ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『盲目のメロディ ~インド式殺人狂騒曲~』(シュリラーム・ラガヴァン監督)

2018年インド
138分、ヒンディー語

 いつものごとく長~いインド映画であるが、本作については長さをまったく感じなかった。
 発想が面白く、脚本に優れ、役者陣も魅力的、インド歌謡とピアノをミックスさせた音楽もいい。
 第一級のスリラー&ブラックコメディに仕上がっている。

 盲目のピアニストが殺人現場を2度も“目撃”してしまう――というくらいなら他にも似たような先行作品はあろうが、このピアニストが実は盲目を騙っていたというところが秀逸。
 「犯人を知っている。現場を見た」と証言すれば、「見えていない」と言ってこれまで恋人や周囲をだましていたことがバレてしまう。
 それでも良心にしたがって警察に出向いたピアニストを待っていたのは、衝撃の事実!
 「見えていない」と思われたから殺人犯に見逃されていた命が、「実は見えている」と分かって一転窮地に陥っていく。
 あとは息つくヒマないどんでん返しの連続で、最後に待っている衝撃の伏線回収まで一気呵成。
 
 インドの底知れないパワーと暗部、インド人のバイタリティと現実主義、インド映画(ボリウッド)の質の高さと幅の広さを伝えてくれる映画である。


ウサギ
ウサちゃんが一つのポイント



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 50歳以上お気の毒さま 本:『白い病』(カール・チャペック著)

1937年原著刊行
1992年邦訳初出
2020年岩波文庫(阿部賢一訳)

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 3幕の戯曲。
 カール・チャペック(1890-1938)は、今は無きチェコスロバキア共和国のジャーナリスト&作家。
 チェコスロバキアは1918年オーストリア=ハンガリー帝国から独立して建国、1960年以降は共産党独裁による社会主義国家となりソ連の支配下にあった。1992年のビロード革命で共産党政権が崩壊、チェコ共和国とスロバキア共和国に分離して今に至っている。

 白い病とはチャペックが創造した伝染病である。50歳以上の人間だけが罹患、皮膚に白い斑点が現れたのち身体内部で腐敗が進行し、数週間後に死亡する。感染力は非常に強く、握手でもうつる。中国が発生源という噂がある。
 新型コロナウイルスとの類似を思うところだが、本書はまさに2020年4月~5月の緊急事態宣言中に訳し出されてウェブ公開されたのが文庫化のきっかけとなった。
 カミュの『ペスト』、デフォーの『ペスト』同様、タイムリーな企画出版というわけだ。

 白い病はコロナ同様、世代間の分離と対立を引き起こす。
 作中に登場するある家族の会話。

父 ばかげてる! 今日の学問や文明はいったいどうなってるんだ、ありえん話だ――伝染病がこんなに流行しているってことは、今は中世だとでも言うのか? しかもどうして五十歳なんだ。職場でも一人が病気になったが、ちょうど四十五だった。五十前後の人間だけが病気になるのはどう考えても公平じゃない。いったいどうして、なぜなんだ――
 なぜって? 父さん、若い世代に場所を譲るためでしょ。そうならなければ、行き場がないんだから。

娘 今の若者にはチャンスがないの、この世の中に十分な場所がないの。だから、私たち若者がどうにか暮らして、家族をもてるようになるには、何かが起きないとだめなの!


 世界じゅうに広がり打つ手がないように思われた白い病の特効薬を、ある町医者が開発した。ガーレン医師だ。
 お国の大学病院を借りておこなった臨床試験でも抜群の成績を上げた。
 大学病院の責任者はじめ財界や政界のお偉方は、ガーレン医師に治療法の公開を求める。
 それに対してガーレンが要求した引換え条件は、あまりにまっとう過ぎるがゆえに、かえって実現困難なものであった。

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 本作のテーマは、平和を求める者と戦争・権力・富を求める者との対峙を描くところにある。それはまた「持たざる者」と「持つ者」との闘いであり、一人の平和主義者が国家主義者に挑んだ一種のテロリズムである。武器は白い病の治療法だ。

 発表当時はもちろん、ヨーロッパで勢力を拡大しつつあったナチスドイツ、つまり国家主義&全体主義に対する風刺であり、プロテストだったのだろう。登場人物の一人、国軍の最高指導者たる元帥は、ヒトラーを連想させる。
 本作がタイムリーなのは白い病がコロナウイルスと似ているからだけではない。
 平和をひたすら求め貧しい患者を助けるガーレンと、「国のため」と言いつつ栄誉や威信や私利私欲に執着する権力者との対比に、香港や台湾の市民 v.s. 中国共産党を、あるいは民主化を求めるミャンマーの大衆 v.s. 国軍を、重ね合わせてしまうからである。
 時代を超越するところが名作たるゆえん、岩波文庫にふさわしい。

 最後には元帥自身も白い病に感染してしまう。
 さて、どんな結末が用意されているか・・・・。

 140ページの薄さなので、小一時間あれば読める。
 

 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 8

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 今日では多くの人々が、とくに西洋では、あなたが忙しくしていないと、何か問題があるんじゃないかと言ってきます。
 彼らの考えるところでは、
「なんと、君は何もしていないのか? 週末には何をしてるんだい?」
「いやいや! 何もしていないよ。ただ家にいるだけさ」
「ええ! 何もしなかっただって? ただ家にいた? 何か問題があったんだね」
 何の問題もありません。
 彼らはただ狂ったようにあちらこちらへと走り回っていて、あなたはそうでないというだけです。
 あなたは正気で、彼らが狂っているのですが、彼らはあなたが狂っていると思うのです。


 ご多分に漏れず、コロナ禍になってから “おうち”時間が増えたソルティであるが、じゃあ“おうち”で一体何をしているのか?――と言えば、ほぼ読書と映画鑑賞とブログ執筆とプールと散歩と瞑想である。
 コロナ前より減ったのは、クラシックコンサートや落語や美術館に行くこと、山登り、ボランティア、友人との会食あたりだろうか。ボランティアは人と関わるものなので、感染予防の観点からNGである。
 こうやって対外的活動が縮小され一年以上たって思うのは、「行かなきゃ行かないで別にどうってことない」ってことだ。失った娯楽や活動に対して欲求不満が高じるなんてことはなかった。

 若い頃は休日に家にいるなんて我慢ならなかった。晴れた日はとくに。用を作っては、あるいは用がなくても、街に出かけたものだ。
 五十を超えた今では、街に行くのが億劫に感じる。コロナ感染のリスクがなくても、人混みや喧騒には足を踏み入れたくない。体力や精力の減退が一つの因であるのは間違いなかろう。ちなみにソルティにとっての「街」とは、都内のことである。
 月2回は行っていた山登りもまた、今やそれほどの熱を身内に感じない。一昨年に四国歩き遍路を結願してから、憑き物が落ちたようにアウトドア志向あるいは徘徊癖が希薄になった。もっとも、足の骨折の影響も大きいが・・・。
 
 仕事以外の多くの娯楽や活動は、つまるところ、「やりたくてやっている」、「やらずにはいられない」というよりは、「時間をつぶすため」あるいは「気晴らしのため」にやっているのだ。
 自分にとって、それがないと本当に参ってしまうのは、おそらく、読書と瞑想と何らかの運動だけであろう。(ソルティは“塀の中”を快適に過ごせるかもしれない。独房に限るが・・・)

 若い頃は外の世界に「何か」を求めていて、そしてその「何か」が手に入らなくて焦燥に駆られていたものだが、だんだんと外の世界には本当に“自分”が満足できるものはないんだと思うようになった。
 というより、“自分”というものは決して満足しないシステムなんだと知るようになった。

 歳を取ること、そして今回のコロナ禍、いずれも真に必要なものを明らかにしてくれるチャンスである。


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S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像




● 大映ドラマの原型 映画:『セックス・チェック 第二の性』(増村保造監督)

1968年大映
89分

 増村監督は70年代後半にお茶の間の人気をさらったTBS「赤いシリーズ」の演出や、堀ちえみ&片平なぎさの『スチュワーデス物語』、小泉今日子&石立鉄男の『少女に何が起ったか』の脚本などを手掛け、いわゆる大映ドラマの基盤をつくり上げた人である。
 その特徴は、目まぐるしく荒唐無稽なストーリー、大げさな感情表現と棒読みゼリフ、えぐいほどのリアリティといったあたりにあった。
 片平なぎさが風間杜夫の目の前で歯を使って手袋をはずす場面や、石立鉄男が当時人気アイドルだった小泉今日子に向かって「薄汚ねえシンデレラ!」とののしる場面など、強く印象に刻まれている。
 
 増村節はしかし、彼が60年代に撮った映画の中ですでに炸裂していた。
 若尾文子主演の『赤い天使』や『刺青』、そしてこの安田道代(現:大楠道代)&緒形拳の『セックス・チェック 第二の性』に、その後の大映ドラマのエッセンスがしっかり盛り込まれているのを確認できる。
 ただし、若尾文子は名女優なので、堀ちえみや小泉今日子や能勢慶子のような棒読み感はさすがにないが・・・・。

 元短距離走者の宮路司郎(=緒形拳)は、自分が果たせなかったオリンピック出場の夢を叶えるため、若く才能ある女子スプリンター南雲ひろ子(=安田道代)を見出し、女断ちまでするストイックさでコーチを務め、徹底的に鍛え上げる。
 甲斐あって素晴らしい100mタイムをマークするようになったひろ子であったが、日本スポーツ連盟の指示で受けたセックス・チェックで「女でない」と診断されてしまう。ひろ子は半陰陽(インターセックス)だったのだ。
 夢をあきらめきれない宮路は、ひろ子と二人で伊豆合宿し、昼は猛練習をほどこし、夜はひろ子を“女にする”ための訓練に打ち込む。

 いやはや、凄い物語である。
 最初のうちは『エースをねらえ!』のような男性コーチと女性選手の疑似恋愛&スポ根ドラマを想像していたら、あれよあれよとトンデモない方向に物語は走っていく。
 緒形拳がこんな“ゲテモノ”映画に出演していたとは! 
 しかも、鬼気迫る熱演ぶり!
 名優と言われるほどの人は、どんな役を与えられても精魂込めて演じるものなのだ。
 ちなみに、“ゲテモノ”映画と言ったのは、半陰陽がテーマだからではもとよりない。
 話の筋書きや細かい演出が、観る者の予測を上回る突飛さ・エログロさ・えげつなさ・テンションの高さで、あっけにとられてしまうレベルにあるからだ。
 たとえば、伊豆合宿の最中に体調を悪くして崖から転落したひろ子に、宮路は駆け寄る。
 すると、気絶しているひろ子の股の間から血が流れている。
 それはひろ子にとって人生初めての経血であった。
 「ひろ子、起きろ! ついにお前、女になったぞ!」
 涙を流して喜び抱き合う二人・・・・・。


