1938年改造社より発表
1953年新潮文庫

 火野葦平(1907-1960)は読んだことがなかった。
 どういう人で、どういう文学的または社会的評価を受けていたかも、よく知らなかった。
 興味をもったのは、NHKで4月3日に放送された『映像の世紀 バタフライ・エフェクト~戦争の中の芸術家』を観たからである。
 番組では、ナチスドイツ時代を生きた指揮者フルトヴェングラー、スターリン独裁下のソ連を生きた作曲家ショスタコーヴィチ、そして日中戦争に従軍し“兵隊作家”としてマスコミの寵児となった火野葦平の3人が取り上げられていた。
 つまり、芸術家の戦争責任がテーマだった。

 火野は、戦後になってから“戦犯作家”として批判を浴びた。
 自らの戦争責任に言及した『革命前後』という本を書いた後、睡眠薬を飲んで自殺した。

 いったい、火野はなぜ自ら進んで戦争協力するようになったのだろう?
 自分につけられた“兵隊作家”というレッテルを、のちには“戦犯作家”というレッテルを、どう受け止めていたのだろう?
 最後の瞬間、彼の心のうちで何が起きていたのだろう?
 
 俄然興味が湧き、まず彼の代表作である2作品が載っている本書を借りた。
 この2作品プラス『花と兵隊』の兵隊3部作の大ヒット(300万部を超えた)ゆえに、彼のその後の人生は決定づけられていったのである。

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 本書は、1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争の従軍記である。
 火野葦平は、1937年9月に応召され、10月杭州湾に敵前上陸し、一兵卒として中国軍と戦った。
 当時30歳だった。
 翌38年2月、『糞尿譚』により第6回芥川賞を受賞。
 一躍、時の人となった。
 報道部に転属となり、1938年5月には攻略後の南京に入り、徐州会戦に参戦した。
 1939年11月に退役して帰国。
 日本出立から中国大陸上陸、杭州での戦いの様子を記したのが『土と兵隊』である。
 徐州会戦の様子を記したのが『麦と兵隊』である。
 題名通り、前著は泥の中での行軍が、後者は一面の麦畑の中での行軍が、日記形式で書かれている。
 どちらの場合も、中国軍との激しい戦闘の模様が描かれているのは言うまでもない。
 火野葦平は、銃弾や砲弾が飛びかい、死傷者があふれる前線で、死と向き合いながら戦った勇士なのである。
 その体力と精神力は筋金入りと言ってよかろう。

 本書は、お国や天皇陛下のために命をかえりみずに戦う日本兵たちを称賛するものであり、飢えや喉の渇きや足のマメや寒さやダニなどさまざまな困難に遭いながらも、助け合って行軍する、同じ釜の飯を食う兵隊同士の連帯と友愛の素晴らしさを伝える内容である。
 火野のナショナリズム(祖国愛)や仲間の兵隊たちへの愛情はまごうかたない。

 多くの兵隊は、家を持ち、子を持ち、肉親を持ち、仕事を持っている。しかも、何かしら、この戦場に於て、それらのことごとくを、容易に捨てさせるものがある。棄てて悔いさせないものがある。多くの生命が失われた。然も、誰も死んではいない。何も亡びてはいないのだ。兵隊は、人間の抱く凡庸な思想をも乗り超えた。死をも乗り超えた。それは大いなるものに向って脈々と流れ、もり上がっていくものであるとともに、それらを押し流すひとつの大いなる高き力に身を委ねることでもある。又、祖国の行く道を祖国とともに行く兵隊の精神である。私は弾丸の為にこの支那の土の中に骨を埋むる日が来た時には、何よりも愛する祖国のことを考え、愛する祖国の万歳を声の続く限り絶叫して死にたいと思った。(『麦と兵隊』より)

 一方、それをもって、本書を単純に、「戦争賛美、帝国陸軍万歳、中国憎し」の戦意高揚の書と言えるかと言えば、ソルティはそうは取れなかった。
 やはり、ここに描かれている「土」の行軍、「麦畑」の行軍は、たいへん厳しいものに違いなく、これにくらべればソルティのおこなった四国歩き遍路1400キロなどパラダイスである。
 いったいに、日中戦争体験者の手記を読むと、地獄のような行軍の話がよく出てくるが、ほんとうにこのような行軍が必要だったのか、疑問に思う。
 敵と出会う前に、ほかならぬ行軍によって体力と気力をあらかた奪われて、食糧も尽きて、いざという時に十分な力を発揮できなかったのではないか?
 あるいは、行軍によって兵士を徹底的に疲れさせ、正常な感覚や思考を麻痺させることで、人を殺すという人倫の壁を乗り越えさせたのだろうか?
 火野のリアリズムな筆によって描かれる、凄惨な戦闘場面、累々と積み重なる死体、捕虜となった中国人への残虐な仕打ち、戦争に巻き込まれた民間人の悲劇など、普通に読んでいれば、「やっぱり、戦争は嫌だ」、「戦争は人を狂気にする」、「戦争なんかするもんじゃない」としか思えない。
 また、火野は、敵である中国人があまりに日本人とよく似ているため厭な気持ちを抱いたことや、中国人捕虜の首を軍刀で刎ねる陸軍曹長の行為を前に自らの心を確かめ、まだ自分が「悪魔」になっていないことに安堵したことなども、ありのままに書いている。
 本書が戦意高揚の役に立つとはとても思えなかった。
 むしろ、「よくこの従軍記の発表を軍は許可したなあ」と思ったくらいである。
 (捕虜の中国兵が殺される場面に、日本国民の多くは快哉の叫びを上げたのかもしれないが) 
 違う時代の違う価値観に生きている目で読めば、同じ本でも違ったふうに受けとれるってことだろうか。

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PeggychoucairによるPixabayからの画像

 戦後になってから、本書について、「作家としての独自の判断力も批判も放棄して」いる、と某文芸評論家に批判された火野は、「(当時は検閲と弾圧があったため)ここに表現されているのは、書きたいことの十分の一にすぎない」と反論したという。(本書「解説」より)
 書きたかった残り十分の九は、どんな内容だったのだろう?
 そして、本書発表を契機に、どんどん体制翼賛へと傾いていった火野の真意はどこら辺にあったのだろう?
 
P.S. 2019年にアフガニスタンで狙撃されて亡くなったペシャワール会の中村哲医師は、火野葦平の甥っ子だという。この叔父と甥の関係も気になる。



 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損