1987年主婦と生活社

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 昭和の大スター高峰三枝子の自伝。
 
 往年の人気ワイドショー『3時のあなた』(フジテレビ系)の司会をやっていた頃(1968~1973)の高峰三枝子を、小学生だったソルティは覚えていない。
 母親がよく観ていた懐メロ番組で『湖畔の宿』を歌っている高峰の姿を見たのが、最初のおぼろなる記憶。
 ドレスの似合うふくよかなオバサンという印象だった。

 確実に記憶に刻まれたのは、中学1年の時に観た映画『犬神家の一族』の松子夫人。
 おっかない顔したオバサンと思った。
 そこから人気に火がついて、『女王蜂』の高慢セレブ、『火の鳥』の卑弥呼、TV『人間の証明』の殺人犯、TV『西遊記』のお釈迦様、そしてとどめは1982年~1987年に流れた国鉄フルムーン旅行のCM・・・と、すっかり顔なじみになった。
 「人気に火がついて」と書いたが、それは再ブレイクか再々ブレイクだったわけで、ソルティが戦前戦中の高峰の活躍と人気のほどを知らなかっただけのこと。
 プロマイド売上1位、芸能人所得番付1位、映画も歌も大ヒット多数の押しも押されもせぬ大スターだったのである。
 とくにその理知的で高貴な美貌たるや、昨今の女優たちに見いだせるべくもない。
 父親の高峰筑風が一世を風靡した琵琶奏者であったという家柄が物を言っているのだろうか。

Takamine-Mineko
東洋英和女学院時代の高峰三枝子(なんと16歳)

 上記の映画やTVドラマの中の女王様然とした存在感や、フルムーンCMをめぐって元女優の国会議員と交わされた乳房をめぐる下世話なバトルのため、また年齢を経るたび厳めしさを増す顔立ちのため、長いことソルティの中では高峰三枝子の印象はあまり良いものではなかった。
 わがままでお高くとまったツンと澄ました女というものである。
 しかし、この自伝を読んでずいぶん印象が変わった。
 社交的で行動的、ネアカでおっちょこちょい、笑い上戸で涙もろい、典型的B型気質の人なのであった。
 ダンプカーが運転できる大型第二種免許を持っていて共演男優に運転を教えていたとか、桜花賞を制した名馬を所有していたとか、野球が大好きで喉の病気で入院中も夜な夜な病院を抜け出して後楽園球場に通ったとか、ニューヨークではおかまバーやポルノ映画館を覗いたとか、意外なエピソードが多かった。
 小津安二郎や木下惠介といった映画監督、服部良一や万城目正といった作曲家、フルムーンコンビの上原謙はじめ佐野周作、佐分利信、長谷川一夫、細川俊之といった役者仲間、それに双葉山関や松下幸之助やローマ法王パウロ6世や昭和天皇まで、各界の有名人との豊富な交流の様子が描かれて、ミーハー的興味は尽きない。
 また、同じ姓を持つ高峰秀子同様、戦前のトーキー初期から活躍し、戦中は軍隊での慰問活動に従事し、戦後日本の大変化を目撃してきた一人としての、つまり時代の証言者としてのモノローグにも耳を澄ますべきものがある。

 どこへ慰問に行っても、内地からはるばる若い女優がきてくれたと、大変歓迎されました。
 私も一生懸命唄って、何よりもありがたい小麦粉やお砂糖をお礼にいただいて帰ってきます。
 ある航空基地へ慰問に行ったとき、私は歌いながらなんだか胸騒ぎがしました。
 前のほうに20人くらい日の丸の鉢巻きをした若い兵隊さんがいて、唄っている私の顔を見ようともせずに、じいっと目を閉じて聴いていました。なかには直立不動で、手を握りしめて聴いている方もおられました。ああこんなに真剣に聴いてくださってありがたいなあと思って、私も心をこめて唄いました。
 でも何か気になって、あとで係の将校さんに聞いてみました。
 「実は彼らは夜明けにとび、再び帰ってこない勇士たち・・・・」
 特攻隊として出撃される直前の方々だったのです。

 小さい頃ソルティが懐メロ番組で耳にしていた『湖畔の宿』という歌は、単なる失恋ソングではなかった。
 戦時下のつらい生活の記憶や戦争で亡くなった者たちへの哀悼の思いがまとわりついていたのである。
 
   ああ、あの山の姿も湖水の水も
   静かに静かに黄昏れて行く
   この静けさ、この寂しさを抱きしめて
   私は一人旅を行く
   誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて  
   (佐藤惣之助作詞『湖畔の宿』の語り部分より)


零戦

   


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損