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特訓中の緒形拳と安田道代


 緒形拳とは『鬼畜』、『復讐するは我にあり』で共演している小川真由美が、宮路の親友峰重の妻・彰子の役で出演している。上品な着物姿に白い肌が映えて美しい。
 これもまた、夫にはかまってもらえず、宮路に犯され、自殺未遂を繰り返し、しまいには気が狂ってしまうという異常な役柄なのだが、不自然を感じさせず演じきる小川の芸の幅を感じる。
 はっきりとは描かれていないが、おそらく峰重はゲイで昔から宮地が好きなのだ。彰子の欲求不満はそのへんが原因なのだ。
 そう解釈して観ると、より深い人間心理の綾が見えてこよう。

 このDVDはレンタルショップのアダルトコーナーに置かれていた。
 タイトルから勘違いされたのだろう。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● ソ連消滅30周年 本:『ソヴィエト旅行記』(アンドレ・ジッド著)

1936、1937年原著刊行
1937年邦訳初出
2019年光文社古典新訳文庫

 ソヴィエト、ソ連という国が地上から消えてすでに30年経つ。
 あんなに大きな、あれだけ威勢を誇った、あれほどアメリカはじめ西側諸国を脅威に陥れた国が一夜にして無くなるとは、まさに晴天の霹靂であった。
 猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ・・・・
 当時(1991年)、第一報に接したとき思わず朗誦したくなったのを覚えている。


赤の広場
モスクワ:赤の広場


 住井すゑ著『橋のない川』を読むと、1917年にロシア革命が起こって史上初の社会主義国家であるソヴィエトが誕生したことが、日本全国の被差別部落の住人や貧苦にあえぐ農民や労働者らにとって大いなる希望と勇気をもたらしたことがありありと知られる。1922年に早くも日本共産党が生まれている。
 世界でもそれは同じで、1921年に中国共産党が誕生しているし、ヨーロッパでも芸術家や知識人をはじめ共産主義に共鳴し新生ロシアに期待する人は多かった。皇帝専制政治を廃し、人民(プロレタリア)主体の自由と平等と平和を掲げた国の出現は、人類が永年夢見たユートピアの到来を思わせたのである。
 フランスのノーベル文学賞作家であるアンドレ・ジッド(1869-1951)もまたその一人であった。

 ソ連が私たちにとって何であったか、誰か言える者があるだろうか。望んで選んだ第二の祖国というだけでは足りない。一つの規範、一つの指針だったのだ。私たちが夢見ていたもの、高望みと知りつつも、それでも私たちの意志が全力を挙げてそこへ向かおうとしていたもの、それがかの地では実現されていたのだ。ユートピアがまさに現実のものになろうとしていた土地、それがかの国だったのだ。

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 本書は、ジッドが1936年の6月から8月にかけてソヴィエトを旅行した際の見聞録『ソヴィエト旅行記』と、それが故国で発表されるやいなや巻き起こった左派からの激しい非難や罵倒に対して反論した『ソヴィエト旅行記修正』の2編から成っている。 
 つまり、共産シンパであった一人の作家が、革命20年後のロシアを訪れ、その最も良い部分を経費あちら持ちの大名旅行で見物し、にもかかわらず、ロシアの惨憺たる現実と革命の失敗に気づき、帰国後共産主義ときっぱり決別することになった、いわゆる「転向」の一幕が描き出されている。
 スターリン独裁下のロシアの、まるでジョージ・オーウェル『1984』そのままの全体主義的管理社会の風貌を伺うのも興味深いが、やはり一番の魅力は、多大な影響力をもつ西側の共産シンパの著名人をだますために体よくお膳立てされた見学ツアーにあって、虚飾の下の真実を見抜くジッドの観察力と洞察力、そしてしばしば「転向者」に向けられる罵倒や蔑みをものともせずに、率直に自らの誤りを認め、事実をありのままに伝えんとするジッドの芸術家としての誠実さと使命感である。

 今、為政者たちが人々に求めているのは、おとなしく受け入れることであり、順応主義である。彼らが望み、要求しているのは、ソ連で起きていることのすべてを称賛することである。彼らが獲得しようとしているのは、この称賛が嫌々ながらではなく、心からの、いやもっと言えば熱狂的なものであることである。そして最も驚くべきは、それが見事に達成されているということなのだ。しかしその一方で、どんな小さな抗議、どんな小さな批判も重い処罰を受けるかもしれず、それに、たちまち封じ込められてしまう。今日、他のどんな国でも――ヒトラーのドイツでさえ――このソ連以上に精神が自由でなく、ねじ曲げられ、恐怖に怯え、隷属させられている国はないのではないかと私は思う。

 私にとって何よりも優先されるべき党など存在しない。どんな党であれ、私は党そのものよりも真実の方を好む。少しでも嘘が入り込んでくると、私は居心地が悪くなる。私の役目はその嘘を告発することだ。私はいつも真実の側につく。もし党が真実から離れるのなら、私もまた党から離れる。

 國分俊宏による新訳は非常に読みやすく、注も解説も充実している。
 とくに、日本共産党の委員長だった宮本顕治の妻でプロレタリア作家の宮本百合子が、本書が最初に邦訳された(1937年)ときに発表した書評についての記述が非常に面白い。
 当然、宮本はジッドと本書をクソミソにこき下ろした。曰く、ブルジョア育ちの芸術家で世間知らずのジッドは、大局的な現実を、歴史の本質を見ていない云々・・・。
 國分はこう書いている。

 いずれにせよ、歴史を見ればすでに決着はついている。宮本の文章は、常に絶対にイデオロギーに忠実であろうとして党派性にのみ固執すれば、どんな歪んだ理屈で人を批判するかという民族誌的標本として貴重な例を提供していると言うべきだろう。

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 ソ連はなくなったが、取って代わるように同じ共産主義国家である中国が世界を席巻している。北朝鮮は鉄のカーテンどころか「タングステンのシャッター」の向こうにあり、中で何が起こっているのか計り知れない。中国やロシアとの関係を深める軍事政権下のミャンマーの今後も気がかりである。
 社会主義や共産主義が危険なのは、それが好んで標榜する「自由・平等・民主・人権・進歩」といった概念そのものが過ちであるからではなく、抑圧され苦しんでいる大衆を惹きつけて莫大なパワーを結集させるこの“魔法の言葉”が、権力への飽くなき野望をもつレーニンやスターリンや毛沢東のような狂人たちにとって、野望実現のための恰好な隠れ蓑になるからではなかろうか。
 右にも左にも関係なく権力と支配が大好きな輩はどこにでもいて、イデオロギーさえ彼らのいいように利用されるってことだ。

 
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ジッドと年下の愛人マルク・アルグレ

 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 映画:『猫と庄造と二人のをんな』(豊田四郎監督)

1956年東京映画
103分、モノクロ

 東京映画なんてレーベルがあったことを知らなかった。
 1952年~1983年に存在した東宝系の制作会社だったらしい。
 森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺の三人が主演の「喜劇駅前シリーズ」が最大のヒット作とか・・・。(ソルティ未見)

 原作は谷崎潤一郎の同名小説であるが、これまた未読。
 だが、“いかにも”な谷崎文学の刻印が見られる。
 強く美しい女の尻に敷かれる優柔不断な男とか、その男が若い女の脚フェチであるとか。
 つまり、マゾヒズムの匂いがそこここに漂っている。
 タイトル通り、猫を溺愛する男の話なのであるが、言われてみれば、躾けるのが好きなサディストは犬好き、振り回されるのが好きなマゾヒストは猫好き、といった傾向はあるかもしれない。
 とはいえ、同じ谷崎原作の『刺青』や『瘋癲老人日記』や『』のようなあからさまな変態映画ではなくて、関西の海辺の田舎町を舞台にした人情喜劇である。

 タイトルの「二人の女」は、実際には「三人の女」が正しかろう。
 ぐうたらを絵にかいたような甲斐性なしの庄造(=森繁久彌)をめぐる三人の女、すなわち、母親(=浪花千栄子)、前妻(=山田五十鈴)、後妻(=香川京子)の愛憎や嫉妬や意地や欲得の入り混じった壮絶バトルが見どころである。
 三者とも甲乙つけがたい名演で、役の上での闘いとともに、女優としての火花もバチバチ散っている。

 おちょやんは本当に、名作と言われるほどの映画なら必ず顔を出しているなあと感心する。喜劇センスは言うまでもない。鶏小屋に隠れるシーンなど爆笑もの。
 山田五十鈴は、未練・嫉妬・意地・驕慢・可愛さ・怒りなど、女の様々な感情を表情豊かに描き出して見事の一言に尽きる。
 香川京子はいつもの清楚で従順な女性といったイメージを覆すアプレ女(今で言うならギャル)になりきって、伸びやかな裸の足を惜しげもなく庄造役の森繁の前に差し出している。
 この三女優それぞれの熱演をしっかり受けとめて、なおかつ主役としての存在感と個性と色気を失わない森繁はやはり一級の役者である。
 
 ラピュタ阿佐ヶ谷にて鑑賞す。

 

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congerdesignによるPixabayからの画像


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ユダヤのフェミニズム 映画:『ザ・ゴーレム』(ドロン&ヨアブ・パズ監督)

2018年イスラエル
95分

 イスラエル(ユダヤ教圏)のホラー映画を観るのは初めて。
 舞台は17世紀中期のユダヤ系コミュニティ。
 いまだ迷信がはびこる時代である。

 『アンダー・ザ・シャドウ』(ババク・アンバリ監督、2018)に見るように、イスラム教圏の代表的なモンスターと言えば精霊ジンであるが、ユダヤ教でそれに相当するのがゴーレムである。
 ウィキによるとゴーレムは、「ユダヤ教の伝承に登場する自分で動く泥人形」で「ヘブライ語で胎児を意味する」。また、「作った主人の命令だけを忠実に実行する」という。
 なんとなく既視感があるのだが、それはドラクエに登場するキャラの一つだからではなく(ソルティはドラクエをやったことがない)、子供の頃に好んで観た大映の『大魔神』を思い出すからなのだ。
 それもそのはず、大魔神は、チェコスロバキア映画の『巨人ゴーレム』(1936年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)をヒントに制作されたのであった。
 『ハクション大魔王』のランプの精と言い、『バビル二世』のポセイドンと言い、スフィンクスデザインの『ジャイアント・ロボ』と言い、結構幼い頃に夢中になって見たテレビ漫画や映画の中に、国際的なエッセンスがたくし込まれていたのを思い知る。


ゴーレム
ゴーレム


 この映画のミソは、ゴーレムと言う言葉から想像される巨大な泥人形が出てくるかわりに、可愛らしい少年がその正体であるところ。
 しかも、その少年ゴーレムをカバラの秘術によって創造したのは、幼い息子を水難事故で亡くした女、ハンナなのである。 
 少年ゴーレムはハンナと一心同体で、ハンナの思いを感じて行動し、ハンナの言うことだけを素直に聞く。

