2015年河出文庫
現在、世界195ヵ国のうち、7割の国は死刑を廃止または停止しており、実際に死刑を執行しているのは54ヵ国のみという。
また、経済協力開発機構(OECD)38ヵ国のうち、死刑制度があるのはアメリカ・韓国・日本のみで、アメリカは半分の州で廃止または停止、韓国は1997年を最後に執行していない。
一方、日本の死刑の執行件数の推移を見ると、60年代132件→70年代94件→80年代15件、と減少し続け、このまま死刑廃止に向かうかと見えたものが、90年代36件→2000年代46件→2010年代48件、とぶり返している。
明らかに、国際社会の潮流と逆行している。
2019年の世論調査では、日本人の約8割(!)は死刑制度を容認している。
なぜ、日本では死刑制度が廃止されないのか?
なぜ、日本人の多くは死刑を肯定しているのか?
著者の一人である森達也は、次のような理由を挙げる。
- 体感治安がメディアの扇動によって急激に悪化していること。(実際の治安は必ずしも悪化していないにもかかわらず)
- 日本人は多数派につきたいとするメンタリティが強いこと。
- 掟やルールにそむく者に対しての罪責感や、強い権力に対しての従属意識が強いこと。
- 多くの人が死刑の実態を知らないこと。
- 被害者遺族への表層的な共感が、被害者への救済よりむしろ加害者への憎悪に転換していること。
むろん、これらの背景には、生殺与奪つまり国民の生命を奪うことができるという、考えられ得る限り最大の権力を、簡単には手放したくない勢力の思惑があるのだろう。(それはおそらく、「社会が変わってしまう」から同性婚に反対する勢力と、かなりの程度まで重なるように思う)
本書は、死刑廃止派の森達也と、死刑存置派(あるいは反廃止派)の藤井誠二による対談かつ討論である。
と言っても、「リベラルV.S.保守」「左翼V.S.右翼」といったような真っ向から対立する、あるいは反目し合う者同士の対決ではない。
元オウム真理教信者の日常を描いた『A』シリーズや、業界タブーの内実を暴いた『放送禁止歌』などで知られる森達也が反体制・反権力であることは言うまでもないが、戦後沖縄の売春街を綿密な取材と調査でレポートし、日本とアメリカの狭間で翻弄され続けた沖縄の姿を浮き彫りにした『沖縄アンダーグラウンド』を著した藤井誠二もまた、体制の徒ではない。
藤井のデビュー作は、出身地である愛知県の管理教育批判であるというから、基本的には反体制・反権力の人と言っていいだろう。
本書は、反体制という同じ舟に乗っている者同士の、死刑制度をめぐる「異見」の衝突である。
なので、議論の前提となる部分において、両者の認識はかなりの部分、共通している。
たとえば、
- 論理的にはもはや死刑制度を延命させる理由は存在しない。(死刑に犯罪抑止効果はない)
- 死刑のやり方や死刑情報についてきちんと国民に公開すべきである。
- 冤罪をなくすために警察や検察は最大限の努力と改革をすべきである。
- 硬直化した司法システムは変えるべきだが、いまの裁判員制度には問題が多い。
- 犯罪被害者や遺族の権利やケアを充填させることが重要である。
- 横ならびの犯罪報道に見られる思考停止ぶり。
これらの共通認識を踏まえた上で、両者は討議の席につく。
本書は、死刑制度に関する様々な論点が取り上げられて、この問題の整理に役だつばかりでなく、オウム真理教地下鉄サリン事件(1995年)以降の日本社会の司法やメディアや治安維持をめぐる状況が概観されており、死刑制度を支える日本的状況について考察する一助となるものである。
