ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● だれもが当事者

たぶん40歳以下の人は知らないだろうが、今から30年以上前にエイズパニックというものがあった。
日本はもちろん、世界中で。

80年代初頭アメリカで、免疫力が次第に損なわれて死に至る奇病が、ゲイの間で蔓延した。
まもなく、原因はHIV(ヒト免疫不全ウイルス)であると判明し、AIDS(後天性免疫不全症候群)と名付けられた。
1985年に日本人第1号患者の報道があった。アメリカ在住のゲイの男性だった。

ここまでは対岸の火事。

1987年、神戸で日本人女性の感染が報告された。
そこからのパニックが凄まじかった。
マスコミはこの女性の氏名・住所をつきとめて顔写真入りで公開した。
風俗に勤めているというデマが広がった結果、歓楽街が空になった。
この女性が外国人と付き合っていたという噂が独り歩きし、その後に松本で起きたフィリピン人女性の感染報道と相まって、各地で外国人入店拒否などの差別が起こった。
検査所に身に覚えある男達が殺到した。
ノイローゼとなったある弁護士は、検査結果を待たずに自殺した。(結果陰性だった)


エイズパニック記事(神戸)
昭和62年1月18日のサンケイ新聞(当時)朝刊


感染者に対する差別は酷いものであった。
診療拒否、病院たらい回し、解雇、内定取り消し、入居拒否、さまざまなレベルのプライヴァシー破壊・・・・・。家族もまた差別された。
ソルティは、当時の様子を調べるため、関東地方のある大病院を取材したことがある。
その際、担当者は言った。
「最初にウチに入院した患者が亡くなったあと、彼が使っていたベッドを焼却しました」
パニックになると、科学的事実など簡単に吹っ飛ぶものだと痛感した。

HIVは当初、ゲイと血友病患者と風俗で働く(遊ぶ)人の特有の病と思われていた。
「不特定多数の相手とのセックスは避けましょう」と盛んに言われた。
そこに当てはまらない人間にとっては、当事者性が低い。
「血友病患者をのぞけば、性的にふしだらな人間がかかる病でしょう?」とみなされた結果、感染者は倫理的に断罪され、それが差別を助長した。

感染者と分かると差別されると知って、こんどは検査を受ける人が激減した。
「どうせ陽性と分かったところで治療法はないし、八分されるだけでしょう? なら、このまま何も知らずに、いままで通りの生活を続けるよ」
感染拡大防止の観点から、これがもっとも怖い展開なのは言うまでもない。
(※現在、HIVには何種類もの薬がある。血液中のウイルスを検出限度以下まで減らし、AIDS発病を抑制できる。相手に感染させるリスクもほぼゼロになる)

コロナウイルス


新型コロナウイルスは、人と関わって社会生活を送る人間ならば、だれでも感染しうる。
感染者に対する差別は、いずれ差別した当人にそのまま降りかかってくる。
倫理も、貧富の差も、地位も、職業も、性別も、セクシュアリティも、性行動も、国籍も、人種も、年齢も、関係ない。
大統領も、世界的スターも、政治家も、官僚も、医者も、金持ちも、宗教家も、そうでない人々と同じ俎上に上げられる。

だれもが当事者。
それが今回のウイルス騒動の特徴であろう。




 

● ある死刑判決 映画:『ヘンリー ある連続殺人鬼の記録』(ジョン・マクノートン監督)

1990年アメリカ
83分

 実在したアメリカの連続殺人鬼、ヘンリー・リー・ルーカス(1936-2001)を描いたホラードキュメンタリー。
 トマス・ハリス著『羊たちの沈黙』に登場するハンニバル・レクター博士のモデルの一人と言われる。

 ヘンリーは、実の母親を含め、300人以上を殺した。
 女性を憎み、とくに娼婦を標的とすることが多かった。
 「女は存在する必要がない。だから見つければ全て殺す」と言ったとか。

