2023年日本、ドイツ
124分
1987年公開の『ベルリン・天使の詩』以来、実に37年ぶりにヴェンダース作品を観た。
ハリー・ディーン・スタントンとナスターシャ・キンスキー共演で大ヒットした『パリ、テキサス』の砂漠の青空の印象が強いせいか、「ヴェンダース=青色系」というイメージがあるのだが、やはり本作も「青色系」であった。
ただし、BLUEやINDIGOのような主張の強い「青・藍」ではなく、淡く曖昧な寒色系といった「あお」である。
この色彩感覚が、ヴェンダース作品が日本人に好まれる理由のひとつではないかと思う。
「あお」で描き出される東京、とりわけ下町が本作の舞台である。
都内の公衆トイレの清掃員である平山(演・役所広司)の何気ない日常を切り取った、ただそれだけの映画。
大きな事件も起こらず、濃い人間ドラマが展開することもなく、ことさら観る者の感情を煽るような仕掛けもない。
波乱万丈のストーリー、起承転結あるプロットを期待する者は肩透かしを喰らうだろう。
カメラは、ほぼ一週間、朝から晩まで平山に密着し、平凡な初老の男の日常を映す。
つまらないと言えば、これほどつまらない話もあるまい。
だれが60歳をとうに過ぎた独身男、それもトイレ清掃員の日常生活を追いたいと思う?
そういう意味で、観る人によって評価が分かれる作品、観る者を選ぶ映画と言える。
おおむね、将来ある若者や現役バリバリの中年世代より、一線をリタイアした高齢者のほうが共感しやすいと思うし、いわゆる「勝ち組」よりは「負け組」のほうが胸に迫るものがあると思うし、富や出世や成功など目標達成的な生き方を好む人より、日常の些細な事柄の中に喜びを見つけるのが得意な人のほうが、本作のテーマをより理解しやすいと思う。
批評家の中条省平が本作をして、「日常生活そのものをロードムーヴィ化している」と評したそうだが、まさにそれに尽きる。
ソルティ流に言うなら、こうだ。
日常そのものが遍路である生き方。
本作のミソは、主人公・平山の背景や過去が語られないところにある。
年はいくつなのか?
出身はどこなのか?
どういう人生を歩んできたのか?
もともと何の仕事をしていたのか?
結婚したことがあるのか?
子供はいるのか?
なぜ、トイレ掃除の仕事をしているのか。
なぜ、安アパートで一人暮らしなのか。
なぜ、無口なのか。
いつから、なぜ、こういう生き方をするようになったのか?
・・・・・等々
観る者は、役所広司演じる平山の表情や振る舞いや趣味嗜好を通して、平山の背景や過去を想像、推理するほかない。
たとえば、
- 外見からは60代~70代(役所は68歳)だが、姪っ子(妹の娘)がハタチそこそこに見える。若く見つもって50代後半~60代前半? いや、しかし、聴いている音楽は70年代に流行った洋楽ばかりで、しかもカセットテープ世代である。愛用しているカメラもデジタルではなくフィルム式。となると、60代後半?
- ノーベル文学賞作家のウィリアム・フォークナー、『流れる』『木』の幸田文、『太陽がいっぱい』『11の物語』のパトリシア・ハイスミスを愛読しているからには、かなりのインテリ。大卒の一流企業社員であったのかもしれない。あるいはカメラ関係の仕事か。
- 疎遠になっている裕福そうな妹がいて、二人の父親は認知症で老人ホームに入っているらしい。平山は、この父親とかなり険悪な関係であったようで、今も会う気はない。子供の頃、虐待を受けていたのか?
