8月26日は、加藤哲夫さんの13回忌だった。
 25と26の両日、仙台で『市民と社会のこれからを考える2Days「私たちはどう生きるか?~加藤哲夫さんの宿題を考える~」』が有志の呼びかけにより開催された。
 
 加藤哲夫さんは、仙台の街中で自然食品店&出版社『ぐりん・ぴいす&カタツムリ社』を経営しながら、反戦、脱原発、環境問題、ディープエコロジー、精神世界、HIV問題、市民活動支援(NPO)など実に幅広い分野の活動を展開した。
 とりわけ、市民活動支援セクターである「せんだい・みやぎNPOセンター」の設立に関り、全国を飛び回って行政や民間相手の研修講師を務め、一時は“NPO四天王”などと呼ばれるほどだった。(あとの3人が誰かは覚えていない)
 頭が切れ、弁が立ち、快活で、稀代のネットワーカーで、日本酒とアロマオイルと夏目雅子が好きで、人の悲しみをよく知る人だった。
 
 30代を仙台で過ごしたソルティは、HIV感染者支援の活動を通じて加藤哲夫さんと知り合い、以後、公私にわたりたいへん世話になり、多くのことを学んだ。
 加藤哲夫さんの活動や思いを振り返り、旧知の人々と再会し、還暦以降の生き方の指針が得られたらと思い、参加した。
 ついでに、ずっと乗りたかったJR五能線、ずっと歩いてみたかった奥入瀬渓流にも足を延ばし、全5日間のみちのく一人旅を決行した。
 旅のお伴は、青春18切符とJR時刻表と本3冊である。

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JR時刻表
ページをめくって列車の連絡を調べるのが旅の醍醐味
スマホは持って行かなかった

8月25日(金)、26日(土)晴れ

 仙台も関東に負けず劣らず暑かった!
 陽の当たる通りを歩いているだけで汗だくになった。
 ただ、東北本線の白河駅を越えたあたりで空気が変わったのを感じた。
 首都圏の濃厚とんこつスープの中に浸かっているようなギトギトの暑さとは違い、昭和の夏のジリジリした炎天下の暑さがあった。

 X君と仙台フォーラス前で待ち合わせ。
 国分町にある有名な牛タン専門店『太助』に行った。
 X君は、以前記事に書いた2年間ムショ暮らししていた旧友である。
 昨年9月に務めを終え円満退所(?)し、娑婆に戻って約1年。
 強制ダイエットされた体ももとに戻り、肉付きも顔色もよく、五十路越えとは思えない黒々した髪もふさふさとし、精神的な脆さは見られるものの、とりあえず元気そうであった。
 地域のNPOの支援を受けながら職業訓練所に通っていると言う。
 共通の友人を通じてたまに彼の動向は聞いていたものの、実際にこうして会って話すのは、東日本大震災のあった年の夏が最後だったと思う。
 海辺の町に住んでいたX君の被災見舞いだった。
 12年ぶりの再会。
 しかし、そんなに久しぶりの感がない。
 観光客で混みあう『太助』のカウンターで、すぐにムショ暮らしの苦労を包み隠さず滔々と語り始める主役感。(ツイッターへの投稿がもとで、某ビジネス雑誌のインタビューを受け、「中高年の貧困と孤独」と題する記事にもなった)
 そこが約30年前に仙台のゲイコミュニティで最初に出会ったときから変わらぬX君の持ち味なのだった。転んでもただでは起きない。
 炭火で焼く牛タンの旨さを堪能したあと、場所を移した。
 印象に残った話をあげる。(注意:尾籠なものもあります)
  • ムショでは起床時にビリー・ジョエルの『HONESTY(誠実、正直)』が流れていた。いまもこの曲を聴くとトラウマが蘇る。
  • ムショでは「ピンク」がもっとも軽蔑され、仲間内のランクが下だった。「ピンク」とは性犯罪者のことである。(特に小児性犯罪者は他の受刑者から蛇蝎のごとく嫌われると聞いたことがある)
  • トイレ付きの8畳くらいの部屋に3人で入っていた。トイレは一応仕切りがあったが、隠されているのは下半身だけで、上半身は廊下から見えるよう透明仕切りになっていた。
  • イケメンが全然いなくて残念だった。(何を期待しているんだか・・・)
  • 所内のカラオケ大会で尾崎紀世彦の『また逢う日まで』を歌って準優勝した。
  • ひと月に一度「アイスの日」というのがあり、それが一番の楽しみだった。
  • 雑居房ではオ×ニーをしなかった。他の男たちもしていなかった。当然、屈強な牢名主に“掘られる”ようなこともなかった。(互いにBLメディアの見過ぎ)
  • 娑婆を出た日にNPOにつながって、生活保護の申請やアパートを借りる手続きを手伝ってもらった。それがなければ、更生保護施設に行くほかなかった。
 織田信長が「人生50年」と言った時から500年以上経ち、今や「人生100年」の時代である。
 50歳なんて、ようやっと折り返し地点。
 とりあえず生きていてほしい。
 また逢う日まで。
 
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仙台駅の伊達政宗騎馬像
なんであまり人の来ない3Fに移したんだろう?

