1958年松竹
95分、白黒
松本清張の社会派ミステリー。
原作は読んでない。
小泉孝太郎主演で昨年TVドラマ化されたらしいが、知らなかった。
よもや、こういう“フカ~い”話とは思わなかった。
敬愛していた上司が約束手形詐欺にあい、責任を感じて自害した。
部下の萩崎(佐田啓二)は、新聞記者の友人(高野真二)の助けを借りて、詐欺グループについて調査を開始する。
行く先々で現れる謎めいた美女・絵津子(鳳八千代)に翻弄される萩崎。
次々と殺されていく関係者。
すべての背景には、政治家や右翼のフィクサーが関わる大がかりな犯罪組織があった。
上の内容だけなら、よくある裏社会絡みの犯罪ミステリー、いわゆるフィルム・ノワール日本版で済むのだが、本作の一番の押さえどころは、くだんの犯罪組織の出自をそれとなく匂わせている点にある。
清張も大庭監督も作品中でそれとはっきり名指ししなかった(できなかった)ので、気づかない人は気づかないまま観終わってしまうだろうが、本作の底には被差別部落問題が横たわっている。
萩崎が調査に訪れた信州の村で、硫酸で肉を溶かす工場が出てくる。
それが本作に使われるトリックの一つで、犯人一味が死体を硫酸で溶かすことによってその白骨化を速め、死亡推定時刻を混乱させたことがあとで判明する。
このトリックが当時の検屍レベルにおいて成り立ったかどうか知らない。(榊マリコのいる現在の科捜研ではまず無理だろう)
が、ここで押さえるべきは、食用に適さない屑肉を様々な方法で溶かして油脂や肉骨粉にし、石鹸や家畜の飼料や肥料をつくる、いわゆるレンダリング(化整)の仕事は、長いこと部落産業の一つとされてきたという点である。
その村こそ、犯罪組織のボスや絵津子が生まれ育った土地だった。
周囲から厳しい差別を受け、貧しい暮らしを強いられた部落の青年が、正体を隠して(三国人=朝鮮人のフリをしている)都会に乗り込み、才覚をもって身を立て、表では政治家に影響力をもつ右翼のフィクサーとなり、裏では犯罪組織のボスとなる。
彼の手下となって働く一団こそ、同じ部落出身の仲間たち。
自分たちを差別する社会や世間に対する複雑な思いを共にする、強い絆で結ばれた同志である。
ウィキ『眼の壁』には、当時清張の小説が部落解放同盟から「差別を助長する」と批判を受け、いろいろやり合った経緯が書かれている。
原作についてはわからないが、少なくとも本映画については、「差別を助長する」ものとは思えなかった。
といって、部落問題がそれと判らぬようにうまく隠してあるからではない。
社会や世間から蔑視され不当な差別を受け疎外され続けてきた人々が、社会や世間に対して恨みを抱き、グレたり復讐の念をもったりするのは、ある意味、当たり前の話であって、それを否定するのはかえって不自然である。
自身部落出身を公言している作家の角岡伸彦が『はじめての部落問題』(文藝春秋)に書いているように、『なんらかの背景や理由があるから、人はヤクザになるのであって、それを見ずして「差別反対、暴力はいけません」「部落はけっして怖くありません」などと言うのはきれいごとに過ぎない』。
現実に「ある」ものを「ない」と糊塗することでは、問題はいつまでたっても解決しない。
「ある」ものは「ある」と認め、原因を探り対策を講じていくことが肝要である。
「眼の壁」とはずばりタブーのことだ。
タブーをタブーのままにして見過ごすことが、どれだけ当事者を苦しめ、社会をいびつにするかは、いまのジャニーズ問題をみれば明らかであろう。
本作は、ボスの壮絶死と犯罪組織の解体によって事件が解決し、萩崎と絵津子の恋の成就を暗示させるシーンで終わる。
萩崎は当然、事件捜査の過程で絵津子の出自を知った。
でもそれは恋の前には関係ない。
このラストが暗い物語を救っている。
佐田啓二、鳳八千代、新聞記者役の高野真二、部落の老人を演じる左卜全、いずれも好演である。
おすすめ度 :★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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