1992年原著刊行
1992三笠書房より邦訳(訳・渡部昇一)
2020三笠書房より新版刊行
この本が出版された時の社会の衝撃と反響には大変なものがあった。
書店の店頭に上下巻が山積みに置かれていた光景と、日本と世界の名だたる言論人を巻き込んで起こった議論の沸騰を覚えている。
それはまさに、本書のもととなった論文がアメリカの外交専門誌『ナショナル・インタレスト』に発表された1989年という年に始まった、ベルリンの壁崩壊に象徴される東ヨーロッパ諸国の一連の反共産主義革命が、ついには1991年12月のソ連崩壊に逢着し、戦後長く続いた東西冷戦が終焉を迎えた――その激動のドラマを、本書のタイトルが端的かつ挑発的に表現していたからであったし、少なくとも1989年の時点で、アメリカの政治経済学者であるフランシス・フクヤマがその後起こることを正確に予言していたように見えたからであった。
当時30歳目前だったソルティも本書を読もうと手にしたのであるが、数ページ読んであきらめた。
難しくて手に負えなかった。
歴史や哲学や世界情勢に関する知識不足、読解力の欠如、政治経済に対する苦手意識に加え、いつも読むのは文芸書ばかりでこういった本を読み慣れていないことも大きかった。
おのれの頭の悪さを嘆いた。
が、本書の内容を噛み砕いてレクチャーしてくれる週刊誌や月刊誌などの特集記事を読んで、主旨は大方わかった(気がした)。
「ああ、歴史の終わり(The End of History)とは、資本主義&民主主義の勝利宣言なんだな」
邦訳刊行後の世間一般の反応としては、資本主義の勝利宣言に疑念をはさむ空気はなかったように思う。
92年当時、日本はまだバブル崩壊の影響が深刻化する前であったし、なんといっても、ルーマニアやハンガリーなど旧社会主義国の悲惨な内情が目の前で次々と露わにされていったから、「冷戦に決着がついた」という判定が自然に受け止められた。
あれから32年――。
本書にふたたびチャレンジしようと思い立ったのは、むろん、日本でも世界でも民主主義の危機が叫ばれ、格差社会という形で資本主義の弊害がますます露わになっている現状を憂えるからである。
自由主義経済と国民主権を楯の両面とする「リベラルな民主主義」は、ほんとうの勝利者だったのだろうか?
「89年の精神」はいまも通用するのだろうか?
「歴史は終わった」と言っていいのだろうか?
30年という歳月は偉大である。
なんとまあ、今回はそれほど困難を感じることなく、全編読めた!
それも面白く!
とくにこの30年、政治経済や歴史や哲学を勉強した覚えはないのだが、読書の幅が文芸書以外に広がったことと、このブログを書いてきたことが、読解力アップにつながったようだ。
書評を書くためには、本をある程度深く読み込まなければならないし、自分が本から受けた印象や感想を文章に表すには、自らの考えを整理整頓しなければならない。調べるべきことは調べなければならない。
そういう地道な作業が読書の進化(深化)には大切なのだと、還暦にして思い知った。(遅い!)
