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日時 2024年1月8日(月・祝)14:00~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(豊島区)
曲目
  • フランツ・シュレーカー: 『あるドラマへの前奏曲』
  • グスタフ・マーラー: 交響曲第10番(クック版)全曲
指揮: 寺岡 清高

 新春一発目のコンサートは、モーツァルトかドヴォルザークあたりの比較的軽めの景気のいい曲を選びたい、と思うのはごく当然の人情だろう。
 とくに今年は年明けから大事件続きで、気分が滅入りがちなのだから。
 予定では、1月7日の和田一樹指揮による豊島区管弦楽団ニューイヤーコンサートに行くつもりだった。
 J.シュトラウスのウィンナーワルツ、『ハリーポッターと賢者の石』組曲、ドヴォルザーク交響曲第8番というラインナップは、まさに新しい年を華やかに希望をもってスタートするにふさわしい。
 だが、7日午前中の高尾山初詣のあとに寄った麓の温泉で、湯上りについ生ビールを頼んだのがいけなかった。
 最近はほんの少しのアルコールでも眠くなってしまうソルティ。
 もはや、午後からのコンサートに行く気力は残ってなかった。

 かくして、事前にチケット予約していた本コンサートをもって、すなわちマーラーの10番という、あらゆる交響曲の中でも屈指の悲嘆さと落ち込み誘発力をもつ曲をもって、2024年を始めることになってしまった。

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東京芸術劇場

 案の定、寺岡清高の指揮棒が下りた全曲終了後、広い会場を揺るがす喝采をよそに、ソルティは座席に深く沈んだまま、固まった。
 前回、齊藤栄一指揮×オーケストラ・イストリアの演奏で10番を聴いたときは、終演後約3分間拍手に加われなかった。
 今回はまるまる5分間、体が動かなかった。
 曲の表現する“世界”に捕まってしまい、そこから抜けられなかった。
 暗、鬱、狂気、破壊、悲哀、郷愁、死の受容、諦念・・・・といった“世界”に。

 この10番には、マーラーの1番から9番までの交響曲と『大地の歌』をはじめとする歌曲のすべてが、断片的に織り込まれているような気がする。
 あっ、ここは1番の第2楽章、ここは4番の第2楽章、ここは5番のアダージョ、ここは『大地の歌』の一節・・・・といったふうに、マーラーの作ったすべての動機が、マーラーの様々な表情が、つまりはマーラーという芸術家を構成する要素が、ゲームセンターのモグラたたきのように、入れ替わり立ち替わり、顔を出しているように思う。
 ユダヤ的郷愁に包まれた幼年時代、恋も仕事もイケイケの青春時代、アルマとの甘美な性愛、自然の癒し、向かうところ敵なしの成功街道、子供の死、精神の危機、神への懐疑・・・・いろんな場景の描かれたスケッチ帳をめくるが如く。
 その意味で、9番同様、「ザ・マーラー総集編」といった趣きなのであるが、10番において重要なのは、次々と繰り出されるどの要素も、みな当初の形から“変異”しているという点である。
 どの要素も、どのスケッチも、黒く縁取りされて、死の影がまとい、悪魔の哄笑が響き、破壊の槌音に苛まれている。
 それはあたかも、自ら構築した世界をメタ化しているかのよう。
 自らの人生をカッコに括って、外から見て、嘲笑し慨嘆し破砕しているかのよう。
 マーラーよ、そこまで自虐的にならなくても・・・・。

 ひょっとしたら、この10番を作っている最中に、マーラーが精神分析の創始者であるフロイトと知り合って、精神分析という方法を知ったことが、曲づくりに影響を及ぼしたのではなかろうか?
 表面に現れている現象の奥に、当人が自覚できない無意識の流れがあるという精神分析の基本コンセプトが、マーラーをして自らの人生ドラマを「メタ化」せしめたのではないか。
 そんな妄想を起こさせるような、容赦ない自己分析、自己嗜虐である。
 あるいは、この全曲版が(第1楽章をのぞけば)マーラー自身の手によってではなく、音楽学者クックという他人の手によって編まれたことが、そのような印象を与えるのかもしれない。
 マーラーが最終的に想定していた形とは、異なった仕上がりになっている可能性もあるかも。
 いずれにせよ、聴く者の精神状態が安定している時でないと、聴くのはきつい曲である。

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HeungSoonによるPixabayからの画像

 フランツ・シュレーカー(1878‐1934)は、20世紀初頭にウィーンやベルリンで活躍したオペラ作曲家である。
 入口で配布されたプログラムによると、今回演奏された『あるドラマへの前奏曲』という曲も、自作台本のオペラ『烙印を押された者たち』の前奏曲として準備されたらしい。
 ワーグナー、マーラー、シェーンベルクの影響を思わせる官能的でキメの細かい見事なオーケストレーションと、オペラ作曲家としての手腕を感じさせるメロディアスな部分が光っている。
 こんな才能ある作曲家が埋もれたのは、なにゆえ?
 それはシュレーカーがユダヤ人だったから。
 すなわち、ナチスによって「退廃音楽」とレッテルを貼られ、否定され、戦後の復権を待たずに世を去ってしまったから。
 運に恵まれない音楽家だったのだ。
(いや、ヒトラーが政権を握る前に亡くなったのは恵まれていたのか)

 1918年に初演されたオペラ『烙印を押された者たち』は、ストーリーのあらましだけ読むと、かなりエロくてエグイ。
 江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』とアンドルー・ロイド・ウェバー作曲の『オペラ座の怪人』をミックスしたような感じ。
 つまり、孤独で醜い男の恋と破滅の物語である。
 そもそも、シュレーカーに「醜い男の悲劇」を書いてほしいと依頼したのは、同じ作曲家仲間のツェムリンスキーだった。
 ツェムリンスキーはその不細工ゆえに、付きあっていた女性に振られてしまったが、それが相当のトラウマになったことは、彼の手になる交響詩『人魚姫』からも推測される。
 その女性こそ、マーラーの妻となったアルマ・シントラーであった。
 ツェムリンスキーもまた、マーラーに負けず劣らず自虐の人だ。
 
 いや、マーラー10番から一年を始めたソルティも、十分自虐派の一人だ。  

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喝采を浴びる新交響楽団と寺岡清高