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日時: 2023年3月11日(土)18:00~
会場: 大田区民ホール・アプリコ 大ホール
曲目: 
  • キース・エマーソン(吉松隆編): 《タルカス》
  • D. ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番《レニングラード》
指揮: 山上紘生
オケ: クラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団/目白フィルハーモニー管弦楽団

 大田区民ホールに行くのははじめて。
 JR京浜東北線の蒲田駅東口から徒歩3分のところにある。
 この駅の発車メロディはもちろん、『蒲田行進曲』。
 原曲はルドルフ・フリムルのオペレッタ『バガボンド・キング(放浪の王様)』の中の一曲である。
 モダンで美しい区民ホールのファサード(正面)は、今宵の演奏への期待を高める。

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大田区民ホール アプリコ 

 今回は、同じ2018年に旗揚げした2つのアマオケ(クラースヌイ・フィル目白フィル)による合同演奏会。
 舞台上には150名以上の合体メンバーが所狭しと並び、音の厚みと迫力はホールを揺るがさんばかりであった。
 そこにライバル意識こそなかろうが、各パートとも常とは違う顔触れや音色やタッチに刺激し合って、よい相乗効果を生んでいたように思う。
 新しい友人ができたり、恋が芽生えたり、同じパートの尊敬する先輩を見つけたり、楽しみも多かろう。
 それぞれに固有の音や雰囲気や癖をもつであろう2つのオケを見事に融合させ、パワフルにして壮麗なる響きにまとめあげた山上紘生の手腕に感心した。

 この指揮者はダンディというかスマートというか、舞台姿に華がある。
 まるでバレエか社交ダンスでもやっているかのような、無駄のない美しい振る舞いには、思わず惹きつけられる。
 穏やかで子供のように純なる笑顔は、あたかも白鳳仏のよう。
 曲に対する深い理解とデリケートな音づくりは、前回のクラースヌイ演奏会で確認済みであったが、それは聴き間違いや錯覚や偶然ではなかったことが今回証明された。
 こんなデリケートな指揮者がほかにいるだろうか?
 や? ファンになりかけてる?

深大寺釈迦牟尼像アップ (2)
深大寺の白鳳仏

 『タルカス』は、イギリスのロックバンド「エマーソン・レイク・パーマー(ELP)」が1971年に発表した曲で、ヒットチャートの首位を獲得したという。
 火山から生まれたタルカスという怪物が、地上を破壊つくしたあげく、海へと帰っていく物語を、7曲(7つの場面)に分けて描いている。(元祖ゴジラを思わせる)
 今回の演奏は、NHK大河ドラマ『平清盛』のテーマ曲などで知られる吉松隆がそれを編曲したものであった。
 ソルティはロックに詳しくないので、ELPもタルカスも聴いたことがない。
 なので原曲との比較はできないが、少なくとも吉松隆編曲の『タルカス』は、ロックのような、ジャスのような、クラシックのような、それでいてどこか東洋風(清盛風?)の響きも宿された、まさにクロスオーバーであった。
 最後列のパーカッションチームの派手なパフォーマンスに象徴されていたように、重々しさのうちにも躍動感ある、あたかも金剛力士像のような曲であった。(まだ奈良の旅を引きずっているソルティ)
 
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法隆寺の金剛力士像

 交響曲第7番《レニングラード》を聴くのもはじめてであった。
 なるべく虚心坦懐に聴こうと思い、事前に曲について何の知識も入れず、入口でもらったプログラムにも目を通さずに聴いた。
 それぞれの楽章について浮かび上がったイメージは次のようなものであった。
 第1楽章 苦痛と恐怖
 第2楽章 悲嘆と絶望
 第3楽章 鎮魂と浄化
 第4楽章 ファシズムの狂気
 
 終演後に蒲田駅前のラーメン屋で硬めの麺を啜りながらプログラムを開いた。
 この曲を「レニングラード」と呼ぶのは、1941年9月に始まったナチスドイツによるレニングラード包囲の最中に当地で作曲されたからであり、ショスタコーヴィッチ自身がこの曲を「ファシズムに対する戦いと我々の宿命的勝利、そして我が故郷レニングラードに捧げる」と共産党機関紙『プラウダ』に書いたからであるという。
 独ソ戦をモチーフとした曲だったのだ。
 であれば、ソルティの中で浮かび上がった各楽章のイメージは、それほどお門違いというわけではあるまい。
 つまり、レニングラードに住む人々がナチスドイツによって与えられた「苦痛と恐怖」であり、破壊された街や多くの死者や負傷者を目にした市民の「悲嘆と絶望」であり、亡き者たちへの「鎮魂と浄化」を祈る挽歌であり、「ファシズムの狂気」に対して団結して闘う意志と勇気と最終的な勝利である。
 わかりやすい。
 
