2011年原著刊行
2014年紀伊國屋書店(訳:藤井留美)
原題は、Who’s in Chage ? Free Will and the Science of the Brain
すなわち、「責任」と「自由意志」に関わる脳科学の話である。
著者のガザニガは、1939年アメリカ生れの認知神経科学の第一人者。てんかん治療のため右脳と左脳をつなぐ脳梁を切断した分離脳患者を対象に、さまざまな実験を行い、脳の右半球と左半球の働きの違いについて、驚くような新事実を次々と発見したことで知られる。
物書きとしての才能も高く、脳科学の最先端がどのようなものかを、難しい専門用語を並べることなく、一般読者にわかりやすくユーモアをもって伝えてくれる。
ソルティのような科学オンチの文系にはありがたいことこの上ない。
ソルティのような科学オンチの文系にはありがたいことこの上ない。
が、やっぱりそれでも難しい。
難しいけど、面白い。
第1章から第3章は、脳科学の誕生から語り起こし、それが生物学や人類学や物理学や精神医学など他の分野における新しい発見と関連し合って、凄まじい進歩を遂げてきた様子が描かれる。
すべては20世紀に起きたことで、ほんの1世紀あまりで、最後の未開地と言われるヒトの脳が急速に解明され、人間の様々な機能や行動の背景をなす科学的要因が明らかになりつつある。
動物と違うヒトの特異性が、科学的に裏付けられるようになったのである。
遺伝子の強力な制御のもとでけたはずれに発達し、後天的要因(遺伝子に異なったふるまいをさせる遺伝以外の要因)と活動依存的学習で磨きをかけられた結果が、いまここにいる私たちである。行きあたりばったりとは対極の構造化された複雑な仕組みを持ち、高い自動処理能力と、制約付きながら優れた技能、それに広範囲に応用できる能力を発揮できる脳は、つまるところ自然淘汰のなせるわざなのだ。私たちが持つ無数の認知能力は、脳のなかでの担当領域がきっちり線引きされており、もちろん神経ネットワークや神経系も領域によって異なっている。そのいっぽうで、同時並行処理が行われる複数の神経系も脳のあちこちに配置されている。制御系は単一ではなく、複数あるということだ。自分が何者かという意味づけはそんな脳から生まれているのであって、外からの働きかけに脳が従っているのではない。(本書より引用、以下同)
ね、難しいでしょ?
難しいけど、面白そうでしょ?
ソルティが面白いと思う最たる理由は、脳科学が進歩するにしたがって、脳が遺伝子に強く制御されていることが明らかになり、われわれ人間の感覚や感情や思考や行動のほとんどが、意識下において、“生化学的に、神経科学的に、物理学的に”コントロールされていることが自明の理となりつつあるからだ。
つまり、人間はあらかじめプログラミングされたロボットに近く(というより、結局ヒトも本能で生きる動物と変わりなく)、自由意志は幻想だという不都合な真実。
自由意志が幻想ならば、「わたし」という意志決定者もまた幻想なのか?
この問いが、諸法無我を説く仏教と通じるものがあり、仏教徒であるソルティの好奇心を掻き立てるのである。
さらに、脳科学の進歩によって、自由意志に対する懐疑とともに強く主張されるようになったのが、決定論(因果説)である。
決定論とはそもそも哲学上の概念で、人間の認知、決定、行動も含めた現在と未来のすべてのできごとや活動が、自然界の法則に従った過去のできごとを原因として、必然的に発生しているというものだ。どんなできごとも活動も予定されているのなら、すべての変動要因がわかっていれば予測も可能になる。
宇宙も世界も人間もアルゴリズムにしたがって動いているだけであって、「すべての出来事はあらかじめ決まっている」という、なんとも無味乾燥な、人間の努力や希望を嘲笑うかのような説(=運命論)である。
決定論をYESとするなら、当然、自由意志や自己決定は存在する足場を持たない。
意志決定する「わたし」は幻想である。
相対性理論のアインシュタイン、「利己的な遺伝子」のリチャード・ドーキンス、哲学者のスピノザなどが、決定論者の代表格らしい。
しかしながら、本書によれば、現在ではむしろ、決定論は旗色が悪いという。
というのも、決定論の後ろ楯となっているのは、〈1+1=2〉となるニュートン物理学の鉄壁の法則なのであるが、現代科学はもはや〈1+1=必ずしも2ならず〉を知ってしまったから。
それが、カオス系であり、量子力学であり、創発である。
創発とは、「個々の要素の総和では予測できない新しい性質を、システム全体が獲得する」こと。そこでは、1+1が10だったり100だったり10万だったりする。
決定論が否定されるのなら、自由意志の存在も可能と主張できる。
つまり、2つの立場がある。
A 決定論NOならば、自由意志YES
→「未来は決まっていない。なので、ヒトは自由に決定できる」
→「未来は決まっていない。なので、ヒトは自由に決定できる」
B 決定論YESならば、自由意志NO
→「未来は決まっている。だから、ヒトは自由に決定できない」
→「未来は決まっている。だから、ヒトは自由に決定できない」
決定論と自由意志については、『自由意志の向こう側』(木島泰三著)という本を別記事で取り上げたことがある。
そこでは、現在、下記のいずれかの立場に拠って、研究者たちが議論を闘わせているとあった。
- 自由意志原理主義(リバタリアン)・・・・自由意志はある!
- ハード決定論(因果的決定論)・・・・自由意志はない!
