2018年現代書館
『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』(NHKスペシャル取材班編)の中で、聞き捨てならない発言があった。
海軍きっての国際派だった大井篤元大佐による、戦時中に海軍が行った捕虜や住民に対する虐待についての証言である。
昭和13年かな。サンソウ島事件というのがあって、私はその後行ったんですが、臭くて死臭が。あのサンソウ島に海軍の飛行場を作ったんです。飛行場を作るのに住民が居るもんだから、全部殺しちゃったんですよ。何百人も殺した。我々は捕虜と言っておたんですが、そういうものの人権なんていうのは全く無視しているんですよ。ことに捕虜どころではない市民にまで酷いことをしてるんですよ。サンソウ島に三連空(第三連合航空隊)の飛行場をつくったんですよ。その時も行きました。とにかくもう、あの頃からね、私は満州だとか、日中戦争あの頃がね。あの癖がついたんじゃないかという気が非常にするんですよ。太平洋戦争になると、何であんなに日本の人たちが残酷になったのかと。
サンソウ島事件?
なに、それ?
日本軍のいま一つの知られざる旧悪?
ネットで調べたところ、本書を知った。
副題は『日中戦争下の虐殺と沖縄移民』。
サンソウ島はどこにあるのか?
実はもはや存在しない。
島の周りを埋め立てて陸続きにし、半島になったからである。
中国南東部、南シナ海に面し、香港の南、広東省マカオ特別行政区に隣接する珠海市金湾区に位置している。
台湾(中華民国)からの海上距離は約600km、北緯22度線を台湾の南端と共有している。
年間平均気温22.4度は沖縄とほぼ同じだが、台風がなく、過ごしやすい土地である。
現在、市街地にはホテルや商店や工場が並び、郊外には緑豊かな丘陵が広がる。
近代以前の島民は、海賊に悩まされながらも、米や野菜をつくり、漁を行い、平和裡に暮らしていたようだ。
近代になると、船員になる者や貿易にたずさわる者、北米や南米に仕事を求めて移民する者、海外で成功し華僑となる者などが現れてくる。
三竈島(サンソウトウ)という名前は、島内に三つの大きな竈(かまど)のような岩があることからつけられたそうだ。
現在の中国では「竈」は旧字体で、「灶」と表記する。
google mapより
昭和12年(1937)日中戦争が始まると、満州から破竹の勢いで大日本帝国軍が南下してくる。
太平洋戦争開始の1941年12月までに、天津、北京、上海、南京、徐州、広東、武漢三鎮、香港と主要都市が次々と占領されていくが、その過程の1938年2月に三竈島も海軍支配下に置かれる。
この島のもつ高い軍事的意義が注目されることになる。
周囲が見渡せる海上にあり、中国本土、海南島、香港に近いことから、海軍の航空隊の秘密基地建設に恰好の場所とされたのである。
早くも1938年9月には島内南部に航空基地が誕生している。
前述の大井元大佐の証言は、この飛行場建設にまつわる話なのである。
島の北部のなかほどに魚弄という村がある。現在、そこに通称「千人塚」が建っている。沖縄の亀甲墓のように、山の斜面の一部がおおきく半円状にコンクリートで固められ、その前の広場に、やはりコンクリートで掩われた土饅頭風のものがある。
1938年の4月12日から13日にかけて、この千人塚近くで凄惨な大量虐殺事件が起こっていた。日本軍が魚弄郷とその近隣の住民を関家祠に集め、機関銃で掃射したのである。・・・(中略)・・・この事件は当時の香港の新聞でも伝えられた。日本軍は、「定家湾の陣営をわれわれに襲われたため報復しようとして、もっとも残酷な手段を惜しまず、まったく無抵抗の非武装の民衆をいたるところで惨殺し、憤りを晴らし」ているのだという。そして11日の午後3時ごろに、魚弄郷で男女140余人をしばりあげて関氏の廟に閉じ込め、夜の8時ごろにその郷民を外の空き地に引き出して、つぎつぎと銃殺した。死体は山のように積み上がり、それに火をつけて燃やしたうえで、穴に埋めた。さらに夜の10時には魚弄郷の東頭で民家を焼き、13日には聖堂や草堂の各郷でやはり火を放ち、郷民を殺した。
千人塚は、太平洋戦争終了後の1949年、魚弄村出身の人物が3日にわたって犠牲者の遺体を掘り起こし、埋葬したときのものだという。
大井元大佐の証言にはいささかの誇張があるようだ。
「飛行場を作るために邪魔になった住民を殺した」のは確かであるが、事件のきっかけは、反日ゲリラによって陣営を襲われ22人の仲間を殺された日本軍による報復行動であった。
また、「全部殺しちゃった」という言い回しは島民皆殺しのような印象を与えるが、12,000~13,000人いた島民の大半は、日本軍の侵略前後に家や畑を捨てて島を脱出しており、このとき日本軍に殺されたのは、島に残った反日ゲリラやその疑いをかけられた住民など1400~2000人と推定されている。
生き残った数百人の島民は、飛行場建設をはじめとする土木作業や若い女性の場合は慰安婦として日本軍に使役された。
言うまでもなく、報復行動あるいは反日ゲリラの鎮圧という言い訳で、日本軍の行為が正当化できるべくもない。
島民にしてみれば、日本軍は地獄の使いであった。
住民が一掃された島には、たくさんの空き家と耕地が残った。
そこへ入植してきたのが沖縄移民である。
本書のテーマは、三竈島事件が半分、残り半分は沖縄移民の話である。
戦後に編集された『海外移民の手引き』は、三竈島移民の目的をはっきりとつぎのように説明している。
当時其処には日本海軍航空隊の基地があって、其の食料(米、野菜、豚魚類)の現地補給をさせる目的で、亜熱帯の気候に順応している沖縄人に指定されて入植した・・・。
