1994年宝島社
1997年角川文庫
本書を読んでいる間、しきりに思い浮かんだのは、山岸涼子のコミック『日出処の天子』であり、特にそのクライマックス――主人公である厩戸王子とその思い人である蘇我毛人とが決定的に別れることになった池の辺の場面――であった。
蘇我一門の援けを受けた厩戸王子が推古天皇の摂政となるまでを描いた同作は、古代史最大の偉人・聖徳太子の伝記という歴史書的側面は残しながらも、超能力を備えた美形の天才ヒーローの活躍を描くオカルト伝奇漫画の色合いも濃く、加えて、クローゼット(隠れゲイ)である太子とノンケ(異性愛者)である蘇我毛人とのすれ違う心模様に焦点を当てた恋愛ドラマである。
BLコミックの草分けの一つと言っていいだろう。
「二人で力を合わせてこの国を治めていこう」、「どうか私を一人にしないでくれ」と、もはやプライドをかなぐり捨てて恋愛感情をぶつけてくる厩戸王子の懇願に、布都姫(ふつひめ)との愛という別の道が見えている毛人は背を向けるほかない。
「我々は同じ魂が二つに分かれたソウルメイトなんだ。女なんて下等な生き物が入って来ない高みを一緒に目指そう」という王子の言葉に、毛人はこう答える。
「相手を自分と同じものにしようとする。それは本当の愛ではないのでは? 王子が愛しているのは私ではなく、ご自分自身なのではありませんか?」(このあたり記憶で書いているので不確か。ご容赦のほど)
関係はすでに修復しがたく、王子と毛人は別々の道を歩むことになる。
王子はだれひとり自分を理解してくれる者のいない孤独の道を、為政者として歩む。

山岸涼子作画(白泉社)
この厩戸王子と蘇我毛人との関係が、ちょうど本書における宮沢賢治と親友であった保阪嘉内の関係に符合するように思われたのである。
池の辺の別れの場面が、25歳の賢治と一つ年下の嘉内が決定的に離別することになった、大正10年(1921)7月18日の上野図書館の場面と重なるように思えたのである。
『“ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』という副題がつけられた本書は、単刀直入に言うなら、以下の3つの説が挙げられている。
- 宮沢賢治は同性愛的傾向の持ち主であった、少なくとも、賢治の嘉内に対する思いは、男同士の友情の枠を超えた恋愛そのものであった。
- 宮沢賢治の37年の短い生涯において、嘉内との出会いと別れは非常に大きな事件であり、彼のいくつかの作品には嘉内との関係およびその破綻によって受けた傷が、色濃く反映されている。
- 代表作『銀河鉄道の夜』こそは、主人公の少年ジョヴァンニを自身に、カムパネルラを嘉内に見立てた2人の友情と別れの物語で、今なお忘れられぬ嘉内へのラブコールであった。
賢治には生前多くの交友関係があり、花巻農学校の同僚や、羅須地人協会時代の音楽仲間、そして後に広がった文芸の仲間など、その数は多い。けれど、賢治にとっての友といえば、それは共に同じ道を歩くはずであり、恋人とも思われた保阪嘉内をおいて他にはなかった。賢治の心の中には終生、保阪嘉内の存在があって、絶えずその存在を意識し続けていた。
著者の菅原が上記のような見解を抱くようになったきっかけは、嘉内の息子・保阪庸夫によって1968年(昭和43年)に発表された『宮沢賢治 友への手紙』を読んだことによる。
賢治から嘉内への70通を超える手紙には、それまで知られていなかった賢治と嘉内の深い結びつきや、現状に悩み今後の生き方に迷う20代前半の賢治のさまざまな思いや葛藤、そして、「同じ法華経信者となって、世のため人のために一生を捧げよう」という嘉内への熱い呼びかけ(プロポーズ?)が書かれていた。
これらの手紙を中心に、蜜月にあった学生時代の2人が文芸誌『アザリア』に投稿した短歌や、別れた後の賢治が発表のあてなく書いていた短歌や詩を読み解くことで、菅原は、宮沢賢治作品における保阪嘉内という存在の重要性を確信したのであった。
