては現実的なものだったのかもしれないが、当事者にとってみれば希望の持てるものではない。

 時代は変わった。生徒の前で土下座するシーンこそ残されているが、友人である土屋が自らの偏見を反省し丑松への変わらぬ友情を表明するシーン、東京へ去っていく丑松を生徒たちが変わらぬ敬慕の眼差しで見送るシーン、丑松が猪子蓮太郎の遺志を継ぎ部落開放運動に飛び込む決心をするシーンなど、新たに作られた場面は感動的であると同時に、希望を感じさせる。

 差別する人々、無理解な人々がいかに沢山いようとも、理解し励まし一緒に声を上げてくれる一握りの仲間がいれば、人はどん底からでも這い上がり、前に向かって歩くことができる。
 そのメッセージが心を打つ。 
 



評価: A-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 今、もっとも日本人にすすめたい  映画:『みえない雲』(グレゴール・シュニッツラー監督)

 2006年。ドイツ映画。

 原題はDIE WOLKE(雲)。
 原発事故で発生した放射能を含んだ雲のことである。

 西ドイツのある町で原子力発電所の放射能漏れ事故が起こり、周辺に住む人々に避難警報が発令される。
 物語前半は、高校生のハンナと弟のウリーが放射能から逃れようと、家を捨て町を脱出するまでの姿をパニック映画のスタイルで描く。後半は、事態がひとまず落ち着いたものの、病院に収容されたハンナや友人や恋人が次々と発病し、死の恐怖と闘っていくなかでの人間ドラマを描く。

 事故直後は、見えない放射能よりも、見えるパニックのほうが実際には恐ろしい。ウリーは、放射能ではなくて、パニックの中で猛スピードで逃げる自動車に轢かれて死んでしまう。結果論ではあるが、逃げずに家の中に籠もっていたほうが安全だったのだ。
 一方、放射能の恐怖は、直接の被爆でなければ、あとからじわじわとやってくる。髪の毛が抜け、皮膚に腫瘍があらわれ、体は痩せ細り、周囲の人々から恐れられ・・・。ハンナと恋人のエルマは、再会の喜びもつかの間、二人とも発病する。
 時を分けて襲ってくる二段重ねの恐怖の実態がよく描けている。

 主人公ハンナを演じたパウラ・カレンベルクは、チェルノブイリ原発事故のときに胎児であった。外見こそ健常であるが、心臓に穴が開いており、片方の肺がないとのこと。

 いま日本人がもっとも観ておきたい映画である。
 まだ遅くはない。



評価: B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 死をどうデザインするか 映画:『ぼくを葬る』(フランソワ・オゾン監督)

 2005年フランス映画。

 恋も仕事も順風満帆の31歳にして、余命3ヶ月のがん告知。
 そのとき、人はどういう状態に陥り、どういうふうにして自らの死と向き合っていくのか。

 誰に事実を告げるか。
 残された日々をどう過ごすか。
 何を捨てて何を残すか。
 どこでどのように死ぬか。
 自分の気持ちをどうやって整理するか。

 ゲイの写真家であるロマンの選択は、世間一般の選択とはかなり異なる。
 彼は、家族にも恋人にも友人にも伝えない。恋人には別れを告げる。喧嘩していた姉と和解する。たまたま知り合った不妊症のカップルと3Pをして精子を提供し、生まれてくる子供に財産のすべてを遺贈する。
 そして、海水浴客で賑わう夏の砂浜で、ひとり海を眺めながら死んでいく。
 もはや思い残すこともなく、自らの死を超然と受け入れながら。

 百人いれば百通りの死のデザインがあるだろう。
 どれが正しくてどれが間違っているということではない。
 どれが幸せでどれが不幸なのかも傍からはわからない。
 あるALS(筋萎縮性側索硬化症)の男性が、自分をそのような体に生んだ両親を呪いながら、自分の苦しむさまを両親に見せつけながら亡くなっていったという話を聞いたことがある。それは本人にとっても、両親にとっても、周りで看取る者にとっても、悲惨なやりきれない死の選択である。
 だが、それを非難する資格も権利も第三者にはあるまい。

 できれば、最終的には自らの生を肯定できないまでも受け入れて(諦めて)、その終焉を納得し、安らかな気持ちで息を引き取っていきたいものである。
 そのためには、ロマンがやったような自らの死のデザインが重要なのであるが、その前提として絶対に欠かせないものがある。
 己れの怒りや悲しみや絶望や混乱などの感情を吐き出せて、受けとめてもらえる誰かの胸である。

 ある人の場合、それは神なのかもしれない。仏なのかもしれない。両親や恋人や友人やカウンセラーなのかもしれない。あるいは、同じ病気で同じ運命を背負った仲間なのかもしれない。
 ロマンの場合、それは郊外の森の中に独り住む祖母ラウラ(ジャンヌ・モロー)であった。ラウラにすべてを打ち明け、ロマンははじめて泣くことができたのである。
 ジャンヌ・モローは、出番は少ないがとても重要なこの役を彼女自身の持つ存在感だけで演じきっている。演技とは思われないほどの深さとあたたかさは、その顔に刻まれた皺と同様、彼女の波乱に富んだ人生経験、俳優経験を通して自然と涵養されたものであろう。ラウラが寿命としての死を日々見つめながら孤独に毅然と暮らしていることも、ロマンが心を開く相手として選ぶ理由になっているのだろう。
 老人力とは本来このようなものなのかもしれない。