沖縄県のほうでもまた、増え続ける人口とそれに伴う貧困から海外移民政策を推進していたため、文字通り「渡りに船」であった。
反日ゲリラ活動が沈静化し、航空基地が完成した翌年の1939年9月に第一次移民50名が、40年5月にその家族248名が、那覇からの客船で入島した。
これら移民たちは無人となっていた島民の家屋をそのまま使い、到着後すぐに畑仕事に従事することになった。田んぼのなかから頭蓋骨が出てくることもあった、第一次移民の村の前には、田んぼのなかに土の盛り上がった部分が、最低ふたつぐらいずつあり、草に覆われていたが、その下を探ってみると骸骨の山だった。一ヵ所に30個~50個あったという。・・・(略)・・・あとで中国人に聞いたところでは、日本軍が、残っていた住民に自分たちで穴を掘らせ、日本刀で試し斬りをして埋めたものらしい。三竈島民は勇敢で、島には昔からよく海賊が来たため、 日本軍のときも同じように果敢に立ち向かったものの、さんざんにやられてしまったのだという。
1941年に第二次移民45名、43年10月にその家族142名が入島。
その後、戦況が悪化し、移民政策は中止される。
結局、1945年8月の終戦まで、約500名ほどが沖縄から三竈島に移住したことになる。
ここで留意しておきたいのは、移民の理由は、貧困からの脱出や新天地での新たな可能性の追求というだけではなかった点である。
じつは1927(昭和2)年にそれまでの『徴兵令』を改正して公布・施行された『兵役法』の第42条には、「徴兵適齢及其の前より帝国外の地に在る者(勅令を以て定むる者は除く)に対しては本人の願に依り徴兵を延期す」とあり、海外に出れば実際に、ある程度は徴兵を逃れることができたのである。
とりわけ興味深いのは、「お国のために死ぬ」ことを要請した当時の風潮とはうらはらに、少なからぬ男性移民たちが「徴兵忌避」というはっきりした意図を持っていたことだ。彼らは移民という国策を利用して、「国のために死ぬ」というもうひとつの国策から逃れようとしたのである。
本書後半では、三竈島に移住した沖縄県民の証言や当時の新聞記事や軍の記録をもとに、移民のあらましや島での生活、島民との交流が、具体的に描き出される。
なにせ半世紀以上も前の昔のこと。困難な調査や取材をやり抜いた著者たちの根気と熱意と体力に敬意を表したい。
概してこういった国策による移民譚は、旨い話ばかり前もって喧伝され、「聞いて極楽、見て地獄」となることが多い。
が、三竈島の場合は、住む家も畑もすでに用意されて、果実や川や海の魚介類は採り放題、山には野生の豚もおり、飢える心配はまったくなかった。
気候は沖縄より涼しくて台風がない。
学校や診療所もあった。
主戦場が太平洋に移ったこともあって、終戦まで大きな戦禍にあうこともなかった。
「沖縄に帰りたくなかった」「行ってよかった」など好印象を持っている人が多い。
証言者の多くは当時子供だったので、移民の苦労をあまり肌で感じなかったこともあろうし、また、島に残り日本軍や移民のために働かされた原住民の思いを汲み取るには幼かったこともあろう。
情報の真空地帯におかれた移民たちは、玉音放送を聴くまで、「日本が勝っているか負けているか」もわからなかったという。
「運が良かった」と言っても言い過ぎではなかろう。
島での暮らしが良かったことは、戦後何十年も経ってから、かつての移民たちが互いの消息をたどり、「三竈島・友の会」を作ったことからもうかがえる。
また、かつての島民との交流も続き、香港の島民同郷会に顔を出したり、島民を沖縄に招いたりしてきた。
軍人や官僚はともかく、庶民同士は国籍や文化や言語の違いを超えて、心を通い合わせる、あるいは過去を水に流すことができたようである。
最後に――。
日本軍がおこなった残虐行為である南京事件が広く知られている一方、三竈島事件はなぜこれまで歴史の闇に埋もれていたのか?
日本軍や日本政府が隠蔽したがるのは想定内だとしても、中国共産党なら、日本軍の旧悪を持ち出して、ここぞとばかり政争の具に用いそうなものではないか?
中国共産党にはそれができない理由がある。
1945年8月日本が敗北し、日本軍や移民たちは島から追い出された。
各地から島民が戻ってきた。
やっと故郷で平和に暮らせる、と思ったらとんだ大誤算。
日中戦争の間は共同戦線を張っていた毛沢東共産党と蒋介石国民党はふたたび権力闘争を開始し、各地で激しい戦闘が起こった。
三竈島も内戦に巻き込まれた。
島民たちはまず、大陸から撤退してきた国民党軍に蹂躙され、その後共産党軍による激しい弾圧を受けることになる。
反共分子とみなされた人々にたいする徹底的な弾圧は、そのころ中国全土で繰り広げられており、三竈島だけの特別なものではない。ただし三竈島の場合は、島を封鎖し、飛行場を中心とする軍事施設のために住民を殺し、危険とみなされた住民を大量に殺害した。これはまさに、かつて日本軍が行っていたことと同じだ。1951年12月27日付の『香港工商日報』は島の状況を、「日本軍が占領していたときよりもさらに残酷である」とさえ述べる。
日本軍と国民党と共産党。
三つの竈で焼き尽くされた挙句、三竈島は地図上から姿を消した。
日本海軍が作った滑走路は、現在、軍民共用の珠海金湾空港として使用されている
(画像はウィキペディア『珠海金湾空港』より転載)
(画像はウィキペディア『珠海金湾空港』より転載)
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