 そのせいか、この作品はユダヤ教文化圏の家父長的で男尊女卑の社会に対する一種のアンチテーゼのようにも読める。
 「女の使命は子供を産むことだ。それをしない奴は神に反している」なんて、どっかの国の国会議員が地方講演でポロリと口にしてあとからネット炎上しそうなセリフが出てくる。
 そんな言葉で夫や義父に日々責め立てられているハンナが、泥から少年ゴーレムを造り上げ、村を責めてくる外敵を追い払い、男たちを見返すのである。
 女子供の勝利だ。

 しかるに最後は、外敵を全滅させた少年ゴーレムはコントロールが効かなくなって、村人たちもまた手に掛けてしまう。
 ハンナは泣く泣く少年ゴーレムの口から呪文の書かれた羊皮紙を取り出し、少年をあとかたもなく砂に返し、生き残った夫と共に灰燼と化した村をあとにする。

 ラストシーン。
 捨てられた羊皮紙を拾ったのは、やはり生き残った少女。
 女から女へ、意志が継承される。
 このフェミニズムっぽさ、やはり現代映画である。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● ズームイン仏教 本:『脳と瞑想』(プラユキ・ナラテボー&篠浦伸禎著)

2014年(株)サンガ
2016年サンガ新書

 副題が長い。
 「最先端脳外科医とタイの瞑想指導者が解き明かす苦しみをなくす脳と心の科学」

 脳外科医とあるのが1958年生まれで都立駒込病院脳神経外科部長をつとめる篠浦伸禎で、一方、瞑想指導者とあるのが1962年生まれで88年タイで出家したテーラワーダ僧侶のプラユキ・ナラテボー師である。

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 第一部では、プラユキ師によるタイで実践されている代表的な三つの瞑想法の伝授と、篠浦が現場で実践している脳の覚醒下手術の説明とそこから判明した脳の部位による働きの違いに関する知見が記されている。
 第二部は二人の対談である。

 最先端脳科学と仏教あるいは瞑想との関係を説いた本はいまなおブームであり、当ブログでもいくつか取り上げてきた。
 中でも、『瞑想脳を拓く』(井上ウィマラ、有田秀穂共著)、『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(ロバート・ライト著)、『科学するブッダ 犀の角たち』(佐々木閑著、角川文庫)、『奇跡の脳』(ジル・ボルト・テイラー著、新潮社)などはお勧めである。
 また一冊、脳の覚醒下手術による知見という新たなアプローチがここに加わったわけである。

 脳の腫瘍摘出などで開頭手術を行う場合、これまでは全身麻酔が普通であった。
 が、近年、これに変わって実施されるようになり治療効果の高さや副作用の少なさから注目を浴びているのが、覚醒下手術である。
 篠浦によると、

 全身麻酔の手術では、患者さんののどに管を入れて、麻酔薬で患者さんを完全に眠らせ、最後まで意識のない状態で手術を行います。一方、覚醒下手術は、基本的には、局所麻酔と静脈からの麻酔薬で痛みを取り、腫瘍を摘出するところでは完全に麻酔薬を切って行います。つまり、手術中に患者さんに起きていただき、症状が悪化しないかチェックしながら手術ができるため、全身麻酔の手術に比べて極めて安全な手術になります。

 一瞬びっくりするような話であるが、こういったことが可能なのは、脳自体にはもともと痛みを感じる神経がないことと、局所麻酔による痛み止めの技術が近年格段に進歩したゆえである。(ソルティも足の骨折手術時にお世話になった)
 覚醒下手術だと、脳の術部周辺に電極を当て刺激を与えつつ、手術台の上の患者さんの意識や認知機能の変化を本人に直接確認することで、安全に手術続行できるかどうかチェックできるわけである。これが全身麻酔だと、摘出手術が終わり患者さんが覚醒したときに言語障害や麻痺や認知機能の損壊といった思わぬ副作用が見つかったとしても、もはや取り返しがつかない。
 医学の進歩はすごいもんだ。

 覚醒下手術はまた副次効果が興味深い。
 てんかん患者を対象にした覚醒下手術&実験をもとに作られたペンフィールドのホムンクルス(下図)は、脳の運動野と感覚野が体のどの部位と対応しているかをマッピングしたものとして有名だが、患者が自らの意識経験をリアルタイムで証言できる覚醒下手術だと、脳のどの部位が、特定の意識や認知といった知的・精神機能と関与しているかが見えてくる。
 たとえば、ある部位に刺激を与えたら他人の恐怖の表情が読めなくなったとか、ある部位の腫瘍を摘出したら急に難しい数字の逆唱ができるようになったとか、人の脳の機能の解明と言う点で極めて意義深く、新たな地平を開くものがある。
 いずれ、認知症の原因解明と治療などに役立つ日が来るやもしれない。 
ホムンクルス

 
 第一部の最後には、篠浦がこれまで何百回と行った覚醒下手術から得た脳の働きに関する知見をもとに作った「脳のタイプチェック」が紹介されている。
 大まかに、4タイプに分かれている。
 脳優位スタイル検査というサイトでチェックテストをすれば、自分がどのタイプにもっとも当てはまるか知ることができる。
 本書のカバー裏には脳テストを受けるために必要な個別の ID とパスワードが貼ってあり、本書を購入した者はこの脳テストに参加し、自身のタイプを知り、アドバイスを受けられる仕組みになっている。
 面白い試みである。(ソルティは本書をブックオフで購入したので、IDとパスワードはすでに使用済みだった・・・・残念)
 
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 メインとなる第二部の対談では、やはり現役のテーラワーダ僧侶であり、日本での講演や瞑想指導でも人気を博しているプラユキ師の言葉が奥深い。
 ソルティはこれまで彼の法話に接したことがなく、本を読むのも初めてであるが、智慧と慈悲、仏法理解と実践とのバランスの取れた、柔和な性格の人という印象を受けた。

 以下、本書よりプラユキ師の言葉を紹介。

 瞑想の目的は智慧を得て、苦しみから自由になっていくことと、一切衆生への深い慈悲を育てていくことです。瞬間瞬間に気づいていくことはその手段です。もちろん瞑想によって心の安らぎや落ち着きが生じたり、あるいは歓喜の体験や三昧体験などさまざまな変容意識体験も生じてきますが、そういった境地を得ることが瞑想の最終目的ではありません。・・・・・智慧を得ていくためには、特定の心の境地へのとらわれからも自由になって、心をコントロールすることをやめ、あるがままの洞察に進んでいくことが大事です。

 まず、自分の意見や気持ちを相手に押しつけようとするのが自我的。それに対して、相手の意見も自分の意見も平等に尊重した視点から発言できるのが瞑想的
 それから、相手の表面に現れる言葉にすぐに反応しちゃうのが自我的。それに対して、相手の言葉をいったん受けとめて、その言葉の奥にある相手の思いや願いにまで思いを馳せられるのが瞑想的
 そして、問題が生じてきたとき、すぐに白黒をつけようとするのが自我的。それに対して、その問題を通していろいろ学んだりしながら、相手との関係をより良くしていこう、より良い解決法を見つけていこうと前向きに取り組むのが瞑想的な対応法です。

 悩み苦しみとは、よるべを失い、恣(ほしいまま)にさまよう心の作りだす空想物語の数々です。こうした理解を経て、思考やイメージの主になりえたとき、今度は逆に、今、目の前の困難な状態にある相手にまみえても、自由にイマジネーションの翼を広げて、その人の来し方、行く末のより良く変容した姿も思い描け、いたずらに相手の今の姿に落胆や狼狽することがなくなります。そして、思いやりと希望を持って、相手の良き縁とならせてもらうために、今ここで自分が何をさせてもらったらいいかなど、冷静に対応を吟味できるようになるのです。

 コロナが落ち着いたら、法話を聞きに・・・・いや、師のツイッターによれば、ZOOMで今も瞑想指導や個人面談をやっているらしい。
 時代はZOOMか・・・・。 



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● 映画:『河内山宗俊』(山中貞雄監督)

1936年日活
87分、白黒

 河内山宗俊(宗春とも)は実在した江戸時代後期の茶坊主にして侠客。

茶坊主とは、将軍や大名の周囲で、茶の湯の手配や給仕、来訪者の案内接待をはじめ、城中のあらゆる雑用に従事した。刀を帯びず、また剃髪していたため「坊主」と呼ばれているが僧ではなく、武士階級に属する。(ウィキペディア「茶坊主」より)

 実際はかなりの悪党だったらしいが、講談や歌舞伎の世界では庶民のヒーロー的存在に祭り上げられた。
 この役を河原崎長十郎が、妻・お静を山岸しづ江が演じている。
 この二人は溝口健二監督『元禄忠臣蔵』でも夫婦役だったが、実生活でもパートナーであった。
 ちなみに、山岸しづ江は岩下志麻の叔母にあたる。

 河内山宗俊に助けられる町娘・お浪を16歳の原節子が演じている。
 映画デビュー間もない原の初々しくも凛とした美貌が光る。
 口舌も可愛らしくて品がある。
 この撮影現場を見学に来たことが、アーノルド・ファンクが原を日独合作映画『新しき土』のヒロインに抜擢するきっかけとなったと言われる。
 「さもあらん」と頷ける原の万国共通のオヤジ殺しの魅力である。

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 音楽は西悟郎という人が担当している。
 驚いたことに、クライマックスのチャンバラ場面でチャイコフスキーの『ロミオとジュリエット』を用いている。
 なんとキッチュな!

