ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 山道を歩きながら考えた:高尾山(599m)・城山(670m)

111130_1021~01●11月30日(水)晴れ、風なし、小春日和

●ルートとタイムスケジュール
10:10 京王線・高尾山口駅着
      歩行開始
11:45 高尾山頂上着
12:30 城山山頂上着
13:30 下山開始
14:30 小仏バス停着
      歩行終了
14:40 京王バス乗車
15:00 JR高尾駅着

●所要時間 4時間20分(=歩行3時間+休憩80分)


 小春日和、紅葉シーズン。そして、高尾山はミシュラン三つ星の名山。都心からのアクセスも良く、山頂近くまでケーブルカーやリフトで気軽に上れる。登山道も歩きやすく整備されている。薬王院をいただく信仰の山としても名高い。人気があって当然の山ではある。
 しかし、平日にも関わらず、なんと人の多いことか。
 京王線の高尾山口から登山口となるケーブルカー清滝駅までの小道は、まるで日曜日の竹下通り、もとい巣鴨地蔵通りであった。
 そう、万全の登山スタイルに身を包んだ「毎日が日曜日」な高齢者グループに、山道はすっかり占拠されたのである。
 
 これが高齢社会か・・・。

 山登りできる体力と元気と仲間がいることは素晴らしいことである。
 総じて彼らはお金がある。靴もヤッケもスティックもザックも、アウトドアショップで売っている本格的なものばかりだ。1000円のジョギングシューズ、1500円のデイバッグ、ユニクロのコットンパンツで、どんな山でも登ってしまう自分とは大違いである。プロ仕様としか思えないゴージャスなカメラを抱えて動き回っているおじいさんもよく見かける。(この記事の写真はすべてau携帯で撮影)
 まあ、パンプスにタイツ姿の若い女性、ベビーカーを押しながら山道を登ろうとするヤンママ集団・・・。あきれるほど山をなめている若者たちに比べれば、彼らの山に対する態度は立派である。

 高尾山の登山路では琵琶滝の脇を通って渓谷を遡る6号路がもっとも人気が高い。森と水を十二分に楽しめる気持ちのいいコースである。自分も大抵このルートをとる。
 しかし、今日は数珠つなぎのように前にも後ろにも人が続く。なんと11月いっぱいは混乱を避けるため、登り専用になっていた。こんなことは他に富士山くらいしか考えられまい。
 予定を変えて、琵琶滝の横の階段を上って、森を横断し、3号路に変更することにする。いきなり登りが続くが、案の定、人は少なくなった。ゆっくりと一歩一歩踏みしめながら、高度を上げていく。
 ところが、3号路は崖崩れのため通行禁止。いったん表参道(1号路)に出て、浄心門(写真)のところで、4号路に入る。
 いろいろなルートがあって、植生や景色の違いを楽しめるところが高尾山のもう一つの魅力である。 

 山頂近くのトイレは改修工事をしていた。ミシュランに載ってから、山のあちらこちらで整備が進んでいる。新しい展望台や階段ができ、東屋ができ、ところどころ道が広くきれいになった。
 それはいいことなのだが、木々の間から見える建設中の圏央道のグロテスクさは、どんなに山自体をきれいにしたところでどうなるものではない。環境や生態系の破壊も気になる。

111130_1116~01 111130_1147~01 

 
 高尾山頂はまるで花見会場のような賑やかさであった。腰を下ろす場所を見つけるのも一苦労。
 紅葉を天井に一息ついていると、隣りで昼食を取っている高齢者グループの会話が耳に入ってきた。

 「Aさん、三日前に亡くなったんだってさ」
 「へえ、いくつだったっけ?」
 「75歳」
 「え~、まだ若いのにねえ。なんで死んだの?」
 「肺ガンだって」
 「ああ、ずいぶんと煙草吸ってたもんね。Bさんと同じだ。」
 「違うよ。Bさんは脳梗塞だよ」
 
 これが高齢社会か・・・・。

 天気は西から下り坂。富士山は見えなかった。

111130_1235~01 高尾山から城山への道は、尾根とは言え、上り下りが続き、短い距離のわりには疲労する。
 しかし、山頂は高尾より断然城山がいい。
 広々として、眺めも東西に開けている。
 都心側の崖の突端に、新しく木彫りの天狗の像が立っていた。
 微妙・・・。

 昼食にする。
 ここで最大のお楽しみは、城山茶屋のなめこ汁(250円)。
 なめこと豆腐のたっぷり入った醤油仕立てのあつあつの汁をいただくと、実に幸福な気分になる。
 こんなにおにぎりと合うものが他にあるだろうか。
 おそらく、下界で同じものをいただいても同じ感動はないだろう。
 はるばる時間と体力かけて登ってきて、心晴れる眺めを見下ろしながらこその美味である。
 
 ああ~、登ってきて良かったあ~。

 下山はあっという間。
 高尾駅から送迎バスに乗って「ふろっぴい」で温泉に浸かる。
 湯上がりに生ビールをぐいっと飲み干して、無事山登りが終了。

 それにしても・・・。
 数年後には団塊の世代が定年を迎える。
 彼らもまたどっと山に繰り出すことだろう。
 アクセスの良い人気のある山はどこも渋滞になるかもしれない。
 静かな山歩きを楽しみたい自分のような人間にとっては災難である。

111130_1350~01 これもそれも高齢社会ゆえ、仕方あるまい。

  

 
 

 



  

● 日本映画最良の布陣 映画:『破戒』(市川昆監督)

 1962年、大映制作。

 キャスト・スタッフの顔ぶれがすごい。
 主演の市川雷蔵は、生真面目な暗い眼差しが被差別部落出身の負い目を持つ瀬川丑松に過不足なくはまっている。正義感あふれる友人の土屋銀之助役に若き長門裕之。なるほどサザンの桑田そっくりだ。解放運動家・猪子蓮太郎役に三國連太郎。白黒の画面に映える洋風な凛々しい風貌が印象的。後年、三國は自らの出自(養父が非人であった)をカミングアウトしたが、抑制されたうちにも思いの籠もった品格ある演技である。中村鴈治郎、岸田今日子、杉村春子、『砂の器』ではハンセン病患者を名演した加藤嘉、落ちぶれた士族になりきった船越英二、この映画が女優デビューとなった初々しい藤村志保(原作者の島崎「藤村」+役名「志保」が芸名の由来だそうだ)。錚々たる役者たちの素晴らしい演技合戦が堪能できる。
 脚本(和田夏十)も素晴らしい。音楽はやはり『砂の器』の芥川也寸志。
 そして、そして、なんと言ってもこの映画を傑作に仕立て上げた最大の立役者は、撮影
の宮川一夫である。

 市川昆の映画というより、宮川一夫の映画と言ってもいいんじゃないかと思うほど、カメラが圧倒的に素晴らしい。この撮影手腕を見るだけでも、この映画は観る価値がある。
 下手に映像が良すぎると物語や演技を食ってしまい、全体としてバランスを欠いた残念なものになってしまうケースがおいおいにしてある。が、この作品の場合、もともとのストーリが強烈である上に、役者達の演技も素晴らしいので、見事に映像と物語が釣り合っている。丑松が生徒たちに自らの出自を告白するシーンなど、白黒のくっきり際立つ教室空間で丑松の背後に見える窓の格子が、まるで十字架のようにせりあがって見え、象徴的表現の深みにまで達しているかのようだ。
 市川昆監督が狙った以上のものを、宮川カメラマンが到達して表現してしまったのではないかという気さえする。


 「丑松思想」の悪名高き原作の結末を、いったいどう処理するのだろうと懸念していたら、やはり大きく変えていた。
 原作では、丑松は自分の教え子の前で出自を隠していたことを土下座し、アメリカに発つ。いわば日本から避げるのである。悪いことをしたわけでもないのに習俗ゆえに厳しい差別を受けてきた人間が、なぜ謝らなければならないのか。なぜ逃げなくてはならないのか。藤村の書いた結末は、当時としては現実的なものだったのかもしれないが、当事者にとってみれば希望の持てるものではない。

 時代は変わった。生徒の前で土下座するシーンこそ残されているが、友人である土屋が自らの偏見を反省し丑松への変わらぬ友情を表明するシーン、東京へ去っていく丑松を生徒たちが変わらぬ敬慕の眼差しで見送るシーン、丑松が猪子蓮太郎の遺志を継ぎ部落開放運動に飛び込む決心をするシーンなど、新たに作られた場面は感動的であると同時に、希望を感じさせる。

 差別する人々、無理解な人々がいかに沢山いようとも、理解し励まし一緒に声を上げてくれる一握りの仲間がいれば、人はどん底からでも這い上がり、前に向かって歩くことができる。
 そのメッセージが心を打つ。 
 



評価: A-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 今、もっとも日本人にすすめたい  映画:『みえない雲』(グレゴール・シュニッツラー監督)

 2006年。ドイツ映画。

 原題はDIE WOLKE(雲)。
 原発事故で発生した放射能を含んだ雲のことである。

 西ドイツのある町で原子力発電所の放射能漏れ事故が起こり、周辺に住む人々に避難警報が発令される。
 物語前半は、高校生のハンナと弟のウリーが放射能から逃れようと、家を捨て町を脱出するまでの姿をパニック映画のスタイルで描く。後半は、事態がひとまず落ち着いたものの、病院に収容されたハンナや友人や恋人が次々と発病し、死の恐怖と闘っていくなかでの人間ドラマを描く。

