劇 場 英国ロイヤル・オペラ・ハウス
【指揮】 アントニオ・パッパーノ
【演出】 アデル・トーマス
【合唱】 ロイヤル・オペラ合唱団
【オケ】 ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団
【キャスト】
- レオノーラ: レイチェル・ウィリス=ソレンセン(ソプラノ)
- マンリーコ: リッカルド・マッシ(テノール)
- ルーナ伯爵: リュドヴィク・テジエ(バリトン)
- アズチェーナ: ジェイミー・バートン(メゾソプラノ)
- フェルランド: ロベルト・タリアヴィーニ(バス)
【上映時間】3時間13分
【配給】東宝東和
東宝でこういったプロジェクトをやっていたとは知らなかった。
2018年頃からスタートしたらしい。
ライバル松竹の向こうを張って、あちらがニューヨーク・メトロポリタン・オペラ(MET)のライブ映像なら、こちらは英国ロイヤル・オペラ・ハウスと来た。
伝統も格式も作品のクオリティもMETに遜色ない。
おかげで、日本のオペラファンは、そのシーズンにかかった米英両国のフレッシュな舞台と現代最高の歌手たちの見事な歌唱を、日本にいながらにして楽しむことができる。
なんていい時代だ!
調布駅そばのイオンシネマ・シアタス調布まで出かけた。
家から電車を乗り継いで1時間半近くかかるが、『トロヴァトーレ』のためならお安い御用。
やっぱりソルティは数あるオペラの中でこの作品が一番好き。
とにかく歌が素晴らしい。
アリア(独唱)も重唱も合唱も魅力的なピースばかりで、聴きどころ満載なのだ。
中世ヨーロッパが舞台の「復讐」をテーマとする暗く陰惨な物語ではあるが、歌の美しさは途方もない。
いや、背景が暗いからこそ登場人物の愛や情熱や怒りの炎が一際明るく輝きわたって、日常を超えたドラマチックな世界へと聴く者を導いてくれる。
いや、背景が暗いからこそ登場人物の愛や情熱や怒りの炎が一際明るく輝きわたって、日常を超えたドラマチックな世界へと聴く者を導いてくれる。
複雑で難解で荒唐無稽なプロットと揶揄されることも多い作品であるが、荒唐無稽はともかく、別に複雑でも難解でもないと思う。
この程度のプロットが理解できないで、アクロバティックな仕掛けに満ちた現代のミステリーサスペンス映画が観られるものか。
だいたい、リブレット(台本)を読めば一発で理解できるではないか。
いい加減、『トロヴァトーレ』を「複雑、難解」というのは止したらどうか。
本作の、というか本演出の最大のポイントは、バスのフェルランドの扱いである。
フェルランドはルーナ伯爵の家臣であり、伯爵家の兵士たちの頼りがいある隊長。
一番の見せ場は、第一幕第一場すなわち幕開きのアリアである。
ここでフェルランドは、夜番をする部下たち相手に、ルーナ家にまつわる過去の陰惨な事件を大層ドラマチックに物語る。
観客に物語の背景を説明するとともに、地獄の底から轟くようなバスの低音によって、オカルティックな雰囲気を高める役を果たす。
この導入部は非常に重要で、ここでフェルランドが観客の心と耳をガッチリ掴むことで、観客は現代から中世ヨーロッパへとタイムスリップすることができる。
ここさえ無難に歌い演じ終えたら、ほっと一息。あとは脇に回って、主君であるルーナ伯爵の出番の際に一緒に登場し、合いの手を入れたり命令に従ったりしながら、合唱においては低音部分を支える。
重要な役ではあるが、4人の花形(マンリーコ、レオノーラ、ルーナ伯爵、アズチェーナ)にくらべれば目立つものではなく、脇役のトップといった位置づけである。
ところが、本演出におけるフェルランドは、最初から最後までほぼ舞台に出ずっぱりなのだ。
自身の歌(セリフ)のない場面でも、ルーナ伯爵や家来に伴われていない場面でも、登場する。奇怪な恰好をした3匹の獣を引き連れて。
それは、フェルランドを狂言回しとして設定しているからである。
ルーナ伯爵の家臣であると同時に、物語の狂言回しとして、この暗く不吉なドラマを地獄の悲劇へと突き進めていく船頭のような役目を果たす。
いいや、はっきり言おう。
このフェルランドは悪魔であり死神なのである。
このフェルランドは悪魔であり死神なのである。
だから、血と裏切りと嫉妬が渦巻く場面でひとり快楽の笑みを浮かべ、レオノーラのもつ十字架を恐れ、ラストでは斬首されたマンリーコの首を高々と掲げて凱歌の雄叫びを上げる。
演出を担当したアデル・トーマスはこの物語を、悪魔の手のうちで狂った運命の糸に操られ破滅する人間たちの悲劇と解釈したのである。
こういうやり方があったのか!
