2008年PHP研究所
NHK大河ドラマ『光る君へ』で藤原実資(さねすけ)を演じているロバート秋山こと秋山竜次が話題になっている。
なるほど平安貴族っぽいふっくらした顔立ち、金満家らしいでっぷりと貫禄ある体型、そして大まかに見えて実は几帳面なキャラは、藤原道長・頼通全盛期にあってなお、右大臣にまで登りつめた実資にふさわしい。
とは思うものの、それでも、「あのガングロ(顔黒)はないだろ!」と観るたびに呟くのである。
賢人右府と呼ばれ、宮廷儀式や政務に詳しく、道長や頼通でさえ一目も二目も置かざるを得なかったこの大人物はまた、ドラマの中で家人に揶揄されている通り、記録魔であった。
実資が60年以上書き綴った日記『小右記』あればこそ、歴史学者や古典文学研究者は平安時代の貴族の暮らしぶりや宮中や洛中の出来事を知ることができるのであり、ソルティのような平安王朝ファンは失われたセレブの日常に思いを馳せることが叶うのである。
本書は副題そのままに、『日記が語る平安姫君の縁談事情』を描いたものである。
ここで「日記」というのがほかならぬ藤原実資の『小右記』であり、「平安姫君」というのが実資55歳のときに授かった女子、藤原千古(ちふる)である。
年をとってからできた娘だからというだけでなく、それ以前に二人の娘を幼くして亡くしていた実資にとって、千古はそれこそ掌中の珠、鼻の穴に入れても痛くない宝物であった。
清少納言が『枕草子』の中で褒めたたえた小野宮第という洛中随一の豪邸で、千古はなに不自由なく、実資を筆頭とする家人すべてに甘やかされて育った。
世間が彼女を「かぐや姫」と呼んだことからも、それは察しられよう。
本書は、繁田信一のほかの著書同様、平安王朝時代に材をとった歴史書・研究書ではあるけれど、同時に藤原千古という上流貴族のお姫様の生涯を辿った伝記でもあり、娘を愛する父親のいつの世も変わらぬ涙ぐましい親馬鹿ぶりを描いた家族愛の物語でもある。
だから、とっても感情を揺さぶられる。
これまでに読んだ繁田の本の中では一番面白かったし、心なしか繁田の筆も乗っているようである。
「かぐや姫」というニックネームがまさに言いえて妙なのは、千古は――というより実資は、娘の結婚相手を選ぶのにとても悩み苦労したからである。
莫大な富をもつ上流貴族の娘の嫁ぎ先としてもっとも望ましいのは、言うまでもなく、皇室入りして妃となることである。
右大臣の娘ともなれば、天皇や皇太子に入内し、世継ぎを産み、将来の国母となるのも夢ではない。
実資ほどの財と地位と信頼があれば、それは万人が納得する選択であった。
しかし、ときは道長の絶頂期、「この世をば」の頃である。
道長の娘以外が皇室入りすることは事実上あり得なかった。
たとえ、強引に入内させたとしても、後宮で道長側の嫌がらせを受けるのは目に見えている。
それは、道長の兄・藤原道隆の娘で一条天皇の后となった定子(演・高畑充希)が、父親亡き後たどった悲劇を見れば、この時代のだれもが暗黙のうち了解していた。
老い先短い実資にしてみれば、自らが亡くなったあとのことを考えれば、可愛い娘を下手に皇室に入れて針の筵に置くよりも、将来が約束されている公達にめあわせたい――そう考えるのが道理である。
となると、選択肢は狭まる。
最高権力者である道長の息子、あるいは次の権力者であることが約束されている頼通の息子で、いまだ正妻を持っていない貴公子から選ぶに如くはない。
また、道長側にとっても、「目の上のたんこぶ」のような実資と縁談という手段で手を組むのは悪い話でなかった。
なんといっても、千古には実資から相続した莫大な財産がついている。
そんなわけで、「かぐや姫」の最初の縁談は、藤原頼通の息子(といっても養子である)の源師房(もろふさ)との間に持ち上がった。
師房は、頼通の正妻の弟で16歳だった。
だが、これがどういう事情からかはっきり判明しないのだが(実資日記には書かれていない)うまくいかなかった。(繁田は千古と幼馴染の男との恋が原因と推測している)
師房は結局、千古を振って、道長と第二夫人源明子の間に生まれた隆子と結婚してしまう。
このとき千古はまだ13歳。
焦ることもなかった。
次の縁談が持ちあがったのは2年後、千古15歳のとき。
お相手は道長の実の息子長家(明子腹)である。
将来有望な21歳で、年齢的にもちょうど良い。
この縁談には、道長も実資も最初から大乗り気であった。
何ら障害となるものは無かったのに、2年待たされた挙句、結局この話も流れてしまう。
実は、長家は初婚ではなく、すでに二人の正妻を見送っていた寡夫であった。