 もう一つの驚きは、お浪を吉原遊郭に売ろうと謀る女衒役で加東大介が出ている。
 当時(25歳頃)は市川莚司という芸名だったようだ。
 実に息長く活躍した役者と感嘆した。
 特徴的な顔立ちと演技の巧さは後年のそれと変わりない。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 漫画:『てるてる坊主食堂 末期すい臓がんからの復活』(のりぽきーと・作画)

2019年風濤社

 若くして夫を亡くした女将と、パリで国際結婚のち離婚した娘(のりぽきーと)。
 母娘二人で切り回す地域密着の美味しい「てるてる坊主食堂」(埼玉県が舞台らしい)。
 地元民に愛され、儲かりはしなくとも楽しく充実した日々を送っていた母娘に、悲劇は突然訪れた。
 胃の不調で検査を受けた女将が受けた診断結果、それは「すい臓がんで余命2ヶ月」だった。
 本作は、四コマ漫画とエッセイで綴られた母と娘の闘病記である。

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 まず、立派な体裁に感心する。
 全頁オールカラーなのだ。漫画の一コマ一コマはもちろん、あとがきに載っている母娘や料理の写真も。
 紙質も厚くて、白けざやかで上等。
 ふと、昔サンリオが出していたオールカラーの月刊誌『リリカ』を思い出した。
 手塚治虫(『ユニコ』)、水野英子、山岸凉子、ちばてつや、石ノ森章太郎、樹村みのり、竹宮恵子、萩尾望都、永島慎二など、豪華絢爛たる顔触れの執筆陣だった。

 出版不況のいま、なぜこのような贅沢が可能なの?・・・と思ったら、奥付ページに答えがあった。
 ネットのクラウドファンディングCAMPFIREを通じて出版資金を募ったのだ。
 もともとは、のりぽきーとさん主宰の四コマ漫画ブログだったらしい。
 
 女将は、すい臓摘出の大手術とその後の抗がん剤による副作用を乗り越えて、毎日インスリン投与しつつ、無事お店に復帰する。
 そこに至るまでの母と娘の悲喜こもごもが、二人を支える様々な人々――中学生のハーフの孫娘、常連客、女将の仕事仲間や友人、ブログを通じて知り合ったがんの闘病者、娘がパリで作った異国人脈、病院のイケメン担当医など――との触れ合いとともに描かれる。
 女将を復帰させ、2か月と言われた余命を5年近く延ばしたのは、これら周囲の人々の支えと、料理屋の女将という仕事に対する熱い思いであったことが伝わってくる。
 むろん、しっかり者の娘の愛情と――。
 
 美味しい卵焼きが食べたくなった。

卵料理



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 大川小学校の悲劇 本:『津波の霊たち 3.11死と生の物語』(リチャード・ロイド・パリー著)

2017年原著 Ghosts of the Tsunami 刊行
2018年早川書房
2021年ハヤカワ・ノンフィクション文庫

 著者は1969年生まれの英国人ジャーナリスト。
 『ザ・タイムズ』東京支局長として1995年より日本に住む。
 2000年に神奈川県逗子で起きた英国女性ルーシ・ブラックマンさん殺害事件の真相に迫ったノンフィクション『黒い迷宮』(早川書房)を著している。(この事件は映画化されるらしい)
 2011年3月11日の東日本大震災直後より被災地を回って取材に当たった。本書はそこから生まれたものである。

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 この震災で起きた数多の出来事はきわめて複層的で、その影響や意味が及ぶ範囲ははかり知れないものだった。そのため、私は物語の本質を確実にとらえたと感じたことは一度もなかった。それはまるで、角や取っ手のない不自然な形の巨大な荷物だった。どんな方法を試してみても、荷物を地面から持ち上げることはできなかった。震災から数週のあいだ、哀れみ、戸惑い、悲しみに私は苛まれていた。しかし、それ以外のほとんどのあいだに感じたのは、無感覚な冷静さだった。そして、焦点を見失っているというやっかいな感覚だった。(本書プロローグより)

 このように“厄介な”状態にいた著者リチャードは、震災から数ヵ月たった夏、宮城県石巻市の小さな集落で起きたある事件を知るところとなる。
 その地・釜谷に何度も足を運び、被災した人や家族を失った人に話を聞き、取材を続けているうちに、「やがて私は想像することができるようになった」、すなわち正常な感覚がよみがえり、焦点を取り戻したのである。
 その事件こそ、裁判となって日本中知られるところとなった大川小学校事件である。

 本書では、タイトルが示す通り、震災後にあちこちで生じた霊的現象とその意味に関する考察が語られる。別記事で取り上げた『震災後の不思議な話 三陸の〈怪談〉』同様、オカルチックな要素がふんだんにある。
 また、千年に一度という大津波の凄まじい破壊力と地獄の様相、その中で亡くなった人と生き延びた人の様子もリアリティもって描かれる。まさに九死に一生を得た石巻市職員の体験談などは、エドガ・アラン・ポーの小説『メールシュトロームに呑まれて (A Descent into the Maelstrom)』さながらで、津波の恐ろしさ、および生と死とが紙一重であることをまざまざと教えてくれる。
 被災地をめぐって死者の霊を慰め、生き残った人々に寄り添い、場合によっては除霊もする宮城県栗原市通大寺の住職・金田諦慶に関する記述は、読む者に畏敬の念を抱かせる。金田住職の例が示すように、宗教や信仰の価値、出家者の存在意義が改めて問われたのも震災の一つの側面であった。外国人リチャードの目を通して、深いところで息づいている日本人の神仏や祖先に対する信仰が描き出されているのもまた、読みどころである。

 しかしながら、本書のメインはあくまで大川小学校で起きたことだ。

東日本大震災に伴う津波が、本震発生後およそ50分経った15時36分頃、三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川(追波川)を遡上してきた。この結果、河口から約5kmの距離にある学校を襲い、校庭にいた児童78名中74名と、教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡した。その他、学校に避難してきた地域住民や保護者、ほかスクールバスの運転手も死亡している。

2014年(平成26年)3月10日、犠牲となった児童23人の遺族が宮城県と石巻市に対し、総額23億円の損害賠償を求める民事訴訟を仙台地方裁判所に起こした。
(ウィキペディア「石巻市立大川小学校」より抜粋)

大川小学校
震災前の大川小学校全景


 一番の問題は、本震発生後に児童を校庭に集合させてから津波が到達するまで50分もの猶予があったのに、なぜ教師は学校のすぐ裏手にある里山に児童を避難させなかったのか、あるいはなぜスクールバスに分乗させピストン輸送で高台に運ばなかったのか――という点である。それさえできていれば、当時校庭にいた児童や教員、地域住民の命は助かっていた。同じような条件下で、同じ石巻市内にある門脇小学校では在校児童全員をすぐ高台に避難させ、一人の死者も出さなかった。

 この運命の50分間にいったい何があったのか?
 責任者たる校長は、教頭は、そのとき何をしていたのか?
 「津波が来るぞ~!逃げろ!」という他の町民や市の広報車の警告があったのに、なぜそれが無視され続けたのか?

 リチャードは子供を失った親たち、高台に逃げて無事助かった地域の住民、学校からいち早く車で子供を連れ出して津波をからくも避けることができた親たちを取材しながら、事件の真相に迫っていく。
 さらに、子供を失った親たちの一部が、家や仕事や家族や友人を失い悲しみのどん底にいる他の町民の心をさらに惑わせ、平和だった町を分断するリスクがあると知りながら、あえて石巻市と宮城県を相手に訴え出なければならなかった背景を探り出していく。

 そこにリチャードが見たのは、「古き良き日本」――礼儀正しく“和”を尊ぶ忍耐強い人々がつくる固い絆と習わしとで結ばれた共同体――のもう一つの姿、すなわち、事に当たってだれも責任を取りたがらず、その場しのぎの泥縄式の対応を繰り返し、“世間の目”により個人が自律的に行動することを妨げ、真実や良心より組織を守ることに汲々とし、お上に対して楯突いたり逆らったりすることを恥と感じ、大乗仏教仕込みの“無常”観で闘う前にすべてをあきらめ受け入れてしまう、日本人の姿であった。
 日本人の宿痾、笠井潔言うところのニッポン・イデオロギーに直面したのである。
 リチャードは吠える。
 
 私としては、日本人の受容の精神にはもううんざりだった。過剰なまでの我慢にも飽き飽きしていた。おそらく人間の域を超越したあるレベルでは、大川小学校の児童の死は、宇宙の本質に新たな洞察をもたらすものなのだろう。ところが、そのレベルよりもずっと前の地点――生物が呼吸し、生活する世界では――児童たちの死はほかの何かを象徴するものでもあった。人間や組織の失敗、臆病な心、油断、優柔不断を表すものだった。宇宙についての真理を認識し、そのなかに人間のための小さな場所を見いだすのは重要なことにちがいない。しかし問題は、この国を長いあいだ抑圧してきた“静寂主義の崇拝”に屈することなく、それをどう成し遂げるかということだった。

 ここに至って、リチャードが追究し問い糺しているのが、我々日本人のアイデンティティであり、日本と言う国のありようであることが明らかになる。
 本書は外国人ジャーナリストによる日本論、日本人論でもあるのだ。

銭壷山合宿 030

 地震は天災であり、防げない。
 津波も天災であり、防げない。
 地震の被害も津波の被害も、あるレベルを超えると人の力の及ばぬ域にあり、そこは粛然と受け入れるほかない。想像を絶する破壊と被害に対し、それを不承不承ながら自然の掟と受け入れ、天に向かって泣き喚き地を叩いて怒りながら、復興や治療や追悼や支え合いしながら前に進んでいくよりない。「仕方ない」と呟きながら・・・・。
 古来災害の多い風土に住む日本人ほど、天災に対する免疫と耐性を有し、逆境を乗り越える力と技と団結力を持っている国民は世界にいないかもしれない。

 しかし、大川小学校事件は人災であった。
 福島原発事故も人災であった。
 人災を、あたかも天災のようにみなして、「仕方ない」と許し受け入れ、責任の所在をはっきりさせないのは過ちである。
 なぜなら、問題が問題と指摘され、原因が科学的に究明され改善策がとられない限り、再びみたび、同じ過ちが繰り返されることになりかねないからだ。
 本事件に関してソルティが何より「むごい」と思ったのは、校庭に避難した児童たちの中に、「ここにいては危ないから裏山に逃げよう!」と訴え出て率先して走り出した子らがいたのに、それを教員が叱りつけ押しとどめ、大人たちが善後策を口論している待機の列に連れ戻したという一件である。
 こういうときは、世間に汚されていない子供の動物のような直観のほうが、えてして正しい。
 教員がいなければ、大人がいなければ、子らが助かっていた可能性は高い。

 リチャードが悲惨極まりない津波被害の取材を通してはからずも身に着けてしまった“無感覚な冷静さ”を脱し、「想像することができるようになった」のは、天災と人災とを分かつこの地点であり、それは十数年来日本に住み日本と日本人を取材してきた一外国人ジャーナリストが、まさに書くべき論点を発見した瞬間だったのである。

 大川小学校事件の裁判は、2019年10月10日付で最高裁が被告側の上告を棄却し、原告側(親たち)の勝利が確定した。
 震災10周年にあたり、亡くなられた方々の冥福を祈ります。


23番への道(南海地震の碑)
1946年発生南海地震の津浪記念塔
(徳島県美波町由岐港)


おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
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● 唐田えりかを推す 映画:『寝ても覚めても』(濱口竜介監督)

2018年日本、フランス
119分

 先日、第71回ベルリン国際映画祭の審査員グランプリを『偶然と想像』で受賞した濱口竜介監督の商業映画デビュー作であり、蓮實重彦が『見るレッスン 映画史特別講義』で称賛していた監督&映画であり、そして何と言っても、不倫で一躍時の人となった東出昌大と唐田えりかが恋人役で共演し、つき合うきっかけを作ってしまった罪深い(笑)映画である。

 不倫騒動についてはこれと言った関心も感想も持たないソルティであるが、本作を見て、東出が唐田に夢中になるのも無理ないなあと率直に思った。
 それくらい唐田は女優として素晴らしい素材である。
 撮影中に生まれた東出に対する恋心が、ここでの唐田のリアリティある演技と表情を引き出した可能性はあると思うが、このままフェイドアウトさせてしまうのは日本映画界の大損失――と言っても過言ではない魅力を感じた。声もすごくいい。
 この人の駒子@『雪国』は観たいかも・・・・。

