2018年ミリオン出版

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 毀れている。
 ――というのが本書を読んでの何よりの感想だ。

 若い女性たちが毀れている。
 家族が毀れている。
 AV業界が毀れている。
 社会が毀れている。

 本書は、『職業としてのAV女優』を書いた中村淳彦による現役AV女優19人へのインタビュー集である。
 「あとがき」によれば、これまで数多くのAV女優インタビューを行ってきた中村は、「なにが正しくてなにが間違っているのか」わからなくなり、「グチャグチャに」なった。
 苦渋ののち辿りついた結論が、「情報を掴むために必要な最低限の質問以外、ほとんど自分からは喋らない。ただただ聞くだけ」に徹するということだそうで、それが本書を貫く基本スタイルとなっている。
 なので読者は、中村自身の価値観によって評価・判断されることを免れた、19人のAV女優たちのナマの声に出会うことができる。

 AV女優をやっている若い女性たちが毀れている。
 ただし、自らの性を売っているから“毀れている”というのではない。
 それなら、かつて女郎部屋に身売りされた貧農の娘や、家族を養うため或いは男に貢ぐため性風俗で働く女性は昔からいた。
 女が「金のため」「家族や男のため」に性を売る(性を売ることを強要される)というのは、よくある話だ。
 一方、本書に登場する女性たちの多くがAV女優となった理由として上げるのは、「他人から承認されたい」である。
 承認欲求――。
 それは、人間の行動を引き起こす3つの動機の1つ――あとの2つは欲望と理性――とフランシス・フクヤマが書いていた。その通りなのかもしれない。
 他人から承認されるためなら、裏社会とつながる性風俗業界にあえて飛び込み、自らの“痴態”がネットで世界中に発信されデジタルタトゥとして半永久的に残ることにも怖じない。
 自らを危険にさらしてまでも他人から承認されたい。
 この闇雲な承認欲求のあり方が、“毀れている”と感じさせるのである。
 それは、本書に登場するAV女優のみならず、現代日本の若い世代の女性に共通した心的傾向なのではないかとも思われる。
(一方、承認欲求のために戦争をする男たちが、“毀れている”のは言うまでもない)

 若い女性たちが毀れているのは、なにより家庭が毀れているからである。
 あえて選んだわけでもあるまいに、本書に登場するAV女優たちの生育環境の悲惨なこと! いびつなこと!
 実の母親が実の息子(語り手の弟)と近親相姦していたり、小学校の先生に毎日のように“悪戯”されるのを親には黙っていたり、失踪した母親が愛人の家で自殺したり、統合失調症の兄が家庭内暴力を起こしたり、子供の時にAVマニアの父親のオナニーを目撃したり・・・・。
 機能不全家庭のオンパレードである。
 そもそも親たちが他者からの承認に飢えているので、とうてい子供(語り手)をしかるべく承認することができない。
 そうした家庭内の負の連鎖をここから読み取るのは難しくない。

 表社会に馴染むことができずグレーゾーンで生きている男たちがつくるAV業界が毀れているのは、いまさら言うまでもない。
 著者はそれを“異界”と呼んでいる。

 そこは、まさに異界である。その空間の異常さを一般社会側から糾弾しているのが強要問題(ソルティ注:暴力や脅しによってAV出演を女性に強要すること)で、自分たちの社会が生んだ異界という理解がないまま、一方的に責め立てるのでさらなる分断に陥っている。本文でも書いている通り、異界に一般的なルールを求めて「非を認めて」「足並みを揃えて」「改善」させるのは困難であり、無理難題だ。みんな一般社会から弾かれて漂流しているので、居心地のいい異界しか知らない。自浄能力はない。

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 個人や家庭が毀れているのは、社会が毀れているからである。
 これまでの日本社会の通念や常識というものが、いたるところで通用しなくなっていることは、昭和育ちの人間なら日々感じているところだろう。
 仏教や儒教や神道で養われた日本人の宗教観や倫理観、稲作や漁業で培われた共同体のルールや人間関係のあり方、そして欧米仕込みの戦後民主主義の価値観。
 これらの共同幻想の微妙なバランスの上に成り立ってきたのが、戦後の日本社会、日本文化だった。
 それがここに来てドラスティックに変容している。
 その主因は、インターネットを嚆矢とするIT時代の到来と、個々人の欲望の達成を第一原理とする新自由主義の浸透ではないかと思う。
 力を持たない個人を守ってきた共同幻想という砦が崩壊してしまい、個々人は各々のアカウントのみを持った孤独な戦士として、弱肉強食の戦場におっぽり出されてしまった。
 社会が毀れたとは、つまり共同幻想が毀れたということである。