して、ついに本書を読んで、「ああ、そうだったのか」と意外な感に打たれたことが二つあった。
一つは、「歴史の終わり」という概念が、別に著者であるフランシス・フクヤマの発明でも専売特許でもなかった点。
それは、カント、ヘーゲル、コジェーブ、マルクス、ニーチェといった西洋の偉大な哲学者らが、「人間社会の進化には終点があるのか」という問いの前に思考を積み重ねてきた、哲学上の主要なテーマの一つだったのである。
この思想史的文脈を受けてフクヤマは、「リベラルな民主主義こそ終点と言い得る」と本書で述べたのだ。
その正否は結局、それこそ“歴史自身”が証明するのを待つしかないのだが、ある意味これは、多元主義・文化相対主義の逆を行く自文化中心主義――欧米や日本などの資本主義の民主国家をそうでない国々の上位に置く、いわばWEIRD優越思想――という見方もできよう。
フクヤマは、リベラルな民主主義を達成した国々を「脱歴史世界」、そうでない国々を「歴史世界」と定義し、今後、世界は大きく二極に分かれていくと予言している。
脱歴史世界では、経済が国家間の相互作用の主軸となり、武力外交の古くさい規範は今日的な意義を失っていくだろう。
その反対に歴史世界では、そこに関与している国々に武力外交の古い規範が依然として適用されるため、特定の国の発展段階に応じて起こる多種多様な宗教的、民族的、そしてイデオロギー的衝突によって世界は相変わらず引き裂かれたままに残るはずだ。
言うまでもなく、歴史世界の代表格は、ロシアであり、北朝鮮であり、中国であり、イスラム教国であり、ミャンマーであり、アフガニスタンである。
フクヤマは、二つの世界が「並存状態を続けながらも別々の道を歩み、あまりかかわりあいもなくなっていくだろう」と予言しているが、そこが92年刊行時点において抱くことが可能だった楽観的見解と思われる。
むしろ、ソルティは、歴史世界と脱歴史世界との新たな「冷戦」(ひょっとしたら世界最終戦争に至る)が始まるのではないかと危惧している。
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今一つの意外は、本書の原題が、The End of History and The Last Man、すなわち、『歴史の終わりと最後の人間』だった点である。
邦題は、原題の前半部分しか訳されていない。
だから、ソルティは、リベラルな民主主義を最終到達点とする「歴史の終わり」についての本とのみ、理解していた。
しかし、むしろ本書で重要なのは、著者が読者に投げかけたかったテーマは、後半部分の The Last Man「最後の人間」のほうにあったのではないか。
そう思ったのである。
少なくともソルティの関心はそこに惹きつけられた。
「最後の人間」とはなにか?
「歴史の終わり」とは、戦争や血なまぐさい革命の終わりを意味することになるだろう。目的において合意した人間には、戦うべき大義はなくなるだろう。人間は経済活動を通じて自分の欲求を満たすが、もはや戦いにみずからの生命を賭ける必要はなくなる。言い換えれば人間は、歴史の始点となった血なまぐさい戦い以前のように、ふたたび動物になるのだ。
「最後の人間」の人生とはまさに西欧の政治家が有権者に好んで与える公約そのもの、つまり肉体的安全と物質的豊かさである。これがほんとうに過去数千年にわたる人類の物語の「一部始終」なのだろうか? もはや人間をやめ、ホモサピエンス属の動物となりはてた自分たちの状況に、幸福かつ満足を感じていることをわれわれは恐れるべきではないのか?
「最後の人間」とは、いわば、現状に満足しきった家畜小屋の豚である。
なぜ、「最後の人間」が生み出されることになるのか。
ざっと以下のような論旨である。
- 人間をして行動を起こさせるのは、欲望と理性と気概の3つである。このうち、気概とは承認欲求または自尊心のことであり、優越願望(その他大勢より上に立ちたい)と対等願望(他の人と同じ程度に認められたい)がある。
- 歴史は方向性をもつ。累積的かつ方向性を持つ近代自然科学は、それを利用する国に軍事的優位と経済的優位をもたらす。人間の持つ欲望と理性は、ほうっておけば、成長する市場経済すなわち自由主義経済を求めることになる。ここに、社会主義や共産主義に対する資本主義の優位がある。
- しかし、資本主義は必ずしも民主主義を必要条件としない。民主主義へのベクトルを生むのは、人間の持つ気概である。強い優越願望を持つ一人の主人(主君)が大勢の奴隷(臣民)を従えた奴隷制や封建制から、互いが互いを認め合って「対等願望」を満たし合う民主主義に移行したのは、歴史の必然である。