 対する東出も難しい一人二役(麦と亮平)を無難にこなして、ただのイケメン俳優ではないところを証明している。こちらも頑張ってほしい。
 この役は若い時のオダギリジョーにやってほしかった。


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どことなく真子様に似ている唐田


 濱口監督の力量と才能は最初の数カットで分かった。
 まさに映画そのもの、蓮實が持ち上げるのも無理はない。
 画面を構成する生来の感覚が備わっている。後半、朝子が亮平を追っかけながら土手の上を走るところを上方からの超ロングショットで押さえたシーンなど、身の内を愉悦が沸き起こった。
 物語としての緩急のつけ方も巧みで、どうってことない日常シーンに波風立ててサスペンス仕立てにしてしまう。亮平と朝子が互いの友人合わせて4人で一緒に食事するシーンで、いきなり演劇論バトルが始まるところなど、思わず手に汗握ってしまった。濱口がジョン・カサベテスを好きだというのも頷ける。
 東日本大震災が出てくるので2000年以降の話と分かるが、画面の質感から80年代の映画を観ているような気になった。森崎東監督『夢見通りの人々』、相米慎二監督『台風クラブ』、周防正行監督の『ファンシーダンス』、あるいは一連の日活ロマンポルノ・・・・、そのあたりの匂いをふと思い出した。
  
 ちなみに本作の最優秀演技賞は、間違いなく猫である。 

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 汝、だまされるなかれ 本:『十日間の不思議』(エラリー・クイーン著)

1948年刊行
2021年早川書房(越前敏弥・訳)

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 新訳である。
 高校時代に旧訳版を読んだはずなのだが、どんな話で、どんなトリックで、誰が犯人か、すっかり忘れていた。
 途中、エラリーが、恐喝された友人を助けるために泥棒の片棒をかつぐという愚かしい真似をして、どんどん言い逃れできない苦境に自ら陥っていく。
「エラリーったら、なんて愚かなんだ!」
と心の中で叫んだ瞬間、同じ叫びを以前にも発したことを思い出した。 

 前回読んだ時も、国名シリーズで示されたように頭が良くてクールなエラリーの“らしくない”行動に、不自然さと苛立ちを感じたのだった。
 が、それもまた全体のトリックに欠かせない重要な要素であることに、前回同様、気がつかなかった。
 ゆえに、最後にはかなりの衝撃が待っていた。
 が、トリックそのものの衝撃でも、意外な真犯人の衝撃でもない。
 一連の主人公エラリーの探偵としてのアイデンティティを揺るがす真相ゆえの衝撃である。
 アガサ・クリスティの『カーテン』やバロネス・オルツィの『隅の老人』に匹敵するような探偵小説究極のどんでん返し。
「えっ、こんな結末だったっけ!?」
 『カーテン』や『隅の老人』の結末は覚えているのに、なぜこの『十日間の不思議』をすっかり忘れていられたのやら?

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 思うに、トリックそのものがかなり実現性の乏しい不自然なものという気がする。
 ネタばらしすれば、真犯人が複数の人(その中にエラリーも含まれる)の心理を巧みに操り、各人に狙いとする行動をとらせ、泥棒や殺人を生じせしめ、狙いとする推理をエラリーをして語らせしめ、最終的に復讐を成就するというもの。
 同じことを京極夏彦が『絡新婦の理』でチャレンジしているが、着想としては面白いが、偶然に任せる要素が多くて合理性に欠く。
 上記のエラリーの“らしくない”行動はまさにその一つで、トリックの実現のために登場人物の本来のキャラクターを変えるという、不自然な操作をしているのだ。
 ここがおそらく、最初読んだ時に「なんだかなあ~」と不満に思い、失望したところだろう。
 結果、記憶に残らなかったのだ。

 とはいえ、一度読み始めたら止められないストリーテリングの巧みさは、やっぱり本格ミステリー黄金期の巨頭の一人である。
 創元推理文庫に収録された初期の国名シリーズや『X・Y・Zの悲劇』も面白いが、後期のライツヴィルものをはじめとする早川書房の青い背表紙シリーズは人間ドラマの要素が多分にあり、大人の鑑賞に耐える。
 思春期のソルティは、1970年発表の『最後の女』に衝撃を受けた。(邦訳は76年)
 思えば、同性愛を扱った小説を読んだのはあれが初めてであった。(漫画はその限りにあらず) 
 同性愛=ホモ=おかま(女装)と思われていた時代の話である。
 こちらは忘れることはない。 




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ラピュタ阿佐ヶ谷に行く 映画:『雪国』(豊田四郎監督)

1957年東宝
133分、白黒

 ちょっと前に「豊田四郎監督の映画が観たいなあ」と呟いたら、なんとラピュタ阿佐ヶ谷で特集(3/14~5/1)が組まれた。
 ソルティが観た『夫婦善哉』や、川端康成原作の『雪国』はじめ、29本一挙上映である。
 ラピュタにも一度行ってみたかった。
 不要不急の外出自粛ではあるが、交通経路を工夫し、平日の昼間ならば人混みを避けられよう。
 実に2年ぶりの映画館、スクリーン体験となった。

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JR中央線・阿佐ヶ谷駅北口

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 JR中央線の阿佐ヶ谷駅北口から歩いて3分のところにラピュタはある。
 狭い路地の入りくむ昔ながらの商店街を抜けた閑静な住宅街の一角にあって、中世の城郭のようなシックで落ち着いた佇まいを見せていた。
 思ったよりお洒落である。
 階下には待合室を兼ねたリラックススペースがあって、昔の映画のポスターや図書やDVD、スターのプロマイド写真などが売られていた。
 上階にはフランチレストランもある。
 昔の邦画好きにとってオアシスそのもの。 
 定員は48名、ソルティの観た回は20名ほどであった。

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1階の待合スペース
木の風合いが良い

 本日は『雪国』。
 お目当ては岸恵子の駒子である。
 ソルティは思春期の頃、山口百恵主演のTVドラマ『赤い疑惑』の“パリの叔母さま”役で見知った時から、この女優のファンになった。
 市川崑監督の『おとうと』における姉げん役はもちろん、金田一耕助シリーズ『悪魔の手毬唄』の真犯人役や『女王蜂』の秀麗なる家庭教師役も忘れ難い。
 さすがに『君の名は』(真知子巻き)は観ていない。

 大庭秀雄監督『雪国』(松竹)における岩下志麻の駒子も美しくて良かったが、鮮烈さにおいては岸に軍配が上がろうか。
 可愛くて、いじらしくて(ブリっこで)、美しくて、激しくて、凛として、芯が強くて、哀しくて・・・・。
 ブリっこと哀しさをのぞけば、女優岸恵子そのものなのではなかろうか。
 岸のトレードマークである切れ長の目が、駒子の情のこわさと意志の強さを示していて、島村でなくとも一度彼女に捉えられたら離れがたくなってしまうだろうと思わせる。

 その島村役は池部良。
 白い雪に映える二枚目ぶりで、演技もうまい。
 が、岩下と組んだ木村功のほうが、原作のイメージ=虚無的な男には近い気がする。
 いや、映画全体、大庭作品のほうが、原作のもつ刹那的で幻影的な雰囲気をとらえていたように思う。
 豊田作品は駒子という女、駒子の恋を描くことがメインになりすぎて、島村の冷めた心情が後方に退き、ただの優柔不断のやさ男に見えてしまう。
 島村が芸者の駒子を(一時の遊び相手として)振り回しているのではなく、逆に駒子が島村を(自らの恋の犠牲者として)振り回しているようにすら見える。
 まあ、それだけ岸恵子の駒子が魅力的ということだ。
 
 ほかに旅館の女将役のおちょやんこと浪花千栄子、気性の激しい葉子を演じる八千草薫(岸とは一つ違い)、体も売っちゃう芸者役で笑いを提供する市原悦子、按摩役の千石規子が好演である。 
 
 個人的には、岩下の駒子も岸の駒子もなんだか気が強すぎて、もそっとたおやかな駒子が望ましい。
 葉子もまた気が強い女なので、二人いっぺんにかかって来られると疲れてしまう。
 ソルティは、TVドラマで観た松坂慶子の駒子(1980)が良かった(共演は片岡秀夫)。
 吉永小百合の駒子、夏目雅子の駒子あたりも観たかったな。
 
 特集中にもう数回、ラピュタに足を運びたい。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 黒い団扇の秘密 映画:『残菊物語』(溝口健二監督)

1939年松竹
146分
原作 村松梢風
脚本 依田義賢

 これも蓮實重彦が『見るレッスン 映画史特別講座』の中で絶賛していた。
 新派の名優・花柳章太郎(1894-1965)が、実在した歌舞伎役者・二代目尾上菊之助を演じている。
 芸道物語であり、悲恋物語であり、溝口お得意の転落物語でもある。

 五代目尾上菊五郎(=河原崎権十郎)の養子として周囲からチヤホヤされてきた菊之助は、芸に身が入らず、大根役者と陰口をたたかれていた。
 それを直言し精進を願う女中のお徳(=森赫子、もりかくこ)と恋仲になるも、身分違いの恋は許されず、二人は別れさせられる。
 菊之助は体面や家柄ばかり気に掛ける周囲に嫌気がさし、七光りでなく自らの実力によって頭角を現すことを決意し、東京を飛び出す。
 心配して追ってきたお徳と大阪で再会、一緒に暮らすようになるも、実力にも運にも恵まれない菊之助は転落の一途をたどり、旅回りの一座でその日暮らしの惨めな生活を送るようになり、荒んでいく。
 それでも菊之助の返り咲きを願うお徳は、一身に仕え、励まし、復帰のために奔走する。
 その甲斐あって、幼馴染の歌舞伎役者・中村福助(=高田浩吉)の助けを得た菊之助は役をもらい、久しぶりの大舞台で見事に実力を発揮、万雷の拍手で迎えられる。
 一方、きびしい生活で無理がたたったお徳は、最期の時を迎えていた。

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芝居小屋を追われ、土砂降りに濡れる旅回りの一座


 お涙頂戴の新派悲劇、メロドラマである。
 オペラで言えば『椿姫』とか『蝶々夫人』のような。
 音楽や歌唱という媒介があるオペラならともかく、セリフと芝居にたよる映画やテレビで今時これをやられた日にはゲンナリしてしまいそうなものだが、溝口の魔術によって格調高い、深みある映像芸術に仕上がっている。
 しかも、娯楽作品としても成功している。
 蓮實の威を借るみたいで嫌なのだが、間違いなく、傑作!
 やはり蓮實の推奨によって30年以上前に観たダグラス・カーク監督のメロドラマ『世界の涯てに』(1936)を思い出した。

