2023年日本
137分

福田村事件

 本作は関東大震災100年後の9月1日に公開された。
 なかなか評判になっているようで、9月9日(土)池袋シネマロサでの午後の回は8割くらい埋まっていた。
 どんどん全国拡大し、ロングランしてほしい。
 一人でも多くの人に観てほしい。

 100年前の史実である福田村事件をじっくり丁寧に描いている。
 クライマックスとなる香川の行商9人(胎児含めると10人)虐殺に向かって、その数日前から、舞台となった千葉県野田村の様子を描き込んでいく。
 日本に併合された韓国から帰ってきた夫婦、シベリア出兵で戦死した夫の遺骨を持ち帰る寡婦、デモクラシーを唱える村長を馬鹿にして村を仕切る元軍人たち、蔓延する在日朝鮮人への偏見、女子供とジジババが銃後を守る村や家庭の様子、男尊女卑の家制度、皇国史観が横行する大正末期の世相、軍隊や警察(特高)が威張りくさる軍国主義の風潮、国策に順応するマスコミ・・・。
 どのような背景・前提のもとで、この事件が起こったかを十分に観る者に知らしめる。

 その中に、物語の中心となるべき人物が据えられる。
 片や、朝鮮半島から故郷の福田村に帰国してきた男、澤田智一(井浦新)と妻の澤田静子(田中麗奈)。
 この二人は史実には出てこない創作上の人物であり、映画を観る者の視点、つまり日本人ではあるものの大日本帝国臣民の価値観には完全には染まっていない人間として、観客の感情移入しやすいキャラに設定されている。
 うまい仕掛けである。
 観客は、この智一と静子の二人を通して、事件の推移につき合っていくことになる。

 片や、香川から野田村にやって来た薬売りの一行である。
 大人と子供の総勢15人、中に妊娠した女もいる。
 頼りがいのある親方(永山瑛太)のもと仲良く行商しているが、彼らには人に知られてはならない秘密があった。
 被差別部落の民だったのである。

 前半、滔々と(ややぎこちなく)進んできた流れが、9月1日の関東大震災を機に一気に速度を速め、荒々しさを増していく。
 それまで個々に描かれてきた登場人物たち各々の物語――智一と静子の破綻寸前の微妙な夫婦関係、夫を戦争で亡くした寡婦と渡し守の男との人に後ろ指さされる恋、部落差別を背負いながら生きる行商一行の哀しみと逞しき商魂と強い絆、唯々諾々と国策に従って紙面を作ろうとする上司に抗う女性新聞記者の意気地、東京にいる夫が震災時に朝鮮人に殺されたと聞き悲嘆する若妻、戦争に行っている間に妻が自分の父親と関係したと勘繰る夫、等々――のエピソードが、打ち鳴らされる警鐘とともに香取神社の建つ利根川岸でひとつに収斂し、血みどろの殺戮劇に発展する。
 よくできた脚本である。

 しかし、なんといっても本作最大の魅力にして成功のポイントは、役者たちの熱意だろう。
 主役の澤田夫妻を演じる井浦新と田中麗奈、色男の渡し守を演じる東出昌大、行商の親方を演じる永山瑛太、この4人は甲乙つけがたく素晴らしい。
 いずれも、それぞれの役者人生における最高の演技ではないだろうか。
 演技の技術そのものよりも、この作品に対する、それぞれの役に対するひたむきな思いが彼らの演技を支えて、芝居を本物にする磁力が生じている。
 この磁力がスクリーンの密度を高め、観る者を最後まで引っ張っていく。
 とりわけ、不倫問題によって芸能界を締め出された東出の、逆境によって一皮むけた不逞なる存在感が印象的。
 倫理やら道徳やらを持ち出しバッシングに熱を上げる大衆とそれに迎合する無責任なメディアによって村八分にされた東出ほど、この福田村事件の因を成す群集心理の怖さを身をもって知る者はいまい。
 村の女たちの欲求不満のはけ口にされる軽薄な色男という、いかにも世間が東出に抱くイメージを自ら戯画的に演じながら、狂気にかられる村人たちから行商を守ろうと盾になる。
 東出は本作で本物の役者になったと思う。
 森監督が東出を起用してくれたことに感謝したい。
 本作のリアリティを一気に高める柄本明の起用は言うに及ばず。

香取神社
事件の舞台となった野田の香取神社参道

 ソルティは、森監督が本作を撮るにあたって、どこまで部落問題に踏み込むのか興味津々であった。
 部落問題に触れるのがタブーだからというのではない、
 森監督ほどタブーと向き合って、タブーを破ってきた表現者はいない。
 そうではなく、朝鮮人差別や集団パニックだけでも扱うのに大きなテーマなので、そこに部落差別というテーマを絡ませることで、焦点がぼやける可能性を思ったのである。
 福田村の自警団をはじめとする村人たちが香川の行商を殺害したのは、彼らを朝鮮人とみなしたからであって、彼らが部落民だったからではない。村人は行商たちの素性を最後まで知らなかった。
 つまり、そこに部落差別を組み込む必要はない。
 しかし、史実である以上、まったく部落問題に触れないのも不自然だ。
 どう処理するのかな?――と思っていたら、なんと水平社宣言という裏技を出してきた。
 ・・・・・!
 そうだった。
 関東大震災および福田村事件が起きたのは1923年9月。
 それに先立つ一年前の3月3日、京都で全国水平社が結成された。
 史実がどうだったかは知るべくもないが、全国各地を旅して回る香川の行商たちがどこかで水平社宣言を読み、どこかで活動家の講演を耳にし、歓喜に震え、解放運動に目覚めていたとしても、決しておかしな話ではない。
 それだけに、解放と平等への希望を抱いて行商していた一行が、同じように日本人によって差別されている朝鮮人と間違えられて虐殺されるという顛末は、あまりに酷く、悲しく、絶望的だ。
 「なんで? なんで? なんで?・・・」
 殺戮を目撃し生き残った行商の少年の慟哭に答えられる者はいるのか?

 森監督、本作に希望を盛り込まなかった。
 おそらく、監督の分身は女性新聞記者であろう。
 彼女は福田村事件の惨状を目の当たりにし、記事に書くことを決意する。
 福田村村長は泣いて懇願する。
 「私たちはこれからもこの土地で生きてゆかねばならない。どうか書かないでくれ」
 彼女は答える。
 「書くことでしか、これまで朝鮮人差別を黙って見逃してきた自分を許せない。亡くなった香川の行商たちに償いえない。」
 森監督も本作を撮るにあたって、同じように自問自答したのだろう。

 ラストシーン。
 船で川へと漕ぎ出す澤田夫妻。
 妻は問う。「ねえ、どこへ行くの?」
 夫は答える。「・・・教えてくれ」
 二人の乗った行先わからぬ船は、“新しい戦前”を漂う現在日本の比喩に違いない。
 
 
 
おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損