- 両立論・・・・1と2は両立できる
1と2はそれぞれ上のAとBに該当する。理解は難しくない。
しかるに、3の両立論とはなんぞや?
と、ソルティは頭を悩ませたのであった。
しかし、よく考えると、決定論と自由意志の有無は必ずしも連動しているわけではない。
この世界が決定論で成り立っているか否かの問題と、ヒトの自由意志は幻想か否かの問題は、分けて考えることができる。
つまり、
C 決定論YESだけど、自由意志YES
→「未来は決まっている。されど、ヒトは自由に決定できる」
→「未来は決まっている。されど、ヒトは自由に決定できる」
D 決定論NOだけど、自由意志NO
→「未来は決まっていない。そして、ヒトは自由に決定できない」
→「未来は決まっていない。そして、ヒトは自由に決定できない」
という組み合わせも想定することができる。
さすがに、Cの説を唱えるのは無理があるけれど、Dは選択肢としてあり得る。
ガザニガはどうやら、Dの立場を取る「両立論者」のようだ。
こう言っている。
脳は自動的に機能していて、自然界の法則に従っている。この事実を知ると元気が出てくるし、もやが晴れたような気持ちになる。なぜ元気が出るかというと、自分たちは意思決定装置だと確信できるし、脳が頼りになる構造だとわかるからだ。そしてなぜもやが晴れるかというと、自由意志という不可解なものが見当違いの概念だとわかったからだ。それは人類史の特定の時代に支持されていた社会的、心理的信念から出てきたものであり、現代科学の知識が背景にないだけでなく、矛盾さえしている。(ゴチはソルティ付す)
仏教語に翻訳するならこうだ。
「諸法無我だが、因果は見抜けない」
本書の白眉は第4章である。
ここでは、自由意志は幻想であるにも関わらず、「なぜ我々は、自由意志があると錯覚するのか?」を解説している。
なんとその原因は、左脳にあるインタープリター・モジュールのせいなのだという。
私たちは無数のモジュールから構成されているのに、自分が統一のとれた存在だと強烈に実感しているのはなぜか? 私たちが意識するのは経験というひとつのまとまりであって、各モジュールの騒がしいおしゃべりでない。意識は筋の通った一本の流れとして、この瞬間から次の瞬間へとよどみなく、自然に流れている。この心理的統一性は、「インタープリター」とよばれるシステムから生じる経験だ。インタープリターは、私たちの知覚と記憶と行動、およびそれらの関係について説明を考えだしている。それが個人のナラティブ(語り)につながり、意識的経験が持つ異なる相が整合性のあるまとまりへと統合されていく。混沌から秩序が生れるのだ。あなたという装置に亡霊は入っていないし、謎の部分もない。あなたが誇りに思っているあなた自身は、脳のインタープリター・モジュールが紡ぎだしたストーリーだ。インタープリターは組みこめる範囲内であなたの行動を説明してくれるが、そこからはずれたものは否定するか、合理的な解釈をこしらえる。インタープリターは、ずっと私たちを陥れてきた。自己という幻影をこしらえ、私たち人間は動作主体であり、自分の行動を「自由に」決定できるという感覚を吹きこんだ。それはいろいろな意味で、人間が持ちうる建設的かつ偉大な能力だ。知性が発達し、目前のことだけにとらわれず、その先に広がる関係を見ぬく能力が磨かれたヒトは、ほどなくして意味を問いかけるようになる――人生の意味とは何ぞや?
インタープリター・モジュール――これが「わたし」の正体というのである!
ここまで脳科学が進んでいるとは驚きである。
この説が正しいのであれば、諸法無我を「悟る」とは、左脳の働きが一時的に停止する状態で起きた、右脳単独による世界認知をいうのではなかろうか?
そう言えば、脳卒中で左脳の機能の大半を失った医師の手記(ジル・ボトル・テイラー著『奇跡の脳』)があったっけ。彼女はまさに「悟った」人であった。
ソルティがやっている「悟りに至る瞑想」といわれるヴィパッサナー瞑想とは、ひょっとしたら、「いま、ここ」の現象を実況中継し続けることで左脳を疲れさせて、一時的にシャットダウンさせる裏技なのではなかろうか?
それを忍耐強く続けること(=修行)によって、インタープリター・モジュールを黙らせる新しいモジュールを脳内に作り上げるテクニックなのではなかろうか?
自由意志の有無の問題は、責任の所在の問題へとつながる。
ヒトに自由意志がなくて、すべてが脳のアルゴリズムの結果であるのなら、個人が犯した罪を問うことはナンセンスじゃないか。犯罪者に責任を取らせるのは不合理だ。
――そういう議論が成り立つ。
実際にその論拠をもとに、罪を犯した者に必要なのは「処罰でなくて更正」と提言しているデイヴィッド・イーグルマンのような研究者もいる。(別記事『あなたの知らない脳』参照)
第6章では、この問題に対するガザニガの見解が述べられている。
ヒトの社会というものが、単体の脳ではなく、複数の脳からできている事実を踏まえ、脳と脳との相互作用から生じる「創発」に着眼しているところが面白い。
脳の働きを単体として見るのではなく、人類という「種」のレベルで、つまり、「人類の脳」という観点からとらえているわけだ。
あたかも、ユングの集合意識あるいは唯識論の阿頼耶識みたいな話で、難しいけど面白い。
本書の刊行は2011年。
もう10年以上が過ぎた。
その間も脳科学は進んでいるはず。
今はどこらにいるのやら?
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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