2019年アメリカ
83分
2011年11月29日にニューヨーク州ホワイトプレインズで実際に起きた、白人警官による黒人射殺事件に基づいて制作された社会派スリラー。
殺された黒人が、68歳独り暮らし元海軍所属のケネス・チェンバレンであった。
双極性障害(躁うつ病)と心臓病を持つケネスは、セキュリティ会社と契約し、緊急の場合に胸のペンダントのボタンを押せばオペレーターとつながる医療用警報装置を身につけていた。
その日の早朝、ベッドで寝ていたケネスは、自分で気づかぬうちに誤ってボタンを押してしまう。
オペレーターは専用の通話装置を通してケネスに呼びかけるも応答がなかったため、手順通り警察に通報した。
ケネスのアパートに3人の警官が駆けつける。
ケネスは誤報だったことをドア越しに警官に説明するが、警官はそれを信じず、「ドアを開けろ」と要求する。
過去のトラウマから警察に不信感を抱くケネスは拒否の言葉を繰り返す。
激化した問答の末、警官らは救急隊を呼び寄せ、ドアを破っての強制立ち入りを実施する。
部屋に押し入った警官の一人は、ケネスに2発の銃弾を浴びせ、殺してしまう。
一枚のドアをはさんだ警官らとケネスの緊迫したやりとりが上映時間の大半を占める。
この簡単な設定だけで、これだけのサスペンスとドラマを生む演出と役者たちの演技力、そして何より事実そのものが持つ迫力に圧倒される。
警官たちの職業意識と人種偏見と傲岸さ、ケネスの警察に対する不信感と精神障害と頑固さ。
ちょっとしたボタンの掛け違いで始まったものが、次第に双方激してきて、暴力沙汰となり、最悪の結末を迎えていく。
アメリカの人種問題の根の深さを思うと同時に、人と人とのコミュニケーションの難しさを痛感する。
白人の警官や消防隊員らは、精神障害や心臓病を持つ相手しかも高齢の黒人に対して、もっともしてはならない対応の仕方を、あたかも反面教師のように取り続ける。
正義の名のもとに。疑わしいという理由だけで。
ソーシャルワーカーのはしくれであるソルティが観ても、事態を悪化させることが目的としか思えないまずい対応の濫発だ。
ソーシャルワーカーのはしくれであるソルティが観ても、事態を悪化させることが目的としか思えないまずい対応の濫発だ。
3人の警官のうち元中学校教師だった新米の一人だけが、事態をおかしいと感じる知性を持ち、ひとり裏に回って窓からケネスとコミュニケーションをとろうと試みる。
が、ケネスの説得に成功しそうなところで、警察仲間からの邪魔が入って、事態は悪化してしまう。
警察や消防隊のようなマッチョ文化はびこるピラミッド型の組織にあっては、それがどんなに合理的で侵襲性の少ないものであっても、部下のスタンドプレイは許されないし、うまく機能しないのである。
問題の一端がアメリカ社会の根強いマッチョ文化にあることは明白だ。
問題の一端がアメリカ社会の根強いマッチョ文化にあることは明白だ。
まず間違いなく、強行突破に出た警察や消防隊の男たちは共和党支持者だろう。
ケネスを演じるフランキー・フェイソンが役者人生を賭けたような渾身の演技を披露している。
彼がなぜオスカー(アカデミー主演男優賞)の候補にすら挙がらなかったのか。
作品もまた候補に挙がらなかった。
理解に苦しむ――と言いたいところだが、それがまさにアメリカ社会の現実を表しているのだろう。
おすすめ度 :★★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損