1959年大映
119分
本作は未見であった。
これほどの傑作を観ていなかったとは不覚。
小津作品の中ではあまり話題に上ることもないので、失敗作とは言わないまでも、凡作という位置づけなのかと思っていた。
なにより小津作品としては異色ずくめ。
制作はいつもの松竹ではなくて大映。
撮影はいつもの厚田雄春でなくて宮川一夫。
核となる女優陣も、当時大映所属の京マチ子、若尾文子。
小津映画の常連である笠智衆、杉村春子、高橋とよらは出ているものの、芸達者で演技幅の広い後者二人はともかく、松竹ワールドに安住している笠智衆は、大映ワールドから完全に浮いている。
そう、本作の異色性の最たる点は、小津の代表作と世界的に認められ笠智衆&原節子コンビが主役を張る『晩春』『東京物語』『麦秋』の紀子3部作で描かれる世界とは、まったくかけ離れた世界が題材となっているところにある。
『東京物語』より熱海海岸シーン
3部作は、家族の別れや死、世代交代のありさまを禅的なタッチで淡々と描いた、どちらかと言えばもの寂しいドラマで、モノクロ撮影が寂寥感をいや増していた。
この無常観が小津の真骨頂であるのは万人が認めるところであろう。
端的に言うなら、ベクトルが向かっているのは「死」である。
一方、『浮草』で描かれるのは、タイトル通りの「浮草稼業」すなわち旅芸人一座をめぐるコテコテの人情ドラマであり、父と息子の浪花節そのものの切ない交流はあるわ、女の嫉妬が暴走して土砂降りの中の派手な痴話喧嘩はあるわ、純朴青年を誘惑する小悪魔はいるわ、下ネタが飛びかうわ、ねっとりしたキスシーンは頻出するわ、仲間の金品を盗んでとんずらする悪党はいるわ、禅的とはほど遠いドタバタ人間喜劇の様相をみせている。
宮川一夫の美しい撮影は、小津の色彩センスをいやがおうにも知らしめ、あでやかな色調の氾濫が画面に生命力をもたらしている。
くわえて、大映の大部屋役者たちが放つコッテリした庶民性は、小津作品には珍しい猥雑さと毒を醸し出す。松竹制作ではこの味は出せなかったろう。
とりわけ大映の看板女優たる京と若尾の二人は、小津作品に不足していた馥郁とした性の香りをここぞと巻き散らして、画面に艶を与えている。
ベクトルは「生」を向いている。
この作品は、『東京物語』を小津監督の“極北”としたとき、“極南”に位置する傑作と言える。
これは大映で撮って正解だった。
のちに「大映ドラマ」と揶揄されることとなった、えぐ味あるリアリティと現世至上主義を信条とする大映であればこそ、これだけ生命力旺盛な傑作が撮れたのだと思う。
小津映画の俳優たちは、小津の思い描いたデッサン通りの、型にはまった芝居しかさせてもらえなかったと言われる。3部作を観ればその真なることが理解できる。よく言えば“能”的な芝居、悪く言うなら“書き割り”的でつまらない。
が、本作を観ていると、どうもこれはその例外ではないかという気がしてくる。
旅芸人の座長を演じる中村鴈治郎、その連れ合いの女芸人を演じる京マチ子、この2人が実にリアリティある熱い芝居をしている。
土砂降りの中で痴話喧嘩するシーンなど大層な迫力で、アドリブでやっているのかと思うほどである。京マチ子の表情にはぞくっとする。
ラストの停車場での和解シーンの息の合った芝居もたいへん自然であり、作為的な匂いを感じさせない。
小津はいつも松竹でやっているように細かく演技をつけたのだろうが、二人の役者のはちきれんばかりの“生”のパワーは、小津の描いたデッサンにふくよかな肉付けを与えずにはいなかった。
とりわけ、京マチ子はTVドラマ『犬神家の一族』における松子夫人と並ぶ、スクリーンにおける生涯の一本と言える好演。
溝口健二や黒沢明のもとでしごかれ抜いた成果が、小津の作品で開花しているというのも面白い。
若尾文子にかどわかされる純朴青年を川口浩が演じている。
川口浩と言えば、シリーズ全43回に及ぶ人気を博した『水曜スペシャル 川口浩探検隊』(テレビ朝日系で1977年より)で隊長を務め、お茶の間の興奮と失笑をさらった昭和の人気スター。
若き日の川口の清潔感あるイケメンぶりとチャーミングな笑顔にどきっとした。
最初の探検相手は“バロックの秘境”若尾文子だったのか・・・。
『お早う』(1959)で抜群の愛くるしさで大人役者を食った島津雅彦が、本作では役者一座のマスコット的存在として登場する。
一座解散という悲しいシーンで驚くほどの名演をみせて、舌を巻いた。