日時: 2024年3月16日(土)14:00~
会場: 神奈川県立音楽堂
曲目:
- ドヴォルザーク: 交響曲第1番「ズロニツェの鐘」
- ドヴォルザーク: 交響曲第9番「新世界より」
- アンコール ドヴォルザーク:プラハ・ワルツ B99
指揮: 山上紘生
神奈川県立音楽堂は桜木町駅から徒歩10分。
自宅から1時間半以上かかるのだが、山上紘生の振る『新世界』を聴かないでいらりょうか。
ボヘミアン・フィルハーモニックは、「ドヴォルザークやスメタナなどのボヘミアの作曲家の楽曲を中心に演奏活動するアマチュアオーケストラ」で、今回の2曲でドヴォルザーク交響曲の全曲演奏達成とのこと。おめでとう!
交響曲第1番など、なかなか聴く機会にお目にかかれない。
5月初旬のぽかぽか陽気、遠出も苦にならなかった。
今回つくづく感じたのは、アントニン・ドヴォルザークという作曲家の進化のほどである。
1865年24歳の時に作曲された交響曲第1番と、1893年52歳の時に初演された第9番を、続けて聴くことで、一人の芸術家の、あるいは一人の人間の成熟をまざまざと感じた。
第1番も決して悪い出来ではない。
ベートーヴェンとブラームスの影響を受けているのは無理もないところであるが、それでも、そこかしこにドヴォルザークの才能の片鱗とブルックナーにも似たオタク的個性を感じさせる。
が、第1楽章から第4楽章まで、すべての楽章が同じように聴こえる。
一定のリズムに乗って、力まかせに進行する。
あたかも蒸気機関車のように。
それゆえ、全体に単調に聴こえるのだ。
ドヴォルザークは鉄道オタクで有名だったが、彼の音楽の原点にあるのは、幼少のみぎり夢中になって聞いた列車の響きなんじゃないか、としばしば思う。
名うてのメロディーメイカーなのに、第1番ではそれが十分発揮されていないのがもったいない。
名うてのメロディーメイカーなのに、第1番ではそれが十分発揮されていないのがもったいない。
さらには、有名なチェロ協奏曲や第9番第2楽章に見られるような、祈りにも似た静謐な悲哀と深い宗教性――それこそがドヴォルザークの人生上の経験と成熟がもたらしたエッセンスなのではあるまいか――が、まだここには見られない。
つまり、若書きなのである。
24歳の作品だから若書きは当然であるが、マーラー28歳やショスタコーヴィチ19歳の第1番と比べると、かなり未熟な印象を受ける。
アントニンは大器晩成型の作曲家だったのだろう。
ソルティが第1番に副題をつけるなら、『鉄道讃歌』あるいは『ヒョウタンツギの冒険』ってところか。
ソルティが第1番に副題をつけるなら、『鉄道讃歌』あるいは『ヒョウタンツギの冒険』ってところか。
Erich WestendarpによるPixabayからの画像
第9番は無駄な音符がひとつもないと思うような完璧な傑作。
楽章ごとに異なる曲調と色合いで、変化に富んでいて飽きない。
リズムとメロディの見事な融合が果たされている。
第2楽章中間部の深い悲哀と宗教性は、全曲の肝である。
この魂の泉の深みと静けさあるゆえに、第1楽章におけるグランドキャニオンのごとき荘厳と第4楽章における最後の審判のごとき大迫力が生きるのだ。
鉄道讃歌が『銀河鉄道の夜』に飛躍するのである。
鉄道讃歌が『銀河鉄道の夜』に飛躍するのである。
オケは緊張か、はたまた若さゆえか、ところどころ糸のほつれが見られはしたが、全般、弾力と光沢ある織物に仕上がっていた。
織り手の筆頭である山上は、いろんなところで成功を重ねているせいか、風格が増した。
『エースをねらえ!』のお蝶夫人を思わせる優美な指揮姿は変わらず。
思わず見とれてしまう指揮姿は、この人の最大の武器であろう。
さらには、今回明らかにされたドヴォルザークとの親和性の高さ。
ドヴォルザークではまったくそんな感じがなく、肩の力を抜いて自在に振っているように思えた。
ひょっとして、山上も・・・・・・鉄ちゃん?
次は、マーラーかベートーヴェンを聴いてみたいものだ。
終演後、近くの野毛山不動尊に詣でた
本殿
丘の上にあり、エレベータで上がることができる
本殿前から横浜港方面を望む
横浜ランドマークタワーがひときわ高い
横浜ランドマークタワーがひときわ高い
不動明王
弁天様もいらっしゃる
野毛坂にある中華料理店がソルティのグルメレーダーに反応
芸能人もやって来る店だった
タンメンとグレープフルーツハイを注文
麺が太目でシコシコしていた
スープがほどよい塩加減でうまかった
スープがほどよい塩加減でうまかった