2021年アメリカ
109分
西暦2257年の未知の惑星を舞台とするSF。
原作はパトリック・ネスの同タイトルのシリーズ物のヤングアダルトSF小説で、東京創元社より『混沌(カオス)の叫び』の題名で刊行されている。
ネットを見ると、本作の評価はあまり芳しくない。
たしかにツッコミどころ満載で、SFなのに基本的な状況(=世界観)の説明も手を抜いている、というかズボラな感が否めない。
ストーリーも荒削りで強引なところがある。
原作を読んでいないので分からないが、本来、長編シリーズとして創作されているものを、たった109分の映画に短縮してそれなりに結末をつけたところに、無理があったのではないかと思う。
しかしながら、ソルティはかなり面白く鑑賞した。
★4つである。
つまり、たしかにSF映画には違いないが、ただそれだけではすまない、「なんだか定義しづらい新しい風変りな要素」を匂わせるクセモノである。
カオス・ウォーキング(Chaos Walking)の意味は、映画の冒頭にクレジットで説明される。
The noise is a MAN’S thoughts unfiltered
and without a filter a MAN is just a Chaos Walking.
字幕ではこう訳している。
ノイズとは露わになった人間の思考である。頭の中がむき出しの人間はただの混沌(カオス)だ。
西暦2200年代、地球に似た惑星に入植した人類第一波は、原住民であるスパクルとの闘いを強いられた。
が、それ以上に厄介だったのは、この惑星では人間の思考がそのまま露わにされてしまい、お互いの頭の中が分かってしまう点だった。
結果的に、自らの思考を制御できる者がリーダーとなって、他の者の思考をコントロールできる力を得て、一つの共同体を作っていた。
ただし、その共同体には女性が一人もいなかった。
女性は、男性とは違って、惑星の影響を受けることなく、思考がダダ洩れになることはなかった。
が、スパクルに虐殺されたのであった。
主人公トッド・ヒューイット(トム・ホランド)は、人類とスパクルとの闘いのあとに生まれ、このようないきさつをまったく知らない。
面白かった点の一つは、この思考のダダ洩れと制御というアイデアである。
2001年公開の映画『サトラレ』(監督:本広克行、出演:安藤政信)を観たことある人なら、思考のダダ洩れという現象の厄介さは分かるだろう。
あの映画では主人公の青年の思考のみが周囲にダダ洩れし、本人はそのことを知らないという設定だった。
本作は、共同体に住んでいるリーダー以外のすべての男の思考がダダ洩れなのである。
うるさいったらない。
近くにいる相手に自らの考えていることを「サトラレ」たくなければ、頑張って思考を制御しなければならない。
まったく別のことを無理矢理考えるか、主人公トッドみたいに「僕の名前はトッド・ヒューイット」と頭の中で繰り返すか・・・。
このシチュエイションが、ソルティがやっているヴィパッサナー瞑想(あるいはマインドフルネス瞑想)との類似を思わせたのである。
ヴィパッサナー瞑想においては、妄想は退治しなければならない敵である。
過去や未来にさまよってしまう意識を「いま、ここ」の現象に向ける。
お腹の「ふくらみとちぢみ」といった体の感覚、耳介がとらえた外界の音、いま意識の底から湧き上がってきた思考や感情・・・こういったものを瞬間瞬間キャッチして、すべて捨て去る。
まさにトッドがやっている思考の制御の訓練なのである。
それができなければ、人は妄想にとらわれて、「歩く混沌(カオス・ウォーキング)」に堕してしまい、輪廻を繰り返す――というのがブッダの教えである。
一般に、「男の考えることはロクでもないことばかり」って言うのは、同じ男なら説明するまでもないし、男と付きあったことのあるたいていの女も知り尽くしていよう。
とくに、エッチなことや暴力的なことを考える度合いにおいて、女と男では格段の違いがあろう。(ソルティは女になったことがないので確証はできません。が、歴史的に見て妥当な見解でしょう)
種明かしすると、トッドの暮らす共同体に女性が一人もいないのは、スパクルのせいではなかった。
女に思考がバレることに我慢ならなくなった男たちが、女を虐殺したのである。
爾来、この共同体では、「男とは敵を殺すもの」と定義され、それが奨励されている。
男たちは日々徒党を組んで狩りに精を出している。
ある日、地球から第2波の入植組がやって来る。
本船から偵察隊として送られてきたロケットは、大気圏外で炎上し、地上に墜落してしまう。
生き残ったのは、ヴァイオラ(デイジー・リドリー)という名の若い女性一人。
トッドは初めて見た女性に衝撃を受け、次第に惹かれていくが、その頭の中はヴァイオラに筒抜けである。(この不均衡な2人のやりとりはおかしい)
共同体の長であるプレンティス(マッツ・ミケルセン)は、自らの権益を危うくしかねない第2波の入植を阻むために、偵察者ヴァイオラを暗殺せんとする。
トッドはヴァイオラを助けるべく、共同体から一緒に逃げ出す。
プレンティスは、他の男たちの思考をコントロールして自らに従わせ、2人のあとを追う。
逃げる2人が駆け込んだのは、別の共同体。
そこは、農耕や牧畜がおこなわれている平和な村で、なんと女性や子供も暮らしていた。
共同体のリーダーは黒人女性ヒルディで、彼女の指導のもとで男たちも働いていた。
プレンティスを長とする共同体とヒルディを長とする共同体の違いが、ちょうどマッチョイズムな軍隊組織とフェミニズムな市民社会の比喩のようで、面白い。
本作は、原作者やダグ・リーマン監督の意図がどうであったかは知らないが、極めてジェンダーコンシャスな映画になっているのである。
また、プレンティスの共同体で暮らすトッドを育てたのは、村から離れて暮らす男のカップルであり、彼らはプレンティスの思考制御を受けないという設定も意味深である。
女性がいないのだから男同士がつるむのは仕方ないが、どう見てもこのカップルは夫婦のよう。
トッドはゲイカップルに育てられた男の子なのだ。
この点も、反マッチョ。
このように解釈するならば、最初に言及した「カオス・ウォーキング」の定義もちょっと変わってくる。
英文中のMANは、「人間」でなく「男」と解せる。
すると、邦訳はこうなる。
ノイズとはダダ洩れの男の思考である。思考を制御できない男は、単なる混沌(歩くカオス)にすぎない。
ずいぶん痛烈じゃないか。
実際は女の思考もそれなりにカオスだけど、男のそれほどには害はない・・・と思う。
なんと言っても、戦争を起こすのは大概男たちであり、殺人事件の加害者の8割近くは男である。
原作を読みたくなった。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損