 主役の二人を演じる花柳章太郎と森赫子がいい。
 花柳の繊細な表情、森の艶やかにして美しい口舌、二人の呼吸もぴったり。
 森は1956年失明して引退。自伝『女優』や『盲目』という本を書いている。新藤兼人のドキュメンタリー『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975)にも出演していたらしいが、覚えていないのが残念。

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森赫子と花柳章太郎


 クライマックスは、まさに『椿姫』よろしく、死の床にあるお徳のもとに、歌舞伎役者晴れの舞台である“船乗り込み”を抜けて駆けつける菊之助、今生の別れである。
 お徳を一心に見守る菊之助、そして家主の夫婦。
 が、虫の息のお徳は菊之助をいさめる。
 「御贔屓が待っているじゃないの。あなた、いや若旦那、船に戻ってちょうだい」
 まさに新派の真骨頂、紅涙をしぼる名場面。

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 しかしながら、この画面で観る者が何よりも心を掴まれ、目が離せなくなるのは、今はの際にあって気丈なお徳でもなく、涙をこらえ肩を震わす菊之助でもなく、二人の脇にいる家主の男が高熱のお徳に風を送る、その手に握られた黒い団扇なのである。
 ウナギのかば焼きをあおぐようなその手の律動的な動き。左右に翻り、一時停止し、また翻る団扇の運動。
 それぞれの感情がこれ以上にないほど高まった非日常の瞬間にあって、唯一の日常的運動が当人も意識しないところで行われている。
 そのとき観る者は、その団扇の何気ない運動の中に、世界のすべてが凝縮されているのを知る。
 いわば世界が反転するのだ。 

 なぜそんなことが可能なのか、映画開眼して30年以上になる今も分からない。
 


おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 映画:『セインツ 約束の果て』(デヴィッド・ロウリー監督)

2013年アメリカ
98分

 『見るレッスン 映画史特別講義』の中で蓮實重彦がベタ褒めしていた監督&作品である。

 70年代のテキサスを舞台に、銀行強盗を働いた若いカップルの愛と死別を描く。
 というと、アーサー・ペン監督『俺たちに明日はない』(1967)のボニー&クライドを想起する向きも多いと思うが、ソルティはむしろ、ヴィム・ヴェンダースの『パリ・テキサス』を想起しながら観た。
 荒野の広がる殺風景な景色のみならず、いわくつきの男が別れた女と娘に会いに行くという筋立てのみならず、劇中効果的に使われているバンジョーの音色が『パリ・テキサス』におけるボトルネック・ギターの響きを思い出させるからだ。
 『パリ・テキサス』+クリント・イーストウッドの犯罪映画といった感じか。

バンジョー
バンジョーを爪弾くカウボーイ

 
 脱獄犯を演じるケイシー・アフレック(ベン・アフレックの弟である)、その恋人役のルーニー・マーラ、二人の後見人で組織のボスを演じるキース・キャラダイン、保安官役のベン・フォスター。
 主要な4人の役者が、そろって味のある佇まい。

 DVD鑑賞だったが、やっぱり映画はスクリーンで観なくちゃな、と久しぶりに思わせてくれた。


  
おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 本:『正統の哲学 異端の思想 「人権」「平等」「民主」の禍毒』(中川八洋著)

1996年徳間書店

 ネットのツイッターやコメントなんかを読んでいると、「人権」「平等」「民主主義」といった言葉が大嫌いな人たちが結構いることに気づく。大概がネトウヨと呼ばれる保守的・愛国的な思想の持ち主のよう。
 人権も平等も民主主義も、ソルティもその一人である、権力とは無縁な庶民を守るものという思いがあるので、「一体彼らはなぜそれらを目の敵にするのだろう? 人権も平等も民主主義もない国に住みたいのだろうか?」という不思議があった。
 彼らの思想のバックボーンはどのへんにあるのか調べてみよう、と図書館の蔵書検索してみたら、出てきたのがこの本であった。
 
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 著者の中川八洋(なかがわやつひろ)は1945年福岡県生まれの政治学者。国際政治学、英米系政治哲学および憲法思想、“皇位継承学”などを専門とし、筑波大学名誉教授の職にあるらしい。(ウィキペディア「中川八洋」参照)
 日本最大の保守主義ナショナリスト団体と言われ、安倍政権を陰で支えていた(あるいは牛耳っていた)日本会議にも過去に関わっていたようである。
 日本の保守陣営の代表的論客の一人と言ってもあながち間違いなかろう。
 必ずしも中川の思想や主張が、ネトウヨをはじめとする他の保守派の人々の思想や主張を代表するものでも、代弁するものでも、合致するものでもないとは思うが、最も強靭な保守思想の論陣を張るものとして参考にしても良かろう。
 
 まず、タイトルの意味。
 中川が言う「正統の哲学」とはずばり、真正自由主義(conservation)である。

 (真正)自由主義は、英国の政治史において明らかなように封建体制が漸進して発展したものであり、国家という歴史的な生成物を大切に保守するが、同時に国家の権力を制限することによる個人の自由を最尊重しこの自由を価値とする。つまり、自由を抑圧する全体主義を断固として排除する思想(主義)である。

 中川はその代表例として、英国の保守党(とくにサッチャー政権)、米国の共和党(とくにレーガン政権)を上げている。日本の自民党は中曽根政権を例外として、この枠組みには入らないそうだ。
 一方、「異端の思想」とはずばり、社会主義と共産主義である。この異端思想の持主(社会主義者、共産主義者)が標榜するキーワードが、「人権、平等、民主、進歩、変革」であって、これらの“危険な”概念の普及と妄信こそが国家を共産主義の最終的ゴールである全体主義(ファシズム)に導き、個人の自由は悉く剥奪される。

 全体主義体制とは、民衆(人民)が、支配する独裁者(党)を「教祖」と崇拝し、それが放つ誇大妄想の巨大な嘘を「共有して」信仰する「信徒」となる国家体制である。そして、教祖(独裁者)を崇拝しない、その嘘を「共有」しない、その誇大妄想を狂信しない、すなわち「信徒」になることを拒否する国民については、テロルにより殺戮か強制重労働の刑罰の対象とする。このような宗教団体の修道院的な国家体制、それが全体主義の体制である。

 中川は代表例として、フランス革命後のロベスピエールらによる恐怖政治、ロシア革命後のレーニン、スターリンによる共産ロシア、金日成以後の北朝鮮、ポル・ポト政権下のカンボジア、毛沢東以後の中国を上げている。
 社会主義と共産主義、そこから移行する全体主義こそ、自由社会が闘うべき最大の敵であり、どうあっても叩き潰さなければならない悪であることが、縷々として説かれているのが本書なのである。


ロシアのポスター
旧ソ連のポスター


 サッチャーやレーガンや中曽根を「正統」とみなすかどうかはともかく、ソルティも社会主義や共産主義は好まない。ジョージ・オーウエルの小説『1984』やテリー・ギリアムの映画『未来世紀ブラジル』に端的に描かれているように、全体主義は地獄の別名にほかならないと思う。
 が、正直、中川の論には驚いた。
 戦後の日本人が学校時代に歴史や倫理社会などで習い、一般常識として流布している知識やイメージを引っくり返すような内容なのである。
 
 近代は人類の文明的発展を育んだ温室でもあったが、“野蛮の母胎”でもあった。なぜなら、近代はこの地上に地獄を創造する奇形の哲学をも出産した「母」でもあったからだ。

 上記の地獄とは社会主義・共産主義・全体主義のことであり、奇形の哲学とはロックやルソーやモンテスキューやカントに代表される近代啓蒙思想のことである。中川は、全体主義に不可避的につながる社会主義や共産主義を生むのは、理性を重視する近代啓蒙思想であるとし、それを真っ向から否定する。そればかりか、理性主義の始祖ともいえる「われ思う、ゆえにわれあり」のデカルトさえも「無益にして有害」と弾劾する。
 いわば、近代の否定である。

 デカルトを称賛したり肯定的に捉えるのはその思想に不健全性と狂気の芽が潜んでいることであり、逆にこれを否定するものは思想の健康と人格の健全性が保たれていることを示す。

 ルソーは全体主義者であって自分が専制者・独裁者になりたいのである。そのために、そして一般通念上の(あるいは18世紀フランスの)法や美徳を根こそぎ破壊し消し去りたいのである。ルソーはそのような本心をひた隠して、この本心の最終目標に至る中間目標としての君主政体打倒のために、「嘘、嘘、嘘、・・・・・」を羅列して君主政体に悪罵をあらん限り投げつける。

 中川が近代啓蒙思想のキーワードである「人権、平等、民主、進歩、変革」を毛嫌いするのも当然であろう。
 日本や欧米をはじめ現代の先進諸国のほとんどは、こうした近代啓蒙思想を基盤として国家づくりをしており、国民も多かれ少なかれ、これらの概念なり思想なりを正当なものと思い、それに則って生活を送っている。
 なので、近代を憎む中川は同時に現代をも憎んでいるわけである。デカルト登場以降の世界史にNOを突き付け、丸々3世紀を茶番とみなしているようなもので、筋金入りの反動には慄きすら覚える。

 中川はなぜ理性主義を厭うのか。

 文明社会とは、「人知(人間の理性)を超えたもの」に大きく依存しつつ発展しているものである。人間の知力(理性)の部分は、無(ゼロ)ではないがささやかであり限定されたものである。むしろ、人間とは、その本質において、高度に合理的であろうはずもなく、さほど賢明でもなく、むしろ極めて非合理的で誤りに陥りやすいものである。よって、文明の人間社会とは“斬新的な発展(改良、進化)”が期待されるのであって、「革命的な進歩」は万が一にもありえない。

 国家の歴史と伝統と慣習とが大切に共有され、これに発する権威が敬されているとき、政治社会は全体主義に堕するのを防がれるが故に、伝統や慣習こそは自由を育み国民の自由を守る砦なのである。過去の祖先が築きあげた伝統と慣習とを相続し守成し、「平等」と「変革」のデモクラシーに抗するその叡智における「保守する精神」が、美と崇高な倫理に裏付けられた自由の原理の淵源である。

 ここに中川の保守思想の根本がある。
 過去の歴史と伝統と慣習とを一挙に破壊する行為であるフランス革命やロシア革命の意義を全否定する中川が「良し」とするのが、前近代の君主政体であり、封建制であり、貴族や宗教家が幅を利かせる階級社会、もしくはその遺風を残した現代英国のような階級社会に基づく立憲君主制となるのも当然の帰結である。

 自由は、みずからの精神の高貴性を価値とする倫理でもある。“良心の自由”と言うのはその俗的な表現の一つである。だから、真正の自由あるいは徳ある自由は、“開かれた不平等”の封建体制もしくはその遺制が育まれているところのみに存在できる。

 そもそも身分秩序という階級制度を、平等が「進歩」だとするドグマは、否定し排斥するが、伝統と権威が自由の砦であると再認識するならば、自由を価値とする思想においてこの伝統と権威が最も尊重されてそれらが活性的に機能する身分秩序のある政治体制も再評価されるべきであろう。

