日時: 2024年5月19日(日)13:30~
会場: ミューザ川崎シンフォニーホール音楽ホール
曲目:
● 山田耕筰: 交響詩「曼荼羅の華」
● グスタフ・マーラー: 交響曲第2番ハ短調「復活」
● 山田耕筰: 交響詩「曼荼羅の華」
● グスタフ・マーラー: 交響曲第2番ハ短調「復活」
ソプラノ: 盛田 麻央
メゾソプラノ: 加納 悦子
指揮: 大井 剛史
合唱: 日本フィルハーモニー協会合唱団
今年はなんだか『復活』の年みたいで、ソルティが調べた限りでも、
- 3月10日 サントリーホール/フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団(小林研一郎指揮)
- 4月7日 東京芸術劇場コンサートホール/オーケストラハモン(冨平恭平指揮)
- 5月19日 本公演
- 7月14日 サントリーホール/フィルハーモニア・ブルレスケ(東貴樹指揮)
- 8月2日 大阪フェスティバルホール/大阪フィルハーモニー交響楽団(尾高忠明指揮)
- 8月6日 広島文化学園HBGホール/広島交響楽団(クリスティアン・アルミンク指揮)
- 9月16日 サントリーホール/デア・フリューゲル・コーア(角田鋼亮指揮)
とプロアマ入り乱れての『復活』ラッシュ。
このマーラー第2番交響曲は、ソプラノとメゾソプラノの独唱者と混成合唱団を必要とするので、そうそう簡単には舞台にかけられない。
それを思うと、すごいブームである。
おそらく10月以降も年末まで増えていくだろう。
いったい、なぜ『復活』?
演奏会のプログラムが一年以上は前に決まるであろうことを考えると、やっぱり、「コロナからの復活」という思いが、クラシック業界に満ちているためなのではないか?
首都圏でマーラーの第2番と第3番がかかるなら、可能なかぎり聴きに行きたいと思っているソルティ。
今年は少なくとも5回は“復活”できそうな気がする。
2回目の“復活”となる本公演、実に素晴らしかった。
公演あるのを知ったのは一週間前。
ネットではすでにA,B,C席すべて売り切れていた。
2日前に再度確認したところ、一番安いC席に空きが出た。
ミューザ川崎はサントリーホールや杉並公会堂同様、舞台を囲むように客席が配置されている(アリーナ型)。
空きのあったのは、舞台の左右斜め後ろのブロックである。
オケのほぼ背後から、指揮者を正面45度の角度で見下ろすことのできる席である。
すぐさまチケット購入した。
おそらく、もともとこの左右両ブロックは販売予定になかったのだろう。
というのも、舞台の後ろ側すなわちオケの背後のブロックは合唱団が入るからである。
合唱団のため余裕をもって空けておいた席を、チケット売り切れになった後も問い合わせが殺到したため、新たに客席として開放したんじゃないかと推測される。
ソルティが取った席は、オケの最後列をなす打楽器チームをちょうど真横(舞台向かって右袖)から見下ろせる位置で、右側に3つほど空席をはさんだところには合唱団の女性が座った。
つまり、合唱団に最も近い席だったのである。
とても面白い席であった。
指揮者はもちろん、オケ全体の動きがよく見えて――ただし、真下にいるコントラバスとハープ奏者だけは見えなかった――オケメンバーの奮闘ぶりが実感できた。
オケにも合唱団にも近いので、音や声の迫力が凄かった。
オケや合唱団や客席のさらに上、ホールの高みにひとり位置して、曲の最後の最後に登場するパイプオルガン奏者の手の動きもよく見えた。
オケのメンバーの中には、譜面台に紙の楽譜でなくタブレットを置いている人がいた。
楽譜をパソコンに読み込んで、タッチパネルでページをめくっていた。
たぶん、エクセルで文書にコメントをつけるように、指揮者からの指示など必要な書き込みなんかも画面上で入力できるのだろう。
こういうデジタルなやり方が今後広まっていくのかもしれない。
山田耕筰の交響詩『曼荼羅の華』を聴くのははじめて。
とても美しく、儚げな曲であった。
考えてみると、ソルティは歌曲『この道』、『からたちの花』や童謡『赤とんぼ』、『ペチカ』や映画音楽(原節子主演『新しき土』)の山田耕筰しか知らない。
日本人のこころに染み入る歌の作り手というイメージが強い。
が、本曲はマーラーの影響をかなり感じた。
山田は1910年から3年間ドイツに留学している。
1911年5月に亡くなったマーラーの葬儀に立ち会ったかもしれない。
当然、浴びるようにマーラーの曲を聴いたことだろう。
山田のほかの交響曲を聴いてみたい。
大井剛史の指揮は2度目。
前回は府中市民交響楽団共演のショスタコーヴィッチ『レニングラード』だった。
基本、楽譜に忠実な、これ見よがしな演出をしない正統派指揮者だなあと思ったが、今回の『復活』でその印象は強まった。
全体に落ち着いたテンポで丁寧に音符をさらっていた。
そしてそれは、この大曲がもっとも生きる、すなわち、作曲者自身の思いを汲んで内在する美と崇高さをもっとも明瞭にあらしめる行き方と思った。
第2楽章の揺蕩う美しさ、第3楽章の皮肉めいた諧謔性が、くっきりと浮き彫りにされていた。
マーラーの交響曲と言うと金管のイメージが強いのだけれど、今回は非常に木管が冴えていた。
木管が主役と思ったくらい、よく鳴っていた。
金管は咆哮し、木管は語る。
マーラーのナイーブな内面が吐露されているのは実は木管なのだな、と思った。
ヴォリュームを微妙に引き絞って最後まで持っていき、第5楽章のクライマックスでここぞとばかりホールを震わせる fff を放つ。その効果は赫奕たるものがあった。
合唱の素晴らしさを言い置いてはいけない。
一糸乱れぬハーモニーの見事さ。
透明度が高すぎるためその深さに気づかぬ湖のように、清澄な美しい響きのうちに深い慈愛が感じられた。
さすが半世紀以上の歴史をもつ合唱団である。
長々とインスツルメント(器楽)を聴いてきたあとで、この合唱が入って来ると、ソルティはいつも感動してしまう。
それは人の声が持つ“ぬくもり”を再発見するからだ。
キリスト教徒でない自分が『復活』に感動する最大の理由は、この曲の宗教的価値に共鳴するからではない。
器楽に対する声楽の勝利を、人工に対する天然の優越を、鮮やかに知らしめてくれるからなのだ。
と、今回気がついた。
今年中にあと3回、『復活』するぞ!