 こういったシリアルキラーは、一般にサイコパス(精神病質者)とみなされることが多い。
 『黒い家』や『悪の教典』など、日本でもサイコパスが登場するフィクションが昨今人気である。
 ウィキによれば、「サイコパスの主な特徴は、極端な冷酷さ・無慈悲・エゴイズム・感情の欠如・結果至上主義」だそうだが、その原因についてははっきりと分かっていないようだ。
 遺伝や脳機能障害などの先天的要因と、幼少期の虐待や成育環境などの後天的要因との複合――といったあたりが、説明としては無難なのかもしれない。

 ヘンリーの場合、後天的要因がかなり大きいようだ。
 幼少時、娼婦だった母親から受けた手酷い虐待によって生まれたひずみが、長じてから性欲の高まりとともに、負の形で暴発したように思われる。 
 だからと言って、罪が免れるわけではまったくないが・・・・・。(死刑囚ヘンリーは獄中で亡くなった)

孤独なテディベア

 
 本日(3/16)、横浜地裁は、植松聖に死刑を言い渡した。
 2016年7月に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた大量殺人傷害事件の加害者である。

 事件以降、いろいろなメディアで、植松聖の生い立ちや近所の評判、学校時代の同級生の証言などの記事を目にしたが、これほど加害者の成育環境と実際の事件の残虐さとが乖離している印象を受けるケースも珍しい気がする。
 大麻の影響とか、障害者に対する差別意識とか、事件の要因となったものはいろいろ考えられると思う。
 が、ここまで常軌を逸した破壊行動を起こすのは、幼少期によほど酷い虐待があったのだろうと推測せざるを得ない。

 ところが、報道を見た限りに過ぎないが、植松聖はそれほど悲惨な幼少時代を送ったというわけでも、虐待家庭に育ったというわけでもなさそうなので、奇異な印象を受けるのである。
 であるなら、先天的要因、あるいは精神分裂病などの病気を疑わざるを得ない。
 あるいは、憑依現象とか。
 だからと言って、罪が免れるわけではまったくないが・・・・・。

 死刑判決の日にこの映画を観たのはまったくの偶然である。
 映画自体は、残酷なシーンが盛り沢山で、しかもそれをノンフィクションと知りながら観ることになるので、おすすめできない。
 

おすすめ度 :

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● なお美、追想 映画:『鍵』(市川崑監督)

1959年大映
107分
原作 谷崎潤一郎
音楽 芥川也寸志
撮影 宮川一夫

 『鍵』の映画化というと、ソルティ世代ではまず池田敏春監督、川島なお美主演の1997年版を想起する。
 ヴァイオリンのようなつややかな裸体を透明な湯に沈め、朦朧とも恍惚ともつかぬ面持ちで浴槽のふちにしなだれている、当時「失楽園」女優として絶好調だったなお美の宣伝ポスターが目に浮かぶ。
 あのポスターはやらしかった。 
 
 大映の誇る大スター、グランプリ女優の京マチ子が、なお美レベルの自己開示を許すはずもなく、相手役の中村鴈治郎の煩悩まみれのねっとりした眼光をもってしても、この作品のエロ度はたいしたものではない。

 いや、そもそも京マチ子は一般に思われていたほど色気があるのか、という点もある。
 きれいなのは間違いない。妖しさを引き立てる顔立ちなのも確かである。『羅生門』や『雨月物語』における存在感は大女優の名に恥じない。
 しかし、たとえば同じ大映スターであった若尾文子、山本富士子とくらべたときに、「女」を演じて妙にサバサバしているような気がする。宝塚の男役が退団したあと、女役をやっているような印象というか。大地真央とか天海祐希のような・・・。
 その意味では、京マチ子の出演作で最も印象的なのは、井上梅次監督によるミュージカル『黒蜥蜴』(1962)の男装である。この映画は面白かった。三島由紀夫作詞「黒蜥蜴の歌」に合わせて歌い踊る手下どもがショッカーのようで、超シュール。

