1950年原著刊行
1995年博品社
2011講談社学術文庫
ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)は環世界という概念を提唱した生物学者である。
環世界とはなにか。
自分の諸器官を用いて、どの動物も、周囲の自然から自分の環世界を切り取ります。この環世界とは、その動物にとって何らかの意味をもつ事物、つまり、その動物の意味の担い手だけによって満たされているような世界です。同じく、どの植物も、その環境から、その特有の居住世界を切り取るのです。私たち人間はいかなる幻想にも身を委ねてはなりません。私たちもまた生きた自然に直接に向かい合っているのではなく、個人的な環世界の中に生きているのです。
たとえば、朝顔には朝顔の、ダニにはダニの、イワシにはイワシの、蝙蝠には蝙蝠の、犬には犬の環世界がある。
それは、それぞれの生物が、おのおのお認識システムを用いて“外界”を切り取っていることで成立している、その生物固有の“世界”である。
ちょっと考えれば当たり前のことだ。
ダニの生きる“世界”と、蝙蝠の生きる“世界”は、まったく異なる。
それぞれの生物が持ったり持たなかったりする「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」は、全然違うのだから、“外界”の受け取り方が違ってくるのは当然で、生物(種)の数だけ“世界”は存在する。
重要なのは、我々人間もまた同じことで、固有の環世界を持ち、そこに生きている。
人間が認識している世界が“客観的に正しくてスタンダード”であり、人間以外の生物はそれを正しく認識できていないのだ――ということではない。
人間もまた人間固有の認識システム(五感+脳)を用いて“外界=生きた自然”を切り取って、その“世界”に生きている。
我々は、ありのままの世界を認識しているのではなく、認識することによって“世界”を、瞬間瞬間、生み出しているのである。
認識=存在なのだ。
いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実にほかならない。(ヤーコプ・フォン・ユクスキュル著『生物から見た世界』より抜粋)
Jean-Louis SERVAISによるPixabayからの画像
環世界についての基本理解は、『生物から見た世界』(岩波文庫)がおすすめである。
ダニやモンシロチョウやヤドカリや蠅やゾウリムシなど、いろいろな生物の環世界の様相が描かれていて、とても面白い。
本書は、それをさらに一歩も二歩も進めて、異なった生物同士の環世界の相互関係に焦点を当て、その奇跡のような“対位法的結合”を描き出し、この世に無数ある環世界がオーケストラのように有機的に共鳴し合っているさまを説く。
本書刊行時に東京大学教授の西垣通が書評に紹介した文章が的確である。
本書では、生物機械論者を含む数名の討論という形をとりつつ、『それぞれの生物の環世界の上位に、全体をまとめあげる高次元の統一秩序がある』という著者の信念が姿をあらわす。それはいわば壮大な交響曲の総譜のようなものであり、個々の生物は対位法的に一定の役割を演じつつ、宇宙の巨大なドラマに参加しているというわけである。(読売新聞1995年12月10日付)
討論に参加しているのは、大学理事、宗教哲学者、画家、動物学者、生物学者の5人。
生物学者がユクスキュルの分身であり、生物機械論者とは動物学者のことである。
動物学者が自説の基盤とするのは、人間を「万物の霊長」とするダーウィンの進化論であり、「すべての生命現象は、物理学、生化学、脳科学、進化論で説明しうる」という機械論的自然観である。
当然、「全体をまとめあげる高次元の統一秩序」といった神の存在を匂わせる概念は、彼には受け入れられない。
生物学者と動物学者は、何かといえば対立することになる。
面白いのは、他の3人(大学理事、宗教哲学者、画家)もはじめから生物学者の味方として設定されているところ。4対1なのである。
動物学者袋叩きみたいなニュアンスがあり、「ダーウィン、ピンチ!」。
動物学者が、国際連盟総会で席を蹴った松岡洋右みたいに、怒って場を辞さないのが不思議なほどである。
ユクスキュルの「環世界」概念は、「科学的でない」として当時の学界とくに動物学には受け入れられず、学者としては不遇な生涯であったらしい。
おそらく、そのリベンジがここでなされているのだろう。
ユクスキュルという御仁もなかなか執念深い(笑)。
ソルティの進化論理解は乏しくて、せいぜい、「多様性の中での生存競争と適者生存によって自然淘汰が起こり、生物は進化してきた」といったくらいである。
70年代に受けた教育がアップデイトされないまま、今に至っている。
しかるに、たまにテレビなどで動植物の生態や共生関係をとらえたドキュメンタリーを見ると、疑問に思うことがある。
過酷な環境を生きる動物たちの、あまりにうまくできている形態や機能や生態にはいつも驚かされるし、イソギンチャクとクマノミに例示される異なった動物同士の共生関係の見事さには――人間のように“考えて”それをやっているのではないだけに――畏敬の念に打たれる。
そして、こう思うのだ。
「こんなことが進化論だけで説明しうるのだろうか?」
「こういった精密な共生関係を生み出すまでに、どのくらいの時間を要したのだろう?」
「はたして、試行錯誤の自然淘汰説だけで、いまある自然界の多様性と生き物同士の精緻極まる関係性を説明しうるのだろうか?」
「やっぱり、何かしらの高次元の意図(=プログラマーの存在)を想定しないことには、説明しきれないのではないか?」
そう思わせる一番手の番組がNHKの『ダーウィンが来た!』なのだから皮肉である。
それと同時に、子供の頃の教育によって身につけてしまったダーウィニズムで、自然界だけでなく、人間世界を見ている危険性を思うのである。
つまり、「生存競争と適者生存は世のならい」といった観念。
ダーウィニズムが、産業革命当時のイギリスの経済学に影響を与え、社会的な貧富の差を「優勝劣敗」という単純な図式に還元し、「持てる者」が現状肯定するのに役立ったことは、よく指摘される。
それは21世紀の資本主義社会を生きる我々の意識の中に、今でも刷り込まれているように思う。
格差社会を「仕方ないもの」と肯定し、人や組織を「勝ち組」「負け組」に分けたがり、福祉の必要性に疑問を投げかけ、劣性遺伝の淘汰を唱える、疑似ダーウィニズム的言説があとを絶たない。
ユクスキュルの環世界論は、そういった、まかり間違えばナチスのような非人道的価値観の解毒剤になり得るものだ。
神を信じるかどうかは別として、自然の驚異に対して畏敬の念を抱くことは大切なことと思う。
天文学者が唱えるように、混沌がかつて支配していて、その後に天体の秩序が生まれてきたということはけっしてない。そうではなく、まずはじめに秩序があった、秩序は生命のうちにあり、生命がまさに秩序であった。こうした秩序を通じて、私たちの前にある広大無辺の全自然がその永遠の秩序において成立したのだ。
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