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2023年ちくま新書

 ブックカバーにこう紹介されている。

 これまでのブッダ理解を批判的に検証し、初期仏典を丹念に読みとくことでその先駆性を導き出す革新的ブッダ論。 

 まず、ここでいう「初期仏典」とはなにか?

 律蔵と、経蔵の『長部』『中部』『相応部』『増支部』の四つと、『小部』のうち成立が古いと目される韻文資料とを指し、さらにその「初期仏典」のなかでも部派を超えて確認できる記述 

 すなわち、日本で広く信仰されてきた大乗仏教の経典ではなく、タイやスリランカやミャンマーでいまも信仰されている上座部仏教(いわゆる小乗仏教)の『阿含経典』のうち、『小部』の散文史料をのぞいたもの、および出家集団(サンガ)の規則を記した律蔵ということになる。
 最近は、「『小部』は結集仏典にはなかった」という驚きの説も――たとえば、馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』――あるようだが、そのあたりは措いといて、ブッダ元来の教え、もとい仏教の原型を探ろうとするのなら、おおむね順当な資料選定と言えよう。
 (ときに、本書あとがきで、清水が馬場から受けた出版妨害のことが記されている。仏教的とは言い難い、学会的騒動があったようだ)
 
 次に、「これまでのブッダ理解を批判的に検証」とはどういう意味か?
 仏典の中には、様々な神話的記述がある。
 ブッダ(豚ではない)が空を飛んだとか、テレポーテーション(瞬間移動)したとか、神様に説法したとか、生まれてすぐ歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったとか・・・・すなわち、近代科学の実証主義的見地からは「あり得ない」エピソードである。
 こういった神話的装飾を取り除いて、歴史的事実としての「ブッダ」を探ろうというのが、近代に成立した学問としての仏教学である。
 「神話のブッダ」でなく「歴史のブッダ」を。
 ここまではいい。
 しかしながら、「そこにはいま一つの罠があった」というのが、清水の指摘であり、本書の一番のポイントである。

 ブッダの歴史性を明らかにしようとする際に、最大の障害となっているのは、仏典の神話的装飾でも後代の加筆でもなく、我々の内側にある「ブッダの教えは現代においても有意義であってほしい」という抗いがたい衝動である。結果として、これまでの専門書や一般書の多くが、歴史のブッダを探究しているはずが、彼が2500年前に生きたインド人であったという事実を疎かにして、現代を生きる理想的人格として復元してしまうという過ちを犯してしまっている。
 
 これはまったく頷けるところ。
 仏教を信じブッダを敬愛する人ほど、ブッダを自らの理想像に仕立て上げてしまいがちである。
 いわゆる「推し」、アイドルファンの心理だ。
 そうなると、仏典の中にある「アイドルにそぐわない」言動の記述は自然と目に入らなくなり、「アイドルにふさわしい」言動の記述ばかりが目に映るようになる。
 それを集めて、誇張粉飾することで、自分の理想のブッダが生み出される。
 「推し活」真っただ中の当人はそのからくりに気づかないし、指摘されても聞く耳を持たない。どころか強く反駁する。
 なんてったってアイドルを否定されるくらい、腹が立つことはあるまい。 

 本書で清水が、誤った理想化の例として挙げているのは次の4つ。
  • ブッダは平和主義者だった
  • ブッダは業と輪廻(転生)を否定した
  • ブッダは階級差別を否定した
  • ブッダは男女平等を主張した
 いま、仏教研究にいそしむ研究者が同時に護憲論者だったならば、ブッダを平和主義者にしたいだろう。
 人種差別、民族差別、格差社会に反対する左派の研究者ならば、ブッダを差別反対の人権家にしたいだろう。
 ジェンダー平等を訴える学者ならば、ブッダをフェミニストにしたいだろう。
 スピリチュアル系のアヤシイ人物と思われたくないならば、ブッダを唯物論者にしたいだろう。
 こうして、“新たなブッダ、新たな神話”が誕生する。

 結局のところ、これら「歴史のブッダ」と称されるものは、研究者たちが、単に己が願望を、ブッダという権威に語らせてしまった結果に過ぎない。 

 バイアスは学者自身のパーソナリティやアイデンティティの中にあるってことだ。
 清水の見解に、ソルティもおおむね同意する。
 ブッダが目したのは、あくまで個人の内面の改革であって、社会改革ではなかった。

ブッダはアイドル

 では、近代以降に生まれた上記の“新たな神話”を排して、それでもなお、ブッダの先駆性、仏教の革新性はあるのか?
 もちろん、ある。
 清水はブッダの先駆性を3つ指摘している。
  1.  生まれ変わって天国に行くことや、神や宇宙意識と一つになること(梵我一如)を修行の最終目的とするのではなく、現象世界(宇宙)から完全に離脱することをゴールとした。(解脱=涅槃)
  2.  「自己は存在しない(無我)」ということを発見した。(諸法無我)
  3.  縁起の法則を発見し、無明をはじめとする煩悩の滅尽が輪廻の苦しみを終わらせると説いた。(縁起の逆観)
 すなわち、瞑想を通して個体存在や現象世界を観察し、一切皆苦(現象世界のすべては苦しみである)、諸行無常(現象世界を構成する諸要素は因果関係をもって変化し続ける)、諸法無我(一切の存在のうち恒常不変なる自己原理に相当するものはない)と認識することこそが悟りの知恵であり、これによって煩悩が断たれて輪廻が終極するのである。

 ただし、この先駆性の指摘自体は、別に先駆的ではない。
 まさに原始仏教のエッセンスであり、2000年以上にわたって上座部仏教(テーラワーダ仏教)で伝えられてきたところである。

 学者でない人間が仏教について基本的なことを学びたいなら、ワルポール・ラーフラ著『ブッダが説いたこと』(岩波文庫)、ポー・オー・パユットー著『仏法』(サンガ発行)を読めば必要にして十分であろう。
 あとすべきことは、修行の実践である。
 余計な知識はむしろ修行の邪魔になる。
 
 思うに、修行を伴わない仏教学は、料理したことのない人が書いた料理本、車の運転をしたことのない人が教える教習所、恋愛したことのない人が説いた恋愛論みたいなものだ。
 仏教学の最大の落とし穴はそこにある。
 知識をいくら蓄えても、議論をいくら積み上げても、智慧にはならない。
 ブッダという男を真に理解するには、ヴィパッサナ(観察する)に如くはなかろう。


銭壷山合宿 017
自戒、自戒・・・




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損