 事故直後は、見えない放射能よりも、見えるパニックのほうが実際には恐ろしい。ウリーは、放射能ではなくて、パニックの中で猛スピードで逃げる自動車に轢かれて死んでしまう。結果論ではあるが、逃げずに家の中に籠もっていたほうが安全だったのだ。
 一方、放射能の恐怖は、直接の被爆でなければ、あとからじわじわとやってくる。髪の毛が抜け、皮膚に腫瘍があらわれ、体は痩せ細り、周囲の人々から恐れられ・・・。ハンナと恋人のエルマは、再会の喜びもつかの間、二人とも発病する。
 時を分けて襲ってくる二段重ねの恐怖の実態がよく描けている。

 主人公ハンナを演じたパウラ・カレンベルクは、チェルノブイリ原発事故のときに胎児であった。外見こそ健常であるが、心臓に穴が開いており、片方の肺がないとのこと。

 いま日本人がもっとも観ておきたい映画である。
 まだ遅くはない。



評価: B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 死をどうデザインするか 映画:『ぼくを葬る』(フランソワ・オゾン監督)

 2005年フランス映画。

 恋も仕事も順風満帆の31歳にして、余命3ヶ月のがん告知。
 そのとき、人はどういう状態に陥り、どういうふうにして自らの死と向き合っていくのか。

 誰に事実を告げるか。
 残された日々をどう過ごすか。
 何を捨てて何を残すか。
 どこでどのように死ぬか。
 自分の気持ちをどうやって整理するか。

 ゲイの写真家であるロマンの選択は、世間一般の選択とはかなり異なる。
 彼は、家族にも恋人にも友人にも伝えない。恋人には別れを告げる。喧嘩していた姉と和解する。たまたま知り合った不妊症のカップルと3Pをして精子を提供し、生まれてくる子供に財産のすべてを遺贈する。
 そして、海水浴客で賑わう夏の砂浜で、ひとり海を眺めながら死んでいく。
 もはや思い残すこともなく、自らの死を超然と受け入れながら。

 百人いれば百通りの死のデザインがあるだろう。
 どれが正しくてどれが間違っているということではない。
 どれが幸せでどれが不幸なのかも傍からはわからない。
 あるALS(筋萎縮性側索硬化症)の男性が、自分をそのような体に生んだ両親を呪いながら、自分の苦しむさまを両親に見せつけながら亡くなっていったという話を聞いたことがある。それは本人にとっても、両親にとっても、周りで看取る者にとっても、悲惨なやりきれない死の選択である。
 だが、それを非難する資格も権利も第三者にはあるまい。

 できれば、最終的には自らの生を肯定できないまでも受け入れて(諦めて)、その終焉を納得し、安らかな気持ちで息を引き取っていきたいものである。
 そのためには、ロマンがやったような自らの死のデザインが重要なのであるが、その前提として絶対に欠かせないものがある。
 己れの怒りや悲しみや絶望や混乱などの感情を吐き出せて、受けとめてもらえる誰かの胸である。

 ある人の場合、それは神なのかもしれない。仏なのかもしれない。両親や恋人や友人やカウンセラーなのかもしれない。あるいは、同じ病気で同じ運命を背負った仲間なのかもしれない。
 ロマンの場合、それは郊外の森の中に独り住む祖母ラウラ(ジャンヌ・モロー)であった。ラウラにすべてを打ち明け、ロマンははじめて泣くことができたのである。
 ジャンヌ・モローは、出番は少ないがとても重要なこの役を彼女自身の持つ存在感だけで演じきっている。演技とは思われないほどの深さとあたたかさは、その顔に刻まれた皺と同様、彼女の波乱に富んだ人生経験、俳優経験を通して自然と涵養されたものであろう。ラウラが寿命としての死を日々見つめながら孤独に毅然と暮らしていることも、ロマンが心を開く相手として選ぶ理由になっているのだろう。
 老人力とは本来このようなものなのかもしれない。

 人の死のデザインをとやかく言うのは無粋なのであるが・・・。

 ロマンが神にたよらなかった点はよく理解できる。
 キリスト教が同性愛を否定する以上、ゲイとしての自分を肯定して社会生活を営んできたロマンが、その死に際して教会や神父や聖書や十字架の支えを必要としなかったのは当然といえば当然である。
 一方、カップルの子作りに協力することで、自らの遺伝子、血統、子孫、子供を残して安堵するというところが、いきなり「種の保存」欲求にでも目覚めたみたいで釈然としない。
 もちろん、ゲイ(♂)が父親になっていけないわけではない。現に結婚して父親になっているゲイなど掃いて捨てるほどいるだろう。女性の腹を借りて血のつながりのある子供を持つゲイカップルだっている。ゲイであることと、父親であることは、必ずしも背反しない。
 しかるに、ロマンの場合、それまで子供にほとんど関心がなかったにも関わらず、死に臨んで急にそういう欲望に目覚め、自分の子供を残すことによって安心を得て自らの死を受け入れる、いわゆる「命のバトン」みたいな常套的展開になってしまうのが、なんだか残念な気はする。ゲイアイデンティティに対する裏切りのような感じ・・・?

 とはいえ。
 実際に死を前にしたときに、自らの築いてきたアイデンティティなんか簡単に崩壊するかもしれない。
 自分がどうなるかわかったものじゃない。

 ある意味では、若くして自分の死をデザインできる機会を得るということは幸せなのではないだろうか。
 通常そういう機会は、老年になってから訪れるものであるが、そのときには老齢ゆえにさまざまな選択肢が失われていることが多いからだ。子供を作るなど、まさにその一つである。デザインしようにも設計できる幅がもうせばまっている。和解したかった相手も、もうとうの昔にあの世に逝っているかもしれない。

 自分の死をどうデザインするか。
 それは結局、「自分の残された生をどうデザインするか」と同義である。



評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



● 本:『小さな「悟り」を積み重ねる』(アルボムッレ・スマナサーラ著、集英社新書)

001 よく本を出す人である。

 前に書いたものの改定新版を別にしても、毎月数冊ずつ新著が出ているのではないだろうか? 日々の講話がそのまま本になるからであろう。
 在日30年、日本語の能力も驚くべきものだ。
 母国語とは異なる国に行って、仏教という壮大にして深遠な思想をその国の言葉で大衆に伝えるという、想像するだに難儀な仕事をやって、今のところ成功をおさめているのであるから、フランシスコ・ザビエルや欧米に禅を広めた鈴木大拙に比肩できるような天才と言ってよいのだろう。
 その場合、日本がもともと大乗仏教の国であったということは伝道に際してプラスにも働いただろうが、テーラワーダ(原始仏教)と大乗仏教の齟齬ゆえに逆風もすさまじかった(すさまじい)だろう。日本の伝統仏教を信奉する者にしてみれば、「お前たちの仏教は偽物だ。仏の教えではない」と批判されているようなものだからである。
  
 とはいうものの。
 キリスト教の国、とりわけアメリカやラテン国家でテーラワーダを伝道することに比べれば、まだ日本はやりやすいと思う。それらの国では、国民の有する価値観や人生観が、東アジアの伝統的なそれとは違いすぎるからだ。

 テーラワーダ、というよりブッダの教えは、近代西欧文明の志向するものとはほとんど真逆に位置する。それは、近代西欧文明の出発点が、ルネサンスの人間中心主義やデカルトの「我思う、ゆえに我あり」にある以上、どうしてもそうならざるをえない。
 なぜなら、ブッダの教えは生命中心主義であり(最終的には生命からの脱却を目指しているが)、自我の否定にあるからだ。

 現代日本に生活する我々の価値観や人生観は、すっかり近代西欧文明に洗脳されている。その中には「平等」や「人権」のように大切な概念もある。が、一方、個人個人の欲望の追求と実現こそが幸福であるとする考え方が、終わりのない戦争と貧富の拡大と環境悪化と人権侵害と深い孤独を生んでいるのも事実である。

 この本で語られる言葉が、我々が通常正しいと思っている概念をすべてひっくり返していくように見えるのは、スマナサーラ長老が稀代の天邪鬼のように思われるのは、戦後日本人がいかにアメリカナイズされてしまったかの証左なのである。
 たとえば、こんなふうだ。

 
・ 人が考えるのはバカだからである。
・ 運命という考え方は間違っている。
・ 人生は尊いものではない。
・ あきらめる力が幸福をもたらす。
・ 自分探しは最後に自分を見失う。
・ 生きることに本来自由はない。
・ ポジティブすぎると人は成長しない。
・ 人間は本来自立できない生き物である。
・ 豊かすぎると人は奴隷の生き方を強いられる。
・ 愛はほんとうは悪いものである。
・ 「何もしない」という刺激こそ求めよ。
・ 過去の経験と記憶は思っているほど役に立たない。
・ 矛盾を当たり前として生きる。

 
 かくのごとし。

 心に留めるべきは、近代西欧文明によって洗脳され条件付けられた「自分」に気づいて、そのプログラムを解除し、新たに仏教というプログラムをダウンロードせよ、と言っているのではないところだ。

 プログラムをダウンロードすべき「自分」などそもそも存在しない、と言うのである。



 

● ガラスの十代 映画:『明日、君がいない』(ムラーリ・K・タルリ監督)

