2016年河出文庫

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 『被差別文学全集』の姉妹編で、刊行はこちらが先である。
 被差別部落に関係した小説を集めて編んだ意義を、塩見は次のように述べている。

 戦前の社会がどのような差別意識を持っていたのかを明らかにしようとした。いまなお無意識に同質の感性を引きついでいないかどうかも検証したかった。
(『被差別文学全集』あとがき)

 一口に「戦前」と言っても、明治の文明開化から日中戦争直前まで約70年もの歳月があり、時代時代によって、被差別部落に対する社会=世間一般の意識のあり方はかなり異なる。
 部落解放の大まかな歴史に添って本作に収録されている11の作品を年表化すると、次のようになる。
  • 1867 明治維新
  • 1871 解放令・・・穢多非人という呼称が公的に廃止されるが、代わって「新平民」と区別化
  • 1874 板垣退助らによる自由民権運動
  • 1896 『藪こうじ』(徳田秋声)、『寝白粉』(小栗風葉)
  • 1899 『移民学園』(清水紫琴)
  • 1906 島崎藤村『破戒』発表、『山国の新平民』
  • 1917 『鈴木藤吉郎』(森鴎外)
  • 1920 『因縁事』(宇野浩二)
  • 1921 『火つけ彦七』(伊藤野枝)
  • 1922 全国水平社設立、日本共産党結成、『特殊部落の犯罪』(豊島与志郎)
  • 1923 関東大震災、福田村事件
  • 1934 『関東・武州長瀬事件始末』(平野小剣)、『骸骨の黒穂』(夢野久作)
  • 1935 『黎明』(島木健作)
 たかだか11編の小説から一般化する拙速を承知の上で言うが、やはり、藤村『破戒』(1906)と全国水平社設立(1923)、この二つが分水嶺となっている。これらの前後で、被差別部落に対する作者の眼差し――それは結局読者(=世間)の眼差しと重なるところ大である――が、変化しているように感じられた。

 『藪こうじ』、『寝白粉』、『移民学園』は文語体(雅俗折衷体)で書かれており、文語に慣れていない身にとって読み難いことこの上ない。
 が、七五調のリズムを基にした日本語の美しさ、語彙の豊かさを感じる。
 前2編は江戸時代の戯作文学の名残が強く、被差別部落や部落民に対する因果見世物的、煽情的なニュアンスが濃い。文章は美しいが、差別小説の悪名は免れまい。

 『破戒』以後に書かれた『鈴木藤吉郎』、『因縁事』、『火つけ彦七』の3作は、部落差別の理不尽なること、不当なることを前提に書かれている。
 鴎外『鈴木藤吉郎』は、鈴木藤吉郎という江戸時代の実在の人物が講談『安政三組盃』において「穢多であった」と語られていることについて、「それは間違いだ」ということを立証する話。鴎外は、藤吉郎の親戚の男に頼まれてこれを書いたのであるが、念の入った調査・取材を経ての藤吉郎の生涯や事績を綴った最後にこう記している。

 三組盃は藤吉郎を以て穢多の裔(すえ)となした。穢多の裔たるは固(もと)より辱とするに足らぬが、其説には何の根拠もない。(ゴシックはソルティ付す)
 
 鴎外の高潔さが伝わる一文である。
 『因果事』は部落出身の老女による身の上話、『火つけ彦七』は部落差別に対する世間への怒りから放火犯罪を起こす男の話。いずれも差別の理不尽さや差別を温存する社会の歪さを、差別される当事者の視点から描いている。
 映画『眼の壁』の記事にも書いたが、不当に社会に虐げられている者の犯罪に流れることに何の不思議あるか!
 
 全国水平社設立後の4編のうち、夢野久作『骸骨の黒穂』は被差別部落ではなく山窩(サンカ)がテーマである。
 『関東・武州長瀬事件始末』の平野小剣は、自身部落出身者で全国水平社設立の発起人の一人。いまや当事者らが連帯して組織を立ち上げ、自ら発信媒体をもち、差別解消を社会に訴える時代となった。
 『黎明』は、共産党の息のかかった農民運動に献身している都会出身の青年が、地方の農村に派遣されてオルグ活動する中で部落問題に直面する話。すでに部落差別が解決すべき社会問題として認識されていることが読み取れる。
 
 こんなふうに、ある一つのテーマを小説(文学)という媒体を通じて経時的に追っていき、そこから時代ごとの社会の価値観、世間一般の意識のあり方を検証していくのは、実に興味深い。
 70年という歳月で、ずいぶんと社会は変わるし、世間一般の価値観も変化するものと実感する。
 平成生まれが、昭和生まれのオヤジたちを煙たがるのも無理はない。

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 単純に小説としての面白さで言うなら、『移民学園』と『黎明』が抜きんでていた。
 『移民学園』は、世間の憧憬と羨望を集める容姿端麗なる内閣大臣令夫人が、実は被差別部落の出身で、夫人は長いこと疎遠になっていた父親の病床に駆けつけて、そこではじめてそれを知るという話。
 それだけなら、同じ時期に書かれた『藪こうじ』や『寝白粉』と変わらぬゴシップ風のキワモノ小説の域を出ない。
 本作の驚くべきところは、真実を知った夫人はそれを否定したり隠したりすることなく、物心つかないうちに離れた生まれ故郷の部落にとどまって父親の看病を申し出る。(父親はむろん反対する、どころか数年ぶりにあった娘を否認する。このあたり『砂の器』の加藤嘉の名演を想起する)
 壁に耳ありクロード・チアリ、人の口に戸は立てられず、夫人の出自はまもなく世間に知れ渡る。すると、あろうことか、夫は大臣を辞職し、夫人とともに北海道に移住して移民学園を設立し、移民の子供たちの教育事業に身を捧げる。
 これが、『破戒』の7年前に発表されていたことに驚いた。
 口語体の長編で写実小説として書いていたら、『破戒』を凌駕する衝撃作かつ傑作となったのではなかろうか。
 作者の清水紫琴は、福島から上京し女学校の教壇に立つかたわら自由民権思想に共鳴し、女権拡張運動をしていたという。結婚して農学者の夫に執筆を禁じられ、本作を最後に筆を折ってしまった。つくづく残念。
 この小説、原節子か高峰三枝子主演で木下惠介あたりに映画化してもらいたかったな。

 『黎明』の面白さは、農民運動を進めるべく田舎の村にやって来たやる気満々の都会の青年が、ひどい差別を受け陋劣な環境に置かれている部落民の男と知り合い、交流を深めていく様を描いている点にある。
 はじめて部落を訪れた青年は、男の粗末な家に上がり、その家の茶碗でその家の飯を食う。
 すると部落の男は驚愕し、涙を流して喜び、以後青年を慕うようになる。
 今となっては紋切り型のエピソードという誹りは免れないかもしれないが、裏返せば、当時の世間の部落民に対する扱い、及び自己卑下せざるを得ないまでに世間によって貶められた当事者の心境がよくわかるくだりである。
 本作の結末はいたって悲しいもので、青年の立派な志しは挫折する。
 当事者でない外側の人間が、当事者に代わって解放運動を進めていくことの難しさを痛感させる物語である。
 だが、本作の一番の良さは、これが「他者との邂逅」「未知との遭遇」を描いている点に尽きる。
 つまるところ、ソルティにとっての小説の醍醐味、面白さはそこにある。

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Janos PerianによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損