2018年角川新書

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 こうやってブログを書いていて言うのもなんだが、時々、スマホやパソコンや WINDOWS のない世界、すなわちインターネットのない世界に行きたいと切に思う。
 生れてから30代初めまではそういう世界に生きてきて、とくに不自由を感じていなかった。
 人との連絡は電話やFAX、手紙や伝言で十分間に合ったし、買い物は店に足を運んで実物を確認しての現金払いで安心も一緒に買えた。
 調べ物をするときは、家の百科事典で不足なら、図書館で本を探した。
 JR時刻表を手に旅行し、その日泊まる宿は現地の電話帳で調べたり、町の旅館組合を訪ねて安宿を紹介してもらった。
 すれ違う誰も自分の素性を知らない、家族や友人の誰も自分の居場所を知らない、その土地にいたことすらあとに残らない、見知らぬ土地をひとり旅することの解放感が心地良かった。
 いまや誰もが、文字通り世界中に張り巡らされた World Wide Web にかかった蜘蛛の餌食のような存在になってしまった。
 わずか30年で、インターネットと無縁で暮らすのが困難なほど、我々の生活スタイルは変わってしまった。
 たとえば、今日一日だけで、ソルティの姿は何台の街のカメラに撮られたのだろう?

 逃れられない罠にかかってしまったような閉塞感は別にしても、ソルティはネットの暴力というものに慣れることができない。
 匿名性を悪用したSNSにおけるデマゴギーや中傷や罵倒、プライヴァシーを侵害した画像や動画の拡散、特定の個人に対する見境ないバッシング、何度もほじくり返される過去のあやまち、未成年を対象とする性犯罪・・・・e.t.c.
 昔なら大目に見られたろう“若気の至り”で将来を破壊された若者、デマで評判を落とされた飲食店やホテル、過去の恋人にモザイク処理なしのヌード画像をあげられた女性、忘れたい(忘れてほしい)過去やつぐなった罪を幾度もネットに上げられそのたび叩かれ貶められる著名人。
 なにより怖いのは、自分がいつ標的にされるかわからないということだろう。
 街を歩いていて、あるいは列車の中で、自分がたまたま何かの事件に巻き込まれたとき、周囲(外野)が一斉にスマホをかまえることを覚悟しなければならないとは、なんていう嫌な時代だろう!

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Tomasz MikołajczykによるPixabayからの画像
 
 本書の副題は「邪悪なバーチャル世界からの脱出」。
 カルマとは仏教用語の業(ごう)、我々のすべての行いを記録するシステムのことである。

 業は私たちがおこなう善いこと、悪いことをすべて記録し、それに応じて様々な結果をもたらします。その業のシステムに縛られながら暮らすことは、私たちに耐えがたい苦しみをもたらすと考えてブッダは仏教を生み出しました。つまり仏教という宗教は、業のパワーから逃れることを第一の目的とする宗教なのです。 

 因果応報、悪因悪果、自業自得、生前の業に応じて六道(天界、人間界、阿修羅道、餓鬼道、畜生道、地獄)のいずれかに生まれ変わる輪廻転生システム・・・・。
 古代インドの人々がその存在を信じ怖れたカルマ(業)の働きは、現代科学の目から見れば迷信に過ぎない。
 ――だったはずだが、すべてをデーターとして記録し消すことが困難なインターネットの登場で、21世紀版「カルマ(業)」が誕生した。
 佐々木はそれをネットカルマと名づけたのである。
 
 佐々木は仏教の業の特性は、以下の3つと指摘する。
  • 第一原則 人がおこなった善悪の行為は、すべてが洩れなく記録されていく。
  • 第二原則 記録された善悪の行為は、業という潜在的エネルギーとなって保存され、いつか必ず、なんらかのかたちで、当の本人にその果をもたらす。
  • 第三原則 業のエネルギーがその果をもたらす場合、それがどのようなかたちでもたらされるかは予測不可能であり、原因となる善悪の行為から、その結果を推測することはできない。
 佐々木は、ネットカルマがいかに上記の仏教の業と似た作用を持っているか、また今後の IT や電子機器の一層の進歩によってますます近づいていくかを、一つ一つ検証していく。
 さらには、ネットカルマのほうが仏教の業よりも非情で残酷になりうることを示す。
 たとえば、仏教の業は個人の範囲でしか働かない。
 個人の犯した悪行の報いをいつの日か受けるのは、当人だけである。
 しかるに、ネットカルマは悪行を犯した当人だけでなく、その家族や下手すると子孫にまで累を及ぼす。
 ある犯罪者の顔と名前がネットにばら撒かれたが最後、その家族や子孫も特定されて、有形無形の被害を受けてしまう可能性がある。

 我々は、もはやまわりをデジタルな記憶媒体で埋め尽くされ、自分の姿を曖昧な忘却によって美化していくということさえも許されなくなってきます。こういう状況の表現としては「つらい暮らし」としか言いようがありません。いつも心の底に、澱のような不幸感を抱きながら、だからと言ってどこかに問題解決の明快な出口が見いだされるあてもなく、鬱々と生きていく。まさにブッダが感じた「生きることの苦しみ」が、ネットカルマによって一層強まっていくことになるのです。 

 もちろん、佐々木は問題を言いっ放しにして済ますことはない。
 ネットカルマの特性が仏教の業とよく似ているのなら、それがもたらす苦しみから抜け出す手立てもまた、ブッダの教えから得ることができる。
 ここからはまさに仏教学者である佐々木の独壇場。
 本書後半では、ネットと適切に付き合いながら、ネットカルマの苦しみをなるべく受けない方法、ネットカルマの被害を克服していく方法を説いている。
  
 ブッダはむろん、いまのインターネット社会のありさまを想像すらしなかったろう。
 が、人間の苦しみに対する特効薬として、ブッダの教えは時代を超えて普遍的な価値を持つ。
 
 サードゥ、サードゥ、サードゥ。
 
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損