テキスト研究の面白さを実感する「目からウロコ」の鮮やかな分析である。
本書は1994年(平成6年)に発表された。
「賢治→嘉内」恋愛説は、当時かなり衝撃的だったはずだが、ソルティは本書の発行に気づかなかった。当然世間の反応も覚えていない。
大学時代を最後に宮沢賢治を読まなくなって、関心を失っていたのである。
童話作家というイメージが強く、岩手を盛り上げる観光ファンタジーアイテムとして消費されているという感を持っていた。イーハトーブ定食とか・・・。
もっとも、本書で菅原は、「賢治=ゲイ」と名指しているわけではない。
そこは慎重を期して、賢治の嘉内への思いを「通俗的なホモセクシュアルと解されてしまうのは正しくない」としている。
スキャンダラスな取り上げ方をされてしまうことを諫めている。
また、90年代半ばの日本では、LGBTは表立って語られる話題でもなかった。
それほど話題にならなかった、少なくとも従来の宮沢賢治像を大きく覆し、彼の作品の読みなおしを要求するほどの波は起こらなかったのではなかろうか。(違っていたらゴメンナサイ)
現在、賢治=ゲイ説をネットでググると、かなりの件数がヒットする。
どうやらこれは、演出家兼プロデューサーである今野勉が、2017年に『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社)という本を発表したこと、そして、その本をもとにNHKが制作したドキュメンタリー『宮沢賢治 銀河への旅 慟哭の愛と祈り』がお茶の間放映されたことによるものらしい。
ソルティ未見だが、賢治と嘉内の友情を超えた関係に切り込んでいるとか・・・。
宮沢賢治が生涯独身であった(童貞であった?)というのは知っていたし、彼の書いた童話、たとえば『風の又三郎』や『銀河鉄道の夜』には「BLチックな味があるなあ」と前々から思っていたので、賢治=ゲイ説にはいまさら驚かない。
が、イーハトーブ的には、すなわち観光アイテム的にはどうなんだろうかな~?
いっそ、花巻や小岩井農場をLGBTの聖地にしては・・・・。
まあ、菅野や今野の本は、あまたある宮沢賢治論の一つに過ぎず、一つの大胆な仮説に過ぎない。
実際に床を共にした相手の証言によってゲイ説がほぼ認定されている三島由紀夫のケースとは違う。
これから先も、賢治=ゲイを証明することは誰にもできまい。
そこを踏まえて、あえて賢治=ゲイ説をとるならば、ソルティ思うに、25歳の賢治にとっての大きな痛手――その後の人生に長い影を落とし続けるほどの衝撃にして、その作品が今の高い国際的評価と人気を博するほどに磨き上げられることになった魂の試練――は、青春期ならでは全実存をかけた恋愛の破綻(大失恋)や、それに伴って発生した法華経信仰への懐疑、その後に続いた最愛の妹トシの死ばかりではなかったのではあるまいか?(まあ、これだけでも十分、回復するに困難な傷には違いないが・・・)
自らを「ひとりの修羅」と語るほどの苦悩の正体とは、嘉内との別れによってはじめて気づいた恋愛感情、すなわち自らの性的指向の自覚だったのではなかろうか。
「自分は男を愛する男だったのだ・・・」という気づきは、ネットもテレビもゲイ雑誌もなく、九州のような男色文化の名残もない、堅固な家制度に縛られた東北の農村にあっては、ブラックホールに突き落とされるような絶望と孤独とを、賢治にもたらしたのではなかったろうか。
嘉内との別れのあとに書かれた詩集『冬のスケッチ』には次のような一節がある。
ひたすらにおもいたむれどこのこひしさをいかにせんあるべきことにあらざればよるのみぞれを行きて泣く
まるで、古賀政男の『影を慕いて』のような一節。
古傷が痛んだよ。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損