 2006年オーストラリア映画。

 原題の『2:37』は、一人の高校生が校内のトイレで手首を切って自殺した時刻。
 その日の朝から午後2時37分に向かって、学校を舞台に起こる6人の悩める高校生たちのドラマをドキュメンタリータッチで描いていく。
 はたして、その中でいったい誰が命を絶ったのか? その原因は何か?
 「犯人は誰か?」ではなく「死ぬのは誰か?」が最後までわからないミステリー風の構成が観る者の興味を引き付ける。

 撮影当時19歳だったムラーリ監督の実体験がベースになっている。友人の自殺に触発されて、あるいは、そのショックから監督自身がどうにかサバイブするために撮られたものである。
 そのせいか、等身大の生々しい十代の姿が同じ目線で描かれていて、今を生きている高校生たちの心の叫びがびんびん伝わってくる。
 もっとも、どの時代どの国においても、十代を生きることのタイヘンさは変わらなかろう。家族との軋轢、周囲との摩擦、ピアプレッシャー、自己と社会との矛盾、傷つきやすさ、自惚れ、他者からの承認を得るための涙ぐましい闘い。
 大人たちが羨む若さや美しさが、当人にとっては何の救いにもならないという皮肉。
 いや、そのぎりぎりまで張りつめた心の危うさこそが、破滅すれすれの美しさを生んでいるのか。

 「自分はなんとか十代を無事過ごして良かった~」と思わざるを得ない。


 6人の悩みは非常に今日的である。
 ゲイとしての悩み、それを隠すことの苦しみ、身体上のコンプレックス、いじめ、親の期待の重圧、親に愛されないことの孤独、近親姦、妊娠、恋の悩み・・・。
 それぞれが、自ら抱える苦しみを周囲に悟られないように芝居をし続ける。弱みを見せることは「負け」であり、世間から馬鹿にされることであるという競争社会の原理が、学校社会をも家庭をも支配してしまっているのである。
 ありのままの自分でいられる場所がどこにもない。
 この日、6人の苦しみはまさに臨界点を超えようとしていた。


 大方のミステリーの定石どおり、命を絶ったのは、もっとも意外な人物であった。
 その者(Xとする)の背景や内面は、ほかの高校生たちのようには明らかにされない。なぜ自殺したのかがよくわからない。単純にミステリーとしてみた場合、アンフェアであろう。十分な材料を提供されないことには、我々には推理のしようもないのだから。
 しかし、人間ドラマとしては、Xの死はかえって痛烈に観る者の心に響いてくる。
 もっとも自殺しそうにない人物、もっとも心の優しい人物がXだったからだ。


 登場するそれぞれが、それぞれの悩み苦しみにとらわれて、自分のことで精一杯で、とても周りにいる他者の様子や心の中まで想像する余裕がない。
 それは逆に、自分で造った苦しみという殻(シェルター)の中で守られているということでもある。真の意味での他者との関わりを遮断している時には、孤独からの解放はないけれど、一方で自分が決定的に傷つくこともないからである。そのことは、ゲイであることを隠してサラとつきあっているスポーツマンのルークと、ルークの何たるかを知らずに恋に恋しているだけのサラ、互いを利用している二人の関係のうちに象徴的に示されている。
 そんな登場人物たちの中でXだけが、他者を思いやることができ、優しい言葉をかけることができる。他者の苦しみに関心をもつことができる。
 そのXが自殺してしまうという結末は、なんともやりきれない。まるで、優しいことが罪であるかのようだ。


 本当に優しい人間は、自らに降りかかってくる不当さを、一方的に他人や家族や学校や社会のせいにして自らを正当化することができない。すべての苦しみの原因を己の存在に集約させる道の先には、自己破壊しか残らないだろう。さもなくば、自らを一番の悪人とした親鸞聖人のように、何らかの宗教的意味づけを見出すか。
 そこに、ムラーリ監督がXの死に託したもう一つの意味を見ることができよう。

 Xの自殺というショッキングな事件によって、他の若者たちの耐え難い日常がひととき非日常化する。その中で感情的カタルシスを伴いながら、それぞれの苦しみが一時的に棚上げされ相対化され客観視されることで、癒しにつながったり、状況を異なった見方で見るきっかけを生むであろうことを、観る者は予期する。Xの死によって、他の者たちの苦しみの一部も一緒に死んだのであり、他の者たちが今回ばかりは「死」から免れ、大いなる慰藉にあずかったことを、我々は感得する。
 その意味で、Xの死は「自己犠牲」とか「贖罪」という言葉にふさわしいように思われるのである。
 その死に際して、アンドリュー・ロイド・ウェバーの『ピエ・イエズ』がBGMに使われているところにも、ムラーリ監督のそのような意図をうかがうことができよう。


 自らの「問題」が完全に解決することなど有り得ない。(解脱しない限りは)
 だから、それぞれが自らの問題だけにかまけていると、この世でもっとも深い傷を負っている者、最も助けを必要としている者を救える人間が誰もいなくなる。Xのように最も傷つきやすい、やさしい魂の持ち主は、心のセキュリティーネットの網をすり抜けて、命を絶ってしまう。

 現実には、人も社会もXの死の意味に思いを馳せることなどなく、日常は押し寄せて、人々はまたすさまじい競争社会の渦に飲み込まれていく。Xもまた「負け組」の一人に数えられていくのであろう。
IMG_0277[1] これは決して十代だけの話ではない。
 大人となった我々は、面の皮が厚くなって、こうしている今も、どこかで誰かがこの社会の苦しみを一身に引き受け、我々の犯した罪を贖ってくれているということに鈍感になってしまったのだ。



評価:
 A-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● コミック:『SWAN(スワン)』(有吉京子作)

swan 1976年~1981年まで週刊マーガレットに連載された大人気漫画。バレーを描いた少女漫画として、山岸涼子の『アラベスク』と双璧である。
 今も続編を連載中らしいが、第2部21巻までを3夜に分けて読了した。
 読み手をぐいぐい引っ張る力は驚異的。

 有吉は1950年(昭和25年)生まれということだから、萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子ら、いわゆる「24年組」と同世代である。
 これら団塊の世代の女たちが自己表現の手段として選び、幅広い世代の同性の共感を呼び作家としての成功を収めたのが、少女漫画であったという事実は意味深である。
 おそらく、文学、映画、音楽など、他の伝統的な表現領域が男中心主義に毒されていたことと無縁ではないだろう。いくら才能や伝えたい思いがあっても、そこには女性たちが入り込む余地はまだまだなかったであろうから。
 読者が女性に限定され、世の男たちが馬鹿にしてほっといてくれたおかげで、自由なまったく新しい(衝撃的な)テーマや表現スタイルへの模索や挑戦が許された少女漫画という実験場で、水を得た魚のように、彼女たちはおのれの魂の叫びをGペンの先からほとばしらせたのである。
 その輝きは、仮名文字を手に入れた王朝時代の女流作家たち(紫式部や清少納言)に比肩されよう。

 SWANは、途中までは山本鈴美香の『エースをねらえ』のバレリーナ版の域を出ていない。事実、人物設定やネームなどに、『エース』の強い影響を見ることができる。
 そのままでは、二番煎じでしかなかったろう。

 有吉の真価が発揮されるのは、主人公の聖真澄(名前が良くないなあ)がモダンバレーを習いにニューヨークに飛んでからである。
 そこで、真澄は一人の男を愛し、同棲し、バレーより恋を選び、いったんバレーを離れてしまう。岡ひろみが藤堂との恋の成就よりもテニスを選び、物語の最後まで処女のままでいたのと対照的である。
 このニューヨークエピソードにおいて、SWANは完全にその生みの親である『エース』から離脱し、まごうかたない有吉の作品となった。(おそらく、有吉の実生活・実体験が反映されているのだろう。)
 スポーツである(でしかない)テニスに比べ、バレーはスポーツであると同時に芸術である。バレーで一流になるとは、技術を完璧にマスターした上に、オリジナルな表現を深めてゆくことである。そのためには、真澄は恋を知り、性愛を知り、別れを知る必要があった。(性愛に関しては当然「少女漫画コード」ゆえに描写されていないが。)

 物語前半の真澄のバレーの才能の描写が、コンクールの最終審査に残ったとか、その道の目利きによる引き抜きとか、いささか説明的で無理を感じるのにくらべ、ニューヨーク後の才能の描写は絵そのものによって説得力がある。有吉自身の内的成長が作画力向上に結びついているのだろう。

 『エース』が最終的には、岡ひろみのスポ根テニス漫画を離れて、竜崎麗香(お蝶夫人)という女性の成長物語になったように、SWANも聖真澄という女性の成長物語になったのである。



  
 
 

● 映画:『スターゲイト』(ローランド・エメリッヒ監督)

 1994年アメリカ、フランス制作。

 古代エジプトと未来。砂漠と宇宙。
 相反する二つのものを結びつける輪っか(スターゲイト)というアイデアが秀逸。
 
 スター級の花のある役者が出ていないところもストーリーや演出や映像自体がじっくり楽しめてかえって新鮮。
 主役のジェームズ・スペイダーと恋人役のミリ・アヴィダルのヘテロカップルよりも、脇役のカート・ラッセルとアレクシス・クルスの男男カップルのほうが最後には目立って、深い印象を残すところも面白い。宇宙人=ラーを演じたジェイ・デビッドソンの美青年ぶりといい、総じて女っ気のない映画である。

 と思ったら、ウィキペデアによるとエメリッヒ監督はゲイだという。

 やっぱり・・・。


    
評価: B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● 「このあたり、ボケさん多し」 11/13介護のコト体験フェア(有楽町・東京国際フォーラム)

