2002年文藝春秋

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 本書は、文藝春秋が発行していた『諸君!』という月刊誌に連載されていた。
 連載時のタイトルは『吉永小百合という「物語」』であった。
 60年代初頭に日活の青春純愛映画のスターとして一大ブームを巻き起こした吉永小百合の半生をたどるとともに、全盛期の日活を支えた石原裕次郎と吉永小百合に托して高度成長前期にあった昭和日本の空気を振り返り、加えて、テレビの登場で急速に衰退していった映画産業の落日を描いたもの、ということができる。
 すなわち、吉永小百合の半生記であり、石原裕次郎へのオマージュであり、時代批評であり、日活映画評論であり、映画オタクによるミーハー雑文集である。
 ソルティにしてみれば、最後のミーハー部分が最大の読みどころであった。
 登場するスターや監督たちの顔触れが凄いのだ。

 吉永小百合、石原裕次郎、北原三枝、司葉子、小林旭、二谷英明、宍戸錠、赤木圭一郎、浅丘ルリ子、浜田光夫、芦川いづみ、和泉雅子、高橋英樹、高峰三枝子、渡哲也、浦山桐郎、西河克巳、川島雄三、今村昌平、鈴木清順、熊井哲・・・・e.t.c. 

 著者の言う「昭和が明るかった頃」とは、「もはや戦後ではない」の1956年から東京オリンピックのあった1964年くらいまでの数年間のことで、まさに日活映画全盛期に重なる。
 ソルティは最近ようやく「にっかつポルノ」以外の日活映画を観始めたところなので、日活を牽引したスターたちの話題に興味津々なのである。
 西河監督が高峰三枝子の「この世のものとも思えない美しさ」にメロメロになったとか、石原裕次郎が共演した小百合の演技にケチをつけたとか、浜田光夫は18歳のときロケ先で初体験したとか、浦山桐郎が当初考えていた『キューポラのある街』のヒロイン像は小百合とは全然かけ離れていたとか、川端康成が小百合目当てに伊豆のロケ地まで足を運んだとか、小百合の父親がほとんど恋愛もどきに娘を崇拝していたとか、小百合の母親が意に染まない娘の結婚に立ち会った奈良岡朋子を「子供を産んだことない女に何が分かる!」と罵倒したとか・・・・。
 まあ、面白かった。

伊豆の踊子の小百合
川端康成がぞっこんになった小百合の伊豆の踊子

 本書を読んで改めて思ったが、吉永小百合は今でいうなら、被虐待のアダルトチルドレンだろう。
 尋常でなく美しい容姿とエンターテイナーとしての才能を持っていたばかりに、子供の頃から家計を助けるために働きに出され、両親の果たし得なかった夢と期待を一身に背負わされ、思春期の頃はすでに映画や歌の仕事で寝る間もなく働きずくめ、学校生活も満足に送れなかった。
 小百合自身が完璧主義の頑張り屋なだけに、「大丈夫、大丈夫」と無理を重ね続けたあげく、成人を迎えた頃に心身ともにぼろぼろになってバーンアウト。
 今でいうなら小百合は、雅子皇后と同じ適応障害だったのだ。
 そんな娘の状況をいっさい理解できず、まだなお自分たちの操り人形にせんとマネジメントに口出してくる父と母。
 小百合の苦しみは半端なものでなかったろう。
 15歳年上の岡田太郎との結婚を機に両親と決裂したのも無理もない。
 毒親から逃れるには関係を断つほかない。
 よく乗り越えたと感心する。
   
 ただ、せっかく両親と仕事の重圧から逃れ、その後は自らのペースでやって来られたはずなのに、女優としては従来の「清く正しく美しく」イメージを打ち破れなかったのが、遅れてきた小百合ファンの一人としては甚だ残念。
 父親がもっとも好んだ小百合の役、『キューポラのある街』のジュン――元気で明るく美しく、あくまで清らかな乙女――から抜け出ることは叶わなかった。
 小百合と同じように人気子役として育ての親から酷使された高峰秀子との違いはそこにある。 
 毒親は――両親だけではなかったのである。
 その背後には無数のサユリストが壁となって立ちふさがっていた。
 彼らは、自らが望む「理想の小百合像」を岡田小百合に担わせ続けた。

 本書を読んで腑に落ちたのは、「吉永小百合という物語」を形成しているのは、単体としての小百合の類いまれなる魅力ばかりではない――という点である。
 小百合は一人の女優であるだけでなく、一つの時代精神なのだ。
 それは「昭和が明るかった頃」の大衆の記憶であり、高度成長前期の日本人が持っていた尽きせぬ活力と希望と向上心の象徴である。
 だから、サユリストたちが老いれば老いるほど、日本経済が停滞すればするほど、その記憶はいよいよ美しく貴重なものとなり、決して汚しても壊してもならない砦とも宝物ともなる。
 自分がもっとも美しく、力と希望に溢れ、輝いていた時代を、誰が否定したがるだろう?

 いま、吉永小百合目当てに映画館にやって来る往年のサユリストたちは、スクリーンの中の小百合の喜寿を過ぎていまなお美しく清らかな姿を見て、そこに二重写しするかのように、青春時代の自分たちを見ているのだろう。
 そのとき吉永小百合は、『時をかける少女』が時間旅行するきっかけをつくる実験室のラベンダーの香りのようなもの。
 だから、ストーリーの整合性やリアリティや役者の演技なんかどうだっていい。
 納得した。
 


 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損