 中川がその実現を願う正統なる政治体制とは、つまり、歴史と伝統に支えられた権威ある君主(国王、天皇)を頂点に戴き、世襲財産に裏付けられた伝統的な家系を持つ一部のエリート(貴族)らによって低劣愚昧なる大衆が訓導される、「民主・人権・平等・進歩・改革」を排する階級社会なのである。
 そして、「民主・人権・平等・進歩・改革」といった概念が否定されなくてはならないのは、それが愚昧なる大衆に非現実的なユートピア幻想を抱かせ、“正統なる”国家の伝統や慣習を破壊させ、家族や自治組織や宗教団体や企業といったいわゆる中間組織を消失させ、個人をアトム(原子)化し、結果として国家権力を増大させ、全体主義に堕するから――となる。


君主



 中川の文章は明晰かつ修辞が巧みで、読み手を非常に惹きつける。論旨も一応通っていて、説得力がある。有名な哲学者や思想家の著作からの引用が多く、持論をアカデミックに理論づける手腕も見事。しかも、学術論文には珍しい主観的・情熱的な筆致で、読む者を扇動する力が備わっている。
 大学時代に中川の授業を取っていたら、ソルティも強く影響され、「自分はこれまで間違った歴史認識を押し付けられていた!」と覚醒し、学校教育に憤りを感じ、右翼に走っていたかもしれない。
 実際、本書には中川オリジナルの思想ではないとしても、「なるほどなあ」と思うような穿った言葉も数々あった。

 人間も社会も、過去をひきずり過去を背負って存在しうる。また、いずれも根源的には過去の産物であり過去から生成されたものであるから、それらを過去と切断し分離することは決してできない。歴史において生成されたものは、歴史なしにはその生命を息づくことはできない。

 科学技術あるいは物質的な文明と異なって、そもそも人間に「進化」などありえない。・・・・(中略)・・・・。況んや、個人であるときの人間より知能も思考も大幅低下する「群衆」が「進化」することなどありえるはずがない。ダーウィン主義の思想的弊害は大きい。
(※ソルティ注:中川はダーウィンの進化論も「思想(ドグマ)であって、まだ科学とはなってない」とする)

 ユートピアは、その文学を見ても哲学から生じた共産体制の現実を見ても、人間の人格を破棄(破壊)することによって生じる未来社会であり、そこでは人間のもつべき温かい血は人間から抜きとられている。人間の倫理が消えて道徳のない未来であり、人間自身が物になってしまう未来である。そもそも未来を夢想して現在を最善に生きようとしない人間など倫理喪失の無頼の徒であって、かくも即物的な人生しかできないものが建設する未来社会が即物的以外でありえるはずがない。

 「社会」で処理されるべきものまですべて国家の強制でその解決や要求の充足を求めようとすることは、いやが応でも国家権力の拡張と肥大化をもたらし、かくして国家は両刃の剣となって国民を襲うものとなる。

 最後の引用などは、介護の現場で働くソルティも日々、懸念するところである。
 介護保険の導入は増加する一方の要介護高齢者を支えるために必須なものであったのは指摘するまでもないことだが、それはまた、家族や自治組織や宗教団体や企業といったいわゆる中間組織の衰退を促進するリスク、すなわち地域で高齢者を支える力を弱めてしまうリスクと裏腹にあることは否めない。
 要介護高齢者は介護保険によって国家に直に管理されることになり、国の政策ひとつによって受けられる介護や生活の質が決まってくる、すなわち国に命綱が握られて個人の自由が制限されてしまう。国が描く「理想的な要介護高齢者像=一所懸命リハビリし社会参加し自立した生活を送る」を目指して頑張らないと、税金泥棒と目されてしまう。(もちろん、介護保険を使わないという選択肢はある。が、金持ちにしかできない選択だろう)


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 閑話休題。
 ソルティは歴史にも哲学にも政治学にも詳しくなく、本書で中川が引用している思想家の著書もほとんど読んでいないので、中川がその思想家の主張を正しく解釈し適切に引用しているのかどうかがわからない。中川の解釈や引用が適切であるとしても、思想家の主張自体が正しいかどうかの判断がつかない。なので、中川の主張の是非なり正否なりを判定することはできかねる。
 できるのは、中川八洋という人物の思想の核(アイデンティティ)をなしているものの推察くらいである。
 次の四点を読み取ることができる。
  1.  社会主義、共産主義、全体主義、そして民主主義への憎悪
  2.  大衆への侮蔑と嫌悪、あるいはエリート主義(=部分除外的性悪説)
  3.  変化への嫌悪
  4.  今の日本への嫌悪、あるいは日本国憲法への嫌悪
 とりわけ目立つのは、2番の大衆への侮蔑と嫌悪である。

 「大衆」は政治に関する真偽を識別する能力をもっていない。みずから熟考することもないし推論や批判の精神ももっていない。真理や真実への関心がなく、嘘でも幻想でも「誤謬でも魅力があるのならば、神のように崇めようとする」。

 実際に、いかなる国家であれ、その国民は、①(法秩序と道徳に従いうる)文明的人間、②(それが未熟な)反文明的人間、③(それがまったく欠けている)野蛮的(野獣的)人間、そして④(野獣以下の)犯罪者など、の四階級で構成されている。

 むろん、このように大衆を侮蔑・愚弄する中川自身は、①の文明的人間であり、生まれついてのエリートであり、いわゆる“上級国民”なのであろう。少なくとも、そう自覚しているに違いない。
 なんとなく、かつてクラスで集団いじめを受けていた優等生のトラウマ&報復のような匂いがしないでもない・・・・。
 
 中川の主張に反論こそできないが、「じゃあ、これはどうなの?」と不審に思った点を三つほど挙げる。
 まず、社会主義や共産主義が全体主義(ファシズム)に結びつく可能性が高いことは理論的にも納得するし、現実世界においても北朝鮮や中国のケ-スで証明されている。
 だが、「逆もまた真なり」と言えるだろうか?
 全体主義を招くのは社会主義や共産主義だけであろうか?
 ファシズムの代名詞と言っても良い戦前のナチスドイツ、そして軍国主義の大日本帝国。どちらも共産主義とは関係ない。むしろ、共産主義者を徹底的に弾圧したのではなかったか。
 ソルティは全体主義とは特定の主義ではなく形態のことだと思う。一人のカリスマ性ある独裁者と、一見輝かしく見えるが実現性に欠ける高邁なる目標と、それに洗脳されて(あるいは恐怖から)盲従する大衆と、暴力的な排除と選別による統制と、共通の外敵と・・・。それらが揃ったところに全体主義は誕生する。つまり、右も左も関係ない。
 中川もこの矛盾をどこかで感じていたらしい。こんな理屈をこねている。
 
 S・ノイマンの指摘どおり、大正時代の「大衆デモクラシー」が、1929年のウォール街の株の暴落に始まる大恐慌以来大きく流入し始めた社会主義・共産主義思想と合体したとき、それは1940年の「新体制」という名の日本型全体主義へとヒドラのごとく成長していったのである。 

 これはもう牽強付会というよりはトンデモ領域であろう。
 中川はほかの著書(PHP研究所発行『近衛文麿の戦争責任』2010年)で、もっとはっきりと、「近衛文麿がコミュニストだった」とか「ソ連のスパイに、日本の中枢がハイジャックされてた」とか「陸軍の中枢は共産主義者が大半を占めていた」とか述べているらしい。
 どうあっても、共産主義=全体主義を貫きたいのである。
 
 二つ目に、中川が近代啓蒙思想の誤謬と害毒を縷々として説き、それに煽られて勃発したフランス革命やロシア革命をこきおろすとき、その根拠にあるのはデカルト以来の理性主義、すなわちノーベル経済学賞をとったフリードリッヒ・ハイオク(1899-1992)言うところの「設計主義的合理主義」に対する批判である。
 
 ハイエクの言う「設計主義的合理主義」とは、たとえれば、荒野にまったく新しい巨大都市を設計し建設するように、政治社会や経済社会をある人間の「理性」(知力)によって合目的的につくっていけばこれらの社会はより確実に「進歩」し、より「完全」なものになるとする思想(主義、教義)のことである。この「理性主義」の信奉者が権力を掌握するや、その結果は「進歩」でもなく「完全」でもなく、フランス革命やロシア革命が証明(実験)したように、ただ野蛮で暗黒の社会に反転する。 

 単純化すると、これまでの成り行きを尊重して流れのままに社会を漸次的に改良するのが正しいのであって、これまでの流れを断ち切って一から設計図を引くような急激な改革はもってのほか、ということである。
 しかしながら、ここでソルティは引っかかるのである。
 近代啓蒙主義は突如としてこの世に現れたのだろうか?
 旧約聖書のモーゼが天から十戒を授けられたように、デカルトやロックやルソーはどっかから啓示を受けて、何もないところから各々の思想を造り上げたのだろうか?
 そして、近代啓蒙思想がフランス革命やロシア革命を引き起こす重要な因となったのは事実であるとしても、その思想の力だけであたかもマッチで油紙に火をつけるように人為的に民衆を焚き付け、王政打倒に向けて動かすなど果たして可能だったであろうか?
 つまり、歴史は人為か、必然か?


