2012年幻冬舎新書

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 家から7~8分歩いたところにゴミ屋敷がある。
 建物の周囲はもちろん、2階のベランダや1階の屋根の上までさまざまな物で埋まっている。
 家の中を覗いたことはないが、推して知るべし。
 高齢男性が一人住まいしているようだ。
 隣り近所に住んでいる人の不安や苦労が思いやられる。
 なんと言っても悪臭。
 ゴミなだれの危険。
 火事の延焼リスク。
 ねずみや蠅やゴキブリなど害虫の被害。
 当人が誰とも、どこともつながっていない場合、孤立死からの死体放置もあるやもしれない。

 ゴミ屋敷が珍しいものでなくなってから久しい。
 外からは分からなくても、家の中がゴミだらけという例も多い。
 厄介なのは、周りにとってはゴミでも、本人にとっては宝だったりするので、誰かが勇を鼓して本人に注意したところで、容易には解決できない点である。
 そのあたりを描いたのが橋本治の『巡礼』(新潮社)であった。

 本作はゴミ屋敷をメインにしたルポではない。
 主要テーマは、副題の『孤立死を呼ぶ「セルフ・ネグレクト」の実態』にある。
 ゴミ屋敷問題とは、セルフ・ネグレクトの一つなのである。
 著者は、1960年生まれの看護師、保健師、地域看護や公衆衛生を専門とする研究者。
 現場をよく知る人と言える。

 セルフ・ネグレクトとは何か。
 甲南女子大学の津村智恵子氏によると、

 高齢者が通常一人の人として、生活において当然行うべき行為を行わない、あるいは行う能力がないことから、自己の心身の安全や健康が脅かされる状態に陥ること。

 セルフ・ネグレクトの特徴として、次の8つが挙げられている。
  1.  身体が極端に不衛生(何日も入浴しない、同じ服を着続けるなど)
  2.  失禁や排泄物の放置
  3.  住環境が極端に不衛生(ゴミ屋敷、猫屋敷など)
  4.  通常と異なって見える生活状況(たとえば、夏なのに厚着、冬なのに下着一枚など)
  5.  生命を脅かす治療やケアの放置(服薬しない、食事制限を守らないなど)
  6.  必要な医療・サービスの拒否(福祉制度や介護保険を利用したがらないなど)
  7.  不適当な金銭・財産管理
  8.  地域の中での孤立
 セルフ・ネグレクトの研究が始まったのは1950年代のアメリカだという。
 イギリスでは、1975年に「ディオゲネス・シンドローム」という名で、論文が発表されたそうな。
 ディオゲネスと言えば、古代ギリシアの哲学者。世俗を疎んじ、何も持たず樽の中で生活したことで知られる。
 噂を耳にしたアレキサンダー大王が大勢の供を連れて本人に会いに来た。
 大王が問う。「なにか欲しいものはないか?」
 ディオゲネスは答えた。「そこに立たれると日陰になるからどいてください」

 もちろん、ディオゲネスのような自己哲学と信念をもつ人間をセルフ・ネグレクトというのは間違っている。
 彼はまた市民に愛されたらしく、住み家にしている樽(甕とも)が何者かによって破壊された時、市民が代わりの樽を与えたという。

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ディオゲネスとアレキサンダー大王
Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

 本書では、人がセルフ・ネグレクトに陥る要因をいくつかリストアップしている。
 認知症や精神疾患など病気によるものをのぞけば、「社会的孤立」と「生きがいの喪失」が二大要因と言っていいのではないかと思う。
 分かりやすい例が仕事一筋に生きてきたサラリーマンの場合。
 定年を迎え、やっとゆっくり老後を楽しめると思ったら、妻が病死する、あるいは妻から離婚を言いわたされる。
 娘や息子は遠い地でそれぞれの仕事や家族のことで手一杯。
 会社関係以外に親しい人もおらず、地域のつき合いもなく、趣味らしい趣味もなく、家事もできない。
 この年齢では新しいことを一から始めるのも億劫。
 すると、社会的孤立と生きがいの喪失が一挙に襲いかかる。
 「生きている意味なんかない」
 そう思ったら、すでにセルフ・ネグレクトの入口にいる。

 セルフ・ネグレクトは、当事者を支援する側にとっても、壁が立ちはだかっている。
 一つは、プライバシーの問題。個人情報保護の制約が、本人を支援するために欠かせない情報を、関連機関で交換したり共有したりするのを難しくしている。
 しかし、これは例外規定による緩和もある。
 今一つがより厄介である。
 セルフ・ネグレクトしている本人が外からの支援を望まない場合、他者に害を与えたり、法律に反していない限り、本人の行動に干渉できないという点である。
 これを愚行権という。

 人は「健康に悪い」とわかっていても、それをあえて行う「自由」が認められています。それは「愚行権」という権利です。愚行権とは、たとえ他人から愚かな行為だと評価・判断されても、個人の領域に関する限り、邪魔されない自由のことです。
 生命や身体など、自己の所有に帰するものは、他者への危害を引き起こさない限り、たとえその決定の内容が理性的に見て愚行と見なされようとも、対応能力を持つ成人の自己決定に委ねられるべきである、とするものです。

 そこで、多くの専門家は「本人に拒否があるとき、どこまで介入するか」迷い、手を差し伸べるか否かジレンマに陥るわけである。
 個人主義の強いアメリカの場合、本人が意図して“セルフ・ネグレクト状態”になっているのであれば、支援の対象から外すという。

 その理由は、そういう人に対して、保護したり介入するのは、「個人の自由」や「自己決定の尊重」の侵害になるという考え方からです。命に関わる問題だとしても、あくまで当事者が自分の生き方を決めることを尊重しているのです。ただし、意図的と判断するためには、専門医が診察するというプロセスが必要です。

 つまり、生きるも死ぬも本人が好きで選んでいることだから介入するな、ということだ。
 この考え方の延長上に、安楽死肯定の思想が出てくるのは言うまでもない。
 上記の津村氏や著者の岸は、しかし、日本の高齢者の場合、セルフ・ネグレクトを権利として認め、そのまま見過ごすのは問題ありと言う。

 日本において、セルフ・ネグレクトを「本人の意思」で行っていると決定づけるのは、とても難しいことです
 それは津村氏らが述べているように、日本人は「自己主張をせず、人に合わせること」を美徳とする国民であり、まして現在の高齢者は、多くは戦争体験によりきびしい時代を生き抜いてきた人たちです。少しでも贅沢をしたり、物を要求したり、人の世話になったり、人の迷惑になることを避けようとする世代なのです。

 その通りだろう。
 ただ、それが単に世代的な問題なのか、それとも国民性の問題なのか、定かではない。
 本書の発行からすでに10年以上経ち、介護を必要とする高齢者の中に戦後生まれの団塊の世代が入ってきている。
 世代的な要因が大きいのなら、安楽死の可否含め、日本社会の自己決定に関するパラダイムも変わってくるかもしれない。

 と、ここまで他人事のように書いてきたが、肝心の自分もまたセルフ・ネグレクト予備軍と自覚している。
 いまは同居の親がいて、仕事があるから、社会生活を無難に営めている。
 けれど、この先何年かして、両親が亡くなり、仕事も失うことになったら、友人が少なく、パートナーも子供もいないソルティは、社会的孤立と生きがいの喪失に直面するかもしれない。
 そのうえ、健康を害したら、生きているのはつらいであろう。

 そのときに最後の支えになるのは・・・・やはり仏教か。
 ディオゲネス的出家を目指すか・・・。

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     読み損、観て損、聴き損