2023年日本
144分

 とにかく暗い、とにかく重い、とにかく気が滅入る。
 スペインのホラー映画のようなこの暗さはただごとではない。
 実際、藪の中をうごめく蛇がでてきたり、雷鳴とどしゃぶりが不穏な空気をあおったり、暗闇を懐中電灯の光が跳ねたりと、ホラー映画の常套手段がそこかしこに使われている。
 いったい知的障害者施設の虐待の実態を描くのになぜホラー仕立てにするのか・・・という疑問と不快がつきまとう。
 愛児を失った夫婦(宮沢りえとオダギリジョー)、障害者施設で働く職員(磯村勇斗、二階堂ふみ、モロ師岡ほか)、職員の家族(鶴見辰吾、原日出子)、マンションの管理人など、登場する人間がみな病んでいる者ばかりで、交わされる会話も異様に毒々しく、施設に収容されている障害者のほうがまともに見える。
 出だしからずっと陰々滅々で、「これが現実です。現実から目を背けるな。」という正論を盾に、知的障害者施設とそこで働く職員のイメージを悪化させようと過剰な演出であおっているとしか思えない。 
 高齢者の介護施設で働いていたソルティ、不快感から途中退席しようかと思ったが、主演の宮沢りえとオダギリジョーの演技の深みに惹かれて、そのまま見続けた。

 磯村勇人演じる職員のサト君が、思いつめた表情で、「生産性のない人間は生きている資格がない」と呟いた瞬間、「ああ、これはそういう話だったのか!」と遅まきながら気がついた。
 ソルティは、宮沢りえ主演の障害者ストーリーで公開が困難を極めた、という事前知識だけをもって、スクリーンの前に座ったのである。
 むろん、辺見庸が2017年に発表した同名の原作も知らなかった。
 なるほど、この暗さも、重さも、陰々滅々も、あの事件の衝撃と悲惨を思えばわからなくもない。
 本作は、2016年7月26日に相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた入所者大量殺傷事件に取材したもので、サト君のモデルこそは植松聖だったのである。

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Oscar Chavez MendozaによるPixabayからの画像

 生産性のない人間、人と会話することのできない(心を持たない)人間、社会のお荷物になるだけの人間に生きる意味はあるのか?
 生かしておくだけ可哀想ではないか?

 その問いにはっきりと、「いや、違う。生きていること自体に意味がある。生産性で人の価値は測れない。」と、この社会が断言できないのは、出生前診断で胎児になんらかの障害が見つかったとき、90%近いカップルが中絶を選択しているという現実があるからだ。
 宮沢りえとオダギリジョー演じる夫婦が、第2子の妊娠を知った時に出産するかどうか思い悩むのも、欠陥を持って生まれ、3年間でこの世を去った第1子のことを思うからである。
 高齢出産の妻は思う。「生まれてくる子供が障害を持っていたら、当人も自分もあまりに辛いから、中絶しよう。」
 90%の人間がやっていること。その選択を責めることは誰にもできない。
 しかし、妻は知的障害者施設でサト君と一緒に働いている。
 「生産性のない人間に生きる資格はない」というサト君の言葉を、妻は必死に否定するが、自らの中のダブルスタンダード(矛盾)と向き合わざるを得なくなる。

 宮沢りえ、オダギリジョー、磯村勇斗が素晴らしい。
 この三人で主演、助演賞総なめしてもおかしくはないほどの渾身の演技。
 宮沢りえの内面を深く掘り下げて表出する芝居は、若い頃の十朱幸代を彷彿とさせる。
 今や、この人を美人女優というのはかえって失礼だろう。
 芸はルックスを超越している。(ああ、吉永小百合!)

 オダギリジョーは表情が素晴らしい。
 生活力のない芸術家肌のやさしい夫という役を、絶妙な表情によって肉体化している。
 妻の妊娠および中絶の意向を思いがけず他人から知らされる場面(家飲みシーン)の表情には、どきっとした。

 磯村勇斗という役者のことは知らなかった。
 仮面ライダーシリーズの出身らしく、なかなかのイケメンである。
 神木隆之介にちょっと似ているなあと思いながら観ていたが、ひょっとして演技力は神木以上かもしれない。
 タイトルの『月』とはルナティックすなわち「狂気」のことであろうが、磯村はサト君がだんだんと狂気にはまっていく過程をリアリティもって演じている。
 一見、人あたりのいい真面目で優しい青年が内に抱える強い自己否定――それが次第に膨れ上がり、周囲が気づくほど外に姿を現し、反転して社会否定となり、一線を超えて暴発する。
 実在の人物をモデルとした難役にこれだけの説得力を与え得る力量は、磯村が今後相当な役者になり得る可能性を示唆してあまりない。

 チョイ役だが、入所している障害者の母親役で出ている高畑淳子はさすがに上手い。

 平成史に残る凶悪事件を描いているので後味が良くないのはある面仕方ないと思うのだが、そればかりでなく、本作がどうも釈然としないのは、テーマが分散しているからと思う。
 前半の知的障害者施設の虐待実態と、後半の狂気の大量虐殺事件と、どっちが書きたいのか、どっちを訴えたいのか?
 この接続の仕方だと、サト君が「障害者の命を奪って、酷い境遇から解放してあげました」というある種のヒーローのような持ち上げ方を許してしまう。
 一部の知的障害者施設で実際に起こっている虐待の実態および職員の精神的荒廃と、サト君=植松聖の異常なパーソナリティは分けて考えるべきこと、少なくとも一つの作品の中で両者を同時に同じような重さで語るのは無謀――とソルティは思う。(現実とフィクションの区別のつかない幼稚な鑑賞者が、「やまゆり園は入所者に虐待を行っていた」と早とちりしてしまうリスクは抜きにしても)
 
 施設の中では、職員と入所者の間の心安らぐ交流や楽しい時間はあるはずだし、本人がどんな状態であろうと、たまに見舞いに来る家族(高泉淳子演じる母親のような)にとって「子供は宝」であることは、日頃近くで見聞きしている職員なら知りえたはずである。
 そのような光景に意味を見出せないサト君(植松聖)の心の荒廃あるいは空虚、そして生産性のない人間は(神に代わって)自分が始末してもいいとする麻原彰晃のような誤った全能感、それこそが問題にされるべきであろう。
 つまり、遠藤周作の『海と毒薬』のように、最初から加害者のパーソナリティや半生に焦点を当てた作品にすべきではなかったか。
 
 本年一番の問題作であり、病者や障害者のケアに関わる者なら観ておきたい作品であることは間違いない。

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池袋シネマ・ロサで鑑賞
上映期間は短そう


  
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損