1959年新東宝
76分
ソルティは子供の頃から恐い映画が好きだったが、「怖い」と感じるのはいつも西洋のオカルト映画やホラー映画であった。『ローズマリーの赤ちゃん』、『エクソシスト』、『オーメン』、『サスペリア』、『悪魔の棲む家』、『ハロウィン』・・・e.t.c.
日本の昔ながらのお化け映画、いわゆる怪談はどうしても滑稽感が先立ってしまい、本気で怖がることができなかった。
よもや「オバケのQちゃん」のせいとも思えないが・・・・。
理由の一つは、おそらく、子供の頃のソルティの生活がすでに西洋風になっていたからであろう。
夜も灯りが煌々と灯る首都圏のベッドタウンには、お岩さんやお菊さんの居場所はなかった。
柳や竹藪や古池や墓地や畑中の暗い道、障子や縁側や母屋から離れた便所や井戸のある日本家屋――そういったものが彼女たちが登場するにふさわしい舞台なのであり、それらが急速に失われていったのがソルティの子供時代であった。
けれども、子供の頃にテレビで観てほんとうに怖いと感じた日本のホラー映画が二つあった。
その一つが『地獄』であり、中川信夫監督によるものと最近判明した。
もう一つは、鶴屋南北原作『四谷怪談』の数ある映画化(木下惠介作品を含む)のうちのどれかだった。
今回その正体が判明した。
今回その正体が判明した。
やはり中川信夫監督によるものだったのである!
子供のソルティは中川信夫にしてやられたのであった。
毒を飲まされて醜くなったお岩さん(若杉嘉津子)が櫛で髪を梳かすと、髪の毛がごっそり抜けるシーン。
戸板に張り付けられたお岩さんの遺体を引っくり返すと、やはり一緒に殺された按摩(大友純)のどす黒くなった遺体が現れるシーン。
蚊帳の上に、布団の上に、たらいの中に、蛇がうごめくシーン。
中川信夫監督の演出と研ぎ澄まされた映像美が、強烈なインパクトをもたらした。
今見てもやっぱり怖い。
『地獄』ともども言えることだが、映画における怖さの本質とは、物語や脚本や役者の演技そのものにあるわけではなくて、観る者の無意識に刺さるような演出と絵づくりにあるのだ。
中田秀夫監督の『リング』(1998年)が日本のホラー映画に新時代をもたらしたのはまさにそれゆえであった。
伊右衛門を演じる天知茂は美形が光っている。木下作品の上原謙といい勝負である。
お岩役の若杉嘉津子の役者根性は讃嘆に値する。木下作品でお岩を演じた田中絹代を凌駕する熱演・怪演・凄演。よくもまあ、ここまで・・・・。
伊右衛門を悪の道に引きずり込む直助役は、江見俊太郎という名の男優。
TV時代劇の悪役をよくやっていたようだが、ここでは生まれついてのサイコパスたる直助を軽妙に若々しく演じている。あたかも、直助は伊右衛門の心の中にある悪のささやきのよう。
木下作品では名優・滝沢修がシェークスピア『オセロ』に出てくるイアーゴばりのキャラクターを作り上げ、主役の上原や田中を喰っていた。
中川作品は、人間ドラマであることより怪談であることを優先しているので、江見の芝居はちょうどいい按配と言えよう。役者間のバランスもいい。
今回久しぶりに四谷怪談を観てあらためて思ったが、この映画のもっとも怖いシーンはお岩さんが“化けて出る”ところではない。
お岩さんが醜くなるところである。
すなわち、美しい女の容貌が崩れていく怖さである。
すなわち、美しい女の容貌が崩れていく怖さである。
「若く美しい」に高い価値を置く社会だからこそ、「老いて醜い」が忌避され、恐れられる。
この怪談は社会のルッキズム(外見重視主義)、とくに女性に対するそれを反映しているところに成り立っている。
この怪談は社会のルッキズム(外見重視主義)、とくに女性に対するそれを反映しているところに成り立っている。
むろん、ソルティもまたそうした価値観を大なり小なり内面化しているからこそ、かつて怖いと感じたのだし、今も怖いと感じてしまうのだ。(たとえば、伊右衛門や直助が誤って毒を飲んで醜くなるケースを想定すれば、それは明瞭であろう)
その意味で、令和の現在、『四谷怪談』をホラーとして映像化するのはなかなか難しいのではないかと思う。
言い訳するわけではないが、ソルティはどんなに外見が美しかろうと、性格が悪い男優や女優(たとえば宝塚出身の●●やジャニーズの××)を好きになることはないし、実生活の恋愛においてもそれは同じである。(ほんとか?)
ともあれこの猛暑、中川信夫の作品をもっと観たいものである。