1976年日本、フランス
104分

 国立映画アーカイブ開催中の大島渚特集にて鑑賞。
 『飼育』のときは空席があったが、今回はソールドアウト。
 さすがエロのちから。
 もっとも、この作品、『戦場のメリークリスマス』と並ぶ大島渚の最大の話題作にしてヒット作のわりには、なかなか上映されないということもある。
 貴重な鑑賞機会なのだ。
 かくいうソルティも今回が初であった。

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 1936年5月に東京で発生した阿部定事件を描いたものなので、スキャンダラスなのは先刻承知。
 何と言っても、愛する男を行為の最中に絞め殺して、切断した陰茎を肌身離さず持ち歩いた女の話である。
 性愛描写と猟奇性は避けることはできない。
 しかるに、本作の話題はもっぱら、主演の藤竜也、松田暎子が撮影において「本番」をしたこと、それが共同制作のフランス始めいくつかの海外諸国ではノーカット無修正で観ることができる、というところに集中していたように記憶する。少なくとも昭和時代は・・・。
 「芸術かポルノか?」という煽り文句が盛んに唱えられていたが、大方の観客(とくに男の)にとってはポルノ目的だったのが正味なところではなかろうか。
 ウィキの『愛のコリーダ』を見ると、そのあたりの事情がよくわかる念のこもった解説ぶりである(笑)
(そもそも、芸術とポルノは対立する概念か、ポルノであっても芸術たりうるのではないか云々・・・というメンドクサイ議論は止めておく)

 観始めて間もなく、「やっ、これはポルノじゃん」と心の中でつぶやいた。
 徹頭徹尾、阿部定(松田)と石田吉蔵(藤)のセックスシーン。
 たいした筋書きもドラマもなく、出会った2人がお互いの体に溺れ、昼も夜もところかまわず盛んにまぐわい続けるさまが、延々と描かれる。
 大方のピンク映画のほうが、まだドラマがあるし、セックスシーン自体も少ない。

 ある意味、これは「究極のポルノ映画」と言ってもいいのかもしれない。
 テーマは「人間の性」そのものであるし、死に接続する愛というバタイユ的究極に触れているし、前貼りをつけない本番という点で究極のリアル演出であり、なによりこれが史実をもとにしているという点で究極の現実でもある。 
 おそらく、性愛をテーマにして、これ以上の映画はつくれないだろう。
 これに比べれば、ベルトルッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』がソフトポルノに思えるほど。
 
 途中で退屈したという点でも「ポルノだなあ」と思った。
 最初のうちこそ、藤竜也(35)と松田瑛子(24)の若々しい肉体と大胆なセックスシーンに驚かされ、興奮もあったが、ずっとそればかり見せ続けられていると、しまいにはウンザリしてくる。
 他人のセックスを見せ続けられるのは面白くない。
 どんな刺激的な映像であれ、ドラマがないと結局飽きるのだ。
 言ってみれば、勝ち負けのつかないスポーツ競技を見ているようなもの。 
 よもや大島の映画で欠伸をこらえなければならないとは思わなかった。
 もっとも、究極の性愛ってやつが、還暦間近のソルティにはもはや理解できない、理解したくもない、動物的徒労としか思えないのだが・・・・。

 映像そのものは大島の美意識が散りばめられて、見るべきものはある。
 料亭の座敷における2人の祝言のシーンなど、着物や和室のしつらいなど一見純日本的でありながら、ゴーギャン風の色彩があふれて、「大島はカラーも上手い」と再認識させられた。
 一方、男優にせよ女優にせよ、裸体を美しく撮ろうという狙いは最初からなかったようで、そこは変に芸術ぶっていなくて好感持てる。
 
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コリーダとはスペイン語で「闘牛」のこと
 
 2人の行為はエスカレートしていき、殴ったりつねったり刃物で脅かしたり、暴力的な味を添えることで、さらなる快楽を得ようとする。
 首絞めと陰茎切断のクライマックスまであと少し。
 「やっと、終わる」
 「それほどたいした映画じゃなかったなあ」
 ――と思っていたら、唐突に、これまでまったく出てこなかった外界が登場した。
 雪の降りしきる朝、たくさんの日の丸が振られる中を、軍服を着た若い男たちが行進する。
 出兵を見送るシーンである。
 その隊列とすれ違いながら、兵隊たちには目もくれず、逆方向へひとり歩いていく着物姿の石田吉蔵。
 これまでの定との愛欲場面ではいっさい見せなかった、いや映画が始まってから観る者がついぞ目にしなかった、真剣な、思いつめたような吉蔵の表情がアップされる。
 ほんの1分たらずのシーン。
 
 ここで観る者はハタと気づくのである。
 ああ、いまは日中戦争真っ只中だったのだ。
 1936年(昭和11年)とは2.26事件が勃発し、東京に戒厳令が敷かれた物騒な年だった。
 兵役法の下、20歳から40歳の男子は赤紙が来るのを待っていた。
 大日本帝国のため、天皇陛下のため、大和魂を示すために。
 
 吉蔵はなぜ遊んでいられる?
 命を懸けて大陸に向かう男子たちを尻目に、仕事も家もほっぽり出して、なぜ女とセックスにかまけていられる?
 ――当時42歳の吉蔵は兵役を免れていたのである。
 ここで、本作に別の視点が加わる。
 定という女の「狂気の愛」というテーマのほかに、吉蔵という男の語られざる屈辱が・・・・。
 
 一日に何度も女をイかすことができる鋼鉄のペニスを持つ自分を、社会は闘える男として認めてくれない。
 もう“終わってしまった”男と烙印を押されている。
 こんな屈辱的なことがあるか!
 
 この視点から見ると、吉蔵の尽きることを知らないコリーダ(闘牛)のような精力の誇示は、男たることの必死の証明のように映る。
「自分は終わってなどいない。まだまだ十分闘えるブル(雄牛)なんだ!」
 自ら了解し、定の好きにさせた結果としての絞死もまた、「大陸でなくとも、戦場でなくとも、男のままで逝くことはできるんだ」と嘯いているかのよう。
 吉蔵は“男として”死んでいく道を選んだのである。
 
 すると、定による陰茎切断はまったく違った意味合いを帯びて、観る者の前に立ち現れてくる。
 去勢すなわち、「男であること=マチョイズム」の否定。
 戦争する性、闘うことを好む性、イエを守る性、大きな理念のために自らを犠牲にすることを美学とする性、他者を排撃する性――それが男根によって象徴される男性性である。
 定は、自分では自覚することなく、男性中心社会に刃を翳したことになる。
 (そういえば、2人のセックスはいつも定が上の騎乗位である)
 
 ここまで読み込んでやっと、「ああ、これは大島渚の映画だ。阿部定事件に材を取った反マチョイズム、反ナショナリズムの映画でもあるのだ」と、ソルティは合点がいった。

 場内最後列には女性専用席が用意されていた。
 男対女は9対1くらいの割合だったろうか。
 面白く思ったのは、女性客が笑う場面で男性客はまったく笑っていなかったこと。
 逆に、最後の陰茎切断のシーンでは、男性客のみが一斉に息を詰めた。
 女性の感想を聞きたいものだ。

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国立アーカイブ4Fにある図書室
『キネ旬』バックナンバーなど映画関係の資料が揃っている




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損