二人目の妻を亡くしたショックから立ち直れない長家は、父である道長や母である明子に催促されながらも、千古との結婚に踏み切れなかったのである。
2年間、蛇の生殺し状態におかれ、実資も「これは縁が無かった」と諦めることになる。
(なんとなく、あくまでも千古の入内を阻むための道長と正妻倫子の策略のような気がするのはソルティだけか)
そうこうするうちに19歳になってしまった千古。
当時ならそろそろ“婚期を逸する”年齢である。
実資もようやく焦り始めた。
3番目の縁談相手は、道長の孫にあたる兼頼で、千古より3つ年下の16歳であった。
道長と明子の長男頼宗の息子である。
妾妻とはいえ、政略に役立つ息子や娘をたくさん産み育てた明子は、それだけでも道長にとって実にいい細君だったのである。
年貢の納め時というわけでもあるまいが、ついにこのあたりで実資も手を打たなければならなかった。
頼通の息子である師房、道長の息子である長家にくらべれば、道長の妾腹の孫に過ぎない頼宗は将来の展望という点では劣るけれど、これを逃したら千古はほんとうに行き遅れてしまう。
実資が死んだら、娘を後見して財産を守り、生涯の安寧を保障してくれる男がいなくなる。
長元2年(1029)11月26日、千古と頼宗は結婚した。
実資は70歳を過ぎていた。
千古が“お年頃”になってから無事結婚するまでの実資の心情を思うと、とりわけロバート秋山を実資に見立てて右往左往する様を想像すると、なんとも滑稽にして憐れなばかりである。
だが、娘が結婚できず売れ残りになってしまうことは、つい最近まで(昭和バブルくらいまでか?)体裁の悪いことだった。
オールドミスとかクリスマスケーキ(25までしか売れない)なんて、ひどいセクハラチックな言葉も日常的に飛び交っていた。
女性が就職するのは婿探しのため、結婚したら仕事を辞めて家庭に入るのが当たり前という時代、つまり女性の職業的自立が難しかった時代、一家の父親は愛する娘をそれなりに安定した収入ある堅実な男にもらってほしかった。
女が一人で生きていくことは、令和の今では考えられないほど大変だったのである。
これが王朝時代の貴族階級ともなると、現実はもっと過酷である。
後見してくれる力と財のある夫や親兄弟を亡くした女性は、そのときから浮舟のように世間の荒波に押し流されるほかなかった。
本書では、道長・頼通全盛時代に後ろ楯となる父親や夫を失った貴族の姫君が落ちぶれていく様子が描かれている。
たとえば、『光る君へ』に登場する藤原伊周(これちか)は叔父である道長との政争に破れ、一気に転落していくのだが、伊周亡くなったあと残された娘の一人は、なんと道長の娘で一条帝の中宮となった彰子の女房として仕えさせられたのである。
つまり、紫式部や和泉式部と一緒に後宮で働かされたということだ。
叔母である定子皇后を貶め、父親である伊周を蹴落とした憎き道長。その娘に奉公しなければならなくなった彼女の心情はいかばかりであったろうか。
しかも、大宰府に流され大宰権帥(だざいのごんのそち)となった伊周の官名をもじって「帥殿(そちどの)の御方」と呼称されたというから残酷である。
また、道長の実兄で急逝したため「七日関白」と言われた藤原道兼(演・玉置玲央)の娘もまた、道長と倫子の娘で後一条天皇の后となった威子(たけこ)のもとに出仕させられている。
「二条殿の御方」と呼ばれ自らに仕える十人の女房とともに出仕した道兼の娘は、まだ伊周の娘と比べれば待遇的にはマシだったのかもしれない。
それでも、押しも押されもせぬ上流階級の姫君で、将来は皇室入りを前提に、いわゆる「后がね」として大切に育てられたはずの女性が、血のつながった親戚の女子(いとこである!)のもとに奉公しなければならない屈辱は相当なものだったはず。
これだけ見ても、藤原道長や道長の姉である詮子(演・吉田羊)がいかに横暴であったかが分かろうものである。(あるいは、寄る辺を失ったかつての仇敵の娘の暮らしを保障する温情だったのか?)
ほかにも、藤原兼家(演・段田安則)の謀略にかかって出家を余儀なくされた花山法皇の実の娘、つまり正真正銘の皇女が、やはり彰子の女房になったエピソードも語られている。
いやはや、後ろ楯のない貴族の女性にはほんとうに生き難い時代だったのだ。
さればこそ、そうした周囲の女性たちの不運や不如意を見続けた紫式部は、『源氏物語』を書こうと思ったのだろう。
男という流れにまかせて漂うばかりの女のさだめを疎んじた浮舟は、出家するほかなかったのである。

紫式部
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損