1945年原著刊行
2004年早川書房(中村能三・訳)

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 原題は、Sparkling Cyanide「泡立つ青酸カリ」
 クリスティ中期の作品で、名探偵ポワロも、詮索好きな老嬢ミス・マープルも、おしどり探偵トミー&タペンスも、登場しない毒殺ミステリー。
 邦題とは裏腹に、すっかり忘れられた『忘れられぬ死』だった。――昔読んだものの、内容も犯人もトリックも覚えていなかった。
 本作をクリスティのベスト1に選ぶ評論家もいるのだが、謎である。
 中心トリックが無謀すぎるし、狙った殺人が失敗した理由もちょっと苦しすぎる。席を間違えるなんて・・・。謎解きも弱い。
 個人的には、おそらくベスト30にも入らない。
 
 とは言え、さすがクリスティ。
 巧みなストリーテリング、鮮やかな人物描写(とくに女性陣の心理描写)、軽妙な会話、レッドヘリング(怪しい人物)による引っかけの見事さ・・・・クリスティを読みまくった十代の頃同様、読み始めたら止まらなかった。
 さらに、十代の頃はとんと分からなかった男女の機微というやつも、よく分かったとは言えないまでもそこそこ理解できるようになった現在、クリスティの真価がますます明瞭に実感される。
 『春にして君を離れ』やいくつかのマープル作品に見られるように、「女」という謎を読者に提示し、登場人物たちに托して解明することも、作家クリスティのテーマだったのである。
 痴情と嫉妬と盲愛が錯綜する本作をベスト1に押す評論家の意図も、そこらにあるのかもしれない。

黄色いアイリス

 閑話休題。
 高校時代だったか、英語の教師に言われたことで非常にためになったことがある。
「小説でも詩でも戯曲でもいいが、君たちがこの先、西洋文学を読んで理解したいのなら、前もって二つの書を読んでおく必要がある。ギリシア神話と聖書だ」
 ソルティはこれにシェイクスピアを加えたいと思う。
 西洋文学には、この3つ――ギリシア神話、聖書、シェイクスピア――の中に出てくるエピソードが譬えとして用いられたり、聖書やシェイクスピア作品の一節が原典の呈示もなしに引用されたりということが、実にしばしばある。
 読む人は当然それらをわかっているものとして扱われる。
 つまり、西洋人にとっての基本教養の一種なのだ。
 
 クリスティの作品も例外ではない。
 どころか、クリスティは引用好きの作家で、どの作品でも少なくとも一回は、3つのどれかが言及されているのではないか。
(加うるにクリスティの場合、前提として『マザーグース』も読んでおくのがベターである)
 本作でソルティが見つけたのは、次の3ヵ所。

 それにはふれずに、レイスはおだやかに言った。「きみも気づいているとは思うがね、ジョージ、きみにもちゃんと、申し分のない動機があるんだよ」
「ぼくに?」ジョージはめんくらったような表情をみせた。
「オセロとデズデモーナを思い出してみるんだな」
(出典はシェイクスピア『オセロ』、「お前の動機は嫉妬だ」と暗に言っている)

 ふたりはおたがいをみつめていた――あまりにかけはなれているので、どちらも相手の考えがほんとうに理解できないのだ。アガメムノンとクリュタイムネストラも、娘のイピゲネイアの名を口にしながら、そんなふうにたがいをみつめ合っていたのだろう。
(出典は『ギリシア神話』、アガメムノンは妻クリュタイムネストラの同意を得ずに、イピゲネイアをトロイア戦争に勝つための供物とした)

「マクベスは、覚えてらっしゃるかな、明らかにしたたかな犯罪者ですよ、そのマクベスが、宴会の席でバンクォーの幽霊を見たときには、自制心を失ってしまった」
(出典はシェイクスピア『マクベス』、マクベスは王位を守るために親友バンクォーを殺害した)

 以上は、原典を読んでなければ、意味不明の引用だろう。
 知ったところで生活の糧になるような知識ではないが、西洋文学や西洋美術や洋画をより深く楽しむための役には立った。
 先生、ありがとう!

ギリシア神話

 最後に、ソルティが選ぶクリスティ・ベスト20は以下の如し。(ミステリーのみ、発表年順)
  • アクロイド殺し ・・・言わずと知れた「語りトリック」の金字塔!
  • おしどり探偵(短編集) ・・・トミー&タペンスが好き
  • 謎のクィン氏(短編集) ・・・幻想的な雰囲気が味わい深い逸品
  • 火曜クラブ(短編集) ・・・老嬢マープルが思い上がった若人たちの鼻を明かす痛快
  • エッジウェア卿の死 ・・・女優、女優、女優!
  • オリエント急行の殺人 ・・・言わずと知れた「意外な犯人」の金字塔!
  • なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか? ・・・純粋に楽しめる青春スリラー
  • 三幕の殺人 ・・・演劇好きな英国らしい趣向あふれる
  • ABC殺人事件 ・・・ポワロの推理が冴える名作
  • ナイルに死す ・・・二度の映画化。異国情緒あふれる傑作
  • そして誰もいなくなった ・・・言わずと知れた「クローズドサークル」「見立て殺人」の金字塔! 徹夜必死の強烈サスペンス!
  • 愛国殺人 ・・・変わりゆく英国に対する保守派クリスティの複雑な思いが伝わってくる
  • 白昼の悪魔 ・・・大胆なトリックと英国海岸風景
  • NかMか ・・・タペンスが、トミーと上司の鼻を明かす冒頭が最高!
  • ゼロ時間へ ・・・メロドラマとミステリーの見事な融合。香気高い絶品
  • 予告殺人 ・・・マープル物の最高傑作!哀しい動機
  • 葬儀を終えて ・・・このトリックの実現可能性については今も時々考える
  • 蒼ざめた馬 ・・・オカルティックな趣向の良品。タイトルは『ヨハネ黙示録』から。
  • 親指のうずき ・・・タペンスが絵に描かれた家の所在を思い出すシークエンスが秀逸
  • カーテン ・・・ポワロ最後の事件。読んだ当時はなぜ「カーテン」なのか分からなかった。「幕」ね。
 しかし凄い作家だ。
 今となっては、クリスティを読んでいること自体が、文学愛好家にとって必須の教養になった。




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損