2010年笠間書院

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表紙は、西原祐信画・藤原為時像

 NHK大河ドラマ『光る君へ』は紫式部(演・吉高由里子)を主人公とする平安王朝ドラマ。
 この時代が好きなソルティ、毎回興味深く視聴している。
 貴族の華やかな生活ぶり、宮殿や寝殿造の構造やしつらい、十二単に代表される衣装の美しさ、摂政関白の地位をめぐる上級貴族たちの権謀術数、後宮の女房たち(紫式部も清少納言もその一人)のガールズトーク、宮中の年中行事や儀式の時代考証、歴史書に書かれた逸話をどう脚色しているか、もちろん演出や俳優たちの演技・・・・等々、いろんな着眼ポイントがあって楽しみが尽きない。

 ここまで数回観てきて、「えっ、そうなの?」と意外な感を打たれた一番は、紫式部の実家の貧乏ぶりである。
 紫式部の父親の藤原為時(演・岸谷五朗)は、藤原北家の流れを汲み、このドラマのもう一人の主人公である藤原道長(演・柄本拓)と同じく、家系図をさかのぼれば淳和朝における左大臣藤原冬嗣につながる。
 つまり、名門なのである。
 世に浮き沈みはあるものの、代々貴族として朝廷に仕えてきた家柄なのだから、紫式部は生まれながらのセレブでリッチなお嬢様で、道長一家のような上級貴族には到底及ばぬものの、それなりに優雅な暮らしを享受していたと思っていた。
 それがドラマでは、あちこちガタのきた雨漏りする屋敷に棲み、それを修繕する費用もなく、次々と奉公人に逃げられ、生活費を工面するために式部の母親は自らの着物を売る。式部もいつも同じ服を着ている。
 それはまるで『源氏物語』に出て来る旧家のお姫様、末摘花のよう。 
 どこまで史実なのかは分からないが、「貴族=リッチ」というイメージがあったので、虚をつかれた。

 藤原為時は従五位下という位を朝廷から授けられ、法的な意味で「貴族」に列せられた。と同時に、越前守という地位と権威と莫大な富を得られる受領職を与えられた。
 が、為時がその官職を得たのは、道長が最高権力者になった長徳2年(996年)のことであり、為時すでに47歳、現代で言えば老齢もいいところ。
 それまでの10年間、為時は「散位(さんに)」、つまり官職のないプータロー状態にあったのである。
 現代ならば、無職になったら、ハローワークに通うなり、縁者を頼るなり、求人広告に応募するなりして、ほかの仕事を見つけて糊口をしのぎながら、虎視眈々とリベンジの機会を待てばいいが、平安時代の貴族の末裔たる者、そうはいかない。
 無職になったからといって京の都で干し魚売りでも始めようものなら、都じゅうの笑い者。先祖に顔向けできず、二度とこの先、宮中に出仕する機会など訪れまい。
 つまり、官職を得られなかった下級・中級貴族たちは、よほどの裕福な縁者でもいない限り、貧しい暮らしを余儀なくされたわけである。

 当時の中級貴族たちを取り巻いていた確実ながらも過酷な現実として、朝廷にとって特に意味のある一部の官職に就いている者にしか、朝廷からの俸給は期待できないことになっていたのであった。(本書より、以下同)

 紫式部の父親の藤原為時は、かなり腑甲斐ない父親であった。紫式部が十七歳になった頃に失脚した彼は、それから十年もの長きに渡って、何の官職もない散位の生活を続けたのである。そして、それゆえに、紫式部という女性は、当時の貴族女性にとっての結婚適齢期であった十歳代後半から二十代前半までの大切な時期を、失脚中のうらぶれた中級貴族の娘として過ごさざるを得なかったのであり、そうした事情から、当時の貴族女性には珍しく、三十路に踏み入る直前まで結婚することができなかったのであった。

紫式部
紫式部(土佐光起画、石山寺蔵)

 本書は、藤原明衡(ふじわらのあきひら、989?-1066)という貴族が編纂した『雲州消息』をもとに、王朝時代の文人貴族たちの日常生活や生活感情のありようを伝えてくれる、歴史風俗研究エッセイ。
 『雲州消息』は、「王朝時代の貴族層の人々がしたためた手紙を二百余通も収録する、大部の書簡集」であり、「日本で最初の手紙の書き方」マニュアルである。
 そこには紫式部の父親のような「詩人であり、文章家であり、学者でもあった」文人貴族たちの手紙が数多く含まれていて、その生活実態や喜怒哀楽や同じ文人貴族である友人・知人との交流の様子をうかがい知ることができる。
 著者の繁田信は、これまでにもユニークな視点から王朝時代を紹介する本を多数書いているが、本書もまた、これまであまり光の当てられなかった下級・中級の文人貴族という“種族”をテーマに取り上げてくれた。
 漢学(中国文学)の素養を必須とし、酒と詩歌を好み、学問の研鑽怠らず、ひたすらに官職とくに金持ちになれる受領職を望み、陰陽師に吉凶や事の正否を占わせ、いったん受領になれば周囲からの様々な難題や誘惑に振り回される。
 きわめて人間臭い文人貴族たちの姿が描き出されている。
 王朝ファンの一人として、出版を感謝したい。

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京都伏見稲荷神社

 大河ドラマ『光る君へ』において、現時点で、藤原為時は東宮・師貞親王のちの花山天皇(演:本郷奏多)の側近を務めている。
 花山天皇はいささか風狂な人であったらしく、とくに色好みで知られた。
 『大鏡』によれば、藤原道長の父である関白・藤原兼家(演・段田安則)の権謀術数により出家をすすめられて退位し、その結果、兼家の孫である懐仁親王が即位し、一条天皇となる。
 これにより、道長天下につづく布石が打たれたわけだ。
 花山天皇の退位と共に、為時は任を解かれ、一転、もとのプータローに突き落とされる。

 もし花山天皇が長く王座にあったならば、そして、もし藤原為時が花山天皇の側近として公卿(ソルティ注:上級貴族)にまで出世していたならば、われわれ現代人が王朝物語の最高傑作として享受している『源氏物語』も、この世には出現していなかったかもしれない。というのも、さしもの紫式部も、もし上級貴族の姫君としての人生を手に入れてしまっていたらならば、文筆によって自己実現を果たそうとはしなかったように思われるからである。

 貧乏が『光る君』を生んだのである。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損