介護フォーラム1 なぜかは知らねど、11/11は「介護の日」。
 
 東京都福祉人材センター主催の上記イベントが、日曜の午後いっぱいかけて開催された。
 介護業界は、働き手不足(というか高齢化に供給が追ッつかないのが実情だろう)なので、介護職で働きたいという人をこの機会に増やしたいという意図も当然ある。会場には、福祉系らしき学生たちのみならず、これから介護にかかわろうという転職組、求職組(自分だ)の働き盛り世代などがあふれていた。


介護フォーラム2 高齢者とは65歳以上を言う。これは国際標準である。
 高齢化率とは、総人口に対する高齢者の割合。
 これが、先進国の中で日本は飛びぬけて高い。
 2010年現在で23.1%、まもなく4人に1人になろうとしている。
 2015年には団塊の世代が高齢者となる。
 平均寿命と少子化がこのままの推移で続けば、2030年時点で3人に1人が、2050年には人口の約4割が高齢者になると予測されている。
 まさに、チョ~超高齢社会である。
 
 介護フォーラム4それだけでない。
 65歳~74歳を前期高齢者、75歳以上を後期高齢者と呼ぶが、団塊の世代が後期高齢者に達する2025年の時点で、介護が必要となる高齢者の総数は500万人以上(日本人の20人に1人)、そのうち認知症の老人が323万人と予測されている。

 日本の、いや世界の歴史上かつてない、未曽有の状況が、ここ日本に到来しようとしているのである。

 一体、どうなるのだろう?

 介護の人手不足、施設の不足、年金の枯渇、若い世代の負担増。
 チョ~超高齢社会を前に不安要素はいろいろあるけれど、逆に良い点はないものだろうか。

 こんなのはどうだろう?

 高齢者が増えると、

1.生活ペースが全体的にゆっくりとなる。
 切符を買うのに手間取っているお年寄り、階段を一歩一歩確かめるように上り下りするお年寄りにいちいち目くじら立ててもしようがない。みんな、慣れていくだろう。
「前を高齢者の一団が歩いていたので遅刻しました。」
「そうか、仕方ないな。」
という会話が会社でされるようになるかもしれない。

ボケ老人マーク2.車が安全運転するようになる。
 認知症の老人(以下ボケさん)がいつ飛び出してくるかわからない。事故を恐れ、車の運転手は気をつけて走るようになるだろう。「このあたりボケさん多し。徐行」のボケ老人マークが作られるかもしれない。(左イラスト参照)

3.外を歩く人々が、周囲のお年寄りに気を使うようになる。
 ボケさんたちはゾンビのように町に繰り出す。それが当たり前になれば、一人でさまよっているお年寄りを見た人たちは、「あの人の家族はいま捜索中かも・・・」と気を使うようになるだろう。

4.バリアフリーの拡大

5.標識や看板の文字が見やすく大きくなる。

6.他人にも自分にもやさしくなる。(日本人のラテン化)
 社会全体で間違いや失敗が多発するようになるだろう。それは、A型気質完璧主義者の多い日本人にとって、「いい加減」を学ぶ良い機会になるだろう。多少のことは、互いに大目に見るゆとりが生まれてくる。

7.笑いが生まれる。(日本人のラテン化)
 ボケさんの天然ボケにあちこちで笑いの渦が起こり、世の中は明るくなるだろう。

8.見知らぬ者同士の助け合いが当たり前になる。
 
もはや他人ごとではないのだから、「情けは人の為ならず」(元来の意味で)

9.介護することが当たり前の社会になる。
 原則、介護の社会化は維持するにしても、圧倒的な人材不足から、身内の要介護者のちょっとした介護は家族ができるようになる必要がある。あるいは、外出時に困っている人を見かけたときに誰でもさっと手助けできるようになる必要がある。
 すべての人が基礎的な介護技術を身に着けざるを得なくなるだろう。義務教育あるいは高校の授業で必修になるかもしれない。
 それは、民度を高める良い手段である。

10.お年寄りだけでなく、障がい者にとってもよりいっそう暮らしやすくなる。

11.介護の人手不足から、若い外国人ヘルパーを受け入れざるを得なくなる。結果として、多文化共生社会への足掛かりとなる。

12.「老いること」「死ぬこと」が巷にあふれているから、若者にとっては、それが当たり前の風景となる。そこを前提とした新たな価値観、世界観が生まれてくる可能性がある。

 
 考えようによっては、結構面白い世の中になるかもしれない。



 
 

● 本:『笑う介護。』(松本ぷりっつ、岡崎杏里著)

009 20代のOLだった岡崎杏里の父親は、ある日、糖尿病由来の脳出血により認知症に。一人で家業を切り盛りしていた母親も、続いて卵巣ガンで手術入院。仕事のかたわら、介護と看病と家事と、やはり要介護状態になった犬の世話を一人でやらなければならなくなった著者は、心労のあまり心の病に。
 突然、岡崎家を襲った怒涛の日々をエッセイ風につづった介護体験記である。
 漫画家の松本ぷりっつが、ユーモラスなイラストおよび漫画で様々なエピソードを描き添えていて、重くつらい介護の日々が、面白おかしく描かれ、タイトル通り、「大変なことでも明るさを失わず、笑える部分を見つけ出して乗り越えようよ。」という著者の姿勢が伝わってくる。

 介護素人の人間が、いかにして介護と出会い、一人で背負うことの限界を知るか。
 いかにして介護保険と出会い、ケアマネージャーやヘルパーなどの介護職やショートステイなどの介護施設を利用することを知るか。
 いかにして周囲の人間に助けられながら、家族で支えあっていく力をつけていくか。
 認知症の人と生活するとはどういうことか。
 介護する人間はどんな心境に立たされるか。
 介護をめぐるもろもろのことについて、楽しく読みながら理解することができる、介護入門本としてもお薦めできる。

 母親の逞しきオバタリアン(古い!)パワーと、父親の認知症ならではの数々の「笑える」エピソードに引っ張られて、あっという間に読み終えた。

● 映画:『パラドックス・ハプニング』(ジェイコブ・ジェントリー監督)

  2004年アメリカ映画。 

 原題はLast Goodbye
 邦題とDVDパッケージのデザインからは、時空パラドックス系のSFと勘違いさせ、TUTAYAの分類ではミステリーになっていて、映画の出だしではB級ヴァンパイアものと思わせる。
 しかしてその正体は・・・・・。

 4人の男女がからむヒューマン&恋愛ドラマなのであった。
 とにかく、ストーリーを時系列で追わず、かと言って回想スタイルというには各エピソードの前後が分かりにくい。視点も次から次へと移るので、結局、どういう話か理解するのが大変。
 それを解き明かすという意味ではミステリーかも・・・。

 登場人物一人一人は魅力的だと思うし、役者も悪くはない。
 物語自体が陳腐なので、まともに撮っていたら制作許可がおりそうになかったから、シーンをバラバラに配置し、構成を複雑にしていわくありげに見せました、って感じ。

 最後まで観れたのが不思議なくらいである。



評価: C-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:『こわれゆく世界の中で』(アンソニー・ミンゲラ監督)

 2006年イギリス、アメリカ共同制作。

 観終わって、「大人の映画、大人の恋愛」と真っ先に感じるのである。
 欧米、とくにヨーロッパの映画を観て、そう思うことは多い。
 疑問なのは、イギリスやアメリカの鑑賞者たちも同じように感じるのだろうか。つまり、イギリスやアメリカの大人たちも、この映画を見て「大人の映画、大人の恋愛」とあえて思うのであろうか?

 日本人の大人である自分がこの映画を観て、「大人である」が他の何より印象として残るのは、日本の映画に出てくる大人たちや大人の男女の恋愛描写と無意識のうちに比べているからであり、その結果、日本のそれはまるっきり「子供のように」思えるからである。

 では、いったい自分は何を持って「大人」としているのだろう?
 
 大人とは個人として自立(自律)していることであり、大人の関係とは自立(自律)した個人と個人とが、それぞれの「個」をぶつけあいながら、活かしあいながら、支えあいながら、共生していく方法を見つけることである。

 おそらく、自分自身のこういった考えは、近代西洋的価値観にすっかり洗脳されている証拠であろう。
 別に、前近代(たとえば江戸時代)の日本の「大人」像や、イスラム社会の「大人」像(どんなものなのかよくわからないが)を、「大人」としてもいいのだから。

 ともあれ。
 このような「自立した個=大人」としての概念及び実質があるからこそ、この映画のタイトルの意味が生きてくるのであろう。
 Breaking and Entering(壊すこと、関わること)とは、文字通り、ボスニア難民として母親と二人でイギリスにやって来た少年ミロが、主人公ウィル(ジュード・ロウ)の事務所のガラスを破って(Break)、中に押し入る(enter)こと、すなわち強盗を働くことを意味している。と同時に、「個人」という厚い堅い壁に囲われて、互いのなまの心に触れあえなくなっている夫婦や親子や恋人たちの状況について、ミンゲラ監督が最期に送ったメッセージなのであろう。そう、ミンゲラ監督はこの映画を撮った2年後に54才の若さでガンで亡くなったのである。
 
 自らの殻を破れ、相手と関わることを避けるな。
 さもなくば、孤独からの解放もなく、愛もなく、新生もない。

 力強いメッセージである。
 しかるに、2005年にオスカーを取った『クラッシュ』(ポール・ハギス監督)が見事に表現したように、現代人にとって相手と深く関われる手段が、「セックスか暴力か事故」に限られてしまっているところが何とも皮肉というか悲劇的なのである。
 