 人の死のデザインをとやかく言うのは無粋なのであるが・・・。

 ロマンが神にたよらなかった点はよく理解できる。
 キリスト教が同性愛を否定する以上、ゲイとしての自分を肯定して社会生活を営んできたロマンが、その死に際して教会や神父や聖書や十字架の支えを必要としなかったのは当然といえば当然である。
 一方、カップルの子作りに協力することで、自らの遺伝子、血統、子孫、子供を残して安堵するというところが、いきなり「種の保存」欲求にでも目覚めたみたいで釈然としない。
 もちろん、ゲイ(♂)が父親になっていけないわけではない。現に結婚して父親になっているゲイなど掃いて捨てるほどいるだろう。女性の腹を借りて血のつながりのある子供を持つゲイカップルだっている。ゲイであることと、父親であることは、必ずしも背反しない。
 しかるに、ロマンの場合、それまで子供にほとんど関心がなかったにも関わらず、死に臨んで急にそういう欲望に目覚め、自分の子供を残すことによって安心を得て自らの死を受け入れる、いわゆる「命のバトン」みたいな常套的展開になってしまうのが、なんだか残念な気はする。ゲイアイデンティティに対する裏切りのような感じ・・・?

 とはいえ。
 実際に死を前にしたときに、自らの築いてきたアイデンティティなんか簡単に崩壊するかもしれない。
 自分がどうなるかわかったものじゃない。

 ある意味では、若くして自分の死をデザインできる機会を得るということは幸せなのではないだろうか。
 通常そういう機会は、老年になってから訪れるものであるが、そのときには老齢ゆえにさまざまな選択肢が失われていることが多いからだ。子供を作るなど、まさにその一つである。デザインしようにも設計できる幅がもうせばまっている。和解したかった相手も、もうとうの昔にあの世に逝っているかもしれない。

 自分の死をどうデザインするか。
 それは結局、「自分の残された生をどうデザインするか」と同義である。



評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



● 本:『小さな「悟り」を積み重ねる』(アルボムッレ・スマナサーラ著、集英社新書)

001 よく本を出す人である。

 前に書いたものの改定新版を別にしても、毎月数冊ずつ新著が出ているのではないだろうか? 日々の講話がそのまま本になるからであろう。
 在日30年、日本語の能力も驚くべきものだ。
 母国語とは異なる国に行って、仏教という壮大にして深遠な思想をその国の言葉で大衆に伝えるという、想像するだに難儀な仕事をやって、今のところ成功をおさめているのであるから、フランシスコ・ザビエルや欧米に禅を広めた鈴木大拙に比肩できるような天才と言ってよいのだろう。
 その場合、日本がもともと大乗仏教の国であったということは伝道に際してプラスにも働いただろうが、テーラワーダ(原始仏教)と大乗仏教の齟齬ゆえに逆風もすさまじかった(すさまじい)だろう。日本の伝統仏教を信奉する者にしてみれば、「お前たちの仏教は偽物だ。仏の教えではない」と批判されているようなものだからである。
  
 とはいうものの。
 キリスト教の国、とりわけアメリカやラテン国家でテーラワーダを伝道することに比べれば、まだ日本はやりやすいと思う。それらの国では、国民の有する価値観や人生観が、東アジアの伝統的なそれとは違いすぎるからだ。

 テーラワーダ、というよりブッダの教えは、近代西欧文明の志向するものとはほとんど真逆に位置する。それは、近代西欧文明の出発点が、ルネサンスの人間中心主義やデカルトの「我思う、ゆえに我あり」にある以上、どうしてもそうならざるをえない。
 なぜなら、ブッダの教えは生命中心主義であり(最終的には生命からの脱却を目指しているが)、自我の否定にあるからだ。

 現代日本に生活する我々の価値観や人生観は、すっかり近代西欧文明に洗脳されている。その中には「平等」や「人権」のように大切な概念もある。が、一方、個人個人の欲望の追求と実現こそが幸福であるとする考え方が、終わりのない戦争と貧富の拡大と環境悪化と人権侵害と深い孤独を生んでいるのも事実である。

 この本で語られる言葉が、我々が通常正しいと思っている概念をすべてひっくり返していくように見えるのは、スマナサーラ長老が稀代の天邪鬼のように思われるのは、戦後日本人がいかにアメリカナイズされてしまったかの証左なのである。
 たとえば、こんなふうだ。

 
・ 人が考えるのはバカだからである。
・ 運命という考え方は間違っている。
・ 人生は尊いものではない。
・ あきらめる力が幸福をもたらす。
・ 自分探しは最後に自分を見失う。
・ 生きることに本来自由はない。
・ ポジティブすぎると人は成長しない。
・ 人間は本来自立できない生き物である。
・ 豊かすぎると人は奴隷の生き方を強いられる。
・ 愛はほんとうは悪いものである。
・ 「何もしない」という刺激こそ求めよ。
・ 過去の経験と記憶は思っているほど役に立たない。
・ 矛盾を当たり前として生きる。

 
 かくのごとし。

 心に留めるべきは、近代西欧文明によって洗脳され条件付けられた「自分」に気づいて、そのプログラムを解除し、新たに仏教というプログラムをダウンロードせよ、と言っているのではないところだ。

 プログラムをダウンロードすべき「自分」などそもそも存在しない、と言うのである。



 

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