 夕方より、「2DAYS加藤哲夫さんの会」に参加。
 会場は広瀬通りに面した仙台市市民活動サポートセンター。(錦町にあった昔のサポートセンターに間違って行ってしまい、15分ほど探し回った)

プログラム

〇セッション1 (8/25 18:30~21:00)
「2011年の覚醒はどこへ~東日本大震災で社会は変わったのか」
進行:渡邉一馬(せんだい・みやぎNPOセンター)
ゲスト:
 高橋敏彦(前北上市長)
 高橋由佳(イシノマキ・ファーム)
 高橋美加子(北洋舎クリーニング)
コメンテーター:菅野拓(大阪公立大学)

〇セッション2 (8/26 9:30~12:00)
「加藤哲夫とNPO~市民、自治、民主主義」
進行:赤澤清孝(大谷大学)
ゲスト:
 川崎あや(元アリスセンター事務局長)
 福井大輔(未来企画)
 青木ユカリ(せんだい・みやぎNPOセンター)
コメンテーター:川中大輔(シチズンシップ共育企画)

〇セッション3 (8/26 13:30~16:00)
「これからの『市民の仕事』~加藤哲夫の宿題」
進行:田村太郎(ダイバーシティ研究所)
ゲスト:
 白川由利枝(地域創造基金さなぶり)
 葛巻徹(みちのく復興・地域デザインセンター)
 前野久美子(book cafe火星の庭)
コメンテーター:長谷川公一(尚絅学院大)

 70名くらい入る会場には、加藤哲夫さんと親交のあった様々な分野の人々が集まって、活況を呈していた。
 登壇者にも、客席にも、古くからの顔見知りがチラホラいて、ゆっくりと語る時間こそ持てなかったものの、元気に活動している姿が伺えてパワーをもらった。
 2日間のセッションの中で、印象に残った言葉。(主観的変換あり)
  • 人生は後付けである。
  • 男は構造をつくりたがる。できあがった構造の中で、当初現場にあった覚醒や思いが薄れていく。
  • 優しい人たちのつくる、文句のつけようのない優しい制度の中に空白が生じ、そこに落ち込んで苦しんでいる人がいる。
  • ひとりひとりの人格ではなく、システムが人を殺す。
  • SNSに象徴されるように、今の社会は人と人とを分断する方向に進んでいる。
  • 社会のアプリケーションでなく、OSを変えることが重要。
  • 本来なら、国や行政が立法化するなどして仕組みを変えなければならないことを、仕組みを変えないままにNPOが安く下請けする、ニッチ産業のような構造ができてしまっている。そこに共助という落とし穴がある。
 加藤哲夫さんがその八面六臂の素晴らしい活動において最重要に位置付けていた思いは、「人を殺すシステムを変えること」であった。
 薬害エイズ事件にみるように、組織(当時の厚生省)に属する一人一人は巨悪でも悪魔でもない、普通の感覚を持った一市民にすぎない。
 それが歪な風通しの悪い組織の中で、自らを殺して組織のために働くことで、結果的にシステムとして人を殺すことに荷担してしまうのである。
 だから、中にいる人を変えたところでシステムがそのままであれば、同じことが繰り返される。
 誤ったシステムを変えなければならない。
 ソルティもまた、生前の加藤哲夫さんの口から同じような言葉を幾度も聴いた。
 加藤哲夫さんにとって、誤ったシステムによって起こる最大最悪の産物は「戦争」であった。
 天皇を神とする大日本帝国というシステムの中で、男たちは人殺しに駆り出されていったのだ。 

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加藤哲夫さん
 
 システムを変えるためには、まず、人はシステムの歪さに気づく目を持たなければならない。 
 システムの中で苦しんでいる弱者の声に耳を傾けなければならない。
 それから、“空気を読まず”に口に出して、それを変える行動を起こすための勇気を持たなければならない。
 すると、仲間が見つかる。
 
 薬害エイズ事件の頃、カレル・ヴァン・ウォルフレン著の『人間を幸福にしない日本というシステム』という本が流行った。
 あれから四半世紀が経って、いまだに「人間を幸福にしない日本というシステム」は、拘束服のように我々を縛り続けている。

 2日間のセッションを終えて、盛岡に向かう列車に飛び乗った。
 車窓に広がる東北ならではの稲穂の波を見送りながら、システムに捕らわれることなくその表層を飄々とした風情で飛び回った、あるいはカタツムリのようにのそのそと忍耐強く這い進んでいた、加藤哲夫さんの笑顔を思い出した。

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加藤哲夫かたつむり