リベラルな民主主義を選び取った場合に問題となるのは、それがわれわれに自由に金儲けをさせ、魂のなかの欲望の部分を満たしてくれるという点だけではない。さらに重要で、最終的にいっそうの満足を与えてくれることは、この社会がわれわれの尊厳を認めてくれるという点なのだ。リベラルな民主主義社会はすばらしい物質的繁栄をもたらす可能性を秘めているが、それはまた各人の自由を認め合うという、まったく精神的な目標実現にいたる道をも指し示してくれる。・・・・・このようにして。われわれの魂のなかの欲望の部分と「気概」の部分は、ともに満足を見出すのである。
- かくしてリベラルな民主主義は、人間社会における政治形態として最終的な解となりうる。が、もちろん弱点もある。たとえば、「冷酷で頑固な独裁国から自分の身を守れない」(北朝鮮やロシアや中国の脅威を見よ)、「資本主義社会は不平等をもたらすので、結局のところ、承認の平等は得られない」(格差問題を見よ)、「民族主義や宗教的原理主義との衝突」(難民問題を見よ)・・・・等々。
- もっとも看過できない問題が、気概の喪失である。
リベラルな民主主義社会というのは「対等願望」の社会である。お互いにお互いの権利を認め合う。そして、その権利が認められている国家では、個人の生命が守られているかぎり、自由に財産を増やすようなその部分に国権がなるべく立ち入ってはならないということで成り立つ。これが「対等願望」の世界である。ところが、ここに哲学的かつ論理的な矛盾があるわけである。すなわち、みんな平等でいいというのならば、そこには偉大なる芸術も偉大なる学問もないことになってしまう。みんなと同じでいいというのならば、ほかに優越しようという気がなくなった社会である。ニーチェの言葉を使えば、奴隷の社会と同じなのである(奴隷というのは、「気概」を失ったために降参した人たちの社会なのである)。すなわちリベラルな民主主義社会というのは、お互いの権利を認めているようでありながら、究極的には奴隷の社会を志向するという危険を本質的に備えているわけである。
このようにして、「最後の人間」が生み出されていく次第となる。
もっと砕いた表現で言えば、「安全と物質的欲望と承認欲求が適度に満たされた平和な世界で、命を懸けるほどの対象もなく、魂を燃やすほどの生き甲斐もなく、人間は生きていけるのか?」、「永遠に続く退屈と付き合っていけるのか?」という意味になろう。
90年代に社会学者の宮台真司がよく口にしていた「終わりなき日常をどう生きるか」というテーマと符合する。
フクヤマは、「対等願望だけの世界=気概の喪失」に耐えられない人々が、ふたたび戦争や革命といった、気概が十全に発揮される世界を求めて反逆する可能性を示唆している。
たしかに、民主主義から独裁主義に戻った感のあるロシアの現在、スーチー女史を再び軟禁し軍事政権に舞い戻ってしまったミャンマー、アメリカのトランプ支持者ら、大日本帝国化を企む元安倍派や日本会議の面々・・・・。優越願望あるいは気概という概念を通してこれらをみれば、「なるほど」と頷けるところもある。
そこでは、「終わった」と思った歴史が逆流するのだ。
敵がいないとつまらない、戦いこそ生きがい、より多くの人の上に立ちたい、なにものかに自己投棄してこその人生、生ぬるい「生」よりは激しく英雄的な「死」を・・・・という性向は、とりわけ「男♂」という種族には、多かれ少なかれ、ある。
リベラルな民主主義がこの先ずっと継続するためには、抑圧された気概をどう解消するか、どうやって社会に役立つ方向へ昇華していくか、マチョイズムをどう克服するか、という点にかかっているのかもしれない。
面白いのは、「歴史の終わり」を生きる人間の賢明なふるまい方のヒントとして、フクヤマは、アレクサンドル・コジェーブ(1902-1968)の言を紹介し、日本の江戸時代――鎖国下の天下泰平な日常――に触れている点である。
コジェーブによれば、日本は「16世紀における太閤秀吉のあと数百年にわたって」国の内外ともに平和な状態を経験したが、それはヘーゲルが仮定した歴史の終末と酷似しているという。そこでは上流階級も下層階級も互いに争うことなく、過酷な労働の必要もなかった。だが日本人は、若い動物のごとく本能的に性愛や遊戯を追い求める代わりに――換言すれば「最後の人間」の社会に移行する代わりに――能楽や茶道、華道など永遠に満たされることのない形式的な芸術を考案し、それによって、人が人間のままにとどまっていられることを証明した、というわけだ。
江戸時代がはたして「歴史の終わり」を一足早く体現していたのか、そしてまた、能楽や茶道や華道(あるいは歌舞伎や武道や武士道)が「終わりなき日常」を倦むことなく生きるための手立てとして有益なのかどうかはおいといて、せっかく日本に注目してくれるのなら、むしろ、「禅」こそが最適解に近いのではないかと、ソルティは考える。
行住坐臥すべからく禅、過去と未来を捨て去って「いま、ここ」に在ることを善とする精神こそ、歴史の終焉後の世界を生きる人間のクールかつ美しい身の処し方なのではないだろうか。
Benjamin BalazsによるPixabayからの画像