黒蜥蜴

 市川崑監督がまたエロを撮れない(撮らない?)人である。
 『鍵』は谷崎文学の中でも、『瘋癲老人日記』と並んで老人の変態性欲を描いて煽情的な作品の一つと思うが、この映画を観ていると、どうしても市川崑の金田一耕助シリーズの一作のように思えてくる。結末では毒殺事件まで出てくる! 
 若尾文子を主演に撮った木村恵吾や増村保造の谷崎作品、あるいは加藤泰の『江戸川乱歩の陰獣』などとくらべると、エロ度の低さ、変態度の薄さを指摘せざるを得ない。
 潤一郎ファンは納得するまい。

 ま、そうであればこそ、市川崑は大衆に愛された娯楽作品をあれほどたくさん作れたのであろう。
 良くも悪くも健全なのである。 


 
おすすめ度 : ★★

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● イヤミス NO.1 本:『悲しみのイレーヌ』(ピエール・ルメートル著)

2006年原著刊行
2015年文藝春秋

 『その女アレックス』、『天国でまた会おう』などで、いまや現代フランスを代表する作家となったピエール・ルメートルのデビュー作。
 原題 Travail soigné は「丁寧な仕事」といった意。

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  もし本国フランスでの発表順どおりに、最初に読んだのがこの『悲しみのイレーヌ』だったならば、ソルティはこの作家の他の作品は読まなかったであろう。
 それくらいイヤミスだった。
 『死刑囚』、『ボックス21』、『三秒間の死角』、『熊と踊れ』のスウェーデン作家アンデシュ・ルースルンド+1 も見事なまでのイヤミス系だが、これにくらべれば天使のウンコだ。
 ピエール・ルメートルのイヤミスぶりは、どうやらお国の怪物作家サド侯爵の流れを汲むような、悪魔主義といった趣さえ感じられる。
 
 映画にもなった『その女アレックス』の残虐ぶりは読んでいて身が痛くなるほどであった。
 が、デビュー作はもっと悪魔的で陰惨、嘔吐を催させる。
 酸鼻極める残虐、容赦ない鬼畜の所業、悪魔が凱歌を上げる結末。
 まったく救いがない。
 ルメートルがおのれの嗜虐趣向(サディズム)を、創作することで昇華していると聞いても、少しも驚かない。(そう言えば、フランス人ってなんとなくSM好きのイメージがある。サドとミッシェル・フーコーのせい?)

 テレビや映画などの映像や、漫画や絵画などの二次元にくらべれば、活字である小説は、画像が直接視覚に映るわけではないので、残虐性は緩和されるのが一般である。
 羅列されている言葉が、読み手の想像力に合わせて脳内でイメージ化され、はじめて画像が結ばれる。衝撃は間接的なものだ。
 しかるに、この『悲しみのイレーヌ』に関しては、すでに活字の段階で結末に進むことを拒否したくなるほどの残酷さ、生理的不快感に満ちている。
 これは映画化してほしくない。(構成上、映画化は不可能と思われるが)

 イヤミスぶりは残虐性だけにあるのではない。
 トリックにもある。
 この小説に使われているメイントリックは、アゴタ・クリストフ著『ふたりの証拠』を思わせるような叙述トリックの一種、言ってみればメタフィクション・トリックである。

メタフィクション(Metafiction)とは、フィクションについてのフィクション、小説というジャンル自体に言及・批評するような小説のこと。

メタフィクションは、それが作り話であるということを意図的に(しばしば自己言及的に)読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する。メタフィクションの自己言及の方法には、例えば小説の中にもうひとつの小説について語る小説家を登場させたり、小説の内部で先行作品の引用・批評を行ったり、小説の登場人物を実在の人物や作者と対話させたり、あるいは作者自身を登場人物の一人として作品内に登場させる、といったものがある。
(ウィキペディア『メタフィクション』より抜粋)

 ネタばらしになるので詳細は記さないが、『悲しみのイレーヌ』は、小説の中に別の小説(しかも複数)が登場する非常に凝った構成が特徴である。
 芸術至上主義の純文学の作家やSF作家がこれをやるぶんにはかまわない。が、ミステリーでやられるのは腹が立つ。
 トリックが見抜けなかったから腹が立つのではない。作者にうまいことだまされたから腹が立つのではない。それならむしろ、「天晴!」と素直に称賛もしよう。
 書かれていることをそのまま信じることができなくなるから、作者を根本的に信用できなくなるから、腹が立つのだ。
 アンフェアだ!

