1974年日活
83分、パートカラー
R指定
神保町シアターに初めて行った。
小学館運営とは知らなかった。
昭和の古い映画を中心にプログラムを組んでいる劇場で、2/23まで『女優魂――忘れられない「この1本」』という特集をやっていた。
その一本が、芹明香(せりめいか)主演の本作であった。
本作は2022年に、第78回ベネチア国際映画祭クラシック部門に選出された。
もともと日活ロマンポルノの最高傑作と評判高かったが、国際的にも認められたわけだ。
ソルティは未見であった。
ピンク映画を神保町で観る、しかも小学館運営の劇場で――という、なかなかクールなふるまいに心は踊った。
平日夕方5時からの鑑賞は、99席のうち半分くらい埋まった。
女性観客もチラホラ見受けられた。
地下にホールがある
とにかく凄い映画である。
凄い、としか言いようがない。
凄い、としか言いようがない。
フィクションには違いないけれど、70年代の大阪釜ヶ崎のドヤ街の様子がありのままに写し撮られている。
行政上、「あいりん地区」と呼ばれる一画だ。
日雇い労働者、路上生活者、暴力団、娼婦、女衒、ポン引き、アル中、ラリ中、指名手配された犯罪者など、社会の底辺をさまよう者たちが、戦後日本の高度経済成長から零れ落ちるように、その日暮らしの生活をしている。
この街で娼婦をしている若い女性トメ(芹明香)が主人公である。
だが、本作はあくまでポルノ映画。
しっかりと男性観客を興奮させるに十分な濡れ場が用意され、内容が重すぎて“OTOKO”がタたなくならない程度に、脚本も演出も演技も適度にコミカライズされている。
社会派映画としてマジで撮ったら、そりゃあもう、縮むわ。
・・・・・。
・・・・・。
どうもセクハラチックな物言いになってしまうが、実際のところ、本作は令和コンプライアンス的には、とんでもない描写の連続である。
テレビで放映できないのは当然だが、今現在、本作をそのままの脚本でリメイクして再映画化するのは、まず無理だろう。
知的障害者の性と自死、姉と弟の近親相姦、母から娘に乗り換えようとするヤクザのヒモ、動物虐待・・・・・。
成人指定のポルノ映画とは言え、「よくまあ、こういう映画が撮れたなあ」と、昭和時代の表現の自由の寛容度には驚くほかない。
バリバリのフェミニストやガチガチの人権派やコチコチの性風俗反対派が、本作を観たら、怒り心頭に発するのではなかろうか。
ソルティは自分を、平均的な男に比べれば「人権派のフェミニスト」と思っているけれど、こと芸術表現に関しては、「実際に“ある”ものを描くぶんには、表現規制するのはよくない」と思っている。
たとえば、実際に“ある”差別を覆い隠して、きれいごとを描くのは、偽善であるばかりか、かえって当事者の声や存在を無視する非・人権的行為と思う。
どんな人間にも、どんな社会にも、暗部はある。
本作で描き出されているのは、暗部を逞しく生きる、ありのままの人間の「生」であり、「性」なのだ。
それを否認するところから生まれるのは、宗教的独善だけであろう。
芹明香演じる娼婦トメは、どこか投げやりで人生すてているふうでいて、“自分”をちゃんともっている。他人の手づるで客を斡旋されることを拒否し、一匹狼となって、街頭で客を引く。
「セックスは商売」と割り切るドライな一面を持つ一方、菩薩のようなやさしさを覗かせる。
「セックスは商売」と割り切るドライな一面を持つ一方、菩薩のようなやさしさを覗かせる。
とりたてて美人でも肉感的でも演技派でもベッドシーンに長けているわけでもない女優だが、あとにも先にも、この一作でその名が長く記憶されるに十分なインパクトを放つ。
共演者も素晴らしい。
『四畳半襖の裏張り』でも魅せた宮下順子のただならぬエロスの奔流、トメの母親・よねを演じる花柳幻舟のケツまくった熱演、トメの知的障害の弟・実夫(さねお)を演じる夢村四郎の凄絶な演技、ヤクザのヒモを演じる高橋明のふてぶてしいリアリティ。
フィルムから放射されるボルテージの高さは、はんぱない。
知的障害の弟・実夫は、姉トメとの初体験を成し遂げた後、雄鶏を連れて通天閣のてっぺんまで上り、その後、首を吊る。
その深みが分からないうちは、人権派を自称するには早かろう。