死刑制度をどう思うかは、問われた人間の世界観や宗教観や人間観、つまりはアイデンティティの深いところを如何するリトマス試験紙であることが分かる。
藤井は、死刑制度存置を主張する理由を次のように述べる。
何人殺しても、いかなる非道なやり方で殺しても、その加害者の命は守られるということがどうしても納得できないからです。いままで議論してきたように矛盾点はある。最後の最後に残るのは、「殺された側」の尊厳や応報感情をどのように考えていくのか、ということに尽きると思います。何人殺しても、大量殺戮をしても、国家がその命を保障するということについては、どう考えてもぼくの中で倫理的に受け入れがたい。
藤井がこのような考えに達した背景には、犯罪被害者や遺族の取材を通して、この国で彼らの置かれてきた劣悪な状況――それは最近ようやく改善されつつある――を知るとともに、彼らの思いを真摯に聞き続けたことにあるようだ。
もともと死刑は廃止したほうがいいと漠然と思っていたものが、取材を通して被害者の現実を知った結果、「殺された側の声や痛みを看過してきた自分に対しての慚愧の念に苛まれ」たのである。
被害者側に共感すれば、「死刑反対!」とは簡単に言えなくなるのは自明の理であろう。
一方、死刑廃止を確信的に唱える森達也の理由は、簡潔にして明晰。
命の尊厳である。
命とは法やシステムで規定されるようなものではない。
人は人を殺す本能を持っていない。なぜなら人は群れる動物だから。戦争や殺人がなくならない理由は人間に闘争本能があるからだという人は多いけれど、人には闘争本能はあっても、殺戮の本能は保持していません。あるいは殺戮の本能がもしあったとしても、これを抑制する本能が強く働いている。
人は人を殺してはいけない。殺させてもいけない。人を殺したことを理由に殺してもいけない。
人を殺さないこと、人を助けることは、人間の本能(本然と言うべきか)であると言う。
すなわち、ぬち(命)ど宝。
人を殺した人間の命もまた宝。
だから、江戸時代の武士のような仇討ちはすべきでない。
被害者遺族によっても、国家によっても、新たな殺人は生み出すべきでない。
簡潔にして明晰だけれど、被害者遺族はもとより、世の死刑存置派を説得するにはあまりに強引な、あまりに“お花畑”な、性善説にもとづいた(ある意味スピリチュアルな)言説ととられかねない。
森の唱える「元来、人は人を殺せないようにできている=本能説」があちこちで批判を浴びたことは、本書で森自身が告白している。
当然ここでも、対談相手の藤井を折伏することも宗旨替えさせることも叶わず、「森節だなあ」などと笑われている。
むしろ、次の理屈のほうが説得的であるかもしれない。
死刑が犯罪抑止に役立っていないことが明らかになった今、死刑存置には論理的整合性がないことは、藤井さんも同意しますね。残された理由は遺族の応報感情です。でも死刑制度の根拠が遺族の応報感情だけであるとするならば、天涯孤独の人が被害者になった場合は、死刑を適用すべきではないということになります。だって遺族がいないのだから。あるいは遺族が死刑を求めていない場合は、その要望に沿った軽い罰でとどめなくてはならなくなる。ならば近代司法の根本原理である罪刑法定主義は、その瞬間に崩壊します。この国は近代司法国家の看板を下ろさなければならなくなる。その覚悟はありますか?