 ミステリーの愉しみはやはり、紙面に書かれていることをたよりに、読者が自分なりに頭を働かせて、犯人なりトリックなりを推理し解明していくところにある。
 加えて、紙面に書かれている描写をもとに、主役はじめ登場人物たちを自分なりにイメージ化し、そのキャラクターを楽しむことにある。
 書き手を信じられてこそ、それは可能なのだ。
 その前提を裏切るメタフィクション・トリックは、ソルティには許しがたい暴挙と思える。

 ルメートルの小説を読むことはこの先ないであろう。
 少なくともミステリーは。



おすすめ度 :

★★★★★ 
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● ほすぴたる記 その後16 ああ、上野駅!(事故後100日)

 今日は担当医による診察日だった。
 病院の空き加減がはなはだしい。
 とくに整形外科の待合室の椅子はいつもの半分も埋まっていない。
 それほど必要もないのに来院していた高齢者が多かったってことか。

 視診もレントゲン結果も異常なし。
 今後は月一回の診察でよいらしい。
 「いまコロナで外来リハはやってないけれど、自主リハで頑張ってください」と先生。
 頑張りますとも。

 松葉杖なしでもかなり安定して歩けるようになった。
 が、杖なしだとケガをした左足は楽に流されて、足裏全体をべったりと地面につけてのガニ股歩きになってしまう。
 踵から先にまっすぐ地面につけて、最後はつま先で蹴る、正しい歩き方ができない。
 癖がついたらまずいので、もう少し松葉杖を使った矯正が必要だ。
 
 とにかく、左足一本での爪先立ちがまったくできないのである。(両足ならできる)
 「踵をやった人は爪先立ちができなくなることが多いですね」と、いつぞやリハビリスタッフが言った。
 「そうか、じゃあ、もうバレエはあきらめるか」
 「右足でならグランフェッティ(回転)できますよ」
 などと冗談を言って笑っていられたのは、片足だけで爪先立ちするシチュエイションなど日常にはないだろう、と思っていたからであった。

 なんと浅はかな!

 片足で爪先立ちができないってのは、走れないってことなのだ。
 わたし、もう走れないの?!
 その昔の大映ドラマ『赤い衝撃』の山口百恵のブルマに赤いハチマキ姿(スプリンター大山友子役)が浮かんだ。
 走れ! 俺のウサギ!(by 中条静夫)

爪先立ち

 
 爪先立ちの訓練を開始した。
 一番いいレッスンはバレエでなくて、浮力が利用できる水の中でのリハビリ、つまり水中ウォーキングだと思う。
 が、この時節スポーツジムに行ったものかどうか・・・。
 散歩の途中、会員証を持っている近所のスポーツジムをガラス越しにのぞくと、トレーニングルームは見事に閑古鳥が鳴いていた。
 一番近くの人との距離が3メートルくらいの人口密度の低さ。
 これならかえって安全かも・・・?
 
 午後は用事で都心に出かけた。
 山手線に乗るのは3ヶ月以上ぶりである。
 正午にJR上野駅に到着し、エレベータで構内に上がったら、衝撃的な光景が目の前にあった。

 上野駅が空いている!
 

