2004年音楽之友社
ショスタコーヴィチ編に続き、マーラー編を手にとった。
ユニークなのは、著者の村井は音楽学者や音楽評論家ではなく、フロイト、ラカン精神分析学と20世紀オーストリア文学を専門とする大学教授であるところ。
神経症を患っていた晩年のマーラーがフロイトと会って、「精神分析的な会話」を持ったことはよく知られている。
マーラーはその会話から、自分自身についての気づき(たとえば「母親への固着」)や、自らの音楽についての気づき(たとえば「崇高な悲劇性と軽薄な娯楽性の併置」)を得たという。
本伝記の一番の特徴は、フロイト精神分析学的視点から、マーラーやその妻アルマの言動やマーラーの楽曲を読み解いているところだろう。
「エディプス・コンプレックス」「無意識の願望」「隠蔽記憶」「否定」「反動形成」といった専門用語が出てくる。
フロイトを知らない読者にとっては、ちょっと難しいかもしれない。
ある程度、精神分析をかじったことのある人にとっては、とても興味深い内容である。
読んでいて最も合点がいった箇所、「うんうん、そのとおり!」と思ったのは、マーラーとベートーヴェンの音楽を比較した次の文章であった。
ベートーヴェンの音楽は目的地が明確で――ソナタ形式は再現部とコーダを目指して進む――展開が必然的であるがゆえに、聴き手は常に注意を集中して聴いていなければならず、自由な連想が入りこむことを許さない。・・・(中略)・・・つまり、そこではまだ作曲家が音楽作品の構造と時間を完全にコントロールしうると信じられていたのであり、聴衆にもそのような聴き方が要求されていたのだ。これに対し、硬直した作曲技法のアカデミックな規範や芸術音楽/通俗音楽という二分法に対する反逆という形でマーラーが試みたのは、閉塞した「現実のヴェール」を引き裂き、もはや不可能なユートピアとしての「自然の音」をかいま見させることであった。だから、もはやベートーヴェンのように聴き手の主体を縛る力を持たぬマーラーの音楽は、「突発」の瞬間さえ聴き逃さぬようにすれば、後は緊張を解いて無意識的な連想に身を委ね、ある程度リラックスした状態で聴き流すことができる。そうでなければ、演奏時間80分もの交響曲を聴き通すことはできまい。これが、多様な受容に対して「開かれた」マーラー音楽の特性を形作っているのだ。
ベートーヴェンやブラームスなど古典派やロマン派の交響曲を聴きなれた人が、マーラーに「開眼する」とはまさに上記のことなのだと思う。
作曲家によってコントロールされた「構造と時間」――それは現代人にとっても、偉大で、美しく、感動的なものには違いない――を十分に味わうためには、聴き手もまたその「構造と時間」を理解して、そこに入り込まなければならない。
その聴き方に慣れてしまったクラシック愛好家がマーラーの音楽をはじめて聴いたとき、それはつかみどころがなく、構造も破綻していて、ただただ冗長に感じられる。
「なんだこれ? この精神分裂的な騒音モドキのどこがいいのか? もう眠るしかない」
と、「構造と時間」を理解するのを諦めて、客席に身を沈め、半ば無意識状態になって、次々と向きや強さや深さや透明度を変えていく流れにただ身をまかせたとき、マーラーの音楽の面白さが発見できる。
あえて言えばそれは、「自我」の明け渡しみたいなものだ。
「自我」を明け渡すことで、その一層下にある「無意識」と出会う感じ・・・。
考えてみたら、マーラーの音楽は夢と似ている。
よく知っている平凡なストーリーの中に、唐突に無関係な事物が入り込んで来て、まったく別の方向に持っていかれ、整合性も必然性もないトンチンカンな場面が連続し、しかし、それ(夢)を見ている当人は何の不思議も感じていない。
だけど、感情的な部分ではつながりがあるので、目覚めたときには、たとえ夢の内容を覚えていなくとも、その感情の余韻だけは枕元に漂っている。
本書後半には、マーラーの代表的な曲の解説が載っている。
驚いたのは、少なくとも交響曲はすべて扱っているだろうと思ったら、第2番『復活』と第8番『千人の交響曲』が抜けている。
著者はこの2曲をあまり評価していないらしい。
第2番と第8番は、マーラーが生きている間に自らの指揮で初演し大成功を収めた決定的作品で、死後も傑作の名をほしいままにし、一般的人気も高い。
第2番にとりつかれ、第2番を演奏するためだけに、中年になって実業家から指揮者に転身したギルバート・キャプランという男もいるくらいである。
個人の好みは自由であるし、紙幅の関係もあるのだろうが、本書が村井の独立した単著ではなく、「人と作品」シリーズの一巻であることを考慮すれば、ずいぶん思い切った“断捨離”である。
最後に――。
やはりアルマとの出会いがなければ、マーラーはマーラー足り得なかった、少なくとも、第5番からあとの交響曲は生まれていなかったか、まったくつまらないものになっていたんじゃないか――。
本書を読んであらためてそう思った。
おすすめ度 :★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
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