2005年音楽之友社

 交響曲第5番で興味を惹かれ、1番で衝撃を受け、7番で真価を知ったショスタコーヴィチ。
 マーラーに次いで、演奏会を追っていく存在になりそうである。

 もともと20世紀のソ連の作曲家というくらいしか知らなかった。
 それも、名前の終わりに「~ヴィチ」がつくからソ連だろう、おそらくソ連からどこかに亡命して活動していたんだろう、絵画で言えばピカソのような「よく分からない」現代音楽の人だろう、というイメージがあった。
 実際に聴いてみたら、伝統的な構成(ソナタ形式)から大きくはずれておらず、分かりやすいメロディもあり、民族音楽風の大衆的な要素もある。
 マーラーに近いと思った。
 「これなら聴ける!」 
 
 演奏会でもらったプログラムを読んで、ショスタコーヴィチは生涯ソ連に住み続けた人で、スターリン独裁体制(1929-53)の中で自由な曲づくりができなかった。どころか、意に反して体制翼賛的な音楽を作らざるをえなかったと知って、俄然興味が湧いた。
 ショスタコーヴィチの親類や友人の多くは、亡命するか、さもなくば、流刑や処刑を免れなかった。
 苦難の人生を歩んだ人だったのである。
 
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 本書は、音楽之友社が発行している『作曲家◎人と作品シリーズ』の一巻で、最新の研究結果をもとにした「生涯篇」、代表的な作品を解説した「作品篇」、詳細な作品表・年譜などを収録した「資料篇」から成る。
 全般わかりやすい平易な文章で書かれ、読みやすい。
 2023年4月に発行予定の『シェーンベルク』で全24巻が完結するようだ。
 日本人の『武満徹』が入っているのが嬉しい。

 本書を読んで、ますますショスタコーヴィチという人物とその音楽に関心が湧いた。
 なにより面白いのは、ショスタコーヴィチの作曲家としての評価の豹変ぶりである。

 20世紀の作曲家としてのショスタコーヴィチへの評価は、少なくとも、社会主義圏以外では、生前からすでに凋落の一途をたどっていた。戦後の前衛音楽の圧倒的な展開を経験した西側の音楽家にとってみれば、たび重なる党の批判を受け入れて、芸術的な妥協を重ね続け、交響曲や弦楽四重奏曲といった前世紀的なジャンルで、社会主義を讃美する調性音楽を書きつづけたショスタコーヴィチは、政治的な日和見主義と大衆迎合的な作曲家の典型と見なされていた。当時の西側の音楽界は、冷戦時代のイデオロギーと前衛的な価値観に、いまだ強く支配されていたのである。だが、没後からまもなく、ショスタコーヴィチをとりまく状況は、劇的に変化することになった。(本書より、ゴチはソルティ付す)

 そのきっかけとなったのが、ショスタコーヴィチ逝去から4年後の1979年にアメリカで出版された、ソロモン・ヴォルコフ著『証言―ショスタコーヴィチの回想録』である。
 ヴォルコフはソ連(現・タジキスタン共和国)出身の音楽学者で、生前ショスタコーヴィチに数回にわたってインタビューした内容をもとに、『証言』を書いたという。
 そこには、「生涯におよぶショスタコーヴィチの共産主義にたいする根深い嫌悪や、その作品に隠された反体制的なメッセージ、スターリン体制下での知識人弾圧の実態」などが赤裸々に書かれていた。
 この本の発表によって、それまで共産党の忠実な息子と思われていたショスタコーヴィチのイメージが一転し、共産主義の殉教者へと格上げ(?)したのである。
 そこから西側音楽界におけるショスタコーヴィチの見直しと再評価が起こり、演奏会のプログラムに名を列ねるようになり、カラヤンやバーンスタインなど西側の有名な指揮者によってレコーディングされるようになっていく。
 その音楽も、「政治的な日和見主義と大衆迎合的」な見かけの裏に、反ファシズム・反スターリン・反戦の思いを密かに隠し入れた、もっと複雑で、もっと奥深いものと解され、矛盾と懊悩に満ちた作曲家の精神の軌跡が読まれていくようになる。
 つまり、1980年代になってようやくその真価が世界に発見され、国際的人気を博するようになったのである。

ショスタコーヴィチ肖像
ショスタコーヴィチ(1906-1975)

 ソルティがよく利用するアマオケ演奏会情報サイト i-Amabile に掲載されている、過去の演奏会履歴によれば、国内でのショスタコーヴィチの各年代ごとの演奏回数は以下の通り。
  • 60年代  ゼロ
  • 70年代  13回
  • 80年代  37回 (前年代比2.8倍)
  • 90年代  98回 (同2.6倍)
  • 2000年代 189回 (同1.9倍)
  • 2010年代 317回 (同1.7倍)
 回数自体の増加は、コンサートホールやアマオケ数の増加、インターネットの普及など、いろいろな要因がある。
 そこで、西側の代表的人気作曲家であるブラームスの場合を並べて、増加率に注目してみると、
  • 60年代  64回
  • 70年代  171回
  • 80年代  339回 (前年代比2.0倍)
  • 90年代  603回 (同1.8倍)
  • 2000年代 973回 (同1.6倍)
  • 2010年代 1648回 (同1.7倍)
 明らかに、ショスタコーヴィチの曲が演奏会で取り上げられる割合が増えていることが分かる。
 ブラームスは、各年代を通じて、「演奏される機会の多い作曲家ランキング」のトップ5に入っている。(ちなみに、1位はベートーヴェン、2位はモーツァルト)
 ショスタコーヴィチは、70年代は圏外、80年代30位→90年代20位→2000年代16位→2010年代20位、と躍進が見られる。(ショスタコーヴィチの音楽は、ブラームスと違って難解で陰鬱で、男性を中心とするコアなファンを獲得するタイプなので、15~20位あたりが頭打ちだろう)

 そんなわけで、死後に一躍脚光を浴びて、人気作曲家の一人に数えられるようになったショスタコーヴィチであるが、またしても面白いことには、1980年にアメリカの音楽学者であるローレル・フェイが書評で、ヴォルコフの『証言』の内容に疑問を投げかけた。
 端的に言えば、『証言』の中味は、ショスタコーヴィチ自身によるものではなく、著者であるヴォルコフの創作(捏造)によるところが大きいのではないか?――というものである。
 生涯多作の作曲家――交響曲だけで15番まである――として商業的価値が高まる一方で、ショスタコーヴィチの正体や真意をめぐっての、『証言』の真贋論争が始まった。
 問題の究明を続けたフェイは、2002年にさらなる証拠を提出して、事実上、真贋論争にとどめを刺した。 
 ヴォルコフの『証言』は偽書と言っていいものだったのである。

 となると、「反体制の平和主義者」「共産主義の殉教者」という、西側音楽界が与えたショスタコーヴィチの名誉ある称号はどうなるのか?
 これもまた偽りなのか?
 彼の作った音楽は、どう解釈され、どう演奏され、どう聴かれるべきなのか?
 ショスタコーヴィチの真意はどこにあったのか?

 生きている間だけでなく、死んでからも、政治と商業主義とメディアと学者や評論家に翻弄され続ける天才作曲家。
 いまショスタコーヴィチを聴く面白さは、そんな現代的混沌を生きる人間の矛盾に満ちた多面的な生を、作品から感じとるところにあるように思う。
 それこそ、真の意味での現代音楽である。

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おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損