 早朝や深夜はともかく、昼日中、こんなに閑散とした上野駅を観たのは、半世紀以上生きてはじめてであった。
 上野公園の博物館、美術館、動物園、科学館、軒並み休館。
 アメ横から中国人はじめ外国人の姿消えて。
  
 それでも桜は咲くだろう。


上野公園花見
上野公園






● 映画:『ザ・プロジェクト 瞬・間・移・動』(キーア・バロウズ監督)

2016年イギリス
106分

 SFスリラー。
 テレポーテーションの装置を発明してしまった女子学生の身に起こる、悪夢のような不可解な事件を描く。
 途中で真相は見当つくので、衝撃の結末というほどではない。
 けれど、伏線を確認するためにもう一度最初から見直したくなるのは、脚本がいいからだろう。
 「わたし」とは何なのか?――という仏教的問いかけが潜んでいるところも興味深い。
 無名の役者たちの演技も及第点。

 原題の『Anti Matter』は「反物質」の意。
  
反物質は、ある物質と比して質量とスピンが全く同じで、構成する素粒子の電荷などが全く逆の性質を持つ反粒子によって組成される物質。(ウィキペディア『反物質』より抜粋)
 
 むろん、この映画の「反物質」解釈はトンデモである。
 いや、SFってのはどれもトンデモだから面白いのだ。

猫陰陽


おすすめ度 : ★★

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● 映画:『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督)

2019年アメリカ
122分

 アメリカ映画もついにここまで来たのか・・・・・!

 と、これを観ながら感じていた。
 いくら誰もが知ってるアメリカンヒーローで業界のドル箱たるバットマンシリーズと言えども、20年前ならこんな内容の作品は作られなかったであろうし、全米に受け入れられなかったであろう。いや、10年前でもまだ早かったかもしれない。
 夭逝したヒース・レジャーがジョーカーを演じた『ダークナイト』(2008)を観たとき、ある程度予感はしていたけれど、ついに「アメリカ社会の底が抜けた」。

 アメリカ映画の特徴を言うなら、「善の勝利と娯楽性」であると別記事で書いた。
 むろんこれは、アメリカという国と国民性の特徴でもある。
 
 アメリカは常に、善であり、正義であり、勝者であった。
 それを逆説的に証明するために、常に闘い倒すべき敵を必要とし、悪を創造してきた。ソ連であったり、イラクであったり、アルカイダであったり、北朝鮮であったり・・・・・。創作上のキャラで言えば、このジョーカーであったり、ダースベイダーであったり、フレディであったり、ハンニバル・レクターであったり・・・・・。
 この背景にはおそらく、キリスト教由来の世界観(=善悪二元論)、および他国との戦争に敗けたことがない強大な武力・経済力に対する自信がある。
 お山の大将、俺一人。
キャプテンアメリカ
 それが90年代終わり頃から様相が変わってきたのを、ソルティはアメリカ映画を通して感じていた。『アメリカン・ビューティ』(1999)、『マグノリア』(1999)、『クラッシュ』(2004)、『バベル』(2006)、『リトル・チルドレン』(2006)、『ダークナイト』(2008)。
 これらの作品では、善悪二元論の単純な世界観に対して異が唱えられ、より複雑で、図りがたい、因縁の張り巡らされたこの世界のありようが描かれていた。おのれ一人の絶対的正しさなど、何の根拠もないと。
 ソルティはそれを成熟と解した。

 おのれが正義と信じて国民すべてがワンチームとなって外敵と闘うとき、組織は盤石である。勝ち戦が続けばますます、正義も、善も、神さえも、自分の側にあると確信できる。

 しかし、いったん自らの絶対性に疑問や不信の念が生じたが最後、いままで封じ込めていた恐れや怒りや歪みが表面化し、組織は内部から崩壊してゆく。
 敵(=悪)は外側にあっただけでなく、実は内側にも同様の二元構造があり、内部にも敵が存在したことが白日のもとにさらされる。格差社会という形をとって・・・・・。
 「アメリカ社会の底が抜けた」というのは、もはや、キリスト教的善悪二元論は有効期限が切れたということである。それを信じているのはトランプ大統領を支持するキリスト教原理主義者くらいだろう。
 
