2015年新潮社新書
ソルティが10~20代の頃、邦画で娯楽映画の巨匠と言えば、市川崑と大林亘彦であった。
休日、友人と映画を見に行く時にまっさきに検討されるのがこの2人。
洋画ではスピルバーグかジョージ・ルーカス製作の作品だった。
とくに市川崑は、中学1年の時に観た『犬神家の一族』(1976年)で見事にはまり、その後の金田一耕助シリーズ『悪魔の手毬唄』(1977)、『獄門島』(1977)、『女王蜂』(1978)、『病院坂の首縊りの家』(1979)と見続け、それ以外にも手塚治虫原作の『火の鳥』(1978年)やファンであった山口百恵主演の『古都』(1980年)まで、新作が出るたびに映画館に駆けつけた。
中原理恵がヒロインに抜擢された『幸福』(1981年)は地味目な物語で興味をひかなかった。いまだ観ていない。
娯楽の巨匠としての、あるいは映画監督としての頂点は、1983年に公開された谷崎潤一郎原作『細雪』であろうことは、多くの映画評論家や映画ファンが指摘するところである。
自分もまたそう思う。
そのあとからなんとなく軌道が変わっていった気がした。
自らの作品のリメイクである『ビルマの竪琴』(1985)はともかく、吉永小百合主演『おはん』(1984)、『映画女優』(1987)、『つる-鶴-』(1988)はテレビや劇場の予告編を見てもまったく食指が動かなかった。
「誰のために、何のために、こんな作品を撮ったのだろう?」と思った。
三島由紀夫の戯曲のうち『サド侯爵夫人』と並んでもっとも好きな『鹿鳴館』(1986)と、十二単姿の沢口靖子が観たかった『竹取物語』(1987)には足を運び、どちらもそれなりに満足したが、『犬神家』で見せてくれたような往年の力はもはや明らかに失われていた。
それから市川作品は観なくなった。
過去の白黒作品をのぞいて。
時代劇・映画史研究家の春日太一によれば、市川崑がおかしくなったのは、『細雪』で三女・雪子の役で起用した吉永小百合に魅入られたからという。
吉永小百合に気に入られて、続く『おはん』、「映画女優」、『つる-鶴-』を撮る羽目になったことが、道を誤るきっかけになったというのである。
吉永小百合と組むようになると、ほとんどの監督が駄作を連発するようになり、評判を落としていく。そんな彼女の現在までに連なる「監督クラッシャー伝説」の生贄の一人が、市川崑でした。
全国のサユリストを敵に回しそうな発言であるが、実際、ここ数十年の吉永小百合主演作の評価と、それを撮った監督の前後の履歴を見るに、春日の指摘はかなり当たっていると思う。
ソルティも『北のカナリアたち』を観て、「あの筋金入りの映画作家であるはずの阪本順治監督が、いったいどうしちゃったんだろう?」と不思議に思った。
ついでに言えば、1970年松竹の『風の慕情』を観たときにも、「あの『映画の教科書』と言われるほどの名匠・中村登監督が、なんでこんな駄作を?」と思ったものである。
脚本の橋田寿賀子のせいかと思ったけれど、もしかしたら小百合の監督クラッシャー伝説の始まりはここにあったのかもしれない。
日本を代表する錚々たるベテラン監督たちの腕を狂わせ道を誤らせる吉永小百合の魔力は、ほんとうに凄い。
きっと、監督たちも自ら進んで生贄になったのであろう。本望だ。
市川崑の場合、『細雪』を撮っている間に、公私ともに最高のパートナーにして天才脚本家である妻・和田夏十を失ったことも、大きかったようだ。
本作の第1章では、市川作品における、あるいは市川崑の人生における和田夏十の果たした役割について触れるとともに、彼女の力強いサポートのもと生み出された市川崑の作品を緻密に分析し、その映画スタイルをこう解説している。
市川崑の言う「映画的」の基本にあるのはディズニーとルビッチです。キャラクターが流麗に動き、おしゃれな会話が交わされる。これが市川崑の中での「映画的」です。ですから、日本語の泥臭さ、日本人の動きの硬さは「映画的」とは思えなかった。会話も動きも、日本人は「映画的」ではない。だからといって表面的に欧米人のマネをしても上手くはいかない。そこで市川崑は、日本人の根底にある「情」を徹底的に解体してクールに突き放して描くことで、会話のまどろっこしさを補充し、日本人と日本的な世界を「映画的に」にしようとしたのだと思います。人間を客観的に突き放して人為的な画作りをすることで、動きの硬さを補完する――ということです。
第2章では、その具体例として1976年版『犬神家の一族』を取り上げて解説している。
公開されるや大ヒットし、現在に続く横溝正史ブームを作りあげた『犬神家の一族』が、上記の定義通りに「映画的」になるよう、いかに脚本にも演出にも工夫が凝らされているか、そして本来映画には向かないミステリーという形式において、いかに鑑賞者を飽きさせず、最後まで楽しませるような仕掛けがあちこちに施されているか、が詳細に分析されている。
本作を読んだあと、再々々度、1976年版『犬神家の一族』を借りた。
春日の指摘したシーンやカットに留意しながら観直してみると、「なるほど」と思うものが多かった。
当時の若者に受けたあの映画のユニークさの秘密は、純日本的なウエットで泥臭いプロット――その象徴がスケキヨが逆さになって沈んだ沼である――と、クールでドライな西洋的スタイルの混合にあったのだ。
巻末の第3章では、金田一耕助を演じた石坂浩二へのインタビューが載っている。
ここでも撮影中の市川崑のこだわりや演出方法などが語られ、興味は尽きない。
一つのシーンにおいて様々な方向からのカット映像を小刻みに重ねていくあの市川映画の特徴的スタイルが実際にどう撮られたのか、自分も気になっていたのだが、ここでそのからくりが明かされている。
2006年公開のリメイク版でも石坂浩二は金田一耕助役をやっている。
もはや、30年前と同様の映画作りは様々な事情から困難であることが語られていて、感慨深い。
数十年ぶりに1976年版『犬神家の一族』を観直して、旅館の女中役の坂口良子の可愛さと芝居の上手さ、野々宮珠代役の島田陽子の清潔な美しさに驚いた。
同時に、ANRIこと坂口杏里の破滅的な人生を思い、亡くなる最後までスキャンダルにまみれた島田のその後を思った。
時の残酷さというべきか。
あるいは、犬神佐兵衛の呪いは今も消えていないのか。
野々宮珠代を演じた島田陽子
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損