 ジュード・ロウ、ジュリエット・ビノシュ、ロビン・ライト・ペンをはじめ、役者も脚本もすばらしく、見応えがある。




評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 本:『知らないと恥をかく世界の大問題』(池上彰著、角川SSC新書)

緑色の神の少年 002 池上彰氏は、難しいことをわかりやすく説明する達人である。
 この本も、加速度的に複雑さを増すかに見える現代世界の状況について、素人が大まかな見取り図を描くことができるよう、わかりやすく、ポイントを絞って、伝えてくれている。たいした手腕である。
 

 江戸時代の百姓は、世界のことなど何も知らなくても生きていけた。
 産業革命もアメリカ独立戦争もフランス革命もナポレオンもリンカーンの奴隷解放宣言も、まったく知らなかったろう。
 鎖国や教育制度の欠如により知る機会が限られていたこともあるけれど、知る必要も感じなかったろう。日々の生活にはなんの影響もないし、知ったところでなんの役にも立たないからだ。
 大切なのは、天候であり、作柄であり、領主や代官の意向であり、村の掟であり、自分と家族を養うための日々の食い扶持である。遠いアメリカの片隅の農園で、一人のアフリカ人奴隷が解放されたからといって、長州藩に住む一人の水呑百姓にとって何がどう変わるというのか。
 長いスパンをとって、深く深く追求すれば、そこに「風が吹けば桶屋が儲かる」式の因果関係を見つけてくることは可能かもしれない。
 だが、世界はあまりに広く、情報の伝達はあまりに遅く、人々は伝統と信仰の中で素朴なままであり、時間はゆっくりと生活の中を流れていたので、因果の網は誰の目にも触れられることなく、世界のはるか底のほうで、蜘蛛が巣を張るよりもはるかにゆっくりとしたペースで、あちらに一本こちらに一本と、全体像も見えぬランダムさで編まれていたのである。
  
 今では「風が吹けば」は冗談でもこじつけでもない。それどころか、ブラジルの蝶の羽ばたきが北京で嵐を起こす(バタフライ・エフェクト)時代である。
 交通機関と通信手段の発達、情報を手にする機会と自由(=権利)の獲得、グローバリズム、金融資本主義の席巻、そしてIT。
 世界は今やWWWという電子の網ですっかり覆い尽くされて、それぞれの地域が、国が、民族が、宗教組織が、企業が、個人が、この網のどこかに蜘蛛の餌食となった羽虫のように幾重もの利害関係の糸によってからめとられているものだから、網の一点から生じた振動はぴんと張りめぐされた糸の連絡をあらゆる方向に即座に伝わって、発信点から距離を増すごとに振幅を増しながら、網全体に影響を及ぼさずにはいない。
 因果の網がついに浮上し、因果法則は驚くべき速さで実現する。
 
 「世界」と「日本」と「一日本人」とが、現代ほどダイレクトにつながっている時代、そしてそれを一個人がビビッドに意識しうる時代はなかろう。

 世界の大問題について知らないということは、「恥をかく」とか「かかない」とかというのんきな問題ではない。自分に影響を及ぼし、自分の行動範囲を制限し、自己決定のための前提条件を知らないうちに設定しまた変更し、自分の人生を操作し、死活にかかわるような力を持つ「状況=構造」について、無視を決め込むということなのである。

 もちろん、あえて無視を決め込むという選択もある。
 世界がどうあろうと、一個人がやることは結局、「食べて、寝て、働いて、遊んで、まぐわうことだけ」というのは、江戸時代の百姓も現代日本の中小企業の一社員も、何ら変りもないからである。実際、そんなふうにして生きている人間もいっぱいいる。
「世界の大問題について頭を悩ますより、とりあえず仕事を見つけろよ」とか「子供の世話でいっぱいで、そんな高尚なこと考えているヒマはない」とか「世界の問題を知ったところで、一個人に何ができる」とか、ごもっともなご意見だってある。

 おそらく、経済にも政治にも歴史にも疎い自分がこういった類いの本を読むのは、世界の大問題について何もできないとしても、少なくとも、自分が捕らえられている罠について知らないでハッピーに過ごすよりは、たとえ無力感や不安や絶望におびやかされようとも正味のところを知っておきたいという、ある意味倒錯した性質からなのであろう。
 都合のいい偽りよりは不都合な真実を。
  

● ハリウッドが秘したもの 映画:『緑色の髪の少年』(ジョセフ・ロージー監督)

緑色の神の少年 001 1948年アメリカ映画。

 「映画って本当にいいもんですね~。」の水野晴郎氏が選んだ「DVDで観る世界名作映画」シリーズの一本。

 ある朝目覚めたら、髪の毛がすっかり緑色になっていた戦災孤児のピーターは、周囲の好奇の目や差別、学校仲間からのいじめにも負けず、それを戦争の悲惨さを世界に伝えるために自分に課せられた使命ととらえ直し、誇りをもって明るく生きようとする。
 しかし、育ての親はじめ周囲の大人たちの「髪を切れ」という圧力は強く、衆人環視の中、丸坊主にさせられてしまう。


 すでに評価が定まっている通り、戦闘シーンのない反戦映画である。それで誤りはないのだろうが、それだけではない。
 というのは、ジョセフ・ロージー監督は、この作品を取った数年後に「赤狩り」でアメリカを追われ、イギリスに亡命するからだ。世間から危険視され、迫害を受ける緑色の髪の少年の姿に、当時のアメリカ社会における共産主義者(と目された人々)、そしてロージー監督自身を重ね見ることは自然であろう。
 そして、この作品は、「緑色の髪」という寓意的表現を用いることにより、共産主義者に限らず、あらゆる少数者、異端者に対する差別と迫害のありようを描き出すことに成功している。

 少年が床屋の椅子の上で涙を流しながら丸坊主にされるシーンの残酷さは比類ないものである。
 それは、社会の側から見れば、教育であり、矯正であり、脱洗脳であり、受容のための儀式であるが、個人の側から見れば、自由の剥奪であり、自己の放棄であり、魂の崩壊である。
 長い目で見れば、個人の受けた損傷は、結局、その社会自体の損傷にほかならない。なぜなら、他人に許さないものを、人はおのれに与えることはできないからだ。
 赤狩りの過去を持つアメリカが、新自由主義の行き過ぎを止めることができないのはそのせいだろう。

 ジョセフ・ロージーの作品は、日本未公開のものが多く、レンタルショップでもほとんど見かけることがない。自分もオペラ映画である『ドン・ジョバンニ』くらいしか見ていない。(と思う)
 なので、断言はできないのだけれど、どうもこの『緑色の髪の少年』には、同性愛者差別に対するプロテストが潜んでいるような気がする。髪が緑色になった原因を大人たちが追究するシーン(「牛乳のせいか、水のせいか」)や、少年が「自分がなりたくてなったんじゃない!」と叫ぶシーンなど、妙にブライアン・シンガー監督の『X-MEN』(明らかなゲイ映画)と呼応するようなダブルミーニングがある。
 ほかの作品でも、ゲイという噂のあった男優ダーク・ボガートやヴィスコンティお気に入りのヘルムート・バーガーを使っているところ、リズ・テーラー主演の『夕なぎ』の原作はカミングアウトしていたゲイの戯曲家テネシー・ウィリアムズであること、未見であるが『召使』や『秘密の儀式』の同性愛的匂いのする筋書き、などから想像するに、どうもジョセフ・ロージーはゲイセクシュアリティを持っていたのではないだろうか?

 だとすると、この『緑色の髪の少年』は、ヒッチコックの『ロープ』同様、もう一つ深い意味を持った、当時としてはかなり挑戦的な作品と言えるのかもしれない。それは、反戦思想よりも共産主義よりも反米的であったはずだ。両作品が同じ年に撮られているのは、どういう星のめぐり合わせか。

 水野晴郎が選んだ「DVDで観る世界名作映画」シリーズの一本として販売されていた。

 


評価: B+


参考: 





A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 本:『老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた』(三好春樹著、新潮文庫)

じいさんばあさんの愛し方 介護関係の本を読んでいると必ず出てくる名前が「三好春樹」である。
 どこの業界でも「この人の名前を知らないのはモグリ」みたいな人がいるものだが、どうやら今の日本の介護業界のキーパーソン、カリスマであるらしい。
 新潮文庫に著書が2冊(もう1冊は『老人介護 常識の誤り』)入っていることからも、それは知られる。

 面白いのはこの人のプロフィール。
 中卒なのである。高校中退して、数々の職業を経た後に特別な思いもなく老人ホームに就職。そこで介護の面白さに目覚めて、31才で理学療法士の資格を取得。35才で独立し、「生活とリハビリ研究所」設立。今では全国を回って講演に研修に引っ張りだこである。
 介護の世界は、学歴も性別も資格も(加えて年齢も)関係ないということを、身をもって教えてくれる人だ。
 本の中でも「資格より脂質」(変換ミス)「資格より資質」と言っている。
 この資質っていうのが曲者である。