 もちろん、共同幻想が毀れたことで救われたこと、良くなったこともたくさんある。
 たとえば、男尊女卑の文化など、その最たるものであろう。
 昭和時代には誰もなんとも思わず楽しんでいた芸人のジョークや流行歌の歌詞などが、令和のいまでは「とんでもない!」とうつるのは、もう日常茶飯のことになっている。(例として、さだまさしの『関白宣言』やおニャン子クラブの『セーラー服を脱がさないで』)
 セクハラ(セクシュアル・ハラスメント)という言葉が「新語・流行語大賞」に選ばれたのは1989年(平成元年)であった。
 まさに、昭和から平成になってパラダイムが変わったのであり、それに合わせてバージョンアップできない昭和育ちの男たちがいまだに墓穴を掘り続けているのは、日々のニュースに見るとおりである。

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 そう。もっとも変わった共同幻想の一つは、性に関する意識である。
 男尊女卑的な性文化が糾弾され、人権的見地から改善されていく一方で、性そのものの敷居が低くなった。
 いわゆる、性がオープンになった。
 隠すべきこと、うしろ暗いこと、猥らなこと、恥ずかしいこと、悪いこと、大っぴらに語ってはいけないこと――つまりはタブーであった性が、誰の目にも見える陽の当たるところに出てきて、ある程度自由に語れるようになった。
 それは、ヒッピー文化であったり、エイズの出現であったり、フェミニズムであったり、ゲイリブであったり、昭和バブルの高揚感・軽佻浮薄であったり、アニメ文化の興隆であったり、性教育を推進する人たちの運動であったり、インターネットが登場したり・・・・いろいろな要因が積み重なっての“いま”であろう。
 元ジャニーズ事務所のジャニー喜多川がタレントの卵である少年たちに性虐待を行っていたことがやっと表沙汰になったが、マスメディアによる長年の犯罪放置の底にあるのは、売れっ子タレントを抱える巨大芸能事務所への忖度という以上に、同性愛を大っぴらに語ること、それも成人男性と未成年男子のセックスについて語ることが、日本社会の(というより男社会の)タブー中のタブーだったことが大きいと思う。
 昭和育ちの多くの人間たちが性に関して抱えている鬱屈というものを、平成育ちの若い世代が理解するのは難しかろう。
 本書に登場するAV女優(インタヴュー時23歳)はこう語る。

 昭和って性に対して悪いような感覚がありますよね。はしたないみたいな。ファッションもそうだし、感覚もそう。古き良き時代に過ごしてきた人たちと、私たちは全然感覚が違いますよね。だから親はもちろん知らないけど、バレても理解してもらおうとか、思ってないです。

 彼女にとってAVの仕事は、「お金になるし、なにより面白い。人と違った経験ができて牛丼店より割がいい、いい仕事」であり、「将来的にAV女優の経験が人生の足を引っ張る」とも思っていない。
 これが、いまどきの若い子なのだ。

 性がオープンになったことは、性風俗の仕事に対する世間の価値観が変わり、敷居が低くなることにつながった。
 うしろ暗いこと、隠すべきこと、恥ずべきこと、食いつめた女性の最後の手段、表社会からの転落・・・・といったイメージが希薄となり、数ある職業のひとつ――とまではいかなくとも、率のいいアルバイトという感覚はすでに若い女性たちの間で一般化している。(ハローワークに登録されるのも時間の問題?)
 性のカジュアル化がすすみ、玄人と素人の境が無くなった。
 人権意識はダブルバインドで、性風俗で働く女性に対する暴力や搾取をきびしく咎める一方、個々人の自己決定と職業選択の自由を侵すことができない。
 大のオトナが自分の意志で性を売ることについて、AV女優はじめ性風俗の仕事を自分の意志で選ぶことについて、反対する理屈を持たない。
 下手に咎めたら、「おまえは職業差別するのか!」、「私の人生は私が決める!」、「それとも、あんたが私の生活を保障してくれるのか!」、「私とつきあって、私を承認してくれるのか!」、「偏見に凝り固まった昭和オヤジは引っ込んでいなさい!」と言い返されるがオチである。
 すると、結局、あたら不幸になることが目に見えているのに、そうした仕事を率先して選ぶ――昭和オヤジから見ると“転落していく"――若い女性たちを、ただ傍観するしかすべはなくなる。

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 性というタブーが無くなり、性をオープンに語れるようになること。
 それはソルティも若い頃から望んでいたことであった。
 であればこそ、80年代半ばに日本に入ってきたエイズという病に惹きつけられ、ボランティアをするようになったのである。
 エイズという病が、「死」と「性」という人間の二大タブーに打ち込まれた楔のように思われたのだ。
 そこには、タブーを嫌い打破したがる若者の特有の血気もあったし、社会が性を語れるようになることが、ゲイというセクシャルマイノリティである自分が「自由になる」ための前提であると思ったからである。
 いまのLGBTをめぐる状況に見るように、それはかなりの程度、当事者にとって明るい方向に進んだ。
 タブーであった「性」が、日常的な話題の一つになるまでカジュアル化した。
 しかるに、本書に見るようなカタチでの「性のカジュアル化」を自分が望んでいたかと言えば、首をひねらざるを得ない。
 中村が「グチャグチャに」なったと言うのも頷ける。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損