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 ソルティは、歴史は小さいところでは人為も働くであろうが、全般に必然だと思うのである。近代啓蒙思想が起こったのも、ルイ王朝の王侯貴族や宗教者の腐敗と凄絶なる貧困に堪えかねた民衆が暴動を起こしたのも、それが革命に結び付いたのも、必然と思うのである。絶対王政と封建制度のもとで虐げられてきた民衆の怒りが革命のエネルギーになったのであって、それなくしては、いくらブルジョアジーの指導者が口を酸っぱくして啓蒙思想を説いたところで、クーデターは成功すまい。そして、王権神授説により神聖化されてきた国王に歯向かうという、“神をも恐れぬ大それた行為”をなさんとするときに民衆が必要とした護符(言い訳)、それが近代啓蒙思想だったのではなかろうか。
 仏教の因縁や縁起を持ち出すまでもなく、原因と理由と条件があるから結果が生じる。なにもないところから現象が生じることはない。
 歴史もまた然り。
 進化論における突然変異よろしく、これまでの漸次的流れを断ち切ってまったく新しい思想が突如として出現しそれに無知な民衆が乗せられた――なんていうのは、映画『2001年宇宙の旅』でモノリスに触れた猿が一気にヒトに進化したというのと同じくらい、荒唐無稽な寓話としか思えない。
 中川自身がいみじくも述べている通り、「人間も社会も根源的には過去の産物であり過去から生成されたもの」なのであるから、ロックやルソーやカントやマルクスの思想さえ、それが如何に目新しく過激に見えようとも、過去の歴史の中からそれなりの必然性をもって生まれたものである。
 すべては起こるべくして起こる。
 
 三つ目に、中川が封建体制や身分秩序ある階級社会を是とすることができるのは、先に書いたように、自身がエリート階級に属すると信じて疑わないからであろう。
 たとえば中川が、女性であったり、被差別部落に生まれたり、ゲイであったり、障害者であったり、貧困家庭に生まれ育ったり、黒人奴隷であったり、在日朝鮮人であったり、アイヌであったり、すなわちマイノリティであっても、同じことが言えるのだろうか?
 自らの既得権に立脚してエリート意識を振りかざすのは一種の「選民思想」であって、まさにそれこそはナチスやオウム真理教の例を見るまでもなく、ファシズムの胚芽なのではあるまいか。 

 
P.S. 中川八洋氏の最近の発言および動向は、「中川八洋ゼミ講義」というサイトで確認することができます。
 


 
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● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 7

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 たいていの人はさみしさを感じていますが、独りで生きているわけではありません。
 彼らはただすごくさみしく感じているだけで、独りで生きているわけではないのです。
 独りで生きていてもさみしくならないということが、あなたにはできる。
 これこそ瞑想者の学ぶべきことであり、またそれができるように学ぶことは、たいへん有益なことでもあります。
 「独りでいても、さみしくないこと」
(標題書 P.505より抜粋)


 18歳の秋に人生初めての一人旅をした。
 行先は京都であった。

 当時、東京駅23:30発の大垣行き普通夜行列車というのがあった。
 大垣駅に朝の7時頃に到着、乗り換えて京都には9時くらいに着いただろうか(朝の京都タワーがまぶしかった)。
 まだ青春18切符も、JR東海「そうだ京都、行こう。」キャンペーンもない時代で、紅葉時期にも関わらず京都は空いていたし、夜行列車も空いていた。
 青い布張りの向かい合わせのボックスシートを一人占めにし、缶コーヒー片手に東京駅のホームが後方に去っていくのを眺めた。
 初めての一人旅にワクワク、というより心細かった。
 さびしかった。

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大垣行き夜行列車
静岡駅で長い停車があり、駅弁や網入りミカンを買うことができた


 実家暮らしだったので、一人でいることに慣れていなかった。
 どこかに遊びに行くときは家族や友人と一緒だったので、一人で行動することにも慣れていなかった。
 京都の観光名所を巡っている時も、一人ぼっちの自分を意識してしまって、妙に落ち着かなかった。
 一人で食堂に入った時も、周囲の目が気になり、ゆっくり過ごすことができなかった。
 ふと見ると、隣のテーブルで中年の会社員らしき男がワイシャツの袖をまくり、煙草をくゆらしながら、新聞を読んでいた。 
 その泰然自若たる落ち着きぶりに憧れた。
 「自分もあんなふうに“一人でいても間が持てる男”になりたい」と思った。
 カッコよく言えば、孤独が似合う男になりたかった。
 いや、一人でいても孤独を感じない男になりたかった。
 英語で言うなら、Lonely でなく Alone だ。 

孤独な男


 あれから幾星霜。
 すっかり一人が板についたソルティ。
 一人旅を重ねること数十回、山登りの単独行数百回、一人映画、一人コンサート、一人落語、一人呑み、そして一人暮らし数十年(いまは実家住まい)。
 今もっともくつろぐ瞬間は、一人でお気に入りのレストランやカフェで本を読んでいるとき、そして瞑想中である。
 さびしいとか侘しいとか心細いといった思いはみじんもなく、周囲の目もまったく気にならない。
 おおむね安穏としている。 
 完璧に Lonely から Alone になった。
 18歳の秋に憧れていた男になった。

 しかるにまずったことに、逆に今は「誰かと一緒にいること」が不得手になってしまったようなのである。
 その誰かが、レストランの隣席にいるようなまったくの他人だったら問題はないのだが、ちょっとでも言葉を交わし見知っている人となると、どうにも 相手に気を遣ってしまって、自分の世界に閉じこもれなくなり、くつろげなくなる。
 一人上手を極めた結果なのかとも思うが、考えてみると一人でいる(=自分と過ごす)方が、誰かといる(=他人と過ごす)よりも気楽なのはあたりまえなのだ。
 ソルティはたぶん、ずっと前から、最近はやりのHSP(繊細さん)だったのであろう。

 人と会うことも、人と話すことも、人と遊ぶことも、決して嫌いではないのだが――であればこそ接客や対人支援の仕事ばかり就いてきたわけだ――それでもなお、一人でいることの魅力には及ばない。
 

キヨブタ











  



 

● 映画:『ジュディ 虹の彼方に』(ルパート・グールド監督)

2019年イギリス、アメリカ
118分

 ルキノ・ヴィスコンティ『ベニスに死す』(1971)で絶世の美少年タドズオを演じたビョルン・アンドレセンが、65歳の最近になって、少年の彼を性的搾取したとしてヴィスコンティや祖母や周囲の大人たちを告発したことが話題となっている。
 撮影当時15歳だった彼。
 「あれほどの美貌に大人が群がらないわけはあるまい。とりわけ今のようにセクハラやパワハラに対する世間の厳しい目や #MeToo 運動がない時代に・・・」と思ってはいたが、やはりいろいろ苦労したようである。

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ビョルン・アンドレセン(15歳)


 彼ほどの美貌ではないにしても、子供時代に一躍スターになった者がその後の人生を苦難続きにしてしまうのはよく聞く話である。
 マイケル・ジャクソン然り、ホイットニー・ヒューストン然り、マコーレー・カルキン然り、ケンちゃんこと宮脇健(旧芸名は康之)然り。
 この映画の主役ジュディ・ガーランドもまさにその一人だった。

 『オズの魔法使い』、『若草の頃』、『イースター・パレード』、『スター誕生』で見せた抜群の演技力と歌唱力、ゴールデン・グローブ賞やグラミー賞はじめ数々の栄誉、フレッド・アステアやミッキー・ルーニーやフランク・シナトラとの共演、生涯5度の結婚。
 華やかなスポットライト人生の陰に、少女時代に受けた虐待に等しい大人たちによる搾取があり、それがトラウマとなって彼女を生涯苦しめ続けた。
 本作でははっきり描かれていないが、プロデューサーへの枕営業も強いられたという噂もある。
 ドロシーを演じたときは、覚醒剤の常用で意識朦朧だったとか・・・。

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『オズの魔法使い』でドロシーを演じた


 本作はジュディが晩年に行ったイギリスライブの模様を軸に、人気低迷し、スキャンダルにまみれ、荒れた生活を送る四十半ばの彼女の姿が描かれる。
 ホテル代も支払えないほど窮乏し、愛する子供を手放さなければならず、薬やアルコールや男に頼らなければステージに立てない、身も心もぼろぼろのジュディが痛ましくも切ない。
 が、いったんマイクを握ってステージに立ち、スポットライトと観客の視線を浴びれば、歌わずにはいられない。
 ちあきなおみの名曲『喝采』に通じるような芸人としての性(さが)。

 ジュディを演じたレネー・ゼルウィガーはこれで主演女優賞を総なめにした。
 実際にすべての歌を吹き替えでなく自身で歌っているというから凄い。
 ラストを飾る『オーヴァー・ザ・レインボウ』など、涙なしで聞けない。

 ジュディ・ガーランドはゲイのアイコンとしても名高い。
 本作でもジュディの大ファンの中年ゲイカップルが登場し、ジュディと心温まる触れ合いを持つ。
 当時英国は(米国も)ソドミー法により同性愛行為は処罰の対象であった。
 彼らは「虹の彼方」にある自由な世界――好きな人と腕を組んで白昼堂々歩くことができるエメラルドシティ――にどれだけ思いを馳せたことか!
 アメリカの同性愛者による歴史的な暴動「ストーンウォールの反乱」は、ジュディの葬儀翌日(1969年6月28日)に起きた。
 ここに因果関係を見る人は多い。
 むろん、ソルティもその一人である。

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おすすめ度 :★★★★

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● 映画:『千年の愉楽』(若松孝二監督)

2013年
118分

 原作は中上健次の同名小説。
 中上言うところの“路地”、すなわち海辺の被差別部落を舞台とする、不吉な伝承に囚われたある一族の美しき男たちの生き様、死に様が描かれる。

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 夭折した芥川賞作家・中上健次と『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007年)の若松孝二に対する敬意から見続けはしたが、かなり退屈した。
 途中で止めなかったのは、主演のオリウを演じる寺島しのぶの演技ゆえである。
 同じ役名である“お竜”を演じた母親(富司純子)の映画はずいぶん観たけれど、娘の出演作は水野晴朗の撮った『シベリア超特急2』しか観ておらず、しかも出演シーンをまったく覚えていない。
 今回初めてしっかりと観た。
 美貌の点では母親にはかなわないが、演技力では上かもしれない。
 これからほかの出演作を当たっていきたい。

 若松の演出は、室内シーンはまだ良いが、室外が良くない。
 まるでテレビのような安易な演出、カメラ回しでげんなりした。
 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では室内シーンが多かったので、この欠点に気づかなかったのだろう。
 低予算のせいもあるかと思うが、肝心の路地という場所の空気が醸されていない。
 主要人物以外の住人の姿もなく、路地で遊ぶ子供の声すら聞こえない。
 男たちが山中で木を伐採するシーンでも、山の気というものがまるで映し撮られていない。
 中上健次が観たら、どう思っただろう?

 中本家の男たちはたんなる美形ではなく、女が放っておかないフェロモンの持ち主という設定だが、演じている役者たち(高良健吾、高岡蒼佑、染谷将太)はなるほど美形かもしれないが、性的魅力が今一つである。
 ただこれは、若松監督が男を色っぽく撮れないからなのかもしれない。
 迫力では高岡蒼佑が群を抜いている。

 ソルティは中上健次はほとんど読んでいないので、その世界観や思想を知らず、批評できる立場にはない。
 なので、この映画だけからの印象である。
 路地で生まれ育った男たちの暴力や犯罪癖、セックスや薬への依存、つまり狂った性格や破滅的な生涯を「身内に流れる高貴で忌まわしい血のせい」としてしまうのは、前近代的な言説であると同時に、一種の自己陶酔であろう。
 いわゆる貴種流離譚である。
 ソルティはむしろ、こんなに海の近くに生まれ育ちながら漁の仲間に入れないという差別的な境遇こそが、男たちを絶望させ自己破壊的な生に向かわせているように思う。
 その事実から目を背けるための救いとしての装置が「高貴な血の呪い」伝承であるならば、それはある意味、現実逃避にほかならない。
 高貴な血の呪い伝承とは、反転した天皇神話なのではあるまいか。

 ラストクレジットのBGMでは、明治維新で四民平等になったはずなのに“一般民”に嬲り殺された部落民のさまを描いた小唄が流される。
 少なくとも、若松監督にはその視点があった。 



おすすめ度 :★★

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     読み損、観て損、聴き損


 



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