 この映画を観る者の多くが、悪役であるはずの殺人者ジョーカーに味方するであろう。
 幼少期の虐待体験や精神障害を持ち、貧乏と福祉の切り捨てにあえぎ、格差社会の負け組を運命づけられた、アメリカ社会の負の結晶であるようなジョーカーに。 
 この映画が全米公開されてヒットしたからには、裕福な上流階級の家庭に生まれ育ったバットマン(=ブルース・ウェイン)が大衆の人気と支持を得ることは、いくら子供時代に両親が殺される現場を目撃した悲惨な過去を持つからとは言え、当面あり得ないだろう。彼一人が正義の側にいられるわけがないと、全米は知ってしまった。
 ヒーローと悪役が完全にリバースしてしまい、世界は混沌としている。

ジョーカー


 役者としてのホアキン・フェニックスの達者ぶりは、『グラデュエイター』、『帰らない日々』、『ザ・マスター』、『ビューティフル・デイ』で自明であった。
 が、このジョーカー役には、ホアキンの人生すべてが注ぎ込まれているような凄みを感じる。
 ホアキンが兄のリバー・フェニックスとともに、カルト教団の信者だった両親のもと悲惨な子供時代を過ごしたことはよく知られている。この映画のジョーカーの生い立ちは、まるでホアキンのそれをモデルに脚本化したかのようである。

 創作上の漫画キャラにここまで血肉とリアリティを与えてしまう演技は、観る者を引き付けて離さない。エンドクレジットが出るまで、監督があの『ハングオーバー』シリーズのトッド・フィリップスであることも、天下の名優ロバート・デ・ニーロが出演していることさえも、気づかなかった。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 魚ッ ‼ 本:『かわら版で読み解く 江戸の大事件』(森田健司著)

2015年彩図社
 
 日本が誇るスピリチュアル冒険野郎、モリケンこと森田健の本でも借りようかと検索したら、この本が出てきた。
 著者の森田健は、1974年神戸生まれの思想史学者。石門心学で知られる(?)石田梅岩の本を書いている。
 面白そうなので、借りてみた。

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 かわら版は、江戸のタブロイド紙であり、ワイドショーでもある。情報の正確さより速報性と面白さ。そこには、現代人が知っている江戸とは一味違う、エキサイティングな世界がある。

 かわら版は、当時の人々がどのようなことに笑い、泣き、興奮したのかを、今に伝えてくれる。名もなき人々の心を知る手掛かりが、そこにはある。

 売れてなんぼの世界なので(一枚4文=40円程度)、とにかく人々の好奇心をかき立てるテーマが取り上げられ、奇抜で大げさな絵とともに、尾ひれ腹びれつけて、吹聴されたわけである。
 各地で妖怪出現の怪異、畑から金の延べ棒発見などの仰天ニュース、大火事や大地震や浅間山噴火などの天災地異、花形歌舞伎役者の動向(さしずめ現代の芸能ニュース)、江戸庶民が喝采落涙した敵討ちストーリー、忠臣蔵・大塩平八郎の乱・黒船来航・倒幕といった歴史的大事件・・・・・等々、今読んでも非常に興味深く、面白いものばかり。

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越中国(今の富山県)に出現した人魚
全長三尺五寸(約10メートル)
アンデルセンが・・・


 著者が述べているように、かわら版に取り上げられるネタの種類や、その取り上げ方、つまり筆致や画風から、江戸の人々のキャラが垣間見られる。
 子どものように単純で喜怒哀楽ゆたか、楽天的でのんき、好奇心旺盛で行動的、商魂たくましく抜け目ない。(なんかモリケンみたい?)
 特筆すべきは、ユーモア感覚と諧謔精神である。
 
 江戸時代には麻疹(はしか)が数十年おきに大流行した。
 むろん、現代のようなワクチンや抗生物質はない。1862年の大流行では江戸だけでなんと24万人が亡くなったという。(当時の江戸の人口は100万と言われる)
 そのときに発行されたのが、以下のかわら版である。


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 これは見立番付と呼ばれるもので、相撲の番付表に見立てて、さまざまな事象を「東西」に分けてランキングする趣向。
 神社仏閣番付、温泉番付、仇討ち番付、茶屋娘番付、バカ番付・・・・・いろいろあったらしい。
 