 一体、介護職に向いている資質とはなんだろう?
 老人と仲良くなれること。
 では、老人と仲良くなるとはどういうことか?
 老いと、死と、仲良くなれること。

 人は誰でも老いる。そして、死ぬ。
 これだけはどんな人にも平等にやって来る。頑張ってはいるけれど吉永小百合も老いる。森光子や黒柳徹子もホリエモンもイチローもビル・ゲイツも芦田愛菜も、老いて死ぬ。こればかりはお金ではどうしようもできない。(多少引き延ばすことは可能だが)
 だから、「老い」と「死」と上手につきあえる人ほど、人生の最期は幸福と言えよう。
 そして、自分自身の老いや死と上手くつきあえない人間が、他人のそれとつきあえるはずがない。


 この本の中には、思わずメモしたくなるような老いや介護に関する名文句が散見する。
 それらの多くが、一見、逆説や常識の裏返しのような形を取るのは、この社会の一般常識、健常者の世間的価値が、老いの文化を全く含んでいないところに成立しているからにほかならない。
 いくつか紹介する。(以下、本より引用)


・年を取ると個性が煮詰まる。
 人間が丸くなるどころか、人格が完成するどころか、年を取ると個性が煮つまるのだ。真面目な人はますます真面目に、頑固はますます頑固に、そしてスケベはますますスケベに。


・臭いのは三日で慣れる。 
 初めてオムツ交換を体験すると、昼食は口に入らないに違いない。しかし、人間というものの適応力はすばらしいもので、本当に三日目には、カレーライスを食べながら「○○さんの便、ちょうどこんなふうだったわよ」なんて言ってるのである。


・人が元気を出すには仲間が必要
 なにしろ、家族も、やってきてくれる人たちも、老人から見ればみんな自分より若くて元気な人ばかりである。となると“世界で一番不幸なのは自分だ”という気持ちになっても不思議ではない。人が元気を出すには仲間が必要なのだ。自分と同じように年をとっており、同じように障害を持っている人との、横の人間関係が必要なのである。


・ボケていない人のケアの方が大変
 「ボケの人はちゃんと関わればちゃんと落ち着いてくれる。ボケてない人は変なプライドがあったりして、けっこうストレスなのよね」(宅老所スタッフのセリフ)


・人物誤認も関係のうち
 デイサービスにはスタッフも利用者もいろんな人がいる。そのうちの誰かとウマが合えば、つまり無意識的コミュニケーションが成立すれば、なんとか落ち着いていられるのである、もちろん次の日にはもう忘れているが、いうまでもなく記憶なんてのは意識的世界のものである。無意識の世界で何かが蓄積され豊かになっていくにつれて、ボケ老人はちゃんと落ち着き、笑顔が出てくるようになるのだ。

・「正しさ」と「明るさ」の違和感
 正しくなくてはならないのなら、多くの老人たちの人生は過ちだらけだった。私のこれまでの人生ももちろん過ちだらけだ。明るくなければならないのなら、老人の多くが抱え込んだ暗さはどうなるのか。明るい光の世界からはその影の部分は見えないのではないだろうか。それじゃ老人と付き合えないだろう。


 現場で当事者と向き合って来た人の言葉には説得力がある。


● 映画:「テッセラクト」(オキサイド・パン監督)

 2003年タイ・イギリス・日本共同制作。

 アレックス・ガーランドのベストセラー小説『The Tesseract(四次元立方体)』を原作とするサスペンス。
 シネマトピックスオンライン(http://www.cinematopics.com/cinema/aboutus.php)の解説によると、

  これからあなたが見ることになるのは、三次元の断片(ピース)である。そして、その断片を組み立てることによって、そこに四次元が現れるー。『テッセラクト』は、映像のパズル。かつてない大胆なコンセプトの映像体験。進化を続ける映画の最終形態ともいうべき、インテリジェントな傑作

だそうだ。

 バンコクのホテルを舞台に、いくつかの並行して起こるストーリーがそれぞれの主人公の視点で描出される。それぞれのストーリーが、ある時は近づき、ある時は遠ざかり、ある時は絡み合い、ある時はすれ違う様子を、映画を見る我々は時間軸を行きつ戻りつしながら、「神の視点で」見て取ることができるという仕掛け。
 興味深い試みではあるけれど、「四次元」とか「パズル」とか「インテリジェント」とか騒ぎ立てるほどではない。
 むしろ、そういった形容は、ナチョ・ビガロンゴ監督の『タイムクライムス』(2008年)にこそふさわしい。本当に頭をひねる不思議な映画。未見の人は必見。

 ともあれ。
 凝った作品である。
 映像が凝っている。(バン監督が長年CM制作をしていた関係だろう)
 脚本構成が凝っている。
 編集が凝っている。(コマ落としの多用や同じシーンの繰り返し)
 バン監督の才気とテクニックの冴えが全編に横溢している。
 凄い映像センスの持ち主であることは間違いない。
 
 しかしながら、今回はそのことが裏目に出てしまっているようだ。
 一体、何のためにそこまで凝ったのかがわからないのである。
 物語を効果的に表現するため、テーマをより深く観る者に伝えるためにこそ、テクニックはある。ドラマあってのテクニックであって、その逆ではない。
 この作品は、テクニックのためのテクニックになってしまっているのだ。

 一例を挙げると、クライマックスの車の廃棄場のシーン。
 主人公のショーン(ジョナサン・リース・マイヤーズ)は、後を追ってきたマフィアの男に背中を撃たれて地面に倒れる。次にマフィアは、逃げようとする少年ウィット(アレクサンダー・レンデル)を殺そうと狙いを定める。それを何とか阻止しようと、最期の力を振り絞って、ショーンは落ちていた拳銃をつかみ取り、マフィアに向かって発砲する。
 命中し、倒れるマフィア。
 ここでなぜか監督は、マフィアが地面に倒れる瞬間を、二重写しするのだ。専門用語で何というのか分からないが、スローモーションではなく、撃たれたばかりの直立している体と、倒れていく途中の斜めの体との両方を同時に映し出す。まるでマフィアが幽体離脱しているかのように。  
 一体、なぜ?
 昔から、アクション映画の主要人物が撃たれたり刺されたりするシーンでスローモーションを用いるのはよくある手だ。すでにそれなりの思い入れのある人物が時間をかけて死んでいくのを見守らせることで、観客の心の内に様々な感情をかき立てることができる。そして、物語の局面が変わる決定的瞬間を強調することができる。
 個人的には、こういう場面でのスローモーションは好きでない。死ぬときは、サッサと倒れていった方がかっこよいと思う。が、少なくともそれは、感動を高めるためという目的を持った特殊効果である。
  しかるに、このマフィアには人格がない。性格を感得させる描写もまったくない。単なる、マフィアの一員で、殺し屋としての、ゲームのコマとしての役割しか持たされていない。この男が物語にキャラとしての「顔」を持って登場するのは、終わりの部分のみなのだ。
 そいつが死んだところで、観る者は「別に・・・」なのだ。なんで、死ぬときだけ、高等テクニックを使って映像処理してあげるのだろうか?
 意味がない。
 (それとも、生まれ変わりを信じるタイの観客のために、幽体離脱して霊魂が抜けるところを見せたのか?)

 テクニックが空回りしている。

 原作については、読んでいないので何とも判断できないが、この映画に関してだけ言えば、時間軸を行ったり来たりしながら複数のストーリーを語っていくという根本のテクニック(=四次元立方体)自体が、効果的に機能しているとは言い難い。そのテクニックの利用により本来生じることが期待されるドラマの奥行きの深さ、「因果の輪」というテーマの真髄が全然響いて来ないのである。
 これは致命的である。 
 
 ホテルのベルボーイを演じたアレクサンダー・レンデルは驚くほど演技達者なうえ愛くるしいし、イギリス人心理学者を演じたサスキア・リーヴスは、品格のある演技で存在感が光っている。
 いい役者が揃って、いい演技をしているだけに残念と言うほか無い。



評価: C-


参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 


 

● 生みの親、育ての親より・・・ 映画:ディープエンド・オブ・オーシャン(ウール・グロスバード監督)

 1999年アメリカ。

 映画は宝庫だ。
 観ていない過去の膨大なストックの中に、まだまだいい作品が埋もれているものだな、老後もきっと退屈しないですむな、と嬉しがらせてくれた一品。

 公開時、あるいはDVD(99年はまだビデオか?)レンタル開始時に、観ようと思わなかった理由はよく思い出せない。
 たぶんタイトルが良くないってのがあるだろう。
 最近は、わざわざ日本語のタイトルをつけずに、原題をそのままカタカナ表記するってのが多いけれど、ちょっと考え直してもらいたいものだ。
 『エイリアン』とか『アバター』とか『ダイハード』みたいに短いインパクトあるタイトルや、『トゥルーマン・カポーティ』とか『ムーランルージュ』みたいに人や場所の名前は、カタカナ変換でも仕方ないと思う。が、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』とか『ヴァージン・スーザイズ』とか、ちょっと何とか内容を鑑みて日本語訳しろよ、と言いたくなる。
 いったい何の映画なのかわかりゃしない、ってのもあるが、昔の洋画の邦題名のセンスの良さ(たとえばショーン・コネリーの007シリーズ)を知る者からすると、配給会社の手抜きや作品への愛情のなさを感じてしまうので、「たいした映画じゃないんだな」と誤って思ってしまうのだ。これは看過できない。
 『ディープエンド・オブ・オーシャン』もまたしかり。
 『ディープ・ブルー』と同ジャンルの海洋ドキュメントものかと思いきや、家族愛ものなのだ。意味そのもの(「大洋の深き果て」とでもいったところか)は映画の内容とまったく関係ない。ジャクリーン・ミチャードの書いた原作タイトルそのままである。まさか原作者に敬意を表してとか、原作者との契約上仕方なく、ってわけではあるまい。(ちなみに、新潮文庫から出ている邦訳タイトルは『青く深く沈んで』)