ユニークかつ斬新な演出に感心した。
なるほど、舞台は中世ヨーロッパ。
日が落ちれば漆黒の闇が地を覆い、城郭の周囲には黒々した森や岩山が浮かび上がる。
魔女や魔物や幽霊が跳梁跋扈し、善良な人々をたぶらかし、その魂を奪おうと手ぐすね引いている。
迷信がはびこり、占いを本気で信じ、遍歴芸人やジプシーに対する差別が蔓延していた時代。
悪魔が出現してもおかしくはない。
その点で、極めて原作の精神に近い、というか現代人が科学と理性の光によって封じ込めた(つもりになっている)数百年前の人間の姿を思い出すにふさわしい舞台であった。
フェルランド役のロベルト・タリアヴィーニは、演出の意図をよく理解し、歌唱はもちろん、表情や仕草もデイモスな雰囲気を漂わせていた。
とりわけ、舞台に黒く浮かぶ不気味な鋭角的なシルエットが印象的で、この役をロベルトが得たのは背格好がイメージに合ったからではないかと思うほどである。
AlessandroによるPixabayからの画像
歌唱で一番はルーナ伯爵を演じたリュドヴィク・テジエ。
張りのある、抑制のきいた堂々とした歌声が、舞台の風格をいやがおうにも高めた。
貫禄抜群の舞台姿のうちにも、家柄と伝統と名誉と習慣に縛られた名家の長男の“形骸”のような人生を表情に漂わせ、レオノーラへの愛だけが彼自身の真の欲望であるがゆえに強くこれに執着するのだ、と観客に知らしめる。
レオノーラ役のレイチェル・ウィリス=ソレンセンは、本番直前に代役が回ってきたという。
急ごしらえとは思えない立派な歌唱と演技とほかの出演者との連携ぶりである。
歌声はドラマチックな強さを備え、ヒロインらしいオーラもある。
個人的にはもう少しアジリタ(コロラトゥーラ)が効くといいのだが、もともとレオノーラはソプラノ・ドラマティコ・タジリタという滅多にない種類の声を要求される難役なので、無いものねだりかもしれない。
マンリーコ役のリッカルド・マッシは、第3幕見せ場のナチュラル「ド」を見事に決めて満場の喝采をさらっていた。
気品ある穏やかなルックスが、恋する吟遊詩人にぴったり。
何の加減か(長髪のためか)イエス・キリストのように見える瞬間もあり、それがまた、悪魔フェルランドに狙われて最後は斬首される運命の悲劇的効果を倍増する。
見た目いちばんの驚きはアズチェーナである。
これほど醜いアズチェーナははじめて見た。
頭髪は半分抜け落ちて前頭部が露わ、残ったざんばら髪も真っ白、なにより顔面片側を覆う生々しい火傷の痕。
ほとんどお岩さんである。
服装もつぎはぎだらけの襤褸で、裂け目から不吉なシンボルを象った入れ墨が覗いている。
いや~、ジェイミー・バートンはよくこの役を引き受けたものだ。
たしかにアズチェーナの境遇やこれまで彼女が受けてきた傷の深さを思えば、これくらいの老化や劣化はおかしくないと思うが、反ルッキズム風潮かまびすしい現在、舞台上とはいえ、ここまでグロテスクな風貌を女性に与える大胆さに驚嘆した。
むろん、驚きは最初のうちだけで、舞台が進んでくるにつれ、観客はアズチェーナの境遇に哀れみを感じ、その母性愛にしてやられ、しまいにはアズチェーナを愛らしく思うに至る。
母性愛は醜さを超える。
舞台左右いっぱいに階段だけという、あまりにもシンプルかつ大胆な装置。
ルーナ家の兵士たちやジプシーの集団にみる、ゴシック風衣装の奇抜さ。
登場人物のすべての動きを音とシンクロさせる、あたかもバレエかフィギアスケートのような一体感。
歌も芝居も演出も美術も音楽も見事に揃った名舞台は、METの『トロヴァトーレ』に劣らない。
ライブで観たらどれだけ感動したことか。
英国ロイヤル・オペラ・ハウスの力量をまざまざと知った。
内容とは別に、一つだけ難を言えば、上映開始時刻に席に着いてから実際のライブ映像が始まるまで、30分以上かかった。
映画の予告編が延々と続き、やっと終わったかと思ったら、今度はロイヤル・オペラ・ハウスの宣伝と出演者インタビュー。
いい加減待ちくたびれた。
次からは20分くらい遅れて行こう。