 ここに紹介するかわら版は、タイトルに「為麻疹」と記された見立番付である。内容は3段に分かれていて、1段目は、右側に「あたりの方」、左側に「はづれの方」と書かれている。主にこの部分が、番付のパロディとなっているわけある。
 「あたりの方」は、麻疹大流行で儲けたり、需要が高まったりしたもののリストだ。そこには、薬屋、医者に籠屋、それに沢庵に黒豆に干瓢(かんぴょう)など。「はづれの方」はそれらの逆で、人気の落ちたものたちである。例えば、女郎屋に芸者、舟宿、加えて天ぷら屋、寿司屋などが書かれている。(ゴチックはソルティ付す)

 コロナウイルス騒動のいま、これをやるマスコミがいたら、炎上&袋叩きはまぬがれまい。
 ちなみに、3段目の絵の右側の編み笠をかぶった男が、「読売」と呼ばれたかわら版売り。笑顔で金を払う客を挟んだ左側の男が、魚や青物を売る「棒手振り」。どちらが「あたりの方」かは言うまでもない。かわら版の作者&販売者は、自分たちをも揶揄しているのだ。

 江戸の人々から見たら、現代日本人は「無粋」の極み、あるいは一億総ノイローゼ患者のように思えるかもしれない。
 この違いを作っている大きな要因の一つは、たぶん、死との距離感であろう。
 

 
おすすめ度 : ★★★

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● 映画:『空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎』(チェン・カイコー監督)

2017年中国、日本制作
129分

 夢枕獏の小説『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』の映画化。
 中国公開時のタイトル『妖猫傳(Legend of the Demon Cat)』に見るように、一種の化け猫ストーリーで、怪奇と謎とファンタジー(幻術)と悲恋を盛り込んだ歴史スぺクタルといった感じである。

 美しき王妃とは、唐の玄宗皇帝の寵愛を一身に受けた楊貴妃(719 ‐ 756)のこと。
 空海(774- 835)は密教の奥義を学ぶために渡った唐の都・長安で、友人の白楽天 (玄宗と楊貴妃の悲恋を描いた詩『長恨歌』で知られる) と有意義な日々を送っていた。
 が、ときの宮廷では、皇帝の不審死など黒猫が関わる奇怪な事件が続く。
 空海は、白楽天とともに事件の解明にあたることになる。
 そこには、50年前の安禄山の乱にともなう、楊貴妃の最期にまつわる悲しい真実があった。

 染谷将太が利発で清らかな若き空海を、なかなか魅力的に演じている。
 世界三大美人と(日本だけで)称される楊貴妃を演じるチャン・ロンロンは、まっことに美しい。フランス人の父親と台湾人の母親を持つハーフとのこと。ソルティは日本語吹き替え版で観たが、楊貴妃役は吉田羊が担当した。これがまた魅力的な声音と口調で、感心した。『クレオパトラ』でリズのアテレコをした小川真由美を思い出した。
 中国娯楽大作らしい、すべてにゴージャスなつくり、目くるめくような色彩とアクションの連続で、無難に楽しめる。


おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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 それにつけても、こういったスペクタクル&ファンタジー映画の主役をはれるような器量を持つ本邦の僧侶と言えば、やはり空海日蓮くらいしか思いつかない。道鏡はまた違った路線(お色気?)だし、役小角はちょっと地味だし、天海だと腹黒い感じがする。
 密教という呪術を持ち、国内はおろか中国でも活躍し、各地で民を助けた伝説を残している空海は、日本最大のスピリチュアルヒーローと言えるかもしれない。


四国遍路2 114
空海の生まれた風景(香川県多度津町の佛母院近く)


四国遍路2 112

四国遍路2 113
御えな塚
空海の胞衣とへその緒が納められている





● お爺ちゃんのくせに生意気よ! 映画:『瘋癲老人日記』(木村恵吾監督)