 もう一つ観なかった理由は、ミッシェル・ファイファーが男の子を抱きしめる姿が使用されているDVDパッケージの表紙からは、どうしたってこれが「母子もの」に分類される作品としか思えなかったからである。
 「母子もの」はたとえ陳腐な内容であろうと、どうしたって感動するし、泣かせる(泣く)と分かっている。「母の子に対する愛情は何にも代えがたく貴い」という結論で終わることは十中八九間違いないので、いまさら見る必要は感じなかったのだと思う。

 偏見はいけない。

 ベス(ミッシェル・ファイファー)は、9年前同窓会会場で行方不明になった当時3歳の息子ベンが、その後引っ越した町の近所に、「サム」という名前となって別の家族と一緒に住んでいるのを知る。警察の捜査の結果、指紋が一致。間違いなく「ベン」だ。
 ベンは、9年前ベスの同窓生セシルに誘拐されたのだが、その記憶も刻まれないままに、遠い土地に連れて行かれ、セシルが再婚してできた新しい父親ジョージと3人で暮らしていたのであった。ジョージはまったく事情を知らず、セシルが自殺して亡くなった後も、義理の息子であるサムをわが子同然に可愛がり、親子水入らずで暮らしていた。
 法にのっとって、サムは実の両親の家に連れ戻され、一緒に暮らすことになる。
 人格形成にもっとも影響を与える幼少年期を別の家庭で育ったベン=サム。  
 果たして、彼は新しい生活に馴染み、新しい家族(父パット、母ベス、兄ヴィンセント)に心開いて、幸せになれるのだろうか?
 果たして、パットとベスとヴィンセントは、サムを家族として受け入れ、昔のように愛することができるのだろうか?

 「血は水より濃し」か。それとも、「生みの親より育ての親」か。
 
 予想通り、サムは自らの記憶にない新しい家族との生活に居心地の悪さを感じ、夜中に家出を繰り返しては、馴染んだ昔の家に、同じ文化を共有する育ての親ジョージの元に逃げ帰る。パットやベスのけなげな配慮や努力の甲斐なく、結局サムはベンになることができず、精神的に不安定に陥ってしまう。
 苦しむ息子の姿を見る忍び難さに、ついにベスはパットに宣言する。
 「ベンをジョージのところに戻しましょう。」

 ここまではまったく「母子もの」。ドラマは母親の姿を中心に描きながら進む。ミッシェル・ファイファーの一人舞台である。
 自分の不注意から息子を行方知れずにしてしまった母親の狂乱ぶり、慟哭、自責の念、胸えぐる悲しみ。
 息子を失った落ち込みとその後の人生に影を落とさざるをえない絶望と鬱。
 あきらめていた息子が近所にいることを知った時の驚き、混乱、期待、事実を知りたい焦燥感。
 再度ベンを腕に抱くことのできた、えもいわれぬ喜び。
 ベンとの絆を取り戻そうとする信念と忍耐。
 二つの家庭のはざ間で悩み苦しむベンを見かね、自らの母としてのエゴよりベンの幸せを選択する、身を切られるような辛さと深い母性愛。(ここのところは、ソロモン王と二人の母親の物語を思い起こさせる。)
 ミッシェル・ファイファーの演技はすばらしい。派手な演技ではないが、母親の複雑な心情の移り変わりを、まったく違和感なく表現し、観る者に共感を呼び起こす。この役でオスカーにノミネートされていないのが不思議なくらいだ。
 彼女の演技のせいで、ほかの役者(父親役、兄役)の影が薄れるほどである。ただし、刑事役のウーピー・ゴールドバーグだけは別。彼女は決して「食われる」ことのない役者だ。
 
 どう決着するのであろうか?
 このまま、ベンは「サム」のまま、育ての親と幸せに暮らしながら、生みの親たちとは適当な距離を見つけてつきあうことを学ぶのであろうか?
 それとも、何かどんでん返しがあるのだろうか?
 ベンの幸せを第一に考えたベスの深い母性愛が神様に通じて、何かしらの奇跡が起こるのであろうか?


 奇跡は思いもかけぬ方角からやってくる。


 ここでは詳らかにはすまい。
 が、それが起こる瞬間、この物語の構造がすっかり変わってしまうのだ。
 「母子もの」と思っていたストーリーが、不意に別のものに変貌する。それもストーリー上、まったく不自然な展開なしに。
 よくできたミステリーさながら、気にとめなかった伏線があるシーンをきっかけに浮かび上がる。
 その、不意打ち感。
 
 そして、母性愛という、男の子にとって温かく、なくてはならないものではあるが、一方その重さがうっとうしくもある綿布団が見事にすかされて、寝室の窓から飛び出た少年は、大人には見えない翼をつけて別の世界に飛翔する。9年間待っていた仲間と共に。
 その瞬間、予期することもなかった解放感とさわやかな感動が身のうちに生じるのを感じる。と同時に、ミッシェル・ファイファーからオスカーが遠ざかったのを見るのである。

 ジョナサン・ジャクソン。
 その名を銘記しておこう。  



評価: B+


参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!



● 映画: タイムマイン(ジョナサン・フレイクス監督)

 2002年アメリカ。原題CLOCK STOPPERS

 日本未公開のB級映画にはたまに拾い物がある。というか、最近は日本で公開したかどうか分からない作品ばかりである。公開しても上映期間は短いし上映館も限られるので、知らないうちに封切られて、知らないうちに終わっている。
 昔は毎週(隔週だったか?)「ぴあ」を買って、映画欄にくまなく目を通し、観たい映画にマーカーを引いて、手帳に予定を入れて・・・・・とやっていたが、今はとてもその気力はない。
 そもそも、今でも「ぴあ」は、たとえば都内の上映作品のすべてを網羅できているのだろうか? 
 
 この『タイムマイン』は、TUTAYAの旧作コーナーに置かれていたのだが、本当は隣にあった『タイムライン』(2003年アメリカ)を借りるつもりだった。『タイムライン』は、明らかに日本で公開されたメジャーな作品である。自分もテレビで予告編を繰り返し見たのを覚えている。それと間違って手にとってしまい、ケースの裏の紹介文を読んだら、なんだかこっちのほうが面白そうだったので借りてしまったのである。
 う~ん。今思うと、邦訳タイトルをつけた奴の戦略にまんまとはめられたな。じゃなければ、こんなダサいわけのわからないタイトルはつけないもんな。
 タイムマイン? 「時間は私のもの」ってことか?
 あるいは 「米国風タイムボカンのようなものですよ」ってことか? ・・・・当たっているかも。
 原題を生かして、『時を止める少年』でもいいのではないか? と思ったけれど、タイムマイン。
 このゆるさ、手抜き加減がB級らしくていいのかもしれない。

 時を止める(自らの体細胞が加速化することによって周囲が止まって見えるーそうです)ことのできる腕時計をひょんなことから手にしてしまった少年が、腕時計を奪おうとする悪の一味に追われる、という典型的な巻き込まれ型アクション映画である。
 相対性理論を応用して(!)時を止める腕時計を発明したという物語の仕掛けとなる部分ではSFであり、時の止まった世界をCGによって魔術的に描き出すところはファンタジーであり、その力をいたずらに使う部分はコメディであり、タイムボカンのキャラ達ほどではなくとも、どことなく迫力の欠ける悪人たちからの逃走という点ではアドベンチャーであり、父親との確執(ってほどでもない。要は車を買うのを許可してくれるかどうかの攻防)という点では家族ものであり、車と一緒に理想の彼女もゲットという点では恋愛・青春ものである。
 要はいろいろな具を放り込んだ寄せ鍋か闇鍋みたいな。いろいろ詰め込みすぎると、普通は失敗することが多いのであるが、四方八方うまくおさまっている。
 それは、作り手のセンスが良いのだろう。
 主人公の高校生を演じるジェシー・ブラッドフォードの脳天気な準イケメンぶりもB級映画にふさわしい。
 
 これは拾い物と言っていいだろう。



評価: B-


参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!



