会場: 府中の森芸術劇場 どりーむホール
曲目: ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」
指揮: 大井剛史
ちょっと前に漫画版『戦争は女の顔をしていない』を読み、今は同じスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ作の『セカンドハンドの時代』を読んでいる。
前者は第2次世界大戦中の独ソ戦に関するソ連の女たちの証言集、後者は共産主義時代のソ連および1991年ソ連崩壊以降に起きたことに関する、かつてソ連邦に属した様々な人々による証言集である。
重要なのはいずれも庶民の声であること。
ソルティは近現代ロシア史を庶民の視線から学んでいる最中なのである。
過去100年ソ連で起きたことを体験者の声を通して振り返ると、唖然とし、愕然とし、呆然とし、しまいには暗澹たる気持ちになる。
日本だってこの100年、戦争や占領や暴動や災害やテロなどいろいろあったに違いないが、ソ連にくらべれば穏やかなものである。
とくに戦後の日本は、もしかしたら、人類史上稀なる平和と繁栄と自由と平等とが実現された奇跡的空間だったと、のちの歴史学者は語るかもしれない。
ロシアのウクライナ侵攻が国際的非難を浴びていて、ソルティも一刻も早いロシアの完全撤退とプーチン政権の終焉を望むものだけれど、しかし、近現代ロシア史を知らずにこの戦争を安易に語ることはできないのではないかと思う。
なんといっても、ロシアとウクライナはもとは同じ一つの国であり、ロシア人とウクライナ人は同じソヴィエト国民だったのだ。
同じように、近現代ロシア史を知らずに、ショスタコーヴィチを鑑賞することは難しいのではないかと思う。
少なくとも、今はまだ・・・・。
『セカンドハンドの時代』には、スターリン独裁体制下を生き延びた人々の証言が数多くおさめられている。
徹底的な言論・思想統制、密告奨励、不当逮捕、強制収容、シベリア流刑、拷問、虐殺・・・・。
恐怖と圧迫と洗脳と諦念と擬態と黙殺と。
厄介なのは、スターリンは独ソ戦でナチスドイツに勝利した英雄でもあることだ。
スターリンを讃美し、スターリン時代を懐かしがる老人が今もロシアに残っているのである。
ソ連国民は、他国のヒトラーを退けるために、自国のヒトラーを受け入れざるを得なかった。
ソ連国民は、他国のヒトラーを退けるために、自国のヒトラーを受け入れざるを得なかった。
ショスタコーヴィチの音楽を、こうした酷すぎる歴史の現実から切り離して、純粋音楽として指揮したり、演奏したり、聴いたりすることは、あまりに脳天お花畑の仕草に思われる。
スターリン体制下あるいはKGBによって拉致や拷問や処刑された命に対する軽侮のように思われる。
当の作曲家だってそれを望んじゃいまい。
そしてまた、聴く者が過去100年のソ連の歴史と庶民の生活について知れば知るほど、ショスタコーヴィチの音楽は深みを増す。
作曲家が楽譜に描き込んだ、恐怖や苦痛や不安や苦悩や絶望や悲しみ、あるいは夢や懐旧の念や死者への祈りや平和への願いや愛、あるいは全体主義にたいする批判や嫌悪や抵抗――それらが聴く者の胸の奥に届き、倍音をもって(つまりは対ドイツのそれと対ソヴィエトのそれ)響くのである。
今回ライブ2度目となる『レニングラード』
それぞれの楽章について、次のような章題を思いついた。
- 第1楽章 ファシズムは最初、軽快なマーチのリズムに乗って、親しみやすい正義の顔してやって来る。
- 第2楽章 今さら嘆いても遅い。夢じゃない、これが我々の現実だ。
- 第3楽章 死者だけが戦争を終わらせることができる。
- 第4楽章 人間は学ばない。喉元過ぎれば熱さ忘れる。
演奏は第1楽章が一番良かった。
小太鼓の単調なリズムから始まる「侵攻の主題」において、単純なメロディが繰り返されるたびに加わる楽器が増えていき、次第に狂気の色を濃くしながら盛り上がっていく様は、各楽器のソロ奏者の安定した技術とオケ全体のバランスの良さに支えられ、背筋がゾッとなるほどの迫力とリアリティがあった。
ちなみに、現在レニングラードという都市はない。
ソ連崩壊と共に、レーニンは神棚から引きずり降ろされてしまった。
革命前のロシア帝国時代の旧名「聖ペテルブルグ」に戻っている。