1962年大映
99分、カラー

 『刺青』、『卍』に並ぶ谷崎潤一郎原作×若尾文子主演の変態性欲シリーズの一作。
 瘋癲(ふうてん)と読む。誰でもフーテンの寅さんを連想するが、瘋癲には二通りの意味がある。

① 精神の状態が正常でないこと。また、その人。
② 通常の社会生活からはみ出して、ぶらぶらと日を送っている人。
(小学館『大辞林』)

 寅さんや現在のソルティは二番目の意味における瘋癲で、この小説および映画の瘋癲老人は一番目の意味である。

 山村聰演じる77歳の卯木督助の「正常でない精神状態」とは、究極まで洗練されたマゾヒズムと足フェチである。自分の入る墓のデザインを、仏足石ならぬ、大好きな嫁サチ子(=若尾文子)の足跡をかたどったものにしよう、つまり、死んだ後も永遠に嫁の足に踏まれ続けたいと執念を燃やすのだから、恐れ入る。
 原作は未読だが、それなりに純文学しているのだろうと想像する。が、映画はもはや「老人の性」とか「人間の性愛の深淵」とかいう、もっともらしいテーマは飛び越えて、シュールなギャグの世界に到達している。 
 いや、公開当時(58年前)と現在における、変態性欲に対する社会の認知やイメージが変わったせいなのかもしれない。SMやフェチズムはもはや「変態」とは言えないところまで、一般化、娯楽化している。現代の日本人は、この死にぞこないの変態老人の姿を、まるで一昔前の志村けんの爺ギャグのように楽しむことができるほど大人(?)になった。


仏足石と赤い花
仏足石


 別記事で、俳優山村聰の代表作は『東京物語』と書いたが、とんだ偏狭、誤解であった。
 この映画の山村の芝居こそ、日本映画史に残る怪演の一つである。『東京物語』の取り澄ました長男が、こんな浅ましいエロ爺になるとは! 荒い鼻息を吐きながら、若尾文子(実際にはスタント女優)の足のすねに頬ずりする姿は、素か演技かわからないあきれた変態ぶりである。

 木村恵吾監督(1903-1986)は、オペレッタ映画の狸御殿シリーズで知られている。同じ谷崎潤一郎原作『痴人の愛』を宇野重吉×京マチ子共演で撮っている。これ、見てみたい。
 確かな演出の腕、構図や色彩感覚にも優れ、ユーモアとアイロニー精神もある。

 山村聰と東山千栄子が出てきて、日本家屋内のローアングル(足フェチゆえに自然そうなる)が多いせいか、どうも1953年公開の『東京物語』を思い出してしまう。列車や無人の路地などの空ショットの挿入や音楽の使い方などもよく似ており、「こりゃ、確信犯じゃないか?」という気がする。
 小津安二郎が、笠智衆を使って描き出した老人の枯淡の境地、原節子を使って描き出した貞淑でやさしい日本の嫁、両者を使って描き出した性愛を捨象した人と人とのうるわしい関係を、山村聰と若尾文子を使って揶揄しているんじゃないか。「人間が生きるとはそんなきれいごとじゃないよ!」と、同い年生まれ(!)の小津安二郎を、その代表作『東京物語』をパロることで揶揄、挑発しているんじゃないか――という邪推さえ働く。

 調子に乗って、すねから膝、膝から太ももへと頬ずりしてくる督助を、嫁のサチ子は邪険にはねつける。そのセリフが、「お爺ちゃんのくせに生意気よ!」
 一見、老人虐待の言辞のように思われるが、文字通り「足蹴に」された当の本人は、それをたいへん悦んでいるのだから、これは虐待でも差別でもなくて、至高のケアそのもの。体にかけられる尿を、「女王様の聖水」と思う心理と同じである。
 
 いまやテレビ放映は絶対できない、とんでもなく面白い変態映画。
 若尾文子は、『昼顔』のカトリーヌ・ドヌーブを軽く超えている。 



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




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