ソルティ自身は死刑反対派である。
その理由を以前、別記事につたない文章で書いたことがあるし、国家が手を下す今一つの殺人である戦争との絡みから考察したこともある。
だが、鬼畜の所業としか思えない残虐で常軌を逸した事件のニュースを見聞きするとき、ソルティの信念も揺らぐ。
とくに、女性や子供に対する性暴力には憤りを覚えることが多い。
「死刑でなく、去勢して男性ホルモンを枯渇させたらいい」と思うことがしばしばある。
とても人権派とは言えまい。
正確にはたぶん、反マッチョ派なのだ。
森達也と藤井誠二。
死刑制度をめぐる2人のスタンスの違いは、なんとなく、ノンフィクションライターとしての2人のスタイル(作風)の違いと呼応するところがあるような気がする。
ソルティはこれまで、森の書いたものは『放送禁止歌』や『オカルト』など数冊、藤井の書いたものは『沖縄アンダーグラウンド』一冊しか読んでいないのだが、2人のスタイルが対照的であることは感じられた。
森の場合は、対象となる相手を取材しながら、「自分はどう思ったのか、どう揺れたのか、どう軌道修正したのか」も記録・表出するスタイルを取る。
対象を描き出すと共に、取材する過程で湧き上がってきた自らの葛藤や煩悶や逡巡や気づきも、読者の前にさらけ出す。
単なる観察者の立場に身を置いて客観的に対象をレポートするのではなく、対象との接触・交流において変化を余儀なくされてゆく自分自身をも組み込んで、現象を関係性において描き出していく。
その作風は、藤井からすれば「内的なロードムービー」のように映る。
一方、藤井の場合は、自らは一歩も二歩も後ろに退いて対象を観察し、事実を淡々と掘り起こして読者に伝えていく。
そこでは、藤井自身が感じた葛藤や煩悶や内省や気づきの表出は最小限に抑えられる。
こう述べている。
事実の重みによって読む者が考えることを迫られるとき、取材者がちょろちょろ顔を出すのはじゃまなのかなと思うこともあります。
『沖縄アンダーグラウンド』はまさにこのスタンスで書かれていた。
いわば、ハードボイルド。
取材の合い間に那覇市のバーでグラスを傾ける藤井の姿に、北方謙三や大沢在昌がダブって見えたほどだ。
事実の重みは確かに伝わった。
戦後沖縄の売春街の様相、そこで働く女性たちの姿を活写した力作であるのは間違いない。
たいへん優れた取材者であり書き手であり、学ぶところ多かった。
だが、藤井誠二という人間が見えてこない。
そこに物足りなさを覚えた。
というのも、『沖縄アンダーグラウンド』はいわば、戦後沖縄のおんなたちが、徹底的に日米の男たちに搾取された物語なのである。
ならば、同じ男として、そのことをどう思ったか、自分が属するジェンダーの持つ加害者性をどう引き受けるのか、女を買うことを自らはどう感じているのか、男の性欲とその攻撃性をどう捉えているのか、が問われて然るべきであろう。
それがまったくなかった。
まるで、自らはきれいなままで、堕ちていくおんなたちを観察しているみたいで、しかも米軍の慰安所(=性の防波堤)から始まった売春街が消滅していくことをあたかも惜しんでいるみたいな書きぶりで、「なんだかなあ」と思ったのも事実である。
売春街を「浄化」しようとする地元の女性団体へのシビアな視線も、フェミニスト運動家を揶揄する昭和時代のオジサンのような匂いを感じた。
藤井誠二という人はもしかしたら、基本マッチョなんじゃないだろうか。
だとしたら、マッチョと死刑廃止とでは反りが合わないだろう。
本書の最終章で、森はノルウェーにおける刑事司法の現状について紹介している。
死刑はもちろん、終身刑もありません。現在の最高刑は禁固21年です。受刑者が出所した後の住居や仕事の斡旋など支援制度も充実しているし、被害者遺族や加害者家族に対する補償や支援制度も、国と民間レベルで整っています。そういった下支えが、寛容化政策を支えています。
そして、2011年にノルウェー国内で77人もの犠牲者を出した連続テロ事件の犯人の刑が禁固21年で確定したことに対し遺族からまったく不満の声は上がらなかったこと、そればかりか、後日花を手に現場を訪れた犯人の母親に対し犠牲者の遺族の一人がいたわりの声をかけて抱きしめた、というエピソードを紹介している。
それを聞いた藤井の感想そのままに、「同じ地球の話とは思えない」。
同性婚や夫婦別姓の問題を挙げるまでもなく、過去20年間で、日本がいかに先進諸国の中で遅れを取ったかがまざまざと知られる。
そして、その20年間こそ、旧統一教会と安倍元首相率いる政府自民党との癒着が、日本中で、あらゆる領域で進行していた“ツボにはまった20年”だったのである。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損