● 若尾文子礼讃! 映画:赤線地帯(溝口健二監督)

 1956年大映作品。

 いや、これは面白い映画である。
 一級のエンターテインメントと言っていい。
 さすが世界の溝口。


 タイトルからして社会派映画っぽいものを想像していた。
 なにせ「赤線地帯」である。
  1956年と言えば、「売春防止法」が公布され、赤線(公娼制度)が消えていく端緒となった年である。となると、赤線で働く女性たちの悲惨さや、売春や防止法をめぐる是非をテーマにした重苦しい映画を想像してしまうのも無理からぬではないか。しょっぱなに流れる黛敏郎によるテーマ曲も、「ゲゲゲの鬼太郎」に使ってもいいような、おどろおどろしいムンク風の曲なので、見終わった後に暗い気分になるのを覚悟していた。
 ところがどっこい。
 見終わった後の不思議な昂揚感。すっきり感。

 確かに赤線で働く女性たちの悲惨さはたっぷりと描かれている。
 吉原の「夢の里」で働く6人の娼婦たちの、そこで働くように追いやられたそれぞれの事情や、家族やお客とのやりとりをめぐる顛末を、ひとつひとつ丁寧に描き出しながら、一方で売春防止法制定前夜の国会での論議や吉原の雰囲気をからませて、物語はすすんでいく。86分という短い時間でそれをさばき切った脚本がすばらしい。
 しかしながら、後に残るのは、娼婦たちへの同情や、売春の是非や、理不尽な世の中に対する苛立ちなどではなく、女の強さ、たくましさ、したたかさ、愚かさ、一途さ、哀れさ、そして女同士の連帯の強さである。
 「やっぱり女性は強い」と恐れ入って、讃嘆して、DVDを取り出すことになる。

 溝口監督が描きたかったのもそこであろう。映画人生の最後の最後まで(これが遺作である)女性をこそ描きたかったのだ。
 そして、素の女性、ナマの女性、ありのままの女性の姿が一番出ているのが、娼婦であり、赤線地帯なのである。 「捨てるものなんか何もない、見栄も体裁もかまっていられるかい」という状況において、女性は本来の女性性をあらわし、自分にとって一番大切なものを浮き彫りにする。それは、ある女にとっては病気の夫と赤ん坊であり、ある女にとっては故郷にいる息子であり、ある女にとっては享楽であり、別の女にとってはお金である。それがある限り女性は生きられる。男なら、とっくのとうに自尊心を失って破滅しているであろう一線をはるかに超えて。
 自殺未遂をした結核持ちの夫と赤ん坊を一人で食わしているハナエ(木暮実千代)の啖呵が耳に残る。
 「私は絶対生きてやるんだ。赤線を廃止して、私らから仕事を奪って、そのあとの私がどうなるか。どんな風に生きてみるか、自分の目で確かめてやる。」

 つ・つよい・・・・・・・。
 
 『西鶴一代女』は、運のない女が転落していく様を描いた作品であった。
 田中絹代演じる主人公は、御所づとめの身分から始まって、大名の側室、遊郭の人気太夫、三味線弾きの乞食と身を落としていき、最後はやはり娼婦(夜鷹)となって夜の街で客を引く。仲間の夜鷹たちと冗談めかして交わすセリフがふるってる。
 「人間どう生きたって結局おんなじだもんね~。」


 ここなのだ。
 この心境に至れるところに彼女たちの強さの秘密があるように思う。
 それは一種の開き直りなのか、諦念なのか、負け惜しみなのか、自暴自棄なのか。それとも、現実を見切った末に達した生活哲学なのか。
 男は捨てられないものを多く持っている。その最たるものがプライドである。昔から男たちはプライドを無くすよりは、自死を選んできた。
 女にもプライドはあろう。だが、プライドでは「食えない」という当たり前の事実を無視しない。女はもっと大切な具体的なものを優先させる。愛する男であったり、子供であったり、食べ物であったり、いのちであったり・・・。そして、女は連帯することができる。

 どうあがいても男に勝ち目はない。


 自分が潔く認めた負けの分だけ、この作品は暗さ・重さから救われるのだろう。


 それにしても、若尾文子は当時23才。
 本当に美しい。
 いまどきの23才とは比較にならない品と落ち着きとあだっぽさがある。豪華で練達な共演女優陣に伍して、したたかな女を演じてヒケを取るところまったくなし。すばらしい。
 55年後のいま。
 愛されまくりの「バロック」の夫(黒川紀章)が亡くなったあと、どうなるかと思ったけれど、前にも増して自由に活躍しているのは知ってのとおり。ソフトバンクのCMでは白戸家の一員として、孫ほどの男と再婚し家族を驚かせ、ロックバンドではノリノリでサックス吹いて・・・。これが、CMでなく実生活であっても驚くに値しない。
 今まで演じてきた何百もの女~しとやかにして、したたかな~の仮面が素に張りついて、もはや仮面でも素顔でもなくなっている、そんな境地にいるかのように思える。

 溝口監督、増村監督もきっとご満悦だろう。




評価: A-


参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!



● 聖父子 映画:父ありき(小津安二郎監督)

父ありき 1942年松竹作品。


 この映画を見るのは何回目だろう?
 観るたびに、すでに完成の域に入りつつある小津ワールドの独特なリズムと時間の流れ(それは慣れないうちは眠くなるが、はまるとその心地よさに病みつきになってしまう麻薬である)に酔い、父と子が渓流釣りするシーン、城郭(上田城址?)で対話するシーンの圧倒的な美しさに心震える。
 状態の良いフィルム、くっきりとした音声で、観たい聴きたいと、これほど思わせられる映画はない。
 一方、観るたびに、ある種の居心地のわるさ、妙に落ち着かない気分を味わうことにもなる。
 それは、この父親と息子の関係性に起因している。


 戦前の日本の理想的な父親と、親思いの真面目な孝行息子。
 なんの文句もないのであるが、この二人の関係、親子というより、なんだか恋人同士か夫婦みたいなのである。
 成人後、秋田で学校教師をしている息子の良平(佐野周二)は、舎監の仕事の合間にふと手を止めて、ポートレートを取り出し、写真に微笑みかける。その相手は大学時代に知り合った恋人、ではなく、東京で働く父親の周平(笠智衆)である。彼の切なる願いは父親と一緒に暮らすこと。
 宴会に行った父親の帰りを一人布団の上で待つ良平、帰宅した父親をうきうきと迎える姿は、夫の帰りを待つ新妻そのもの。父親と会話するときのうれしそうな表情からは色気さえ漂っている。
 結婚相手を世話しようとする父親に、頬を赤らめ、はじらいながら、「おとうさんにおまかせします」と言うシーンなどは、畳の上に「のの字」でも書いているかと思うほど妙にかわいい、というか妙。
 なんか見てはいけないものを見てしまったという感じがする。
 父親もまんざらでない。息子と一緒に風呂に入ったり(そんなに広い風呂場がありそうな家には見えないのだが)、仏壇に向かい亡くなった母親に徴兵検査合格を報告する息子の姿を、口元をほころばせながら飽かず眺めている。

 同性愛(近親相姦)のニュアンスがあるというのではない。それは小津映画にはありえない。
 この父と息子のいっぺんの翳りもない愛情に満ちあふれた関係は、世間一般の普通の父子関係ではないと言いたいのである。

 父と息子の関係は、ややこしいものである。
 自分の場合を見てもそう思うが、世間的にも決して「互いへの尊敬と愛情に満ちた、いつもそばにいたい良好な関係」などではない。
 母と息子ならそれは可能だろう。父と娘でもあり得よう。『晩春』の笠智衆と原節子はまさにそうだった。
 だが、父と息子はそうはいかない。 
 西欧なら、父親を殺したオイディプスがいる。エデンの東、スターウォーズ。日本なら、巨人の星、美味しんぼ、エヴァンゲリオン、宮崎吾郎の『ゲド戦記』・・・。父親と息子は理解し合うことも愛情を示し合うこともなく、いつも闘っている。それが、あたかも父親と息子の宿命であるかのように。
 息子にとって父親は、人生の先輩であり、見本であり、前に立ちはだかる岩壁であり、到達し乗り越えるべき山である。それは、常に自分にプレッシャーを与える存在である。
 父親はまた社会の象徴でもある。個人として目覚め、個人として生きたいといきり立つ息子に対峙し、その気持ちを潰し、行動を束縛し、自尊心を打ち砕く社会というものが、人間の姿をして身近にあらわれたのが父親である。古今東西、父親の役割は息子を社会化させることにあった。(ここ過去形にしました。)
 
 映画の中でも、周平は、「一緒に住みたい」という良平の希望を常に裏切り続けることで息子に忍耐と我慢を教え、いつかは出て行くことになる社会の厳しさに対し準備させている。父親としての役割をきちんと果たしている。決して、親子関係のとり方が間違っているわけではない。(息子に対する父親の役割について描いた映画に『父、帰る』がある。これは、つよい衝撃と深い考察を呼び起こす傑作。)
 でありながら、あまりにうるわしすぎる父と息子の関係。
 なぜそれが可能なのか?
 そこにはいくつかの条件が前提としてある。
 
1. 母親がいない。父親が母親代わりもつとめていた。
2. 父親は再婚しなかった。
3. 息子は一人っ子である。
4. 息子の中学・高校・大学時代(いわゆる反抗期・疾風怒濤期)に、二人は離ればなれでいた。
5. 息子は結婚していない。晩生である。
6. 父親の人格が高潔である。
7. 息子の結婚が決まったとたん、父親は亡くなってしまう。


 この条件のどれか一つ欠けただけで、二人の関係は微妙に変化し、うるわしい関係は崩れてしまう。
 たとえば・・・。
 周平が女房を亡くしたあとすぐに再婚して別の子供を作っていたら?
 周平に良平のほかにも子供がいたら? とくにそれが娘だったら?
 良平が思春期を周平と共に暮らしていたら?
 良平の結婚後も父親が生きていて、ずっと同居するとしたら?
 周平がアルコール中毒だったら? 女癖が悪かったら?
 
 すべてが変わってくることが見えてくる。

 いくつもの条件の稀なる積み重ねの結果として、あのような天上的な父子関係が一時的限定的に成り立ったのである。それはまるで、この世ではあり難い父子の姿をスクリーンに永遠にとどめんが為に、条件を考え出して、逆算して設定を作ったかのようである。
 
 いくつもの困難を乗り越えた先に一瞬立ち現れた幻こそ「聖なるもの」の刻印が押されるにふさわしい。
 

 
評価: B+
「A-」をつけるつもりだったが、やはり一部フィルムの見にくさと音声の悪さは無視できない。

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!





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