日時: 2023年4月1日(土)14:00~
会場: ミューザ川崎シンフォニーホール
曲目:
- セルゲイ・プロコフィエフ: バレエ音楽『ロメオとジュリエット』第2組曲
- ドミトリ・ショスタコーヴィチ: 交響曲第10番
- 《アンコール》 アレクサンドル・モロソフ: 交響的エピソード「鉄工場」
指揮: 田部井 剛
ロシアv.s.ウクライナ戦争が始まってから、ロシア(ソ連)出身の芸術家が矢面に立たされるような状況が続いているが、国内の演奏会でもまた、ロシア(ソ連)の作曲家が取り上げられる機会が減っているようだ。
とりわけ、スターリン独裁時代のソ連で、体制賛美の国民的作曲家として“利用された”ショスタコーヴィチの凋落が激しい。
i-Amabileの「演奏される機会の多い作曲家ランキング」を見ても、ここ40年間30位以内をキープしていたショスタコーヴィチが、2020年以降は圏外に落ちている。
ショスタコーヴィチを演奏する=ソ連(ロシア)の味方、みたいなイメージがあるのだろうか。
としたら、残念な話である。
アメリカ作家ジョセフ・ヘラーが1961年に『キャッチ=22』(Catch-22)という小説を発表した。
堂々巡りの戦争の狂気を描いた作品としてベストセラーとなり、1970年にはマイク・ニコルズ監督により映画化された。
その後、「キャッチ22」という言葉は、「ジレンマ、板挟み(の状況)、不条理な規則に縛られて身動きが取れない状態、お手上げ」を意味するスラングとして定着した。
I'm in a catch-22 situation. (どうにもならない状況です)のように使う。
「才能ある芸術家としての自由な表現=ショスタコーヴィチの個性や魂」が、「スターリン独裁体制=ファシズム共産主義」の圧迫によって窒息寸前にまで追い詰められ、文字通り生きのびるために体制に肯定される曲を作らなければならなかった。
一方、魂を殺してしまっては元も子もない。
まさに板挟み。
まさに板挟み。
そこで苦肉の策として、ベートーヴェン由来の交響曲の伝統的な型であり、かつマルクス主義者の好きな「苦闘から勝利へ」というドラマになぞらえることのできる《暗から明へ》によって、表面的には体制順応的な姿勢を見せながら、実質は「殺される危機にある魂の叫び」を表現したのではないか。
――というのが、現時点のソルティのショスタコーヴィチ観である。
――というのが、現時点のソルティのショスタコーヴィチ観である。
周囲の社会が、政治的状況が、作曲家としてのスタイル(文体)を決定した典型的なケースのように見える。
もっともそこには、作曲家廃業、あるいは体制への徹底的抵抗、あるいは他国への亡命、のいずれをも選ばなかったショスタコーヴィチ自身の性格や生き方が反映されているわけであるが・・・。
結果的に見れば、「キャッチ22」状態において作られた数々の曲が、白黒はっきりつけられない、混沌として複雑極まる世界の中で生きる、現代人の閉塞した状況を見事に表現しているわけで、その意味ではやはり、時代に選ばれた作曲家なのだと思う。

交響曲第10番は、宿敵とも言えるスターリンの死(1953年3月)の直後から作曲され、同年12月に発表された。
雪解けの気配は漂っているが、まだまだ先の見通しは立たない。(スターリンの衣鉢を継ぐ、スターリン以上の暴君が出現するかもしれない)
しかし、ともあれ独裁者は死んで、希望の光が生まれた。
ソビエト社会も国民も混乱していたことだろう。
今回はじめて10番を聴いて頭に浮かんだ単語は、まさに「混乱」であった。
構成の混乱、主題の混乱、曲想の混乱、曲調の混乱・・・ショスタコーヴィチの混乱した精神状態がそのまま楽譜に写し取られたような感じを受けた。
この日の午前中、コロナワクチンの5回目接種をした。
副反応のせいか、頭がポーっとなっていた。
前半のプロコフィエフ『ロメオとジュリエット』は、半スリープの朦朧状態で聴いた。
休憩後にやっと起動したけれど、いま一つ身が入らなかった。
「混乱」という印象は、聴き手に要因があったのかもしれない。
機会あれば、また聴いて確かめたい。
機会あれば、また聴いて確かめたい。
アンコールは、昨年10月のクラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会で聴いたA. モソロフ作曲の『交響的エピソード《鉄工場》』。
指揮者の田部井は、工事現場用ヘルメットをかぶり、ハンマーを手に登場した。
オケの数名も色とりどりのヘルメットをかぶった。
以前、別のオケでアンコールに「スターウォーズのテーマ」をやった時は、ダースベーダーの恰好で指揮していた。
こうした遊び心がこの指揮者の身上である。

