1987年講談社学術文庫

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 田上太秀著『道元の考えたこと』を読んで一つの道元像を手にしたが、やはり本人自身の言葉を聞くに如くはない。
 と言って、『正法眼蔵』は難しすぎて、ちょっと太刀打ちできない。
 どうしたものかと思っていたら、『正法眼蔵随聞記』というのがあるのを知った。
 道元の一番弟子であり約20年間にわたって道元に師事してきた懐奘(えじょう、1198-1280)が、折々の師の言葉を書きとめた、いわば道元語録である。

 『正法眼蔵随聞記』は平易な言葉で、しかも生活の実際に即しながら、学道する人は如何にあるべきか、修行のやり方や心構えが懇切丁寧に説かれている。何よりも若き時代の道元が強烈な情熱と意志をもって自分の信ずる道を説いているので、無限の親しみと共感を憶える。・・・・・
 『随聞記』には人間道元のすがたが滲みでている。
(本書「はじめに」より抜粋)

 そんなわけで、『随聞記』の現代語訳兼やさしい注釈本を読んでみようと、ブックオフで見つけた本書を購入した。
 が、残念なことに、というか迂闊なことに、これは『随聞記』そのものではなかった。
 道元の『随聞記』の中にある文章をいくつかピックアップし、そのテーマをめぐって仏教学者である鎌田が思うところを述べるという講義形式で、主役は道元や懐奘よりむしろ鎌田であると言ってよい。
 道元の言を借りて、鎌田が自らの仏教観や人生観を披歴しているといった呈。
 当てが外れた。
 (昔から、内容をよく確かめないで直感的に本を買ってしまう癖がある。) 

 もっとも、鎌田の道元理解は(おそらく)的確なものなのだろうし、テーマに沿って引用される文献も、道元の著書『学道用心』『正法眼蔵』はもとより、『遺教経』『観音経』といった仏教経典であったり、白隠、栄西、一遍上人、徳川家康、芭蕉、西郷隆盛といった偉人たちの言葉であったり、下記のような錚々たる名著であったりして、鎌田の学識の広さや日本文化に対する造詣の深さを感じさせるに十分な内容である。
 洪白誠『菜根譚』、佐藤一斎『誌四録』、西田幾多郎『善の研究』、山本常朝『葉隠』、幸田露伴『洗心録』、貝原益軒『貝原家訓』・・・・等々。
 中で、齢64歳にして長安を出発して中央アジアとインドとスリランカを踏破し、80歳で南京に帰った法顕(337-422)という名の僧侶のエピソードには驚くとともに励まされた。
 その目的は、釈迦の遺跡を拝するとともに、経典を中国にもたらすことにあったという。
 我が国の平安時代の僧侶、真如こと高丘親王を想起した。

高丘親王の墓
四国遍路35番札所・清滝寺にある高丘親王の逆修塔
親王は旅立つ前に自らの墓を建てていった

 道元についてなにより印象に残ったのは、その凄まじいまでの仏道への情熱であり、徹底した仏法帰依の姿である。

 行者、自身のために仏法を修すと思ふべからず、名利のために仏法を修すべからず、果報を得んがために仏法を修すべからず、霊験を得んがために仏法を修すべからず、ただ、仏法のために仏法を修す、すなわちこれ道なり。(『学道用心集』)

 学人は必ず死ぬべきことを思ふべき道理はもちろんなり。たとひそのことを思はずとも、しばらくまづ光陰をいたずらに過ごさじと思ひて、無用のことをなしていたずらに時を過ごさず、詮あることをなして時を過ごすべきなり。そのなすことの中にも、また一切のこといづれか大切なるといふに、仏祖の行履のほかはみな無用なりと知るべし。(『随聞記』)
 ※ソルティ注:行履(あんり)とは、禅僧の日常すべての起居動作のこと。

 学道の人は人情を棄つべきなり。人情を棄つると云ふは仏法に随ひ行くなり。(『随聞記』)

 仏道は一大事なれば、一生に窮めんと思ひて日日時時を空しく過ごさじと思ふべきなり。(『随聞記』)

 古の人の仏教への思い、すなはち、修行者たちの真理追求の情熱や庶民たちの極楽往生への願いがいかに激しいものであったか。
 それを科学的思考が発達していなかったから、という理由だけで説明できるものなのだろうか?

 

おすすめ度 :★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損