 一方、ソルティは、交響曲第5番《革命》をはじめて聴いたときと同様、第4楽章の最後に仕掛けられた「暗→明」への転換をそのまま素直に受け取ることができなかった。
 「勇気・団結・勝利・希望・自由」を表現するポジティブなエンディングとは思えなかった。
 さらには、第1楽章の後半において聴く者を圧倒する、いわゆる「侵攻の主題」の繰り返しは、「他者の言葉にはいっさい耳を貸さず、自らの言動の矛盾や不正を恥も臆面もなく言い逃れする、独善的な権威主義者(どこの誰とは言わないが)の専横」を想起した。
 また、第4楽章の「暗→明」の転換は、狂った社会において“まともな”人々なら当然抱きうる不安や悲嘆や絶望といった“まともな”ネガティブ(暗)が、権力による恐喝と衆愚による同調圧力によって、全体主義の“狂った”ポジティヴ(明)に取り込まれていく悲惨を思った。
 つまり、この「明」は擬態という気がした。

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Marc PascualによるPixabayからの画像

 この「擬態」というのが、もしかしたらショスタコーヴィッチの音楽を理解するキーワードなのではなかろうか?
 スターリン独裁の恐怖社会にあって、ソ連民衆の多くは――少なくとも簡単に洗脳されることのない自己を備えた人は――「擬態」を第二の天性として身につけなければ生きていけなかったはずである。
 それはジョージ・オーウェル『1984』に描かれた全体主義管理社会の歪んだ文化であり、今の中国で起きていることであり、戦前の大日本帝国で起きていたことである。
 鉄のカーテンの向こうにあったソ連の全体主義はなかなかその実態が見えてこなかったけれど、昨今、イリヤ・フルジャノフスキー監督による壮大な野心作、『DAU. ナターシャ』(2020)、『DAU.退行』(2021)などのDAUシリーズで、闇に埋もれた歴史の真実が明らかにされようとしている。

 大衆に多大な影響力を持つ才能ある芸術家として、つねに体制にマークされていたであろうショスタコーヴィッチにとって、「擬態」は自らと家族の命と生活、そして自らの音楽の真実を守るために身につけざるを得ない鎧であったろうことは、想像に難くない。
 「擬態」の中で、いかにして自らの音楽の真実すなわち自らの魂を表現していくかに、彼は生涯、心を砕いたのではなかろうか?
 それが第2の天性となるまでに・・・。
 ならば、この第7番交響曲も、表面上は(体制に向けては)、レニングラードを包囲するナチスドイツに対する恐怖と非難と抵抗と闘いと勝利を描きながらも、それもまた「擬態」であって、本心は巧妙に隠されているのではないか。
 
 今回はじめて『レニングラード』を聴いて、ショスタコーヴィッチの魂がもっとも純なる形で表現されているのは、第3楽章ではないかと思った。
 他の楽章は「擬態」感が強い。
 音楽が語る表面的な“わかりやすい”テーマの背後に、なにか別の意味が隠されているような感を受けた。
 煙幕が張られていると言うか。悪い言い方をすれば、「どことなく嘘くさい」のである。
 むろん、オーケストレーションそのものは、先行する交響曲の巨人であるベートーヴェンやマーラーに負けず劣らずの飛びっきりの匠の技であることは言うまでもない。
 本来ならそのとてつもない技量によって表現されて然るべきもの――ショスタコーヴィッチの魂――が、表現され得ないジレンマというか鬱屈を感じるのだ。

 しかるに、第3楽章は作曲家の魂がストレートに表現されている。
 聴く者は、「ついにショスタコーヴィッチに出会った」という気になる。
 「鎮魂と浄化」というモチーフにあっては、「擬態」をしなければならない理由は何もなかったからと思われる。
 この第3楽章の異様なまでの美しさ、崇高さ、深い悲哀と慈愛、無私なる祈りは、法隆寺の百済観音のよう。
 ここにおいて、第7番交響曲が稀に見る傑作であること、ショスタコーヴィッチが真の天才であることが、まごうかたなく示されている。

 それを教えてくれた山上紘生と2つのオケには感謝。
 名演であった。

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