2006年文藝春秋新書
著者は昭和2年(1927)群馬県山田郡矢場川村(現・栃木県足利市)生まれ。数え17歳(満15歳)のとき自ら志願して従軍。昭和19年7月、海軍通信兵として硫黄島に派遣された。
本書は、クリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』、『父親たちの星条旗』で鮮烈に描かれた、およそ3ヶ月間にわたる日米硫黄島決戦の模様を、重傷を負いながら辛くも生き残った一兵士が記した体験記である。
硫黄島では、21,000人余の日本兵のうち、祖国に生還できたのは20人に1人であった。
映画を先に観ていたので、大洋に囲まれた硫黄島の地形や摺鉢山を最大標高とする岩だらけの地表の風景、地下に張り巡らされた日本軍の基地や塹壕の様相、死体が累々と積み重なる凄まじい戦闘の光景を思い浮かべながら、読むことができた。
まさに生き地獄である。
著者は巻末の「謝辞」にこう記している。
地下壕の中での生活は、人間界の極限に挑戦しており、いかなる文字を並べてもその実情に迫ることは不可能である。生還者の手記をすべて合わせても描写しきれないだろう。
戦況の解説や被害状況の概要なぞ、無駄に挙げる必要はない。
本書はただ読んで、実際は、ここに書かれていることの数十倍も数百倍も凄惨だったのだと思うよりない。
二つだけ印象に残ったことを述べる。
一つは、日本とアメリカの圧倒的な軍事力の差、つまり国力の差。
戦艦や戦車や航空機や爆弾や銃といった兵器の問題だけではない。投入できる兵士の数、食糧や建築材など輸送できる物資の量が半端ない。
日本軍を蹴散らして上陸した浜辺に、船から運び出したブルドーザーと資材でわずか数日のうちに兵士が寝泊まりできる小屋を建ててしまう機動力。
その格差のさまは『硫黄島からの手紙』でも、日本軍が立て籠もる島を幾重にもとり囲み、そのまま水平線まで連なるような軍艦の列という形で、視覚的に表現されていた。
あたかも、幼稚園児がプラスチック製のおもちゃの刀を持って、暴力団事務所に殴り込みをかけるみたいな話で、「なんでこんな無益で無茶な闘いを・・・」とため息を漏らさずにはいられない。
もう一つ、やはり「謝辞」の中の文。
死を覚悟して敵前に身をさらし、爆弾や鉄砲弾による直撃弾などで戦死する者の多くは「天皇陛下万歳!」と一声上げて果てた。重傷を負った後、自決、あるいは他決で死んでいくものは「おっかさん」と絶叫した。負傷や病で苦しみ抜いて死んだ者はからは「バカヤロー!」という叫びをよく聞いた。「こんな戦争、だれが始めた」と怒鳴る者もいた。
以前、ホスピスでボランティアしていた時のこと。
日中戦争で満州に派遣され、その後ロシア軍の捕虜となって戦後までシベリア抑留されていた男性がいた。
90歳のHさん、視力を失っていた。
90歳のHさん、視力を失っていた。
部屋に訪れるたびに、ツバキを飛ばしながら、シベリア時代の話をよくしてくれたが、いつも必ず言うセリフがあった。
『だけどさ。みんな、死ぬときは『天皇陛下万歳!』なんて言う奴ャ、一人もいなかったよ。みんな、最後に「おかあさーん」って言って死んでいったよ』
玉砕覚悟で敵前に身をさらす者は、気をひき立てるために、あるいは自らの死に少しでも意義を見出すために、「天皇陛下万歳!」と叫んだのだろう。
Hさんのいた抑留地では、もはや玉砕しようがなかった。
だからみんな、「おかあさーん」だったのだ。
Hさんも、著者の秋草氏も、よく生き残ったと思う。(シベリア抑留では、約57万5千人の日本人捕虜の10人に1人が亡くなっている)
2人の話に共通すると思われるものは、「生きたい」という強い意志、周囲の状況を素早く見抜いて行動する賢さ、そして運の良さ。
Hさんは2018年に亡くなった。
秋草氏もまた同じ年に90歳で世を去った。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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