- 結婚して家庭をもったけれど、うまくいかず、離婚したのか。妻子に死なれたのか。あるいはゲイ?(それなら、父親との関係も説明がつく)
- 整理整頓の習慣が身についているのは、ひょっとして、自衛隊にいた? あるいはムショ暮らしが長かったのか。(前科者ゆえ、出所後に就ける仕事が限られたのかもしれない)
- 住んでいる地域は映像から見当がつく。スカイツリーの近くで、「電気湯」という名の銭湯や浅草駅や亀戸天神に自転車で通える範囲で、隅田川にも荒川にも出られる。となると、墨田区曳舟だろう。
- ひとつ確かなことがある。平山は今も「昭和」に住んでいる。
主人公の過去をあえて饒舌に語らないでいることは、観る者に想像の余地を与えて、その空白部分に観る者自身の過去を投影させる。(たとえば、上記でソルティが平山をゲイと仮定したように)
観る者は、平山を通して自らの過去を点検する。と同時に、平山の「現在」と自らの「現在」を自然と比べてしまうことだろう。
「ああ、自分はトイレ掃除で日銭を稼ぐような、落ちぶれた独り者にならなくて良かった」と思う人もいよう。
「自分の境遇は平山よりずっと恵まれているのに、なぜ自分は平山のように安穏と生きられないのだろう? 熟睡できないのだろう? 女にモテないのだろう?」と思う人もいよう。
要は、世間的には「負け組」のカテに放り込まれるであろう平山の「現在」を通して、幸福の意味の問い直しを促すところに、本作のテーマはある。
どんな人も、人生のある瞬間に――たいていは老年になってから――自らの過去を振り返り、そこに後悔や未練や失敗や恥を見る。
他人から見て、すべてを手に入れ成功した人生(パーフェクト・ライフ)を歩んできたように見えても、当人の中では、「こんなはずじゃなかった」と思っている場合も少なくない。
そこで過去に囚われて、「あるべきはずだった人生」と「そうはならなかった人生」をくらべて落ち込み、残りの人生を鬱々と過ごす人も多い。
そのとき、もはや繰り返される日常は、苦痛で退屈で疎ましいものでしかなくなる。
過去の記憶が、現在の幸福を邪魔する。
正確に覚えていないのだが、『パリ・テキサス』の中で、ハリー・スタントン演じる男は、こんなセリフを吐く。
「二人にとっては、毎日のちょっとしたことがすべて冒険だった」
そう、平山にとっても、毎日が冒険と発見の連続なのだ。
毎朝出がけのBOSSの缶コーヒー、通勤途中のスカイツリーへの挨拶、トイレ掃除を通じて起こる些細な出来事、苗木との出会い、公園のホームレスとの無言の存在確認、見知らぬ誰かとの〇×ゲーム、仕事仲間の恋愛に巻き込まれること、古本屋の店主とのマニアックな会話、家出してきた姪っ子とのサイクリング、妹との再会、飲み屋のママの過去を知ってしまうこと、その元亭主のうちわ話を聞くこと、爽やかな早朝の大気、刻々と色彩を変える夕空、突然の土砂降り、木漏れ日のきらめき、荒川の水面に映るネオンサイン・・・・。
同じことの繰り返しのように見える毎日毎日の暮らしの中に、さまざまな新しい出会いが生じ、その都度「生」は我々に応答をもとめている。日常の中に潜む美しさや深さは、常に発見されるのを待っている。(ドイツ人監督であるヴェンダースによって撮られたあおい TOKYO が、異国のように美しくエキゾチックに感じられるのは、まさにその一例だ。普段、自らの頭の中に拵えた“東京”に安住している我々は、その美しさに衝撃を受ける)
生きている限り、毎日、いろんなことが起こっている。変化している。
同じ一日、同じ一時間、同じ瞬間、同じ出会いはあり得ない。
それこそ諸行無常。
いいことも、悪いことも、一瞬ののちには去り行く。
ならば、いっそ諸行無常を楽しんだほうが得であるのは間違いない。
平山が見つけた幸福の極意は、おそらく、ここにある。
映画のタイトルは、アメリカ出身のミュージシャンであるルイス・アレン・リードが1972年に発表した楽曲から採られている。映画の中でも、平山のお気に入りの一曲として、仕事場へ向かう車の中でカセットデッキで流される。
ソルティは洋楽に詳しくないので、どういう歌なのか知らないのだが、本作において『パーフェクト・デイズ』が意味するところを、我々日本人がよく見聞きする言葉に置き換えるなら、これだろう。
本作で役所広司は、日本人としては『誰も知らない』の柳楽優弥以来19年ぶりに、カンヌ国際映画祭男優賞を獲得した。
それも十分納得の名演であるが、凄いところは、鑑賞直後よりも半日後、半日後よりも24時間後、24時間後よりも3日後・・・・というように、時がたつほどに映画の中の「役所=平山」の表情や仕草が眼前に鮮やかに浮かび上がってくるところである。
それに合わせて、映画の感動もじわじわと心身に広がっていく。むろん、評価もまた。
こういう、あとから効いてくる、中高年の筋肉痛のような作品は珍しい。
ほかの出演者では、平山の仕事仲間でいまどきの若者を演じる柄本時生(柄本明の次男坊)、スナックのママ役の石川さゆり、その元亭主の三浦友和、公園のホームレス役の田中泯など、印象に残る演技である。
平山の行きつけの写真店の主人を演じているのは、アメリカ文学者にしてポール・オ-スターの小説を翻訳している柴田元幸。
なぜ、この人が???
最後に――。
平山と姪っ子が自転車で並んで走るシーンは、まず間違いなく、小津安二郎『晩春』へのオマージュだろう。
ヴェンダースの小津愛が感じられて、うれしかった。
小津安二郎監督『晩春』の宇佐美淳と原節子
おすすめ度 :★★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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