2021年アメリカ
104分

 「クライ・マッチョ(マッチョよ、泣き喚け!)」というタイトルが示すように、本作はマチズモ(男らしさ、男性優位主義)に対する認識の再検討を、観る者(とくに男たち)に迫る映画である。
 それを先導するのが、フェミニズム系の女性監督やゲイ監督ではなく、長年アメリカン・マッチョのシンボルと目されてきたクリント・イーストウッドであるところが、一番のポイント。

 イーストウッドが演じるのはテキサスの往年のロデオ界のスター、マイク・マイロ。
 カウボーイハットをかぶり暴れ馬を乗りこなす、少年たちの憧れの的たるマッチョ・ヒーローである。
 しかし今やすっかり老いぼれて、家族も失い、酒浸りの落ちぶれた日々を送っていた。
 マイクは恩ある友人に頼まれて、メキシコにいる友人の息子ラフォを迎えに行く仕事を引き受ける。
 ラフォの母親はアルコール依存症で、ラフォを虐待しているというのだ。
 マイクは闘鶏場にラフォを見つけるが、反抗的な不良少年に育っていた。
 カウボーイに憧れマッチョな男であることに拘るラフォは、マイクの誘いに応じ、テキサスで牧場を営む父親のもとへ向かう。
 元マッチョのロデオスターとアイデンティティの定まらない思春期の少年、祖父と孫ほど年の離れた2人の男のロードムーヴィー。
 これは、同じイーストウッド作品である『パーフェクト・ワールド』(1993)を彷彿とする。
 思えば、『パーフェクト・ワールド』あたりから、イーストウッドはその監督作品において、「男らしさとは何か」「ジェンダーとは何か」を追求してきたのであった。

rodeo-2685568_1920
DJDStuttgartによるPixabayからの画像

 道中いろいろな危険やハプニングを経験し、それを力を合わせて乗り越えるごとに、最初はぎこちなかった2人の間に信頼関係が芽生える。
 無事国境を越えてアメリカに到着し別れる間際、マイクはラフォにこう諭す。
「マッチョであることには何の意味もない。そのことに気づいたときにはもう遅すぎる」

 これがこの作品の最大のテーマであり、齢90歳を超えたイーストウッドが、マイクという自らの分身を通して言いたかったことなのではないかと思う。
 
 N・リチャード・ナッシュによる同名の原作小説は、1975年に出版されたそうだ。
 ナッシュは何度も映画化しようとは企画を持ち込んだが、却下され続けた。
 ロバート・ミッチャムやアーノルド・シュワルツェネッガーやバート・ランカスターを主役に迎えての映画化の話もあったが、時宜を得ず、流れてしまった。
 実に、映画化実現まで45年かかったわけである。
 ジェンダー平等賑々しい昨今はともかく、70年代からこのテーマを唱え続けてきたリチャード・ナッシュは先見の明がある、というか真実を見抜く英知と勇気があった。
 
 映画的に言えば、さすがにイーストウッドは老いが隠せない。
 声はしゃがれ、滑舌は悪く、動きはよろよろしている。
 原作を読んでいないので分からないが、マイクの設定年齢はせいぜい60代だろう。
 友人の息子が15歳なのだから。
 イーストウッドはどう見ても60代や70代には見えない。
 若作りも無益なほど、90代の肉体がそこに曝け出されている。
 ラフォとの関係も祖父と孫どころか、曾祖父と孫である。
 旅の途中で出会う妙齢(50代くらい?)の女性との恋物語もちょっと苦しい。
 「恋愛」という以上に「介護」という言葉が浮かんでしまうのだ。
 あと、10年早くこの映画を撮っておけば良かったのになあと思わざるを得ない。
 
 一方、本作は元マッチョ・スターであるイーストウッドが主役を演じるからこそ、テーマが効果的に打ち出せる。
 世界中の誰もが認めるマッチョ・スターが自ら演じ語ってこそ、「マッチョの真実」は観る者の心に“告白のごとく”響くのである。
 その意味では、シュワルツェネッガーやスティーヴン・セガールがやるならまだしも、『家族の肖像』のバート・ランカスターや『狩人の夜』のロバート・ミッチャムではままならなかったであろう。
 
 イーストウッドはかつては熱烈な共和党支持者であったが、現在はリバタリアニズム(自由主義)を標榜し、より中庸の立場を取っている。
 人工妊娠中絶を禁止する法律に反対し、同性婚を支持している。





おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損